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「ヴィエンチャン」の版間の差分

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'''ヴィエンチャン'''(Vientiane([[英語]]、[[フランス語]])、[[画像:Vientiane_lao.PNG]]([[ラオ語]])、<font lang="th">เวียงจันทน์</font>[[タイ語]]))は、[[ラオス]][[首都]]。[[画像:ビエンチャン市内.jpg|thumb|right|200px|[[パトゥーサイ]]から見た、ヴィエンチャン]]
'''ヴィエンチャン'''(Vientiane([[英語]]、[[フランス語]])、[[画像:Vientiane_lao.PNG]]([[ラオ語]])、<font lang="th">เวียงจันทน์</font>[[タイ語]]))は、ラオスの地名、または行政区画の名称
*[[ヴィエンチャン市]]
*[[ヴィエンチャン]]
*[[ヴィエンチャン都]]

をそれぞれ参照のこと
ヴィエンチャンは[[ヴィエンチャン都]]のうち、首都機能を持つ、チャンタブリー郡、シーコッタボーン郡、サイセーター郡、シーサッタナーク郡、ハートサーイフォン郡をさして言う。

ヴィエンチャン(あるいは'''ビエンチャン''')と書くが、[[ラオス語]]の[[ローマ字]]における「V」は[[日本語]]におけるワ行であるため、'''ウィエンチャン'''と書くのがより現地の発音に近い。ヴィエンチャンの正式名称はヴィエンチャン市である。

*[[ヴィエンチャン都]]、[[ヴィエンチャン県]]についてはそちらを参照のこと。

== 概要 ==
[[セーターティラート]]王(King Setthathirath)が1560年にヴィエンチャンを[[ラーンサーン王国]]の首都として定めた。[[1707年]]、ラーンサーン王国が分裂した際、[[ヴィエンチャン王国]]の首都とされた。[[1779年]]、[[チャクリー王国]](現在の[[タイ王国|タイ]])のチャオプラヤー・チャックリー将軍(チュラーローク王=のち[[チャクリー王朝]]の[[ラーマ1世]])に征服され、チャクリー王国の領土となる。

[[1827年]]、[[アヌ]]王(King Anouvong)がクーデターに失敗した際、シャム軍に滅ぼされる。[[1893年]]、ラオスが[[フランス]]の[[保護国]](Protectorate)となり、[[1899年]]に再びラオスの首都とされた。

[[メコン川]]をはさんで[[タイ王国|タイ]]の[[ノーンカーイ県]]の国境に面していて、ビエンチャン特別市の郊外から対岸のタイ領へ行く船が出ており、ビエンチャン市の住民はビザ無しでノーンカーイまで行くことが[[国際協定]]によって許されている。

[[de:Vientiane]]
[[en:Vientiane]]
[[es:Vientiane]]
[[fr:Vientiane]]
[[nl:Stad_Vientianne]]
[[pt:Vientiane]]
[[sv:Vientiane]]

[[Category:ラオス|うぃえんちゃん]]
{{world-stub}}

2005年7月1日 (金) 09:54時点における版

ヴィエンチャン(Vientiane(英語フランス語)、ファイル:Vientiane lao.PNGラオ語)、เวียงจันทน์タイ語))は、ラオスの地名、または行政区画の名称。

をそれぞれ参照のこと