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「レンブラント・ファン・レイン」の版間の差分

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{{Infobox 芸術家
[[ファイル:Self-portrait_at_34_by_Rembrandt_(rectangular_detail).jpg|thumbnail|210px|レンブラントの自画像([[1640年]])]]
| bgcolour = #6495ED
| name = レンブラント・ハルメンス・ファン・レイン<br />Rembrandt Harmensz. van Rijn
| image = Self-portrait_at_34_by_Rembrandt_(rectangular_detail).jpg
| imagesize = 250px
| caption = 『自画像』(1640年)
| birthdate = [[1606年]]<ref group="注">1607年生まれ説もある。1634年6月10日に、レンブラントは自分が26歳だと述べている点を根拠にした[http://www.codart.nl/news/82/ Is the Rembrandt Year being celebrated one year too soon? One year too late?]、やJ. de Jongが唱えた[http://www.nd.nl/artikelen/2006/februari/03/rembrandts-geboortejaar-een-jaar-te-vroeg-gevierd Rembrandts geboortejaar een jaar te vroeg gevierd]にて解説されている。</ref> [[7月15日]]
| location = {{NED}} [[ライデン]]
| deathdate = {{死亡年月日と没年齢|1606|7|15|1669|10|4}}
| deathplace = {{NED}} [[アムステルダム]]
| nationality = {{NED}}
| field = [[画家]]、[[版画]]
| training =
| movement = [[バロック]]<ref name=momak>{{cite web|url=http://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/1986/180.html |title=180 レンブラント・巨匠とその周辺|publisher=[[京都国立近代美術館]] |language=日本語|accessdate=2010-12-23}}</ref><ref name=mekikis>{{cite web|url=http://www.mekikies.com/japanese/data/v5n1-1_hikari-full_s.pdf|format=PDF |title=光の魔術師|author=メキキズ・ビジネス編集局|publisher=NTTアドバンステクノロジ株式会社|language=日本語|accessdate=2010-12-23}}</ref>、オランダ黄金時代[[:en:Dutch Golden Age|(en)]]
| works = 『[[テュルプ博士の解剖学講義]]』『[[夜警 (絵画)|フランス・バニング・コック隊長の市警団(夜警)]]』など
| patrons = コンスタンティン・ホイヘンス[[:en:Constantijn Huygens|(en)]]
| influenced by = [[ビーテル・ラストマン]][[:en:Pieter Lastman|(en)]]
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}}
[[ファイル:Rembrandtsplein M01.JPG|right|thumb|200px|レンブラント像<br/>([[レンブラント広場]]にて)]]
'''レンブラント・ハルメンス・ファン・レイン'''(Rembrandt Harmensz. van Rijn、[[1606年]][[7月15日]] - [[1669年]][[10月4日]])は、[[17世紀]]を代表する、[[オランダ]]の[[画家]]。単に'''レンブラント'''と呼ばれることも多い。大画面と明暗を画面上に強く押し出したルミニズムの技法を得意とし<ref name=momak />、「光の画家」「光の魔術師」(または「光と影の画家」「光と影の魔術師」)の異名を持つ<ref name=mekikis />。[[油彩]]だけでなく、[[版画#エッチングとアクアチント(間接法)|エッチング]]や複合技法による[[版画#凹版|銅版画]]や[[デッサン]]でも数多い作品を残した。また、生涯を通じて[[自画像]]を描いたことでも知られる。これらは、その時々の彼の内面までも伝えている。なお、オランダ政府観光局による[[片仮名]]表記はレンブラント・ファン・'''ライン'''も使われる<ref name=Holl>{{cite web|url=http://www.hollandartclub.jp/rembrandt.html |title=レンブラント・ファン・ライン|publisher=オランダ政府観光局|language=日本語|accessdate=2011-01-21}}</ref>。


彼はヨーロッパの[[美術史]]を代表する重要なひとりである<ref name="Gombrich, p. 420">[[#Gombrich1995|Gombrich (1995)、p.420]]</ref>。若くして[[肖像画]]家として成功し、晩年には私生活におけるたび重なる不幸と浪費癖による財政的苦難にあえいだが、それでもなお同時代において既に著名であり高い評価を受け続け<ref>[[#Gombrich1995|Gombrich (1995)、p.427]]</ref>、オランダには比類すべき画家がいないとさえ考えられた<ref>[[#Clark1969|Clark (1969)、p.203]]</ref>。
'''レンブラント・ハルメンス・ファン・レイン'''(Rembrandt Harmensz. van Rijn [[1606年]][[7月15日]]-[[1669年]][[10月4日]])は[[17世紀]]を代表する[[オランダ]]の画家。単に'''レンブラント'''と呼ばれることも多い。油彩だけでなく、[[版画#エッチングとアクアチント(間接法)|エッチング]]や複合技法による[[版画#凹版|銅版画]]やドローイングでも知られる。生涯を通じて数多くの[[自画像]]を描いたことでも知られる。自画像はその時々の彼の内面の変化まで伝えている。

かつてオランダの1000ギルダー紙幣にその肖像が描かれていた。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[ファイル:The Mill-1645 1648-Rembrandt van Rijn.jpg |right|thumb|200px|『風車』、1645-1648年、[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]。]]
[[ファイル:Rembrandtsplein M01.JPG|thumb|210px|レンブラント像<br/>([[レンブラント広場]]にて)]]
=== 生誕から学びの期間 ===
1606年[[ライデン]]生まれ。父は製粉業者の<ref name="ozaki0">[[#尾崎|尾崎p.7-13 プロローグ]]</ref>ハルマン・ヘリッツゾーン・ファン・レイン。母はネールチェン・ヴィレムスドホテル・ファン・ザウトブルーグ。レンブラントは夫妻の9番目の子供だった。1620年にライデン大学への入学登録をしたが実際にそこで学業につかず、翌年には画家を志向して歴史画家[[ヤーコブ・ファン・スヴァーネンブルフ]]に弟子入りし、短期間[[アムステルダム]]の[[ビーテル・ラストマン]]からも画を学ぶ。1625年には製作時期が判明している初の作品『聖ステノバの殉教』([[リヨン美術館]]蔵)を製作した。この頃から、同僚の[[ヤン・リーフェンス]]と競い合う関係が始まる。
1606年、[[スペイン]]から独立直前の[[オランダ]]、[[ライデン]]のウェッデステーグ3番地<ref name=Holl />にて、[[製粉]]業<ref name=ozaki0>[[#尾崎2004|尾崎 (2004) pp.7-13、プロローグ]]</ref>を営む中流階級の<ref name=Holl />父ハルマン・ヘリッツゾーン・ファン・レイン、都市貴族で<ref name=Holl />[[パン]]屋を生業とする一家の娘<ref name=Bona17>[[#ボナフー2001|ボナフー (2001)、pp.17-44、「黄金の世紀」の始まり]]</ref>である母ネールチェン(コルネリア<ref name=Great4 />)・ヴィレムスドホテル・ファン・ザウトブルーグ<ref>[[#Bull2006|Bull, et al., (2006) p.28]]</ref>の間に生まれた。レンブラントは夫妻の8番目の子供で<ref group="注">[[#尾崎2004|尾崎 (2004) 年表、p.248]]および[[#Bull|Bull, et al.、p.28]]では「第九子」、[http://www.hollandartclub.jp/rembrandt.html オランダ政府観光局のページ]では「10人兄弟の末っ子」、[http://www.rembrandtrembrandt.com/rembrandt/chronology/index.html 京都国立博物館 レンブラント略年表]では「10人兄弟の9番目」とあるが、ここでは兄弟の詳細を含む[[#ボナフー2001|ボナフー (2001)、p.21]]の記述を用いる。</ref>、兄は4人、長女と次女は早く亡くなり三女の姉1人と妹1人がいた<ref name=Bona17 />。父は製粉の[[風車小屋]]をライデンを流れる旧[[ライン川]]沿いに持っており、一家の姓ファン・レインは「ライン川の (van Rijn)」を意味する<ref name=Shiba>{{Cite book|和書|author=[[司馬遼太郎]]|year=1994年|title=[[街道をゆく]] 35オランダ紀行|chapter=レンブラントの家|pages=125-135|publisher=[[朝日文庫]]|isbn=4-02-264053-7|ref=司馬1994}}</ref>。


1613年に[[ラテン語]]学校に入学<ref name=Kyoto>{{cite web|url=http://www.rembrandtrembrandt.com/rembrandt/chronology/index.html |title=レンブラント略年表|publisher=[[京都国立博物館]] |language=日本語|accessdate=2011-01-21}}</ref>。1620年、14歳のレンブラントは[[ラテン語]]学校から飛び級で[[ライデン大学]]への入学許可を受けた<ref name=Holl />。進学したのは兄弟の中で彼のみであり、兄たちは家業の製粉業に就いていた。両親は彼に[[法律家]]への道を期待していたが<ref name=Holl />、実際にそこに籍を置いたのはわずか数ヶ月に過ぎず<ref group="注">レンブラントはオランダ語の読み書きができなかったという話を、死から3年後にヨアヒム・フォン・ザンドラルトという人物が残した。ただしライデン大学の記録には1620年5月20日付け名簿にレンブラントの名があり、文盲の人物を入学させるとは考えられない。[[#ボナフー2001|ボナフー (2001)、p.28]]</ref>同年末もしくは翌年には画家を志向した。当時は美術学校など無く<ref name=Shiba />、[[イタリア]]留学経験を持つ歴史画家[[ヤーコブ・ファン・スヴァーネンブルフ]]に弟子入りして絵画を学んだ。この顛末について、1641年にライデン元市長のヨハネス・オルレルスは同市の案内書の中で「(レンブラントの両親は)息子が[[絵画]]や[[デッサン]]にしか興味を持たないため、大学を退学させ、画家の下で[[美術]]を学ばせた」と記している<ref name=Bona17 />。ただしレンブラントが彼から学んだものは絵画の基礎的な部分にとどまったと見られ、スヴァーネンブルフが得意とした[[都市]]絵画や[[地獄]]図などには手を出していない<ref name=Great4>[[#グレートアーチスト67|グレートアーチスト、pp.4-11、オランダの至高の天才]]</ref>。
1628年にはレンブラントも弟子を指導するようになり、[[ヘリット・ダウ]]や[[イサーク・ジューデルヴィル]]が門下に入った。また、[[フレデリック・ヘンドリック (オラニエ公)|オラニエ公フレデリック・ヘンドリック]]の[[秘書]]官コンスタンティン・ハイヘンスとも親交ができる。後にオラニエ公はレンブラントの絵画を購入し、彼の財産目録には4点の作品が記されている。


3年間スヴァーネンブルフから絵画技法から[[解剖学]]まで必要な技能を学んだレンブラントは、その類稀な技術で既に評判を得ており、ヨハネス・オルレルスの記述によると「将来を見越し、父親が有名な画家に弟子入りさせた」とある通り、1624年に18歳のレンブラントは当時オランダ最高の歴史画家と言われた<ref name=momak />[[アムステルダム]]の[[ビーテル・ラストマン]][[:en:Pieter Lastman|(en)]]に師事した。この期間は半年だけだったが、ここで彼はカラヴァッジョ派の明暗を用いる技法<ref name=momak /><ref name=Minami135>[[#南城2003|南城 (2003)、pp.135-140、レンブラントの登場]]</ref>や物語への嗜好性、表現性など多くを学んだ<ref name=Great4 />。また[[アルブレヒト・デューラー]]の『人体均衡論』を深く読み、描写力に磨きをかけたともいう<ref name=Minami140>[[#南城2003|南城 (2003)、pp.140-143、レンブラントの素描観]]</ref>。
1631年、以前から交流があった<ref name="ozaki0" />画商にて画家の[[ヘンドリック・アイレンブルフ]]の[[アムステルダム]]にある工房に移った。翌年には代表作の一つ『[[テュルプ博士の解剖学講義]]』を製作し名声を得る。1633年にはアイレンブルフのまたいとこ[[サスキア・ファン・オイレンブルフ]]と婚約し、翌年には[[結婚]]をして正式なアムステルダム市民となり、また[[聖ルカ組合]]の一員となる。


=== 画家としての駆け出しと評価 ===
アイレンブルフから独立し、既に富と名声を得ていた<ref name="ozaki0" />1635年頃からレンブラントは美術品収集を積極的に始めるようになる。しかし、私生活には恵まれず、同年産まれた最初の子ロンベルトゥスは2ヶ月で死去。1638年生まれの長女コルネリア、1640年に生まれた次女コルネリアはどちらも1ヶ月の短命で亡くなる。1641年には息子ティトゥスを授かるが、傑作『[[夜警 (絵画)|夜警]]』を完成させた翌年には妻のサスキアを[[結核]]で失った。
[[ファイル:Rembrandt Harmensz. van Rijn 150.jpg|left|thumb|200px|処女作と言われる『聖ステノバの殉教』、1625年、[[リヨン美術館]]。]]
アムステルダムから戻ったレンブラントは実家に[[アトリエ]]を構え、早速製作に乗り出した。1625年には時期が判明している初の作品『聖ステノバの殉教(聖ステバノの石打)』を製作した<ref name=Kyoto />。また、この頃に同じラストマンに弟子入りし12歳で画家として活動を始めていた神童の呼び声が高い[[ヤン・リーフェンス]][[:en:Jan Lievens|(en)]]と知り合い<ref name=Bona17 />、競い合う関係が始まった<ref name=ozakiN>[[#尾崎2004|尾崎 (2004) pp.248-253、年表]]</ref>。彼とは一時期共同で工房を持った<ref name=Kyoto />。


1628年にはレンブラントも弟子を指導するようになり、[[ヘラルト・ドウ]]<ref name=Great4 /><ref>[[#slive|Slive、p.55]]</ref>や[[イサーク・ジューデルヴィル]]らが門下に入った<ref name=ozakiN />。弟子の一人ホーホストラーテン[[:en:Samuel Dirksz van Hoogstraten|(en)]]は1678年の著作『美術学校への招待』にて、レンブラントの指導について「知識は実践せよ。さすれば知らぬ事、学ばねばならぬ事が自明になる」という言葉を記した。この通り彼は常に新たな領域へ踏み込むことに熱心であり、この頃にはエッチングに手を染め始めた。先が二股の[[彫刻刀]]を自作したり、貧者や老人の姿をテーマとした[[版画]]を数多く製作した<ref name=Bona17 />。
この頃から、レンブラントの人生は暗転する<ref name="ozaki0" />。幼いティトゥスを世話するため乳母として雇ったヘールチェ・ディルクスとレンブラントは愛人関係となるが、この関係は後にこじれて1649年には婚約不履行で告訴されるなど泥沼と化す。この頃は創作活動も滞り気味となり、告訴された年には一点の作品も残されていない<ref name="ozaki0" />。


[[ファイル:Rembrandt The Artist in his studio.jpg|right|thumb|200px|『アトリエにいる風景』、1628年、[[ボストン美術館]]。]]
1650年代になると[[英蘭戦争]]勃発による経済不況の影響を受け、また蒐集のために浪費していたこともあってレンブラントは財政的に逼迫するようになった。1639年に購入し活動拠点となっていた邸宅([[レンブラントの家]])の分割支払いに困り借金を重ねたが返却の見込みは無く、美術品コレクションを売却してしのいだ<ref name="ozaki0" />。しかし1656年には返済不能になり、7月には事実上破産した。財産は売り立てられ、邸宅も手放した。
この頃には彼は頭角を現し始めていた。[[ユトレヒト]]の法律家で美術評論家のファン・ブヘルは、1628年の自著『絵画』の中でレンブラントが賞賛を受けていることを記している。彼の名を広める役割には、絵画以外にもエッチングがヨーロッパ中に流通したことも貢献していた。[[フレデリック・ヘンドリック (オラニエ公)|オラニエ公フレデリック・ヘンドリック]]の[[秘書|秘書官]][[コンスタンティン・ホイヘンス]][[:en:Constantijn Huygens|(en)]]([[数学者]][[クリスティアーン・ホイヘンス]]の父)は、レンブラントとリーフェンスの両方に目をかけた人物である。彼は二人を評して「創造性に優れる刺繍屋の息子(リーフェンス)と、判断力を表現力に優れる粉屋の息子(レンブラント)」と言い、いずれもが有名な画家と比肩し、そのうちにこれを超えるだろうと日記に認めた<ref name=Great4 /><ref name=Bona17 />。[[イギリス]]のアンクルム侯爵がオランダを訪問した際、ホイヘンスは[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]への献上品として何枚かの絵画を渡したが、その中には二人の絵も含まれていた<ref name=Bona17 />。この当時の作品『アトリエにいる風景』にて彼は[[キャンバス]]に向かう自分の姿を描いているが、この時の衣裳は来客を迎える[[正装]]であり、既に美術愛好家たちがレンブラントと接触を持っていたことを示す<ref name=Bona17 />。


=== アムステルダムへ ===
1658年、レンブラントはヨルダーン地区に移った。1660年には借金から逃れるために美術商に雇われるなど困窮にあった。1668年には結婚したばかりの息子ティトゥスを失い、翌1669年息子の忘れ形見ティティアを得るが、同年10月にレンブラントは亡くなった。遺体はアムステルダムの西教会に埋葬されている。<ref name="ozakiN">[[#尾崎|尾崎.248-253 年表]]</ref>
ホイヘンスは、レンブラントとリーフェンスの二人がどちらもイタリアへ行こうとしない事に驚いていた。スヴァーネンブルフのように経歴に箔をつける上で本場[[ローマ]]の美術に触れることは美術家にとって不可欠な時代だったが、二人は既にオランダに渡っていた著名なイタリア絵画の点数はそれなりにあり、また忙しいとも答えていた。しかし名声を得つつあるレンブラントにとってライデンは狭くなってきた。1630年4月23日に父親が亡くなる。彼はこれを機会に[[アムステルダム]]へ進出する決断をした<ref name=Bona17 />。


[[ファイル:Michiel Jansz van Mierevelt - Anatomy lesson of Dr. Willem van der Meer.jpg|left|thumb|150px|ミヒール・ファン・ミーレフェルト[[:en:Michiel Jansz van Mierevelt|(en)]]の『デルフトのファン・デル・メール博士の解剖講義』。各人物をはっきりかつ公平に描く当時の集団肖像画の典型。]]
== レンブラント工房 ==
1631年、以前から交流があった<ref name=ozaki0 />画商にて画家の[[ヘンドリック・アイレンブルフ]][[:en:Hendrick van Uylenburgh|(en)]]のアムステルダムにある工房に移り<ref name=ozakiN />、ここのアトリエで[[肖像画]]を中心とした仕事をこなし始めた<ref name=Bona45>[[#ボナフー2001|ボナフー (2001)、pp.45-82、光の時代]]</ref>。
20世紀後半に研究が進み、かつてレンブラント作とされた作品の中に「工房(アカデミー)作」のものが多く含まれていることがわかってきた。工房といっても、画家の下絵を弟子が仕上げていくといった分業体制ではなく、レンブラント工房の場合は、弟子がレンブラントの画風に従って制作しており、レンブラントが手を入れることはなかったようである。

1632年、レンブラントは大きな仕事の依頼を受けた。著名な[[医師]]のニコラス・ピーデルスゾーン・トゥルプ教授が行う[[解剖]]の[[講義]]<ref group="注">当時、広義の「外科医療」には[[理容師]]が行う簡単な傷病や腫れ物の手当ても含まれていた。本格的な外科医は、解剖を行うことでこれらとの差別化を行う必要があった。[[街道をゆく]] 35オランダ紀行、pp.125-135</ref>を受ける名士たちを描く集団肖像画の製作で、この絵は有力者も出入りする[[外科医]]組合会館に展示されることになっていた。これに成功すれば大きな名声を得られる彼は、驚嘆されるような前例の無い絵画に取り組んだ。集団肖像画はオランダでは1世紀以上の伝統を持つが、その構図は各人物それぞれに威厳を持たせた明瞭な描き方をすることに注力するあまり、まるで記念写真のように動きに乏しく没個性的で<ref name=Great4 />、絵の主題とポーズや構図に違和感があった。レンブラントは、「解剖の講義」という主題を前面に押し出して表現するため、[[鉗子]]で[[腱]]をつまむトゥルプ教授に全体の威厳を代表させ、他の人物の熱心に語りを聴く姿から彼らの学識を表現した。これがレンブラントを代表する一つかつ出世作<ref name=Inada>{{cite web|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110000475511|title=クローデルとレンブラント‐「夜警」に見る「解体」‐|publisher=Cinii論文、[[聖徳大学]]短期大学部|author=稲田弘子 |language=日本語|accessdate=2011-01-21}}</ref>となった『[[テュルプ博士の解剖学講義]]』であり、彼は高い評価を得た<ref name=Bona45 />。

[[ファイル:Saskia.jpg|right|thumb|200px|妻[[サスキア・ファン・オイレンブルフ]]の肖像、1635年。]]
=== 結婚 ===
アイレンブルフの家に間借りしていた<ref name=Holl />レンブラントは、1633年にそこでアイレンブルフの[[いとこ]]<ref name=Holl /><ref>[[#Slive1995|Slive (1995)、pp.60-61]]</ref>(またいとこ<ref name=ozakiN />または[[姪]]<ref name=Bona45 />とも)で22歳<ref name=Taka>{{Cite book|和書|author=[[高階秀爾]]|title=西欧芸術の精神|chapter=レンブラント、光と影のドラマ|publisher=[[青土社]]}}</ref>の[[サスキア・ファン・オイレンブルフ]]と知り合った。彼女の父は亡くなっていたが[[レーワルデン]]市長を務めたこともある人物で、その一族は裕福だった<ref name=Bona45 />。1633年には婚約し、翌年にはレンブラント側の親族を誰も呼ばないまま<ref>{{cite web|url= http://stadsarchief.amsterdam.nl/english/amsterdam_treasures/famous/rembrandt_and_saskia/index.en.html|title=Rembrandt and Saskia |publisher=Gemeente Amsterdam |language=英語|accessdate=2011-01-21}}</ref>[[結婚]]式を挙げた。これで彼は正式なアムステルダム市民となり、また[[聖ルカ組合]]の一員となる<ref name=ozakiN />。多額の持参金と富裕層へのコネクションをもたらしたサスキアは、レンブラントの絵のモデルとなり、ふくよかな姿を描いた多くの作品が残された<ref name=Bona45 />。

名声を得たレンブラントは、提督オラニエ公からの注文を受け「キリストの受難伝」をテーマにした作品群(『キリスト昇架』<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>『十字架降下』<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>等)などを仕上げたが、これは公が気に入らず代金支払いが滞った<ref name=Bona45 />。しかし、提督の財産目録には4点の作品が記されている<ref name=ozakiN />。多くの弟子が門下に入り、フェルディナンド・ボル[[:en:Ferdinand Bol|(en)]]、ホファールト・フリンク[[:en:Govert Flinck|(en)]]<ref name=Bull-28>[[#Bull|Bull, et al.、p.28]]</ref>、ヘルブラント・ファン・デン・エークハウト[[:en:Gerbrand van den Eeckhout|(en)]]ら50人が名を連ねた。これらもあってレンブラントは、1635年にはアイレンブルフから独立したアトリエを構えた<ref name=Bona45 />。

富と名声を得ていた<ref name=ozaki0 />レンブラントは、弟子を教育しつつ、自らもあらゆるものを対象に描いた。妻サスキアをモデルにした『春の女神フローラに扮したサスキア』<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>『アルテミシア』<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>(ともに1634年)から、依頼を受けた肖像画、そして街中で見かけた物売りや乞食のデッサン、情景を空想し描いたロンドンやイタリア田園風景などを数多く描いた。その資料とするために、彼はいろいろなものを積極的に[[収集]]するようになる。美術品や、[[刀剣]]など[[工芸]]品、多くの民族にわたる[[衣装]]や[[装飾品]]など手当たり次第と言える膨大な点数を所蔵した<ref name=Bona45 />。そして自らにふさわしい豪邸を求め、[[ユダヤ人]]街になりつつあったヨーデンブレーストラート[[:en:Jodenbreestraat|(en)]](聖アントニウス広小路<ref name=Kyoto />)に、後に[[レンブラントの家]]と呼ばれることになる[[邸宅]]を1639年に[[割賦販売|年賦支払い]]で購入し、ここで大きな規模の工房を主宰した<ref name=Minami135 />。これは13,000[[ギルダー]]もの費用を要し<ref name=Bull-28/><ref group="注">この価格の妥当性について司馬はガイドに聞いたところ、婉曲な言い回しで法外なものだったと回答を得た。レンブラントには金銭感覚があまり無かった。[[街道をゆく]] 35オランダ紀行、pp.125-135</ref>、周囲からサスキアの財産を食いつぶしているのではと非難を受けた<ref name=Bona45 />。一方で[[投機]]にも手を出しては失敗を重ねていた<ref>[[#Clark1978|Clark (1978)、pp.26-27, 76, 102]]</ref>。

=== 『夜警』製作と人生の暗転 ===
[[ファイル:Rembrandt Harmensz. van Rijn 139.jpg|thumb|left|200px|『酒場のレンブラントとサスキア(放蕩息子)』、油彩、1635年頃、エルミタージュ美術館。この絵を制作した当時、彼には妻の財産を浪費して邸宅や収集品を買い集めているという非難があがっていた。そのような意見を無視することを決め込み、この絵で自分を放蕩息子に例えて表した。<ref name=Bona45 />]]
レンブラントは、1640年の末に火縄銃手組合が発注した複数の集団肖像画のうち、市の名士フランス・パニング・コック率いる部隊の絵を受けた。彼は独自の主題性と動きのある構図を用いて、1642年初頭に『[[夜警 (絵画)|夜警]]』を完成させた。注文された絵は組合会館(ニュウヘ・スタッドハイス)に掲げられたが、弟子のホーホストラーテンは『夜警』を評し「展示された他の絵が、まるで[[トランプ]]の図柄のように見えてしまう」と、その傑出性に眼を見張った<ref name=Bona45 />。

しかしこの頃、彼は多くの不幸に見舞われていた。1635年12月に生まれた最初の子ロンベルトゥスは2ヶ月で死去。1638年7月生まれの長女コルネリア(母親と同名<ref name=Great4 />)、1640年7月に生まれた姉と同じ名をつけた次女コルネリアはどちらも1ヶ月程の短命で亡くなる<ref name=ozakiN />。この年9月には母も亡くなった<ref name=Bona45 />。彼の子供のうち、成人を迎えられた者は1641年に授かった息子ティトゥス[[:en:Titus van Rijn|(en)]]だけだった<ref name=Bona45 />。

『夜警』の製作中、妻のサスキアが体調を崩し寝込んでしまう。レンブラントは病床の彼女を描いた素描を残している<ref name=Slive-71>[[#Slive1995|Slive (1995)、p.71]]</ref>。彼女は一向に回復を見せず、1642年には遺書を用意した。それによると、4万ギルダーの遺産はレンブラントと息子ティトゥスが半分ずつ相続するが、息子が成人するまでは彼を唯一の後見人として自由に使うことを認めた。ただし、もし彼が再婚した場合、この条項は無効になった。6月14日、サスキアは30歳で亡くなった。[[結核]]が原因だったと推測される。レンブラントはアウデ教会に購入した墓地に彼女を埋葬した<ref name=Bona45 />。

{{external media| align = right| width = 250| image1 = [http://www.britishmuseum.org/research/online_research_catalogues/search_object_details.aspx?objectid=692327&partid=1&output=bibliography%2F!!%2FOR%2F!!%2F5806%2F!%2F%2F!%2FCatalogue+of+Drawings+by+Rembrandt+and+his+School+in+the+British+Museum%2F!%2F%2F!!%2F%2F!!!%2FPeople%2F!!%2FOR%2F!!%2F116127%2F!%2F116127-3-17%2F!%2FPurchased+from+Col+John+Wingfield+Malcolm%2F!%2F%2F!!%2F%2F!!!%2F&orig=%2Fresearch%2Fonline_research_catalogues%2Frussian_icons%2Fcatalogue_of_russian_icons%2Fadvanced_search.aspx&currentPage=1&catalogueOnly=true&catparentPageId=28968&catalogueName=&catalogueSection=&numpages=12 ヘールトヘ・ディルクスの素描]</br>ただし否定する意見もある。}}
この頃からレンブラントの人生は暗転する<ref name=ozaki0 />。サスキアの看病や<ref name=Bull-28/>幼いティトゥスを世話する親族の女性はおらず、仕事を抱える<ref name=Bona45 />彼は[[乳母]]として北部出身で農家の未亡人ヘールトヘ(ヘールチェ<ref name=ozakiN />)・ディルクス[[:en:Geertje Dircx|(en)]]を雇った。やがてレンブラントは彼女と[[愛人]]関係となる<ref name=Bona83>[[#ボナフー2001|ボナフー (2001)、pp.83-104、影の時代]]</ref>。

彼はまた旺盛な制作活動に戻ったが批判も聞かれるようになった。特に肖像画では、発注主の注文とレンブラントの目指す芸術性に乖離があり、自分がはっきりと立派に見える要望に答えない彼よりも、これらを満足させる画家の方が好まれた。また、完璧主義の彼は顧客を待たせることで有名だった。画家兼批判家のハウブラーケンは、レンブラントは顔や構図一つに10以上の下書きをすることもあったと述べ、イタリアのフィリッポ・バルディヌッチ[[:en:Filippo Baldinucci|(en)]]は、筆を入れ始めてからも何度も書き直すため顧客は何ヶ月も拘束されたと語った。ハウブラーケンまた一つの出来事を述べているが、それはある家族の肖像画を製作中にレンブラントが飼っていた猿が死んだ時に起こった。彼はその死体を完成目前の絵に書き込み出した。これに依頼主の家族は怒り、結局仕事は破棄されたという。このような事が重なり、レンブラントへの肖像画の依頼は段々と減っていった<ref name=Bona83 />。彼は[[聖書]]や[[福音書]]を主題とした絵も描き、『キリストと姦淫の女』<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>や『割礼』は完成した絵から選んでオラニエ公が購入している。これはオランダ絵画の新しい販売方法でもあった<ref name=Bona83 />。

[[ファイル:RembrandtHendrickje.jpg|right|thumb|200px|『ベッドの中の女』、スコットランド国立美術館。ヘンドリッキエがモデルと言われるが、ケネス・クラーク[[:en: Kenneth Clark|(en)]]はヘールトヘがモデルという説を述べた<ref name=Taka />。]]
しかし、彼の浪費癖は治まらなかった。絵に必要と思えば骨董から古着まで買い漁り、また様々な絵画や版画・デッサンもオークションなどで高値を提示して落札した。バルディヌッチによると、レンブラントは美術そのものの価値を高めるためにこのような行動を取ったというが、収入を上回る支出は思慮に欠いたもので、当時の[[プロテスタント]]的価値観が強いオランダでは嫌われる「放蕩」であった<ref name=Bona83 />。

[[ファイル:Rembrandt Harmensz. van Rijn 081.jpg|left|thumb|200px|ヘンドリッキエ・ストッフェルドホテル・ヤーヘルの肖像、1655年。]]
さらに私生活も泥沼を迎える。1649年頃(1647年? <ref name=Kyoto />)、彼は若い家政婦ヘンドリッキエ・ストッフェルドホテル・ヤーヘル[[:en:Hendrickje Stoffels|(en)]]を新たに雇い<ref name=Taka />、彼女を愛人として囲い始めた。それは同時にヘールトヘの立場を悪くし、彼女をして憎しみに駆り立たせた。1649年にヘールトヘは、贈られた宝石を根拠に婚約が成立していたと主張し、その不履行でレンブラントを[[告訴]]した。裁判でレンブラントはヘールトヘに毎年200ギルダーの手当てを渡す命令が下された。この頃は創作活動も滞り気味となり、告訴された年には一点の作品も残されていない<ref name=ozaki0 />。後にレンブラントは、ティトゥスに贈与した宝石をヘールチェが勝手に持ち出して売りさばいていたと訴え<ref name=Taka />、これが認められて彼女はハウダの更正施設(または[[精神病院]]<ref name=Great4 />)での<ref name=ozakiN />12年の拘禁刑に断じられ、彼は腐れ縁から手を切ることができた。ヘールトヘは5年で出所したが、健康を壊したのか翌年には死亡した<ref name=Bona83 />。レンブラントとヘンドリッキエの間には、1652年に生まれた子はすぐに亡くなったが<ref name=Great4 />、1654年に娘コルネリアが誕生した<ref name=ozakiN />。

強欲さをむき出しにし、また絵のモデルもほとんど務めなかったヘールトヘと違い、ヘンドリッキエはレンブラントを支え、彼女を描いた絵画も残っている。しかし、サスキアの遺言に縛られ二人は婚姻していなかった<ref name=Slive-71/>。裁判所は不義の嫌疑を理由に出頭を命じたがレンブラントは拒否<ref group="注">[[#ボナフー2001|ボナフー (2001)、pp.83-104、影の時代]]の表記。[[#Slive1995|Slive (1995)、p.82]]では、レンブラントは[[オランダ改革派教会]]の信者でなかったため呼び出しを受けなかったとある。</ref>、ヘンドリッキエは2度聴聞を受け別れるように言われたが従わなかった<ref name=Bona83 />。

=== 無一文へ ===
しかしこの頃になると、レンブラントは金銭に事欠くようになる。仕事はめっきり減ったが浪費はそのまま、方々からの借金で賄っていたが返済の当ても無く、邸宅の年賦支払いも滞っていた<ref name=Bona83 />。このような事態に、彼は美術品コレクションを売却してその場をしのいでいた<ref name=ozaki0 />。ところが、1652年に[[英蘭戦争]]が勃発しオランダ経済が不況に陥ると、債権者たちは段々と態度を硬化させ始めた。1656年にレンブラントは美術品や邸宅など財産をティトゥスに相続させて保全しようとしたが、孤児裁判所はこれを認めなかった<ref name=Bona83 />。

[[ファイル:Rembrandt Harmensz. van Rijn 103.jpg|right|thumb|200px|カプチン派修道士の姿をしたティトゥス、1660年、アムステルダム国立博物館。]]
そして7月20日、高等裁判所は法定精算人を指定し、レンブラントに「セシオ・ボノルム(ケッシオ・ボノールム、財産譲渡または財産委託)」を宣告した<ref name=Great4 />。セシオ・ボノルムとは、商取引の損失でよく適用される債務者の財産をすべて現金化して全債権の弁済とする方法であり、破産するよりは比較的緩やかな処分である。これを受けてレンブラントの363項目にわたる財産目録が作成された<ref name=Bona156>[[#ボナフー2001|ボナフー (2001)、pp.156-163、資料5競売用に作成されたレンブラントの資産一覧]]</ref>。販売品リストが残っており、蒐集品の内容を知ることができる。著名な作者の絵画や素描、ローマ皇帝の胸像、日本の武具やアジアの物品、自然史関係の物品や鉱物などがあった<ref>[[#Slive1995|Slive (1995)、p.84]]</ref>。競売は1656年9月に始まり<ref name=Bona83 />、翌年までに買い叩かれた<ref>[[#Slive1995|Slive (1995)、p.84]]</ref>。1660年12月18日に、11,218ギルダーで売れた<ref name=Bona83 /><ref group="注">[[#Schwartz1988|Schwarz (1988)、p.12]]によると、邸宅は2年前に売れていたが、彼は2年間そのまま住むことを許されていた。</ref>邸宅を彼は去って貧民街である<ref name=Great4 />ヨルダーン地区<ref name=Kyoto />ローゼンフラフトの街に住み着いた<ref name=Bona105>[[#ボナフー2001|ボナフー (2001)、pp.105-132、ただ、自らを見つめて]]</ref>。行政や債権者たちはレンブラントに好意的だったが、アムステルダムの画家ギルド[[:en:painters' guild|(en)]]は厳しく、彼は画家として扱わないように定めた<ref name=Clark105>[[#Clark1978|Clark (1978)、p.105]]</ref>。これに対処するため、1660年にヘンドリッキエと20歳になったティトゥスは共同経営で画商を始めてレンブラントを雇う形態を取り、絵画の注文を受けられるようにした<ref name=Clark105 /><ref name=ozaki240>[[#尾崎2004|尾崎 (2004) pp.240-242、第七章 1.破産後の蒐集活動]]</ref>。

このような境遇においても、レンブラントが抱える探求心は損なわれる事は無く、かえって純粋に「画家とは」や「芸術家とは」という主題に向き合った<ref name=Minami150>[[#南城2003|南城 (2003)、pp.150-152、ゴヤの素描観‐近代美術の誕生]]</ref>。そして画家としての評価も依然高く、最盛期ほどではないとしても絵画作成の依頼もあった。アムステルダム市からは新庁舎に掲げる絵の依頼を受けたが、これは依頼を受けていたホーファールト・フリンク[[:en:Govert Flinck|(en)]]が急死したためである<ref name=Clark60-61>[[#Clark1978|Clark (1978)、pp.60-61]]</ref>。1661年に『クラウディウス・キウィリスの謀議』[[:en:The Conspiracy of Claudius Civilis|(en)]] <small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>を完成させている。ただしなぜかこの絵は数ヵ月後には外され、レンブラントへ返却された。現在この絵は、部分しか伝わっていない<ref name=Clark60-61 />。他にも集団肖像画『織物商組合の幹部たち』(1662年)、シチリア貴族のルッフォ(ルフォー)から依頼を受け描いた『アレクサンダー大王』(1663年<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>)『ホメロス』(1663年<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>)などを描いた<ref name=Bona105 /><ref>[[#Bull2006|Bull (2006)、p. 29]]</ref><ref name=Okabe>{{cite web|url=http://repository.lib.tottori-u.ac.jp/Repository/file/2439/20100204001033/jfge7_1(1).pdf |format=PDF|title=レンブラントの歴史的肖像画|author=岡部紘三|publisher=[[鳥取大学]]研究成果リポジトリ|language=日本語|accessdate=2011-01-21}}</ref>。

[[ファイル:Amsterdam west kerk2.jpg|right|thumb|150px|2人の妻、息子、そしてレンブラント本人が埋葬された西教会 (Westerkerk)]]
しかしこの頃、ヘンドリッキエは健康を害し、1661年8月7日に彼女は娘コルネリアが相続する財産をレンブラントが自由に使えるように定めた遺言書を作成した。この中で彼女はレンブラントの妻とされており、財産譲渡によってサスキアの遺言が事実上無意味になったことから二人は結婚していたと考えられる<ref name=Bona105 />。レンブラントは絵画制作のためにまたも美術品の蒐集などに手を出して借金を作っており、ついには、1662年にサスキアが眠るアウデ教会の墓所を売却するまでして金策に走っていた。これを憂慮した遺言を残したヘンドリッキエは1663年7月末に38歳で<ref name=Taka />亡くなり、彼女は移されたサスキアの棺が安置された西教会[[:en:Westerkerk|(en)]]に葬られた<ref name=Bona105 /><ref>[[#Slive1995|Slive (1995)、p.83]]</ref>。

=== 晩年そして死去 ===
1667年12月29日、[[トスカーナ大公国]]の[[コジモ3世]]がレンブラントのアトリエを訪問した。随行員の日記に「有名なレンブラント」とある通り、彼の名声は健在だった。ここでコジモ3世はレンブラントの自画像を購入したと思われる<ref name=Bona105 /><ref>[[#Clark1978|Clark (1978)、p.34]]</ref>。

しかし彼の人生は好転しなかた。ティトゥスは1668年2月10日にマグダレーナ・ファン・ローと結婚したが、9月4日に急死してしまった。晩年の彼は娘コルネリアと雇った老女中と生活し、「パンとチーズと酢漬ニシンだけが一日の食事」と記されるほど質素な日々を送った<ref name=Great4 />。翌1669年に息子の忘れ形見ティティアを得るが、同年10月4日にレンブラントは亡くなった。遺体は二人の妻、そして息子が眠る西教会に埋葬された<ref name=ozakiN /><ref name=Bona105 />。

== 絵画の変遷 ==
[[File:Rembrandt Abduction of Europa.jpg|200px |right|thumb|『エウロペの誘拐』、1632年、ゲテイ美術館。油彩パネル画。この絵はバロック調絵画の黄金時代を代表する<ref>[[#Clough1975|Clough (1975)、p.23]]</ref>]]
=== 主題や形式 ===
レンブラントは生涯の創作活動において、[[物語]]、[[風景]]そして肖像を絵の主題とした。そして最終的に、感情や細部まで緻密に描写する技能に裏打ちされた彼が描く天才的な聖書物語の解釈は、同時代人から高い評価を受けた<ref>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、p.268]]</ref>。修辞的に言えばレンブラントの絵画は、初期の「滑らかな」技法がもたらす[[奇術]]のような形式を持つ描画に見られる卓越した技能から、後期の画面上に現れる豊かで多彩な「荒々しい」様がもたらす画材そのものが作り出す触覚にさえ訴えかける質感が与える幻影的手法へと進歩した<ref>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、pp.160, 190]]</ref>。

彼は同時に、版画における技能も切り開いたと言える。円熟期の中でも特に進歩的だった1649年代末頃は、素描や絵画同様に版画においても自由闊達かつ幅広い表現を感じ取ることが出来る。作品は、広範な主題要素や技術を包含し、時には空間を意識して空白の部分を設けたり、時には織物のように複雑な線を与えて濃く複雑な彩を現出した。<ref>[[#Ackley 2004|Ackley (2004)、p.14]]</ref>

ライデン時代のレンブラント(1625年 - 1631年)は、ラストマンから受けた影響が色濃く現れており、またリーフェンスも意識していたことが伺える<ref name=Wetering-284>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、p.284]]</ref>。絵の号は小さいが、衣装や宝石などは丁寧な描き方がされている。宗教画や[[アレゴリー]]を多く描き、大きさも肖像画には充分でない半分程度の大きさであるトローニー[[:en:tronies|(en)]]を描いた<ref name=Wetering-284/>。1626年、初めて製作したエッチングが知れ渡り、レンブラントの名声を国際的なものにした<ref name=Wetering-284/>。1629年に完成させた『30枚の銀貨を返すユダ』<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>や『アトリエにいる風景』は、光の技法と筆跡の多彩さに意識を向けていたこと、そして彼が画家として成長する過程において大きな進歩を成したことを示す<ref>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、p.285]]</ref>

[[File:Rembrandt, Portret van Haesje v.Cleyburg 1634.jpg|left|thumb|200px |1634年の肖像画。当時レンブラントは成功の渦中にあった。]]
アムステルダム時代(1632年-1636年)、レンブラントは聖書物語や神話の場面を題材に、『ベルシャザルの酒宴』(1635年<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>)、『ペリシテ人に目を潰されるサムソン』(1636年<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>)、『ダナエ』(1636年)など、[[ピーテル・パウル・ルーベンス]]のバロック調を真似て大きな号に明暗を利かせた絵画を仕上げた<ref>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、p.287]]</ref>。時にアイレンブルフ工房の助けを借りて、レンブラントは夥しい数の肖像画を作成した。それは小さな号(『ヤコブ・デ・ヘイデン三世』、1632年<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>)から大きなもの(『テュルプ博士の解剖学講義』1632年、『Portrait of the Shipbuilder Jan Rijcksen and his Wife』1633年)まであった<ref>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、p. 286]]</ref>。

{{external media| align = right| width = 250| image1 = [http://www.rembrandtpainting.net/rmbrndt_selected_drawings/cottagesbis.htm 『Cottages before a Stormy Sky』1641年]}}
1630年代末頃から、数点の油彩と多くのエッチングで[[風景画]]を製作した。これらはしばしば、自然のドラマ性を強調し、根こそぎの木や不吉な空(『Cottages before a Stormy Sky』1641年、『3本の木』1643年<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>)を描いたものもある。1640年からは、彼自身の不幸な状況が反映したのか、活力に欠け地味な色調へ変化した。聖書物語も以前主にモチーフとして使用した[[旧約聖書]]から、[[新約聖書]]に題材を多く求めるようになった。1642年にはレンブラントは集団肖像画を受注し、最大にして最も有名な『夜警』を製作した。ここでは、以前からの仕事にあった構成と物語性の問題に対する解答を見つけ出した。<ref>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、p.288]]</ref>

[[File:Rembrandt Harmensz. van Rijn 060.jpg|right|thumb|200px |『水浴する女』、1654年-1655年、ロンドン・ナショナルギャラリー。]]
『夜警』後の10年間、レンブラントは様々な号、対象そして形式の絵画に取り組んだ。それまでの強い光による明暗で生み出していた演劇的効果は、正面からの光源と純粋な色彩を広く多用する方式に変化した。同時に、図像が画面に平行して置かれるようになった。このような変貌は、古典的な流儀と構成に軸足を移そうとしたことの現われであり、また画法による表現のやり方は『水浴するスザンナ』(1636年、<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>)のように[[ヴェネツィア]]流を取り入れたような傾向を垣間見える<ref>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、pp.163-165]]</ref>。また同じ頃、油彩の風景画はめっきり減り、エッチングや素描に替わった<ref>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、p.289]]</ref>。その素材も、自然のドラマ性からオランダの静かな風景へとなった。

[[File:Rembrandt-The return of the prodigal son.jpg |left|thumb|200px |『放蕩息子の帰還』、1666年-1668年、エルミタージュ美術館。晩年の聖書画。]]
1650年代になると、レンブラントの絵画形式はまたも変化を見せた。多彩になり、筆使いは特に変わった。この変貌によって、レンブラントは過去の作品や持っていた作風から脱皮し、ますます洗練された繊細な作品を指向した。描画における彼の独創的な手法は[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]]に通じるものがあり、それは現代も「仕上げ」と表面処理の完成度に対する議論の中に見ることができる。当時の記録の中には、レンブラントの画法が粗雑だという批判も存在し、彼は訪問者が絵をまじまじと見ないよう遠ざけたともいう<ref>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、pp.155-165]]</ref>。触知できるような絵画に対する技法は、中世的な手法から得た可能性があり、絵画の表面に息吹を与える表現の模倣効果を持った。最終的な結果は、絵の具を豊富に用いて作る深い層に明らかな偶然がもたらす効果を織り交ぜつつ、奇術的かつ非常に独特な手法を合わせ持つ形式と空間を提示した<ref>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、pp. 157-158, 190]]</ref>。

晩年には、聖書物語をテーマにこそ基づいているが、その強調するところは1661年の『聖ヤコブ』<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>のように演劇的な集団を描く場面から肖像画的風の構図へと変わった。レンブラントは最晩年となった1669年に、生涯に描いた15の自画像の中でも最も深淵な一枚を残し、また『ユダヤの花嫁(イサクとリベカ)』<small>[[#ギャラリー|<ギャラリー>]]</small>など愛に生きる、人生を過ごす、神に祈る男女の絵を何枚か描いた。<ref>「(後期)レンブラントが描いた、生きた人間とまみえるように感じられる絵は、その暖かさ、共感を求める姿、または孤独や受難を我々は感じ取る。彼らの鋭く凝らした瞳は、レンブラントの自画像と同じく我々の心への訴えかけを直に感じざるを得ない。」[[#Gombrich1995|Gombrich (1995)、p.423]]</ref><ref>「それ(ユダヤの花嫁)は愛を育み、華美と慈愛と信頼などさまざまなものがすばらしい融合を見せ、誠実さに溢れたふたりの顔には古典的な描法では決して描くことができなかった霊的な輝きを湛えている」[[#Clark1969|Clark (1969)、p.206]]</ref>

[[File:Rembrandt The Hundred Guilder Print.jpg|thumb|200px |100グルテン版画[[:en:The Hundred Guilder Print|(en)]]『病人を癒すキリスト』、1647年 - 1649年。アムステルダム歴史博物館、他。]]
[[File:Rembrandt The Three Crosses 1653.jpg|thumb|right|200px |『三本の十字架』、1653年。全6ステートのうちの第3ステート。]]
===エッチング===
レンブラントは画家として駆け出しの1626年から、1660年に印刷機を手放し実質的な製作活動が出来なくなるまで、私生活のトラブルに忙殺された1649年を除いてエッチングに取り組み続けた<ref>[[#Schwartz1994|Schwartz (1994)、pp.8-12]]</ref>。彼はこれを気軽に始めたが、ビュラン[[:en:burin|(en)]]の使い方を習ったり[[エングレービング]]に手を出して多くの作品を残したりしながら、束縛されないエッチング技法を自分のものとした。彼は印刷工程全体にも強く関わり、初期の作品では自分の手で印刷を行ったと考えられる。最初の頃、素描技法を基礎にエッチングを行っていたが、すぐに絵画技法へ変更し、固まりのような線と酸による腐食を多用して描線の強さに変化をつけた。1630年代末頃、レンブラントのエッチングは腐食をほとんど用いない簡素な形式へ変貌した<ref>[[#White1969|White (1969)、pp.5-6]]</ref>。1640年代にはいわゆる『100グルテン版画』[[:en:Hundred Guilder Print|(en)]]を製作し、これはレンブラントがエッチングのスタイルを確立し始める「彼のキャリアにて中期に当る重要な仕事」に相当した<ref>[[#White1969|White (1969)、p. 6]]</ref>。しかし、この版画は2つのステート(版)[[:en:state (printmaking)|(en)]]しか残されていない。1版目の点数は非常に少ないが、これによって版元には作り直しが行われた証拠となり、多く存在する2版目の写しに無い要素が残っている<ref>[[#White1969|White (1969)、pp.6, 9-10]]</ref>。


1650年代には成熟を迎え、現存する11の版画に見られるようにレンブラントは即席で大版の製作に携わり、時に根本的な変革を加えることもあった。[[ハッチング]]技術を用いて作り出した暗い部分は、時には画面の大部分を占めることもあった。また、紙にも検討を加えて効果を見極め、[[ヴェルム]]や後に多用した[[和紙]]などを試した。さらに、印刷時に平坦な部分のインクをすべて拭き取らずにあえて少々残すことで「表面トーン」 (surface tone) の効果を表した工夫も凝らした。特に風景描写にて、彼は[[ドライポイント]]技法を多用し、一瞥では分かりにくいが豊かでぼやかされたぎざぎざを作り出した。<ref>[[#White1969|White (1969)、pp.6-7]]</ref>
弟子の一人に[[アールト・デ・ヘルデル]]がおり、工房で同一のモデルを異なる方向から描いたレンブラントの『腰掛けた裸婦』([[シカゴ]]、アートインスティチュート蔵)とヘルデルの『腰掛けた裸婦』([[ロッテルダム]]、ボイマンス・ファン・ビューニンゲン美術館)がある。<ref name="ozaki1">[[#尾崎|尾崎.15-48 名声への戦略]]</ref>


== 代表的な作品 ==
=== 集団肖像画 ===
[[ファイル:The Anatomy Lesson.jpg|thumb|200px|『テュルプ博士の解剖学講義』、油彩、1632年。]]
==== テュルプ博士の解剖学講義 ====
==== テュルプ博士の解剖学講義 ====
[[ファイル:The Anatomy Lesson.jpg|thumb|300px|『テュルプ博士の解剖学講義』、油彩、1632年]]
{{main|テュルプ博士の解剖学講義}}
{{main|テュルプ博士の解剖学講義}}
『テュルプ博士の解剖学講義』に描かれているのは、1632年1月に行われた講義にて、アムステルダムの市長にも2度就任した教授のニコラス・ピーテルスゾーン・テュルプ博士が切開した腕から腱を摘み上げて筋肉組織を説明している場面である。ここで博士の説明を聞く男性たちの中に医者はおらず、全員が街の名士であった。中央の人物が持つ書類は、彼らの名簿である<ref name=Bona45 />。死体は犯罪者 Aris Kindt のもので、その日の午前、持凶器強盗の罪で絞首刑になった<ref name="carnal_art">{{cite book|last=O'Bryan|first=C. Jil|title=Carnal Art |publisher=University of Minnesota Press|date=2005|pages=64&ndash;67|isbn=9780816643226|url=http://books.google.co.uk/books?id=x1KEO_H34EcC&pg=PA64}}</ref>。[[オランダ]]の[[デン・ハーグ]]にある[[マウリッツハイス美術館]]の所蔵。
『テュルプ博士の解剖学講義』に描かれているのは、ニコラス・テュルプ博士が腕の筋肉組織を医学の専門家に説明している場面である。
死体は犯罪者 Aris Kindt のもので、その日の午前、持凶器強盗の罪で絞首刑になった<ref name="carnal_art">{{cite book|last=O'Bryan|first=C. Jil|title=Carnal Art |publisher=University of Minnesota Press|date=2005|pages=64&ndash;67|isbn=9780816643226|url=http://books.google.co.uk/books?id=x1KEO_H34EcC&pg=PA64}}</ref>。見学者の一部は、絵に描いてもらう代金を支払った医者たちである。[[オランダ]]の[[デン・ハーグ]]にある[[マウリッツハイス美術館]]の所蔵。
{{-}}


従来の集団肖像画に無い斬新な構図で若いレンブラントの名を高めたが、そこに描かれた人物たちの視線は方々に散っており、纏まりや緊張感を表現できていないという評もある<ref name=Inada />。

[[ファイル:The_Nightwatch_by_Rembrandt.jpg|thumb|200px|『フランス・バニング・コック隊長の市警団』、油彩、1642年、アムステルダム国立博物館。]]
==== フランス・バニング・コック隊長の市警団(夜警) ====
==== フランス・バニング・コック隊長の市警団(夜警) ====
{{main|夜警 (絵画)}}
[[ファイル:The_Nightwatch_by_Rembrandt.jpg|thumb|300px|『フランス・バニング・コック隊長の市警団』、油彩、1642年]]
レンブラントの著名な作品として『[[夜警 (絵画)|フランス・バニング・コック隊長の市警団(夜警)]]』が挙げられる画面が黒ずんでいることから夜の様子を描いたと考えられ付けられた名前だが、実際には左上から光が差し込んでり昼の時間であ。この作品は『フランス・バニング・コック隊長の市警団』という題名であり、火縄銃手組合から依頼で描かた作品だったが、登場人物の各人が同じ金額を払ったが平等に描かれておらず、何も関係のない少女を目立たせたため物議をかもしたようであるこの作品の後、レンブラントへの注文激減したという。しかし火縄銃手組合本部に掲げられた絵画の出来栄えは圧倒的であり、レンブラントの評価を高めた。<!----依頼主を激怒させ、訴訟沙汰になったという説もある。ンブランへの仕事の依頼も激減し←これは誤りであろう---->
レンブラントの著名な作品として『フランス・バニング・コック隊長の市警団(夜警)』が挙げられる画面が黒ずんでいることから夜の様子を描いたと考えられ付けられた名前だが、これはニスの劣化によるもので、実際には左上から光が差し込んでいる描写がある通昼の情景を描いている。この作品は『フランス・バニング・コック隊長の市警団』という題名であり、火縄銃手組合から依頼れ、登場人物の各人が同じ金額を払って製作され。しかし各人が平等に描かれていない上、何も関係のない少女を目立たせたため物議をかもした。コック隊長は気に入り、絵画の出来栄えはレンブラントの評価を高めた。<ref name=Great16>[[#グートアーチスト67|グレートアーチスト、pp.16-17、名画の構成:夜警]]</ref>


この作品は現在[[アムステルダム国立美術館]]にあるが、1715年までは火縄銃手組合のホールにあった。その後、[[ダム広場]]の市役所に移されたが、非常に大きな絵であるため、壁に入りきらないとして周りをカットされてしまった。特に左側が大きく切られたが、その部分のいずれも残っていない。また1980年代にアムステルダム国立美術館において暴漢によってナイフで切ことがある。12ヶ所余り切られたが、現在では修復されている。
この作品は現在では[[アムステルダム国立美術館]]が所蔵しているが、1715年までは火縄銃手組合のホールにあった。その後、[[ダム広場]]の市役所に移されたが、非常に大きな絵であるため、壁に入りきらないとして周りをカットされてしまった。特に左側が大きく切られ、その部分のいずれも残っていないコック隊長が作水彩の模写から構図伺え<ref name=Great16 />
{{-}}


[[ファイル:Rembrandt - Klesveverlaugets forstandere i Amsterdam.jpg|thumb|200px|『織物商組合の幹部たち』、油彩、1662年。]]
=== そのほかの作品 ===
==== 織物商組合の幹部たち ====
[[ファイル:Rembrandt Harmensz. van Rijn 021.jpg|right|thumb|235px|ガリラヤの海の嵐(油絵)]]
レンブラントが後期に描いた作品。ここには長年取り組んだ集団肖像画に対するひとつの回答があり、彼が求めた主題性・ドラマ性と人物の顔や視線を正面から描く肖像画の制約を両立させる工夫を施している。場面は、テーブルの上に置かれた書物を見ていた各人が、不意に部屋に入ってきた者に目を向けた瞬間を描いた<ref name=Bona105 />。
*自画像 (1629) [[アルテ・ピナコテーク]](ミュンヘン)

*Self-Portrait, age23(1629)[[イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館]] - ISGM([[ボストン]])
この絵は織物商組合本部の会議室のやや高い場所に掲示された。手前に配されたテーブルが前面に出る遠近法を使い、部屋に入った者はこの絵から男たちの急に意識を向け見下ろした視線に晒される。そうして、幹部たちの威厳を強調することに成功している<ref name=Bona105 />。
*ガラリヤの海の嵐 - Christ in the Storm on the Lake of Galilee (1633) ISGM(1990年3月に強奪された)

*ベルシャザルの祝宴 (1635) [[ナショナルギャラリー (ロンドン)]]
=== 自画像 ===
*ガニュメデスの誘拐 (1635) [[ドレスデン国立美術館]]
[[File:Rembrandt Harmensz. van Rijn 130.jpg|thumb|left|200px |自画像、1658年。晩年の傑作であり、「彼の自画像の中で、最も穏やかで最も壮大な作品」と評される<ref>[[#Clark1978|Clark (1978)、p.28]]</ref>。]]
*アブラハムの犠牲 (1635) [[エルミタージュ美術館]]
[[File:Rembrandt aux yeux hagards.jpg|thumb|right|200px |帽子を被り眼を見開いた自画像、1630年。エッチング。]]
*目を潰されるサムソン(1636)[[シュテーデル美術館]] (フランクフルト)
[[File:Rembrandt Harmensz. van Rijn 142.jpg |thumb|right|200px |『ゼウクシスとしての自画像』、1665年-1669年、ヴァルラフ・リヒャッツ美術館。最晩年の自画像。]]
*夜警(フランス・バニング・コック隊長の市警団)- The Night Watch(The Militia Company of Captain Frans Banning Cocq)(1642) アムステルダム国立美術館
レンブラントは数多い自画像を描いている。当時、絵画は依頼に基づいて製作されたものが売買されており、画家の自画像などに買い手はいなかった。そのため彼は、基本的に絵の研究をするためにこれら自画像を描いていた。構図や表情の多様さや、色々な衣装などを纏った姿を使い、効果的な構図を探ったものと考えられる<ref name=Bona105 />。
*修道士に扮する息子ティトゥス (1660) アムステルダム国立美術館

*広つば帽を被った男 (1635) [[川村記念美術館]]
自画像には、前時代的な衣装を纏ったものや、わざと顔をゆがめているものもある。また、未だ評価が定まらない若かりし頃から、肖像画家として大きな栄誉に輝いていた1630年代の頃、そして幾多の困難に遭いながらも非常に力強い姿を描いた老年期のものもある。彼の自画像は、その満ち足りた顔に示されるように、典型的な男性像を対象の外観から心理までに至るまで明瞭に描き出す。一般的な解釈では、これらの絵画は対象の個性や内省を探ったもので、傑出した芸術家が描く肖像画を欲しがる市場の要求に応えたものだったと見なされている<ref>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、p.290]]</ref>。
*ティトゥスの肖像 (1660~62) ルーブル美術館

1658年の自画像では、高い威厳を誇る姿と権威の象徴であるステッキを手に、玉座に座るポーズをイメージさせる。豊富な色彩を用いたこの自画像は、心理学的にさまざまな情報を提示する<ref name=Great18>[[#グレートアーチスト67|グレートアーチスト、pp.18-27、ギャラリー]]</ref>。

『キリスト昇架』『ヨセフの夢』『聖ステノバの殉教』など聖書物語を題材とする絵画においても、レンブラントは群集の中に自画像を含ませている。デュラハムは、レンブラントにとって聖書とは「日記のような、彼自身の人生の瞬間を記録したもの」と位置づけられていたを述べた<ref>[[#Durham2004| Durham (2004)、p.60]]</ref>。

== 画法 ==
[[ファイル:Rembrandt Harmensz. van Rijn 053.jpg|thumb|right|200px|『屠殺された牛』、油彩、1655年。レンブラントが追い求めたメチエ(創造的な秩序を持つ技法を確立し、画家が獲得した表現様式)とリアリティを追求した結実のひとつ<ref name=Minami135 />。]]
=== 光と影を創り出す技法 ===
[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ]]の光と影を用いる演劇的表現である[[キアロスクーロ]]、もしくはユトレヒト・カラヴァッジョ主義[[:en:Utrecht School|(en)]]により色濃く影響を受けつつも、それらを自らの技法として昇華した<ref>[[#Bull2006|Bull (2006)、pp.11-13]]</ref>レンブラントは「光の魔術師」と呼ばれ、その異名が示す通り光をマッス(塊)で捉えるという独特の手法を編み出した<ref name=Minami140 />。油彩では、仕上げ前の段階で絵全体に褐色など暗い色の[[グレーズ]]をかけ、光が当る部分を拭き取る手法を用いた<ref>{{cite web|url=http://www.amcac.ac.jp/~suzuki/00database/01artgiho/08ku.html |title=表現技法辞典|author=鈴木司|publisher=[[秋田公立美術工芸短期大学]] |language=日本語|accessdate=2011-01-21}}</ref>。

これはデッサンにおいて既に見られる。数多く残された彼のデッサンは、素早く描かれた線に、[[木材]]の[[タール]]分から作られた<ref>{{cite web|url= http://www.kyusan-u.ac.jp/J/inoue.ko/OpenSquare/index.php?Illustration |title=イラストレーション|author=井上貢一|publisher=[[九州産業大学]]芸術学部デザイン学科|language=日本語|accessdate=2011-01-21}}</ref>ピスタで影をざっくりとつける。そのような方法で、輪郭線よりも対象の形態を重視した筆致に、陰影が逆につくる光の塊を纏わせるような表現を可能とした。この「光の量塊」表現がコントラストと緊張をもたらし、対象の心的状態までを描き出している。エッチングにおいては、細針とドライポイントを同時に使った緻密な線と強い線の両方を画面一杯に引き、やはり強いコントラストを生み出している<ref name=Minami140 />。

=== モデリング ===
油彩画では、[[鉛白]]を用いた[[グリザイユ]]技法で独特の[[マチエール]](質感)を生む[[アンダー・ペインティング]]を施して下地にあらかじめ凹凸を設け、その上に描くことで独自の[[ブラッシュ・ストローク]](筆触・筆跡)を生み出している。このアンダー・モデリングと呼ばれる下地は、時に数cmも盛り上げられた<ref name=Minami135 />。さらにレンブラントは絵の具そのものも置くように厚く塗ったため肖像画の「鼻が摘めた」という指摘も残っているが、この手法で絵画に質感を持たせ、遠目でも迫力を与えた<ref name=Bona105 />。

=== 描写 ===
[[ファイル:Rembrandt van Rijn - Danaë 1636-1643.jpg|left|thumb|200px|『ダナエ』、1636-1637年。レンブラントが初めて手掛けた等身大ヌード画<ref name=Ozaki69 />。]]
ホイヘンスの手紙には、レンブラントが芸術活動を通じて到達したであろう高みについて説明した箇所が残っている。それは、「最も偉大で最も自然な動作」(de meeste en de natuurlijkste beweegelijkheid)と表現される。この「beweechgelickhijt」は「動作 (movement)」ではなく「感情 (emotion)」や「動機 (motive)」を意味するのではと言う意見や、描いた対象が何であるかによって様々な解釈が行われたりする。しかしいずれにしろ、レンブラントが西洋芸術において、現実性と精神性をつなぎ目なく融合させた比類なき存在であることは疑い様が無い<ref>[[#Hughes2006| Hughes (2006)、p.6]]</ref>。

[[ファイル:Rembrandt Harmensz. van Rijn 026 Frag4.jpg|right|thumb|150px|『ダナエ』の右手(拡大)。]]
彼は絵画中に描かれた人物の心象や情景を巧みに表現した。この点を重視し、レンブラントは他の画家よりも[[ウィリアム・シェイクスピア]]と比較されることが多い<ref name=Shiba />。集団肖像画におけるドラマ性もさることながら、[[神話]]や[[伝説]]からモチーフを得た絵画でもこの表現法は生かされた。1636-1637年作の『ダナエ』は、[[ギリシア神話]]に登場する女[[ダナエー]]の許を[[ゼウス]]が訪れる場面を描いている。この主題は何人もの画家が取り組んだが、それらはどれも多く描写される掌を上に向けたポーズで示されるように金の滴と化したゼウスをただ受容するだけのダナエーを描いた。レンブラントは、右の掌を前に向けたダナエーを描き、彼女に独立した人格と意識を与え、心情を表現した。X線分析によると当初この右手はもっと低い位置に、ゼウスが立つ窓のカーテンを開けるようなしぐさで描かれたが、製作途中で書き直されたことが判明した。また頭上の手を縛られた金色の[[クピド]]は、彼女が幽閉された状況を象徴している<ref name=Ozaki69>[[# 尾崎2004|尾崎 (2004)、pp.69-83、第二章 4.女性の力]]</ref>。

=== 画材 ===
;紙
:レンブラントは[[洋紙]]を好まず、亜麻布や大麻布のボロから手漉きで作らせた紙、雁皮紙などを使った。これは版画などにて[[インク]]吸収に優れた点を重視したと思われる。また、当時多く輸出されていた[[和紙]]も用い、100ギルダー版画『病をいやすキリスト』や素描など350点以上が残っている。<ref>{{Cite book|和書|author=原啓志|year=1992年|pages=49-50|title=紙のおはなし|publisher=日本規格協会|isbn=4-542-90105-X}}</ref>
;インク
:レンブラントのデッサンには、[[セピア色]]の線がよく見られる。これは[[イカ墨]]を用いたインクで、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]も好んで使った。このイカ墨インクは「レンブラント・インク」とも呼ばれる<ref>{{cite web|url=http://www.hatsumei.co.jp/column/detail/1/59/SESSID:f30faa35b639df50d598e562f563662f.html|title=発明コラム「イカ墨」|publisher=株式会社発明通信社|author=東方幸男|language=日本語|accessdate=2010-12-26}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www2.fish.hokudai.ac.jp/news/open/2001ikasumi.htm |title=イカスミ(墨)でオリジナルT-シャツを作ろう|publisher=[[北海道大学]]大学院水産科学研究院|author=桜井泰憲、平方亮三|language=日本語|accessdate=2010-12-26}}</ref>。

== レンブラント工房 ==
[[ファイル:Rembrandt Harmensz. van Rijn 021.jpg|right|thumb|200px|『ガラリアの海の嵐』 [[:en:The Storm on the Sea of Galilee|(en)]]、1633年、油彩。この絵は1990年に所蔵していたイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館[[:en:Isabella Stewart Gardner Museum|(en)]]から盗まれ、行方不明のままである。]]
高い名声を得たレンブラントは大きな工房を運営し、多くの弟子を抱えたことで知られる。そのほとんどが強い影響を受けた。そのため、スタジオで製作した作品や、後援者が望んだレンブラント風絵画や、単に複製した作品などが混在する状況となり、その差異を判断することが難しくなった。

レンブラントの弟子には、以下の人物もいる<ref>{{cite web|url= http://www.rkd.nl/rkddb/dispatcher.aspx?action=search&database=ChoiceArtists&search=priref=66219|title= Leraar van, Rijksbureau voor Kunsthistorische Documentatie|publisher=[[:en:Netherlands Institute for Art History |RKD]] |language=オランダ語|accessdate=2011-01-21}}</ref> 。
フェルディナンド・ボル[[:en:Ferdinand Bol|(en)]],
[[アドリアーン・ブラウエル]],
[[ヘラルト・ドウ]],
ウイレム・ドロステ[[:en:Willem Drost|(en)]],
[[:en:Heiman Dullaart|Heiman Dullaart]],
ヘルブラント・ファン・デン・エークハウト[[:en:Gerbrand van den Eeckhout|(en)]],
[[カレル・ファブリティウス]],
ホファールト・フリンク[[:en:Govert Flinck|(en)]],
[[:en:Hendrick Fromantiou|Hendrick Fromantiou]],
[[アールト・デ・ヘルデル]][[:en:Arent de Gelder|(en)]],
サミュエル・ファン・ホーホストラーテン[[:en:Samuel Dirksz van Hoogstraten|(en)]],
アブラハム・ヤンセンス[[:en:Abraham Janssens|(en)]],
ゴドフリー・クネラー[[:en:Godfrey Kneller|(en)]],
フィリップ・デ・コーニンク[[:en:Philip de Koninck|(en)]],
[[:en:Jacob Levecq|Jacob Levecq]],
ニコラース・マース[[:en:Nicolaes Maes|(en)]],
[[:en:Jürgen Ovens|Jürgen Ovens]],
[[:en:Christopher Paudiß|Christopher Paudiß]],
[[:en:Willem de Poorter|Willem de Poorter]],
ヤン・フィクトルス[[:en:Jan Victors|(en)]]
ヴィレム・ファン・デル・フリート[[:en:Willem van der Vliet|(en)]].

工房で同一のモデルを異なる方向から描いたレンブラントの『腰掛けた裸婦』([[シカゴ]]、アートインスティチュート蔵)とアールト・デ・ヘルデルの『腰掛けた裸婦』([[ロッテルダム]]、ボイマンス・ファン・ビューニンゲン美術館)がある。<ref name="ozaki1">[[#尾崎|尾崎.15-48 名声への戦略]]</ref>

== レンブラント・リサーチ・プロジェクト ==
20世紀初頭、レンブラントの作品は約1000点が伝わっていたが、それらには常に真贋の疑問が挟まれていた<ref name=Bona146>[[#ボナフー2001|ボナフー (2001)、pp.146-150、贋作の判定]]</ref>。中には2枚の真作エッチングを合成して1枚の贋作を作った例まであった<ref>{{cite web|url=http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2001Hazama/07/7300.html |title=東西贋作事件史|chapter=レンブラント贋作事件|author=二子登 麓愛弓 湊園子[編]|publisher=[[東京大学]]総合研究博物館|language=日本語|accessdate=2011-01-21}}</ref>。1968年、オランダの応用化学研究機構 (Netherlands Organization for the Advancement of Scientific Research, TNO) が出資したレンブラント・リサーチ・プロジェクト[[:en:Rembrandt Research Project|(en)]]が立ち上げられた。数々の作品をレンブラントの作だとする信頼できる再評価を下すため、美術史家班は他分野の専門家からの協力を得て、最先端の技術診断を含む可能な限りの手段を用い、彼の絵画を収めた新しいカタログ・レゾネ[[:en:catalogue raisonné|(en)]]を完成させようとした<ref name=Research>{{cite web|url= http://www.rembrandtresearchproject.org/ |title=プレス・リリース|publisher=レンブラント・リサーチ・プロジェクト|author=Ernst van de Wetering (Ed.) |language=英語|accessdate=2011-01-21}}</ref>。

パネルの年輪年代学や他の物理・化学的分析ではほとんど贋作判定はできず、逆に18-19世紀の絵ではと考えられていたものが17世紀の絵だと判明するケースもあった<ref name=Bona146 />。威力を発揮した手法は[[X線]]撮影によって下絵から書き進む段階を明瞭にし、それらを図像学や美術史家によって行われた分析だった。絵の具の塗り方にむらや不必要な筆跡などが多く見られるものはレンブラント風を意図的に作ろうとしたものであったり、また下書きがまだ乾かないうちに本塗りがされたために不規則なひびが入っているものなどが贋作判定の例となった<ref name=Bona146 />。これらを通じ、彼の真作による絵画は約300に絞られた。ただし、この判断には段階が設けられ、「真作の可能性が高い(very likely authentic)」「真作の可能性がある (possibly authentic)」「真作の可能性が低い (unlikely to be authentic)」という評価がそれぞれに与えられている<ref>{{cite web|url= http://staff.science.uva.nl/~fjseins/RembrandtCatalogue/ |title=A Wave Catalogue of Rembrandt Painting|publisher=Science Uva|author=Frank J. Seinstra |language=英語|accessdate=2011-01-21}}</ref>。

[[File:Rembrandt - The Polish Rider.jpg|thumb|200px|『ポーランドの騎手』[[:en:The Polish Rider|(en)]]。馬に乗ったリソフチツィ[[:en:Lisowczycy|(en)]]を題材に描いたこの絵に関して多くの議論がある。この人物は、リトアニアの大法官[[:en:Kanclerz|(en)]]であるマルクジャン・アレクサンドラ・オギンスキ[[:en:Marcjan Aleksander Ogiński|(en)]](1632年-1690年)を描いたと言われる。.]]
例えば、[[ニューヨーク]][[フリック・コレクション]]の『ポーランドの騎手』は以前からジュリウス・ヘルドら多くの学者によって信憑性に疑問が呈され、リサーチ・プロジェクトのジョシュア・ブリュン博士もレンブラントの最も才能溢れながらあまり知られていない門下生ウィレム・ドロステ[[:en:Willem Drost|(en)]]の作品だと考えた。蒐集した[[ヘンリー・フリック]]は、視認できるサイン「Rembrandt」(レンブラント)の前には、「attributed to」(…の所有物)も「school of」(…門下)も見えないとして、自身の意見を変えることは無かった。その後、サイモン・シャーマ[[:en:Simon Schama|(en)]]は1999年の著作『レンブラントの目』でフリックを支持し、プロジェクトのエルンスト・ファン・デ・ウェテリンク教授も1997年のメルボルン・シンポジウムで真作説に賛同の意を述べた。多くの学者の中では、出来栄えが不規則である点から、各部分を複数の人物が描いたものという意見を受け入れている<ref>"Further Battles for the 'Lisowczyk' (Polish Rider) by Rembrandt" Zdzislaw Zygulski, Jr., ''Artibus et Historiae'', Vol. 21, No. 41 (2000), pp. 197-205. Also New York Times。参照: [http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9D06EEDE103EF937A15753C1A961958260 story]。この書籍はAnthony Bailey (New York, 1993)の「レンブラントへの回答;誰が『ポーランドの騎手』を描いたのか? (Responses to Rembrandt; Who painted the Polish Rider?)」について書かれている。</ref>

[[File:Der Mann mit dem Goldhelm.jpg|thumb|left|150px|『黄金の兜をかぶった男』ベルリン。最も有名なレンブラントの肖像作品のひとつだったが、この絵画は彼のものとはみなされなくなった。]]
『手を洗うピラト』もまた疑いを持たれた作品である。これは1905年には疑問が呈されており、ヴィルヘルム・フォン・ボーデはこの作品を指してレンブラントにしては「どこかおかしな仕事」と述べた。科学的な分析が1960年代から行われ、これはいずれかの弟子、おそらくはアレント・デ・ヘルダーが描いたものと推測された。構成こそ表面的にはレンブラントの作品との類似性を帯びているが、特徴である明暗やモールディング技法の表現性には欠けていた<ref>{{cite web|url= http://www.metmuseum.org/Works_Of_Art/viewOne.asp?dep=11&viewmode=1&item=14.40.610 |title= Pilate Washing His Hand |publisher= The Metropolitan Museum of Art: European Paintings |author= |language=英語|accessdate=2011-01-21}}</ref>。

レンブラントの版画は一般にエッチングと纏められているが、ほとんどは[[エングレービング]]であり一部に[[ドライポイント]]がある。これらの真作は300点を下回った<ref group="注">200年前、Bartschはレンブラントのエッチングリストを375点とした。[[#Schwartz1988|Schwartz (1988)、pp.6]]によると、近年、真作のリストには風変わりな2点を含む3作が加えられ、Münz 1952, p. 279, Boon 1963, pp. 287(参考:[http://www.printcouncil.org/search.html Print Council of America])にある289点を上回ったと言うが、その具体的な数は記していない。</ref>。レンブラントは生涯に2000以上の素描を残したと伝わるが、現存する点数はこれを下回る<ref group="注">これは全数ではないと思われ、学術的分析は続行中である。2006年から翌年にかけてベルリン・コレクションを展示するために行われた解析では、彼の作とされた点数が130枚から60枚に減少した。参照:[http://www.codart.nl/exhibitions/details/911/ Codart]。[[大英博物館]]は同じような活動を行い、新たなカタログを発行する予定である。</ref>。二組の専門家チームの発表によると、署名の状態から確かに彼の絵画であると言い切れるものは約75点にとどまるというが、これは議論の的となっている。このリストは、2010年2月に行われた学術会議で公表された<ref>{{cite web|url= http://www.garyschwartzarthistorian.nl/schwartzlist/?id=148 |title= Schwarzlist 301|author= Gary Schwarz |language=英語|accessdate=2011-01-21}}</ref>。

レンブラントの自画像は90点あると考えられていたが、後に練習のために弟子に模写させたものが含まれていることが分かった。現在では40数点の絵画と若干数の素描、そして31点のエッチングと学術的に判断され、外されたものの中には代表作と見なされていた作品もあった<ref>[[#WhiteandBuvelot1999| White and Buvelot (1999)、p.10]]</ref>。

{{external media| align = right| width = 250| image1 = [http://static.rnw.nl/migratie/www.radionetherlands.nl/features/cultureandhistory/050923rem-redirected 新たにレンブラント作とされた4点]}}
その後も真贋判定は続けられている。2005年、弟子作と考えられていた4点の油彩がレンブラント本人の作品という判定がなされた。これらは『Study of an Old Man in Profile』『Study of an Old Man with a Beard』(2点ともアメリカの個人が所有)、『Portrait of an Elderly Woman in a White Bonnet』(1640年作)、『Study of a Weeping Woman』(デトロイト産業美術館[[:en:Detroit Institute of Arts|(en)]]蔵)である<ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/entertainment/arts/4276034.stm |title=Entertainment &#124; Lost Rembrandt works discovered |publisher=BBC News |date=2005-09-23 |accessdate=2011-01-21}}</ref>。

レンブラント・スタジオの体制が真贋判定の難しさを生んでいる。先人のスタジオも同様ではあるが、レンブラントは弟子たちに彼の絵をよく模写させた。そしてそれらに仕上げや修正を施し、真作または正式な複製として販売していた。さらに、レンブラントの絵画形式は決して難しいものではなく、才能ある弟子ならば模倣が可能であった。さらにこの問題を複雑にした背景には、レンブラント自身の製作には品質的にぶれがあり、また頻繁に絵画形式を変化させたり実験を試みたりしたことがある<ref>「レンブラントは完全なる一貫性を常に持っていたわけではなく、論理的なオランダ人という性格を彼に当てはめるのは、こうあれという思い込みである」[[#Ackley 2004|Ackley (2004)、p.13]]</ref>。彼の作品には後に贋作が作られることがあった。また、真作の中にもひどい[[損傷]]を被ったものもあり、本来の状態をよもや認識できない作品もある<ref>[[#Wetering2000|Wetering (2000)、p.x]]</ref>。

== 署名の変遷 ==
[[File:Rembrandts house, Amsterdam.jpg|thumb|upright|アムステルダムの[[レンブラントの家]]。現在は博物館[[:en:Rembrandt House Museum|(en)]]になっている。]]
1633年にレンブラントは、[[署名]]を芸術家らしく「Rembrandt」という[[ファーストネーム]]だけの署名に変更した。大まかな経緯は、1625年頃の初期に彼は[[イニシャル]]の「R」または[[モノグラム]]の「RH」(「Rembrant Harmenszoon‐ハルマンの息子レンブラント」の略)を使用していたが、1629年からはおそらくライデンの[[頭文字]]であろうLを加え「RHL」を使うようになった。これは1632年初期頃まで用いたが、やがて[[父称]]を加えて「RHL-van Rijn」とするも、同年中にはファーストネームのみを本来の[[スペル]]である「Rembrant」へ変えた。1633年、彼は何らかの意志を持ってこれにdを入れた小変更を施して「Rembrandt」とし、以後このサインを使い続けた。この改訂は表示だけのもので、名前の[[発音]]まで変えるものではなかった。このdを加えたサインは数多い絵画やエッチングに用いられたが、同時代に作成された書類にはdが無い名前が使われた。<ref>[http://www.rembrandt-signature-file.com/remp_texte/remp050.pdf Chronology of his signatures (pdf)] , [http://www.rembrandt-signature-file.com]</ref>。ファーストネームだけを書名に用いる彼のこのような取り組みは、後に[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]も行った。これらは、[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]や[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]らファーストネームだけで認知される先人に倣ったものと考えられる<ref>[[#Slive1995|Slive (1995)、p.60]]</ref>。

== レンブラントの眼の秘密 ==
2004年、[[ハーバード・メディカル・スクール]]の[[神経科学]]教授マーガレット・S・リビングストンは、レンブラントは視覚の焦点を正確に結べない立体盲[[:en:stereo blindness|(en)]]だったという短い論文を発表した<ref name=Med>『[[ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン]]』、2004年9月16日号、Livingstone, Margaret S.; Conway, Bevil R. (September 16, 2004). "Was Rembrandt Stereoblind?" (Correspondence). '''351''' (12): 1264–1265. PMID 15371590.</ref>。これはレンブラントの自画像36点を研究した結果で、彼は両眼視[[:en:binocular vision|(en)]]に難を抱えていたために脳が自動的に片目だけで多くの視覚的機能を果たすよう切り替わっていたという。この障碍は、彼が平面を視認する感覚に益し、 [[二次元]]的な[[キャンバス]]を作り出すに至らせた可能性がある。リビングストンによると、これは画家にとって利点になるもので、「絵画教師はたまに、生徒に片目を瞑って平面を視認するよう指導することがある。したがって、立体盲は決して欠点にならず、画家によっては資産にもなりうる。」と述べた<ref name=Med />。

== 作品を所蔵する美術館 ==
レンブラントの代表的な作品は『夜警』『ユダヤの花嫁(イサクとリベカ)』などがある[[アムステルダム国立美術館]]、[[デン・ハーグ]]の[[マウリッツハイス美術館]]、[[サンクトペテルブルク]]の[[エルミタージュ美術館]]、[[ロンドン]]の[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]、[[ベルリン]]の[[絵画館 (ベルリン)|絵画館]]、[[ドレスデン]]の[[アルテ・マイスター絵画館]]、[[パリ]]の[[ルーヴル美術館]]、他に[[ニューヨーク]]、[[ワシントンD.C.]]、[[ストックホルム]]、[[カッセル (ドイツ)|カッセル]]等にある<ref>[[#Clark1978|Clark (1978)、pp.147-150]]. レンブラント作と認められた品の所在カタログ参照</ref>。


== ギャラリー ==
== ギャラリー ==
本文中で例示した作品を掲示する。したがって、製作年順には並んでいない。
<gallery>
<gallery>
Image:Rembrandt Harmensz. van Rijn 140.jpg|自画像<!--1629-->
Image:Rembrandt Harmensz. van Rijn 073.jpg|キリスト昇架、1634年頃</br>アルテ・ビナコテーク
Image:Rembrandt Harmensz. van Rijn 058.jpg|天使のいる聖家族<!--1645-->
Image:Rembrandt Harmensz. van Rijn 071.jpg|十字架降下、1634年頃</br>アルテ・ビナコテーク
Image:Rembrandt Harmensz. van Rijn 051.jpg|春の女神フローラに扮したサスキア、1634年</br>エルミタージュ美術館
Image:Rembrandt-Belsazar.jpg|ベルシャザルの酒宴<!--1635-->
Image:Rembrandt Harmensz. van Rijn 014a.jpg|アルテミシア、1634年</br>プラド美術館
Image:Rembrandt - Klesveverlaugets forstandere i Amsterdam.jpg|アムステルダムの織物商組合の見本調査官達 <!--1662-->
Image:Rembrandt Harmensz. van Rijn 154.jpg|トビトとアンナ<!--1626-->
Image:Rembrandt Christ and the Woman Taken in Adultery.jpg|キリストと姦淫の女、1644年</br>ロンドン・ナショナル・ギャラリー
Image:Bataafseeed.jpg|クラウディウス・キウィリスの謀議、1661-1662年</br>ストックホルム国立美術館
Image:Rembrandt Harmensz. van Rijn 051.jpg|フローラに扮したサスキア<!--1634-->
Image:Rembrandt alexander.jpg|アレクサンダー大王、1663年</br>現在は失われたと考えられる<ref name=Okabe />。
Image:Rembrandt - Ganymede.jpg|ガニュメデスの誘拐<!--1635-->
Image:Rembrandt Harmensz. van Rijn 035.jpg|イサクの犠牲<!--1635-->
Image: Rembrandt Harmensz. van Rijn 061.jpg |ホメロス、1663年</br>[[マウリッツハイス美術館]]
Image:Judas Returning the Thirty Silver Pieces - Rembrandt.jpg|30枚の銀貨を返すユダ、1629年</br>[[ノース・ヨークシャー]]、マルグレイブ城
Image:Rembrandt-Belsazar.jpg |ベルシャザルの酒宴‐壁の言葉‐、1635年頃</br>ロンドン・ナショナル・ギャラリー
Image:Rembrandt Harmensz. van Rijn 041.jpg|ペリシテ人に目を潰されるサムソン、1636年</br>シュテーデル美術研究所
Image:Rembrandt, Jacob de Gheyn III.jpg|ヤコブ・デ・ヘイデン三世、1632年</br>ダリッジ美術館
Image:Die landschaft mit den drei baeumen.jpg| 3本の木、1643年</br>ダリッジ美術館
Image:Rembrandt Harmensz. van Rijn 151.jpg|水浴するスザンナ、1636年</br>マウリッツハイス美術館
Image:Rembrandt - Sankt Jakobus der Ältere.jpg|聖ヤコブ、1661年</br>
Image:Rembrandt Harmensz. van Rijn - Het Joodse bruidje.jpg|ユダヤの花嫁(イサクとリベカ)、1667年</br>アムステルダム国立美術館
</gallery>
</gallery>


== 関連項目 ==
== レンブラントの紙 ==
*[[レンブラント広場]]
レンブラントは[[洋紙]]を好まず、亜麻布や大麻布のボロから手漉きで作らせた紙、雁皮紙などを使った。これは銅版画などにて[[インク]]吸収に優れた点を重視したと思われる。また、当時多く輸出されていた[[和紙]]も用い、100[[ギルダー]]版画『病をいやすキリスト』や巣描など350点以上が残っている。<ref>{{Cite book|和書|author=原啓志|year=1992年|pages=49-50|title=紙のおはなし|publisher=日本規格協会|isbn=4-542-90105-X}}</ref>
*[[レンブラント光線]]
*[[オランダ黄金時代の絵画]]


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=尾崎彰宏|year=2004年|title=レンブラントのコレクション 自己成型への挑戦|publisher=[[三元社]]|edition=初版第一刷|isbn=4-88303-135-7|ref=尾崎}}
*{{Cite book|和書|author=尾崎彰宏|year=2004年|title=レンブラントのコレクション 自己成型への挑戦|publisher=[[三元社]]|edition=初版第一刷|isbn=4-88303-135-7|ref=尾崎2004}}
*マリエット・ヴェステルマン 『レンブラント』 高橋達史訳、[[岩波書店]]<岩波世界の美術> 2005年
*マリエット・ヴェステルマン 『レンブラント』 高橋達史訳、[[岩波書店]]<岩波世界の美術> 2005年
*{{Cite book|和書|author=パスカル・ボナフー|translator=村上尚子|year=2001年|title=レンブラント‐光と影の魔術師‐|publisher=[[創元社]]|edition=第1版第1刷|isbn=4-422-21158-7|ref=ボフナー2001}}
:※日本語文献は翻訳書を含め数十冊有り、画家の中で非常に多い。
*{{Cite book|和書|year=2001年|author=編集:苅部康次|title=週刊グレート・アーチスト No.67レンブラント|publisher=[[同朋舎出版]]|雑誌22351-6/4|ref=グレートアーチスト67}}
*{{Cite book|和書|author=南城守|year=2003年 |title=デッサン学入門‐創意の源泉を探る|publisher=[[ふくろう出版]] |isbn=978-4861861536 |url=http://books.google.co.jp/books?id=DMzul7tpebUC&pg=PA140&dq=%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88&hl=ja#v=onepage&q=%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88&f=false |ref=南城2003}}
*{{cite book|author= Ackley, Clifford, et al |year=2004年|title= Rembrandt's Journey |publisher= Museum of Fine Arts |location=ボストン|isbn=0-87846-677-0|ref=Ackley 2004}}
*{{cite book|author=Adams, Laurie Schneider|year=1999年|title=Art Across Time. Volume II|publisher=McGraw-Hill College, New York, NY|ref=Adams1999}}
*{{cite book|author= Bull, Duncan, et al |year=2006年|title= Rembrandt-Caravaggio |publisher= Rijksmuseum |ref=Bull2006}}
*{{cite book|author=[[:en:Kenneth Clark |Clark, Kenneth]] |year=1969年|title= Civilisation |publisher= Harper & Row |ref=Clark1969}}
*{{cite book|author= Clark, Kenneth |year=1978年|title= An Introduction to Rembrandt |publisher= John Murray/Readers Union |location=ロンドン|ref=Clark1978}}
*{{cite book|author=Clough, Shepard B.|year=1975年|title=European History in a World Perspective|publisher=D.C. Heath and Company, Los Lexington, MA|isbn=0-669-85555-3|ref= Clough1975}}
*{{cite book|author=Durham, John I.|year=2004年|title=Biblical Rembrandt: Human Painter In A Landscape Of Faith|publisher=Mercer University Press|isbn=0-865-54886-2|ref= Durham2004}}
*{{cite book|author=[[エルンスト・ゴンブリッチ]] |year=1995年|title= The Story of Art |publisher= Phaidon |isbn=0-7148-3355-x |ref=Gombrich1995}}
*{{Citation| surname1 = Hughes| given1 = Robert| year = 2006年| journal = The New York Review of Books | title = The God of Realism| publisher = Rea S. Hederman | number = 6 | volume = 53|ref= Hughes2006}}
*{{cite book|author= Gary Schwartz (editor) |year=1988年|title= The Complete Etchings of Rembrandt Reproduced in Original Size |publisher= Dover|location=ニューヨーク |isbn=0-486-28181-7 |ref=Schwartz1994}}
*{{cite book|author= Slive, Seymour|year=1995年|title= Dutch Painting, 1600–1800 |publisher= Yale UP |isbn=0300074514 |ref=Slive1995}}
*{{cite book|author=エルンスト・ファン・デ・ウェテリンク[[:en:Ernst van de Wetering|(en)]] |year=2000年|title= Rembrandt: The Painter at Work |publisher= Amsterdam University Press |isbn=0-520-22668-2|ref=Wetering2000}}
*{{cite book|author= Christopher White, (editor) Quentin Buvelot |year=1999年|title= Rembrandt by himself |publisher= National Gallery Co Ltd |ref= WhiteandBuvelot1999}}
*{{cite book|author=Christopher White|year=1969年|title= The Late Etchings of Rembrandt |publisher= British Museum/Lund Humphries|location=ロンドン|ref=White1969}}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
<div class= "references-small">
{{Reflist}}
<references group="注"/>

</div>
== 関連項目 ==
=== 脚注 ===
*[[レンブラントの家]]
{{Reflist|2}}
*[[レンブラント広場]]
=== 脚注2 ===
*[[レンブラント光線]]
本脚注は、出典・脚注内で提示されている「出典」を示しています。
*[[オランダ黄金時代の絵画]]
{{Reflist|group="2-"}}


== 読書案内 ==
*{{Cite book|和書|author=リュカス、コレルス|translator=渡辺義雄|year=1996年 |title=スピノザの生涯と精神|publisher=[[学樹書院]] |isbn=978-4906502059 |url= http://books.google.co.jp/books?id=Rk8eg7Y2n48C&pg=PA186&dq=%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88&hl=ja#v=onepage&q=%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88&f=false}}
* カタログ・レゾネ[[:en:Catalogue raisonné|(en)]]: Stichting Foundation Rembrandt Research Project:
** ''A Corpus of Rembrandt Paintings&nbsp;— Volume I'', which deals with works from Rembrandt’s early years in Leiden (1629–1631), 1982年
** ''A Corpus of Rembrandt Paintings&nbsp;— Volume II: 1631-1634''. Bruyn, J., Haak, B. (et al.), Band 2, 1986年, ISBN 978-90-247-3339-2
** ''A Corpus of Rembrandt Paintings&nbsp;— Volume III, 1635-1642''. Bruyn, J., Haak, B., Levie, S.H., van Thiel, P.J.J., van de Wetering, E. (Ed. Hrsg.), Band 3, 1990年, ISBN 978-90-247-3781-9
** ''A Corpus of Rembrandt Paintings&nbsp;— Volume IV''. Ernst van de Wetering, Karin Groen et al. Springer, Dordrecht, the Netherlands (NL). ISBN 1-4020-3280-3. p.&nbsp;692. (Self-Portraits)
* ''Rembrandt. Images and metaphors'', Christian Tumpel (editor), Haus Books London 2006年 ISBN 978-1-904950-92-9
* Van De Wetering, Ernst (2004年) (2nd paperback printing). ''The Painter At Work''. University of California Press,Berkley and Los Angeles. University of California Press, London, England. By arrangement with Amsterdam University Press. ISBN O-520-22668-2.
== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{commons|category:Rembrandt|レンブラント}}
{{commons|category:Rembrandt|レンブラント}}
* [http://rembrandt.startpagina.nl/ Rembrandt.startpagina.nl]: Linkpage on Rembrandt
*{{nl icon}} [http://rembrandt.startpagina.nl/ Rembrandt.startpagina.nl] レンブラントに関するリンク集
* {{en icon}} [http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/visual_arts/article6840232.ece?token=null&offset=12&page=2 "Rembrandt work unseen for 40 years to be sold" [[The Times]], 2009年9月19日]
* [http://www.rembrandtpainting.net/ Rembrandt van Rijn: Life and Art]
*{{en icon}} [http://www.guardian.co.uk/uk/2009/sep/18/rembrandt-portrait-sale "Rembrandt for sale" [[The Guardian]], 2009年9月18日]レンブラントの肖像画がオークションに出品される。
* The European Library presents more than 150 online objects of or related to [http://www.theeuropeanlibrary.org/portal/?lang=en&coll=collections:a0027&q=("rembrandt+")&pos=3&src=SE Rembrandt]
*{{en icon}} [http://www.virtual-history.com/person.php?personid=1 Literature]
*{{en icon}} [http://rembrandt-etchings.blogspot.com/2008/12/print.html Rembrandt, The Hundred Guilder Print]レンブラントのエッチング
*{{en icon}} [http://www.ricci-art.com/en/Rembrandt.htm Paintings by Rembrandt]
*{{en icon}} [http://www.getty.edu/art/gettyguide/artMakerDetails?maker=473 A biography of the artist Rembrandt Harmensz. van Rijn from the J. Paul Getty Museum]
*{{en icon}} [http://www.liverpoolmuseums.org.uk/walker/collections/17c/rembrandt.aspx Rembrandt's 'Self-portrait as a young man', at the Walker Art Gallery, Liverpool, UK]
*{{en icon}} [http://www.nga.gov/exhibitions/2005/rembrandt/flash/index.shtm Rembrandt's Late Religious Portraits at the National Gallery of Art, Washington]
*{{en icon}} [http://collections.tepapa.govt.nz/search.aspx?advanced=colProProductionMakers%3a%22van+Rijn%2c+Rembrandt%22 Etchings by Rembrandt at the Museum of New Zealand Te Papa Tongarewa]
*{{en icon}} [http://www.all-art.org/history252-21.html Rembrandt van Rijn in the "History of Art"]
*{{en icon}} [http://www.rembrandthuis.nl/ Rembrandt's house in Amsterdam] レンブラントのエッチングを多数展示。
*{{en icon}} [http://staff.science.uva.nl/~fjseins/RembrandtCatalogue/ Web Catalogue of Rembrandt's Paintings] 600点以上の絵画を、真贋をわけて表示。
*{{en icon}} [http://www.artistarchive.com/Artworks/AllArtworks.aspx?Ind=3316&CID=1 artistarchive.com]版画300点以上を解説。一部に展示あり。
*{{en icon}} [http://www.mfa.org/collections/search_art.asp Boston MFA] 版画400点を展示。
*{{en icon}} [http://www.rijksmuseum.nl/asp/start.asp?language=uk Rijksmuseum in Amsterdam]
*{{en icon}} [http://www.rembrandtresearchproject.org/ Rembrandt Research Project]レンブラント・リサーチ・プロジェクト
*{{en icon}} [http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/rembrandt/ Webmuseum Paris] 絵画の解説。
*{{en icon}} [http://www.britannica.com/eb/article-9109483/Rembrandt-van-Rijn Encyclopedia Britannica article]
*{{en icon}} [http://www.rembrandtpainting.net/ Rembrandt van Rijn - Life and Art]
*{{en icon}} [http://www.nakedtheatre.co.uk/phpics.htm Provenance Helpline] レンブラントが登場する演劇の紹介。
*{{en icon}} [http://www.artbible.info/art/work/rembrandt-harmensz-van-rijn.html Biblical art by Rembrandt Harmensz. van Rijn]
*{{en icon}} [http://www.rembrandt-signature-file.com The Rembrandt Signature Files] レンブラントの氏名とサインの解説
*{{nl icon}} [http://stadsarchief.amsterdam.nl/presentaties/uitgelicht/rembrandt_prive/introductie/index.nl.html Rembrandt Privé] アムステルダム市保存のレンブラントの生涯を解説したページ。
*{{en icon}} [http://www.saverembrandt.org.uk Save rembrandt from the experts]
*{{ja icon}} [http://www.rembrandtrembrandt.com/rembrandt/rrp/index.html レンブラント絵画展(リサーチ・プロジェクト)]
*{{ja icon}} [http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/R/Rembrandt/Rembrandt.htm 作品リスト]


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2011年1月21日 (金) 10:28時点における版

レンブラント・ハルメンス・ファン・レイン
Rembrandt Harmensz. van Rijn
『自画像』(1640年)
誕生日 1606年[注 1] 7月15日
出生地 オランダの旗 オランダ ライデン
死没年 (1669-10-04) 1669年10月4日(63歳没)
死没地 オランダの旗 オランダ アムステルダム
国籍 オランダの旗 オランダ
運動・動向 バロック[1][2]、オランダ黄金時代(en)
芸術分野 画家版画
代表作テュルプ博士の解剖学講義』『フランス・バニング・コック隊長の市警団(夜警)』など
後援者 コンスタンティン・ホイヘンス(en)
影響を受けた
芸術家
ビーテル・ラストマン(en)
テンプレートを表示
レンブラント像
レンブラント広場にて)

レンブラント・ハルメンス・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz. van Rijn、1606年7月15日 - 1669年10月4日)は、17世紀を代表する、オランダ画家。単にレンブラントと呼ばれることも多い。大画面と明暗を画面上に強く押し出したルミニズムの技法を得意とし[1]、「光の画家」「光の魔術師」(または「光と影の画家」「光と影の魔術師」)の異名を持つ[2]油彩だけでなく、エッチングや複合技法による銅版画デッサンでも数多い作品を残した。また、生涯を通じて自画像を描いたことでも知られる。これらは、その時々の彼の内面までも伝えている。なお、オランダ政府観光局による片仮名表記はレンブラント・ファン・ラインも使われる[3]

彼はヨーロッパの美術史を代表する重要なひとりである[4]。若くして肖像画家として成功し、晩年には私生活におけるたび重なる不幸と浪費癖による財政的苦難にあえいだが、それでもなお同時代において既に著名であり高い評価を受け続け[5]、オランダには比類すべき画家がいないとさえ考えられた[6]

生涯

『風車』、1645-1648年、ナショナル・ギャラリー

生誕から学びの期間

1606年、スペインから独立直前のオランダライデンのウェッデステーグ3番地[3]にて、製粉[7]を営む中流階級の[3]父ハルマン・ヘリッツゾーン・ファン・レイン、都市貴族で[3]パン屋を生業とする一家の娘[8]である母ネールチェン(コルネリア[9])・ヴィレムスドホテル・ファン・ザウトブルーグ[10]の間に生まれた。レンブラントは夫妻の8番目の子供で[注 2]、兄は4人、長女と次女は早く亡くなり三女の姉1人と妹1人がいた[8]。父は製粉の風車小屋をライデンを流れる旧ライン川沿いに持っており、一家の姓ファン・レインは「ライン川の (van Rijn)」を意味する[11]

1613年にラテン語学校に入学[12]。1620年、14歳のレンブラントはラテン語学校から飛び級でライデン大学への入学許可を受けた[3]。進学したのは兄弟の中で彼のみであり、兄たちは家業の製粉業に就いていた。両親は彼に法律家への道を期待していたが[3]、実際にそこに籍を置いたのはわずか数ヶ月に過ぎず[注 3]同年末もしくは翌年には画家を志向した。当時は美術学校など無く[11]イタリア留学経験を持つ歴史画家ヤーコブ・ファン・スヴァーネンブルフに弟子入りして絵画を学んだ。この顛末について、1641年にライデン元市長のヨハネス・オルレルスは同市の案内書の中で「(レンブラントの両親は)息子が絵画デッサンにしか興味を持たないため、大学を退学させ、画家の下で美術を学ばせた」と記している[8]。ただしレンブラントが彼から学んだものは絵画の基礎的な部分にとどまったと見られ、スヴァーネンブルフが得意とした都市絵画や地獄図などには手を出していない[9]

3年間スヴァーネンブルフから絵画技法から解剖学まで必要な技能を学んだレンブラントは、その類稀な技術で既に評判を得ており、ヨハネス・オルレルスの記述によると「将来を見越し、父親が有名な画家に弟子入りさせた」とある通り、1624年に18歳のレンブラントは当時オランダ最高の歴史画家と言われた[1]アムステルダムビーテル・ラストマン(en)に師事した。この期間は半年だけだったが、ここで彼はカラヴァッジョ派の明暗を用いる技法[1][13]や物語への嗜好性、表現性など多くを学んだ[9]。またアルブレヒト・デューラーの『人体均衡論』を深く読み、描写力に磨きをかけたともいう[14]

画家としての駆け出しと評価

処女作と言われる『聖ステノバの殉教』、1625年、リヨン美術館

アムステルダムから戻ったレンブラントは実家にアトリエを構え、早速製作に乗り出した。1625年には時期が判明している初の作品『聖ステノバの殉教(聖ステバノの石打)』を製作した[12]。また、この頃に同じラストマンに弟子入りし12歳で画家として活動を始めていた神童の呼び声が高いヤン・リーフェンス(en)と知り合い[8]、競い合う関係が始まった[15]。彼とは一時期共同で工房を持った[12]

1628年にはレンブラントも弟子を指導するようになり、ヘラルト・ドウ[9][16]イサーク・ジューデルヴィルらが門下に入った[15]。弟子の一人ホーホストラーテン(en)は1678年の著作『美術学校への招待』にて、レンブラントの指導について「知識は実践せよ。さすれば知らぬ事、学ばねばならぬ事が自明になる」という言葉を記した。この通り彼は常に新たな領域へ踏み込むことに熱心であり、この頃にはエッチングに手を染め始めた。先が二股の彫刻刀を自作したり、貧者や老人の姿をテーマとした版画を数多く製作した[8]

『アトリエにいる風景』、1628年、ボストン美術館

この頃には彼は頭角を現し始めていた。ユトレヒトの法律家で美術評論家のファン・ブヘルは、1628年の自著『絵画』の中でレンブラントが賞賛を受けていることを記している。彼の名を広める役割には、絵画以外にもエッチングがヨーロッパ中に流通したことも貢献していた。オラニエ公フレデリック・ヘンドリック秘書官コンスタンティン・ホイヘンス(en)数学者クリスティアーン・ホイヘンスの父)は、レンブラントとリーフェンスの両方に目をかけた人物である。彼は二人を評して「創造性に優れる刺繍屋の息子(リーフェンス)と、判断力を表現力に優れる粉屋の息子(レンブラント)」と言い、いずれもが有名な画家と比肩し、そのうちにこれを超えるだろうと日記に認めた[9][8]イギリスのアンクルム侯爵がオランダを訪問した際、ホイヘンスはチャールズ1世への献上品として何枚かの絵画を渡したが、その中には二人の絵も含まれていた[8]。この当時の作品『アトリエにいる風景』にて彼はキャンバスに向かう自分の姿を描いているが、この時の衣裳は来客を迎える正装であり、既に美術愛好家たちがレンブラントと接触を持っていたことを示す[8]

アムステルダムへ

ホイヘンスは、レンブラントとリーフェンスの二人がどちらもイタリアへ行こうとしない事に驚いていた。スヴァーネンブルフのように経歴に箔をつける上で本場ローマの美術に触れることは美術家にとって不可欠な時代だったが、二人は既にオランダに渡っていた著名なイタリア絵画の点数はそれなりにあり、また忙しいとも答えていた。しかし名声を得つつあるレンブラントにとってライデンは狭くなってきた。1630年4月23日に父親が亡くなる。彼はこれを機会にアムステルダムへ進出する決断をした[8]

ミヒール・ファン・ミーレフェルト(en)の『デルフトのファン・デル・メール博士の解剖講義』。各人物をはっきりかつ公平に描く当時の集団肖像画の典型。

1631年、以前から交流があった[7]画商にて画家のヘンドリック・アイレンブルフ(en)のアムステルダムにある工房に移り[15]、ここのアトリエで肖像画を中心とした仕事をこなし始めた[17]

1632年、レンブラントは大きな仕事の依頼を受けた。著名な医師のニコラス・ピーデルスゾーン・トゥルプ教授が行う解剖講義[注 4]を受ける名士たちを描く集団肖像画の製作で、この絵は有力者も出入りする外科医組合会館に展示されることになっていた。これに成功すれば大きな名声を得られる彼は、驚嘆されるような前例の無い絵画に取り組んだ。集団肖像画はオランダでは1世紀以上の伝統を持つが、その構図は各人物それぞれに威厳を持たせた明瞭な描き方をすることに注力するあまり、まるで記念写真のように動きに乏しく没個性的で[9]、絵の主題とポーズや構図に違和感があった。レンブラントは、「解剖の講義」という主題を前面に押し出して表現するため、鉗子をつまむトゥルプ教授に全体の威厳を代表させ、他の人物の熱心に語りを聴く姿から彼らの学識を表現した。これがレンブラントを代表する一つかつ出世作[18]となった『テュルプ博士の解剖学講義』であり、彼は高い評価を得た[17]

サスキア・ファン・オイレンブルフの肖像、1635年。

結婚

アイレンブルフの家に間借りしていた[3]レンブラントは、1633年にそこでアイレンブルフのいとこ[3][19](またいとこ[15]または[17]とも)で22歳[20]サスキア・ファン・オイレンブルフと知り合った。彼女の父は亡くなっていたがレーワルデン市長を務めたこともある人物で、その一族は裕福だった[17]。1633年には婚約し、翌年にはレンブラント側の親族を誰も呼ばないまま[21]結婚式を挙げた。これで彼は正式なアムステルダム市民となり、また聖ルカ組合の一員となる[15]。多額の持参金と富裕層へのコネクションをもたらしたサスキアは、レンブラントの絵のモデルとなり、ふくよかな姿を描いた多くの作品が残された[17]

名声を得たレンブラントは、提督オラニエ公からの注文を受け「キリストの受難伝」をテーマにした作品群(『キリスト昇架』<ギャラリー>『十字架降下』<ギャラリー>等)などを仕上げたが、これは公が気に入らず代金支払いが滞った[17]。しかし、提督の財産目録には4点の作品が記されている[15]。多くの弟子が門下に入り、フェルディナンド・ボル(en)、ホファールト・フリンク(en)[22]、ヘルブラント・ファン・デン・エークハウト(en)ら50人が名を連ねた。これらもあってレンブラントは、1635年にはアイレンブルフから独立したアトリエを構えた[17]

富と名声を得ていた[7]レンブラントは、弟子を教育しつつ、自らもあらゆるものを対象に描いた。妻サスキアをモデルにした『春の女神フローラに扮したサスキア』<ギャラリー>『アルテミシア』<ギャラリー>(ともに1634年)から、依頼を受けた肖像画、そして街中で見かけた物売りや乞食のデッサン、情景を空想し描いたロンドンやイタリア田園風景などを数多く描いた。その資料とするために、彼はいろいろなものを積極的に収集するようになる。美術品や、刀剣など工芸品、多くの民族にわたる衣装装飾品など手当たり次第と言える膨大な点数を所蔵した[17]。そして自らにふさわしい豪邸を求め、ユダヤ人街になりつつあったヨーデンブレーストラート(en)(聖アントニウス広小路[12])に、後にレンブラントの家と呼ばれることになる邸宅を1639年に年賦支払いで購入し、ここで大きな規模の工房を主宰した[13]。これは13,000ギルダーもの費用を要し[22][注 5]、周囲からサスキアの財産を食いつぶしているのではと非難を受けた[17]。一方で投機にも手を出しては失敗を重ねていた[23]

『夜警』製作と人生の暗転

『酒場のレンブラントとサスキア(放蕩息子)』、油彩、1635年頃、エルミタージュ美術館。この絵を制作した当時、彼には妻の財産を浪費して邸宅や収集品を買い集めているという非難があがっていた。そのような意見を無視することを決め込み、この絵で自分を放蕩息子に例えて表した。[17]

レンブラントは、1640年の末に火縄銃手組合が発注した複数の集団肖像画のうち、市の名士フランス・パニング・コック率いる部隊の絵を受けた。彼は独自の主題性と動きのある構図を用いて、1642年初頭に『夜警』を完成させた。注文された絵は組合会館(ニュウヘ・スタッドハイス)に掲げられたが、弟子のホーホストラーテンは『夜警』を評し「展示された他の絵が、まるでトランプの図柄のように見えてしまう」と、その傑出性に眼を見張った[17]

しかしこの頃、彼は多くの不幸に見舞われていた。1635年12月に生まれた最初の子ロンベルトゥスは2ヶ月で死去。1638年7月生まれの長女コルネリア(母親と同名[9])、1640年7月に生まれた姉と同じ名をつけた次女コルネリアはどちらも1ヶ月程の短命で亡くなる[15]。この年9月には母も亡くなった[17]。彼の子供のうち、成人を迎えられた者は1641年に授かった息子ティトゥス(en)だけだった[17]

『夜警』の製作中、妻のサスキアが体調を崩し寝込んでしまう。レンブラントは病床の彼女を描いた素描を残している[24]。彼女は一向に回復を見せず、1642年には遺書を用意した。それによると、4万ギルダーの遺産はレンブラントと息子ティトゥスが半分ずつ相続するが、息子が成人するまでは彼を唯一の後見人として自由に使うことを認めた。ただし、もし彼が再婚した場合、この条項は無効になった。6月14日、サスキアは30歳で亡くなった。結核が原因だったと推測される。レンブラントはアウデ教会に購入した墓地に彼女を埋葬した[17]

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ヘールトヘ・ディルクスの素描
ただし否定する意見もある。

この頃からレンブラントの人生は暗転する[7]。サスキアの看病や[22]幼いティトゥスを世話する親族の女性はおらず、仕事を抱える[17]彼は乳母として北部出身で農家の未亡人ヘールトヘ(ヘールチェ[15])・ディルクス(en)を雇った。やがてレンブラントは彼女と愛人関係となる[25]

彼はまた旺盛な制作活動に戻ったが批判も聞かれるようになった。特に肖像画では、発注主の注文とレンブラントの目指す芸術性に乖離があり、自分がはっきりと立派に見える要望に答えない彼よりも、これらを満足させる画家の方が好まれた。また、完璧主義の彼は顧客を待たせることで有名だった。画家兼批判家のハウブラーケンは、レンブラントは顔や構図一つに10以上の下書きをすることもあったと述べ、イタリアのフィリッポ・バルディヌッチ(en)は、筆を入れ始めてからも何度も書き直すため顧客は何ヶ月も拘束されたと語った。ハウブラーケンまた一つの出来事を述べているが、それはある家族の肖像画を製作中にレンブラントが飼っていた猿が死んだ時に起こった。彼はその死体を完成目前の絵に書き込み出した。これに依頼主の家族は怒り、結局仕事は破棄されたという。このような事が重なり、レンブラントへの肖像画の依頼は段々と減っていった[25]。彼は聖書福音書を主題とした絵も描き、『キリストと姦淫の女』<ギャラリー>や『割礼』は完成した絵から選んでオラニエ公が購入している。これはオランダ絵画の新しい販売方法でもあった[25]

『ベッドの中の女』、スコットランド国立美術館。ヘンドリッキエがモデルと言われるが、ケネス・クラーク(en)はヘールトヘがモデルという説を述べた[20]

しかし、彼の浪費癖は治まらなかった。絵に必要と思えば骨董から古着まで買い漁り、また様々な絵画や版画・デッサンもオークションなどで高値を提示して落札した。バルディヌッチによると、レンブラントは美術そのものの価値を高めるためにこのような行動を取ったというが、収入を上回る支出は思慮に欠いたもので、当時のプロテスタント的価値観が強いオランダでは嫌われる「放蕩」であった[25]

ヘンドリッキエ・ストッフェルドホテル・ヤーヘルの肖像、1655年。

さらに私生活も泥沼を迎える。1649年頃(1647年? [12])、彼は若い家政婦ヘンドリッキエ・ストッフェルドホテル・ヤーヘル(en)を新たに雇い[20]、彼女を愛人として囲い始めた。それは同時にヘールトヘの立場を悪くし、彼女をして憎しみに駆り立たせた。1649年にヘールトヘは、贈られた宝石を根拠に婚約が成立していたと主張し、その不履行でレンブラントを告訴した。裁判でレンブラントはヘールトヘに毎年200ギルダーの手当てを渡す命令が下された。この頃は創作活動も滞り気味となり、告訴された年には一点の作品も残されていない[7]。後にレンブラントは、ティトゥスに贈与した宝石をヘールチェが勝手に持ち出して売りさばいていたと訴え[20]、これが認められて彼女はハウダの更正施設(または精神病院[9])での[15]12年の拘禁刑に断じられ、彼は腐れ縁から手を切ることができた。ヘールトヘは5年で出所したが、健康を壊したのか翌年には死亡した[25]。レンブラントとヘンドリッキエの間には、1652年に生まれた子はすぐに亡くなったが[9]、1654年に娘コルネリアが誕生した[15]

強欲さをむき出しにし、また絵のモデルもほとんど務めなかったヘールトヘと違い、ヘンドリッキエはレンブラントを支え、彼女を描いた絵画も残っている。しかし、サスキアの遺言に縛られ二人は婚姻していなかった[24]。裁判所は不義の嫌疑を理由に出頭を命じたがレンブラントは拒否[注 6]、ヘンドリッキエは2度聴聞を受け別れるように言われたが従わなかった[25]

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しかしこの頃になると、レンブラントは金銭に事欠くようになる。仕事はめっきり減ったが浪費はそのまま、方々からの借金で賄っていたが返済の当ても無く、邸宅の年賦支払いも滞っていた[25]。このような事態に、彼は美術品コレクションを売却してその場をしのいでいた[7]。ところが、1652年に英蘭戦争が勃発しオランダ経済が不況に陥ると、債権者たちは段々と態度を硬化させ始めた。1656年にレンブラントは美術品や邸宅など財産をティトゥスに相続させて保全しようとしたが、孤児裁判所はこれを認めなかった[25]

カプチン派修道士の姿をしたティトゥス、1660年、アムステルダム国立博物館。

そして7月20日、高等裁判所は法定精算人を指定し、レンブラントに「セシオ・ボノルム(ケッシオ・ボノールム、財産譲渡または財産委託)」を宣告した[9]。セシオ・ボノルムとは、商取引の損失でよく適用される債務者の財産をすべて現金化して全債権の弁済とする方法であり、破産するよりは比較的緩やかな処分である。これを受けてレンブラントの363項目にわたる財産目録が作成された[26]。販売品リストが残っており、蒐集品の内容を知ることができる。著名な作者の絵画や素描、ローマ皇帝の胸像、日本の武具やアジアの物品、自然史関係の物品や鉱物などがあった[27]。競売は1656年9月に始まり[25]、翌年までに買い叩かれた[28]。1660年12月18日に、11,218ギルダーで売れた[25][注 7]邸宅を彼は去って貧民街である[9]ヨルダーン地区[12]ローゼンフラフトの街に住み着いた[29]。行政や債権者たちはレンブラントに好意的だったが、アムステルダムの画家ギルド(en)は厳しく、彼は画家として扱わないように定めた[30]。これに対処するため、1660年にヘンドリッキエと20歳になったティトゥスは共同経営で画商を始めてレンブラントを雇う形態を取り、絵画の注文を受けられるようにした[30][31]

このような境遇においても、レンブラントが抱える探求心は損なわれる事は無く、かえって純粋に「画家とは」や「芸術家とは」という主題に向き合った[32]。そして画家としての評価も依然高く、最盛期ほどではないとしても絵画作成の依頼もあった。アムステルダム市からは新庁舎に掲げる絵の依頼を受けたが、これは依頼を受けていたホーファールト・フリンク(en)が急死したためである[33]。1661年に『クラウディウス・キウィリスの謀議』(en) <ギャラリー>を完成させている。ただしなぜかこの絵は数ヵ月後には外され、レンブラントへ返却された。現在この絵は、部分しか伝わっていない[33]。他にも集団肖像画『織物商組合の幹部たち』(1662年)、シチリア貴族のルッフォ(ルフォー)から依頼を受け描いた『アレクサンダー大王』(1663年<ギャラリー>)『ホメロス』(1663年<ギャラリー>)などを描いた[29][34][35]

2人の妻、息子、そしてレンブラント本人が埋葬された西教会 (Westerkerk)

しかしこの頃、ヘンドリッキエは健康を害し、1661年8月7日に彼女は娘コルネリアが相続する財産をレンブラントが自由に使えるように定めた遺言書を作成した。この中で彼女はレンブラントの妻とされており、財産譲渡によってサスキアの遺言が事実上無意味になったことから二人は結婚していたと考えられる[29]。レンブラントは絵画制作のためにまたも美術品の蒐集などに手を出して借金を作っており、ついには、1662年にサスキアが眠るアウデ教会の墓所を売却するまでして金策に走っていた。これを憂慮した遺言を残したヘンドリッキエは1663年7月末に38歳で[20]亡くなり、彼女は移されたサスキアの棺が安置された西教会(en)に葬られた[29][36]

晩年そして死去

1667年12月29日、トスカーナ大公国コジモ3世がレンブラントのアトリエを訪問した。随行員の日記に「有名なレンブラント」とある通り、彼の名声は健在だった。ここでコジモ3世はレンブラントの自画像を購入したと思われる[29][37]

しかし彼の人生は好転しなかた。ティトゥスは1668年2月10日にマグダレーナ・ファン・ローと結婚したが、9月4日に急死してしまった。晩年の彼は娘コルネリアと雇った老女中と生活し、「パンとチーズと酢漬ニシンだけが一日の食事」と記されるほど質素な日々を送った[9]。翌1669年に息子の忘れ形見ティティアを得るが、同年10月4日にレンブラントは亡くなった。遺体は二人の妻、そして息子が眠る西教会に埋葬された[15][29]

絵画の変遷

『エウロペの誘拐』、1632年、ゲテイ美術館。油彩パネル画。この絵はバロック調絵画の黄金時代を代表する[38]

主題や形式

レンブラントは生涯の創作活動において、物語風景そして肖像を絵の主題とした。そして最終的に、感情や細部まで緻密に描写する技能に裏打ちされた彼が描く天才的な聖書物語の解釈は、同時代人から高い評価を受けた[39]。修辞的に言えばレンブラントの絵画は、初期の「滑らかな」技法がもたらす奇術のような形式を持つ描画に見られる卓越した技能から、後期の画面上に現れる豊かで多彩な「荒々しい」様がもたらす画材そのものが作り出す触覚にさえ訴えかける質感が与える幻影的手法へと進歩した[40]

彼は同時に、版画における技能も切り開いたと言える。円熟期の中でも特に進歩的だった1649年代末頃は、素描や絵画同様に版画においても自由闊達かつ幅広い表現を感じ取ることが出来る。作品は、広範な主題要素や技術を包含し、時には空間を意識して空白の部分を設けたり、時には織物のように複雑な線を与えて濃く複雑な彩を現出した。[41]

ライデン時代のレンブラント(1625年 - 1631年)は、ラストマンから受けた影響が色濃く現れており、またリーフェンスも意識していたことが伺える[42]。絵の号は小さいが、衣装や宝石などは丁寧な描き方がされている。宗教画やアレゴリーを多く描き、大きさも肖像画には充分でない半分程度の大きさであるトローニー(en)を描いた[42]。1626年、初めて製作したエッチングが知れ渡り、レンブラントの名声を国際的なものにした[42]。1629年に完成させた『30枚の銀貨を返すユダ』<ギャラリー>や『アトリエにいる風景』は、光の技法と筆跡の多彩さに意識を向けていたこと、そして彼が画家として成長する過程において大きな進歩を成したことを示す[43]

1634年の肖像画。当時レンブラントは成功の渦中にあった。

アムステルダム時代(1632年-1636年)、レンブラントは聖書物語や神話の場面を題材に、『ベルシャザルの酒宴』(1635年<ギャラリー>)、『ペリシテ人に目を潰されるサムソン』(1636年<ギャラリー>)、『ダナエ』(1636年)など、ピーテル・パウル・ルーベンスのバロック調を真似て大きな号に明暗を利かせた絵画を仕上げた[44]。時にアイレンブルフ工房の助けを借りて、レンブラントは夥しい数の肖像画を作成した。それは小さな号(『ヤコブ・デ・ヘイデン三世』、1632年<ギャラリー>)から大きなもの(『テュルプ博士の解剖学講義』1632年、『Portrait of the Shipbuilder Jan Rijcksen and his Wife』1633年)まであった[45]

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『Cottages before a Stormy Sky』1641年

1630年代末頃から、数点の油彩と多くのエッチングで風景画を製作した。これらはしばしば、自然のドラマ性を強調し、根こそぎの木や不吉な空(『Cottages before a Stormy Sky』1641年、『3本の木』1643年<ギャラリー>)を描いたものもある。1640年からは、彼自身の不幸な状況が反映したのか、活力に欠け地味な色調へ変化した。聖書物語も以前主にモチーフとして使用した旧約聖書から、新約聖書に題材を多く求めるようになった。1642年にはレンブラントは集団肖像画を受注し、最大にして最も有名な『夜警』を製作した。ここでは、以前からの仕事にあった構成と物語性の問題に対する解答を見つけ出した。[46]

『水浴する女』、1654年-1655年、ロンドン・ナショナルギャラリー。

『夜警』後の10年間、レンブラントは様々な号、対象そして形式の絵画に取り組んだ。それまでの強い光による明暗で生み出していた演劇的効果は、正面からの光源と純粋な色彩を広く多用する方式に変化した。同時に、図像が画面に平行して置かれるようになった。このような変貌は、古典的な流儀と構成に軸足を移そうとしたことの現われであり、また画法による表現のやり方は『水浴するスザンナ』(1636年、<ギャラリー>)のようにヴェネツィア流を取り入れたような傾向を垣間見える[47]。また同じ頃、油彩の風景画はめっきり減り、エッチングや素描に替わった[48]。その素材も、自然のドラマ性からオランダの静かな風景へとなった。

『放蕩息子の帰還』、1666年-1668年、エルミタージュ美術館。晩年の聖書画。

1650年代になると、レンブラントの絵画形式はまたも変化を見せた。多彩になり、筆使いは特に変わった。この変貌によって、レンブラントは過去の作品や持っていた作風から脱皮し、ますます洗練された繊細な作品を指向した。描画における彼の独創的な手法はティツィアーノ・ヴェチェッリオに通じるものがあり、それは現代も「仕上げ」と表面処理の完成度に対する議論の中に見ることができる。当時の記録の中には、レンブラントの画法が粗雑だという批判も存在し、彼は訪問者が絵をまじまじと見ないよう遠ざけたともいう[49]。触知できるような絵画に対する技法は、中世的な手法から得た可能性があり、絵画の表面に息吹を与える表現の模倣効果を持った。最終的な結果は、絵の具を豊富に用いて作る深い層に明らかな偶然がもたらす効果を織り交ぜつつ、奇術的かつ非常に独特な手法を合わせ持つ形式と空間を提示した[50]

晩年には、聖書物語をテーマにこそ基づいているが、その強調するところは1661年の『聖ヤコブ』<ギャラリー>のように演劇的な集団を描く場面から肖像画的風の構図へと変わった。レンブラントは最晩年となった1669年に、生涯に描いた15の自画像の中でも最も深淵な一枚を残し、また『ユダヤの花嫁(イサクとリベカ)』<ギャラリー>など愛に生きる、人生を過ごす、神に祈る男女の絵を何枚か描いた。[51][52]

100グルテン版画(en)『病人を癒すキリスト』、1647年 - 1649年。アムステルダム歴史博物館、他。
『三本の十字架』、1653年。全6ステートのうちの第3ステート。

エッチング

レンブラントは画家として駆け出しの1626年から、1660年に印刷機を手放し実質的な製作活動が出来なくなるまで、私生活のトラブルに忙殺された1649年を除いてエッチングに取り組み続けた[53]。彼はこれを気軽に始めたが、ビュラン(en)の使い方を習ったりエングレービングに手を出して多くの作品を残したりしながら、束縛されないエッチング技法を自分のものとした。彼は印刷工程全体にも強く関わり、初期の作品では自分の手で印刷を行ったと考えられる。最初の頃、素描技法を基礎にエッチングを行っていたが、すぐに絵画技法へ変更し、固まりのような線と酸による腐食を多用して描線の強さに変化をつけた。1630年代末頃、レンブラントのエッチングは腐食をほとんど用いない簡素な形式へ変貌した[54]。1640年代にはいわゆる『100グルテン版画』(en)を製作し、これはレンブラントがエッチングのスタイルを確立し始める「彼のキャリアにて中期に当る重要な仕事」に相当した[55]。しかし、この版画は2つのステート(版)(en)しか残されていない。1版目の点数は非常に少ないが、これによって版元には作り直しが行われた証拠となり、多く存在する2版目の写しに無い要素が残っている[56]

1650年代には成熟を迎え、現存する11の版画に見られるようにレンブラントは即席で大版の製作に携わり、時に根本的な変革を加えることもあった。ハッチング技術を用いて作り出した暗い部分は、時には画面の大部分を占めることもあった。また、紙にも検討を加えて効果を見極め、ヴェルムや後に多用した和紙などを試した。さらに、印刷時に平坦な部分のインクをすべて拭き取らずにあえて少々残すことで「表面トーン」 (surface tone) の効果を表した工夫も凝らした。特に風景描写にて、彼はドライポイント技法を多用し、一瞥では分かりにくいが豊かでぼやかされたぎざぎざを作り出した。[57]

集団肖像画

『テュルプ博士の解剖学講義』、油彩、1632年。

テュルプ博士の解剖学講義

『テュルプ博士の解剖学講義』に描かれているのは、1632年1月に行われた講義にて、アムステルダムの市長にも2度就任した教授のニコラス・ピーテルスゾーン・テュルプ博士が切開した腕から腱を摘み上げて筋肉組織を説明している場面である。ここで博士の説明を聞く男性たちの中に医者はおらず、全員が街の名士であった。中央の人物が持つ書類は、彼らの名簿である[17]。死体は犯罪者 Aris Kindt のもので、その日の午前、持凶器強盗の罪で絞首刑になった[58]オランダデン・ハーグにあるマウリッツハイス美術館の所蔵。

従来の集団肖像画に無い斬新な構図で若いレンブラントの名を高めたが、そこに描かれた人物たちの視線は方々に散っており、纏まりや緊張感を表現できていないという評もある[18]

『フランス・バニング・コック隊長の市警団』、油彩、1642年、アムステルダム国立博物館。

フランス・バニング・コック隊長の市警団(夜警)

レンブラントの著名な作品として『フランス・バニング・コック隊長の市警団(夜警)』が挙げられる。画面が黒ずんでいることから夜の様子を描いたと考えられ付けられた名前だが、これはニスの劣化によるもので、実際には左上から光が差し込んでいる描写がある通り、昼の情景を描いている。この作品は『フランス・バニング・コック隊長の市警団』という題名であり、火縄銃手組合から依頼され、登場人物の各人が同じ金額を払って製作された。しかし各人が平等に描かれていない上、何も関係のない少女を目立たせたため物議をかもした。だがコック隊長は気に入り、絵画の出来栄えはレンブラントの評価を高めた。[59]

この作品は現在ではアムステルダム国立美術館が所蔵しているが、1715年までは火縄銃手組合のホールにあった。その後、ダム広場の市役所に移されたが、非常に大きな絵であるため、壁に入りきらないとして周りをカットされてしまった。特に左側が大きく切られ、その部分のいずれも残っていないが、コック隊長が作らせた水彩の模写から構図を伺える[59]

『織物商組合の幹部たち』、油彩、1662年。

織物商組合の幹部たち

レンブラントが後期に描いた作品。ここには長年取り組んだ集団肖像画に対するひとつの回答があり、彼が求めた主題性・ドラマ性と人物の顔や視線を正面から描く肖像画の制約を両立させる工夫を施している。場面は、テーブルの上に置かれた書物を見ていた各人が、不意に部屋に入ってきた者に目を向けた瞬間を描いた[29]

この絵は織物商組合本部の会議室のやや高い場所に掲示された。手前に配されたテーブルが前面に出る遠近法を使い、部屋に入った者はこの絵から男たちの急に意識を向け見下ろした視線に晒される。そうして、幹部たちの威厳を強調することに成功している[29]

自画像

自画像、1658年。晩年の傑作であり、「彼の自画像の中で、最も穏やかで最も壮大な作品」と評される[60]
帽子を被り眼を見開いた自画像、1630年。エッチング。
『ゼウクシスとしての自画像』、1665年-1669年、ヴァルラフ・リヒャッツ美術館。最晩年の自画像。

レンブラントは数多い自画像を描いている。当時、絵画は依頼に基づいて製作されたものが売買されており、画家の自画像などに買い手はいなかった。そのため彼は、基本的に絵の研究をするためにこれら自画像を描いていた。構図や表情の多様さや、色々な衣装などを纏った姿を使い、効果的な構図を探ったものと考えられる[29]

自画像には、前時代的な衣装を纏ったものや、わざと顔をゆがめているものもある。また、未だ評価が定まらない若かりし頃から、肖像画家として大きな栄誉に輝いていた1630年代の頃、そして幾多の困難に遭いながらも非常に力強い姿を描いた老年期のものもある。彼の自画像は、その満ち足りた顔に示されるように、典型的な男性像を対象の外観から心理までに至るまで明瞭に描き出す。一般的な解釈では、これらの絵画は対象の個性や内省を探ったもので、傑出した芸術家が描く肖像画を欲しがる市場の要求に応えたものだったと見なされている[61]

1658年の自画像では、高い威厳を誇る姿と権威の象徴であるステッキを手に、玉座に座るポーズをイメージさせる。豊富な色彩を用いたこの自画像は、心理学的にさまざまな情報を提示する[62]

『キリスト昇架』『ヨセフの夢』『聖ステノバの殉教』など聖書物語を題材とする絵画においても、レンブラントは群集の中に自画像を含ませている。デュラハムは、レンブラントにとって聖書とは「日記のような、彼自身の人生の瞬間を記録したもの」と位置づけられていたを述べた[63]

画法

『屠殺された牛』、油彩、1655年。レンブラントが追い求めたメチエ(創造的な秩序を持つ技法を確立し、画家が獲得した表現様式)とリアリティを追求した結実のひとつ[13]

光と影を創り出す技法

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオの光と影を用いる演劇的表現であるキアロスクーロ、もしくはユトレヒト・カラヴァッジョ主義(en)により色濃く影響を受けつつも、それらを自らの技法として昇華した[64]レンブラントは「光の魔術師」と呼ばれ、その異名が示す通り光をマッス(塊)で捉えるという独特の手法を編み出した[14]。油彩では、仕上げ前の段階で絵全体に褐色など暗い色のグレーズをかけ、光が当る部分を拭き取る手法を用いた[65]

これはデッサンにおいて既に見られる。数多く残された彼のデッサンは、素早く描かれた線に、木材タール分から作られた[66]ピスタで影をざっくりとつける。そのような方法で、輪郭線よりも対象の形態を重視した筆致に、陰影が逆につくる光の塊を纏わせるような表現を可能とした。この「光の量塊」表現がコントラストと緊張をもたらし、対象の心的状態までを描き出している。エッチングにおいては、細針とドライポイントを同時に使った緻密な線と強い線の両方を画面一杯に引き、やはり強いコントラストを生み出している[14]

モデリング

油彩画では、鉛白を用いたグリザイユ技法で独特のマチエール(質感)を生むアンダー・ペインティングを施して下地にあらかじめ凹凸を設け、その上に描くことで独自のブラッシュ・ストローク(筆触・筆跡)を生み出している。このアンダー・モデリングと呼ばれる下地は、時に数cmも盛り上げられた[13]。さらにレンブラントは絵の具そのものも置くように厚く塗ったため肖像画の「鼻が摘めた」という指摘も残っているが、この手法で絵画に質感を持たせ、遠目でも迫力を与えた[29]

描写

『ダナエ』、1636-1637年。レンブラントが初めて手掛けた等身大ヌード画[67]

ホイヘンスの手紙には、レンブラントが芸術活動を通じて到達したであろう高みについて説明した箇所が残っている。それは、「最も偉大で最も自然な動作」(de meeste en de natuurlijkste beweegelijkheid)と表現される。この「beweechgelickhijt」は「動作 (movement)」ではなく「感情 (emotion)」や「動機 (motive)」を意味するのではと言う意見や、描いた対象が何であるかによって様々な解釈が行われたりする。しかしいずれにしろ、レンブラントが西洋芸術において、現実性と精神性をつなぎ目なく融合させた比類なき存在であることは疑い様が無い[68]

『ダナエ』の右手(拡大)。

彼は絵画中に描かれた人物の心象や情景を巧みに表現した。この点を重視し、レンブラントは他の画家よりもウィリアム・シェイクスピアと比較されることが多い[11]。集団肖像画におけるドラマ性もさることながら、神話伝説からモチーフを得た絵画でもこの表現法は生かされた。1636-1637年作の『ダナエ』は、ギリシア神話に登場する女ダナエーの許をゼウスが訪れる場面を描いている。この主題は何人もの画家が取り組んだが、それらはどれも多く描写される掌を上に向けたポーズで示されるように金の滴と化したゼウスをただ受容するだけのダナエーを描いた。レンブラントは、右の掌を前に向けたダナエーを描き、彼女に独立した人格と意識を与え、心情を表現した。X線分析によると当初この右手はもっと低い位置に、ゼウスが立つ窓のカーテンを開けるようなしぐさで描かれたが、製作途中で書き直されたことが判明した。また頭上の手を縛られた金色のクピドは、彼女が幽閉された状況を象徴している[67]

画材

レンブラントは洋紙を好まず、亜麻布や大麻布のボロから手漉きで作らせた紙、雁皮紙などを使った。これは版画などにてインク吸収に優れた点を重視したと思われる。また、当時多く輸出されていた和紙も用い、100ギルダー版画『病をいやすキリスト』や素描など350点以上が残っている。[69]
インク
レンブラントのデッサンには、セピア色の線がよく見られる。これはイカ墨を用いたインクで、レオナルド・ダ・ヴィンチも好んで使った。このイカ墨インクは「レンブラント・インク」とも呼ばれる[70][71]

レンブラント工房

『ガラリアの海の嵐』 (en)、1633年、油彩。この絵は1990年に所蔵していたイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館(en)から盗まれ、行方不明のままである。

高い名声を得たレンブラントは大きな工房を運営し、多くの弟子を抱えたことで知られる。そのほとんどが強い影響を受けた。そのため、スタジオで製作した作品や、後援者が望んだレンブラント風絵画や、単に複製した作品などが混在する状況となり、その差異を判断することが難しくなった。

レンブラントの弟子には、以下の人物もいる[72] 。 フェルディナンド・ボル(en), アドリアーン・ブラウエル, ヘラルト・ドウ, ウイレム・ドロステ(en), Heiman Dullaart, ヘルブラント・ファン・デン・エークハウト(en), カレル・ファブリティウス, ホファールト・フリンク(en), Hendrick Fromantiou, アールト・デ・ヘルデル(en), サミュエル・ファン・ホーホストラーテン(en), アブラハム・ヤンセンス(en), ゴドフリー・クネラー(en), フィリップ・デ・コーニンク(en), Jacob Levecq, ニコラース・マース(en), Jürgen Ovens, Christopher Paudiß, Willem de Poorter, ヤン・フィクトルス(en) ヴィレム・ファン・デル・フリート(en).

工房で同一のモデルを異なる方向から描いたレンブラントの『腰掛けた裸婦』(シカゴ、アートインスティチュート蔵)とアールト・デ・ヘルデルの『腰掛けた裸婦』(ロッテルダム、ボイマンス・ファン・ビューニンゲン美術館)がある。[73]

レンブラント・リサーチ・プロジェクト

20世紀初頭、レンブラントの作品は約1000点が伝わっていたが、それらには常に真贋の疑問が挟まれていた[74]。中には2枚の真作エッチングを合成して1枚の贋作を作った例まであった[75]。1968年、オランダの応用化学研究機構 (Netherlands Organization for the Advancement of Scientific Research, TNO) が出資したレンブラント・リサーチ・プロジェクト(en)が立ち上げられた。数々の作品をレンブラントの作だとする信頼できる再評価を下すため、美術史家班は他分野の専門家からの協力を得て、最先端の技術診断を含む可能な限りの手段を用い、彼の絵画を収めた新しいカタログ・レゾネ(en)を完成させようとした[76]

パネルの年輪年代学や他の物理・化学的分析ではほとんど贋作判定はできず、逆に18-19世紀の絵ではと考えられていたものが17世紀の絵だと判明するケースもあった[74]。威力を発揮した手法はX線撮影によって下絵から書き進む段階を明瞭にし、それらを図像学や美術史家によって行われた分析だった。絵の具の塗り方にむらや不必要な筆跡などが多く見られるものはレンブラント風を意図的に作ろうとしたものであったり、また下書きがまだ乾かないうちに本塗りがされたために不規則なひびが入っているものなどが贋作判定の例となった[74]。これらを通じ、彼の真作による絵画は約300に絞られた。ただし、この判断には段階が設けられ、「真作の可能性が高い(very likely authentic)」「真作の可能性がある (possibly authentic)」「真作の可能性が低い (unlikely to be authentic)」という評価がそれぞれに与えられている[77]

『ポーランドの騎手』(en)。馬に乗ったリソフチツィ(en)を題材に描いたこの絵に関して多くの議論がある。この人物は、リトアニアの大法官(en)であるマルクジャン・アレクサンドラ・オギンスキ(en)(1632年-1690年)を描いたと言われる。.

例えば、ニューヨークフリック・コレクションの『ポーランドの騎手』は以前からジュリウス・ヘルドら多くの学者によって信憑性に疑問が呈され、リサーチ・プロジェクトのジョシュア・ブリュン博士もレンブラントの最も才能溢れながらあまり知られていない門下生ウィレム・ドロステ(en)の作品だと考えた。蒐集したヘンリー・フリックは、視認できるサイン「Rembrandt」(レンブラント)の前には、「attributed to」(…の所有物)も「school of」(…門下)も見えないとして、自身の意見を変えることは無かった。その後、サイモン・シャーマ(en)は1999年の著作『レンブラントの目』でフリックを支持し、プロジェクトのエルンスト・ファン・デ・ウェテリンク教授も1997年のメルボルン・シンポジウムで真作説に賛同の意を述べた。多くの学者の中では、出来栄えが不規則である点から、各部分を複数の人物が描いたものという意見を受け入れている[78]

『黄金の兜をかぶった男』ベルリン。最も有名なレンブラントの肖像作品のひとつだったが、この絵画は彼のものとはみなされなくなった。

『手を洗うピラト』もまた疑いを持たれた作品である。これは1905年には疑問が呈されており、ヴィルヘルム・フォン・ボーデはこの作品を指してレンブラントにしては「どこかおかしな仕事」と述べた。科学的な分析が1960年代から行われ、これはいずれかの弟子、おそらくはアレント・デ・ヘルダーが描いたものと推測された。構成こそ表面的にはレンブラントの作品との類似性を帯びているが、特徴である明暗やモールディング技法の表現性には欠けていた[79]

レンブラントの版画は一般にエッチングと纏められているが、ほとんどはエングレービングであり一部にドライポイントがある。これらの真作は300点を下回った[注 8]。レンブラントは生涯に2000以上の素描を残したと伝わるが、現存する点数はこれを下回る[注 9]。二組の専門家チームの発表によると、署名の状態から確かに彼の絵画であると言い切れるものは約75点にとどまるというが、これは議論の的となっている。このリストは、2010年2月に行われた学術会議で公表された[80]

レンブラントの自画像は90点あると考えられていたが、後に練習のために弟子に模写させたものが含まれていることが分かった。現在では40数点の絵画と若干数の素描、そして31点のエッチングと学術的に判断され、外されたものの中には代表作と見なされていた作品もあった[81]

画像外部リンク
新たにレンブラント作とされた4点

その後も真贋判定は続けられている。2005年、弟子作と考えられていた4点の油彩がレンブラント本人の作品という判定がなされた。これらは『Study of an Old Man in Profile』『Study of an Old Man with a Beard』(2点ともアメリカの個人が所有)、『Portrait of an Elderly Woman in a White Bonnet』(1640年作)、『Study of a Weeping Woman』(デトロイト産業美術館(en)蔵)である[82]

レンブラント・スタジオの体制が真贋判定の難しさを生んでいる。先人のスタジオも同様ではあるが、レンブラントは弟子たちに彼の絵をよく模写させた。そしてそれらに仕上げや修正を施し、真作または正式な複製として販売していた。さらに、レンブラントの絵画形式は決して難しいものではなく、才能ある弟子ならば模倣が可能であった。さらにこの問題を複雑にした背景には、レンブラント自身の製作には品質的にぶれがあり、また頻繁に絵画形式を変化させたり実験を試みたりしたことがある[83]。彼の作品には後に贋作が作られることがあった。また、真作の中にもひどい損傷を被ったものもあり、本来の状態をよもや認識できない作品もある[84]

署名の変遷

アムステルダムのレンブラントの家。現在は博物館(en)になっている。

1633年にレンブラントは、署名を芸術家らしく「Rembrandt」というファーストネームだけの署名に変更した。大まかな経緯は、1625年頃の初期に彼はイニシャルの「R」またはモノグラムの「RH」(「Rembrant Harmenszoon‐ハルマンの息子レンブラント」の略)を使用していたが、1629年からはおそらくライデンの頭文字であろうLを加え「RHL」を使うようになった。これは1632年初期頃まで用いたが、やがて父称を加えて「RHL-van Rijn」とするも、同年中にはファーストネームのみを本来のスペルである「Rembrant」へ変えた。1633年、彼は何らかの意志を持ってこれにdを入れた小変更を施して「Rembrandt」とし、以後このサインを使い続けた。この改訂は表示だけのもので、名前の発音まで変えるものではなかった。このdを加えたサインは数多い絵画やエッチングに用いられたが、同時代に作成された書類にはdが無い名前が使われた。[85]。ファーストネームだけを書名に用いる彼のこのような取り組みは、後にフィンセント・ファン・ゴッホも行った。これらは、ラファエロレオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロらファーストネームだけで認知される先人に倣ったものと考えられる[86]

レンブラントの眼の秘密

2004年、ハーバード・メディカル・スクール神経科学教授マーガレット・S・リビングストンは、レンブラントは視覚の焦点を正確に結べない立体盲(en)だったという短い論文を発表した[87]。これはレンブラントの自画像36点を研究した結果で、彼は両眼視(en)に難を抱えていたために脳が自動的に片目だけで多くの視覚的機能を果たすよう切り替わっていたという。この障碍は、彼が平面を視認する感覚に益し、 二次元的なキャンバスを作り出すに至らせた可能性がある。リビングストンによると、これは画家にとって利点になるもので、「絵画教師はたまに、生徒に片目を瞑って平面を視認するよう指導することがある。したがって、立体盲は決して欠点にならず、画家によっては資産にもなりうる。」と述べた[87]

作品を所蔵する美術館

レンブラントの代表的な作品は『夜警』『ユダヤの花嫁(イサクとリベカ)』などがあるアムステルダム国立美術館デン・ハーグマウリッツハイス美術館サンクトペテルブルクエルミタージュ美術館ロンドンナショナル・ギャラリーベルリン絵画館ドレスデンアルテ・マイスター絵画館パリルーヴル美術館、他にニューヨークワシントンD.C.ストックホルムカッセル等にある[88]

ギャラリー

本文中で例示した作品を掲示する。したがって、製作年順には並んでいない。

関連項目

参考文献

  • 尾崎彰宏『レンブラントのコレクション 自己成型への挑戦』(初版第一刷)三元社、2004。ISBN 4-88303-135-7 
  • マリエット・ヴェステルマン 『レンブラント』 高橋達史訳、岩波書店<岩波世界の美術> 2005年
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  • 編集:苅部康次『週刊グレート・アーチスト No.67レンブラント』同朋舎出版、2001。 
  • 南城守『デッサン学入門‐創意の源泉を探るふくろう出版、2003。ISBN 978-4861861536http://books.google.co.jp/books?id=DMzul7tpebUC&pg=PA140&dq=%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88&hl=ja#v=onepage&q=%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88&f=false 
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脚注

注釈

  1. ^ 1607年生まれ説もある。1634年6月10日に、レンブラントは自分が26歳だと述べている点を根拠にしたIs the Rembrandt Year being celebrated one year too soon? One year too late?、やJ. de Jongが唱えたRembrandts geboortejaar een jaar te vroeg gevierdにて解説されている。
  2. ^ 尾崎 (2004) 年表、p.248およびBull, et al.、p.28では「第九子」、オランダ政府観光局のページでは「10人兄弟の末っ子」、京都国立博物館 レンブラント略年表では「10人兄弟の9番目」とあるが、ここでは兄弟の詳細を含むボナフー (2001)、p.21の記述を用いる。
  3. ^ レンブラントはオランダ語の読み書きができなかったという話を、死から3年後にヨアヒム・フォン・ザンドラルトという人物が残した。ただしライデン大学の記録には1620年5月20日付け名簿にレンブラントの名があり、文盲の人物を入学させるとは考えられない。ボナフー (2001)、p.28
  4. ^ 当時、広義の「外科医療」には理容師が行う簡単な傷病や腫れ物の手当ても含まれていた。本格的な外科医は、解剖を行うことでこれらとの差別化を行う必要があった。街道をゆく 35オランダ紀行、pp.125-135
  5. ^ この価格の妥当性について司馬はガイドに聞いたところ、婉曲な言い回しで法外なものだったと回答を得た。レンブラントには金銭感覚があまり無かった。街道をゆく 35オランダ紀行、pp.125-135
  6. ^ ボナフー (2001)、pp.83-104、影の時代の表記。Slive (1995)、p.82では、レンブラントはオランダ改革派教会の信者でなかったため呼び出しを受けなかったとある。
  7. ^ Schwarz (1988)、p.12によると、邸宅は2年前に売れていたが、彼は2年間そのまま住むことを許されていた。
  8. ^ 200年前、Bartschはレンブラントのエッチングリストを375点とした。Schwartz (1988)、pp.6によると、近年、真作のリストには風変わりな2点を含む3作が加えられ、Münz 1952, p. 279, Boon 1963, pp. 287(参考:Print Council of America)にある289点を上回ったと言うが、その具体的な数は記していない。
  9. ^ これは全数ではないと思われ、学術的分析は続行中である。2006年から翌年にかけてベルリン・コレクションを展示するために行われた解析では、彼の作とされた点数が130枚から60枚に減少した。参照:Codart大英博物館は同じような活動を行い、新たなカタログを発行する予定である。

脚注

  1. ^ a b c d 180 レンブラント・巨匠とその周辺”. 京都国立近代美術館. 2010年12月23日閲覧。
  2. ^ a b メキキズ・ビジネス編集局. “光の魔術師” (PDF). NTTアドバンステクノロジ株式会社. 2010年12月23日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h レンブラント・ファン・ライン”. オランダ政府観光局. 2011年1月21日閲覧。
  4. ^ Gombrich (1995)、p.420
  5. ^ Gombrich (1995)、p.427
  6. ^ Clark (1969)、p.203
  7. ^ a b c d e f 尾崎 (2004) pp.7-13、プロローグ
  8. ^ a b c d e f g h i ボナフー (2001)、pp.17-44、「黄金の世紀」の始まり
  9. ^ a b c d e f g h i j k l グレートアーチスト、pp.4-11、オランダの至高の天才
  10. ^ Bull, et al., (2006) p.28
  11. ^ a b c 司馬遼太郎「レンブラントの家」『街道をゆく 35オランダ紀行』朝日文庫、1994、125-135頁。ISBN 4-02-264053-7 
  12. ^ a b c d e f レンブラント略年表”. 京都国立博物館. 2011年1月21日閲覧。
  13. ^ a b c d 南城 (2003)、pp.135-140、レンブラントの登場
  14. ^ a b c 南城 (2003)、pp.140-143、レンブラントの素描観
  15. ^ a b c d e f g h i j k 尾崎 (2004) pp.248-253、年表
  16. ^ Slive、p.55
  17. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p ボナフー (2001)、pp.45-82、光の時代
  18. ^ a b 稲田弘子. “クローデルとレンブラント‐「夜警」に見る「解体」‐”. Cinii論文、聖徳大学短期大学部. 2011年1月21日閲覧。
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  28. ^ Slive (1995)、p.84
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  49. ^ Wetering (2000)、pp.155-165
  50. ^ Wetering (2000)、pp. 157-158, 190
  51. ^ 「(後期)レンブラントが描いた、生きた人間とまみえるように感じられる絵は、その暖かさ、共感を求める姿、または孤独や受難を我々は感じ取る。彼らの鋭く凝らした瞳は、レンブラントの自画像と同じく我々の心への訴えかけを直に感じざるを得ない。」Gombrich (1995)、p.423
  52. ^ 「それ(ユダヤの花嫁)は愛を育み、華美と慈愛と信頼などさまざまなものがすばらしい融合を見せ、誠実さに溢れたふたりの顔には古典的な描法では決して描くことができなかった霊的な輝きを湛えている」Clark (1969)、p.206
  53. ^ Schwartz (1994)、pp.8-12
  54. ^ White (1969)、pp.5-6
  55. ^ White (1969)、p. 6
  56. ^ White (1969)、pp.6, 9-10
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  59. ^ a b グレートアーチスト、pp.16-17、名画の構成:夜警
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  88. ^ Clark (1978)、pp.147-150. レンブラント作と認められた品の所在カタログ参照

脚注2

本脚注は、出典・脚注内で提示されている「出典」を示しています。

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