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「チンギス・カン」の版間の差分

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[[en:Genghis Khan]]
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'''チンギス・ハーン'''('''Chinghis Khan''', [[1162年]]頃 - [[1227年]]、'''ジンギス・カン'''または'''成吉思汗'''、[[元]]朝の'''太祖''')は、[[モンゴル帝国]]の初代[[汗]](ハーン/カーンまたはカン、王のこと)である(在位、[[1206年]] - [[1227年]])。彼は、[[モンゴル]]の諸族を統一し、中国、アジア、東ヨーロッパの大半を征服することでモンゴル帝国を築き上げた。[[中国史]]上では元朝の初代[[皇帝]]と見なされる。
'''チンギス・ハーン'''('''Chinghis Khan''', [[1162年]]頃 - [[1227年]]、'''ジンギス・カン'''または'''成吉思汗'''、[[元]]朝の'''太祖''')は、[[モンゴル帝国]]の初代[[汗]](ハーン/カーンまたはカン、王のこと)である(在位、[[1206年]] - [[1227年]])。彼は、[[モンゴル]]の諸族を統一し、中国、アジア、東ヨーロッパの大半を征服することでモンゴル帝国を築き上げた。[[中国史]]上では元朝の初代[[皇帝]]と見なされる。

'''Genghis Khan''' (about [[1165]] - [[1227]]) was a [[Mongol]]ian [[Emperor]], and military leader who unified the Mongolian tribes and then founded a Mongolian empire by conquering much of China, Asia and Eastern Europe. He is regarted as the first emperor of the [[Yuan Dynasty]] in [[China]].


彼は1162年から1167年くらいまでの間に、ボルジギンという氏族の一員で、キヤト族の族長であったイェスゲイの長男として生まれ、'''テムジン'''('''Temüjin''', '''鐵木仁''')という名を与えられた。
彼は1162年から1167年くらいまでの間に、ボルジギンという氏族の一員で、キヤト族の族長であったイェスゲイの長男として生まれ、'''テムジン'''('''Temüjin''', '''鐵木仁''')という名を与えられた。

He was originally born by the name of '''Temüjin''' sometime between 1162 & 1167, the first son of Yesügei, a tribal chief of the [[Kiyad]] (singular: Kiyan). Yesügei's clan is called Borjigin (pl. Borjigid).


父はテムジンが若い内に近隣の[[タタル族]]により殺され(1175年)、若くして長の座に就いたが、少年に率いられることを良しとしなかった部族の者たちは彼とその母を放逐してしまう。
父はテムジンが若い内に近隣の[[タタル族]]により殺され(1175年)、若くして長の座に就いたが、少年に率いられることを良しとしなかった部族の者たちは彼とその母を放逐してしまう。

Whilst still a boy, his father was murdered by the neighboring [[Tartars]] in 1175, and he was inducted as the clan's chief. His clan abandoned him and his mother, refusing to be lead by a boy.


==Uniting the Tribes==
==Uniting the Tribes==
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<nowiki>==The Foundations of an Empire==</nowiki>
<nowiki>==The Foundations of an Empire==</nowiki>


テムジンは、今日[[モンゴル高原]]と呼ばれる地域に政治的に分裂していた多数の部族を、1206年についに統一することに成功した。そして「クリルタイ」と呼ばれる族長会議において、汗の座に選出され「チンギス・ハーン」の称号を与えられた。
テムジンは、今日[[モンゴル高原]]と呼ばれる地域に政治的に分裂していた多数の部族を、1206年についに統一することに成功した。そして「クリルタイ」と呼ばれる族長会議において、汗の座に選出され「チンギス・ハーン」の称号を与えられた。この称号は世界を支配する者という意味を持つ

In [[1206]] Temüjin had successfully united the formerly fragmented tribes of what is now Mongolia, and at a kuriltai (a council of [[Mongol]] chiefs) he was titled "'''Genghis Khan'''" (also '''Chinggis''' and '''Jenghiz''') or "Universal Ruler".


彼は優れた汗として新しい軍のシステムを開発した。これは10進法に基づくもので、部隊を10人、100人、1,000人、10,000人を単位としてまとめるものであった。各部隊は家族と馬とを伴なって移動し、一人の乗り手に対して3、4頭の馬がいるために常に消耗していない馬を移動の手段として利用できる体勢になっていた。
彼は優れた汗として新しい軍のシステムを開発した。これは10進法に基づくもので、部隊を10人、100人、1,000人、10,000人を単位としてまとめるものであった。各部隊は家族と馬とを伴なって移動し、一人の乗り手に対して3、4頭の馬がいるために常に消耗していない馬を移動の手段として利用できる体勢になっていた。


クリルタイが開かれたときには既に、チンギスは彼の最初の征服戦である[[西夏]]との戦争を起こしていた。堅固に護られた西夏の都市の攻略に苦戦し、また、[[1209年]]西夏との講和が成立したが、その時点までには既に西夏の支配力減退させ、西夏の皇帝にモンゴルの宗主権を認めさせていた。
As the great Khan, he developed a new military system that was based on the decimal system, with armies being split into groups of 10, 100, 1000 and finally a tumen (10,000). The army took their families and horses with them, with each rider having about 3-4 horses apiece, so they always had fresh means of transport.


チンギスの主目標は、かつての敗北をすすぎ[[華北]]の富を得るために[[金]]朝を征服することにあった。彼は[[1211年]]金と開戦したが、当初は西夏との戦争の際と同じような戦況のパターンをたどった。モンゴル軍は野戦では勝利を収めたが、主要な都市の攻略には失敗した。持ち前の論理的思考と意の固さを発揮し、チンギスとモンゴルの高級将校たちは攻城戦の方法を学習した。中国人技術者の助けにより、彼らは徐々に術を発展させた。これやがて彼らを戦争の歴史上で最も活躍し最も成功した攻城者たらしめることになる。
クリルタイが開かれたときには既に、チンギスは彼の最初の征服戦である[[西夏]]との戦争を起こしていた。堅固に護られた西夏の都市の攻略における困難にも関わらず、[[1209年]]西夏との講和が成立した。これより西夏の統治権制限し、西夏の皇帝にモンゴルの宗主権を認めさせた。


中国内地での野戦での数多くの勝利と若干の都市攻略の成功の結果、チンギスは[[1213年]]には[[万里の長城]]のはるか南まで金の領土を征服・併合していた。モンゴル軍は三軍に分かたれて長城と[[黄河]]の間の金の領土進軍し、金の軍隊を破って北中国を荒らし、数多くの都市を攻略した。[[1215年]]、金の首都燕京(現在の[[北京]])を包囲し、陥落させた。金の皇帝は逃れて、黄河の南の[[開封]]に首都を移した。金がモンゴルに最終的に滅ぼされるのはチンギス死後の[[1234年]]である。このころ、[[ナイマン族]]のもと汗であるクチュルクが西走して、チンギスにつくことを決めていた西方の同盟国[[西夏]]([[カラ・キタイ]])を征服していた。
At the time of the kuriltai, Genghis was involved in a dispute with Western Xia, the first of his wars of conquest, and despite problems in taking well defended Western Xia cities, and by 1209 when peace with Western Xia was made, he had with substantially reduced the Western Xia dominion, and was acknowledged by their emperor as overlord.


モンゴル軍の主力は、このときまでに西夏と金に対する継続的な遠征の十年によって疲弊していた。そこで、チンギスは二個の万人隊(トゥメン)だけ若く優秀な将軍ジェベの指揮下にクチュルクに当たらせた。モンゴル軍の到来によって内乱が触発され、ジェベは敵国を破った。クチュルクの軍は[[カシュガル]]の西で敗れ、彼は捕えられ処刑された。カラ・キタイはモンゴルに併合された。1218年までは、モンゴル国家は西は[[バルハシ湖]]まで拡大して、南に[[ペルシア湾]]、西にカスピ海に達する[[イスラム王朝]]、[[ホラズム・シャー朝]]に接することとなった。
チンギスの主目標は、かつての敗北をすすぎ[[華北]]の富を得るために[[金]]朝を征服することにあった。彼は[[1211年]]金と開戦したが、当初は西夏との戦争の際と同じような戦況のパターンをたどった。モンゴル軍は野戦では勝利を収めたが、主要な都市の攻略には失敗した。特に論理的定的な方法によって、チンギスとモンゴルの高級将校たちは攻城戦の方法を学習した。中国人技術者の助けにより、彼らは徐々に術を発展させ、ついには戦争の歴史上で最も活躍し最も成功した攻城者になったのである。

A major goal of Genghis was the conquest of Jin, both to avenge earlier defeats and to gain the riches of northern [[China]]. He declared war in 1211, and at first the pattern of operations against Jin was the same as it had been against Western Xia. The Mongols were victorious in the field, but they were frustrated in their efforts to take major cities. In his typically logical and determined fashion, Genghis and his highly developed staff studied the problems of the assault of fortifications. With the help of Chinese engineers, they gradually developed the techniques that eventually would make them the most accomplished and most successful besiegers in the history of warfare.

中国内地での野戦での数多くの勝利と若干の都市攻略の成功の結果、チンギスは[[1213年]]には[[万里の長城]]のはるか南まで金の領土を征服・占領していた。モンゴル軍は三軍に分かたれて長城と[[黄河]]の間の金の領土進軍し、金の軍隊を破って北中国を荒らし、数多くの都市を攻略した。[[1215年]]、金の首都燕京(現在の[[北京]])を包囲し、陥落させた。金の皇帝は逃れて、黄河の南の[[開封]]に首都を移した。金がモンゴルに最終的に滅ぼされるのはチンギス死後の[[1234年]]である。このころ、[[ナイマン族]]のもと汗であるクチュルクが西走して、チンギスにつくことを決めていた西方の同盟国[[西夏]]([[カラ・キタイ]])を征服していた。

As a result of a number of overwhelming victories in the field and a few successes in the capture of fortifications deep within China, Genghis had conquered and had consolidated Jin territory as far south as the Great Wall by 1213. He then advanced with three armies into the heart of Jin territory, between the Great Wall and the Huang He. He defeated the Jin forces, devastated northern China, captured numerous cities, and in 1215 besieged, captured, and sacked the Jin capital of Yanjing (later known as [[Beijing]]). The Jin emperor did not surrender, however, but removed his capital to Kaifeng. There his successors finally were defeated, but not until 1234. Meanwhile, Kuchlug, the deposed khan of the Naiman Mongols, had fled west and had conquered the state of Karakitai, the western allies that had decided to side with Genghis.

モンゴル軍の主力は、このときまでに西夏と金に対する継続的な遠征の十年によって疲弊していた。そこで、チンギスは二個の万人隊(トゥメン)を将軍ジェベの指揮下にクチュルクに当たらせた。モンゴル軍の到来によって内乱が触発され、ジェベは敵国を破った。クチュルクの軍は[[カシュガル]]の西で敗れ、彼は捕えられ処刑された。こうして1218年にモンゴル国家は[[バルハシ湖]]の西に拡大して、南に[[ペルシア湾]]、西にカスピ海に達する[[イスラム王朝]]、[[ホラズム・シャー朝]]に接することとなった。

By this time, the Mongol army was exhausted by ten years of continuous campaigning against Western Xia and Jin. Therefore, Genghis sent only two tumen under a brilliant young general, Jebe, against Kuchlug. An internal revolt was incited by Mongol agents; then Jebe overran the country. Kuchlug's forces were defeated west of Kashgar; he was captured and executed, and Karakitai was annexed. By 1218 the Mongol state extended as far west as Lake Balkash and adjoined Khwarizm, a Muslim state that reached to the Caspian Sea in the west and to the Persian Gulf and the Arabian Sea in the south.


1218年、チンギスはホラズム・シャー朝に通商使節を派遣したが、東部国境線にあるオトラルの統治者が彼らを虐殺した。報復としてチンギスは二十万の軍隊を率いて[[ホラズム]]遠征を行った。1220年にホラズム・シャー朝は滅ぼされた。1225年まで続いたホラズム・[[中央アジア]]遠征で、モンゴルの別働隊は[[イラン]]、[[コーカサス]]を経て南[[ロシア]]まで遠征した。
1218年、チンギスはホラズム・シャー朝に通商使節を派遣したが、東部国境線にあるオトラルの統治者が彼らを虐殺した。報復としてチンギスは二十万の軍隊を率いて[[ホラズム]]遠征を行った。1220年にホラズム・シャー朝は滅ぼされた。1225年まで続いたホラズム・[[中央アジア]]遠征で、モンゴルの別働隊は[[イラン]]、[[コーカサス]]を経て南[[ロシア]]まで遠征した。

In 1218 Genghis sent some emissaries to an Eastern Province of Khwarizm to hold some talks with the governour. The governour of the province had them killed, and Genghis retaliated with a force of 200,000 troops. By 1220 Khwarizm was eradicated.


:''Need information about conquests in Europe''
:''Need information about conquests in Europe''
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==最後の遠征==
==最後の遠征==
<nowiki>==The Final Campaign==</nowiki>


以前に臣下となっていた西夏の皇帝は、ホラズム遠征に対する援軍を拒否したため、チンギスは懲罰遠征を決意した。チンギスがイランにいる間に、西夏と金はモンゴルに反抗する同盟を結んでいたのであった。休息と軍隊の再編成の後、チンギスは彼の敵対者との戦いを準備した。
以前に臣下となっていた西夏の皇帝は、ホラズム遠征に対する援軍を拒否したため、チンギスは懲罰遠征を決意した。チンギスがイランにいる間に、西夏と金はモンゴルに反抗する同盟を結んでいたのであった。休息と軍隊の再編成の後、チンギスは彼の敵対者との戦いを準備した。
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The vassal emperor of Western Xia had refused to take part in the war against the Khwarizm, and Genghis had vowed punishment. While he was in Iran, Western Xia and Jin had formed an alliance against the Mongols. After rest and a reorganization of his armies, Genghis prepared for war against his foes.
The vassal emperor of Western Xia had refused to take part in the war against the Khwarizm, and Genghis had vowed punishment. While he was in Iran, Western Xia and Jin had formed an alliance against the Mongols. After rest and a reorganization of his armies, Genghis prepared for war against his foes.


このときまでに、チンギスは将来の準備をし、自らの子孫が帝国を継続的に継承していくことを保証させた。三男の[[オゴデイ]]を後継者に選び、特にチンギスの直系子孫から選ばれた後継汗の継承法をた。その間に、彼は西夏と金からの報告を研究し、今回の遠征に十八万の軍隊を準備した。
このときまでに、齢を重ねるチンギスは将来の準備をし、自らの子孫が争いあうことなく帝国を継承していくことを確実なものにした。三男の[[オゴデイ]]を後継者に選び、後継の汗を選ぶ方法を定め、汗はチンギスの直系子孫からのみ選ばれるもと特た。その間に、彼は西夏と金からの報告を研究し、新たな遠征のために十八万の軍隊を準備した。


By this time, advancing years had led Genghis to prepare for the future and to assure an orderly succession among his descendants. He selected his third son [[Ogedei]] as his successor and established the method of selection of subsequent khans, specifying that they should come from his direct descendants. Meanwhile, he studied intelligence reports from Western Xia and Jin and readied a force of 180,000 troops for a new campaign.
By this time, advancing years had led Genghis to prepare for the future and to assure an orderly succession among his descendants. He selected his third son [[Ogedei]] as his successor and established the method of selection of subsequent khans, specifying that they should come from his direct descendants. Meanwhile, he studied intelligence reports from Western Xia and Jin and readied a force of 180,000 troops for a new campaign.


1226年暮れ、川が凍結している季節に、モンゴル軍はいつものように迅速かつ強力に南に進撃した。西夏の[[タングート]]族はモンゴルの戦法に精通して準備万端施しており、両軍は凍結した黄河の岸辺で会戦した。西夏軍は三十万以上を擁していたにも関わらず、モンゴル軍はタングート軍の多数を殲滅した。
1226年暮れ、川が凍結している季節に、モンゴル軍はいつものように迅速かつ強力に南に進撃した。西夏の[[タングート]]族はモンゴルの戦法に精通して準備万端施しており、両軍は凍結した黄河の岸辺で会戦した。西夏軍は三十万以上を擁していたにも関わらず、モンゴル軍はタングート軍を事実上殲滅した。


Late in 1226, when the rivers were frozen, the Mongols struck southward with their customary speed and vigor. The Tangut, well acquainted with Mongol methods, were ready, and the two armies met by the banks of the frozen Huang He. Despite a Western Xia army of more than 300,000 troops, the Mongols virtually annihilated the Tangut host.
Late in 1226, when the rivers were frozen, the Mongols struck southward with their customary speed and vigor. The Tangut, well acquainted with Mongol methods, were ready, and the two armies met by the banks of the frozen Huang He. Despite a Western Xia army of more than 300,000 troops, the Mongols virtually annihilated the Tangut host.


モンゴル軍は精力的に追撃し、西夏の皇帝を山砦で殺した。彼の息子はモンゴルが前回の遠征で攻略できなかった西夏の首都興慶([[寧夏]]の城塞都市)に逃げ込んだ。寧夏攻略に全軍の三分の一を残し、チンギスはオゴデイを東に黄河を渡らせて黄河北岸の前線基地から来た金軍にあたらせた。残りの部隊とともに、チンギスは南に、宋の増援軍が寧夏に達するのを防ぐため西夏・金・[[南宋]]帝国の接点である東四川地方に向かった。ここで彼は新西夏皇帝の降伏を受け入れたが、金から申しこまれた和平を拒否した。
モンゴル軍は精力的に追撃し、西夏の皇帝を山砦で殺した。彼の息子はモンゴルが前回の遠征で攻略できなかった西夏の首都興慶([[寧夏]]の城塞都市)に逃げ込んだ。寧夏攻略に全軍の三分の一を残し、チンギスはオゴデイを東に黄河を渡らせて黄河北岸の拠点に残っていた金軍の追放にあたらせた。残りの部隊とともに、チンギスは南に、宋の増援軍が寧夏に達するのを防ぐため西夏・金・[[南宋]]帝国の接点である東四川地方に向かった。ここで彼は新西夏皇帝の降伏を受け入れたが、金から申しこまれた和平を拒否した。


Pursuing energetically, the Mongols killed the Western Xia emperor in a mountain fortress. His son took refuge in the great walled city of Ningxia, which the Mongols had failed to conquer in earlier wars. Leaving one-third of his army to take Ningxia, Genghis sent Ogedei eastward, across the great bend of the Huang He, to drive the Jin forces from their last footholds north of the river. With the remainder of his troops, he marched southeast, evidently to eastern Sichuan Province, where the Western Xia, the Jin, and the Song empires met, to prevent Song reinforcements from reaching Ningxia. Here he accepted the surrender of the new Western Xia emperor but rejected peace overtures from Jin.
Pursuing energetically, the Mongols killed the Western Xia emperor in a mountain fortress. His son took refuge in the great walled city of Ningxia, which the Mongols had failed to conquer in earlier wars. Leaving one-third of his army to take Ningxia, Genghis sent Ogedei eastward, across the great bend of the Huang He, to drive the Jin forces from their last footholds north of the river. With the remainder of his troops, he marched southeast, evidently to eastern Sichuan Province, where the Western Xia, the Jin, and the Song empires met, to prevent Song reinforcements from reaching Ningxia. Here he accepted the surrender of the new Western Xia emperor but rejected peace overtures from Jin.


ここで危篤に陥りチンギスはモンゴルに戻ろうしたが、世界最大の領土をもつ帝国に成長しつつある国家の礎石を中途にして死去した。1227年、死の床で彼は末子の[[トゥルイ]]にのちに金を完全に滅ぼすため彼の後継者に用いられる計画を言い残した。
ここでチンギスは危篤に陥ったため、モンゴルへの帰途就くこになる。だ彼は途上で死去、世界最大の領土をもつ帝国に成長しつつある国家の礎石された。1227年、死の床で彼は末子の[[トゥルイ]]にのちに金を完全に滅ぼすため彼の後継者に用いられる計画を言い残した。


A premonition of death caused Genghis to head back to [[Mongolia]], but he died en route having laid the keystone for what was to become the world's largest land based empire.
A premonition of death caused Genghis to head back to [[Mongolia]], but he died en route having laid the keystone for what was to become the world's largest land based empire.
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彼の遺骸はモンゴルへと帰っていったが、その際隊列の護衛たちは行く手に見かけた人々を全て殺して進んだ。そのため、彼らが汗の遺骸を何処の地に葬ったかは明らかになっていない。現在汗の陵墓として知られる地(成吉思汗陵)は単なる記念廟であり、そこに彼は眠ってはいない。
彼の遺骸はモンゴルへと帰っていったが、その際隊列の護衛たちは行く手に見かけた人々を全て殺して進んだ。そのため、彼らが汗の遺骸を何処の地に葬ったかは明らかになっていない。現在汗の陵墓として知られる地(成吉思汗陵)は単なる記念廟であり、そこに彼は眠ってはいない。

His body was returned to Mongolia, the escort killing anyone that strayed accross their path on the return trip, so as not to reveal where he was finally laid to rest. The [[Genghis Khan Mausoleum]] is his memorial, not his burial.

2003年8月6日 (水) 23:31時点における版

チンギス・ハーンChinghis Khan, 1162年頃 - 1227年ジンギス・カンまたは成吉思汗朝の太祖)は、モンゴル帝国の初代(ハーン/カーンまたはカン、王のこと)である(在位、1206年 - 1227年)。彼は、モンゴルの諸族を統一し、中国、アジア、東ヨーロッパの大半を征服することでモンゴル帝国を築き上げた。中国史上では元朝の初代皇帝と見なされる。

彼は1162年から1167年くらいまでの間に、ボルジギンという氏族の一員で、キヤト族の族長であったイェスゲイの長男として生まれ、テムジンTemüjin, 鐵木仁)という名を与えられた。

父はテムジンが若い内に近隣のタタル族により殺され(1175年)、若くして長の座に就いたが、少年に率いられることを良しとしなかった部族の者たちは彼とその母を放逐してしまう。

Uniting the Tribes

Temüjin marrys Börte. (after she's kidnapped and he rescues her (all the callings of a fairy tale)

...Story of Temujin uniting the tribes goes here... I'll get around to this later. Unless someone wants to beat me to it. :)

帝国の建設

==The Foundations of an Empire==

テムジンは、今日モンゴル高原と呼ばれる地域に政治的に分裂していた多数の部族を、1206年についに統一することに成功した。そして「クリルタイ」と呼ばれる族長会議において、汗の座に選出され「チンギス・ハーン」の称号を与えられた。この称号は世界を支配する者という意味を持つ。

彼は優れた汗として新しい軍のシステムを開発した。これは10進法に基づくもので、部隊を10人、100人、1,000人、10,000人を単位としてまとめるものであった。各部隊は家族と馬とを伴なって移動し、一人の乗り手に対して3、4頭の馬がいるために常に消耗していない馬を移動の手段として利用できる体勢になっていた。

クリルタイが開かれたときには既に、チンギスは彼の最初の征服戦である西夏との戦争を起こしていた。堅固に護られた西夏の都市の攻略に苦戦し、また、1209年西夏との講和が成立したが、その時点までには既に西夏の支配力を減退させ、西夏の皇帝にモンゴルの宗主権を認めさせていた。

チンギスの主目標は、かつての敗北をすすぎ華北の富を得るために朝を征服することにあった。彼は1211年金と開戦したが、当初は西夏との戦争の際と同じような戦況のパターンをたどった。モンゴル軍は野戦では勝利を収めたが、主要な都市の攻略には失敗した。持ち前の論理的思考と決意の固さを発揮し、チンギスとモンゴルの高級将校たちは攻城戦の方法を学習した。中国人技術者の助けにより、彼らは徐々に戦術を発展させた。これはやがて彼らを戦争の歴史上で最も活躍し最も成功した攻城者たらしめることになる。

中国内地での野戦での数多くの勝利と若干の都市攻略の成功の結果、チンギスは1213年には万里の長城のはるか南まで金の領土を征服・併合していた。モンゴル軍は三軍に分かたれて長城と黄河の間の金の領土へ進軍し、金の軍隊を破って北中国を荒らし、数多くの都市を攻略した。1215年、金の首都燕京(現在の北京)を包囲し、陥落させた。金の皇帝は逃れて、黄河の南の開封に首都を移した。金がモンゴルに最終的に滅ぼされるのはチンギス死後の1234年である。このころ、ナイマン族のもと汗であるクチュルクが西走して、チンギスにつくことを決めていた西方の同盟国西夏カラ・キタイ)を征服していた。

モンゴル軍の主力は、このときまでに西夏と金に対する継続的な遠征の十年によって疲弊していた。そこで、チンギスは二個の万人隊(トゥメン)だけを若く優秀な将軍ジェベの指揮下にクチュルクに当たらせた。モンゴル軍の到来によって内乱が触発され、ジェベは敵国を破った。クチュルクの軍はカシュガルの西で敗れ、彼は捕えられ処刑された。カラ・キタイはモンゴルに併合された。1218年までには、モンゴル国家は西はバルハシ湖まで拡大して、南にペルシア湾、西にカスピ海に達するイスラム王朝ホラズム・シャー朝に接することとなった。

1218年、チンギスはホラズム・シャー朝に通商使節を派遣したが、東部国境線にあるオトラルの統治者が彼らを虐殺した。報復としてチンギスは二十万の軍隊を率いてホラズム遠征を行った。1220年にホラズム・シャー朝は滅ぼされた。1225年まで続いたホラズム・中央アジア遠征で、モンゴルの別働隊はイランコーカサスを経て南ロシアまで遠征した。

Need information about conquests in Europe


最後の遠征

以前に臣下となっていた西夏の皇帝は、ホラズム遠征に対する援軍を拒否したため、チンギスは懲罰遠征を決意した。チンギスがイランにいる間に、西夏と金はモンゴルに反抗する同盟を結んでいたのであった。休息と軍隊の再編成の後、チンギスは彼の敵対者との戦いを準備した。

The vassal emperor of Western Xia had refused to take part in the war against the Khwarizm, and Genghis had vowed punishment. While he was in Iran, Western Xia and Jin had formed an alliance against the Mongols. After rest and a reorganization of his armies, Genghis prepared for war against his foes.

このときまでに、齢を重ねるチンギスは将来の準備をし、自らの子孫が争いあうことなく帝国を継承していくことを確実なものにした。三男のオゴデイを後継者に選び、後継の汗を選ぶ方法を定め、汗はチンギスの直系子孫からのみ選ばれるものと特定した。その間に、彼は西夏と金からの報告を研究し、新たな遠征のために十八万の軍隊を準備した。

By this time, advancing years had led Genghis to prepare for the future and to assure an orderly succession among his descendants. He selected his third son Ogedei as his successor and established the method of selection of subsequent khans, specifying that they should come from his direct descendants. Meanwhile, he studied intelligence reports from Western Xia and Jin and readied a force of 180,000 troops for a new campaign.

1226年暮れ、川が凍結している季節に、モンゴル軍はいつものように迅速かつ強力に南に進撃した。西夏のタングート族はモンゴルの戦法に精通して準備万端施しており、両軍は凍結した黄河の岸辺で会戦した。西夏軍は三十万以上を擁していたにも関わらず、モンゴル軍はタングート軍を事実上殲滅した。

Late in 1226, when the rivers were frozen, the Mongols struck southward with their customary speed and vigor. The Tangut, well acquainted with Mongol methods, were ready, and the two armies met by the banks of the frozen Huang He. Despite a Western Xia army of more than 300,000 troops, the Mongols virtually annihilated the Tangut host.

モンゴル軍は精力的に追撃し、西夏の皇帝を山砦で殺した。彼の息子はモンゴルが前回の遠征で攻略できなかった西夏の首都興慶(寧夏の城塞都市)に逃げ込んだ。寧夏攻略に全軍の三分の一を残し、チンギスはオゴデイを東に黄河を渡らせて黄河北岸の拠点に残っていた金軍の追放にあたらせた。残りの部隊とともに、チンギスは南東に、宋の増援軍が寧夏に達するのを防ぐため西夏・金・南宋帝国の接点である東四川地方に向かった。ここで彼は新西夏皇帝の降伏を受け入れたが、金から申しこまれた和平を拒否した。

Pursuing energetically, the Mongols killed the Western Xia emperor in a mountain fortress. His son took refuge in the great walled city of Ningxia, which the Mongols had failed to conquer in earlier wars. Leaving one-third of his army to take Ningxia, Genghis sent Ogedei eastward, across the great bend of the Huang He, to drive the Jin forces from their last footholds north of the river. With the remainder of his troops, he marched southeast, evidently to eastern Sichuan Province, where the Western Xia, the Jin, and the Song empires met, to prevent Song reinforcements from reaching Ningxia. Here he accepted the surrender of the new Western Xia emperor but rejected peace overtures from Jin.

ここでチンギスは危篤に陥ったため、モンゴルへの帰途に就くことになる。だが彼は途上で死去、世界最大の領土をもつ帝国に成長しつつある国家の礎石が残された。1227年、死の床で彼は末子のトゥルイにのちに金を完全に滅ぼすため彼の後継者に用いられる計画を言い残した。

A premonition of death caused Genghis to head back to Mongolia, but he died en route having laid the keystone for what was to become the world's largest land based empire. On his deathbed in 1227, he outlined to his youngest son, Tului, the plans that later would be used by his successors to complete the destruction of the Jin empire.

彼の遺骸はモンゴルへと帰っていったが、その際隊列の護衛たちは行く手に見かけた人々を全て殺して進んだ。そのため、彼らが汗の遺骸を何処の地に葬ったかは明らかになっていない。現在汗の陵墓として知られる地(成吉思汗陵)は単なる記念廟であり、そこに彼は眠ってはいない。