服部嘉十郎
服部 嘉十郎(はっとり かじゅうろう、1845年 - 1880年)は高岡の文化、教育などに功績のあった町役人・政治家で、高岡市民の憩いの場となっている「高岡古城公園」の創設者である。
来歴
高岡由緒町人天野屋の十三代目として弘化2年(1845年)8月9日生まれる。父は高岡町藩政時代最後となる総町年寄、服部三郎左衛門元業、母は同じく由緒町人富田家(横町屋)八代善五郎の長女、民子である。実は姉正子、妹利久子がいたが、いずれも夭折して一人息子と同じように育った。名は元善、初め嘉十郎を通称とし、のちに伝兵衛、また嘉十郎と改める。三歳で字を知り、八歳の時津島北渓に学び、のちに福光の宮永叙園に師事し、幼い頃より経史、詩文、和歌のほか書画もよくした温厚篤学の君子人であった。 明治元年(1868年)10月24歳で家督を継ぎ、同月、高岡学館督学となる。明治初年は大飢饉にして、貧民救済に奔走し、一人の餓死者も出すことはなかった。廃藩置県後の高岡の所属は目まぐるしく変わったが、明治5年5月郷長兼戸長に、翌年第17大区々長(現在の高岡市長に相当)となる。明治7年(1874年)片原町に開校した南之小学校に育英小学校と名づけ、教育第一主義を堅持し校舎新築に取り組む。明治9年3月高岡学館跡に北陸随一と言われた高岡育英小学校を落成、教育界でも多大な貢献をした。嘉十郎の功績で見逃せないのは、高岡古城公園の創設である。明治3年金沢藩は、財政的な事情から突如、高岡城跡を民間に払い下げて開墾する旨の通達を出した。それを受けて七尾県は払い下げを断行、落札者も決定していたのであるが、嘉十郎や後に市長となった鳥山敬二郎らの請願運動が実を結び、開墾されることなく2年後の明治8年(1875年)7月4日高岡城跡は正式に公園として指定された。昭和30年(1955年)、公園80周年記念にあたり、古城公園中の島に「服部嘉十郎先生頌徳碑(しょうとくひ)」が建立されている。 しかし嘉十郎の家庭は不幸続きで、27歳の時、妻文子を20歳で亡くし、父は眼病から明治3年より盲目となり、更に寝たきりとなってしまうのである。嘉十郎は11年間、昼夜父親の看護に努め、その間依願退職と復職を繰り返し、そのうち嘉十郎自身も31歳より肺結核を患い、父の死の2ヵ月後明治13年(1880年)3月27日、後を追うように逝去した。34歳だった。 号 孝徳院道元日務居士 高岡市日向山妙国寺に墓がある。
服部家の系譜
天野屋の初代服部甚吉連久(つれひさ)は、美濃郡上の出身で、先祖は服部伊賀守宗純。天正年中、前田利家越前府中時代に 御用商人として召抱えられる。後に利長に従い、越中守山から富山に移った際に天野屋三郎右衛門を名乗った。三郎左衛門は二代目正知であり、後に天野屋伝兵衛を家督の名にする。正知には十二子あり、柳沢吉保に仕え、荻生徂徠の高弟として江戸時代の文壇を引っ張ってきた服部南郭は彼の外孫に当たる。正徳元年(1711年)第四代の伝兵衛正武の時、藩主の宿である御本陣に指定され、天保4年(1833年)には「服部」姓が苗字御免になり、高岡由緒町人筆頭として260年以上も高岡の町年寄、町役人を断続的ながらも勤めた。
著書
- 十七條憲題 教義畧説 服部嘉十郎著、西京 文求堂、明治12年12月官許