「ホテルニュージャパン火災」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
1行目: 1行目:
{{Infobox wildfire
|title = ホテルニュージャパン火災
|image = Hotel-New-Japan (1993).jpg
|caption = 火災後の跡地(1993年撮影)<br />1982年以降も廃墟のまま放置されていた
|location = [[東京都]][[千代田区]][[永田町]]2丁目13番8号
|date = {{和暦|1982}}[[2月8日]]
|time = 3時24分
|timezone =
|acres = 4186㎡
|source = 就寝客に依る煙草の不始末
|landuse =
|fatalities = 33人
|injuries = 34人
|perps =
|motive =
}}
{{画像提供依頼|火災発生時|date=2011年9月}}
'''ホテルニュージャパン火災'''(ホテルニュージャパンかさい)とは、[[1982年]]([[昭和]]57年)[[2月8日]]に、[[東京都]][[千代田区]][[永田町]]の[[ホテルニュージャパン]]で起こった火災事故である。33人の死者を出した。
'''ホテルニュージャパン火災'''(ホテルニュージャパンかさい)とは、[[1982年]]([[昭和]]57年)[[2月8日]]に、[[東京都]][[千代田区]][[永田町]]の[[ホテルニュージャパン]]で起こった火災事故である。33人の死者を出した。



2011年9月30日 (金) 10:16時点における版

ホテルニュージャパン火災
火災後の跡地(1993年撮影)
1982年以降も廃墟のまま放置されていた
現場 東京都千代田区永田町2丁目13番8号
発生日 1982年(昭和57年)2月8日
3時24分
類焼面積 4186㎡
原因 就寝客に依る煙草の不始末
死者 33人
負傷者 34人

ホテルニュージャパン火災(ホテルニュージャパンかさい)とは、1982年昭和57年)2月8日に、東京都千代田区永田町ホテルニュージャパンで起こった火災事故である。33人の死者を出した。

概要

火災は、1982年(昭和57年)2月8日午前3時24分に発生。主に火元の9階と10階が中心に同日12時半過ぎまで9時間にわたって燃え続けた。炎は7階にまで達しており、延焼面積は約4,200平方メートルに達した。ホテルの宿泊客を中心に死者33名(台湾人12、日本人11、韓国人8、アメリカ人1、イギリス人1[1])・負傷者34名を出す大惨事となった。東京消防庁の調べでは、出火の原因は9階938号室に宿泊していたイギリス人の男性宿泊客の寝タバコが原因であった。廊下での焼死など火災による死者が多かったが、有害ガスを含んだ煙から逃れる為に窓から飛び降りて命を落とした人も13人いた[2]。なお、9階と10階の生存者の中には火災で非常口からの避難が出来ず、シーツをロープ替わりにして窓から下の階へ避難した者や消防隊に救出された者もいた。

この火災では日本時間午前3時24分出火[3]、12時36分の鎮火まで、およそ9時間に渡って乾燥注意報(当時は異常乾燥注意報)発令中の都心を真っ赤に染めるように燃え続けた。 この日の宿泊客は442人。うち9階と10階に宿泊していたのは103人で、この多くは台湾韓国からの札幌雪祭りツアー(61人)の宿泊者だった。

延焼範囲が広がった原因

  1. ホテルニュージャパンが、たび重なる消防当局の指導にもかかわらず、スプリンクラー設備などの消防設備を設置しなかったこと
  2. 火災報知機の故障
  3. ホテル館内放送設備の故障と使用方法の誤り(非常放送用のテープを回そうとしたがベルトが切れて回らず、マイクもヒューズが切れていて放送できなかった) [4]
  4. 宿直ホテル従業員の少なさ、ホテル従業員の教育不足による初動対応の不備(最初に現場に到着した社員はマスターキーを持っていなかった。屋内消火栓の使用を試みたが、開閉バルブを解放していなかったため使えなかった等)
  5. 客室内の防火環境不備(可燃材による内装、間仕切りの一部が木製だった等)
  6. 防火扉が多数閉鎖しなかった。

といった複合的要素による火災との調査が発表された。スプリンクラー設備の配管がなく、天井に散水孔の部材を接着していただけの偽装であったこと、客室壁内部の空洞施工が原因でフラッシュオーバーと呼ばれる現象が発生したことも被害が拡大した原因であった。

消防の対応

東京消防庁では、第一報となる3時39分のタクシー運転手からの119番通報を受け、消防車など21台、救急車1台を出場させたが、「上階が激しく延焼し、要救助者が多数発生している」という現場からの報告を受けて矢継ぎ早に部隊を増強、午前4時2分には最高ランクの出場態勢である「火災第4出場」を発令、さらに基本運用規程外の応援部隊を出場させる「増強特命出場」と、多数の負傷者に対応するための「救急特別第2出場」をあわせて、ポンプ車48台、はしご車12台を始めとする123隊(消防隊101隊、救急隊22隊)を投入、消防総監が現場最高指揮を執るという、全庁を挙げての消火活動を行った[5]

また、この火災が起きた翌朝に日本航空350便墜落事故が発生し、相次ぐ惨事に東京消防庁やマスコミは対応に追われた。

火災後の顛末

これらホテルニュージャパン火災における数々の違法運営により、オーナー社長の横井英樹は業務上過失致死傷罪で禁錮3年の実刑判決が確定(1993年11月25日最高裁)した[6]。横井社長は火災発生現場で報道陣に対して拡声器で「本日は早朝よりお集まりいただきありがとうございます」などと現場の状況を全く鑑みない、緊張感のない発言をしたことに加え、「悪いのは火元となった宿泊客」と宿泊客に責任転嫁するコメントを発言した。また火災当時、人命救助よりもホテル内の高級家具の運び出しを指示したとされる[7]。このような対応が国民からの厳しい非難を呼んだ[8]。後に、現場に突入した永田町特別救助隊隊長の高野甲子雄にいわゆる“口止め料”として贈賄を図り、高野に追い返されたことも明らかになっている。

その他

  • 犠牲者の中にはフォークバンドの高石ともや&ザ・ナターシャー・セブンマネージャープロデューサーであった榊原詩朗がいる。ザ・ナターシャー・セブンは1984年に主要メンバーが脱退し翌1985年に活動を停止したが、これは榊原の死を境にそれまで顕在化しなかったメンバー間の人間関係の齟齬が表面化したことが大きな要因であり、ホテルニュージャパン火災はバンド消滅の遠因ともいえる。
  • 日本中央競馬会所属の調教師だった西塚十勝は東京滞在時の定宿にしており、火災当日は火災現場となった9階にチェックインしていたが、チェックイン後に飲食の為などに外出し、そのまま深夜まで戻らなかったため、難を逃れた。
  • ビートたけしは火災当日にホテルニュージャパンに宿泊しようとしたがたまたま持ち合わせが無く、止むを得ず新宿に在住していた高田文夫にお金を借りて、新宿プリンスホテルに宿泊したため難を逃れた[9]
  • 23年後の2005年(平成17年)3月品川同性愛者殺害事件を起こした犯人は、当日は大学受験での宿泊中に火災に遭遇し、受験票と筆記用具を部屋に置いたまま避難している。

脚注

  1. ^ 昭和ラプソディ(昭和57年・上)”. 誰か昭和を想わざる. 7月25日閲覧。accessdateの記入に不備があります。
  2. ^ なおイギリス人宿泊客は938号室に泊まっていたが、部屋の前を通る通路の右手奥の行き止まりのところで焼死体となって発見されている。
  3. ^ 特異火災事例: 株式会社 ホテルニュージャパン” (PDF). 消防防災博物館. 財団法人消防科学総合センター. 7月25日閲覧。accessdateの記入に不備があります。
  4. ^ 自衛消防訓練マニュアル 近代消防社 
  5. ^ この火災における東京消防庁麹町消防署永田町出張所特別救助隊員の救出劇は、NHKの『プロジェクトX』で「炎上―男たちは飛び込んだ~ホテルニュージャパン・伝説の消防士たち~」として2001年(平成13年)5月22日に放送された。
  6. ^ 最高裁平成5年11月25日決定-刑法判例百選I58事件。
  7. ^ その一方で同ホテルに保管されていた藤山愛一郎による中国近現代史料コレクション「藤山現代中國文庫」が焼失している。
  8. ^ 同ホテルを事務所としていた戸川猪佐武もホテル火災で損害を受け、他のテナントと共に社長に対して訴訟を起こした。
  9. ^ 「ビートたけし 街で一番の男 ビートニクラジオ」(TOKYO FM1998年(平成10年)11月1日放送でのビートたけし本人の発言より

関連項目

出典・外部リンク