フランツィシェク・ガヨウィニチェク
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フランツィシェク・ガヨウィニチェク(Franciszek Gajowniczek 1901年11月15日 – 1995年3月13日)。
1939年、彼は第二次世界大戦中ポーランド軍の軍曹としてドイツ軍と戦った。しかし、捕虜となり、ゲシュタポ刑務所からアウシュヴィッツ強制収容所に送られた。 1941年5月にアウシュヴィッツの収容者としてコルベ神父と会う。
1941年7月19日午後、収容場からひとりの逃亡者が出た。罰則に従い、収容者の中から10人が餓死刑選ばれた。その中に、ガヨウィニチェック(囚人ナンバー5659)も含まれていた。「妻と子供が、私から離れて、父親がなく、孤児になるのは、辛く、残念です。」というと、収容者の列の中にいたコルベ神父が歩み出て、収容所の担当者カール・フリッツに、「私は、選ばれた人のうち、一人の代わりに、行くことを、望みます。彼は、奥さんと子供がいる。私は、カトリック司祭で、独身です。」
この申し出は、聞き入れられガヨウィニチェックの代わりとなってコルベ神父(囚人ナンバー16670)が第11ブロックの地下にある餓死室へほかの9人とともに連れて行かれた。
地下の餓死室に裸にされ閉じ込められた10人は次々と死んでいったが、コルベ神父と3人が死ななかった。そのため、石炭酸注射によって毒殺処刑された。
ガヨウィニチェックは、1944年10月25日に、アウシュヴィッツからザクセンハウゼン強制収容所へ送られた。そこで、戦争が終わり、連合軍によって解放された。彼はドイツの強制収容所で5年5か月と9日間過ごした。それから1年半後、妻ヘレナと再会した。しかし、二人の息子は1945年ソビエトの爆撃を受け死亡していたことを知る。
このとき、逃亡した囚人(囚人番号41335 1910年2月生まれ。ザトラフ生まれ。運転手。)[1]は、再度捕らえられ、アウシュビッツ強制収容所へ連れ戻され、1942年7月31日に亡くなった。
戦後、一時は悩み苦しみ、長い間、沈黙を守ったが、数少ないアウシュビッツの生存者と自覚し、各地で愛の殉教者コルベ神父につての講演活動を行った。国内はもちろん、ヨーロッパ、アメリカ、ドイツへ出かけた。
彼の妻(ヘレナ)は、1977年に死去。
後妻 ヤニナ(Janina)。
ガヨウィニチェックは、1995年3月13日にポーランド南西部の町ブジェグで死去した。享年93歳。
コルベ神父が開いたニエポカラヌフ修道院の墓地に眠る。[1]
参考文献
『十七歳の夏』聖母文庫 ISBN4-88216-140-0 C0195
『春いつまでも』聖母文庫 ISBN4-88216-175-3 C0195
『信仰の出会い旅』聖母文庫 ISBN4-88216-266-0 C0195
『長崎のコルベ神父』 聖母文庫 ISBN978-4-88216-321-0 C0195
『身代わりの愛』聖母文庫 ISBN978-4-88216-108-0 C0195