「国会議事堂」の版間の差分
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現在、[[永田町]]に立つ国会議事堂は、1936(昭和11)年に竣工した。しかしその建設計画は、明治にまでさかのぼる。1881(明治14)年10月、「[[国会開設の詔]]」が発せられ、その4年後に誕生した[[伊藤博文]][[内閣]]が1890(明治23)年の開設を目指し、取り組んだのが端緒である。 |
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*[[明治時代]]には、木造の仮議事堂が霞が関に建造され、そこで帝国議会が開かれていた。ただし、第7回帝国議会は[[日清戦争]]での天皇の行幸にあわせて広島市内に建設された臨時の議事堂で行われた。 |
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設計の段階から難航した議事堂建設は、財政難を理由に仮議事堂で急場をしのぐとされ、[[日比谷]]の[[内幸町]]に第1次仮議事堂が建設された。この仮議事堂は第1回帝国議会召集の前日、明治23年11月24日に完成を見た。だが、翌1891(明治24)年1月20日未明に出火、全焼してしまい、昼夜兼行で第2次仮議事堂が再建された(同年10月)。 |
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*議事堂の本建築計画は、第1回帝国議会開設前から建議され、検討されてきた。しかし、財政事情などの理由から大幅に遅延し、[[1918年]]から予算が計上され、設計に着手した。設計案は日本人の中から公募されることになり、渡辺福三の作品が当選となった。しかし、その設計案は参考程度にとどめられ、大蔵省営繕管財局の手により設計がまとめられた。 |
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その後、1894(明治27)年8月に[[日清戦争]]が勃発。議会も一時広島に移される時期もあったが、1906(明治39)年、第2次仮議事堂の改修及び本格的な議事堂の建設が決まり、大正に入ってその意匠が公募された。118通の公募作品中、1等は宮内技手であった渡辺福三に決した。それを参考に設計が進められ、1920(大正9)年1月30日、新議事堂建築に当たり、当時の首相・[[原敬]]らが参列して、現在と同じ永田町の高台で[[地鎮祭]]が行われた。ところが、新議事堂の建設が進む中、[[関東大震災]](1923〔大正12〕年)でも倒壊しなかった第2次仮議事堂が、改修作業中の作業員の不始末で炎上、焼失してしまう(1925〔同14〕年9月18日)。政府は第3次仮議事堂設置を決め、12月の通常議会に間に合うよう、わずか3ヶ月で建設した。 |
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*[[1920年]]に着工 |
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*[[1936年]]11月に完成し、第70回[[帝国議会]]から使用された。 |
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このような苦難を経て、昭和11年11月7日、新議事堂は落成した。時の首相・[[広田弘毅]]が雨の中、祝辞を述べた。資材のほとんどを国産に頼り、国家事業として建設された議事堂の総工費は当時の金額で約2600万円、地鎮祭から17年が経っていた。 |
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*[[2003年]]に落雷を受け、中央塔屋頂部が破損し修理を受けた。 |
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== 構造 == |
== 構造 == |
2005年9月13日 (火) 13:32時点における版
国会議事堂(こっかいぎじどう)
国会議事堂(こっかいぎじどう)とは、国会が開催される建物。
正面からみて左側に衆議院、右側に参議院(旧貴族院)が配置されている。
沿革
現在、永田町に立つ国会議事堂は、1936(昭和11)年に竣工した。しかしその建設計画は、明治にまでさかのぼる。1881(明治14)年10月、「国会開設の詔」が発せられ、その4年後に誕生した伊藤博文内閣が1890(明治23)年の開設を目指し、取り組んだのが端緒である。
設計の段階から難航した議事堂建設は、財政難を理由に仮議事堂で急場をしのぐとされ、日比谷の内幸町に第1次仮議事堂が建設された。この仮議事堂は第1回帝国議会召集の前日、明治23年11月24日に完成を見た。だが、翌1891(明治24)年1月20日未明に出火、全焼してしまい、昼夜兼行で第2次仮議事堂が再建された(同年10月)。
その後、1894(明治27)年8月に日清戦争が勃発。議会も一時広島に移される時期もあったが、1906(明治39)年、第2次仮議事堂の改修及び本格的な議事堂の建設が決まり、大正に入ってその意匠が公募された。118通の公募作品中、1等は宮内技手であった渡辺福三に決した。それを参考に設計が進められ、1920(大正9)年1月30日、新議事堂建築に当たり、当時の首相・原敬らが参列して、現在と同じ永田町の高台で地鎮祭が行われた。ところが、新議事堂の建設が進む中、関東大震災(1923〔大正12〕年)でも倒壊しなかった第2次仮議事堂が、改修作業中の作業員の不始末で炎上、焼失してしまう(1925〔同14〕年9月18日)。政府は第3次仮議事堂設置を決め、12月の通常議会に間に合うよう、わずか3ヶ月で建設した。
このような苦難を経て、昭和11年11月7日、新議事堂は落成した。時の首相・広田弘毅が雨の中、祝辞を述べた。資材のほとんどを国産に頼り、国家事業として建設された議事堂の総工費は当時の金額で約2600万円、地鎮祭から17年が経っていた。
構造
鉄骨鉄筋コンクリート造で、中央塔屋9階で外装が花崗岩石積みである。すべて純国産で建造されている。
延べ床面積53466平方メートル。正面からみて左側に衆議院、右側に参議院(旧貴族院)が配置されている。敷地内には他に衆参両院それぞれの別館・分館が置かれている。
- 構造:鉄骨鉄筋コンクリート造(地上3階(中央塔4階)、地下1階)
- 幅:206.36m
- 奥行き:88.63m
- 高さ:20.91m(中央塔:65.45m)
国会前庭
国会議事堂の正面には道路を挟んで「和式庭園」と「洋式庭園」がある。「和式庭園」は旧霞ヶ関離宮の跡地である。
中央玄関
通常は使用しないが、衆議院総選挙や参議院通常選挙の選挙後で初めて国会が召集される日に議員が登院する時、天皇や外国の国家元首を迎える時に使用される。それ以外では1997年5月24日、25日の特別参観や2000年12月2日の特別参観で使用された例がある。
中央広間
四隅には日本の憲政に貢献した伊藤博文と大隈重信と板垣退助の銅像と空の台座が置かれている。空の台座の存在理由については諸説あり、誰の銅像を置くか話がまとまらなかった、政治は常に未完であるのでもっと偉大な政治家の登場を期待して空けてある、大久保利通用に作られたが中止になった、という説がある。銅像は大日本帝国憲法発布50年を記念して1938年2月に建てられた。
御休所
国会の開会式に天皇陛下が控えられる場所。
衆議院議場
参議院議場
観光
多くの修学旅行生や団体ツアー客が毎年訪れるのみならず(衆議院の内部見学には国会議員の紹介が必要。参議院は平日に限って本会議開会中以外は誰でも見学可)、東京を舞台とする特撮映画では東京タワーと並んで怪獣達が見学(?)に訪れる東京有数の観光名所である。
世界各国の議事堂
議会政治の歴史が長いヨーロッパの多くの国々では宮殿を議事堂として使用している場合が多い。
- アメリカ合衆国連邦議会議事堂(United States Capitol)
- ウェストミンスター宮殿(Palace of Westminster)
- 国民議会:ブルボン宮殿(Palais Bourbon)
- 元老院:リュクサンブール宮殿(Palais du Luxembourg)
- 代議院:モンテチトーリオ宮殿(Palazzo Montecitorio)
- 共和国元老院:マダーマ宮殿(Palazzo Madama)
- クリスチャンスボー城(Christiansborg Slot)
- 議会宮殿(Palatul Parlamentului)
- 国会議事堂(국회의사당、國會議事堂)