起訴便宜主義
起訴便宜主義(きそべんぎしゅぎ)とは、公訴機関(検察官等)が被疑者の性格や年齢、犯罪の軽重や情状を考慮し、訴追するか否かを判断するという原則。対義語は起訴法定主義。
起訴便宜主義と起訴法定主義
訴追機関に訴追の裁量を認める制度を起訴便宜主義という。一方、訴追裁量権を認めず法律上の公訴提起の要件を満たす限り必ず起訴しなければならないとする制度を起訴法定主義という[1]。
起訴法定主義の特色
起訴法定主義は、訴追機関の恣意を認めず、公平な公訴権の運用を図ろうとするもので、不当な政治的圧力の介入を防止することができるといった長所がある[2]。
一方、犯罪における情状は具体的事件ごとに異なるもので形式的に公平といっても実質的には不公平な場合があり、犯罪者の更生の機会を失わせるおそれがあるという短所もある[2]。
起訴便宜主義の特色
長所
被疑者が刑事手続から早期解放される。そのため、起訴猶予された場合、被疑者は公訴提起によって受ける可能性のあるダメージを受けずに済む。その結果、社会復帰への障害を最小限にすることができ、短期の自由刑のもつ弊害を受けずに済む。そのうえ、公訴の提起が必然的に少なくなるので、刑事司法における資源の有効活用もできる。
短所
検察官による濫用の可能性がある。起訴されるべき事件が起訴されないことや、不当な公訴提起が起こることも想定できる。あらゆる罪種の事件について、起訴するか否かの判断を検察官の裁量に任せているが故の欠点であるといえる。
日本法における起訴便宜主義
日本の刑事訴訟法248条は、検察官は、犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができるとしており起訴便宜主義を採用している。
歴史
1880年(明治13年)の治罪法や1890年(明治23年)の明治刑訴法には起訴に関する明文の規定はなく、学説上は起訴法定主義を採用しているという理解が有力であった[3]。
起訴便宜主義を初めて明文化したのは、1922年(大正11年)の大正刑訴法である[3]。この刑訴法の趣旨は「検事の行動の範囲を法律をもって限定し、その行動については将来疑義の起らざることを図」ることであるとされていた[4]。
しかし実務上は明治期から「微罪不検挙」として起訴便宜主義的な解釈・運用がなされていた[3]。これが第279条の規定「犯人の性格、年齢及び境遇、並びに情状及び犯罪後の情況により訴追を必要とせざるときは、公訴を提起せざることを得」として明文化された[5]。
なお当時は枢密院が天皇の諮問機関であり違憲審査機関であったが、議長山縣有朋の病没により法案提出の2月7日には議長がおらず、司法省官僚清浦奎吾が副議長であった。清浦は翌日2月8日に議長に就任した[6]。
現行刑訴法はこれを受け継ぐ形で、「犯罪の軽重」をいう語句を追加したうえで、起訴便宜主義を採用した。
事件処理
不起訴はその理由によって次の5つに分類できる。
- 訴訟条件を欠くこと
- 事件が罪とならないこと
- 犯罪の嫌疑があると認められないこと
- 犯罪の嫌疑はあるが、証拠が不十分である場合
- 犯罪の嫌疑はあるが、起訴・処罰の必要性がない場合
このうち、5の場合のことを起訴猶予処分という。
不当な不起訴の抑制
検察官が事件を不起訴相当と判断すると、その事件について裁判所において審判の機会がなくなり、重要な犯人が処罰を免れるといった危険性がある。そのため、現行法上では、
といった不当な不起訴を抑制する手段が用意されている。以下、その内容について述べる。
不起訴処分および理由の通知
起訴・不起訴の通知
検察官は、告訴などの請求のあった事件について、公訴を提起するか否かの処分を決定した際には、速やかに告訴人や告発人などに通知する義務がある[7]。その趣旨は、検察官による不起訴処分に対する自主的なコントロールを期待し、告訴人等に検察審査会への審査申し立ての機会や準起訴手続きの機会を与えることにある。
告訴人等への理由通知
告訴人等から請求がある場合には、その理由を通知する必要がある[8]。しかし実務上では、この点については「起訴猶予」などと直接的な理由のみを通知すれば足りるとしている[9]。
検察審査会
検察審査会の目的は、公訴権の実行に関して、民意を反映させてその適性を図ることである[10]。
告訴・告発をした者や請求をした者、および被害者は検察官の不起訴処分に不服があるとき、その処分についての審査を申し立てることが可能である[11]。そしてその決議を参考にして、検事正は起訴すべきと考える場合は起訴手続きをする必要がある[12]。
2009年5月20日まではあくまで議決は参考であり法的拘束力はなかったが、2009年5月21日以降は、2回「起訴相当」と議決した事件については裁判所が指定した指定弁護士が検察官役を担当して必ず起訴されることになった。起訴議決制度は起訴独占主義の例外である。
準起訴手続
国民の人権保障を実行化するため、警察官による職権乱用罪について検察官による不起訴処分を直接的に抑制する制度として、準起訴手続き(付審判請求)は位置づけられている。これは起訴独占主義の例外である。
準起訴手続では、捜査の不十分さについての審査という本来の機能を果たすべく、事件の内容をよく知る請求人の協力を必要とする場合がある。そのために、請求人の代理人に捜査記録の閲覧や謄写が認められているか、といった点が問題となっている。判例では、準起訴手続は捜査に類似する性格を有する職権手続であるので、対立当事者の存在を前提とする対審構造を有しない、と判示している[13]。
この制度は、検察官の不起訴処分の妥当性を審議し、直接コントロールできるが、適用を受ける事件が職権乱用罪に限定され、付審判決定事件が非常に少ないため使い勝手が悪く、この制度も抑制手段としては限界がある。
不当な起訴の抑制(公訴権濫用論)
上述のように、検察官が不当に公訴を提起しないことについては検察審査会等が一定のチェック機能を果たすことが法律上予定されている。
これに対して検察官が不当に公訴を提起することについては明文の規定が存在していない。明文で規定されている手続としては、検察官が自ら公訴を取り下げる(公訴の取消し。257条)ことが考えられるが、これができるのは第一審公判手続の判決前までであるし[14]、公訴の取下が行われるかどうかは検察官の自制の問題である。
こうして、裁判所が訴追裁量権の行使について一定の審査を行う必要性が存在することとなる。このような必要性に基づいて、一定の場合に検察官の公訴の提起それ自体を違法として、裁判所が検察官の公訴提起を棄却すべき場合があるとの見解が学説上有力に唱えられた。これが公訴権濫用論である。
公訴権濫用論については次のような判例が存在する。検察官の公訴権濫用を認定して公訴棄却を判示した原審に対して検察官が上告した事件において最高裁判所は、検察官による裁量権の逸脱行為が公訴の提起を無効とする場合はあり得るが、それは公訴の提起自体が職務犯罪を構成するような極限的な場合に限られるときわめて限定的な判示をした上で(公訴棄却を判示した)原審を維持する判示を行っている[15]。
脚注
- ^ 河上和雄 & 中山善房 2013, pp. 57–58.
- ^ a b c d 河上和雄 & 中山善房 2013, p. 58.
- ^ a b c 河上和雄 & 中山善房 2013, p. 59.
- ^ 大正11年刑事訴訟法案の議事録一覧。内閣は高橋内閣、司法大臣は大木遠吉、また大審院院長及び法曹会会長は元検事総長の平沼騏一郎であった。
- ^ 1922年5月5日官報「法律第75号 刑事訴訟法」第279条。NDLJP:2955042/8
- ^ 法案提出の時期は1921年11月の原敬首相暗殺事件から約3か月後、また日本政府がヴェルサイユ条約交渉で主張しいた清国山東省の権益を1922年2月の山東懸案解決に関する条約締結により断念してから3日後である(山東問題)。
- ^ 刑事訴訟法260条:
検察官は、告訴、告発又は請求のあつた事件について、公訴を提起し、又はこれを提起しない処分をしたときは、速やかにその旨を告訴人、告発人又は請求人に通知しなければならない。公訴を取り消し、又は事件を他の検察庁の検察官に送致したときも、同様である。 - ^ 刑事訴訟法261条:
検察官は、告訴、告発又は請求のあつた事件について公訴を提起しない処分をした場合において、告訴人、告発人又は請求人の請求があるときは、速やかに告訴人、告発人又は請求人にその理由を告げなければならない。 - ^ 名古屋高等裁判所判決 昭和58年8月10日
- ^ 検察審査会法1条前段:
公訴権の実行に関し民意を反映せしめてその適正を図るため、政令で定める地方裁判所及び地方裁判所支部の所在地に検察審査会を置く。 - ^ 検察審査会法30条前段:
第二条第二項に掲げる者は、検察官の公訴を提起しない処分に不服があるときは、その検察官の属する検察庁の所在地を管轄する検察審査会にその処分の当否の審査の申立てをすることができる。 - ^ 検察審査会法41条:
検事正は、前条の規定により議決書謄本の送付があつた場合において、その議決を参考にし、公訴を提起すべきものと思料するときは、起訴の手続をしなければならない。 - ^ 最高裁判所第二小法廷決定 昭和49年3月13日。刑集28巻2号1頁。判例情報、2014年8月30日閲覧。
- ^ 刑事訴訟法257条:
公訴は、第一審の判決があるまでこれを取り消すことができる。 - ^ 最高裁判所第一小法廷決定昭和55年12月17日。刑集34巻7号672頁。判例情報、2014年8月30日閲覧。
参考文献
- 河上和雄、中山善房、古田佑紀、原田國男、河村博、渡辺咲子『大コンメンタール 刑事訴訟法 第二版 第5巻(第247条〜第281条の6)』青林書院、2013年。
- 田宮裕編 『刑事訴訟法(改訂新版)』 北樹出版〈ホーンブック〉 平成7年(1995年)1月 ISBN 4-89384-376-1
- 井上正仁編 『刑事訴訟法判例百選〔第8版〕』 有斐閣〈別冊ジュリスト〉 平成17年(2005年)3月 ISBN 4-641-11474-9