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朝鮮王朝の崇禎紀元は年号から独立しなければならない
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李氏朝鮮では、建国以来明から冊封され、明の元号を使っていたが、[[清]]の侵攻を受けて1637年に降伏し([[三田渡の盟約]])、明に代わって清から冊封を受けることになり、公式的には明の元号は使えないことになった。さらに1644年には明自体が滅び、清が明に代わって中国を支配する事となった。しかし李氏朝鮮では[[尊明排清]]の意識が強く、清を野蛮人扱いして侮蔑し、朝鮮こそが明が滅んだ後の中華の伝統を受け継いでいるのだとする[[小中華思想]]を持つようになった。そのため崇禎紀元という紀年法を作ったのである<ref>{{Cite journal|和書|author=篠原啓方 |title=朝鮮時代の胎室加封碑に関する予備的考察 |journal=東アジア文化交渉研究 |ISSN=1882-7748 |publisher=関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS) |year=2012 |volume=5 |pages=359-370 |url=https://hdl.handle.net/10112/6135}}</ref><ref>[[中純夫]] 「[http://www2.kpu.ac.jp/toshokan/nakaragipdf/nakaragi162.pdf 熱河日記~朝鮮知識人の中国紀行~]」 京都府立大学図書館報なからぎ 162号 2003年1月</ref>。

== 例 ==
*崇禎紀元後八十三年=1710年<ref>[http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/kakez4ko/page/0426.html 金沢大学所蔵/近代教育掛図 0426 文烈公重峯趙先生戦場紀蹟碑拓本 二]</ref>
*崇禎甲申後六十五年=1710年(崇禎17年後の65年)<ref>[https://www.i815.or.kr/upload/kr/magazine/2005/11/20051122.pdf 北関大捷碑的概況和内容 - 独立紀念館]</ref>
*崇禎後再癸丑=1733年(2回目の[[癸丑]]の年)<ref>[http://pds.lib.harvard.edu/pds/view/23023673?n=1 心適堂,松巖,敬勝齋遺稿合編. Harvard University Library PDS]</ref>
*崇禎後百三十八年=1765年<ref>靑巖寺 龍巖禪師塔碑 [http://gimcheon.grandculture.net/Contents/Index?contents_id=GC03201896 디지털김천문화대전 塔碑]</ref>
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== 脚注 ==
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[[Category:朝鮮の紀年法]]

2024年10月2日 (水) 01:10時点における版

崇禎紀元
崇禎紀元を刻んだ碑文
一番左の行の「崇禎三丙戌」(1766年・乾隆31年)が崇禎紀元である。
各種表記
ハングル 숭정기원
漢字 崇禎紀元
発音 スンジョンキウォン
日本語読み: すうていきげん
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崇禎紀元(すうていきげん)は、朝鮮で使われた紀年法で、の最後の元号である崇禎による紀元である。崇禎元年(1628年)から数えて「崇禎紀元後(숭정기원후)何年」または「崇禎後(숭정후)何年」と表す。後述の例のように、年数ではなく、干支と回数を使って表すこともある。

李氏朝鮮では、建国以来明から冊封され、明の元号を使っていたが、の侵攻を受けて1637年に降伏し(三田渡の盟約)、明に代わって清から冊封を受けることになり、公式的には明の元号は使えないことになった。さらに1644年には明自体が滅び、清が明に代わって中国を支配する事となった。しかし李氏朝鮮では尊明排清の意識が強く、清を野蛮人扱いして侮蔑し、朝鮮こそが明が滅んだ後の中華の伝統を受け継いでいるのだとする小中華思想を持つようになった。そのため崇禎紀元という紀年法を作ったのである[1][2]

  • 崇禎紀元後八十三年=1710年[3]
  • 崇禎甲申後六十五年=1710年(崇禎17年後の65年)[4]
  • 崇禎後再癸丑=1733年(2回目の癸丑の年)[5]
  • 崇禎後百三十八年=1765年[6]
  • 崇禎紀元後四乙丑=1865年(4回目の乙丑の年)[7]

脚注

  1. ^ 篠原啓方「朝鮮時代の胎室加封碑に関する予備的考察」『東アジア文化交渉研究』第5巻、関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)、2012年、359-370頁、ISSN 1882-7748 
  2. ^ 中純夫熱河日記~朝鮮知識人の中国紀行~」 京都府立大学図書館報なからぎ 162号 2003年1月
  3. ^ 金沢大学所蔵/近代教育掛図 0426 文烈公重峯趙先生戦場紀蹟碑拓本 二
  4. ^ 北関大捷碑的概況和内容 - 独立紀念館
  5. ^ 心適堂,松巖,敬勝齋遺稿合編. Harvard University Library PDS
  6. ^ 靑巖寺 龍巖禪師塔碑 디지털김천문화대전 塔碑
  7. ^ 金沢大学所蔵/近代教育掛図 0433 有明朝鮮両王子紀蹟碑拓本