ユーゴスラビア
ユーゴスラビアは、1929年 - 2003年の間に存在した東ヨーロッパの国。正式な国名は何度か変更しているので国名の項目を参照。
首都はベオグラード。1918年にセルビア王国を主体としたセルビア・クロアチア・スロベニア王国(セルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国)として成立。1929年ユーゴスラビア王国に改名。1945年からは共和制。1991年からのユーゴスラビア紛争により解体。その後も残留した地域において国家そのものは継続されていたが、2003年に国名をセルビア・モンテネグロに改称した。
バルカン半島に位置し、国境をイタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシア、アルバニアなどと接していた。(但し、後述する構成国の独立によって国境を接する隣国も変動した。)
国名
ユーゴスラビアはセルビア・クロアチア語のラテン文字表記でJugoslavija、キリル文字表記でЈугославија。それぞれの英語表記による正式な国名については後述。
日本語での表記はユーゴスラビアもしくはユーゴスラヴィア 略称はユーゴ
ユーゴスラビアは「南スラブ人の土地(Jugoslavija )」を意味し、国家の名称は1929年、ユーゴスラビア王国として使用されたことに始まる。
国名の変遷
- 1929年 - ユーゴスラビア王国(Kingdom of Yugoslavia)
- 1945年 - ユーゴスラビア連邦人民共和国(Federal People's Republic of Yugoslavia)
- 1963年 - ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(Socialist Federal Republic of Yugoslavia)
- 1992年 - ユーゴスラビア連邦共和国(Federal Republic of Yugoslavia セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ。ただしボスニア・ヘルツェゴヴィナは1992年独立)
- 2003年2月5日 - ユーゴスラビアの国名消滅。「セルビア・モンテネグロ」となる。
歴史
第一のユーゴ
第一次世界大戦中、汎スラヴ主義を掲げてオーストリアと戦ったセルビアはコルフ宣言を発表し、戦後のバルカン地域の枠組みとして既に独立していたセルビア、モンテネグロに併せてオーストリア・ハンガリー帝国内のクロアチア、スロベニアを合わせた南スラブ人王国の設立を目指すとした。1918年に第一次世界大戦が終了しオーストリア・ハンガリー帝国が解体させられるとクロアチア、スロベニアもオーストリア・ハンガリー帝国の枠組みから脱却して南スラブ人王国の構想に加わりセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国(セルビア・クロアチア・スロベニア王国)が成立した。
新しい王国の下では、地方行政の区分けが自然の川や分水嶺によって設定されセルビア人やクロアチア人と言った民族の違いによる地域の区分は全く無視された。それに加え、中央集権国家を目指した王国はベオグラードのセルビア人が中心になって運営されたたため、クロアチア人の不満は大きいものとなった。
1929年には国王アレクサンダルが憲法を停止して独裁制を布告し、ユーゴスラビア王国と国号を変更した。1931年に新憲法を布告し、セルビア主義と国王独裁を強めた。このため、クロアチア人の不満はいっそう高まる事になった。1934年、国王アレクサンダルがフランス外相とともにマルセイユで暗殺され、ぺータル2世が即位した。当時、この暗殺はクロアチアの民族主義者の手引きによるものと考えられたが、真相はわかっていない。アレクサンダル暗殺後はクロアチアの要求をある程度受け入れる方針に転換し、1939年にはクロアチア人の自治権を大幅に認めクロアチア自治州を設立させることで妥協が成立した。しかしこの妥協はユーゴスラビア内の矛盾を拡大しただけで終わったと言える。
第二次世界大戦
クロアチア自治州の成立だけでは満足せず、更にクロアチアの独立を目指したのがクロアチア人による民族主義グループのウスタシャである。1941年、ナチス・ドイツはイタリア、ハンガリー、ブルガリア等の同盟軍と共にユーゴ進撃を開始し、ユーゴスラビアを分割占領した。又クロアチア地域ではウスタシャに拠る政権を新しい地域の為政者として同盟を結んだ。
ウスタシャはドイツの支援を受けてユーゴスラビアを解体し、クロアチア独立国を成立させた。クロアチア人はセルビア人への復讐を始め、強制収容所にセルビア人を連行して虐殺したと言われる(後に大量の遺骨が地中から発見されており、真実と思われる)。
ドイツに侵攻されたユーゴスラビア王国政府はロンドンに亡命政権を樹立し、ユーゴスラビア王国軍で主流であったセルビア人将校を中心としたチェトニックを組織してドイツ軍に対抗した。しかし旧来のユーゴスラビア王国内の矛盾を内包したチェトニックは士気が弱く、却ってクロアチア人を虐待するなどしたためセルビア人以外の広範な支持を広げることが無かった。代わってドイツに対しての抵抗運動をリードしたのはヨシップ・チトー率いるパルチザンであった。パルチザンはドイツ軍に対して粘り強く抵抗し、ソ連軍の力を東欧の国で唯一借りず、ユーゴスラビアは自力での解放を成し遂げた。
第二のユーゴ
自力でのユーゴスラビア解放に成功したチトーは、王の帰国とロンドンの亡命政権を否定し、従来のユーゴスラビアの枠組みの中で、戦後の再建を始めた。戦後の政権党となったユーゴスラビア共産党(その後1952年にユーゴスラビア共産主義者同盟に改称)は、1948年にコミンフォルムを追放されて以降、ソ連のコントロールから外れてアメリカが戦後のヨーロッパ再建とソ連への対抗策として打ち出したマーシャル・プランを受け入れる姿勢を取り、東ヨーロッパ諸国を衛星国として取り込もうとしていたソ連と対立して、断交と国交回復を繰り返した。ソ連と対立したため、又東ヨーロッパの軍事同盟となるワルシャワ条約へ加盟せず(できず)、冷戦下における独自の安全保障策として非同盟運動 (Non-Alignment Movement, NAM) を始めるなど独自の路線を打ち出した。又特にソ連から侵攻されることを念頭に置いて、各地域にユーゴスラビア連邦軍とは別個に地域防衛軍を配置し、武器も配布した。これらの地域防衛軍は後のユーゴスラビア内戦時において各独立国の戦力となり、配布されていた武器も武力衝突が拡大する原因となった。
社会主義建設においては、ソ連との違いを打ち出す必要に迫られた。こうした中で生み出されたのがユーゴスラビア独自の社会主義政策とも言うべき自主管理社会主義である。これは生産手段をソ連流の国有にするのではなく、社会有にし、経済面の分権化を促し、各企業の労働者によって経営面での決定が行われるシステムであった。(このため、ユーゴスラビアでは各企業の労働組合によって社長の求人が行われる、他のシステムとは全く逆の現象が起こった。)この自主管理社会主義は、必然的に市場を必要とし、そのため後にユーゴスラビア内戦の要因の一つとなる地域間の経済格差が拡大していく事も内包されていた。ただし市場経済の完全な導入には踏み切れなかったため、不完全な形での市場の発達が経済成長に悪影響を及ぼす矛盾も内包していた。
第二のユーゴはスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国とセルビア共和国内のヴォイヴォディナとコソヴォの2つの自治州によって構成され、各地域には一定の自治権が認められた。これらの地域からなるユーゴスラビアは多民族国家であり、その統治の難しさは「7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字により構成される1つの国」(※7つの隣国(イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシア、アルバニア)、6つの共和国(スロベニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア)、5つの民族(スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、ボシュニャク人、マケドニア人)、4つの言語(スロベニア語、セルビア・クロアチア語、ボスニア語、マケドニア語)、3つの宗教(カトリック、東方正教、イスラム教)、2つの文字(ラテン文字、キリル文字))と表現されたが、戦後の長期間にわたって平和が続いたことはひとえにチトーのバランス感覚とカリスマによる所が大きいとも評される。チトー晩期には6共和国と2自治州を完全に同等の立場に置いた憲法が施行された。1980年にチトーが死去すると各地から不満が噴出する事になった。
先ず、同年にコソボで独立を求める運動が起こった。地理的に西ヨーロッパに近く、最も経済的に成功していたスロベニアでは、1980年代中ごろから、南側の共和国や自治州がスロベニアの経済成長の足を引っ張っているとして、分離の気運が高まった。クロアチアでは政府がセルビアに牛耳られているとする不満が起こり、セルビアでは自分達の権限が押さえ込まれすぎているとして不満であった。経済的な成長が遅れている地域では社会主義でない事に対して不満が起こり、経済的に成長している地域では完全に自由化されていないことに対して不満であった。
東欧革命が旧東欧の共産主義政権を一掃すると、ユーゴスラビアでもユーゴスラビア共産主義者同盟が一党支配を断念し、1990年に自由選挙を実施すると、各共和国には何れも民族色の強い政権が樹立される事になった。この時セルビアに台頭したのが、ソロボダン・ミロシェビッチ率いるセルビア民族中心主義勢力である。1990年から翌1991年にかけて、スロベニアとクロアチアから連邦の権限を極力制限し、各共和国に大幅な自治権を認める提案を行ったが、セルビアとモンテネグロはこれに反発。遂に1991年6月には両共和国がユーゴスラビアからの独立を宣言し、スロベニアとの間の十日間戦争、クロアチアとの間のクロアチア紛争が勃発。一連のユーゴスラビア紛争に突入した。十日間戦争は極めて短期間で終結したものの、クロアチア紛争は長期化し、第二次世界大戦中のウスタシャとチェトニックの関係を思わせるような相互に略奪、虐殺、強姦を繰り返す泥沼に突入した。更に翌年ボスニア・ヘルツェゴビナの独立を契機にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が開始される。ボスニアではセルビア、クロアチア、ムスリムの混住がかなり進行していたため、状況は更に酷く、又これにセルビア、クロアチア両国が介入したため、こちらも長期化、泥沼化した。
クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は1995年になって漸く終結をみるが、セルビアがこれらの地域からのセルビア人難民のコソボ殖民を強力に推し進めたため、コソヴォにおける民族バランスが大きく崩れる事になった。これに危機を抱いたコソボ民族派によりコソボ紛争が引き起こされ、1999年 NATOによる爆撃、その後の和平協定に基づく国連暫定統治機構 (UNMIK) の設置につながった。ミロシェヴィッチは、大統領の座を追われ、ハーグの国際戦犯法廷に引き渡された。
ユーゴスラビア消滅
2002年、セルビアとモンテネグロの間で取り交わされた合意に基づき、国の正式名称を双方の国名を合わせたものに改称する事、その代わりセルビアとモンテネグロは少なくとも3年間は単一国家として機能することが連邦議会で決定された。
2003年2月5日、ユーゴスラビアは「セルビア・モンテネグロ」と国名が改名された。これによって1929年以来の「南のスラブ人の土地」を意味するユーゴスラビアのという国名が姿を消す事になった。
だが、コソボやモンテネグロにおける独立運動が解決しておらず、国家としての安定性が不透明であると考える者もあった。
その不安は的中し、2006年ハーグにおいて裁判中のミロシェビッチが獄中で病死するという衝撃的な報が流れる中、5月23日モンテネグロにおいて国民投票が行われて独立賛成派が勝利を収め、その結果を受けて同年6月3日モンテネグロは独立を宣言、ユーゴスラビアは名実ともに消滅する事となった。
指導者
ユーゴスラビア王国の君主
すべてカラジョルジェビッチ家。
- アレクサンダル1世(1921~29年セルボ・クロアート・スロヴェーヌ王、1929年~34年ユーゴスラビア王)
- ペータル2世(1934~41年ユーゴスラビア王、1941~45年枢軸国の侵略によりロンドン亡命)
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
- ヨシップ・ブロズ・チトー(1945~80年)
政治
1918年から1941年まではカラジョルジェビッチ家による王政。
1945年以降はユーゴスラビア共産主義者同盟による一党独裁。ただし地理的に西ヨーロッパに近いことや、ソ連及びその衛星国と政治体制を差別化する必要があった事から、比較的自由な政治的な発言は許される風土があったとされる。
1989年にユーゴスラビア共産主義者同盟は一党独裁を放棄し、複数政党制の導入を決定した。翌1990年に実施された自由選挙ではセルビアとモンテネグロを除いて非ユーゴスラビア共産主義者同盟系の民族主義的色彩が非常に強い政治グループが政権を獲得した。
地方行政区分
1918年から1939年
- ドラフスカ州
- サフスカ州
- プリモルスカ州
- ヴルバスカ州
- ドナフスカ州
- ドリンスカ州
- モラフスカ州
- ゼツスカ州
- ヴァルダルスカ州
- ベオグラード府
1939年から1941年
サフスカ州、プリモスカ州全域とヴルバスカ州、ドリンスカ州の一部をクロアチア自治州として設定。
1945年以降
- スロベニア共和国(1991年6月に独立を宣言)
- クロアチア共和国(1991年6月に独立を宣言)
- マケドニア共和国(1991年に独立を宣言、1992年3月に完全独立)
- ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国(1992年3月に独立を宣言その後内戦へ、1995年12月和平に調印)
- セルビア共和国(2003年、「セルビア・モンテネグロ」として共同国家を維持、2006年モンテネグロ共和国の分離独立により共同国家を解消)
- モンテネグロ共和国(2003年、「セルビア・モンテネグロ」として共同国家を維持、2006年分離独立)
地理
河川
山脈
経済
1980年代の末期まで、ユーゴスラビアではソ連や他の社会主義国家とは一線を画した経済方式を導入しており、この経済方式を自主管理方式と呼んだ。ユーゴスラビアでは生産手段である、工場や工業機械の他に、経営方針も労働者によって管理されるものとされ、その範囲内で経営責任者が労働者によって募集されると言うこともよくあった。
又西側資本の受け入れにも積極的であり、西ドイツ(当時)のスニーカーメーカーであったアディダス社などがユーゴスラビアに工場を構えていた。
国民
セルビア人、クロアチア人が多数。このほかに自らの共和国を持つ存在としてスロベニア人、モンテネグロ人、マケドニア人があった。更に自分の共和国を持たない、ムスリム、アルバニア人、ハンガリー人、イタリア人がいた。ただし、これらのいずれもがユーゴスラビアで過半数を占める事は無かった。更にユーゴスラビアが存在した約70年近くの間にこれらの民族の間での混血が進み自らを「ユーゴスラビア人」であると名乗る者もあった。
宗教はスロベニア、クロアチアがカトリック、セルビア、モンテネグロ、マケドニアが東方正教会、更にイスラームがあった。
言語は共通語としてセルビア・クロアチア語があった。現在では各共和国でそれぞれの言語での教育が行われているためセルビア・クロアチア語の共通語としての意義は消滅しているが、ユーゴスラビア構成諸国家のある一定の年齢以上のものはほとんどがセルビア・クロアチア語を解する事ができる。又セルビア・クロアチア語はラテン文字とキリル文字二つの正書法があったが、ユーゴスラビアではこれら二つの文字は等しく扱われ、公文書や新聞などでは二つの文字で併記されていた。
文化
スポーツ
サッカー
サッカーの強豪国のうちの一つであった。ワールドカップには1930年の第一回大会から出場している。ワールドカップでは1930年大会の3位(ただし3位決定戦は無し)、1962年大会の4位等がある。ヨーロッパ選手権では1960年大会、1968年大会での準優勝がある。年齢別の大会では1987年のワールドユースでの優勝がある。1960年代以降ユーゴスラビアが国際的なタイトルに最も近づいたのはドラガン・ストイコビッチらを擁した1980年代後半になってからで監督はイビチャ・オシムであった。1990年イタリア大会では準々決勝で一人少ないながらも優勝候補であったアルゼンチンに120分間でドロー。PKで敗退したものの1992年のヨーロッパ選手権の優勝候補に押す者が後を絶たないほど強烈な印象を残していった。しかし一方でユーゴスラビアの解体が進んでおり、1991年までに行われたヨーロッパ選手権予選を勝ち上がったものの、同年スロベニアとクロアチアがユーゴスラビアを離脱。更に本大会直前になってボスニア・ヘルツェゴビナもユーゴスラビアを離脱。ユーゴスラビア連邦軍がサラエボに侵攻するにあたって監督のイビチャ・オシムが辞任。国連はユーゴスラビアに対しての制裁を決定し、これに呼応して国際サッカー連盟、欧州サッカー連盟はユーゴスラビア代表の国際大会からの締め出しを決定。既に開催国であるスウェーデン入りしていたユーゴ代表は帰国し、こうしてユーゴスラビアの解体と共にユーゴスラビア代表も解体してしまった。この大会の優勝はユーゴスラビアの代わりに出場したデンマークであった事は皮肉以外の何者でもない。
旧ユーゴスラビア構成諸国家にも、強豪としてのユーゴスラビアの伝統は継承され、1998年フランスワールドカップでは、クロアチアが3位に入り大きな驚きを呼んだ。更にサッカーが盛んとは言えないスロベニアも2000年のヨーロッパ選手権本大会、2002年日韓ワールドカップと続けて本大会に出場しこれも大いに驚かされた。こうしたユーゴスラビアの強さの秘密の一つとしてサッカーをアカデミックに捉える試みが行われた事が上げられる。大学の講座の一つとしてサッカーのコーチングが教えられており、旧ユーゴスラビア出身の監督の多くはこれらの修士号や博士号を持っている場合が多い。又、旧ユーゴスラビア出身のサッカー監督は極めて多いと言ってもよいだろう。
オリンピック
サッカー以外でもユーゴスラビアはスポーツ強国として知られ、近代オリンピックの重要な参加国となった。夏季オリンピックには建国後最初の大会になる1920年のアントワープオリンピックから参加した(前身のセルビア王国としては1912年のストックホルムオリンピックで初参加)。1924年のパリオリンピックではレオン・シュツケリが男子体操の個人総合と種目別の鉄棒で、同国初のメダルとして金メダル2個を獲得した。
第二次世界大戦後もオリンピックへの参加を続け、1984年には社会主義国初となる冬季オリンピックとして、招致活動で札幌市を抑えてサラエボオリンピックを開催した。この大会ではユーレ・フランコがアルペンスキーの男子大回転で銀メダルを獲得し、同国初の冬季メダリストとなった。また、同年に行われ、ソ連や東ヨーロッパ諸国が集団ボイコットを行ったロサンゼルスオリンピックにも参加した。この時のメダル獲得総数18個(金7銀4銅7)がユーゴスラビアのベストリザルトで、その次の1988年ソウルオリンピックでも12個(金3銀4銅5)のメダルを獲得した。
有力種目はハンドボールと水球であった。男子ハンドボールはオリンピック種目に復活した1972年のミュンヘンオリンピックで金メダルを獲得し、その後もメダル争いの常連となった。男子水球はロサンゼルス・ソウル両大会で2連覇を達成し、ハンガリーと並ぶ世界最高峰の実力を見せつけた。
しかし、オリンピック活動も各共和国の独立運動の影響を受けた。1992年のバルセロナオリンピックは、男子サッカーのヨーロッパ選手権と同様、ユーゴスラビアとの文化・スポーツ交流を禁じる国連の制裁対象となった。独立した各共和国の参加は認められたが、ユーゴスラビアの参加は不可能となった。ただし、国際オリンピック委員会(IOC)は救済措置を検討し、個人種目に限ってユーゴスラビア国籍の選手を「個人参加」として五輪旗とオリンピック賛歌の下で戦う事を認めた。この個人参加選手は射撃で銀1銅2の計3個のメダルを獲得した。また、多くの選手がユーゴスラビアを離れたために競技力の低下が顕著となり、特に冬季大会では主力選手がみなスロベニアに所属したため、1994年のリレハンメルオリンピックへの参加を見送った。内戦や空爆でスポーツ施設も多く被害を受け、経済制裁によってそのメンテナンスも難しくなった。
ユーゴスラビアは1996年のアトランタオリンピックで正式メンバーとしてオリンピックに復帰し(金1銀1銅2で計4個のメダル)、2000年のシドニーオリンピックがユーゴスラビアとして最後の参加となった。この大会では男子バレーボールの金メダルなど、合計3個(金1銀1銅1)のメダルを獲得した。