Wikipedia:井戸端/subj/特筆性について&新規編集者の呼び込みについて
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特筆性について&新規編集者の呼び込みについて
今回初めて井戸端に投稿させていただきます。履歴を見てわかると思いますが、弘前藩関係の武士の新規作成をさせていただきました。とりあえず、新規立項はひと段落しました。しかし、作成途中にとある方から特筆性に欠けるとのご指摘を頂きました。ここからは個人的意見になるのですが、私が作っていたのは藩主一門に連なる、もしくは大身で家老などを務めた家々の当主に関する記事です。たしかに資料が少ないため、現状1000バイトから2000バイトほどの大きさにとどまっているのが現状です。おそらく、私が参考にした文献以外をあたっても詳しくしらみつぶしに探しても3000バイト前後ほどにしかならないでしょう。しかし、小藩とはいえ家老を務めるくらいの人物であれば、多少情報量が少なくても百科事典の記載には十分特筆性を満たすと思っているのですが、いかがでしょうか。また、歴史関連の項目を見ても、戦国大名クラスで執筆がなされていない項目が多数ありますし、藩によってもばらつきが大きいですし、これから執筆してみたいと思う東アジアのドラマ・映画・俳優(中国・台湾・韓国)等を見てもそこそこ知名度がある作品・人物でも執筆されていないものがあるのみて非常に驚きました。新参者の私が言うのも恐縮ですが、記事の充実具合に非常に偏りがあり、もっと新規執筆者を呼び込み(もちろん私も含め、新規執筆者が質の低い記事のを濫造する危険がありますが)を積極的に何らかの手段で行うべきではないでしょうか。--153.132.173.65 2013年4月5日 (金) 02:34 (UTC)
- その人たちは歴史上何か有用な役目などを担っているのでしょうか。ただ家老クラスだというだけで記事を作るのはどうかと思います。ですから、もしそういった記事を作るなら、Wikipedia:ウィキペディアは何でないか、Wikipedia:特筆性などを見たうえで慎重に検討してください。--Beaver 223(会話) 2013年4月5日 (金) 04:22 (UTC)
- Beaver 223さん、特筆性は「もし対象とは無関係な信頼できる情報源から有意な言及があった場合、その話題は単独記事としての収録基準を満たすことが推定されます」というもので、IP153.132.173.65さんの記事は、そういった情報源に基いて書かれていると思われますが、それ以外に特筆性という観点で何か問題があるのでしょうか。--Bellcricket(会話) 2013年4月5日 (金) 05:46 (UTC)
- すいません、特筆性のことではなく、指摘したかったのは、立項するにふさわしいものなのかということです。ただ家老として生きて人生を終えた人に立項するほどの価値があるかということです。日本のそこそこの役人でも全員記事作ったりはしないでしょう?そういうことです。--Beaver 223(会話) 2013年4月5日 (金) 07:06 (UTC)
- 何を言っているのか意味が分かりません。Wikipedia:特筆性の冒頭には「ウィキペディアにおいて特筆性(notability)とは、百科事典にふさわしいものとして、ウィキペディアに収録する記事の基準を定めたものです。記事の扱っている主題は、特筆性があるもの、すなわち「言及するに値」するもの、でなければなりません。」とあり、まさに「立項するにふさわしいものなのか」否かという基準こそが特筆性なのです。本当にガイドラインをきちんと読んて理解した上で発言をしているのか著しく疑問を感じます。
- 個別のことを言うと「家老」と「日本のそこそこの役人」とのアナロジーがそもそも適切なのでしょうか。それは家老という職位の位置付けについて一体いかなる根拠に基づく理解なのでしょうか。もし対象とは無関係な信頼できる情報源から有意な言及が「日本のそこそこの役人」についてでも存在すれば、それは特筆性を持つことになり・独立した記事を作成する可能性が発生します。現在そうなっていないのは、そうした「有意な言及」を含む「対象とは無関係な信頼できる情報源」が無いからに過ぎません。はっきり言いますが、特筆性はウィキペディアの外部にあります。ウィキペディアンが勝手に決めるものではありませんし、まして(自分が)「知らない」「理解できない」かどうかなど、何の関係もありません。
- IP:153.132.173.65(会話 / 投稿記録)さんへ。寄稿いただきありがとうございます。この種のガイドラインの捻じ曲げに基づくクレームにめげてしまう新規利用者の方が多く、おなじウィキペディアンとして大変申し訳なく思います。どうかめげずに活動なさってください。ただ一つだけお願い。情報源が限られている場合、文献の丸写しが発生しやすくなりがちです。そうなってしまうと著作権上の問題となり、削除しなければならなくなる場合がありますので、そのあたりだけは慎重にご配慮いただくようお願いいたします。--ikedat76(会話) 2013年4月5日 (金) 08:06 (UTC)
- すいません、特筆性のことではなく、指摘したかったのは、立項するにふさわしいものなのかということです。ただ家老として生きて人生を終えた人に立項するほどの価値があるかということです。日本のそこそこの役人でも全員記事作ったりはしないでしょう?そういうことです。--Beaver 223(会話) 2013年4月5日 (金) 07:06 (UTC)
- Beaver 223さん、特筆性は「もし対象とは無関係な信頼できる情報源から有意な言及があった場合、その話題は単独記事としての収録基準を満たすことが推定されます」というもので、IP153.132.173.65さんの記事は、そういった情報源に基いて書かれていると思われますが、それ以外に特筆性という観点で何か問題があるのでしょうか。--Bellcricket(会話) 2013年4月5日 (金) 05:46 (UTC)
- IP:153.132.173.65(会話 / 投稿記録)さんこんばんは、wikipediaでは百科事典にふさわしいものとして認められるものはたとえ情報量が少なくとも受け入れるべきものだと私も思います。また、新規執筆者の呼び込みについてもその通りだと思います。日本でもwikimediaのユーザー会などではそういった取り組みをされている又は企画しているところもありますし、外国語版でも同様に積極的に勧誘しているところです。ただ日本の場合そういった行動を起こしている人々は少数のボランティアであり、かつ活動地域も限定されているためなかなか目にすることもないのではないかと思います。私の知りうる限りですと現在少し停滞気味ではありますが「生涯学習の一環としての情報リテラシーとwikipedia(wikipediaを編集してみよう)(仮題)」といったような企画をされている団体もないわけではありません。日本で活動している人たちはお金も暇も広告力もない有志達の集まりでどこまでできるのかといった問題などもありなかなか進まないようです。ぜひあなたのような貴重な意見を持つ方もそういった活動に積極的に参加していただきたいと思います。--Vigorous action (Talk/History) 2013年4月5日 (金) 11:42 (UTC)
- コメントウィキペディアへようこそ!すでに記事を多数作成されたとのこと、非常に頼もしいです。この調子でどんどんお願いします。他にウィキペディアに参加してくれそうな人がいましたら、ぜひ声をかけてください。今後も執筆を続けられるのでしたらアカウントの取得を強くお勧めします。アカウントを取ることのメリット、取らないことのデメリットはWikipedia:ログインをご覧ください。
- 履歴を確認しましたが、やや微妙な問題をはらんでいると感じたのでコメントします。「青森県人名大事典」という文献を単一の出典に記事を多数作られていますよね。Wikipedia:信頼できる情報源にありますとおり、人名辞典というような資料はウィキペディアと同じで、三次資料と呼ばれており、出典に用いることはできますが、ウィキペディアにとって必ずしも好ましい情報源とは言えません。その代わりに、二次資料(「青森県人名大事典」の記述の基になったような資料)をメインに記事を執筆していただけるとよりいっそうよいです。これはウィキペディアの目的がWikipedia:ウィキペディアについてにありますとおり、「質量ともに史上最大の百科事典」(強調引用者)を作ることにあるからであって、別の事典を基に新たに事典を作っても内容的には元の事典を決して超えることはないからです。ウィキペディアの記事ははじめから完璧である必要は全くなく、徐々に改善していけばよいのですが、項目を増やすことだけではなく内容を充実させることにも心を砕いていただければと思います。--Bugandhoney(会話) 2013年4月5日 (金) 22:37 (UTC)
- コメント現状では立項された記事の多くは一般的な特筆性のガイドラインにおける『複数の独立した情報源によって言及されていない記述』であり、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかで言うところの名鑑・系譜に近いものであるように思え、新規記事を立項する場合は少なくとも二点以上の参照関係に無い資料を持ってきたほうが良いのではと考えます。
- 官位の高さを以って特筆性と見るのは反対です、むしろ(業績か悪名を残しそのことが)複数の文献で述べられているということが特筆性の根拠であると思われます。治世での為政者や官僚については研究が多いとは言えず資料が揃いにくく特筆性を示し難いのは仕方がないですが、資料が極めて少ないことを理由に極少数の資料を以って特筆性の根拠とするのはただ箍を緩めるだけのことであるように思えます(大老経歴を持つ人物の記事でも内容が経歴のみで文献数が二桁に届かない、下手をすると提示されないものがある現状を見ると特筆性の基準が一体どこにあるのかと問いたくなりますが)。--203.148.113.230 2013年4月6日 (土) 08:36 (UTC)
- 微妙に舌足らずでしたので補足しますと、官位と特筆性を私は結び付けていません(あくまで文献が存在すること)。官位を云々したのは私ではなくBeaver 223さんです。その知識と理解度の正確さに何の根拠があるのか疑問に思えるため、官位云々ということを申し上げました。--ikedat76(会話) 2013年4月6日 (土) 11:06 (UTC)
- 私の言葉を勝手に置き換えないでください。私は、記事を作るときは慎重に、ということを述べたまでです。--Beaver 223(会話) 2013年4月7日 (日) 08:25 (UTC)
- あなたの心構えの話など誰も聞いていませんし、そんなもの誰も興味もありませんし、意味もありません。ひとつも記事を作っていない人に「慎重に」などとなぜ言われなければならないのかよく分かりません。「特筆性」という言葉を振り回したいのであれば、自らの誤りをごまかす前にガイドラインを適切に理解してからどうぞ。--ikedat76(会話) 2013年4月7日 (日) 09:51 (UTC)
- 私の言葉を勝手に置き換えないでください。私は、記事を作るときは慎重に、ということを述べたまでです。--Beaver 223(会話) 2013年4月7日 (日) 08:25 (UTC)
- 微妙に舌足らずでしたので補足しますと、官位と特筆性を私は結び付けていません(あくまで文献が存在すること)。官位を云々したのは私ではなくBeaver 223さんです。その知識と理解度の正確さに何の根拠があるのか疑問に思えるため、官位云々ということを申し上げました。--ikedat76(会話) 2013年4月6日 (土) 11:06 (UTC)
- (IPユーザーの方へ)「現状では」その通りだと思います。ただ、常識的に考えて複数の文献は見つかるでしょう。一次資料・史料を集めた歴史学者が、東奥日報の「青森県人名大事典」という媒体を使って初めてこれら記事主題に関する研究成果を発表したというのは考えにくいです。この事典はどこかにある著書や論文をまとめたものでしょう。--Bugandhoney(会話) 2013年4月7日 (日) 08:41 (UTC)
- (コメント)まず、資料は複数あたるのが宜しいかと。例えば「青森県史」などですね。多分、弘前藩関係の人物に関する内容であれば「青森県人名大事典」にせよ県史にせよ「弘前藩庁日記」を出典のひとつにしてるのではないかと思いますが、同じ事柄や人物に関する記述でも内容や視点が違っている場合があったりして、記事作成には有効だと考えます。--KAMUI(会話) 2013年4月7日 (日) 10:35 (UTC)
- IPユーザーの方、議論を乱して申し訳ありませんでした--Beaver 223(会話) 2013年4月9日 (火) 08:56 (UTC)
- コメントIP203.148.113.230です。個人的な疑問点ですが、一次資料(藩の記録等の古書)とそれを判りやすくまとめた資料があるとして、その一次資料の現代語訳文ともいうべきものからは特筆性は見い出せるでしょうか? また例えばある藩の歴史を研究をしている方がまとめた本の中に「誰々は何々家に生まれ是々の役職についた」と書かれていればそれで特筆性は保障されるのでしょうか? 自分としてはそれを許容してしまうと特筆性がザルになってしまうように思えるのです。--202.224.70.56 2013年4月10日 (水) 14:01 (UTC)
- (コメント)そもそも「一次資料の現代語訳」と「一次資料の内容について扱っている二次資料」は別物です。例えば二次資料が自治体史や百科事典などであれば、そこに取り上げる時点で複数人による査読が行なわれてます。また資料の執筆者が専門の研究者であることがはっきりしていればその点も問題は低いと考えます。市井の人物である場合はちょと微妙ですが、それを手がかりとして(参考文献などの記載があるかと)他の資料で補填したり置き換えたり出来る場合もあります。そういった点からも単に「あの本に載っているから」で済ませるのではなく、可能な限り複数の資料を調べて書くべきでしょう。なお、明治以前の人物の特筆性については最初の方で議論になっているように、人によって捉え方が(現代人以上に)違うと思うので簡単には答えようがありません。ただ、現代と違って「普通の人」は最初から記録に残りませんので・・・--KAMUI(会話) 2013年4月11日 (木) 10:12 (UTC)
- コメント日本史人物記事は書いたことがないので相場勘がないのですが、一般論として答えますと、特筆性のあるなしは有意な第三者言及のあるなしで判断されます(WP:N)。ですから、「有意な第三者言及」とは日本史人物の場合、何に当たるのかという解釈の問題になってきます。藩の記録やその現代語訳のような一次資料は、対象から独立した情報源とは言えませんから、「第三者言及」とみなされることはないと思います。一方で、これらの記事の出典となっている「青森県人名大事典」は現代の歴史家などが一次資料を基に著したものですから、「第三者言及」ということになります。それで、そういう二次・三次資料の中で記事主題がどういうふうに取り上げられているかで、「有意な言及」であるかどうかが判断されます。「誰々は何々家に生まれ是々の役職についた」というのは、現代の人物の場合、経歴とかバイオグラフィーに当たるものだと思うのですが、そういう情報しかない場合、「有意な言及」とはみなされないことが多く、独立した記事として維持するのは難しいでしょう。評価なり業績なりに言及している文献がないと百科事典的な記事にはなりにくいです。一方で別の考え方としては、「青森県人名大事典」にアクセスできないのでなんとも言えないのですが、仮にこれらの人物が別々の項目で扱われているとしたら、記事主題の人物自体を取り上げた「有意な言及」とみなせるかとも思います。よその事典が独立した項目にしているのに、ウィキペディアでは独立した項目にはできないという法はないかと。--Bugandhoney(会話) 2013年4月11日 (木) 15:04 (UTC)
- コメント分からないならコメントしないという節度というものがあります。IPユーザさんもいち利用者の「相場勘」などというものは求めておいでではないし、そのような個人的な勘に過ぎず、専門知識に基づく訳でもないものを、ガイドラインの解釈について議論する場で開陳するのは見当違いであるだけでなく有害な行為です。抹消線を引いて訂正することを求めます。というわけで、IPユーザさんは直上のコメントは一切気にしなくていいです。--ikedat76(会話) 2013年4月11日 (木) 16:23 (UTC)
- コメントそもそも論から言います。利用者:CalveroさんがWikipedia:信頼できる情報源の英語版での状況としてご紹介くださっている通り、英語版のガイドラインでは「一次資料はたいていの場合、適切に扱うのが難し」く、特に歴史学における一次資料(歴史学では本質的には史料とよばれるものです。以下、こう呼びます)のみにもとづいて特筆性の有無を判断すること・及び・記事を書くことは、多くの場合「ウィキペディアンが独自に分析」(Wikipedia:独自研究)することに陥らずに済ませることが難しいという意味で、避けるべきとしています。このことを基本とするべきでしょう(日本語版のガイドラインはこのラインに適切に追いついていませんが)。
- ご質問よりややさかのぼりますが、史料に何が(内容が、ではなく、何という文字列が)書いてあるか、ということも実は確定するのは難しいことです。「一次資料の現代語訳」であれば、その点はクリアできるでしょうが、今度はそれをどう取り扱うかという問題があります。その史料に書いてある内容を一読して直ちに理解できるとは限らないし、書いてある内容が理解できたとしても信頼できるのか否か(史料批判)、史料を記述した者の利害によって記述が歪められていないか、あるいは他の史料との比較照合して該当する事象が実在していることが確認できるか…など、多様な作業を経てようやく歴史学者は「AはBだった」と書きます。何しろ、史料の中には甚だしい場合にはまるっきりのウソが書いてあることすらあります。われわれウィキペディアンが通常依拠するべき二次資料に書いてあるのは、そうした歴史学者の作業を経て初めて生まれてくる学説であり、そうした二次史料が存在するか否かで特筆性は判断されなけばなりません。別の言い方をすると、史料をウィキペディアンが勝手に解釈して特筆性が有るとか無いとか判断するというのは、ウィキペディアンが本来生み出すことの出来ない(また、独自研究はしてはならないという観点からして生み出してはならない)ものを生み出そうとしているという意味で端的に矛盾でしかないでしょう。俗に言えば自作自演とかマッチポンプとかに類する行為であり、厳に差し控えなければならないでしょう。ぎりぎり許されることがあるとすれば、「Aという人物についてBという史料は『AはCだ』と言っている」という間接話法までであり、「AはCである」という直接話法は許されないということになりますが、これも難しいから避けたほうがいい。
- KAMUIさんの仰るところの「一次資料の内容について扱っている二次資料」に関連して言うと、史料に基づいて書くことは限りなく黒に近い灰色ですが、史料について書くことはできます。手前味噌のようで申し訳ないけれど、当方が手がけた記事の一つで熊野年代記という記事があります。この記事のように、ある史料について成立過程や内容や専門家たちの評価や…といったことを書くことは(適切に二次資料に依拠する限り)何の問題もありません。
- 上で信頼性云々、といいましたが熊野年代記はその良い(?)例かも知れません。記事を見ていただければと思いますが、この史料は重要なものとして評価されているが、ある時代以降の記述は信頼できないと評価されています。史料が出版されているからといって、その史料をまるまる信頼できるものとして鵜呑みにはできないという例であって、現代語訳が出ていたとしてもそれを鵜呑みにはできませんし、間接話法で「Aという人物についてBという史料は『AはCだ』と言っている」で記事を埋め尽くしても読者にとって得るところは…というとかなりイマイチではないかと思います。--ikedat76(会話) 2013年4月11日 (木) 16:23 (UTC)