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國光宏尚

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くにみつ ひろなお

國光 宏尚
生誕 (1974-01-28) 1974年1月28日(50歳)
日本の旗 日本兵庫県神戸市灘区
出身校 米国Santa Monica College卒業
職業 実業家
活動期間 2007年 - 現在
団体gumi』創業者・ファウンダー代表取締役会長
『Candee』ファウンダー会長
『FiNANCiE』ファウンダー代表取締役CEO
『Thirdverse』ファウンダー代表取締役CEO
著名な実績 著書『メタバースとWeb3』
影響を受けたもの 孫正義
テレビ番組 『オレが世界を変えてやる!』
THE NEWSα
佳代子の部屋〜真夜中のゲーム会議〜
ABEMA Prime
西野亮廣エンタメ研究所
公式サイト 國光宏尚 (hkunimitsu) - Facebook
國光宏尚 (@hkunimitsu) - X(旧Twitter)
國光宏尚 (@hkunimitsu) - Instagram
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映像外部リンク
西野亮廣エンタメ研究所ラジオ【公式】
西野亮廣 国光宏尚 NFT対談会!エンタメ業界におけるNFTの可能性やトレンドについて語る - YouTube
映像外部リンク
Japan Blockchain Association
【特別版】NFT共同勉強会 西野亮廣氏&国光宏尚氏 エンタメ業界におけるNFTの可能性やトレンドについて語る - YouTube
創設した『gumi』本社が所在する住友不動産西新宿ビル5号館
國光宏尚が超客員教授する情報経営イノベーション専門職大学
國光宏尚が卒業した米国Santa Monica College
國光宏尚が在学していた上海 復旦大学
國光宏尚が卒業した私立岡山高校
國光宏尚が生まれた兵庫県神戸市灘区

國光 宏尚(くにみつ ひろなお、1974年1月28日 - )は、日本実業家。『gumi』創業者・ファウンダー代表取締役会長、『Candee』ファウンダー会長、『FiNANCiE』ファウンダー代表取締役CEO、『Thirdverse』ファウンダー代表取締役CEO。情報経営イノベーション専門職大学 超客員教授。米国Santa Monica College卒業。兵庫県神戸市灘区出身。

概要

神戸市生まれ。米国Santa Monica College卒業後、2004年平成16年)5月株式会社アットムービーに入社。同年に取締役に就任し、映画テレビドラマプロデュース 及び 新規事業の立ち上げを担当する。

2007年(平成19年)6月、株式会社gumiを設立し、代表取締役社長に就任。2021年令和3年)7月に同社を退任。

2021年8月より株式会社Thirdverse代表取締役CEOおよび株式会社フィナンシェ代表取締役CEOに就任。

経歴

幼少期~高校時代

神戸市灘区生まれ。祖父は自動車販売会社を立ち上げた経営者で、父と叔父たちがその会社を受け継いで、その後はそれぞれが独立。長男は中古販売、次男は新車販売、四男坊だった父は、あまり儲からないバイク店経営者に収まった。常に5~6人の従業員を抱えて忙しい店だった[1]

妹と弟が一人ずついる3人きょうだいの長男。厳しく育てられた覚えはなく、放任主義な幼少期だった。ファミコンにハマり、少年ジャンプを愛読した。放課後は仲間とサッカーしたり、野球をやったり、屋外でよく遊ぶ子供だった。昭和49年生まれの団塊ジュニア世代は「いい中学、いい高校、いい大学を目指す」が美徳で、受験戦争が一番激しかった頃だった。國光もご多分にもれず、小学3年からは毎日学習塾に通うようになった。兵庫県では有名なスパルタ塾で、鉢巻をして勉強した。当時、神戸にあった公立中学校の校則では坊主頭がルールだった。それが嫌で地元の公立中学校はパス。また親元を離れたいという気持ちが強かったこともあり、兵庫の隣県、岡山県にある中高一貫の私立岡山高校に進学した[1]

繁華街からかなり離れた場所にある男子高で、周囲を見渡せば畑ばかりの農村地帯。夜の20時になると、夏でも一帯はまっ暗闇。一番近くのコンビニまで歩いて1時間。最初に寮生活を始めた頃は、「しまった」と思った。ただ國光と同じように他府県から進学してきた同級生たちとの寮生活はとても楽しく、1室8人のたこ部屋、土日の外出は1日だけ、12時から17時15分の間のみ。寮のご飯も美味くなく、厳しい環境のなか、夜、先生の監視をかいくぐって密かに寮を抜け出すことにスリルと面白みを感じた。繁華街のクラブに出かけた。部活は硬式テニス部に所属。中学2年から続けていて真面目に練習に励んだ。理由は単純で女子にもてたかったから。試合会場に行くと、他校のテニス部の女子がいて、試合に勝たないとかっこ悪いし、声だってかけずらい。文化祭も楽しかった。男子校の自分たちにとって女子と出合える数少ないチャンスだった[1]

1991年(平成3年)高校を卒業。大学受験をしたが失敗。当時、傷心した國光は尾崎豊の歌に感化され、「敷かれたレールに乗るのはかっこ悪い」と考えるようになる。それでも大阪の新聞配達の寮に住んで、新聞奨学生をしながら、浪人生活を送っていた。ただ、その寮の近くに関西大学があって、大学生になった昔の知り合いたちと顔を合わせるようになった。そのうちに中高時代に覚えた麻雀をするようになって、夜中の3時まで麻雀、そのあと新聞配達。半分眠りながら新聞を配って、気が付いたら配り終えているという毎日。浪人生活が後半を過ぎた頃から、「大学受験はもういいや」と思うようになり、毎日、どうすればビッグになれるかを思案する日々。当時は『ベンチャービジネス』なんていう言葉も知らなかったので、手っ取り早く水商売で働き始めることにした。「大人の言うことを素直に信じて、大学に行っているやつらはアホだ」と自分に言い聞かせながら。そんな生活が2年ほど続いた[1]

阪神・淡路大震災

1995年(平成7年)1月17日の早朝、阪神・淡路大震災が勃発した。その日、國光は彼女の家に泊っていて、飛び起きて彼女の安全を確保した後、すぐに自宅のある灘区を目指した。途中、行きつけだったバーに寄ったら、店は壊滅状態。ボトルが割れていないバーボンを勝手にちょうだいして、気持ちを落ち着けたことを覚えている。「自分は、偶然、命が助かった。でも、死んでいてもおかしくなかった。生きるか死ぬって、実は紙一重。」そんな死生観が心に刺さり、考えるようになった。自分はこれまで何も成し遂げていない。このまま もしも死んでしまったら、ものすごく後悔するだろう。何とかしなければ……。そこで國光が出した答えは、「まずは環境を変える」こと。海外へ出よう。当時のナンバーワンといえば、アメリカ。でも、21世紀は中国の時代。結果、中国への留学を決断。学費と生活費が、アメリカに比べて格段に安かったことも理由だった。そして、神戸港から鑑真号という船に乗って上海を目指した。男の旅立ちは、飛行機よりも、やっぱり船でしょう、と思った。ただし、航空運賃より船賃のほうが高かったのは痛かった[1]

國光は、とかく基本カタチから入る男だった。「男児志をたてて郷関を出づ 学もし成らずんば 死すともかへらず」の決意で、まず語学勉強で向かった先も、一番反日感情が大きいといわれる南京を選んだ。「南京の人々に俺を認めさせないでどうする!」という勢いだった。ただ、当時は鄧小平のいわゆる「南巡講話」が行われていた頃で、それほど反日的ではなく、無事に半年間の語学勉強を終え、上海にある復旦大学に入学する。ここでのキャンパスライフは普通に青春を謳歌して楽しかった。また中国に進出してくる日本の中小企業の通訳の仕事をして、けっこうな稼ぎがあった。日本人は交渉下手で騙されることも多い中、國光は平気で「うそつくな!」と、彼らを守ってあげた。すると「いい通訳がいる」と評判になって、紹介の紹介でどんどん仕事が入ってくる。そのお金を使って、ウィグルからチベットを抜け、その先にあるアジア各国をバックパックで放浪旅行した。中国、チベットなどのアジア諸国、北米、中南米など約30カ国を放浪する。そうこうしているうちに「自分は英語が話せない。そうだアメリカに行こう」と思い始めるようになった[1]

日本を出る前に、人生後悔しないよう、30歳になるまでは好奇心の赴くほうに、自由に流れていこうと決めていた。30歳までにひとつの道を見つけて、それ以降は一点勝負していこう。自分にとって、人生の中で最大のライバルは何かというと、「元の自分が選ばなかった道を選んだ新しい自分」だと思っていた。変化をしないまま現状維持に固執したら、せっかくのライバルに会うことができない。だから自己成長を続けるためにも、変化し続けることを自分に課した。そうしたら、復旦大学で出会ったカナダ人の友人が、「バンクーバーもいいところだ。世話してやるから来いよ」と誘ってくれたこともあり、TOEFLの勉強をカナダで半年間。そして、ロサンゼルスにあるサンタモニカカレッジに入学した。ただ、入学前、「そういえば自分は南米に行ってないな」と。それからメキシコ経由で南米に入り、いくつかの国々を回りながら、気が付いたら予定の1カ月をだいぶ過ぎていた。あわてて大学に電話して、「あまりに南米が広いものですから」と入学が遅れる旨を職員に伝えたら、「それはそうだ。もっと楽しんでくればいい」と言われた[1]

渡米

2000年(平成12年)から、ロサンゼルスでの大学生生活がスタート。ここでも海外での日本人の勝負下手さに気づかされた。日本人留学生は2種類しかいないと。日本人ばかりとつるんでいる人と、それが嫌でアメリカ人としか付き合わない人。そのくせ、日本人同士は心の底から仲良くしない。一方、中国人とかユダヤ人とかは団結してみんなでこずるいことをしてでも助け合う。アメリカでは、彼らは日本人と同じマイノリティだけど、日本人留学生に比べて評価が高い。学生の世界だけではなく、これはビジネスの世界でも同じだと思う。海外で日本人が他者に勝っていくためには、もっともっと日本人同士がしっかり交流して、協力し合っていかないといけない[1]

そこでロサンゼルスに、日本人留学生によって運営される、日系社会の活性化と学生の援助を目的とした「ジャパニーズ・スチューデント・ネットワーク(以下JSN)」というNPO団体に参加。「日本人留学生同士、もっと交流して、もっと協力し合って、イニシアチブをとっていこう」という活動をした。リーダ的ポジションを任された國光はイベント担当を務める。青色発光ダイオードの研究で世界的に有名になった中村修二を招いて講演会を企画したり、「TOKYO NIGHT」と銘打ったパーティを開いて、日本から著名なDJを呼んできたり。そんなNPO活動と並行して、日本の製品を輸入したり、アメリカの製品を逆に日本に輸出したり、ちょっとしたビジネスも手がけた。日本と中国とアメリカと、自分には知った仲間がいたから、これがけっこう儲かった。そうやって何となく「自分はこのままアメリカで生活していくのかな」と思っていた2003年(平成15年)頃、ある人から声がかかった[1]

それは、JSNの活動を介して知り合った、数々のヒットドラマを手掛ける元フジテレビプロデューサーの森谷雄。彼は日本で、映画やテレビ番組の制作プロデュース会社「アットムービー」を立ち上げていた。その彼から「一緒にやらないか?」と誘われた。「俺もそろそろ30歳になる。日本を出る前に、30歳からは一つのことに打ち込むことを決めていたし、彼は信頼できる人間、これも縁だな」と。サンタモニカカレッジを卒業し、帰国することを決めた[1]

帰国~会社員

2004年(平成16年)株式会社アットムービーの社員として働き始めた。社風として頼まれた仕事はしない、自分たちでやりたいものだけをやるのがルール。企画から資金調達、配給まですべてワンストップでやる。國光自身はITが好きだったので、いろんな企画を考え、自由に働かせてもらった。同年に取締役に就任。映画ドラマプロデュース、ほかさまざまなIT系新規事業を立ち上げる[1]

今振り返っても画期的なサービスをリリースしていた。つくりたいものものありきで、メディアは「テレビ」「映画」「ネット」「携帯」「舞台」と何でもOK。動画ドラマをPHSで配信したのは世界初、最初に携帯で映画の試写会を実施したのも國光が考案したアットムービー発の企画だった。2005年(平成17年)女優の加藤ローサ主役に配した「シムソンズ」というカーリング競技を主題にした映画を製作。トリノオリンピックのネットプロモーションを進める際に、動画をブログに張り付けて、ユーザーがコメントを入れるとテロップが流れる、「突っ込み放送局」というサービスを実施。映画の予告編のテロップを入れて、一番人気のユーザーに、加藤ローサさんのオリジナル動画をプレゼントというキャンペーンを始めたら、コメントが殺到。この動画共有サイトを開発してくれたのが、フリップ・クリップという会社で働いていた堀内康弘(後にgumiのCTOを歴任)だった[1]

この時のプロジェクトはそのまま解散したが、翌年、ドワンゴが「ニコニコ動画」をスタート。「突っ込み放送局」と同じような仕組みで大ブレイクして、すごく悔しい思いをした。その悔しさもひとつの起業のモチベーションになった。エンターテインメント業界は古い体質のピラミッド社会で、新しいチャレンジができづらい窮屈さがあり、アイデアがあっても価値はゼロ。やはり、実現できてなんぼな世界。その頃、國光は海外のコアなIT事情を真面目に解説するブログを書いていて、IT系の人たちとの交流が増えていた。その一人が、米Zyngaが買収した、「ウノウ」の社長・山田進太郎。彼とはすぐに意気投合し、何度か飲んで、「僕はエンタメ、山田さんはIT。お互いの得意分野を合わせて一緒にやろう」となった。で、2006年(平成18年)10月にアメリカで開催された大きなIT展示会「サウスバイ・サウスウエスト」で、ツイッターが初登場。PCを使ったこのリアルタイムSNSは、絶対にモバイルでやったほうが面白い。これだな!と直感する[1]

gumi創業

2007年(平成19年)6月、アットムービーの取締役を退任し、モバイルを中心としたインターネットコンテンツを提供する株式会社gumiを創業し、代表取締役に就任。「打倒!Zynga」を掲げて、携帯を活用した、リアルタイムSNS「gumi」のサービス提供を開始した。ちなみに、ウノウも山田進太郎も出資者だった。Zyngaがうちの株を持っているというのも面白い因縁だった。このビジネスはユーザー同士のコミュニケーションがコンテンツで、人が多ければ面白いけど、少ないと面白くない。面白くなければ人が集まらない。とても難しいサービスで、最初にイノベーター、アーリーアダプターといわれる層にリーチして、あとはお金をかけてキャッシュポイントを超える。それがこのビジネスモデルの基本だった。ただ、携帯のアーリーアダプターは女子中高生だった。その頃は、携帯のネットって、今でこそスマートフォンが出てきて誰もが使うようになったが、その頃はエンジニアから「あんなのは技術じゃねえ」とさげすまされた[1]

最初はウノウがサイトを設計してくれるという約束だったが、山田に聞くと「誰もやったことないし、作りたがらないんだよ」と。で、結局、國光がウノウのエンジニアを必死で説得して、やってもらうことになった。当時の女子中高生はツイッターなんてまだ知らないから、ユーザーを集めるのは大変だった。それでもエンタメ業界の伝手を使って、映画やドラマとの相互タイアップを仕かけるなどして、少しずつユーザーを増やしていく。そうやってユーザーを増やしながら、コミュニティを作ろう、写真や動画の投稿ができるようにとか、いろんな機能を追加していく。でも、ある時ふと気付いた。「あれ? これってツイッターじゃないな。しょぼいSNSになってる」。何か方向性が違うなと。そんなことを考えていた頃、アメリカで「フェイスブック」がプラットフォームをオープン化。さらに、APIを用意して、口コミができるような仕組みも作ると。「これだ、ツイッターじゃなかったな」と直感する[1]

携帯版のフェイスブックにしよう。余計な機能がたくさんついていたが、これをアプリベースにしていこう。ソーシャルwebの時代が来る、そしてモバイル・ソーシャルWebが時代の中心になることを信じ続けた。そんな中で、ミクシィの1年前の段階で、「gumi」自体をオープン・ソーシャル対応。携帯のSNSでは世界初、業界内騒然だろうと思ったが國光の予想を裏切り、世間は無反応。まだ会員数7万人程度だったので誰もアプリをつくってくれない。仕方なく自社で作り始めた。ミクシィのモバイル版がオープンされた際に、自社制作のクイズ、検定などのソーシャル系アプリを投入した。先行者メリットもあってドンとブレイクした[1]

多くの携帯向けアプリ開発会社はミクシィがオープンした後に始めたが、彼らよりもすでに数年間長い経験、ノウハウ、技術力があった。その後、リクルートホールディングス楽天と一緒に、コミュニケーション系のアプリの開発をやったりしたが、広告モデルでは儲からない。そこでモバゲーがオープン化した2010年(平成22年)1月のタイミングで、ソーシャルゲームの制作に主軸を変えた。ミクシィ、モバゲー上で、ゲームのヒットがいくつか生まれる。グリーとモバゲーの骨肉の争いがあってその後はグリーを主戦場にする。グリーを選んだ理由は、ほかの会社がほぼみんなモバゲー派だった、どっか1社くらいはグリーを選ばないと、と。加えてグリーが熱心に誘ってくれたこともあり、ワンオフゼムになるよりも、信頼のできるパートナーとがっちり組んでやろうと。グリーとの資本提携も受け入れた[1]

gumi退社・ファウンダー

2021年令和3年)7月、gumiを退任。同年8月より株式会社Thirdverse代表取締役CEO、株式会社FiNANCiE代表取締役CEOに就任。同年9月よりgumi cryptos capital Managing Partnerに就任[2]

國光が創業し、株式会社gumi Cryptosが投資を行っているブロックチェーン関連事業「FiNANCiE(フィナンシェ)」運営の株式会社フィナンシェのgumi Cryptosが所有する全株式(全体の4.5%)を、國光へ譲渡。株式譲渡後に國光が株式会社フィナンシェの株式を売却し、売却益が発生した場合には、gumiグループに一定程度の売却益を帰属させる旨の記載がある。國光は現在、数々のブロックチェーンプロジェクトへの投資を行っている株式会社gumi CryptosとVR/XRを手掛けるTokyo XR Startups株式会社の代表取締役社長を務め、ブロックチェーン・暗号通貨・NFT関連へ力を入れていく。gumiは國光へ対し、創業者功労金として1.5億円贈呈した[3]

2022年(令和4年)初の著書『メタバースとWeb3』を出版。「バーチャルファースト」で起こるビジネスチャンスに乗り遅れるないよう、長年VRとブロックチェーンの領域でビジネスを手がけてきた國光独自の視点で世界が注目する次世代Webの基本から、押さえておきたいトピックスを完全網羅。

情報経営イノベーション専門職大学 超客員教授[4]

人物

仕事術

  • 「会社って、いつも順調に成長できるほど甘いものではない。うまくいってはダメになり、そこを乗り越えて大きくなってはまたダメになるという繰り返し。だから失敗するのは、ある意味あたりまえだと思っている。大切なのは、誰よりも早く挑戦して、誰よりも早く失敗して、そして誰よりも早く復活すること。失敗から学んで同じことを繰り返さない。次の挑戦につなげていくこと」[6]
  • 世界一を取れるか取れないか。日本にとって重要なことだと思う。製造業以外の日本企業が、世界の新しいフィールドに打って出て、大成功を収めたケースが一つも見当たらない。今必要なのは、その成功例。野球では野茂英雄がメジャーに行ったから、後進が続いていった。サッカーもワールドカップで16強に入るアジアのサッカー強国になった。しかしビジネスの場合、ナショナルの松下幸之助が、ソニーの盛田昭夫が、と言われても、ピンとこない。そこで日本のベンチャー会社が、もしも世界一を取れたとしたら、多くの若い人たちだって「俺たちも挑戦しよう!」となるはず。そしてそれがどんどん続いていく。「もしかしたら本当に神様が、沈みかけている日本を救うために自分を使っているのかな?」と思い込んでもよいし、何でもカタチから入ることが大切[1]

出演

テレビ

インターネット放送

雑誌

著書

脚注

関連項目

外部リンク