ウ・ボイ、ウ・ボイ
ウ・ボイ、ウ・ボイ(クロアチア語: U boj, u boj、日本語訳: 戦へ、戦へ)はクロアチアの愛国歌。イヴァン・ザイツ (Ivan Zajc) によって1866年に作曲された[1]。作詞はフラーニョ・マルコヴィッチ (Franjo Marković 1845〜1914)[1]。
10年後に「ウ・ボイ」は1876年にザイツが作曲した歌劇・『ニコラ・シュビッチ・ズリンスキ』(ウ・ボイ以外の作詞はフーゴ・バダリッチ (Hugo Badalić 1851〜1900) )に取り入れられて、混声合唱に編曲され、終曲として歌われる[1]。なお、「ウ・ボイ」を直訳すれば確かに「戦いへ」だが、歌劇を観劇する限り、これは「突撃!」と解釈すべきである。
日本へ紹介された経緯
1918年、シベリア出兵において日米連合軍がチェコ軍団を救出した。翌1919年、チェコ軍団は米国、日本、中国のチャーター船でウラジオストクから順次、海路で帰国を開始。同年8月13日に第3船へフロン号は845名のチェコ軍将兵を乗せて出航した。しかし、日本海から南下中のへフロン号は折から襲った大台風により、8月16日、下関沖の六連島大文字岩の暗礁で座礁、日本海事会社の3船が応急修理した上で、満潮を待って曳航して離礁させ、8月20日、門司港外に到着。将兵たちを門司YMCA本館と天幕などに収容して関係者が協議した結果、船は神戸三菱造船所で修理すると決まり、将兵たちは9月3日、下関から特別列車に乗って出発し、4日に神戸に到着、船を修理する2ヶ月間を神戸で待機することになった[2]。
神戸に滞在するようになったチェコ軍の中に英語を話せる将校がいると知った兵庫県の外事課長はチェコ軍の世話をするために知人で英語の達者な関西学院生の塩路義孝(関西学院グリークラブ所属、1922年 - 1994年)に通訳を依頼。塩路は連日のように学校からの帰途、チェコ軍宿舎を訪れたが、たまたま将兵たちの中にオーケストラと合唱隊の練習に出くわし、自ら所属するグリークラブとの交流を呼び掛け[3]、同年9月15日に関西学院に招き、チェコ軍オーケストラと合唱隊の演奏会を開く[4]。以降、塩路らグリークラブ員たちはチェコ宿舎で歌うなど数度にわたって交流。その際に彼らがチェコ合唱隊から聴いた合唱曲の中で特に印象の深かった「ウ・ボイ」を含む4曲の譜面を貰い、へフロン号が修理を終えて帰国前のお別れ会で関西学院グリークラブは「ウ・ボイ」を歌ったが、異国の学生たちが歌う「ウ・ボイ」に帰国を前にしたチェコ軍将兵の中には涙を流す者もいた[4]。
以来、関西学院グリークラブの秘曲として長年歌われて来たが[4]、日本全国の男声合唱団で歌われている。
歌詞
クロアチア語 | 日本語訳(英語訳からの重訳) | ||
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U boj, u boj! K'o požar taj grudi naše plamte, K'o bratac brata |
戦へ、戦へ! われらの街は既に火の中 われらの胸はその炎のごとく燃え盛り | ||
Sad, braćo! |
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いま、兄弟たちよ! |
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Hajd' u boj, u boj! Za domovinu mrijeti kolika slast! Prot dušmaninu! Mora on past'! |
いざ戦へ、戦へ! 敵に向かえ! 彼らに必ず死を報いよう![6] |
脚注
- ^ a b c 柴宜弘、石田信一 編著『クロアチアを知るための60章』明石書店、2013年、176-177頁。ISBN 978-4750338514。
- ^ “1.プロローグ "U Boj"story”. 関西学院GLEE CLUB. 2013年11月24日閲覧。
- ^ “2.チェコ軍の通訳 "U Boj"story”. 関西学院GLEE CLUB. 2013年11月24日閲覧。
- ^ a b c “3.兵士の眼に涙が "U Boj"story”. 関西学院GLEE CLUB. 2013年11月24日閲覧。
- ^ 英語直訳は、(vjerni|faithful)、(junaci|heroes)、(vi|you)(複数) 即ち、"You, faithful heroes!" である。
- ^ 英語直訳は、(on|they)、(mora|will die)、(past|shall) 即ち、"They shall die!" である。クロアチア語・英語の双方対訳辞書については東京工業大学附属図書館にあるので参照のこと。
関連項目
外部リンク
- U boj, u boj
- "U Boj" story - 関西学院グリークラブのサイト内ページ