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{{基礎情報 過去の国
[[Image:Flag of Free France 1940-1944.svg|300px|thumb|right|自由フランス旗]]
| 日本語国名 = 自由フランス
'''自由フランス'''(じゆうフランス、'''France libre''')は、[[第二次世界大戦]]中に[[ナチス]]政権下の[[ドイツ]]による[[フランス]]占領に反対して戦った抵抗運動([[レジスタンス運動|レジスタンス]])である。
| 公式国名 = '''{{lang|fr|France Libre}}'''

| 首都 = [[パリ]]{{smaller|([[デ・ジュリ|法律上]])}}<br>[[ロンドン]]{{smaller|([[事実上]]、1942年11月まで)}}<br>[[アルジェ]]{{smaller|([[事実上]]、1942年11月以降)}}
== 概要 ==
| 先代1 = フランス第三共和政
| 次代1 = フランス共和国臨時政府
| 先旗1 = Flag of France (1794–1815, 1830–1974, 2020–present).svg
| 次旗1 = Flag of France (1794–1815, 1830–1974, 2020–present).svg
| 国旗リンク = 軍旗
| 国旗画像 = Flag of Free France (1940-1944).svg
| 国章画像 = Emblem of Free France (1940-1944) Cross of Lorraine.svg
| 国章リンク = [[ロレーヌ十字]]
| 国章幅 = 60
| 位置画像 = Vichy france map.png
| 位置画像幅 = 290
| 位置画像説明 = フランスの領土・植民地のうちヴィシーフランスと自由フランス、枢軸国占領地域の地図<br>細かい区分は[[:File:Vichy france map.png#Summary|凡例]]を参照
| 変遷1 = {{仮リンク|6月18日の演説|en|Appeal of 18 June|label=ド・ゴールの演説}}
| 変遷年月日1 = 1940年6月18日
| 変遷2 = {{仮リンク|帝国防衛会議|fr|Conseil de défense de l'Empire}}の結成
| 変遷年月日2 = 1940年7月11日
| 変遷3 = {{仮リンク|フランス国民委員会|fr|Comité national français}}の結成
| 変遷年月日3 = 1941年9月24日
| 変遷4 = {{仮リンク|フランス国民解放委員会|fr|Comité français de libération nationale}}の結成
| 変遷年月日4 = 1943年6月3日
| 変遷5 = [[フランス共和国臨時政府|臨時政府]]に移行
| 変遷年月日5 = 1944年6月3日
| 建国時期 = [[1940年]]
| 亡国時期 = [[1944年]]
| 元首等肩書 = [[フランスの大統領|国民委員会委員長]]
| 元首等氏名1 = [[シャルル・ド・ゴール]]
| 元首等年代始1 = 1940年
| 元首等年代終1 = 1944年
| 国歌 = [[ラ・マルセイエーズ|{{lang|fr|La
Marseillaise}}]]{{fr icon}}<br />''ラ・マルセイエーズ''<br />{{center|[[File:La Marseillaise Rouget de Lisle Musique de la Garde Républicaine.ogg]]}}
}}
{{フランスの歴史}}
{{フランスの歴史}}
===成り立ち===
[[1940年]]の[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|ドイツの侵攻]]による[[パリ]]陥落後、[[イギリス]]の[[ロンドン]]に[[亡命]]した[[シャルル・ド・ゴール]]将軍は、1940年[[6月18日]]にイギリスの[[英国放送協会|BBC]]放送を通じて歴史的な演説を行い、国内外のフランス人に対独抵抗運動を呼びかけた。同年6月28日に、[[ウィンストン・チャーチル]][[首相]]率いるイギリス[[政府]]は、[[コミュニケ]]を発表して承認した。


'''自由フランス'''(じゆうフランス、{{lang-fr|France libre}})は、[[第二次世界大戦]]中に[[ナチス・ドイツによるフランス占領]]に反対して成立した組織である。亡命[[フランス人]]による独自の[[自由フランス軍]](Forces Françaises Libres)を率いるとともに、{{仮リンク|フランスのレジスタンス|fr|Résistance intérieure française|en|French Resistance|label=フランス国内のレジスタンス}}を支援した。1942年7月21日からは「'''戦うフランス'''({{lang-fr|France combattante}})」と改称されている。
=== 植民地の対応 ===
[[File:Gaulle002.jpg|thumb|220px|left|[[チュニジア]]にて指揮を執るド・ゴール]]
これに呼応して1940年の秋には[[カメルーン]]、[[フランス領赤道アフリカ|仏領赤道アフリカ]]などのフランスの[[植民地]]がド・ゴールの下に結集し、後に[[ニューカレドニア]]、[[フランス領ポリネシア|仏領ポリネシア]]、[[ニューヘブリデス諸島]]、[[サンピエール島・ミクロン島]]なども参加した。


== 歴史 ==
ただ[[アルジェリア]]、[[フランス領西アフリカ|仏領西アフリカ]]([[セネガル]]など)、[[マダガスカル]]、[[マルティニク]]、[[グアドループ]]、[[仏領ギアナ]]、[[シリア]]、[[レバノン]]などは親独的な[[フィリップ・ペタン]]率いる[[ヴィシー政権]]の影響下に留まり、ヴィシー政権(とドイツ政府の)の黙認の下1940年に[[日本軍]]が進駐した[[仏領インドシナ]]も同様であった。
=== 結成 ===
[[1940年]]の[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|ドイツ軍の侵攻]]による[[パリ]]陥落後の6月17日に[[イギリス]]の[[ロンドン]]に[[亡命]]した前国防次官[[シャルル・ド・ゴール]][[旅団将軍|将軍]]は、6月18日に[[英国放送協会|BBC]]を通じ、歴史的な演説([[:en:Appeal of 18 June|Appeal of 18]])を行い、国内外のフランス人に対独抵抗運動([[レジスタンス]])を呼びかけた。6月21日に[[フィリップ・ペタン]][[フランス元帥|元帥]]率いるフランス政府はドイツに休戦を申し入れ、フランス南部を統治する[[ヴィシー政権]]となった。


6月23日、ド・ゴールは自らを代表とし、フランスの正統な政治的権威を持つ組織として「{{仮リンク|フランス国民委員会|fr|Comité national français}}」を設置した<ref>大井、771p</ref>。委員会はイギリスにいるフランス人の指揮権・支配権を持つものと宣言した。同日、[[ウィンストン・チャーチル]]率いるイギリスはヴィシー政権の承認を拒否するとともに、同委員会設置を支持した。6月28日には[[コミュニケ]]を発表し、ド・ゴールを「連合諸国の理念の防衛のために彼に合流する全ての自由なフランス人([[:fr:Français libre|Français libre]])の主席」として承認した<ref>大井、791p</ref>。ド・ゴールは政府の独立性を高めるため、イギリスからの資金援助はフランスの負債とし、将来返済するものと取り決めた<ref>児島、185p</ref>。
===他国の対応===
このため[[アメリカ合衆国]]や[[中華民国]]などの他の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の一部は、イギリスとは異なり自由フランスを「正当なフランス政府」としては承認せず、当初はヴィシー政権を正当な「フランス政府」として承認した。なお、[[日本]]や[[イタリア]]、[[満州国]]などのドイツと同盟関係にある[[枢軸国]]は、ヴィシー政権を承認した。


=== 結成に対する反応 ===
しかしフランス国内では、ヴィシー政権が次第に親ドイツ性を強めて行くにつれヴィシー政権を黙認するものが減り、反ドイツのレジスタンス運動が活発化していく事となる。その結果自由フランスを承認していなかった他の連合国も自由フランスを承認し、さらに[[1941年]]12月に第二次世界大戦に参戦しドイツと戦争状態に置かれたアメリカも、その後まもなくヴィシー政権と断交し自由フランスを承認した。
[[メルセルケビール海戦]]などでフランス人の間に反英感情が高まったこともあり、当初は在外フランス人の間でも自由フランス支持の動きは鈍かった。7月の時点で自由フランスの指揮下にあったフランス軍人は7,000名に過ぎなかった<ref>大井、774p</ref>。


さらに[[フランス領アルジェリア|アルジェリア]]、[[フランス領西アフリカ|仏領西アフリカ]]([[セネガル]]など)、[[マダガスカル]]、[[マルティニク]]、[[グアドループ]]、[[仏領ギアナ]]、[[フランス委任統治領シリア|シリア]]、[[大レバノン|レバノン]]などはヴィシー政府影響下、または中立に留まり、ヴィシー政権(とドイツ政府)の黙認の下、1940年に[[日本軍]]が[[仏印進駐|進駐]]した[[仏領インドシナ]]も同様であった。
===活動===
[[File:B-26 Le Bourget 01.JPG|thumb|220px|left|アメリカから貸与された[[マーチン (航空機メーカー)|マーチン]][[B-26]]B爆撃機]]
自由フランスはフランス国内のフランス人に対独レジスタンスを呼びかけ、諜報作戦を行う一方、武装組織である[[自由フランス軍]](Forces Françaises Libres)を有して、イギリスやアメリカからの軍事物資の支援を受けて[[北アフリカ]]や[[シリア]]などで連合軍の作戦に参加した。


また、連合国を含む諸外国におけるド・ゴールの知名度は皆無に等しく、自由フランスに関する動きはほとんど見られなかった。
その勢力は、イギリスなど国外へ亡命したものを中心に当初8,000人程度に過ぎなかったが、次第に膨れ上がり、[[1944年]]には40万人に達した。また、[[アルゼンチン]]や[[ウルグアイ]]などからの亡命者を中心とした義勇軍も参加した。


=== 初期の活動 ===
同年の[[ノルマンディー上陸作戦]]には、他の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍とともに[[フィリップ・ルクレール]][[将軍]]指揮下の自由フランス第2機甲師団が参加し、[[パリ]]一番乗りを飾った。
[[File:Vichy france map.png|300px|thumb|赤が自由フランスの支持地域]]
自由フランスは[[英国放送協会|BBC]]や独自の放送局からフランス内地のフランス人に対独レジスタンスを呼びかけ、{{仮リンク|フランスのレジスタンス|fr|Résistance intérieure française|en|French Resistance|label=フランス国内のレジスタンス勢力}}による諜報・妨害作戦を行った。主な傘下組織には[[マキ (抵抗運動)|マキ]]などがある。武装組織である自由フランス軍は、イギリスからの軍事物資の支援を受けて[[北アフリカ]]やシリアなどで連合軍の作戦に参加した。


1940年9月には最初の軍事作戦として[[ダカール沖海戦]]に参加したが失敗した。10月27日にはコンゴの[[ブラザヴィル]]で「海外領土防衛協議会」設置を宣言し、海外植民地の結集を図った。フランスの植民地のうち、[[フェリックス・エブエ]]が総督であった[[フランス領赤道アフリカ|仏領赤道アフリカ]]と{{仮リンク|フランス領カメルーン|fr|Cameroun français|en|French Cameroon|preserve=1}}、[[南太平洋]]の[[ニューカレドニア]]と[[フランス領ポリネシア]]はこれに応じた。この際、ド・ゴールはヴィシー政府を違憲であると批難し、新しい政府が戦争を指導しなければならないと宣言した<ref>大井、784p</ref>。イギリスはこの協議会を翌1941年1月6日に承認したが、いまだ自由フランスを政府として承認してはいなかった。6月8日にはイギリスと自由フランスはエクスポーター作戦(Operation Exporter)を発動してシリアへ侵攻した。この[[シリア・レバノン戦役]]の結果、[[フランス委任統治領シリア]]と[[大レバノン]]を占領下に置いた。レバノンは1943年11月8日、シリアは1944年1月1日に独立を宣言し、連合国に加わった。
[[パリ解放]]後の1944年9月にパリで「フランス臨時政府」が成立し、ド・ゴールが臨時政府首相に就任したことによって、自由フランスは発展的に解消した。

[[独ソ戦]]が始まると自由フランスは[[ソビエト連邦]]に外交攻勢を掛け、関係を深めた。9月24日に自由フランスは国民委員会を「内閣に相当するもの」と宣言した。9月26日にはソ連がド・ゴールを承認し、10月16日以降、ロンドンにあった他の連合国亡命政府は次々に国民委員会を承認した。11月26日にはイギリスも「連合諸国の原理の支持のために『自由フランス』に参加する全ての自由なフランス人の代表」として承認した。また、アメリカも自由フランスを「[[レンドリース法]]」の事実上の対象として武器援助を開始した<ref name="#1">大井、792p</ref>。

=== 米英との軋轢 ===
[[File:Churchill De Gaulle HU 60057.jpg|220px|thumb|チャーチルとド・ゴール。1944年1月17日]]
しかし、自由フランスの「独裁者」であったド・ゴールは尊大な態度で要求を貫いたために連合国間での評判が悪く、「[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]」や「[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]」気取りの俗物に例えられた<ref>[[ウェンデル・L・ウィルキー]]の発言、児島、198p</ref>。12月24日に[[自由フランス海軍]]は無断で[[カナダ]]の[[セントローレンス湾]]沖合いにある[[サンピエール島・ミクロン島|サンピエール島とミクロン島]]を占拠し、実効支配下に置いた。両島を管轄する[[フランス領アンティル|フランス領西インド]]総督はアメリカとの間に中立協定を結んでおり、激怒した[[コーデル・ハル]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]は退去を要求した<ref name="#1"/>。しかし、軍事作戦上の都合から、1942年4月に自由フランスの支配権は認められた。この事件はド・ゴールに対する連合国の印象をさらに悪化させ、4月1日にド・ゴールが自由フランス政府の承認を要求する声明を出しても英米両国は承認しなかった。5月5日には米英が無断で仏領[[マダガスカル]]に上陸作戦を行い([[マダガスカルの戦い]])、同島の総督に中立化を求める計画を立てた。ド・ゴールは激しく抗議し、5月14日にはマダガスカルを自由フランスの統治下に置くという決定を引き出した。チャーチルはド・ゴールに腹を立て、マダガスカルからの自由フランス追放を希望するほどであった<ref>大井、794p</ref>。

一方でアメリカは5月21日には自由フランスを「フランスの抵抗を代表する機関」として承認し、正式なレンドリースの対象とした。また、6月には自由フランスの実効支配地域における行動では国民委員会と協議するという覚書をイギリスに送り、イギリス政府もこれに同意した<ref>大井、878p</ref>。7月21日には自由フランスが「戦うフランス」と改称され、国民委員会を指導組織および代表機関と位置づけた<ref>村田、124p</ref>。

=== フランス国民解放委員会 ===
[[File:Charles de Gaulle 1943 Tunisia.jpg|thumb|220px|[[フランス保護領チュニジア|チュニジア]]で閲兵するド・ゴール。1943年6月。]]
1942年6月に米英軍はヴィシー政権の支配下にある[[フランス領北アフリカ]]に上陸する計画を立てた。この上陸作戦は自由フランスに通知せず、ヴィシー政権軍司令官[[フランソワ・ダルラン]]大将と交渉した上で上陸し、反ド・ゴール感情が強いフランス領植民地の支配には[[アンリ・ジロー]]大将を起用することにした。連合国軍が11月8日より上陸を開始すると([[トーチ作戦]])、ダルランはヴィシー政権軍を降伏させ、連合国の支持を得た上で「北アフリカにおけるフランス国家元首兼陸海軍総司令官」に就任したと宣言した。ダルランは自由フランスの協力を拒否し<ref>大井、904p</ref>、自らの政権を固めようとした。ド・ゴールはダルランを「フランス勢力結集の障害」であると語り<ref name="#2">大井、911p</ref>、自由フランスは「フランスの政府は一つ」であるという宣伝活動を行った。12月24日にダルランは暗殺され、ジローが連合軍に任命された{{仮リンク|フランス民軍最高司令官|fr|Commandement en chef français civil et militaire|en|Leonard T. Gerow|label=北アフリカ・アルジェにおけるフランス民軍最高司令官}}として北アフリカの指揮権を引き継いだ。このダルラン暗殺にはド・ゴールの関与があったという噂が当時からあり、ジローもド・ゴール派の容疑者を数名逮捕している<ref>大井、905-906p</ref>。ジローはアルジェに海外領土協議会を置き、連合国の間では2つの政府の統合が問題となった。

1943年1月15日から23日にかけて、チャーチル首相と[[フランクリン・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]は[[カサブランカ会談]]に臨んだ。この会談でド・ゴールとジローの政府を統合し、ド・ゴールとジローの二頭体制をつくる交渉が行われたが、調停は不調に終わった。ジローの支持者であった<ref>大井、917p</ref>ルーズベルトは、ド・ゴールの頑なな態度<ref group="注釈">ド・ゴールは会談要請にもなかなか応じず、1月22日になってようやくカサブランカに到着した。</ref>に対して「フランスはド・ゴール抜きでも解放される」と警告した<ref name="kojima203">児島、203p</ref>。チャーチルも「彼との関係を断絶する」と口走るほどであった<ref name="#3">大井、921p</ref>。ルーズベルトは後に「ジローは愛国的な軍人で、まったく政治家ではない。ド・ゴールは軍人でたしかに愛国的で国に献身している。しかし彼は政治家で狂信家だ。彼の中にはほとんど独裁者の性質がある」と両者を評している<ref name="#3"/>。しかし、自由フランスの宣伝が功を奏し、北アフリカやフランス内地でもド・ゴール人気が高まりつつあった。5月1日に[[アルジェ]]で行われた[[メーデー]]ではド・ゴール支持の声が挙げられ、5月7日にフランス内地で設立されたレジスタンス組織[[全国抵抗評議会]]はド・ゴールが唯一の指導者であると声明した<ref name="kojima203"/>。

このような状況もあって、3月ごろからはジロー派とド・ゴール派の協議が進み、政府統合についての問題も決着した。6月3日にはド・ゴールとジローを共同議長とする{{仮リンク|フランス国民解放委員会|fr|Comité français de libération nationale|en|French Committee of National Liberation}}(CFLN)が結成された。この委員会はフランスの中央政権を称し、全フランス軍の指揮権を持つと宣言した。これをうけてイタリア上陸作戦を計画していた連合国軍は、北アフリカの[[フランス軍]]に対する連合国軍[[地中海作戦戦域]]司令部の指揮権を確認した。ド・ゴールはフランス軍は委員会の指揮下にあると回答し、ジローにも連合国と委員会の二者択一を迫り、委員会を選ばせた<ref>児島、204-205p</ref>。そのころ、アルジェではド・ゴール派とジロー派による宣伝合戦が起こっており、ジローは自らの暗殺を懸念していた<ref>大井、936p</ref>。8月1日、自由フランス軍は北アフリカの旧ヴィシー軍と合流し、{{仮リンク|フランス解放軍|fr|Armée française de la Libération|en|French Liberation Army}}が結成された。8月23日に委員会は「交戦団体」として米英ソによって承認された。9月17日にはフランス対独抵抗派の統一のための{{仮リンク|臨時諮問議会|fr|Assemblée consultative provisoire}}が設立された。11月9日にはド・ゴールとの権力闘争に敗れたジローが失脚し、ド・ゴールが唯一の代表となった。

ルーズベルト大統領はド・ゴールの勢力拡大に落胆し、[[テヘラン会談]]でもド・ゴールが嫌いであるとソ連側に明言するほどであった<ref name="#3"/>。しかし、戦後体制における米ソの二巨頭体制を牽制する必要があると考えたイギリスにより、フランスは大国の一つとして再建されることが定められた。また、ソ連側の要請で、1944年にはフランスに上陸して第2戦線を築くことが合意された。

=== フランス共和国臨時政府 ===
[[File:HD-SN-99-02715.JPEG|thumb|220px|[[シェルブール]]にある市役所のバルコニーから演説するド・ゴール。1944年8月20日]]
[[1944年]]の段階で[[アルゼンチン]]や[[ウルグアイ]]などからの亡命者を中心とした義勇軍も参加し、自由フランス軍の兵力は40万人に達した。また、[[ポーランド亡命政府]]に資金を返還するなど他の亡命政権の援助を表明し、政府としての「既成事実」作りを開始した<ref>児島、205-206p</ref>。4月9日にはジローがフランス軍総司令官から解任され、アメリカは委員会をフランス政府としては承認しないことを確認した<ref>大井、978p</ref>。

5月26日には国民解放委員会をド・ゴールが主席となる「[[フランス共和国臨時政府]]」に改組する布告を発表し、イギリスに承認を迫った<ref>児島、207p</ref>。チャーチルはド・ゴールの強引な姿勢に不快感を抱き「アメリカとフランスのどちらかを選ばなければならない場合にはアメリカを選ぶ」と叫んだ<ref>大井、981p</ref><ref>児島、208-209p</ref>。ただし、[[外務・英連邦大臣|外相]][[アンソニー・イーデン]]はド・ゴールに好意的であり、ド・ゴールの地位を承認するよう閣議に働きかけており<ref>大井、981-982p</ref>、イギリス全体の基本政策としてはド・ゴールを支持していた<ref name="#2"/>。6月2日に臨時政府が正式に発足したが、正式な承認を行う国はなかった。

6月からは[[ノルマンディー上陸作戦]]が開始される予定であったが、連合国首脳はその際にド・ゴールに呼びかけさせてフランス内地への工作を行おうとした。6月5日、チャーチルと[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]、そしてド・ゴールの間で会談が行われたが、ド・ゴールは臨時政府の承認を執拗に要求した。6月6日の上陸作戦開始にあわせて行われたBBCによる連合国首脳の放送では、各国の元首に続いてアイゼンハワー、その次にド・ゴールの演説が行われた。この放送でフランス人に対して「フランス政府およびその指導者」のみに従うよう求め、連合国などという言葉は一切発しなかった<ref>児島、209p</ref>。この上陸作戦には[[フィリップ・ルクレール]][[将軍]]指揮下の自由フランス軍{{仮リンク|第2機甲師団 (フランス陸軍)|en|2nd Armored Division (France)|label=第2機甲師団}}が参加している。

=== パリの解放、帰国 ===
[[File:Crowds of French patriots line the Champs Elysees.jpg|thumb|220px|[[シャンゼリゼ通り]]をパレードするルクレール師団。1944年8月26日]]
{{see also|パリの解放}}
フランスに橋頭堡を築いた連合国軍首脳は、ドイツ軍の強力な抵抗が見込まれるとして、[[パリ]]の解放を急がず一部部隊による包囲に留める方針をとることにした<ref>児島、210p</ref>。当時、パリでは[[ディートリヒ・フォン・コルティッツ]]将軍率いるパリ防衛ドイツ軍と、レジスタンス組織から再編された準軍事組織「[[フランス国内軍]]」(FFI)がにらみ合っており、[[スウェーデン]]公使の仲介で休戦状態にあった。8月20日にフランス本土に上陸した<ref>大井、1035p</ref>ド・ゴールはパリ解放優先を強硬に主張し、連合軍が向かわない場合は指揮下の自由フランス軍を離脱させてパリに向かわせるとアイゼンハワーに告げた<ref>児島、212p</ref>。さらに8月21日にはルクレール将軍に連絡し、第2機甲師団をパリに向かわせるよう命令した<ref>児島襄「第二次世界大戦 ヒトラーの戦い」、第七巻、267p</ref>。しかし、翌8月22日、連合国軍にFFIから「パリのドイツ軍が退却したが、8月23日に休戦期限が切れて攻撃を開始する」という連絡が入った。アイゼンハワーは方針を転換し、[[第1軍 (アメリカ軍)|第1軍]][[第5軍団 (アメリカ軍)|第5軍団]]を向かわせることにした。しかし、FFIの連絡はド・ゴール側近の工作であり、事実ではなかった<ref name="kojima213">児島、213p</ref>。第5軍団司令官{{仮リンク|レオナルド・ジロー|fr|Leonard T. Gerow|en|Leonard T. Gerow}}少将はパリ入城はルクレールの第2機甲師団に与えるよう命令した<ref name="kojima213"/>。第2機甲師団はドイツ軍の抵抗と「フランス人の激しい歓迎」によって大幅に遅れたが、8月24日午後11時55分に偵察隊をパリに入城させた<ref>児島襄「第二次世界大戦 ヒトラーの戦い」、第七巻、280p</ref>。翌25日にコルティッツは降伏文書に署名したが、その相手となるルクレールの肩書きは「フランス共和国臨時政府パリ軍政司令官」であった。これは第二次世界大戦におけるドイツ軍の降伏文書で、相手が連合国軍ではない唯一のものであった<ref>児島、214p</ref>。同日の夕刻、ド・ゴールもパリに入城した。8月31日に臨時政府も正式にパリに移り<ref>[http://www.france-libre.net/chronologie/1944/aout-1944.php Août 1944 | 1944 | chronologie] - 自由フランス財団</ref>、名実ともにフランス政府としての活動を行うこととなった。10月23日、連合国は正式なフランス政府として臨時政府を承認した<ref>[http://www.ordredelaliberation.fr/fr_doc/1_1_1_1.html Ordre de la Libération] - 解放勲章博物館([[:en:Musée de l'Ordre de la Libération]]) </ref>。


== シンボル ==
== シンボル ==
自由フランスのシンボルは「[[ロレーヌ十字]]」で、旗として使用されただけでなく、ペンダントや指輪にデザインされ秘密の会合の際の目印として使われもした。
自由フランスのシンボルは「[[ロレーヌ十字]]」で、旗や標章に使用されただけでなく、ペンダントや指輪にデザインされ秘密の会合の際の目印として使われもした。戦後のフランスを指導したド・ゴールの死後、その墓標には全長40メートルを超える巨大なロレーヌ十字が建てられている

フランス亡命政府にして正当政府という自意識から『[[ラ・マルセイエーズ]]』が引き続き歌われたが、他に『[[パルチザンの歌]]』も国歌に準ずる扱いを受けた。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
=== 出典 ===
{{reflist|35em}}

== 参考文献 ==
* [[大井孝]]『欧州の国際関係 1919-1946』( [[たちばな出版]]、 2008年)ISBN 978-4813321811
* [[児島襄]]『誤算の論理』([[文春文庫]]、1990年) ISBN 4-16-714134-5
* [[村田尚紀]]『[https://cir.nii.ac.jp/crid/1390290699838145792 戦後フランス憲法前史研究ノート(三)]』


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[レジスタンス運動]]
* [[自由フランス軍]]
* [[自由フランス軍]]
<!--
* [[メルセルケビール海戦]]
** [[第二次世界大戦期フランスのイタリア遠征軍]]([[:en:French Expeditionary Corps (1943–1944)]])
* [[ゲシュタポ]]
-->
* [[親衛隊 (ナチス)]]
* [[ゲリラ]]
** [[グミエ]]
* [[情報・行動中央局]](BCRA) - パシー大佐こと[[アンドレ・ドゥヴァヴラン]]が率いた自由フランスの[[情報機関]]。防諜・外国資料局(SDECE)を経て現在の[[対外治安総局]](DGSE)。
* [[パルチザン]]
<!--
* [[ココ・シャネル]]
* [[フランスにおけるレジスタンス活動]]([[:en:French Resistance]])
* [[カサブランカ (映画)]]
* [[県解放委員会]](CDL)([[:fr:Comité départemental de libération]])
* [[パシー]]
* [[第二次世界大戦下フランスの軍事史]]([[:en:Military history of France during World War II|en]])
* [[1942年から1943年にかけての北アフリカの政治史]]([[:fr:Situation politique en Afrique libérée (1942-1943)]])
* [[第二次世界大戦下フランス植民地帝国の歴史]]([[:fr:Histoire de l'Empire colonial français pendant la Seconde Guerre mondiale]])
-->
* [[カサブランカ (映画)]] - 物語終盤、主人公たちは自由フランスの支配地域に脱出する(カサブランカは物語設定の1941年当時、ヴィシー政権の支配地域)。
* [[シモーヌ・ヴェイユ (哲学者)]]


== 外部リンク ==
* [https://www.france-libre.net/ 自由フランス財団]{{fr icon}}


{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しゆうふらんす}}
{{DEFAULTSORT:しゆうふらんす}}
[[Category:自由フランス|*]]
[[Category:第二次世界大戦下のフランス]]
[[Category:第二次世界大戦下のフランス]]
[[Category:レジスタンス運動]]
[[Category:旧フランス植民地]]
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[[Category:亡命政府]]
[[Category:亡命政府]]
[[Category:シャルル・ド・ゴール]]

[[Category:英仏関係]]
[[de:France libre]]
[[Category:ゲリラ組織]]
[[en:Free French Forces]]
[[es:Francia libre]]
[[et:Vaba Prantsusmaa]]
[[fr:France libre]]
[[he:צרפת החופשית]]{{Link FA|he}}
[[it:Francia Libera]]
[[nl:Vrije Fransen]]
[[sl:Francoske svobodne sile]]
[[sv:De fria franska styrkorna]]
[[zh:自由法國]]

2024年10月22日 (火) 00:31時点における最新版

自由フランス
France Libre
フランス第三共和政 1940年 - 1944年 フランス共和国臨時政府
自由フランスの国旗 自由フランスの国章
(軍旗) ロレーヌ十字
国歌: La Marseillaise(フランス語)
ラ・マルセイエーズ
自由フランスの位置
フランスの領土・植民地のうちヴィシーフランスと自由フランス、枢軸国占領地域の地図
細かい区分は凡例を参照
首都 パリ法律上
ロンドン事実上、1942年11月まで)
アルジェ事実上、1942年11月以降)
国民委員会委員長
1940年 - 1944年 シャルル・ド・ゴール
変遷
ド・ゴールの演説英語版 1940年6月18日
帝国防衛会議フランス語版の結成1940年7月11日
フランス国民委員会フランス語版の結成1941年9月24日
フランス国民解放委員会フランス語版の結成1943年6月3日
臨時政府に移行1944年6月3日
フランスの歴史
フランス国章
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年表

フランス ポータル

自由フランス(じゆうフランス、フランス語: France libre)は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツによるフランス占領に反対して成立した組織である。亡命フランス人による独自の自由フランス軍(Forces Françaises Libres)を率いるとともに、フランス国内のレジスタンスフランス語版英語版を支援した。1942年7月21日からは「戦うフランスフランス語: France combattante)」と改称されている。

歴史

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結成

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1940年ドイツ軍の侵攻によるパリ陥落後の6月17日にイギリスロンドン亡命した前国防次官シャルル・ド・ゴール将軍は、6月18日にBBCを通じ、歴史的な演説(Appeal of 18)を行い、国内外のフランス人に対独抵抗運動(レジスタンス)を呼びかけた。6月21日にフィリップ・ペタン元帥率いるフランス政府はドイツに休戦を申し入れ、フランス南部を統治するヴィシー政権となった。

6月23日、ド・ゴールは自らを代表とし、フランスの正統な政治的権威を持つ組織として「フランス国民委員会フランス語版」を設置した[1]。委員会はイギリスにいるフランス人の指揮権・支配権を持つものと宣言した。同日、ウィンストン・チャーチル率いるイギリスはヴィシー政権の承認を拒否するとともに、同委員会設置を支持した。6月28日にはコミュニケを発表し、ド・ゴールを「連合諸国の理念の防衛のために彼に合流する全ての自由なフランス人(Français libre)の主席」として承認した[2]。ド・ゴールは政府の独立性を高めるため、イギリスからの資金援助はフランスの負債とし、将来返済するものと取り決めた[3]

結成に対する反応

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メルセルケビール海戦などでフランス人の間に反英感情が高まったこともあり、当初は在外フランス人の間でも自由フランス支持の動きは鈍かった。7月の時点で自由フランスの指揮下にあったフランス軍人は7,000名に過ぎなかった[4]

さらにアルジェリア仏領西アフリカセネガルなど)、マダガスカルマルティニクグアドループ仏領ギアナシリアレバノンなどはヴィシー政府影響下、または中立に留まり、ヴィシー政権(とドイツ政府)の黙認の下、1940年に日本軍進駐した仏領インドシナも同様であった。

また、連合国を含む諸外国におけるド・ゴールの知名度は皆無に等しく、自由フランスに関する動きはほとんど見られなかった。

初期の活動

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赤が自由フランスの支持地域

自由フランスはBBCや独自の放送局からフランス内地のフランス人に対独レジスタンスを呼びかけ、フランス国内のレジスタンス勢力フランス語版英語版による諜報・妨害作戦を行った。主な傘下組織にはマキなどがある。武装組織である自由フランス軍は、イギリスからの軍事物資の支援を受けて北アフリカやシリアなどで連合軍の作戦に参加した。

1940年9月には最初の軍事作戦としてダカール沖海戦に参加したが失敗した。10月27日にはコンゴのブラザヴィルで「海外領土防衛協議会」設置を宣言し、海外植民地の結集を図った。フランスの植民地のうち、フェリックス・エブエが総督であった仏領赤道アフリカフランス領カメルーンフランス語版英語版南太平洋ニューカレドニアフランス領ポリネシアはこれに応じた。この際、ド・ゴールはヴィシー政府を違憲であると批難し、新しい政府が戦争を指導しなければならないと宣言した[5]。イギリスはこの協議会を翌1941年1月6日に承認したが、いまだ自由フランスを政府として承認してはいなかった。6月8日にはイギリスと自由フランスはエクスポーター作戦(Operation Exporter)を発動してシリアへ侵攻した。このシリア・レバノン戦役の結果、フランス委任統治領シリア大レバノンを占領下に置いた。レバノンは1943年11月8日、シリアは1944年1月1日に独立を宣言し、連合国に加わった。

独ソ戦が始まると自由フランスはソビエト連邦に外交攻勢を掛け、関係を深めた。9月24日に自由フランスは国民委員会を「内閣に相当するもの」と宣言した。9月26日にはソ連がド・ゴールを承認し、10月16日以降、ロンドンにあった他の連合国亡命政府は次々に国民委員会を承認した。11月26日にはイギリスも「連合諸国の原理の支持のために『自由フランス』に参加する全ての自由なフランス人の代表」として承認した。また、アメリカも自由フランスを「レンドリース法」の事実上の対象として武器援助を開始した[6]

米英との軋轢

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チャーチルとド・ゴール。1944年1月17日

しかし、自由フランスの「独裁者」であったド・ゴールは尊大な態度で要求を貫いたために連合国間での評判が悪く、「ナポレオン」や「ルイ14世」気取りの俗物に例えられた[7]。12月24日に自由フランス海軍は無断でカナダセントローレンス湾沖合いにあるサンピエール島とミクロン島を占拠し、実効支配下に置いた。両島を管轄するフランス領西インド総督はアメリカとの間に中立協定を結んでおり、激怒したコーデル・ハル国務長官は退去を要求した[6]。しかし、軍事作戦上の都合から、1942年4月に自由フランスの支配権は認められた。この事件はド・ゴールに対する連合国の印象をさらに悪化させ、4月1日にド・ゴールが自由フランス政府の承認を要求する声明を出しても英米両国は承認しなかった。5月5日には米英が無断で仏領マダガスカルに上陸作戦を行い(マダガスカルの戦い)、同島の総督に中立化を求める計画を立てた。ド・ゴールは激しく抗議し、5月14日にはマダガスカルを自由フランスの統治下に置くという決定を引き出した。チャーチルはド・ゴールに腹を立て、マダガスカルからの自由フランス追放を希望するほどであった[8]

一方でアメリカは5月21日には自由フランスを「フランスの抵抗を代表する機関」として承認し、正式なレンドリースの対象とした。また、6月には自由フランスの実効支配地域における行動では国民委員会と協議するという覚書をイギリスに送り、イギリス政府もこれに同意した[9]。7月21日には自由フランスが「戦うフランス」と改称され、国民委員会を指導組織および代表機関と位置づけた[10]

フランス国民解放委員会

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チュニジアで閲兵するド・ゴール。1943年6月。

1942年6月に米英軍はヴィシー政権の支配下にあるフランス領北アフリカに上陸する計画を立てた。この上陸作戦は自由フランスに通知せず、ヴィシー政権軍司令官フランソワ・ダルラン大将と交渉した上で上陸し、反ド・ゴール感情が強いフランス領植民地の支配にはアンリ・ジロー大将を起用することにした。連合国軍が11月8日より上陸を開始すると(トーチ作戦)、ダルランはヴィシー政権軍を降伏させ、連合国の支持を得た上で「北アフリカにおけるフランス国家元首兼陸海軍総司令官」に就任したと宣言した。ダルランは自由フランスの協力を拒否し[11]、自らの政権を固めようとした。ド・ゴールはダルランを「フランス勢力結集の障害」であると語り[12]、自由フランスは「フランスの政府は一つ」であるという宣伝活動を行った。12月24日にダルランは暗殺され、ジローが連合軍に任命された北アフリカ・アルジェにおけるフランス民軍最高司令官フランス語版英語版として北アフリカの指揮権を引き継いだ。このダルラン暗殺にはド・ゴールの関与があったという噂が当時からあり、ジローもド・ゴール派の容疑者を数名逮捕している[13]。ジローはアルジェに海外領土協議会を置き、連合国の間では2つの政府の統合が問題となった。

1943年1月15日から23日にかけて、チャーチル首相とフランクリン・ルーズベルト大統領カサブランカ会談に臨んだ。この会談でド・ゴールとジローの政府を統合し、ド・ゴールとジローの二頭体制をつくる交渉が行われたが、調停は不調に終わった。ジローの支持者であった[14]ルーズベルトは、ド・ゴールの頑なな態度[注釈 1]に対して「フランスはド・ゴール抜きでも解放される」と警告した[15]。チャーチルも「彼との関係を断絶する」と口走るほどであった[16]。ルーズベルトは後に「ジローは愛国的な軍人で、まったく政治家ではない。ド・ゴールは軍人でたしかに愛国的で国に献身している。しかし彼は政治家で狂信家だ。彼の中にはほとんど独裁者の性質がある」と両者を評している[16]。しかし、自由フランスの宣伝が功を奏し、北アフリカやフランス内地でもド・ゴール人気が高まりつつあった。5月1日にアルジェで行われたメーデーではド・ゴール支持の声が挙げられ、5月7日にフランス内地で設立されたレジスタンス組織全国抵抗評議会はド・ゴールが唯一の指導者であると声明した[15]

このような状況もあって、3月ごろからはジロー派とド・ゴール派の協議が進み、政府統合についての問題も決着した。6月3日にはド・ゴールとジローを共同議長とするフランス国民解放委員会フランス語版英語版(CFLN)が結成された。この委員会はフランスの中央政権を称し、全フランス軍の指揮権を持つと宣言した。これをうけてイタリア上陸作戦を計画していた連合国軍は、北アフリカのフランス軍に対する連合国軍地中海作戦戦域司令部の指揮権を確認した。ド・ゴールはフランス軍は委員会の指揮下にあると回答し、ジローにも連合国と委員会の二者択一を迫り、委員会を選ばせた[17]。そのころ、アルジェではド・ゴール派とジロー派による宣伝合戦が起こっており、ジローは自らの暗殺を懸念していた[18]。8月1日、自由フランス軍は北アフリカの旧ヴィシー軍と合流し、フランス解放軍フランス語版英語版が結成された。8月23日に委員会は「交戦団体」として米英ソによって承認された。9月17日にはフランス対独抵抗派の統一のための臨時諮問議会フランス語版が設立された。11月9日にはド・ゴールとの権力闘争に敗れたジローが失脚し、ド・ゴールが唯一の代表となった。

ルーズベルト大統領はド・ゴールの勢力拡大に落胆し、テヘラン会談でもド・ゴールが嫌いであるとソ連側に明言するほどであった[16]。しかし、戦後体制における米ソの二巨頭体制を牽制する必要があると考えたイギリスにより、フランスは大国の一つとして再建されることが定められた。また、ソ連側の要請で、1944年にはフランスに上陸して第2戦線を築くことが合意された。

フランス共和国臨時政府

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シェルブールにある市役所のバルコニーから演説するド・ゴール。1944年8月20日

1944年の段階でアルゼンチンウルグアイなどからの亡命者を中心とした義勇軍も参加し、自由フランス軍の兵力は40万人に達した。また、ポーランド亡命政府に資金を返還するなど他の亡命政権の援助を表明し、政府としての「既成事実」作りを開始した[19]。4月9日にはジローがフランス軍総司令官から解任され、アメリカは委員会をフランス政府としては承認しないことを確認した[20]

5月26日には国民解放委員会をド・ゴールが主席となる「フランス共和国臨時政府」に改組する布告を発表し、イギリスに承認を迫った[21]。チャーチルはド・ゴールの強引な姿勢に不快感を抱き「アメリカとフランスのどちらかを選ばなければならない場合にはアメリカを選ぶ」と叫んだ[22][23]。ただし、外相アンソニー・イーデンはド・ゴールに好意的であり、ド・ゴールの地位を承認するよう閣議に働きかけており[24]、イギリス全体の基本政策としてはド・ゴールを支持していた[12]。6月2日に臨時政府が正式に発足したが、正式な承認を行う国はなかった。

6月からはノルマンディー上陸作戦が開始される予定であったが、連合国首脳はその際にド・ゴールに呼びかけさせてフランス内地への工作を行おうとした。6月5日、チャーチルとアイゼンハワー、そしてド・ゴールの間で会談が行われたが、ド・ゴールは臨時政府の承認を執拗に要求した。6月6日の上陸作戦開始にあわせて行われたBBCによる連合国首脳の放送では、各国の元首に続いてアイゼンハワー、その次にド・ゴールの演説が行われた。この放送でフランス人に対して「フランス政府およびその指導者」のみに従うよう求め、連合国などという言葉は一切発しなかった[25]。この上陸作戦にはフィリップ・ルクレール将軍指揮下の自由フランス軍第2機甲師団英語版が参加している。

パリの解放、帰国

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シャンゼリゼ通りをパレードするルクレール師団。1944年8月26日

フランスに橋頭堡を築いた連合国軍首脳は、ドイツ軍の強力な抵抗が見込まれるとして、パリの解放を急がず一部部隊による包囲に留める方針をとることにした[26]。当時、パリではディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍率いるパリ防衛ドイツ軍と、レジスタンス組織から再編された準軍事組織「フランス国内軍」(FFI)がにらみ合っており、スウェーデン公使の仲介で休戦状態にあった。8月20日にフランス本土に上陸した[27]ド・ゴールはパリ解放優先を強硬に主張し、連合軍が向かわない場合は指揮下の自由フランス軍を離脱させてパリに向かわせるとアイゼンハワーに告げた[28]。さらに8月21日にはルクレール将軍に連絡し、第2機甲師団をパリに向かわせるよう命令した[29]。しかし、翌8月22日、連合国軍にFFIから「パリのドイツ軍が退却したが、8月23日に休戦期限が切れて攻撃を開始する」という連絡が入った。アイゼンハワーは方針を転換し、第1軍第5軍団を向かわせることにした。しかし、FFIの連絡はド・ゴール側近の工作であり、事実ではなかった[30]。第5軍団司令官レオナルド・ジローフランス語版英語版少将はパリ入城はルクレールの第2機甲師団に与えるよう命令した[30]。第2機甲師団はドイツ軍の抵抗と「フランス人の激しい歓迎」によって大幅に遅れたが、8月24日午後11時55分に偵察隊をパリに入城させた[31]。翌25日にコルティッツは降伏文書に署名したが、その相手となるルクレールの肩書きは「フランス共和国臨時政府パリ軍政司令官」であった。これは第二次世界大戦におけるドイツ軍の降伏文書で、相手が連合国軍ではない唯一のものであった[32]。同日の夕刻、ド・ゴールもパリに入城した。8月31日に臨時政府も正式にパリに移り[33]、名実ともにフランス政府としての活動を行うこととなった。10月23日、連合国は正式なフランス政府として臨時政府を承認した[34]

シンボル

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自由フランスのシンボルは「ロレーヌ十字」で、旗や標章に使用されただけでなく、ペンダントや指輪にデザインされ秘密の会合の際の目印として使われもした。戦後のフランスを指導したド・ゴールの死後、その墓標には全長40メートルを超える巨大なロレーヌ十字が建てられている。

フランス亡命政府にして正当政府という自意識から『ラ・マルセイエーズ』が引き続き歌われたが、他に『パルチザンの歌』も国歌に準ずる扱いを受けた。

脚注

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注釈

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  1. ^ ド・ゴールは会談要請にもなかなか応じず、1月22日になってようやくカサブランカに到着した。

出典

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  1. ^ 大井、771p
  2. ^ 大井、791p
  3. ^ 児島、185p
  4. ^ 大井、774p
  5. ^ 大井、784p
  6. ^ a b 大井、792p
  7. ^ ウェンデル・L・ウィルキーの発言、児島、198p
  8. ^ 大井、794p
  9. ^ 大井、878p
  10. ^ 村田、124p
  11. ^ 大井、904p
  12. ^ a b 大井、911p
  13. ^ 大井、905-906p
  14. ^ 大井、917p
  15. ^ a b 児島、203p
  16. ^ a b c 大井、921p
  17. ^ 児島、204-205p
  18. ^ 大井、936p
  19. ^ 児島、205-206p
  20. ^ 大井、978p
  21. ^ 児島、207p
  22. ^ 大井、981p
  23. ^ 児島、208-209p
  24. ^ 大井、981-982p
  25. ^ 児島、209p
  26. ^ 児島、210p
  27. ^ 大井、1035p
  28. ^ 児島、212p
  29. ^ 児島襄「第二次世界大戦 ヒトラーの戦い」、第七巻、267p
  30. ^ a b 児島、213p
  31. ^ 児島襄「第二次世界大戦 ヒトラーの戦い」、第七巻、280p
  32. ^ 児島、214p
  33. ^ Août 1944 | 1944 | chronologie - 自由フランス財団
  34. ^ Ordre de la Libération - 解放勲章博物館(en:Musée de l'Ordre de la Libération)

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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