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チャド・リビア紛争

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チャド・リビア紛争
LocationChad
チャドの位置
1978年1月29日 - 1987年9月11日
場所チャド
結果 反リビア派チャド勢力とフランスの勝利
領土の
変化
アオゾウ地帯の支配権を維持した
衝突した勢力

チャド(反リビア勢力)

フランスの旗 フランス
アフリカ連合軍

大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の旗 リビア

チャド(親リビア勢力)

パレスチナ解放戦線(PLO)[3][4]

指揮官
チャドの旗イッセン・ハブレ
チャドの旗ハサン・ジャモス: Hassan Djamous
チャドの旗イドリス・デビ
フランスの旗ヴァレリー・ジスカール・デスタン
フランスの旗フランソワ・ミッテラン

大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の旗ムアンマル・アル=カッザーフィー

大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の旗マスド・アブドゥルハフィーズ: Massoud Abdelhafid
大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の旗ハリファ・ハフタル
リビアの旗アブドゥッラー・セヌーシー: Abdullah Senussi
大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の旗アフメッド・オウン: Ahmed Oun
大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の旗アブ・バクリ・ユネス・ジョブ: Abu-Bakr Yunis Jabr
大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の旗アブドゥル・ファター・ユネス: Abdul Fatah Younis
リビアの旗ラドワン・サーレヘ・ラドワン[5][6]
ククニ・オーイディ: Goukouni Oueddei
マハムード・A・マルズーク(PLO)
被害者数
死者:1000人以上 死者:7500人以上
捕虜:1000人以上
走行車両800両以上
航空機:28機以上

チャド・リビア紛争とは、1978年から1987年にかけてチャドで行われた一連の軍事作戦で、リビア軍とチャド連合軍が、フランスの支援を受けたチャド人グループと戦い、時には他の外国や派閥が関与することもあった。リビアは1978年以前にも、1969年にムアンマル・アル=カッザーフィーがリビアで権力を握る以前にも、1968年にチャド内戦英語版がチャド北部に拡大したことを皮切りに、チャドの内政に関与していた。[7]この紛争の特徴は、1978年、1979年1980年から1981年1983年から1987年の4回にわたってリビアがチャドに侵攻したことである。いずれの場合も、カッザーフィーは内戦に参加していた多くの派閥の支持を得ていたが、反リビア派勢力はフランス政府の支持を得ており、1978年、1983年、1986年にはチャド政府を支援するために軍事介入した。

1978年の時点では、リビア側が機甲部隊、砲兵、航空支援で支援し、親リビア派チャド勢力側が偵察と戦闘の大部分を担う歩兵で戦闘するという構図が明確となった。[8]この構図は、戦争末期の1986年に、チャド軍が反リビア派チャド勢力側で、リビア側によるチャド北部の占領に対抗したことで、大きく変化した。[9]これにより、リビア軍はチャド人の主力であった歩兵を失い、そしてアメリカザイール、フランスが対戦車・対空ミサイルを提供してくれた機動力のある反リビア勢力の軍隊と対峙することになり、火力面でのリビア側の優位性は失われてしまったのである。その後、トヨタ戦争が起こり、リビア軍はチャドから追放され、紛争は終結した。

カーザーフィーは当初、植民地時代の未批准の条約を根拠にリビアの一部であると主張し、チャドの最北端にあるアオゾウ地帯を併合しようとしていた。[7]1972年、歴史学者マリオ・アゼベド: Mario Azevedoの評価によれば、カーザーフィーの目標は、リビアの南部に、彼のジャマーヒリーヤを模したイスラム共和国を設立し、リビアとの緊密な関係を維持し、アオゾウ地帯の支配権を確保すること、この地域からフランス人を追放すること、そしてチャドを中部アフリカでの影響力を拡大するための拠点とすることであった。[10]

背景

アオゾウ地帯での作戦

リビアとチャドの関係の発端は、チャド内戦英語版中の1968年とされる。この内戦は、反政府勢力のチャド民族解放戦線英語版(FROLINAT)がキリスト教徒のフランソワ・トンバルバイ大統領に対して行っていたゲリラ戦が、北方のボルク・エネディ・ティベスティ県(BET)全体に拡大させ発生させた戦争とされる。[11]リビアの国王イドリース1世は、チャドとリビアの国境を挟んだ両岸の関係から、FROLINATを支援しなければならないと考えていた。チャドのかつての植民地支配者であり、現在の庇護者であるフランスとの関係を維持するために、イドリースは反乱軍をリビア領内で庇護する土地を用意し、非殺傷物資を提供することに限定した。[7]

この状況は、1969年9月1日のリビアのクーデターによってイドリスが退陣し、ムアンマル・アル=カッザーフィーが権力を握ったことで一変した。カッザーフィーは、1935年にイタリアフランス(当時のリビアチャドの植民地支配国)が締結した未批准の条約を証拠として、チャド北部のアオゾウ地帯を主張した。[7]このような主張は、1954年にイドリースがアオゾウを占領しようとしたが、彼の軍隊がフランス植民地軍英語版に撃退されたときにもされていた。[12]

赤く塗られたところがアオゾウ地帯

カーザーフィーは当初FROLINAT英語版を警戒していたが、1970年には自分の必要に応じてこの組織を利用するようになっていた。東ドイツを中心とした東側諸国の支援を得て、反乱軍を訓練・武装させ、武器や資金を提供した。[7][13]1971年8月27日、チャドはエジプトリビアが、当時の大統領フランソワ・トンバルバイに対する、恩赦を受けたばかりのチャド人によるクーデターを支援していると非難した。[14]

クーデターが失敗した日、トンバルバイはリビアやエジプトとの国交を断絶し、すべてのリビアの反体制派をチャドに招き、「歴史的権利」を理由にフェザーンへの領有権を主張した。それに対し、カーザーフィーは、9月17日にFROLINATをチャドの唯一の合法的な政府として公式に承認した。10月にはチャドのババ・ハッサン外相が国連でリビアの「拡張主義的思想」を非難した。[15]

リビアに対するフランスの圧力とニジェールの大統領アマニ・ディオリの仲介により、1972年4月17日に両国は国交を回復した。その直後、トンバルバイはイスラエルとの国交を断絶し、11月28日にはアオゾウ地帯をリビアに割譲することで密かに合意したと言われている。引き換えにカーザーフィーは、チャドの大統領に4000万ポンドを約束して[16]、1972年2月に両国は友好条約を締結した。カーザーフィはFROLINATへの公式支援を撤回し、そのリーダーであるアバ・シディック英語版に本部をトリポリからアルジェに移させた。[17][18]1974年3月にはカーザーフィーがチャドの首都ンジャメナを訪れ[19]、同月にはチャドに投資資金を提供するための共同銀行が設立されるなど、その後も良好な関係が続いていた。[15]

1972年の条約締結から6カ月後、リビア軍は同地帯に進駐し、地対空ミサイルで守られたアオゾウの北側に空軍基地を設置した。クフラ英語版に付属する形で民政局が設置され、数千人の住民にリビアの市民権が与えられた。この時から、リビアの地図はこの地域をリビアの一部として表記するようになった。[18] この合意が実際になされたかどうかは、一部不明瞭であり、議論されている。トンバルバイとカーザーフィーの間に密約があったことが明らかになったのは、1988年にリビア大統領が、トンバルバイがリビアの主張を認めたとされる書簡のコピーを出品したときである。これに対して、ベルナール・ランネのような学者は、正式な合意のようなものは存在せず、トンバルバイは自国の一部が占領されていることに言及しない方が好都合だと考えたのだと主張している。また、1993年に国際司法裁判所(ICJ)に提訴された際、リビアは協定書の原本を提出できなかった。[18][20]

反乱の拡大

1975年4月13日、クーデターによりトンバルバイが解任英語版され、フェリックス・マルーム将軍が政治の実権を握る。クーデターの背景には、トンバルバイがリビアに宥和的な態度をとったことへの反発もあったため、カーザーフィーはこれを自分の影響力を脅かすものと考え、FROLINATへの供給を再開した。[7]1976年4月には、カーザーフィーの支援によるマルームの暗殺未遂事件が発生し[17]、同年にはリビア軍がFROLINATの部隊と一緒にチャド中央部に侵攻し始めた。

リビア軍の活動は、FROLINATが分裂した最強の派閥である北軍司令部英語版(CCFAN)に懸念を抱かせた。反乱軍は1976年10月にリビア支援の問題で分裂し、少数派は民兵を脱退して、反リビア派のイッセン・ハブレが率いる北部軍英語版(FAN)を結成した。一方、カーザーフィーとの同盟を受け入れる多数派は、グクーニ・ウェディの指揮下にあった。後者のグループはすぐに「人民軍英語版(FAP)」と改称した。[21]

その間、カーザーフィーの支援は精神的なものが中心で、武器の提供は限られていた。しかし、1977年2月、リビアがウェディの部下に数百丁のAK-47アサルトライフル、数十丁のRPG (兵器)、81mmと82mmの迫撃砲カノン砲を提供したことで、状況は一変した。これらの武器で武装したFAPは、6月にチャド軍(FAT)の拠点であるティベスティ山地バルダイズール、およびボルクー英語版オウニアンガ・ケビル英語版を攻撃した。6月22日から包囲されていたバルダイが7月4日に降伏し、ズールからFATが撤退した後、ウェディはこの攻撃でティベスティを完全に掌握した。FATは300人の兵士を失い、山積みの軍事物資も反乱軍の手に渡った。[22][23] リビアがチャドへの関与を深めるための拠点としてアオゾウ地帯を利用していることが明らかになったため、マルームは同地区の占領問題を国連とアフリカ統一機構に訴えることにした。[24][25] マルーム・ハブレ協定を積極的に推進したのは、カーザーフィーが支配する危険なチャドを恐れたスーダンサウジアラビアであった。両国は、厳格なイスラム教徒であり、反植民地主義者でもあるハブレに、カーザーフィーの計画を阻止する唯一のチャンスを見出した。[26]

脚注

  1. ^ a b S. Nolutshungu, p. 164
  2. ^ Geoffrey Leslie Simons, Libya and the West: from independence to Lockerbie, Centre for Libyan Studies (Oxford, England). Pg. 57
  3. ^ “قصة من تاريخ النشاط العسكري الفلسطيني ... عندما حاربت منظمة التحرير مع القذافي ضد تشاد”. Raseef22英語版. (2018年12月4日). https://raseef22.net/article/173109-%D9%82%D8%B5%D8%A9-%D9%85%D9%86-%D8%AA%D8%A7%D8%B1%D9%8A%D8%AE-%D8%A7%D9%84%D9%86%D8%B4%D8%A7%D8%B7-%D8%A7%D9%84%D8%B9%D8%B3%D9%83%D8%B1%D9%8A-%D8%A7%D9%84%D9%81%D9%84%D8%B3%D8%B7%D9%8A%D9%86%D9%8A 2021年5月16日閲覧。 
  4. ^ Talhami, Ghada Hashem (30 November 2018). Palestinian Refugees: Pawns to Political Actors. Nova Publishers. ISBN 9781590336496. https://books.google.com/books?id=n8LsPA3mTBYC&q=PLO+Aouzou&pg=PA98 
  5. ^ Cowell; Alan (1981年11月15日). “Libyan withdrawal from Chad is continuing”. The New York Times: p. 4. https://www.nytimes.com/1981/11/15/world/libyan-withdrawal-from-chad-is-continuing.html 2021年1月3日閲覧。 
  6. ^ Cowell; Alan (1981年11月13日). “For Chad, the Libyan pullout is creating a perilous vacuum”. The New York Times: p. 6. https://www.nytimes.com/1981/11/14/world/for-chad-the-libyan-pullout-is-creating-a-perilous-vacuum.html 2021年1月3日閲覧。 
  7. ^ a b c d e f K. Pollack, Arabs at War, p. 375
  8. ^ K. Pollack, p. 376
  9. ^ S. Nolutshungu, Limits of Anarchy, p. 230
  10. ^ M. Azevedo, Roots of Violence, p. 151
  11. ^ Frontiersmen. A. Clayton. p. 98 
  12. ^ M. Brecher & J. Wilkenfeld, A Study of Crisis, p. 84
  13. ^ R. Brian Ferguson, The State, Identity and Violence, p. 267
  14. ^ “Chad Splits with Egypt”. The Palm Beach Post. (1971年8月28日). https://news.google.com/newspapers?id=V6M1AAAAIBAJ&pg=1639,5039146 2012年10月21日閲覧。 [リンク切れ]
  15. ^ a b G. Simons, Libya and the West, p. 56
  16. ^ S. Nolutshungu, p. 327
  17. ^ a b M. Brecher & J. Wilkenfeld, p. 85
  18. ^ a b c J. Wright, Libya, Chad and the Central Sahara, p. 130
  19. ^ M. Azevedo, p. 145
  20. ^ Public sitting held on Monday 14 June 1993 in the case concerning Territorial Dispute (Libyan Arab Jamayiriya/Chad). 国際司法裁判所. (1993). [リンク切れ] オリジナルの2001年7月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20010727103312/http://www.icj-cij.org/cijwww/ccases/cdt/cDT_cr/cDT_cCR9314_19930614.PDF. 
  21. ^ R. Buijtenhuijs, "Le FROLINAT à l'épreuve du pouvoir", p. 19
  22. ^ R. Buijtenhuijs, pp. 16–17
  23. ^ Public sitting held on Friday 2 July 1993 in the case concerning Territorial Dispute (Libyan Arab Jamayiriya/Chad). 国際司法裁判所. オリジナルの27 July 2001時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20010727103709/http://www.icj-cij.org/cijwww/ccases/cdt/cDT_cr/cDT_cCR9326_19930702.PDF. 
  24. ^ S. Macedo, Universal Jurisdiction, pp. 132–133
  25. ^ R. Buijtenhuijs, Guerre de guérilla et révolution en Afrique noire, p. 27
  26. ^ A. Gérard, Nimeiry face aux crises tchadiennes, p. 119