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'''李海瑗'''(イ・ヘウォン、[[1919年]] - )は義親王[[李堈]]の二女で[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]の孫娘。生存している[[李氏朝鮮]]の王族子孫の中年長[[李王家]]の歴史に精通している。
'''李海瑗'''('''イ・ヘウォン'''、[[1919年]] -)は[[朝鮮王朝]]の子孫の一人、[[韓国]]皇位請求者。[[大韓帝国]]初代[[皇帝]][[高宗 (朝鮮王)|高宗]]の第五皇子'''義親王[[李堈]]'''と[[側室]]の間に次女として生まれ、現在ところ遺族の中で最年長で[[李王家]]第30代当主である。


==出生と結婚==
[[1919年]]寺洞宮で生まれ鐘路小学校に入学した後に、雲弦宮で暮した。[[1936年]]には[[高校]]を卒業、同年李昇圭と結婚し三男一女を儲けた。夫の昇圭は[[日本]]の[[慶応義塾大学]]卒だったが、[[朝鮮戦争]]中に[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]へ拉致された。[[1992年]][[アメリカ合衆国|アメリカ]]へ移住したが[[2002年]]帰国、現在は[[京畿道]][[河南市]]で次男と暮らしており、[[ソウル特別市|ソウル]][[延喜洞]]の没収された土地17万坪を取り戻そうと訴訟中である。長男は[[ロサンゼルス]]でタクシー運転手を勤め、三男はアメリカへ移住し、娘は未婚で[[江原道]][[江陵市]]で暮していたがすでに逝去。
[[1919年]][[ソウル]]の'''寺洞宮'''に生まれ、''鐘路小学校''に通った後'''雲峴宮'''に暮らした。[[1936年]]''京畿女子高等学校''を卒業し、[[慶応義塾大学]]卒の李昇圭と結婚して三男一女を儲けたが、李昇圭は[[朝鮮戦争]]中に[[北朝鮮]]に拉致されてしまった。


==皇位継承と論難==
==皇位継承==
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李海瑗は[[2006年]][[9月29日]]、[[大韓帝国皇族会]](朝鮮王朝の末裔10人余りで結成された団体)から「'''大韓帝国女皇'''」に推戴され、皇太孫[[李玖]]を後継し[[大韓帝国]]皇室の第30代当主となった。しかし[[2005年]]、[[全州李氏大同宗約院]]常任理事会の議決で義親王李堈の孫[[李源]]が李玖の養子として入籍し、すでに'''皇嗣孫'''の[[称号]]を受けていたことからこの推戴に対し全州李氏大同宗約院をはじめ、[[わが皇室愛の集まり]]、[[大韓皇室再建会]]などの李宋家関連団体はこれを無效として反対の立場を表明している。とりわけ大韓帝国皇族会の事務総長が李鍝の子孫を称したことについて全州李氏大同宗約院と相当のもつれを生じたことや、ここにどんな皇族が所属しているのかが不明瞭なことから、大韓帝国皇族会への疑問が増幅されている。また[[大韓民国|韓国]]内では、義親王李堈の庶女として翁主と称し、[[太宗 (朝鮮王)|太宗]]の子孝寧大君[[李補]]の子孫を[[国務総理 (大韓民国)|総理大臣]]に任命するなど、すでに消滅した皇室の復活運動をするのは時代錯誤であるとこれに反対する世論が起こっている。

==世論==
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==関連項目==
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2007年5月3日 (木) 13:14時点における版

李海瑗
ファイル:Princess haewon.jpg
各種表記
ハングル 이해원
漢字 李海瑗
発音: イ・ヘウォン
ローマ字 I Haewon
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李海瑗イ・ヘウォン1919年 -)は朝鮮王朝の子孫の一人で、韓国皇位請求者。大韓帝国初代皇帝高宗の第五皇子義親王李堈側室の間に次女として生まれ、現在のところ遺族の中で最年長で李王家第30代当主である。

出生と結婚

1919年ソウル寺洞宮に生まれ、鐘路小学校に通った後雲峴宮に暮らした。1936年京畿女子高等学校を卒業し、慶応義塾大学卒の李昇圭と結婚して三男一女を儲けたが、李昇圭は朝鮮戦争中に北朝鮮に拉致されてしまった。

皇位継承

2006年9月29日朝鮮王朝の末裔10人余りで結成された団体大韓帝国皇族会は先代当主李玖の死を受けて皇位継承式を開催し、李海瑗を象徴的な女帝に推戴した。李海瑗は皇位継承式の中で「大韓帝国女皇」を称し、大韓帝国皇室の復活を宣言した。一方、大韓民国政府はこれを黙殺している。

世論

李王家の内部では、全州李氏大同宗約院常任理事会の議決で義親王李堈の孫李源2005年に李玖の養子として入籍し、すでに皇嗣孫称号を受けていたことからこの推戴・李王家当主就任に対し全州李氏大同宗約院をはじめ、わが皇室愛の集まり大韓皇室再建会などの、他の朝鮮王朝の子孫の団体はこれを無效として反対の立場を表明している。また、韓国国内では皇室を韓国文化としてその復活に賛成する立場もあるが、日本の台頭を許した皇室の責任を果たすべきとか、すでに消滅した皇室の復活運動をするのは時代錯誤であるという反対の立場も多い。

関連項目

先代
李玖
李王家当主
第30代当主:2006年-
次代
-