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「ノート:エホバの証人」の版間の差分

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削除された内容 追加された内容
Rigel (会話 | 投稿記録)
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:また''初代教会においてユダヤ人とそれ以外のキリスト教徒がふえてきたため、ユダヤ律法の影響が強いユダヤ人クリスチャンたちをつまずかせないために会議で決定した''と言うのは嘘でしょう。なぜなら、使徒15章29節の禁令は「諸国民(異邦人)の」信者に宛てて書かれています。(使徒15章23節)
:また''初代教会においてユダヤ人とそれ以外のキリスト教徒がふえてきたため、ユダヤ律法の影響が強いユダヤ人クリスチャンたちをつまずかせないために会議で決定した''と言うのは嘘でしょう。なぜなら、使徒15章29節の禁令は「諸国民(異邦人)の」信者に宛てて書かれています。(使徒15章23節)
:脂肪の禁令ですが、これは「ユダヤ人に対し」モーセの律法で述べられている禁令で、今日エホバの証人はこの禁令を守る必要はありません。(ローマ7章6節;ガラテア3章23-25節;ヘブライ10章1-10節)その証拠に、大洪水後、ノアとその家族に対して肉を食物に加えてよいとの許しが与えられた時、脂肪については何も述べられませんでした。(創世記 9章3,4節)使徒15章でも脂肪に関する禁令は述べられていません。[[利用者:125.192.181.21|125.192.181.21]] 2007年6月26日 (火) 09:29 (UTC)
:脂肪の禁令ですが、これは「ユダヤ人に対し」モーセの律法で述べられている禁令で、今日エホバの証人はこの禁令を守る必要はありません。(ローマ7章6節;ガラテア3章23-25節;ヘブライ10章1-10節)その証拠に、大洪水後、ノアとその家族に対して肉を食物に加えてよいとの許しが与えられた時、脂肪については何も述べられませんでした。(創世記 9章3,4節)使徒15章でも脂肪に関する禁令は述べられていません。[[利用者:125.192.181.21|125.192.181.21]] 2007年6月26日 (火) 09:29 (UTC)

今日は仕事をしながら、この内容について考えを巡らせていました。上のように提案したものの、「輸血拒否」は刺激が強すぎるように感じたからです。それを緩和するためには「兵役拒否」も併記したほうが良いかな?とは考えていたのですが、取り除いても良いのであれば取り除くことにしましょうか。

もう一点、[[使徒信条]]についてですが、ここから三位一体の概念を連想することは私にはできませんでした。「内容」の節には「''一方で三位一体はまだ定式化されていない。''」とあるので、これは私の勘違いというわけでもなさそうです。「日本語(口語)」の部分から引っかかる表現を挙げても、「十字架」、「陰府」、「普遍」の3つの単語くらいなのですが、「普遍」は別にしても、「十字架」を「杭」に、「陰府」を「ハデス」にそれぞれ置き換えれば、受け入れ難いというほどの内容でもないように感じます。従って、三位一体とは別の意味で証人が退ける、ということであればその(三位一体以外の)理由を加えて解説するべきですし、そうでないのなら取り除く必要がありそうです。

なお、"''「過去には新世界訳はなかったが、現在は新世界訳があるのでもっとも適した訳としてエホバの証人が用いている」という単純な事実を述べたというだけのことです。''"とのことですが、実際には新世界訳を用いる機会が多いだけのことです。理由は単純で、『ものみの塔』の研究記事が新世界訳からの引用が多いのと、簡単に入手できることによるのでしょう(しかも無料で。私の近所の田舎の小さな本屋では「新約聖書、詩篇付き」くらいしか手に入りません)。また、実情もそれほど単純なものではなく、Siyajkak さんのおっしゃるとおり、新世界訳に対する批判本というのはそこかしこに溢れ返っています。そしてそれを根拠として人々は言います、曰く「改竄聖書である」と。さらに続けて「自らの教理を証明したいがために改竄聖書を作成した」とも言うのです。こうした現実をふまえて現在の文面を読み解くと、やれ「マインドコントロール」だ何だと騒ぐ人たちの主張を裏付ける内容であるかの如く、… 後はご想像にお任せ致します。

125.192.181.21さんによる「''キリスト教系新興宗教と言う表現は明確にPOVですね。なぜなら、ものみの塔協会自体自分たちがキリスト教だと言っているのですから。''」とのご発言ですが、協会の主張のみ取り入れることこそPOV(Point of view:全体像の一部分)なのである、という点をまずご理解下さい。「エホバの証人」の定義は、歴史家や批評家など、いわゆる「協会の部外者」によるものも存在するはずなのですから。さて、前半の「キリスト教系」との表記ですが、実はこの表記に対する議論が過去にあり、[[ノート:エホバの証人/archive3]]にある Tomos さんによるまとめによれば、表記を「キリスト教」とするか「キリスト教系」とするかについての議論は決着していないようです。「~系」と表記した場合、生まれる差異というのはせいぜい直系と傍系の違いでしょう。「キリスト教系」とした場合に「キリスト教」ではなくなってしまうのか?。最初はそんなことはないはずだと考えていたのですが、考えているうちに分からなくなってきました。今週末までには何らかの回答をしたいと思いますので、しばしご猶予を…。後半の「新興宗教」ですが、[[新宗教|実際の記事]]には「''西洋では19世紀末以降のものを言う場合が多い。''」とあり、一般論として、たまたまこれに当てはまるだけのことなのです。少なくともこちらはNPOVであると言えるしょう。

125.192.181.21さんにはお願いがあり、議論に参加するにあたって、まずは他者の発言をよく読んでください。『行間逐語訳』の説明のように、一旦収束した議論を繰り返し主張されると、議論が停滞しかねません。また、ノートは記事を改善するためのものであって、主義主張を喧伝する場ではありません。従って、教理の解釈がどうこうという話題は本来行うべきではないのです。この点、どうかご協力お願い致します。[[利用者:Rigel|Rigel]] 2007年6月26日 (火) 12:23 (UTC)


==見解の相違をなぜ記述するか==
==見解の相違をなぜ記述するか==

2007年6月26日 (火) 12:23時点における版

この項目は特定の版の削除が行われています。削除に関する議論はノート:エホバの証人/削除をご覧ください。

外部リンク

WP:ELを根拠として公式サイト以外のリンクを全て削除されている方がいらっしゃいますが、WP:ELは公式サイト以外へのリンクを禁じるガイドラインではないはずです。むしろ中立的な観点から、公式サイト以外のリンクも掲載すべきです。 Ôtsuka 2007年3月29日 (木) 19:44 (UTC)[返信]

中立であるなら問題ないと思います。しかし、何も知らない人が閲覧した場合に事実と異なることが掲載されているとどうでしょうか。WP:ELの「中立的観点、検証可能性、独自の研究を載せない」という文言に抵触すると考えます。例えば、鞭の使い方にしても、教理を誤ってとらえた一部の信者が子供を虐待したとのことで訴えられたことも過去にはきっとあるでしょう。しかし、それは実際あったこととして載せるのは問題ありませんが、それが教理であり道であるかのように記載するのは問題だと思います。外部リンクにはそのようなものでいっぱいです。ですから、外部リンクも内容を確認し掲載しすべきだと思います。現状では、イメージダウンもしくアップするためにウソ偽りだらけのサイトを作り、外部リンクとして掲載することも容易な状況です。誰が、正しい観点から外部リンクを選別することができるのでしょうか? Memphis19 2007年4月4日 (水) 20:34 (UTC)[返信]

もちろん一部の信者による適応が間違っていた事件もあるとは思いますが、そういった事が全くの作り話でなければ、記録としてユーザーが調べられるようにしておくのは社会的責任だとおもいます。以上の署名の無いコメントは、76.167.232.172会話/whois)氏が[2007年4月14日 (土) 05:31(UTC)]に投稿したものです。

反論・批評サイトを外部リンクに載せることは間違いではないと思います。ただ、反論・批評サイトを一番上に掲載するのは、ユーザーの誤解を招くのでやめて欲しいと思います。125.196.96.168 2007年6月8日 (金) 03:35 (UTC)[返信]

慈善活動に関する記述

阪神大震災時における慈善活動の記述がありましたが、とりあえずコメントアウトしました。事実の可能性はあるので削除はしていません。日本のキリスト教会もおこなっていることであり、エホバの証人だけがおこなっているわけではありませんのであえて書くことに疑問を感じます。信者よりの記述が書き込まれるのに非常にストレスと怒りさえ感じますが、徳を建てることにはならないのでがまんしています。わたしは、アメリカにおける信教の自由を獲得した裁判(バーネット判決)とか、戦前の日本における灯台社の弾圧にたいする抵抗については評価していますので、がまんしていますが編集合戦を誘発しかねないことが繰り返されるなら対処を考えます。Siyajkak 2007年6月19日 (火) 16:55 (UTC)[返信]
なお、Memphis19氏が「一切行なわない」を「行なうことはない」と訂正した部分は、「一切」というのが強い表現であるため、訂正に同意するのでrvしないでそのままにしてあります。Siyajkak 2007年6月19日 (火) 17:11 (UTC)[返信]

POV記事について

「ブルックリンの本部の「統治体」や日本支部で和訳された印刷物は絶対であり、信者は教理問答(カテキズム)の徹底した訓練を受け」ている、と言うくだりは事実無根であり、削除を求めます。125.196.96.168 2007年6月20日 (水) 14:40 (UTC)[返信]

印刷物が絶対でないなら何を基準にしているのですか?教理問答の訓練を受けていないならどうやって家庭訪問して相手を説得するのですか。たまたま教団内部での言い方が違うだけでれっきとした事実です。Siyajkak 2007年6月20日 (水) 15:00 (UTC)[返信]
「聖書」を絶対基準としています。宣教訓練学校と言う学校で教わっております。教理問答などはしておりません。125.196.96.168 2007年6月20日 (水) 15:04 (UTC)[返信]

じゃあ新世界訳聖書を絶対基準とし、宣教訓練学校で家庭訪問して相手を説得し論破するための教理問答を訓練していることを認めるわけですね。「統治体」や日本支部で和訳された印刷物は絶対でないならあなた方の信仰の根拠がなくなってしまいますが...。Siyajkak 2007年6月20日 (水) 15:10 (UTC)[返信]

あの・・・慣習の項目は読まれていますか?125.196.96.168 2007年6月21日 (木) 00:32 (UTC)[返信]

う~ん、
>新世界訳聖書を絶対基準とし、宣教訓練学校で家庭訪問して相手を説得し論破するための教理問答を訓練していることを認めるわけですね。

この返事はどうなったでしょうか?認めますと答えられれば正直ですばらしいと期待しているのですが...

わたしが聞きたいのは実態がどうかということです。教団が何を言っているか(多少の参考にはなりますが)、あなたがたが何を「慣習」として取り扱っているかではありません。あなたがたの「教理問答」(このことばを使わないということだけはわかりました。)にあたるものや訓練の実態が結果として「家庭訪問して相手を説得し論破するための」ものであれば事実なのですから。あなたの主観や、教団の表向きの説明で認めていなくても実態がそうであれば間違いではありません。別に誹謗中傷しているわけではないのですから恥ずかしがったりして消すことはなく、事実を事実と認めればいいことなのですが...wikipediaは布教や宣伝の場ではないので、POVは教団に必ずしも有利なことではないことをご自覚いただきたいのですがSiyajkak 2007年6月21日 (木) 09:48 (UTC)[返信]

↑いずれにしても、記事を保護ページにして、強制的に自分の見解を通すと言うやり方は、管理人の権限乱用ですな。断固抗議します。別に戸別宣教はあなたの言うように「家庭訪問して相手を説得し論破する」ことは目的とはしていませんよ。それはあなたの偏見でしょ。事実ではありません。あなたが「教理問答」にこだわる理由が知りたいですな。125.196.96.168 2007年6月21日 (木) 13:01 (UTC)[返信]

論理をすりかえているだけで、私の質問に答えていませんが。この記事の編集要約欄に誤操作してしまったり、あなたの利用者ページに誤ってかきこんだ(これについてはおわびしますが)ように、保護テンプレを保護依頼テンプレと誤って投稿したに過ぎないのですが...。わたしは、実態がどうかきいているだけで、自分の意見を通そうとか教理問答にこだわってなんていませんが。「統治体」や日本支部で和訳された印刷物のことも含めて実態として絶対であることを確認したいのですが、予想した通りで残念ですがお答えにいただけないようです。それに管理人ママだったらあなたがもし多重アカウントやソックパペットで投稿しているならそれもわかっているはずなので、それを承知の上で書き込んだほうがいいと思いますよ。Siyajkak 2007年6月21日 (木) 16:15 (UTC)[返信]

ブルックリンの本部の「統治体」や日本支部で和訳された印刷物は絶対であり、信者は教理問答(カテキズム)の徹底した訓練を受け」と言う記述の、具体的な証拠を挙げていただけなければ、こちらも反証しようがありませんが。多重アカウント云々は濡れ衣です。125.195.29.225 2007年6月22日 (金) 02:14 (UTC)[返信]

いろいろ準備していたのですが、紳士的で建設的なお返事をいただいたことを拝見し、ちょっと後悔しています。違うIPになっちゃってますし、多重アカウント云々の話はきりがなくなるのでおっしゃるようにやめましょう。不快な想いをさせたことに対しお詫びします。 話し合いが建設的に進められる方向へもってきていただいていることに敬意を表します。

ところで、お尋ねの件ですが、わたしは、繰り返し実態をおききしたいと申し上げているように、実態を知りたいのは私のほうなので議論が堂々巡りになってしまっているのです。ようするにエホバの証人を教団外から客観的中立的に誹謗中傷なしにみたらそのように見えると言うだけのことなので、実態を正直にお話いただければいいだけのことなのですが、話をしていて発想の仕方とか言葉の表現の仕方とかが違うので話がいつまでもかみ合わないのです。つまりお互いに日本語を使っているのに外国人と話しているような翻訳が必要な変な感じです。教理問答についてもキリスト教史を振り返れば普通に「ウェストミンスター小教理問答」とか歴史的な教理問答が多数あります。ですから教理問答と言う言葉が決して悪意のある言葉ではないことはご理解ください。むしろ一般的なキリスト教会では、教理問答をしっかりやっていること自体は評価すべきことと考えられています。

実は、「教団内ではこう認識されているが教団外からはこう認識されている」という文を作ってみましたが、125.195.29.225さんが読んだ場合、その落差にショックを受け不快な想いをさせることになるので控えてきました。教団外からの見方はいくら不快でもPOVを振りかざしても教団外の方の認識ですから直しようがありません。125.195.29.225さんさえ良ければ比較してもいいのですが、「新世界訳聖書を絶対基準とし、宣教訓練学校で家庭訪問して相手を説得し論破するための教理問答を訓練している」よりももっと不快で情け容赦ない表現が文中に入ってくることになり怒り狂ってもおかしくないし、仮に125.195.29.225さんががまんできても再び編集合戦を誘発しかねないため、「ブルックリンの本部の「統治体」や日本支部で和訳された印刷物は絶対であり、信者は教理問答(カテキズム)の徹底した訓練を受け」は、最低限のラインなのです。せいぜい「教理問答」を「何々(一種の教理問答)」と言い換えるくらいが落としどころかなと感じています。Siyajkak 2007年6月22日 (金) 11:51 (UTC)[返信]

多重アカウントについて:私は無線LANを使っているので、LAN機によりIPが作成されています。それで、IPが自動変更されているようです。別に悪意はないのでご容赦を。
「新世界訳聖書を絶対基準としている」と言う点は間違いないようです。「宣教訓練学校で家庭訪問して相手を説得し論破するための教理問答を訓練している」と言う点ですが、確かにエホバの証人でない人の中にはそう考えておられる方がいるようです。
エホバの証人が家々を訪問するのはいわゆる「論破」や「改宗」が目的ではなく、あくまで「神と隣人への愛」に基づいています。(マタイ 22:36-40)神がイエスを通して与えられた命令は「良いたよりをまず宣べ伝える」ことでした。(マルコ 13:10)このおきてを守ることが神への愛だと聖書は説いています。(ヨハネ第一 5:3)神のご意思はあらゆる人が救われて、真理の正確な知識にいたることでした。(テモテ第二 2:4)「宣べ伝える者がいなければ」、聞くことはできません。(ローマ10:14)
エホバの証人はこの活動には人の命が懸かっていると考えています。望む者は命の水を価なくして受けますが(啓示22:17)、神の記憶にない者は永遠の滅びを被るからです。(啓示 20:15)
また、エホバの証人には良いたよりを宣明する必要が課せられています。(コリント第一 9:16)そうしなければ、証言しなかった相手の「血の罪」を負うことになります。(エゼキエル 3:17-21)
ですから、エホバの証人は論破などをやる必要はないのです。目的は「音信」を伝えることです。
さらに気になったのですが、「エホバの証人の見解は~」、「部外者の見解は~」と言っておられますが、そもそもWikipediaは「百科事典」だと言うことをご理解いただいているのでしょうか?百科事典は見解を書くところではないと思いますが、いかがでしょう?125.195.29.225 2007年6月22日 (金) 13:49 (UTC)[返信]
Wikipediaは何ではないか参照。

>「新世界訳聖書を絶対基準としている」と言う点は間違いないようです。

あなたの発言からは、あなたがエホバの証人のようにも、そうでないようにも見えるのですが、いったいどちらなのでしょう?。そんな事実はどこにもありませんよ?(理由については下の方の説明を参照してください)。

Siyajkak さんは管理者ではありません(特別:Listusersにてグループを「管理者」に指定すると吉)。まぁ、それはそれでおいといて、家庭訪問の目的は説得ではありません。一般に「証言」と呼ばれるこうした活動は、マタイ24章14節、他類似の聖句に示される預言を成就するための活動です。

そして,王国のこの良いたよりは,
 あらゆる国民に対する証しのために,
  人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。
   それから終わりが来るのです。 - マタイ24章14節(新世界訳)

イザヤ6章8節から12節もこれにやや似ていますが、イザヤの預言がイエスの時代に成就した(マタイ13:14-15参照)のに対し、マタイの聖句はイエス自身が語った「臨在(再臨)のしるし」(マタイ24:3)のうちの一つ、つまりはさらに将来の出来事であるという違いがあります。

で、エホバの証人というのは、こうした未だ成就したとはいえない預言のうちの幾つかを、単なる「将来成就するであろう出来事の説明」であるとは考えず、「自分達で成就させるべき預言」であると捉えます。ですから、イザヤ2章の「剣をすきの刃に…」を今日に当てはめた結果、兵役拒否や武道の授業を拒否することに繋がり、ローマ10章13-15節等を根拠に上記のマタイの聖句を今日に当てはめた結果、宣教に勤しむことに繋がるのです。

ところで、上記の Siyajkak さんの説明によれば、「説得」するためには「教理問答の訓練」が必要であるとのことですが、目的は「説得」ではありませんので「教理問答の訓練」というのは必要不可欠ではないようです。「教理問答」に該当しそうなものですぐに思いつくのは、初めて伝道者になる際、その資格があるかどうかを確かめるための一連の質問あたりです。伝道者の資格云々について知識を試されるのは、「訪問先で誤った証言をしないために」という理由だったと思うのですが、これがいわゆる「教理問答」なのでしょうか?。もしそうだとしても、たった一度きりですので「訓練」とは呼べないでしょう。また、「神権宣教学校」における訓練とは会話技術の訓練であって、教理の訓練ではありません(例として、「し」の音は語尾がかすれる傾向があるので発音の際には注意すべし、など)。そこでは、男性信者は公演者となるための訓練を受け、女性信者は様々な場面を想定しての証言シミュレーションを行うのですが、どちらも筋書きなどが用意されているわけではなく、実際に扱われる内容は、割り当てを受けた者による創作です。

そういった意味では、むしろ「ものみの塔研究」や「書籍研究」の方が「教理問答」に近いのでしょうけれども、これらの書籍は一般配布されていますし、内容も「教理」に留まらず多岐に及んでいるはずです。ですので実際に「教理問答」に該当しそうなのは「家庭聖書研究」のみになりますが、これが行われるのはバプテスマまでであり、「教理問答の訓練」と称する繰り返し受ける訓練とは違う気がします。教理を教わるのは研究生である期間のみであり、その後は知識を取り入れることよりもむしろ教理の実践こそが求められます(つまりは教理を深く学ぶことよりも宣教に赴くことが尊ばれる)。ですから、基礎的な知識から一歩進んでさらに深い教理を学ぶには、「ものみの塔研究」等で扱われるのを待つか、個人研究によって知識を増し加えるかの2つしかありません。それを裏付けるように、「バプテスマ以降のその人の成長は、その人自身の努力にかかっている」というような説明もあちらこちらに存在するはずです。

また、「繰り返し」というのは、「カルト」←「マインドコントロール」←「繰り返し」、という事柄から頭が離れない人たちによって量産された妄想の産物に過ぎませんので、情報源をきちんと選んだ方がよろしいかと(まぁ、それに限らず「絶対」などの強い表現からも、その出典の種類がどんなものか明白なのですが…)。Rigel 2007年6月22日 (金) 14:36 (UTC)[返信]

信徒自身しか知らないような内部事情までは知りませんので、教理問答の定義がどうしてもあいまいになってしまいます。わたしがイメージしているのは、Rigelさんがおっしゃる「ものみの塔研究」や「書籍研究」、「家庭聖書研究」、「「神権宣教学校」における訓練」、「様々な場面を想定しての証言シミュレーション」をひっくるめた概念と言い換えることができるかもしれません。その意味で表現が不適当だったことを認めることはやぶさかではありません。詳細で正確な情報が記述されたほうが良いので「教理問答の訓練」については取り下げますので、適切な表現にあらためていいただければと思います。お手数おかけしました。
ただし、
>妄想の産物に過ぎませんので、情報源をきちんと選んだ方がよろしいかと(まぁ、それに限らず「絶対」などの強い表現からも、その出典の種類がどんなものか明白なのですが…)
これについては、ご自分がいやだと思ったら信用できない情報源だという言い方だけはやめていただきたいです。Siyajkak 2007年6月23日 (土) 08:56 (UTC)[返信]

あ、それから、「その出典の種類がどんなものか明白」と言い出したのはあなたのほうなので、その点ご承知ください。Siyajkak 2007年6月23日 (土) 10:34 (UTC)[返信]

私個人の見解としてはRigelさんの仰るとおりだと思います。別に「宣教で新世界訳のみを使え」、と言うものみの塔協会からの指示はなかったような気がしますね。私自身も新世界訳以外の聖書を宣教で用いることもあります。ただ、「聖書を規準としている」と書くとPOVになりそうな気がしたので、「新世界訳聖書を規準としている」で妥協したまでのことです。(100%うそではないので)宣教が「教理問答」に当たらないのはいうまでもないことだと思います。いずれにしてもWikipediaというのは百科事典なので事実を書く所であって、個人の見解を書く所ではないのではないか、というのが持論です。125.195.29.225 2007年6月23日 (土) 00:33 (UTC)[返信]

冒頭部分の代案について

補足説明(記述すべきかどうか迷った部分なのですが…):

  • 原典では、王国行間逐語訳聖書、日本語訳では、現在新世界訳聖書を最も適した翻訳とし
    実際のところ、そうした事実はありません(要出典)。というか『王国行間逐語訳』はあくまで「逐語訳」であり、原典ではないと思う。
  • ニカイア・コンスタンティノポリス信条や使徒信条、三位一体が聖書の教理と矛盾していると信じている
    「三位一体」については「聖書の教理と矛盾していると信じている」と言えますが、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条や使徒信条」については、その内容が具体的にはどのようなものであるかを知っている信者は皆無に等しく、「矛盾していると信じている」という事実は無いでしょう(最初はまともな文章だったようですが、版を重ねるうちに奇怪な文章に変貌してしまったようです)。
  • いわゆるブルックリンの本部の「統治体」や日本支部で和訳された印刷物は絶対であり
    カルト論者の主張そのままで事実無根(よって当然ながらPOV)。これが事実であるというならば、協会の発行した「印刷物」も引用しながら、その事実を証明する必要があるでしょう(要出典)。
  • 信者は教理問答(カテキズム)の徹底した訓練を受け
    上記の Siyajkak さんの説明から悪意に基づいた編集ではないことは理解しましたが、「徹底した」とのフレーズは不要でしょう。「印刷物は絶対であり…徹底した訓練を受け」という文脈による説明は、カルト論者のそれと瓜二つなのです。

Siyajkak さんにとっては耳の痛い内容かもしれませんが、現在の文面からはこのような印象を受けます。「否定的な記述をする際には注意深くあるべし」、というのは編集における基本の一つであったと思うのですが、これだけ事実無根の事柄が並べられていると、とてもではありませんがそうしたルールを考慮しているようには見えないのです。上記で指摘した問題のある記述をすべて取り除くと、残されるのは意味不明な文章でしかないので、冒頭の定義部分はSiyajkak さんの編集される前の版の内容に戻すことを提案致します。その上で定義の最後に「三位一体の教理を退けるため、伝統的キリスト教徒からは異端視される事が多い。」との一文を付け加えれば定義としては事足りると思うのですがいかがでしょう?。三位一体の教理を退けることがなぜ異端視されることに繋がるのかは、あちらの記事を読めば理解できるでしょうから。Rigel 2007年6月23日 (土) 14:43 (UTC)[返信]


大変申し訳ありませんが、わたしの編集する以前の版の冒頭の記述

>ヘブライ語聖書(旧約聖書)をギリシャ語聖書(新約聖書)と同列に扱い原典を字義どおり忠実に解釈しようとする、米国に特徴的なキリスト教の原理主義的性格をもつ新興宗教。信者は多かれ少なかれほぼ全世界で活動している。

は不正確なので戻すことはできません。

理由は、教団としてのエホバの証人、「ものみの塔聖書冊子協会」は、チャールズ・ラッセルが1870年代はじめごろにピッツバーグ市ではじめた聖書研究会が起源で、1879年に「ものみの塔」誌の前身となる定期刊行物を発行し、その聖書研究会が1881年に「シオンものみの塔冊子協会」となり、1884年に法人化されたのがはじまりです。キリスト教根本主義が一種の社会現象となるくらいに台頭してきたのは、レーガン政権誕生前後で、100年近く遅れており、一緒に論じるのは文脈上歴史認識として誤りであることがなぜお分かりいただけないのか不思議でなりません。なぜレーガンかというと、南部バプテスト連盟に属していた福音派左派ジミー・カーターホワイトハウス入りしたことに象徴されるように、1976年が、「エヴァンジェリカルの年」といわれたものの、キリスト教根本主義者は、大多数が共和党支持であり本格的な台頭がエポックメイキング的に注目されたのは、レーガン政権以降なのは良く知られているところではないでしょうか?(まさか、ここでソースはなんて言わないでしょうね?これは常識の範疇です。)

それから、「原典を字義通りに」というのは、証人たちがそう主観的に思い込んでいるだけで、キリスト教会の側はそう見ていません。POVな記述です。ですから王国行間逐語訳としました。しかし、実は非常に迷いました。Rigelさんのご指摘のとおりで「逐語訳」であって、原典といえるのかというのはたしかにそのとおりだからです。しかし、通常のキリスト教会が原典として同じものを使っていると誤解されてしまうこと、王国行間逐語訳なり新世界訳について膨大な細かい点(原典に忠実と言うことならばそれについて当然細かくなる)についてキリスト教会の側から反論する出版物が多数でていることからはっきりさせたほうがよいと思って迷いながらも原典扱いとしました。通常のキリスト教会は、原典そのものか、ほかの訳の行間逐語訳(インターリニアー)を用いています。ただし、混乱を招く記述であるのも確かであることは認めます。

「ギリシャ語聖書」を記述するならRigelさんがご指摘のとおり、「クリスチャン・ギリシャ語聖書」とするのが良いと思います。そういわないと、新約聖書はギリシャ語でかかれているので、なんのことやらさっぱりわかりません。ヘブライ語聖書も特殊な呼び名があったら訂正したほうがいいと思います(ちょっと調べましたがわかりませんでした。)

それから、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条や使徒信条、三位一体が聖書の教理と矛盾していると信じている」 ですが、これは証人がたまたま知らされていないと言うだけのことで、事実無根と言うことはないでしょう。キリスト教会と「ものみの塔聖書冊子協会」を区別する重要な相違点です。

Rigelさん、あなたは、「「絶対」などの強い表現」はおかしい、「「徹底した」というフレーズは不要」、といいながら、あなた自身が「事実はありません。」との強い表現を使い、私に対して「事実無根」、「カルト論者そのもの」、「その出典の種類がどんなものか明白」とか、耳が痛いとかさかんに決め付けているではないですか?わたしはカルトではありません。あなたが出典の種類は明白といいだしたのだから何を読んでいるか挙げられるでしょう。

ただ、そうしたら、あなたが恥をかくだけですし、「現在の記事へのコメント」のような建設的な話ができる方だとおもうので、わたし自身も現時点ではそのようなことは望みません。ただし、あまりしつこいようだと出典の種類は明白と決め付けたことに対し釈明ないしお詫びしていただくことになります。

批判だけして、代案を提示しないのは無責任とおもわれるので、代案を提示します。

現在新世界訳聖書を最も適した翻訳とし、英訳の新世界訳聖書を底本として各国語訳の聖書が刊行されている。しかし、時に理解しづらい表現がある場合などは、ジェームズ王欽定訳アメリカ標準訳など他の翻訳聖書、またカトリック百科事典等も参考にすることがある。ニカイア・コンスタンティノポリス信条使徒信条三位一体が聖書の教理と矛盾していると信じている。信者はほぼ全世界で活動している。

又は、おっしゃる記述を参考にして、

現在新世界訳聖書を最も適した翻訳とし、日本語訳を含め各国語訳は英訳の新世界訳聖書を底本としている。しかし、時に理解しづらい表現がある場合などは、ジェームズ王欽定訳アメリカ標準訳など他の翻訳聖書、またカトリック百科事典等も参考にすることがある。三位一体の教理を退けるため、伝統的キリスト教徒からは異端視される事が多い。

Siyajkak 2007年6月24日 (日) 10:39 (UTC)[返信]

私はそこまで博識なわけではありませんので、上で説明された内容の真偽はほとんど分かりません(ただし、言わんとしている事柄は理解したつもりです)。以下個別に解説します。
  • ヘブライ語聖書(旧約聖書)をギリシャ語聖書(新約聖書)と同列に扱い
    私としても、「同列に扱い」というのは変な表現だな~とは思うのですが、版を戻すことを提案した理由というのは、現在の版よりも編集合戦を呼び込む可能性が小さい、という理由によります(それくらい現在の定義は酷い内容に写る、ということです)。もっと正確に表現するならば、旧約・新約、どちらも「神の言葉」であり、新約の正しい理解のためには旧約の正しい理解が不可欠であると考える、といった感じになるでしょう(ただし、それはキリスト教のどの教派でも同じかと思われます。少なくとも名目上は)。雑誌や書籍中では、ユダヤ教文書を引用しての解説がなされることもあるくらいです。一例を挙げると、『ものみの塔』97年12月1日号20ページでは、マタイ18章21節(人の違反を何度まで許すべきか)の説明として、タルムードのヨマー86bを引用して、3度目までは許し4度目は許さない、というのが当時の一般的な慣習であったことを説明しています。
  • 原典を字義どおり忠実に解釈しようとする
    私がこの部分から受ける印象はちょっと異なりまして、続く「解釈しようとする」との部分から、ちょっと揶揄が入っているかな?と感じます(輸血拒否など)。従って、別にこの部分を取り除くことに異議を唱えるつもりはありません。そうそう、少なくとも「忠実」のフレーズは不要でしょう。
  • 米国に特徴的なキリスト教の原理主義的性格をもつ新興宗教
    この部分についても受ける印象が異なりまして、「原理主義」ではなく「原理主義的性格」ですから、それほど表現にこだわる必要性というものを感じなかったのですが…。まあ、この部分を取り除くことにも異議を唱えるものではありません。むしろ、こうした表現を用いたいのは「新興宗教」の文字をどうしても入れたい反対者たちでしょうから(「原理主義的性格をもつ」との語句はそのための前振りに過ぎないようにも感じます)。
  • 現在新世界訳聖書を最も適した翻訳とし
    何度も言うように、「最も適した翻訳とし」というのは事実とは異なります。雑誌等で、新世界訳のことを「優れている」と紹介することは多々あります。が、それはきちんと理由を示した上で紹介しているに過ぎません。一例として、『ものみの塔』95年4月15日号32ページ(裏表紙)の概略を示すと、ラケル・テン・ケイト博士(古典ギリシャ語学者)の言として、ルカ福音書2章に出現するイエスの成長過程を表す「ブレフォス、パイディオン、パイス」という3つの単語、これを正確に訳し分けているオランダ語の翻訳聖書は、彼女(?聖書の「ラケル」は女性なので)の知る限り「存在しない」とのこと、後にオランダ語の新世界訳を見せられた博士は、新世界訳が正確に訳し分けていることに驚きを示した、との内容となっています。そして、「時に理解しづらい表現がある場合などは」というのも事実ではなく、様々な聖書を比較検討することは「聖書のより深い理解に繋がる」が故に、むしろ積極的に勧められているのです。なお、テン・ケイト博士の発言に関する記事(95年)ですが、そこには新世界訳が「12の言語」で入手可能とあり、現在の記事中にある「53の言語」とは大きな差があります。つまり、元々全ての言語で『新世界訳』が入手できたわけではなく、順次翻訳されていったのが実情です。ですから過去においては「新世界訳聖書を最も適した翻訳とし」というのは完全な誤りです(12の言語程度では、良くて地域POVでしょう)。では現在は?というと、「現在新世界訳聖書を最も適した翻訳とし」とすれば、一見正しそうにも見えますが、過去においては違ったのに現在はそうであるならば、その途中で何らかの変化が起こったとしか考えられません。「最も適した翻訳とし」という表現からは、エホバの証人の新世界訳に対する見解が示唆されるのですが、エホバの証人が新世界訳に対する見方を変えたのでしょうか?。であるならば、その見方を変えざるを得ないような出来事が起こったのでしょう。それは雑誌でなされたのかもしれませんし、あるいは大会での発表であるかもしれません。つまり、それが本当に事実であるならば、その事実を示す何らかの証拠が存在するはずであり、これが先に出典を求めた理由です。現在は確かに、ほとんどのエホバの証人が自分の言語の新世界訳を入手することが可能となりました。しかしそれは、単に状況が変わっただけであり、見解の変化ではないでしょう。見解の変化でないのなら、「現在」との表現はそもそも不要のはずですので…。つまり私が言いたいのはそういうことなのです。なお、勘違いしてほしくない点なのですが、主要な教理と呼べるものは新世界訳が作成される遥か昔からすでに存在していた、ということです。
ついでですので解説しておきます。『王国行間逐語訳聖書』とはどのようなものか、具体的にはご存じないと思いますので説明しますと、底本には1948年に再版された、「ウェストコットとホートによって校訂されたギリシャ語本文」を使用し、ギリシャ語と英語を行単位で交互に記述しています。そしてそのギリシャ語の単語には、一字一句に対応する英単語が示されています。もちろんこれだけでは単なる英単語の羅列に過ぎないため、あまり役に立つものとはいえませんが、その横にはきちんとした英文が載せられています。何を隠そう、この英文は『新世界訳』そのものなのです(もちろん、羅列された英単語と英文が全く同一であるというわけではなく、文章化するにあたっての単語の置き換えもなされています)。つまり、『王国行間逐語訳』に対する反論と『新世界訳』に対する反論とは実質的に同じものであると考えた方が良いです。もとより、伝統的キリスト教徒によるエホバの証人に対する反感というのは自明の事柄なので、批判本の多さというのは別に驚くことでもなんでもありません。
本題に戻って、↓こんな感じでどうでしょう?。
エホバの証人とは、輸血拒否に代表されるように、聖書の字句を字義どおりに解釈しようとすることで知られる、キリスト教系新興宗教。信者は多かれ少なかれほぼ全世界で活動し、宣教に熱心であることでも知られる。三位一体の教理を退けるため、ニカイア・コンスタンティノポリス信条や使徒信条に従っていないとして、伝統的キリスト教徒からは異端視される事多い。
「~信条」について具体的に知っているわけではないので日本語的に間違っているかもしれませんし、全ての聖句を「字義どおりに解釈しようとする」のではなく、比喩は比喩として退けるので、そのあたりのツッコミを入れられる可能性はありますが…。ちなみに、「クリスチャン・ギリシャ語聖書」の件ですが、私は修正ではなく、「教理ではない→不要→撤去するのが妥当」ということを主張しています。Rigel 2007年6月25日 (月) 12:16 (UTC)[返信]

>過去においては違ったのに現在はそうであるならば、その途中で何らかの変化が起こったとしか考えられません。「最も適した翻訳とし」という表現からは、エホバの証人の新世界訳に対する見解が示唆されるのですが、エホバの証人が新世界訳に対する見方を変えたのでしょうか?。であるならば、その見方を変えざるを得ないような出来事が起こったのでしょう。

>それが本当に事実であるならば、その事実を示す何らかの証拠が存在するはずであり、これが先に出典を求めた理由です。現在は確かに、ほとんどのエホバの証人が自分の言語の新世界訳を入手することが可能となりました。しかしそれは、単に状況が変わっただけであり、見解の変化ではないでしょう。

う~ん、これはRigelさんが教理や見解の変化と新世界訳をご自身で関連付けてお考えになっているだけで、わたしは、「過去には新世界訳はなかったが、現在は新世界訳があるのでもっとも適した訳としてエホバの証人が用いている」という単純な事実を述べたというだけのことです。ですから、なぜ出典が必要とおっしゃるのか理解に苦しみました。

それから輸血拒否ですが、これはレビ記17章と使徒行伝15章の解釈からきていますが、レビ記17章11,12節には、確かに「肉のいのちは血の中にあるからである。」(注1)「だれも血を食べてはならない。」(注2)と書いてありますが、レビ記3章17節には「脂肪も血もいっさい食べてはならない。」(注3)とあり、7章22~27には、「脂肪をいっさい食べてはならない。」(注4)「主にささげる動物の脂肪を食べる者、これを食べる者は、その民から断ち切られるからである。」(注5)と血とともに脂肪を食べてはならないとあります。それから少なくとも、過ぎ越しの祭りの際の子羊以外は肉はゆでて食べるのが一般的であり(注6)、また脂肪がなくなるまで焼き尽くしてから食べたので(注7)、今日本で食べているように普通にステーキは食べられないはずで、たとえば毛細血管に残っている血は大丈夫ということはありません。 それから使徒行伝15章のエルサレム会議の記述ですが、29節には、血以外に、είδωλοθύτων(偶像にささげたもの)やπνικτων「絞殺された;ユダヤ教で規定通りに屠殺されなかった動物」(注8)についても食べないことにしたこと、同時に不品行を避けるようにというすすめが書かれています。しかもこれについては、どの訳にかぎらず、29節のみを読むのではなく聖書全体の文脈よく読めば、初代教会においてユダヤ人とそれ以外のキリスト教徒がふえてきたため、ユダヤ律法の影響が強いユダヤ人クリスチャンたちをつまずかせないために会議で決定したということがわかります。ですから「輸血拒否に代表されるように、聖書の字句を字義どおりに解釈しようとすることで知られる、」の部分は、聖書を字義通りに解釈した場合、中東で行なわれているように(又はかって行なわれていたように)血を抜いて脂肪も食べないという解釈が成り立ちうること、新世界訳聖書が日本語訳を含め各国語訳は英訳の新世界訳聖書を底本としていて本当に字義通りといえるのか疑問をもたれていること、輸血という治療法が当時行なわれていて、してはならないと考えられていたかどうかまで厳密に考える必要があるためPOV的に問題があります。なお新世界訳聖書をどうしても取り除きたいというのでしたら、

エホバの証人は、キリスト教系新興宗教とされる。信者は多かれ少なかれほぼ全世界で活動し、宣教に熱心であることでも知られる。三位一体の教理を退けるため、ニカイア・コンスタンティノポリス信条や使徒信条に従っていないとして、伝統的キリスト教徒からは異端視される事も多い。

とすることを提案します。Siyajkak 2007年6月25日 (月) 15:04 (UTC)[返信]

<<引用参考文献>>
(注1)『新改訳聖書』日本聖書刊行会,1970,p.185(旧約聖書レビ記17章11節)
(注2)前掲書,p.185(旧約聖書レビ記17章12節)
(注3)前掲書,p.159(旧約聖書レビ記3章17節)
(注4)前掲書,p.165(旧約聖書レビ記7章23節)
(注5)前掲書,pp.165-6(旧約聖書レビ記7章25節)
(注6)ジョン・ドレイン『ビジュアル聖書百科』いのちのことば社1999,p106/Iサムエル記(サムエル記上)2章13節
(注7)Iサムエル記(サムエル記上)2章15節,16節など
(注8)岩隈直1982『増補改訂新約ギリシャ語辞典』山本書店,p.389

原典では、王国行間逐語訳聖書、日本語訳では、現在新世界訳聖書を最も適した翻訳とし:「王国行間逐語訳」はウエストコットとホート著「ギリシャ語原語による新約聖書」に英語の字義訳を当てたものですので、原典ではないです。また、何度もいうように新世界訳を最適な訳だと主張したことはありません。
聖書を読む個人にとって,また聖書を用いて他の人々を教える人たちにとって何を意味するでしょうか。広く使われているほとんどの言語では,聖書翻訳が二つ以上あり,選ぶことができます。自分の使う聖書を選ぶ際には識別力を働かせてください。(箴言 19:8)もし訳文が,どんな口実があるにせよ神の霊感のもとに記された言葉からみ名を取り除くことにより神ご自身の実体についてありのままを示していないのであれば,その翻訳者たちは聖書本文の他の部分にも勝手に手を加えているということはないでしょうか。訳の有効性に疑問を感じるときは,より古い翻訳と比較するよう努めてください。神の言葉を教える立場にある方なら,元のヘブライ語およびギリシャ語本文にある事柄にしっかり付き従っている訳を用いてください。(「ものみの塔」1997年10月1日号p20)とはありましたが…
特にこの見解が過去に変更されたと言う証拠は調べましたがありませんでした。
キリスト教系新興宗教と言う表現は明確にPOVですね。なぜなら、ものみの塔協会自体自分たちがキリスト教だと言っているのですから。
例:今日の真のクリスチャンも,キリスト教の原則に反する偽りの宗教の考えに基づく,一般に受け入れられている習慣を避ける必要があります。(「ものみの塔」2006年1月1日号p27)
ギリシャ語聖書について:エホバの証人は「ギリシャ語聖書」という表現と「クリスチャン・ギリシャ語聖書」と表現を両方用いています。たとえば、『王国行間逐語訳』の正式名称は『ギリシャ語聖書王国行間逐語訳(The Kingdom Interlinear Translation of the Greek Scriptures)』です。エホバの証人は契約によらず、書かれている言語により分類分けしています。ちなみに「ヘブライ語聖書」の別名は「ヘブライ語・アラム語聖書」です。なお、「ヘブライ語聖書」と言う表現はエホバの証人以外の人も用いています。たとえば、新世界訳聖書のヘブライ語部分の底本となった「ビブリア・ヘブライカ」は、文字通りには「ヘブライ語聖書」という意味です。
また、血の禁令に関することですが、今日本で食べているように普通にステーキは食べられないはずで、たとえば毛細血管に残っている血は大丈夫ということはありませんとかありましたが、とんでもない誤解です。この禁令は血抜きをされていない肉を食べることを禁ずる律法です。(創世記9章4節、レビ記17章13節)今日肉屋で売っている肉はほとんどが血抜きされた食品です。もちろん、明らかに血抜きされていない肉は食べませんが、普通の肉は食べても大丈夫です。たとえば、鯨肉などは血抜きされないことが多いため、食べないようにと言う警告が以前出されました。(「御国奉仕」1967年3月号8ページ)
また初代教会においてユダヤ人とそれ以外のキリスト教徒がふえてきたため、ユダヤ律法の影響が強いユダヤ人クリスチャンたちをつまずかせないために会議で決定したと言うのは嘘でしょう。なぜなら、使徒15章29節の禁令は「諸国民(異邦人)の」信者に宛てて書かれています。(使徒15章23節)
脂肪の禁令ですが、これは「ユダヤ人に対し」モーセの律法で述べられている禁令で、今日エホバの証人はこの禁令を守る必要はありません。(ローマ7章6節;ガラテア3章23-25節;ヘブライ10章1-10節)その証拠に、大洪水後、ノアとその家族に対して肉を食物に加えてよいとの許しが与えられた時、脂肪については何も述べられませんでした。(創世記 9章3,4節)使徒15章でも脂肪に関する禁令は述べられていません。125.192.181.21 2007年6月26日 (火) 09:29 (UTC)[返信]

今日は仕事をしながら、この内容について考えを巡らせていました。上のように提案したものの、「輸血拒否」は刺激が強すぎるように感じたからです。それを緩和するためには「兵役拒否」も併記したほうが良いかな?とは考えていたのですが、取り除いても良いのであれば取り除くことにしましょうか。

もう一点、使徒信条についてですが、ここから三位一体の概念を連想することは私にはできませんでした。「内容」の節には「一方で三位一体はまだ定式化されていない。」とあるので、これは私の勘違いというわけでもなさそうです。「日本語(口語)」の部分から引っかかる表現を挙げても、「十字架」、「陰府」、「普遍」の3つの単語くらいなのですが、「普遍」は別にしても、「十字架」を「杭」に、「陰府」を「ハデス」にそれぞれ置き換えれば、受け入れ難いというほどの内容でもないように感じます。従って、三位一体とは別の意味で証人が退ける、ということであればその(三位一体以外の)理由を加えて解説するべきですし、そうでないのなら取り除く必要がありそうです。

なお、"「過去には新世界訳はなかったが、現在は新世界訳があるのでもっとも適した訳としてエホバの証人が用いている」という単純な事実を述べたというだけのことです。"とのことですが、実際には新世界訳を用いる機会が多いだけのことです。理由は単純で、『ものみの塔』の研究記事が新世界訳からの引用が多いのと、簡単に入手できることによるのでしょう(しかも無料で。私の近所の田舎の小さな本屋では「新約聖書、詩篇付き」くらいしか手に入りません)。また、実情もそれほど単純なものではなく、Siyajkak さんのおっしゃるとおり、新世界訳に対する批判本というのはそこかしこに溢れ返っています。そしてそれを根拠として人々は言います、曰く「改竄聖書である」と。さらに続けて「自らの教理を証明したいがために改竄聖書を作成した」とも言うのです。こうした現実をふまえて現在の文面を読み解くと、やれ「マインドコントロール」だ何だと騒ぐ人たちの主張を裏付ける内容であるかの如く、… 後はご想像にお任せ致します。

125.192.181.21さんによる「キリスト教系新興宗教と言う表現は明確にPOVですね。なぜなら、ものみの塔協会自体自分たちがキリスト教だと言っているのですから。」とのご発言ですが、協会の主張のみ取り入れることこそPOV(Point of view:全体像の一部分)なのである、という点をまずご理解下さい。「エホバの証人」の定義は、歴史家や批評家など、いわゆる「協会の部外者」によるものも存在するはずなのですから。さて、前半の「キリスト教系」との表記ですが、実はこの表記に対する議論が過去にあり、ノート:エホバの証人/archive3にある Tomos さんによるまとめによれば、表記を「キリスト教」とするか「キリスト教系」とするかについての議論は決着していないようです。「~系」と表記した場合、生まれる差異というのはせいぜい直系と傍系の違いでしょう。「キリスト教系」とした場合に「キリスト教」ではなくなってしまうのか?。最初はそんなことはないはずだと考えていたのですが、考えているうちに分からなくなってきました。今週末までには何らかの回答をしたいと思いますので、しばしご猶予を…。後半の「新興宗教」ですが、実際の記事には「西洋では19世紀末以降のものを言う場合が多い。」とあり、一般論として、たまたまこれに当てはまるだけのことなのです。少なくともこちらはNPOVであると言えるしょう。

125.192.181.21さんにはお願いがあり、議論に参加するにあたって、まずは他者の発言をよく読んでください。『行間逐語訳』の説明のように、一旦収束した議論を繰り返し主張されると、議論が停滞しかねません。また、ノートは記事を改善するためのものであって、主義主張を喧伝する場ではありません。従って、教理の解釈がどうこうという話題は本来行うべきではないのです。この点、どうかご協力お願い致します。Rigel 2007年6月26日 (火) 12:23 (UTC)[返信]

見解の相違をなぜ記述するか

>さらに気になったのですが、「エホバの証人の見解は~」、「部外者の見解は~」と言っておられますが、そもそもWikipediaは「百科事典」だと言うことをご理解いただいているのでしょうか?百科事典は見解を書くところではないと思いますが、いかがでしょう?
>いずれにしてもWikipediaというのは百科事典なので事実を書く所であって、個人の見解を書く所ではないのではないか、というのが持論です。


後者に至っては巧妙な論理意見のすり替えですが、前者も学問をする者としては放置できない聞き捨てならない発言ですので、マヤ文明研究を例に反論させていただきます。

新しい考古学と古代マヤ文明のレビューをお読みいただければわかるように、いまだに日本の中では、マヤ文明について、「世界史上、神秘でユニークな謎の文明」「暦と儀礼に熱中していた文明」というイメージのみが一人歩きしているようですが、最近の研究では、普通に権力闘争がおこなわれ、戦争も行なわれたことがわかっています。コパンの祭壇Qは、天文学者の会議を描いたといわれていましたが、776年に神殿16の完成を祝いつつ、コパン王朝の権威を再確認させるためのものであったことがわかっています。祭壇の側面には初代のキニチ・ヤシュ・クック・モーから16代目のヤシュ・パサフに至るまでの16代の王の姿が刻まれ、ヤシュ・パサフの即位の日付が初代ヤシュ・クック・モーとの間の空間に刻まれて、王権の象徴としての儀杖を受け取る姿が描かれています。これは研究の進展にしたがってわかってきたことですが、発掘調査をおこなわず、具体的なデータが少なく、正確な判断が不可能な場合に二つの説(見解)として同時に並び立っていたらどうでしょうか?片方だけ記述することが適切なのでしょうか?

また、 マヤ文字解読 には、アメリカの威信を守るためにエリック・トンプソンが、解読のめざましい糸口となるユーリ・クノロゾフによるマヤ文字の音節文字の発見を認めなかった経緯を書いています。トンプソンの考え方をいつまでも固執していてマヤ文明研究が進展していたでしょうか?

メソアメリカの考古学 をわたしは優れた概説書だと思っていますが、その一番大きな理由は、遺跡の記述のみならず研究者間の見解の相違を客観的に書いている点です。それで現在の研究の状況を鳥瞰的につかめるので非常にありがたいです。たとえば、マイケル・コウ、ノーマン・ハモンドという研究者の著書はその研究者の見解しか書かれない傾向があるかその研究者の見解が色濃く出てきてしまい、研究の進展は全体としてどうなっているのかどうしても見えない部分がでてしまいます。マヤ文字解読マイケル・コウがトンプソンを批判している記述は非常に参考になります。そのことから考えても教団外の見解や見方を無視して、一方的に教団の都合の良い記述(見解)のみで記事を満たそうということでは、wikipediaが単なる護教的宣伝文書になってしまいます。両論併記する場合と比較してどちらが百科事典としてふさわしいか考えるまでもありません。Siyajkak 2007年6月23日 (土) 09:45 (UTC)[返信]

記事の投稿についてはWikipedia:ウィキペディアは何でないかを参照すべきでしょう。125.192.181.21 2007年6月26日 (火) 09:20 (UTC)[返信]

現在の記事に対するコメント

長文になりますので、独立した節として投稿します。

「教義」の項

「教義」に対応する英語は、doctrine の他、dogma も含まれるようなので、「教義」よりも「教理」(doctrine のみ)の方が良さそうです。ちなみに、『新世界約聖書』本文には「教理」の語が5回出現しますが、「教義」は0回です。

また、「特徴的な教義」とある割には、教理が何でもかんでも列挙されすぎているような気がします。「特徴的」であるならば、他のキリスト教と異なる部分だけを記述すればよいのでは?。「終わりの日」の推定等の年代計算、つまりダニエル書4章の「七つの時」、9章の「70週」、12章の「1290日」「1335日」といったあたりの解釈は、再臨派系において先行して研究が進められていた(過去形、現在は不明)はずですし、道徳上の記述に関しても、清教徒的性質を色濃く受け継ぐ教派ではごく当たり前の事柄のはずです(エホバの証人以外のキリスト教徒はすべて不道徳であると皆が考えているならば、あえて記述することに反対はしませんが)。また、「原罪」に類する説明にしても、エホバの証人のオリジナルではないのでは?。

概説すると、主要な教義と呼べるものは、(1)聖書の真実性を唱えること、(2)三位一体の否定、(3)不滅の魂の否定、といったあたりであり、その他、特徴的な教義が(4)偶像崇拝を徹底的に避ける、(5)政治的中立、(6)非暴力、(7)輸血拒否。関連して、(1)創造論の支持、(2)父、子、聖霊について、(3)天国と地獄、復活について、(4)十字架、国歌斉唱・国旗敬礼、(5)法律の可能な限りな遵守、(6)兵役拒否、格闘技・護身術に対する見解、となり、その他ざっと見渡した感じ、クリスマスに関して、浸礼式のバプテスマ、簡単な臨在の説明(1914年の説明もここで)、称号を用いないこと … 記述するのはこれくらいで十分でしょう。

以下、個別のコメント:

  • 神は愛である
    う~ん、こうしたものが本当に「特徴的な教義」なのか?。
  • 新約聖書をギリシャ語聖書と呼ぶ
    不正確。「ギリシャ語聖書」では『七十人訳』等、他のギリシャ語訳聖書との区別がつかないため、書籍中では必ず「クリスチャン・ギリシャ語聖書」という長い呼称を用いているはず。が、この呼び名を強要しているわけでもなければ教理でもなく、不要な情報。
  • エホバと翻訳して用いている
    これも教理ではない。が、別項にて言語毎に異なる点を解説しても良いかも(ヤハウェである言語も存在する/『ふれ告げる人々』のどこかに一覧あり)。
  • 「年長者(長老)」と呼ばれる。彼らは「監督」とも呼ばれ
    「兄弟」としか呼ばないので説明が変。立場を説明するために長老であることを紹介することはあるが、「長老」と呼びかけることはない。「年長者」、「監督」も同様で、この語を用いているのは、雑誌・書籍の記事中において、対応する聖句と共に説明するような場合のみ。そもそも教理ではないし、エホバの証人の組織構造という別記事が存在するので不要な説明。
  • バプテスマを受けることにより、正式なエホバの証人となり、男性は「兄弟」、女性は「姉妹」と呼ばれる。
    現在、「兄弟・姉妹」と呼ばれることとバプテスマとの間には関連性がなく、10年以上前の古い情報(「王国宣教」96年4月号の質問箱)。また、全文にわたって教理とは呼べない内容。
  • 黙示録の大いなるバビロンはキリスト教世界 … 異端的教派と扱われている。
    不正確。「大いなるバビロン」は仏教、イスラム教など他の全ての宗教を包含していると解説しているはず。ただし、『聖書』という知識(真理)を授けられたが故に、その意味をねじ曲げて伝えてきたキリスト教系宗教の功罪が最も大きいと解説する。また、「異端的教派と扱われている」ではかなり変(要出典、公文書において「扱われている」事の証明)で、「伝統的キリスト教からは異端視される事が多い」くらいの表現であれば問題を感じない(実際問題として、エホバの証人に友好的に接する伝統的キリスト教の神父・牧師クラスの人物も少なからず存在するので)。もっとも、「異端」という言葉をこのようして無理やり「教義」に付け加えるのではなく、別項にて(POVに気をつけながら)堂々と記述すれば良いものと思われる。
「慣習」の項
新しい参加者は歓迎される。」の一文は不要でしょう。記述が禁止されている「宣伝」に該当する畏れあり。また、「最低月に一回は宣教活動に参加することが求められている」も多分嘘。英語版の古い版(今は記述が存在しない模様)によれば、毎月の「王国宣教」に掲載される伝道者としてカウントされるためには、毎月?時間の奉仕時間が求められる、との記述があったと記憶しています(つまり求められるのは回数ではなく時間であり、「カウント」というところもミソ)。「近年、宣教奉仕ではなるべく新世界訳聖書から証言することが強く勧められている。」の部分については聞いたことがありません(要出典、『新世界訳』ではなく「相手の望む訳」のはずだったのですが、いつの間に方針が正反対に変わってしまったのか?)。「交わり」への言及も不要でしょう。王国会館の記事と被る部分も多く、項目全体が不要と思われる。
「起源と歴史」の項
  • 「エホバの証人…」 … という名称を採択した。
    「オハイオ州シーダーポイントの大会において会場の満場一致で採択され、その後、世界各国で開かれた他の大会もこれに追随…」というのが定説だと思うのですが、現在の文面ではラザフォードの独断で採択されたという意味に受け取れます(要修正)。
  • フレデリック・ウイリアム・フランズ … 組織内の粛正に努めた。
    で、その「粛清」とやらでいったい何十人の犠牲者が出たのですか?。たった一人が排斥されただけでも「粛正に努めた」という表現が妥当なのでしょうか?。もしくは、広島会衆の「粛清」は同会長の指示によるのでしょうか?。そもそも「排斥」との説明が正しいならば、普通は「粛清」とは呼ばないでしょう。この表現はPOVかと思われますし、広島会衆の記述についても地域POV以外の何物でもないでしょう。
  • ヘンシェルが5代会長に就任する … 文字通り一「世代」のうちにハルマゲドンが来るとの教義に変更が加えられた。
    それは1985年ではなく、1992年から2003年の間のことなのでしょうか?。 - 失礼、85年ではなく95年(『ものみの塔』1995年11月1日号の「読者からの質問」)なので合ってます。
  • ドン・A・アダムズが会長に就任し、今に至る。
    (CEOではなく)「会長」なのでしょうか?。
  • 信徒数は650万人ほどである。
    そもそも「信徒」とは、どこからどの段階までの人のことなのでしょう?。「バプテスマを受けていない伝道者」は信徒でしょうか?。伝道者ではないものの「エホバの証人を自認する者」は信徒でしょうか?。私の感覚では両者とも「信徒」になるのですが、650万人という数には後者は含まれていません。表現としては「伝道者数」が適切です。
「日本での活動」の項
  • (キリスト教系の団体ではカトリックに次いで第2位と公称)
    「第2位と公称」していたとは知りませんでした(要出典)。また、全体的な内容としても、「エホバの証人」ではなく「ものみの塔聖書冊子協会」側で扱うべき話題かと。
「社会的側面」の項

全体的に地域POV(日本偏向)的要素が目立ち、内容もゴシップ的なものが多いようなので、編集よりも項目の取捨選択に関する協議をまず優先させるべきかと。過去ログ化されてしまいましたが、「社会との摩擦」という表記を再度推します。その際、もし『パーフェクトワールド』等の記述が必要であるならば、「(仮)エホバの証人が扱われている作品」等の別項目へ移設すると良いでしょう。

  • 特に宗教を理由として、非信者の家族から離婚請求訴訟を起こされることがある。(信者側は原則離婚を認めていない)。
    嘘。裁判で争われるというその状況こそが異常であるといえます。以前にも説明したので繰り返しになりますが、未信者の配偶者から離婚を迫られた場合、その求めに応じるのが普通なのです(コリント第一 7:15)。ですので、エホバの証人の特徴である、集会に参加すること、伝道活動を行うこと等に代表される活動を原因として「家庭を顧みない」と言われるのは仕方の無いことですし、そのことから離婚を要求するような過激な反応を示す未信者も存在するのも事実です。さらには一部、聖書の原則というものをよく知らないがために、離婚に反対するという無知な信者もいることでしょう。しかし、こうした裁判の原因がエホバの証人の教理にあるかのような、この書き方はいただけません。そもそも、離婚を突きつけられた当事者である証人が教理をきちんと理解していたならば、唯々諾々と相手の求めに応じるはずであり、離婚請求訴訟など起こりようはずもないのですから。それでも、これはエホバの証人の社会的側面と呼ぶべきものなのでしょうか?。
  • 伝道活動(布教)に専念するため、
    地域POV。あくまで日本の傾向であり、海外では事情が異なる。日本における開拓奉仕への参加動向(全伝道者の1/3~1/4ほど)というのは、世界的な傾向と比べるとかなり高い数値であると言われます。そのあたりの歪みから生まれたのであろう日本独自の傾向もまた、当然ながら地域POVです。
  • フランスにおいては、
    これも「ものみの塔聖書冊子協会」側で扱った方が良い話題かと。

前回はあえて書かなかったのですが、「エホバの証人」とは信者一人ひとりを表す言葉です(ですので、例えば「エホバの証人の信者」という表現には違和感を覚えます)。ローマ・カトリックに例えるなら、「ものみの塔聖書冊子協会」に対応するのが「カトリック教会」で、「エホバの証人」に対応するのが「カトリック教徒」になります(加えると、「統治体」が「ローマ教皇庁」といった感じ)。なので、エホバの証人は新約聖書のヘブライ人への手紙11章に名前が挙げられている人物すべてを「エホバの証人」であるとするのみならず、イエス・キリストでさえも「エホバの証人」の一人であると主張しています。こちらの記事では教義に関する内容を、「ものみの塔聖書冊子協会」の記事では組織に関する内容を、と分離することを前回提案した背景には、こうした理由があるのです。Rigel 2007年6月22日 (金) 14:36 (UTC)[返信]

「エホバの証人」とは信者一人ひとりを表す言葉です→本当にそうですか?「エホバの証人の~会衆」という場合は明らかにグループ名として用いていると思いますが・・・。ローマ・カトリックにたとえるなら、「ものみの塔聖書冊子協会」に対応するのが「バチカン」で、「エホバの証人」に対応するのが「カトリック教会」にあたるのではないかと・・・。125.195.29.225 2007年6月23日 (土) 13:14 (UTC)[返信]
そりゃ「~会衆」と表現すればグループ名になるでしょう。何の不思議もありませんが?。Rigel 2007年6月23日 (土) 14:43 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。いままでわからなかった部分が見えてくる気がします。
>イエス・キリストでさえも「エホバの証人」の一人であると主張しています。
は、教団内部の新世界訳聖書の記述でしょうか?それなら、新約聖書は新世界訳だけではないのですから
>新世界訳聖書の訳文では、「イエス・キリストでさえも「エホバの証人」の一人であると主張している」と書かれている。
とか留保しないと表現としては問題だと思います。
それから
教団外では、「ものみの塔聖書冊子協会」そのものも「エホバの証人」と呼ぶが、実際には、「ものみの塔聖書冊子協会」の会員?信者?が「エホバの証人」であって、教団と信者を混同して呼ぶ場合がある、
とか書かないとたしかに一緒になってしまいます。実際、わたしも無意識的に一緒くたになっていました。Siyajkak 2007年6月23日 (土) 10:49 (UTC)[返信]
イエス・キリストでさえも「エホバの証人」の一人であると主張している:啓示(黙示録)1章5節;3章14節のことですかね?神の「忠実な証人」とは言われていますが、「エホバの証人」とは(直接的には)書かれていませんが・・・125.195.29.225 2007年6月23日 (土) 13:14 (UTC)[返信]

イエスを「エホバの証人」の一人であるとする根拠に用いられるのは黙示録の1章5節であり、その聖句の解説として雑誌や書籍中でそう書かれることがある、という意味です。つまり、『新世界訳』そのものが誤解を招くような変わった訳出をしているわけではありません。『新世界訳』のその節には「忠実な証人」、「イエス・キリスト」の語が認められますが、それは『口語訳』においても全く同一ですので。

明確にそう記しているものとして、『ものみの塔』誌の71年3月15日号179ページ、73年4月1日号223ページ、76年2月1日号86ページ、80年6月1日号17ページ、90年1月1日号12ページ、『ふれ告げる人々』19ページなどがあります。他、あまり明確な表現とはいえないものの、現状で安易に入手可能な書籍として、『永遠の命に導く知識』94ページの記述がそれにあたります。Rigel 2007年6月23日 (土) 14:43 (UTC)[返信]

提案というか…

なぜ編集合戦が起こるのか、その点を認識していない人が多すぎるように感じます。もう一年以上前、削除された編集履歴のうちの出来事なのですが、中立性のかけらもない記述を多く書き加えながら、その記述を削除して回る者のことを「荒らし」と呼ぶ人がいました。結局両者の編集は短期間のうちに無意味な履歴を量産したのですが、私に言わせれば「荒らし」という点ではどちらも同じです。

エホバの証人の現役信者の方々に言っておきます。編集合戦に参加することはあなた方の益にはなりません。編集合戦とは無価値な編集の積み重ねの履歴に過ぎず、ウィキペディアという編集空間を善意で提供して下さる財団に対する背信行為以外の何物でもありません。つまりそれは、あなた方を「道理をわきまえない者」とみなす根拠になりこそすれ、「道理をわきまえた者」であることを立証することはならないからです。

どうしても編集したいのであれば、それは週一回程度に留めておくと良いでしょう。反対者による無秩序ぶりがいよいよ酷くなれば、中立の第三者が立ち上がってくれるかも知れません。が、あなた方が編集合戦に参加している現状ではそれは望むべくもないでしょう。

ちなみに、英語版にはかなり以前よりエホバの証人のプロジェクトが存在する(en:Wikipedia:WikiProject Jehovah's Witnesses)のですが、まだ参加者が10人にも満たなかった当時、そのノートでの議論をざっと見たところ、プロジェクトの初期参加者達は、皆エホバの証人ではないらしいということだけは分かりました。Rigel 2007年6月22日 (金) 14:36 (UTC)[返信]

↑それは問題ではないのでは…。Wikipediaは万人が参加できるプロジェクトのはず…125.195.29.225 
ウィキプロジェクト(WikiProject)というのは、特定の分野毎に記述のルールを話し合ったり、問題解決のために協議したりするための場であり、様々な種類があります(Category:ウィキプロジェクト参照)。で、この場合はプロジェクトの参加者が中立的な第三者であることに意義があり、編集上の対立が発生した場合に、その仲裁者としての役割を期待できるのです(よほど出来た人間でなければ反目する相手の見解に直接聞く耳もたないでしょうから、陪審員的な役割もしくはクッション的な役割として)。ちなみに、英語版におけるそのプロジェクトは当初、他の宗教プロジェクトの類似プロジェクトとしてではなく、「問題の起こりやすい~」のような名前のプロジェクト文書の下位部門的な位置づけとして立ち上げられたもののようでした。Rigel 2007年6月23日 (土) 14:43 (UTC)[返信]
>中立性のかけらもない記述を多く書き加えながら、その記述を削除して回る者のことを「荒らし」と呼ぶ人がいました。結局両者の編集は短期間のうちに無意味な履歴を量産したのですが、私に言わせれば「荒らし」という点ではどちらも同じです。

それはちがいます。「中立性のかけらもない記述や無意味な記述、wikipediaという百科事典にそぐわない記述その他の行為」をする者を荒らしというのです。記述を削除する人は一般的な意味での善意の利用者です。善意の利用者が自分のできる範囲でwikipediaを守っているのです。
仮に、そのような記述を削除する人を荒らしとするとwikipeiaの管理者がそのような記述がされるのを抑えた場合に広義の荒らしとなってしまいます。管理者権限の有無でできることが違ってくるだけなので区別はありません。ただ、Rigelさんがおっしゃるように無意味な履歴が重なることを承知しながら話し合いの呼びかけをしたり保護依頼をかけたりしない場合は問題があると思います。そのようなrvフリークな利用者に対し荒らしと変わらないという評価が出てもやむをえないとは思います。Siyajkak 2007年6月23日 (土) 08:33 (UTC)--表現が誤解されかねないため一部訂正Siyajkak 2007年6月23日 (土) 11:26 (UTC)[返信]

えっと、上記の削除例ですが、問題のある記述部分のみを除去するのではなく、単位で丸ごと撤去していました。その人物が数節を数回の編集に分けて撤去し、粘着がリバートする、その繰り返しが2~3回あり記事が保護されるに至った(のだったかな?)、と記憶(というより履歴から推測)しています。もっとも、当時の内容はあまりにも酷いものだったので、節単位で削除したくなるその気持ちも分からないでもないのですが、理由の明記なく大量削除すれば普通は「荒らし」であるとみなされるでしょう(削除していたのは恐らく証人です)。で、当時中立性のかけらもない記述を大量に持ち込んだ人物が2人ほど確認できたのですが、リバートを実行して「荒らし」発言をしたのはそのうちの一人であった、ということです。Rigel 2007年6月23日 (土) 14:43 (UTC)[返信]
なるほど。一般論ではなく特殊な例ということですね。そういうことならよくわかりました。でもちょっぴり証人の方に同情します。Siyajkak 2007年6月24日 (日) 08:50 (UTC)[返信]