「スペイン継承戦争」の版間の差分
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| combatant1 = {{HRR}}<br />{{AUT1526}}<br />*[[ファイル:Savoie flag.svg|25px]][[サヴォイア公国]]<br />*他にドイツ諸邦<br />{{GBR1606}}<br />{{NLD1581}}<br />{{PRU}}<br />[[ファイル:Flag Portugal (1707).svg|25px]][[ポルトガル王国]] |
| combatant1 = {{HRR}}<br />{{AUT1526}}<br />*[[ファイル:Savoie flag.svg|25px]][[サヴォイア公国]]<br />*他にドイツ諸邦<br />{{GBR1606}}<br />{{NLD1581}}<br />{{PRU}}<br />[[ファイル:Flag Portugal (1707).svg|25px]][[ポルトガル王国]] |
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| combatant2 = {{FRA987}}<br /> |
| combatant2 = {{FRA987}}<br />[[ファイル:Bandera de España 1701-1760.svg|28px]][[スペイン帝国|スペイン]]<br />[[バイエルン選帝侯領|バイエルン選帝侯国]]<br />[[ラーコーツィの独立戦争|ハンガリー人反乱者]] |
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| commander1 = [[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[ルートヴィヒ・ヴィルヘルム (バーデン=バーデン辺境伯)|バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルム]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[ジョージ1世 (イギリス王)|ハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[グイード・フォン・シュターレンベルク]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|マールバラ公ジョン・チャーチル]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]][[ヘンリー・デ・マシュー (ゴールウェイ伯)|ゴールウェイ伯ヘンリー・デ・マシュー]]<br />[[ファイル:Prinsenvlag.svg|25px]][[ヘンドリック・ファン・ナッサウ=アウウェルケルク|アウウェルケルク卿ヘンドリック・ |
| commander1 = [[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[ルートヴィヒ・ヴィルヘルム (バーデン=バーデン辺境伯)|バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルム]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[ジョージ1世 (イギリス王)|ハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[グイード・フォン・シュターレンベルク]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|マールバラ公ジョン・チャーチル]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]][[ヘンリー・デ・マシュー (ゴールウェイ伯)|ゴールウェイ伯ヘンリー・デ・マシュー]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]][[チャールズ・モードント (第3代ピーターバラ伯)|ピーターバラ伯チャールズ・モードント]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]][[ジェームズ・スタンホープ (初代スタンホープ伯)|ジェームズ・スタンホープ]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]][[ジェームズ・バトラー (第2代オーモンド公)|オーモンド公ジェームズ・バトラー]]<br />[[ファイル:Prinsenvlag.svg|25px]][[ヘンドリック・ファン・ナッサウ=アウウェルケルク|アウウェルケルク卿ヘンドリック・ファン・ナッサウ]]<br />[[ファイル:Prinsenvlag.svg|25px]][[アーノルド・ヴァン・ケッペル (初代アルベマール伯)|アルベマール伯アーノルド・ヴァン・ケッペル]]<br />[[ファイル:Flag Portugal (1707).svg|25px]]第2代ミナス侯アントニオ・ルイス・デ・ソーサ<br />[[ファイル:Savoie flag.svg|25px]][[ヴィットーリオ・アメデーオ2世]] |
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| commander2 = [[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン|ヴァンドーム公ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール|ヴィラール公クロード・ルイ・ド・ヴィラール]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[ルイ・フランソワ・ド・ブーフレール|ブーフレール公ルイ・フランソワ]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[ |
| commander2 = [[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン|ヴァンドーム公ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール|ヴィラール公クロード・ルイ・ド・ヴィラール]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[ルイ・フランソワ・ド・ブーフレール|ブーフレール公ルイ・フランソワ]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[カミーユ・ドスタン (タラール公)|タラール伯カミーユ・ドスタン]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[フェルディナン・ド・マルサン]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[ルネ・ド・フルーレ (テッセ伯)|テッセ伯ルネ・ド・フルーレ]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[ジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)|ベリック公ジェームズ・フィッツジェームズ]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[ルイ (ブルゴーニュ公)|ブルゴーニュ公ルイ]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]][[フィリップ2世 (オルレアン公)|オルレアン公フィリップ2世]]<br />[[ファイル:Bandera de España 1701-1760.svg|28px]][[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]<br />[[ファイル:Flag of Bavaria (lozengy).svg|25px]][[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン2世エマヌエル]]<br />[[ラーコーツィ・フェレンツ2世]] |
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| strength1 = 232,000 |
| strength1 = 232,000 |
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| strength2 = フランス 255,000<br />スペイン<br />歩兵13,000<br />騎兵50,000 |
| strength2 = フランス 255,000<br />スペイン<br />歩兵13,000<br />騎兵50,000 |
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| casualties2 = |
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'''スペイン継承戦争'''(スペインけいしょうせんそう、{{lang-es|Guerra de Sucesión Española}})は、[[18世紀]]初めに[[スペイン |
'''スペイン継承戦争'''(スペインけいしょうせんそう、{{lang-es|Guerra de Sucesión Española}})は、[[18世紀]]初めに[[スペイン帝国|スペイン]][[スペイン君主一覧|王位]]の継承者を巡って[[ヨーロッパ]]諸国間で行われた戦争([[1701年]] - [[1714年]])。また、この戦争において[[北アメリカ大陸]]で行われた局地戦は[[アン女王戦争]]と呼ばれる。 |
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== 原因 == |
== 原因 == |
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[[ファイル:King Charles II of Spain.jpg|left|thumb|150px|スペイン・ハプスブルク家最後の王カルロス2世]] |
[[ファイル:King Charles II of Spain.jpg|left|thumb|150px|スペイン・ハプスブルク家最後の王カルロス2世]] |
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⚫ | [[スペイン・ハプスブルク朝|スペイン・ハプスブルク家]]の[[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世]]は生来虚弱体質で、子孫が生まれることを望めなかった。このため、[[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]]の娘でカルロス2世の姉マリア・テレサ(フランス名[[マリー・テレーズ・ドートリッシュ|マリー・テレーズ]]、[[1683年]]死去。自身はフランス王家に嫁ぐ際にスペイン王位継承権を放棄)と[[ |
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[[フランス王国|フランス]][[フランス君主一覧|王]][[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]は領土拡大を目論み度々戦争を起こしたが([[ネーデルラント継承戦争]]、[[オランダ侵略戦争]]、[[大同盟戦争]])、[[イングランド王国|イングランド]][[イギリス君主一覧|王]]兼[[オランダ総督]][[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]を中心とする周辺諸国の反発を招き小規模な目的しか達成出来ずにいた。[[1697年]]に大同盟戦争を終結させた[[レイスウェイク条約]]でフランスは領土を殆ど手に入れられなかったばかりか相手側の要求を認めたため実質的な敗戦となったが、ルイ14世は姻戚関係にあるスペイン王位に目をつけていたため妥協した結果であった。 |
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⚫ | |||
⚫ | [[スペイン・ハプスブルク朝|スペイン・ハプスブルク家]]の[[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世]]は生来虚弱体質で、子孫が生まれることを望めなかった。このため、[[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]]の娘でカルロス2世の姉マリア・テレサ(フランス名[[マリー・テレーズ・ドートリッシュ|マリー・テレーズ]]、[[1683年]]死去。自身はフランス王家に嫁ぐ際にスペイン王位継承権を放棄)と[[ブルボン家]]のフランス王ルイ14世([[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]]の娘アナ([[アンヌ・ドートリッシュ|アンヌ]])の子でもある)の子である[[ドーファン|フランス王太子]][[ルイ (グラン・ドーファン)|ルイ]](グラン・ドーファン、後の[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]の祖父)が後継候補とされた。しかしフランス王位継承者がスペイン王となればフランスとスペインが将来[[同君連合]]となってしまうため反対が多く、フランス側からもルイ14世の孫で王太子の次男(後のルイ15世の叔父)アンジュー公フィリップを後継者に推した。 |
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各国の思惑が交錯する中、スペイン王カルロス2世は[[1700年]][[11月]]に突如崩御したが、その遺言書にはフランス王孫フィリップに位を譲る旨が記されていた。これはルイ14世の画策によるものであったという。 |
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⚫ | これに対して、スペイン王家とは同族で、[[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]]の娘[[マリア・アナ・デ・アウストリア|マリア・アンナ(マリア・アナ)]]の子である[[オーストリア・ハプスブルク家]]の[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]も候補になったが、これもスペインと[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の合邦を招くため、レオポルト1世は末子の[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール大公]]を候補者に推していた。勢力均衡で戦争を防ぐためウィリアム3世はフランスと度々交渉を行い[[1698年]]と[[1700年]]にスペイン領分割条約を結び、海外領土を含めた広大な所領をアンジュー公・カール大公に分け与えて相続することを取り決めたが、交渉から外されたオーストリアの反対と所領の一括相続を望むカルロス2世の拒絶でいずれも実現しなかった。 |
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ここにおいて、[[ブルボン朝|フランス・ブルボン家]]のアンジュー公フィリップがスペイン王[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]として即位したため、オーストリアはフランスの勢力拡大を恐れる[[グレートブリテン王国|イギリス]]、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]と対フランス大同盟を結び、フェリペの即位に反対してフランス、スペインに[[宣戦布告]]した。 |
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各国の思惑が交錯する中、カルロス2世は1700年[[11月1日]]に突如崩御したが、遺言書にはアンジュー公に位を譲る旨が記されていた。これはスペイン宮廷にフランス支持者を増やしたルイ14世の画策によるものであったというが、カルロス2世は一括相続して戦争が起こる場合を見越して、フランスが諸国に対抗出来るだろうとの期待から選んだものであった。ここにおいて、アンジュー公がスペイン王[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]として即位した。 |
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⚫ | 最初は |
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スペインを事実上獲得したルイ14世はスペイン王位継承の障害であったフェリペ5世のフランス王位継承権を手放さないことを表明、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]への牽制として[[南ネーデルラント|スペイン領ネーデルランド]](現[[ベルギー]])の総督である[[バイエルン選帝侯領|バイエルン]][[バイエルン大公|選帝侯]][[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン2世エマヌエル]]の承認を得てフランス軍を駐屯させ、スペインの貿易特権をフランスの貿易会社に譲らせた。これら一連の行動はイングランドを戦争へと傾かせ、オランダへ渡ったウィリアム3世は[[デン・ハーグ|ハーグ]]でフランスの勢力拡大を恐れるオーストリア、オランダと対フランス大同盟を結び、フェリペ5世の即位に反対してフランス、スペインに[[宣戦布告]]した<ref>林、P95 - P101、友清、P11 - P26、P47 - P56、マッケイ、P61 - P67。</ref>。 |
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⚫ | 最初はスペインの辺境を我が物にせんとするフランスと、それを押しとどめようとするヨーロッパ各国との戦争の様相であったが、次第にスペインの国内事情がからみ『スペインの内戦』の一面を持つようになった。スペイン国内が一丸となってフェリペ5世即位を支持したわけではなく、政治の中心である[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]に対し、古くから君主との協約主義を掲げ自治の発達した[[カタルーニャ君主国|カタルーニャ]]及び[[アラゴン王国|アラゴン]]・[[バレンシア王国|バレンシア]]は中央政権に対抗心を持っていたのである。[[ナバラ王国|ナバーラ]]及び[[バスク国 (歴史的な領域)|バスク]]はブルボン家支持を表明した。 |
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== 経過 == |
== 経過 == |
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戦争はまずオーストリアがスペイン領[[ミラノ公国|ミラノ]]奪還を目指して[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|オイゲン |
戦争はまずオーストリアがスペイン領[[ミラノ公国|ミラノ]]奪還を目指して[[1701年]]に[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]率いる軍を北イタリアに進撃させたことで始まった。イギリスは[[1702年]]にウィリアム3世が死去、新たに即位した義妹の[[アン (イギリス女王)|アン]]女王のもとで[[シドニー・ゴドルフィン (初代ゴドルフィン伯)|シドニー・ゴドルフィン]]を中心とした政権が成立、女王の女官[[サラ・ジェニングス]]の夫である[[マールバラ公]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]が司令官に任命されて大陸に派遣され、イギリス軍はオランダ軍と連合して[[フランドル]]に迫った。ここでマールバラ公はオランダに接近したフランス軍を威嚇しながら占領地域を解放、[[1703年]]にはフランス軍をネーデルラントへ後退させた。 |
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[[ポルトガル王国|ポルトガル]]や[[ドイツ]]の諸[[領邦]]国家も同盟に加わったため、フランスは孤立無援に陥ったが、 |
[[ポルトガル王国|ポルトガル]]や[[ドイツ]]([[神聖ローマ帝国]])の諸[[領邦]]国家も同盟に加わったため、フランスは孤立無援に陥ったが、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世の同盟を得て[[アルザス地域圏|アルザス]]を占領、南ドイツに軍を派遣してオーストリアを脅かした。しかしこれに対してイギリスのマールバラ公が長駆南ドイツに至り、オイゲンのオーストリア軍と連合して[[ブレンハイムの戦い]]でフランスを破った([[1704年]])。結果、バイエルンは同盟国に占拠されマクシミリアン2世はネーデルラントへ亡命、オーストリアの危機は去った。 |
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フランスは反撃をはかり、オーストリア側についた[[サヴォイア公国]]の首都[[トリノ]]を攻囲したが、[[1706年]]にオイゲン |
フランスは反撃をはかり、オーストリア側についた[[サヴォイア公国]]の首都[[トリノ]]を攻囲したが、[[1706年]]にオイゲン率いるオーストリア軍に敗れ、北イタリアを制圧された([[トリノの戦い]])。またスペイン領ネーデルランドでは、マールバラ公率いるイギリス軍に[[ラミイの戦い]]で敗れネーデルラントを失った。 |
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スペインも |
スペインも[[1707年]]に[[イタリア半島]]を南下したオーストリア軍にスペイン領の[[ナポリ王国]]を占領された上、スペイン国内ではオーストリアの推す国王候補カール大公を支持してアラゴン・バレンシア・カタルーニャがスペイン王室に反旗を翻したので、イギリス軍が[[ジブラルタル]]を占領してこれを支援した([[ジブラルタルの戦い]])。スペイン軍はジブラルタルを長期間包囲したが、イギリス軍は執拗に持ちこたえた<ref>林、P101 - P109。友清、P56 - P70、P85 - P126、P161 - P173、マッケイ、P68 - P130。</ref>。 |
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1707年、フランス軍はフランドルに軍を集めてイギリス・オランダ軍に対する反抗を開始した。マールバラ公はこれに対してイギリス・オランダ・オーストリアの連合軍を結集し、[[アウデナールデの戦い]]でフランス軍を破った。翌[[1708年]]、ルイ14世は和平を提案したが、フェリペ5世のスペイン王位継承をはじめとして連合国の認められない要求が含まれていたため戦争は再開され、マールバラ公は[[パリ]]進撃を目指してフランス領フランドルに侵入した。連合軍とフランス軍は[[マルプラケの戦い]]で激突し、連合軍はフランス軍を敗走させたものの、死傷者数万人の大損害を被り、戦線はフランドルで膠着した。 |
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この頃までに、オランダやドイツ諸邦は既に戦争の継続に倦んでおり、 |
この頃までに、オランダやドイツ諸邦は既に戦争の継続に倦んでおり、イギリス国内でも和平を望む声が高まっていた。[[1710年]]、自身がイギリスの戦争推進派の中心でもあるマールバラ公がアン女王の信任を失うとイギリス政府も和平に傾き始め、ゴドルフィンがアンに更迭され与党の[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]が総選挙で敗れると[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]の指導者[[ロバート・ハーレー (初代オックスフォード=モーティマー伯)|ロバート・ハーレー]]と[[ヘンリー・シンジョン (初代ボリングブルック子爵)|ヘンリー・シンジョン]]らが和平に動き出した。 |
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ヨーロッパで戦争が繰り広げられている間、アメリカ大陸ではイギリスとフランスの間で植民地を巡るアン女王戦争が開始された。イギリスは[[フランス領カナダ]]の[[ケベック]]を狙い、フランスは[[ニューイングランド]]の英国植民地を狙 |
ヨーロッパで戦争が繰り広げられている間、アメリカ大陸ではイギリスとフランスの間で植民地を巡るアン女王戦争が開始された。イギリスは[[フランス領カナダ]]の[[ケベック]]を狙い、フランスは[[ニューイングランド]]の英国植民地を狙い、いずれも成功しなかったがイギリスはフランス領[[アカディア]]の占領に成功している。また、戦争中の1707年にイングランドと[[スコットランド王国|スコットランド]]の合同条約が批准され[[グレートブリテン王国]]が成立している<ref>林、P109 - P111、友清、P181 - P194、P220 - P241、P249 - P263、P307 - P309、マッケイ、P137 - P164。</ref>。 |
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== 和平 == |
== 和平 == |
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[[1711年]]、イギリスのマールバラ公は軍資金横領が発覚して失脚し、 |
[[1711年]]、イギリスのマールバラ公は軍資金横領が発覚して失脚し、同年にオーストリアのレオポルト1世の後を継いでいた[[ヨーゼフ1世]]が死去し、弟でスペイン国王候補であったカール大公が[[オーストリア大公]]・神聖ローマ皇帝[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]として即位すると、イギリスはカール6世のスペイン王位継承でハプスブルク家の大帝国が再現することを恐れ、フェリペ5世のスペイン王退位要求に消極的となった。 |
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[[1712年]]、イギリスとフランスとの間で和平交渉が開始され、フェリペ5世は将来のフランスとスペインの一体化の懸念を払拭するために、フランス王位継承権を放棄することを宣言した。同年、散発的に続いていたオーストリアとフランスとの戦闘でフランスが勝利([[ドゥナの戦い]])を収めたことにより、全面的な和平の機運が高まった。これによりスペイン王家に反逆したバレンシアとカタルーニャは反フランス同盟側から見捨てられ、フランス・スペイン軍に蹂躙された。 |
[[1712年]]、イギリスとフランスとの間で和平交渉が開始され、フェリペ5世は将来のフランスとスペインの一体化の懸念を払拭するために、フランス王位継承権を放棄することを宣言した。同年、散発的に続いていたオーストリアとフランスとの戦闘でフランスが勝利([[ドゥナの戦い]])を収めたことにより、全面的な和平の機運が高まった。これによりスペイン王家に反逆したバレンシアとカタルーニャは反フランス同盟側から見捨てられ、フランス・スペイン軍に蹂躙された。 |
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[[1713年]]、各国は[[ユトレヒト条約]]を結び、長年に及んだ戦争を終結させた。この条約でスペインはオーストリアにスペイン領ネーデルラント、ナポリ王国、ミラノを、サヴォイア公国に[[シチリア]](後に[[サルデーニャ島|サルデーニャ]]と交換)を割譲、イギリスは |
[[1713年]]、各国は[[ユトレヒト条約]]を結び、長年に及んだ戦争を終結させた。この条約でスペインはオーストリアにスペイン領ネーデルラント、ナポリ王国、ミラノを、サヴォイア公国に[[シチリア]](後に[[サルデーニャ島|サルデーニャ]]と交換)を割譲、イギリスはジブラルタルと[[メノルカ島|ミノルカ島]]及び北アメリカの[[ハドソン湾]]、アカディアを獲得し、反フランス同盟は代償としてフェリペ5世のスペイン王即位を承認した。そして翌1714年にフランス王国とオーストリアとの間で[[ラシュタット条約]]が結ばれた<ref>友清、P303 - P304、P332 - P366、マッケイ、P165 - P192。</ref>。 |
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戦争終結の同年にアンが亡くなり[[ステュアート朝]]は断絶、[[はとこ|又従兄]]の[[ハノーファー王国|ハノーファー]][[ハノーファー君主一覧|選帝侯]][[ジョージ1世 (イギリス王)|ゲオルク・ルートヴィヒ]]がイギリス王ジョージ1世として即位して[[ハノーヴァー朝]]が誕生するとホイッグ党がジョージ1世の信任を背景に復帰、対するトーリー党は王位継承問題に伴う内部分裂と和睦交渉で大陸の同盟国を見捨てて単独交渉に走ったことが仇となり、中心人物のハーレー・シンジョンらは失脚しホイッグ党が復権、[[ジャコバイト]]蜂起も鎮圧されホイッグ党の政権は磐石となりマールバラ公も名誉回復を果たした。1715年にルイ14世も死去して曾孫のルイ15世が即位、政権交代したイギリスとフランスは協調関係を築いていった<ref>友清、P367 - P394。</ref>。 |
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⚫ | |||
⚫ | |||
== 各戦線の攻防 == |
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=== ネーデルラント方面 === |
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フランス軍はルイ14世がマクシミリアン2世と弟の[[ケルン大司教|ケルン選帝侯]]兼[[リエージュ司教領|リエージュ司教]][[ヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルン]]と結んでいたため簡単にオランダ侵攻が出来る最前線にまで駐屯が可能となり、[[ルイ・フランソワ・ド・ブーフレール]]が率いるフランス軍はケルン選帝侯領でオランダを伺っていた。しかし、マールバラ公はフランス軍を上回る機動力でフランス軍の補給地点を脅かしたり、[[マース川]]流域とケルン選帝侯領を占領したためフランス軍はネーデルラントへ撤退、居場所を無くしたヨーゼフ・クレメンスはフランスへ亡命した。1703年にヴィルロワ公[[フランソワ・ド・ヌフヴィル (ヴィルロワ公)|フランソワ・ド・ヌフヴィル]]がフランス軍の指揮権を引き継いだが、マールバラ公に牽制され[[アントウェルペン|アントワープ]]から[[ナミュール]]までの防衛線確保に手一杯だった<ref>友清、P24 - P26、P56 - P70。</ref>。 |
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[[1704年]]にはドイツでフランス・バイエルン連合軍がオーストリアに接近したとの報告を受けたマールバラ公はドイツ遠征を決意したが、前線のフランス軍を残したまま南下することを恐れたオランダに反対されることが分かっていたため、フランス軍とオランダを騙して南下するという賭けに出た。オランダにはアウウェルケルク卿[[ヘンドリック・ファン・ナッサウ=アウウェルケルク|ヘンドリック・ファン・ナッサウ=アウウェルケルク]]を残してバイエルンへ向かい、同じく南下したヴィルロワに対しては途中の[[ライン川]]を渡河して交戦すると見せかけて牽制、400kmも進みドイツ南部でイタリアから赴任したオイゲンと[[バーデン (領邦)|バーデン辺境伯]][[ルートヴィヒ・ヴィルヘルム (バーデン=バーデン辺境伯)|ルートヴィヒ・ヴィルヘルム]]と合流、[[ドナウ川]]流域を占領しつつバイエルンを荒らし回り、ブレンハイムの戦いでフランス・バイエルン連合軍に大勝してドナウ川の脅威を取り除いてイギリスへ帰国した。この戦いの恩賞としてマールバラ公はアンから[[ブレナム宮殿]]を与えられている<ref>友清、P97 - P122、マッケイ、P94 - P110。</ref>。 |
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マールバラ公は[[1705年]]にも南下を目論んだが、ドイツから[[クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール]]が妨害したためネーデルラントへ引き上げ、ネーデルラントでも戦果を上げられなかった。しかし翌1706年にヴィルロワがルイ14世の命令で東進した所を迎え撃ちラミイの戦いで大勝、余勢を駆ってネーデルラントを占領した。1707年にフランスのイタリア方面司令官だったヴァンドーム公[[ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン]]がヴィルロワの代わりにネーデルラントへ向かうと戦線は停滞、1708年にルイ14世の孫でフェリペ5世の兄でもある[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]][[ルイ (ブルゴーニュ公)|ルイ]]の指揮下に入ったヴァンドームにネーデルラント西部を占領されるが、イタリアから北上したオイゲンと合流してアウデナールデの戦いで勝利、西部を奪還して北フランスの要塞都市[[リール (フランス)|リール]]も落としてフランスに脅威を与えた([[リール包囲戦 (1708年)|リール包囲戦]])<ref>友清、P137 - P143、P161 - P173、P206、P220 - P241、マッケイ、P137 - P151。</ref>。 |
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1709年に和睦交渉が決裂したためマールバラ公・オイゲンは北フランスへ進撃、ブルゴーニュ公・ヴァンドームから交代したヴィラール率いるフランス軍が構築した防衛線を崩す戦略を取り、ヴィラールは防衛線堅持の方向で迎え撃った。両者はマルプラケの戦いで激突、連合軍は勝利したがフランス軍の倍の大損害を受けたため[[トゥルネー]]と[[モンス]]の陥落だけに終わった。また、長期化に伴いイギリスの厭戦気分が高まり、1710年にゴドルフィンが更迭、総選挙でホイッグ党に代わって政権を握ったロバート・ハーレーとヘンリー・シンジョンらトーリー党政権は和睦とマールバラ公の罷免に動き出した<ref>友清、P249 - P264、P269 - P288、マッケイ、P152 - P168。</ref>。 |
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マールバラ公らは1710年から1711年にかけてフランス防衛線を徐々に崩していったが、1711年にマールバラ公はトーリー党に罷免され、後任のオーモンド公[[ジェームズ・バトラー (第2代オーモンド公)|ジェームズ・バトラー]]はフランス外相の[[ジャン=バティスト・コルベール (トルシー侯)|トルシー侯]]と和睦交渉していたハーレーらの命令でフランス軍と戦わず、翌1712年にシンジョンとトルシーが単独講和を結んだためイギリス軍を引き連れて帰国した。イギリス軍の離脱で同盟軍の戦力は低下、オイゲンとアルベマール伯[[アーノルド・ヴァン・ケッペル (初代アルベマール伯)|アーノルド・ヴァン・ケッペル]]は同盟軍を率いて戦争を続けたが、ドゥナの戦いで敗北してアルベマールは捕らえられ、ヴィラールが戦線を持ち直したため交戦を断念、ユトレヒト条約とラシュタット条約の締結で終戦となった<ref>友清、P309 - P314、P317 - P333、P340 - P352、P355 - P365。</ref>。 |
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=== ドイツ方面 === |
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フランスはドイツにも軍を送りアルザスを拠点としてライン川流域([[ラインラント]])で東進を狙っていた。これに対してバーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムが対岸で[[ストラスブール]]から[[シュトルホーフェン]]に及ぶ防衛線を構築、フランス軍を待ち構えていた。1702年にヴィラールはバイエルンで挙兵したマクシミリアン2世に呼応してライン川の渡河を決意、ライン川を南下して南岸の[[フリートリンゲンの戦い]]で帝国軍に勝利したがストラスブールへ引き上げ、翌1703年に再度南下してライン川を渡河、バイエルン軍に合流してオーストリアの首都[[ウィーン]]に迫る勢いだった。 |
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しかし、方針を巡ってヴィラールとマクシミリアン2世が対立、ヴィラールはフランスへ召還されタラール伯[[カミーユ・ドスタン (タラール公)|カミーユ・ドスタン]]と[[フェルディナン・ド・マルサン]]がヴィラールの後任としてドイツ方面を受け持ったが、1704年にマールバラ公・オイゲン率いる同盟軍に大敗してタラールは捕虜となり、マルサンはライン川へ後退してマクシミリアン2世はネーデルラントへ亡命、ドナウ川のフランス軍は消滅してライン川戦線も劣勢になった。1705年にライン川方面軍に復帰したヴィラールはマールバラ公の南下を阻止、ライン川戦線を立て直した<ref>友清、P88 - P95、P100 - P122、P137 - P139。</ref>。 |
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1707年にルートヴィヒ・ヴィルヘルムが死去してライン川司令官となった[[バイロイト侯領|バイロイト辺境伯]][[クリスティアン・エルンスト (ブランデンブルク=バイロイト辺境伯)|クリスティアン・エルンスト]]が守るシュトルホーフェンを攻撃、クリスティアン・エルンストが放棄したシュトルホーフェン防衛線を突破、バーデン・[[ヴュルテンベルク]]を略奪して回り大戦果を上げた。失態を演じたクリスティアン・エルンストは罷免されハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(後のイギリス王ジョージ1世)がライン川に向かうとヴィラールはアルザスへ引き上げた。 |
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1708年、ヴィラールとライン川方面に向かったマクシミリアン2世が再度対立したためヴィラールは南フランスへ左遷され、スペイン方面で活躍していたベリック公[[ジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)|ジェームズ・フィッツジェームズ]]がスペインからライン川に転任してマクシミリアン2世の補佐を務め、ライン川北岸の[[コブレンツ]]で兵を集めネーデルラントへ向かったオイゲンの後を追って北上、ネーデルラントでブルゴーニュ公・ヴァンドームと合流してアウデナールデの戦いで損害を受けたフランス軍の立て直しと同盟軍の迎撃に当たった。以後ライン川戦線は進展が無いまま終戦を迎えることになる<ref>友清、P199 - P203、P222、P232 - P233、P266、P292、P314。</ref>。 |
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=== イタリア・南フランス方面 === |
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イタリアでは早くも1701年から戦闘が始まり、オイゲンを司令官とするオーストリア軍がイタリアへ向かった。対するフランスの将軍[[ニコラ・カティナ]]は北イタリアの守備を固めオーストリアに至る道路を封鎖していたが、オイゲンは[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]を通りイタリアへ進出、[[カルピの戦い]]でフランス軍を破り戦線を西へ後退させた。カティナは降格されヴィルロワが司令官となったが[[キアーリの戦い]]で大損害を受け、1702年の[[クレモナの戦い]]で捕らえられるなど惨憺たる結果に終わり、ヴィルロワは解放された後はネーデルラントへ転任、カティナはライン川方面司令官を短期間務めた後に引退(後任はヴィラール)、ヴァンドームがイタリア方面を担当することになった。 |
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オイゲンは[[ルッザーラの戦い]]でヴァンドームに勝利して戦線を膠着させたが、オーストリアから援助を受けられないこととドイツがバイエルンの挙兵で危機に立たされたことから1703年にオーストリアへ向かい軍事権を掌握した後にドイツでマールバラ公と共に戦った。オイゲン不在のオーストリア軍は[[グイード・フォン・シュターレンベルク]]が指揮を執ったがヴァンドームの前に苦戦、サヴォイアの大半を制圧された。1705年にオイゲンはイタリアへ戻ったがヴァンドームに[[カッサーノの戦い]]で敗北、戦局を覆せないままに終わった<ref>友清、P85 - P88、P94 - P106、P144 - P145、マッケイ、P68 - P98、P111 - P117。</ref>。 |
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翌1706年、オイゲンがオーストリアへの援助を求めてウィーンに滞在して不在の隙を突いたヴァンドームによりオーストリア軍は[[カルチナートの戦い]]で連敗、トリノがフランス軍に包囲されるまでになったが、サヴォイア公[[ヴィットーリオ・アメデーオ2世]]とオーストリアの将軍[[ヴィリッヒ・フィリップ・ロレンツ・フォン・ダウン|ヴィリッヒ・フォン・ダウン]]が抵抗して持ちこたえていた。オイゲンはトリノ救援に向かいイタリアを西に進み、ラミイの戦いで大敗して更迭されたヴィルロワと交代してネーデルラントへ向かったヴァンドームに代わってマルサンと[[オルレアン公]][[フィリップ2世 (オルレアン公)|フィリップ2世]]が派遣されたが、2人はオーストリア軍を迎え撃つ方針を巡って対立、オイゲンは包囲軍の不備を突いてトリノの戦いで勝利、マルサンは戦死してフィリップ2世はフランスへ敗走、トリノ救援とミラノ奪還を果たした<ref>友清、P161、P175 - P177、マッケイ、P123 - P128。</ref>。 |
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1707年にオイゲンはミラノを完全に平定、ナポリもダウンが制圧してイタリアはオーストリアの手に入った。次にオイゲンとヴィットーリオ・アメデーオ2世はフランス南部の港湾都市[[トゥーロン]]を包囲したが、フランスの将軍テッセ伯[[ルネ・ド・フルーレ (テッセ伯)|ルネ・ド・フルーレ]]の防衛と包囲側の不備から奪取の見込みが無くなり撤退、包囲は失敗に終わった([[トゥーロン包囲戦 (1707年)|トゥーロン包囲戦]])。その後南フランスは一進一退となり、オイゲンは1708年にイタリアからネーデルラントへ向かいダウンがイタリア担当となり、ヴィットーリオ・アメデーオ2世とダウンがフランス占領下のサヴォイアに攻め入ってはヴィラールやベリックに撃退されるという状況が終戦まで繰り返されていった<ref>友清、P195、P204 - P205、P244、P266、P292、P314、P353、マッケイ、P128 - P136。</ref>。 |
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=== スペイン方面 === |
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スペインでフェリペ5世はカスティーリャ・ナバラ・バスクに支持されカタルーニャ・アラゴン・バレンシアから反感を抱かれていたことからスペインでも内戦が避けられなかった。同盟軍とスペイン・フランス軍の交戦は[[1702年8月の海戦]]、[[カディスの戦い]]と[[ビーゴ湾の海戦]]など当初は海戦が主流だったが、1703年にポルトガル・サヴォイアが同盟国に加わりカール大公がイングランド艦隊の支援でポルトガルに上陸すると状況が一変、陸でも同盟軍とスペイン・フランス連合軍が衝突した。 |
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ポルトガルにはイングランドの将軍ションバーグ公[[メイナード・ションバーグ (第3代ションバーグ公爵)|メイナード・ションバーグ]]が着任していたが、1704年にゴールウェイ伯[[ヘンリー・デ・マシュー (ゴールウェイ伯)|ヘンリー・デ・マシュー]]に交代、翌1705年にはイングランド軍から遠征軍が送られ、ピーターバラ伯[[チャールズ・モードント (第3代ピーターバラ伯)|チャールズ・モードント]]は[[バルセロナ包囲戦 (1705年)|第1次バルセロナ包囲戦]]でカタルーニャの首都[[バルセロナ]]を占拠、カタルーニャにはカール大公が、バレンシアにはピーターバラが駐屯することになった。ポルトガル国境付近ではベリックが戦いを優勢に進めていたが、ジブラルタル奪回を主張したフェリペ5世とルイ14世の方針を拒否したため1704年にフランスへ召還、テッセがスペイン方面軍司令官に就任した。 |
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1706年にフェリペ5世とテッセがバルセロナに攻めかかったがバレンシアのピーターバラとジブラルタルのイングランド艦隊の救援で撤退([[バルセロナ包囲戦 (1706年)|第2次バルセロナ包囲戦]])、同盟軍は反撃してポルトガル・カタルーニャ・バレンシアの3方面から[[マドリード]]へ向かい、ゴールウェイはマドリードを奪いピーターバラ・カール大公と合流、フェリペ5世とベリックはマドリードを明け渡し[[ブルゴス]]へ後退した。しかし、同盟軍はマドリードの住民から反感を抱かれていたこととそれぞれの連携が不十分だったことからマドリードを奪回され、戦局は遠征前の状態に戻された。戦後テッセはスペインからトゥーロン守備に回され、ベリックがスペイン・フランス軍の指揮を執ることになった<ref>友清、P73 - P76、P123 - P126、P153 - P159、P177 - P180、</ref>。 |
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1707年にゴールウェイがスペイン遠征軍の司令官となり、ピーターバラは不祥事からイギリスへ召還されることが決まり、ゴールウェイはイギリス・ポルトガル連合軍を率いて東進した。しかし、ベリックはイギリス軍より多くの軍勢を引き連れて待ち構えていたため、[[アルマンサの戦い]]で大敗した上、イタリア戦線から派遣されたオルレアン公フィリップ2世とベリックがアラゴン・バレンシアを占領して一気にブルボン家が有利となった。1708年にベリックはライン川方面、次いでネーデルラントへ転任、同盟軍の司令官はゴールウェイからシュターレンベルクに交代、イギリス軍の指揮権は[[ジェームズ・スタンホープ (初代スタンホープ伯)|ジェームズ・スタンホープ]]に移った。同盟軍は1708年のスペインではブルボン家に押されていたが、代わりにミノルカ島を占領してジブラルタルに並ぶイギリス領に変えていった([[ミノルカ島の占領]])。 |
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1709年になると同盟国との和睦に傾いたルイ14世がスペインからフランス軍を撤退させ、1710年にスタンホープがカタルーニャから進軍してアラゴンとカタルーニャ国境付近でスペイン軍を破り([[アルメナラの戦い]])、そのままマドリードを占領した。しかし、1706年の時と同じく住民の協力を得られず飢餓に苦しみ、同盟国の交渉決裂からルイ14世がヴァンドーム率いるフランス軍をスペインへ派遣、ヴァンドームにポルトガルとの連絡と補給を絶たれマドリードを再度放棄した。ヴァンドームは同盟軍を追跡して交戦、スタンホープは[[ブリウエガの戦い]]で敗れて捕らえられ、シュターレンベルクは[[ビリャビシオーサの戦い]]でヴァンドームを撤退させたが、1711年にはスペイン軍がカタルーニャを侵略して回るまでになりカール大公の勢力圏はもはやバルセロナ周辺しか無かった。ヨーゼフ1世の死によりカール大公が神聖ローマ皇帝カール6世に即位してドイツへ戻ったこともスペイン王位の挫折に繋がり、スタンホープの後を受けてイギリス軍司令官となったアーガイル公[[ジョン・キャンベル (第2代アーガイル公爵)|ジョン・キャンベル]]も本国からオーモンドと同様和平政策で同盟軍の支援を禁じられていたため身動きが取れなかった<ref>友清、P197 - P199、P242 - P244、P267、P292 - P294、P314 - P315。</ref>。 |
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1712年にフェリペ5世がフランス王位継承権を放棄してイギリスとフランスが和平を結びスペインとポルトガルのイギリス軍は解散、シュターレンベルクや残りの同盟軍も1713年に帰国、1714年にラシュタット条約が締結されオーストリアとフランスも和睦した。但し、残されたバルセロナは同盟国が離脱した後もスペインへの降伏を拒絶、単独でフェリペ5世と戦うことを選んだため、スペインの完全平定はベリックがフランスから派遣されバルセロナを陥落させる翌1714年までかかることになる([[バルセロナ包囲戦 (1713年-1714年)|第3次バルセロナ包囲戦]])<ref>友清、P353、P362 - P366。</ref>。 |
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== 系図 == |
== 系図 == |
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* <span style="border:2px solid #000000;background-color:#ff9;padding:2px;"> </span>:[[ブルボン家]]([[オルレアン家]]を含む)の人物 |
* <span style="border:2px solid #000000;background-color:#ff9;padding:2px;"> </span>:[[ブルボン家]]([[オルレアン家]]を含む)の人物 |
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* <span style="border:2px solid #000000;background-color:#dfd;padding:2px;"> </span>:[[ヴィッテルスバッハ家]]([[バイエルン大公|バイエルン系]])の人物 |
* <span style="border:2px solid #000000;background-color:#dfd;padding:2px;"> </span>:[[ヴィッテルスバッハ家]]([[バイエルン大公|バイエルン系]])の人物 |
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== 脚注 == |
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<references/> |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* [[大類伸]]監修、[[林健太郎]]・[[堀米庸三]]編『世界の戦史 第六巻』[[新人物往来社|人物往来社]]、1966年。 |
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* [[友清理士]]『スペイン継承戦争 {{smaller|マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史}}』 |
* [[友清理士]]『スペイン継承戦争 {{smaller|マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史}}』[[彩流社]]、[[2007年]]。ISBN 978-4-7791-1239-3 |
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* [[デレック・マッケイ]]著、[[瀬原義生]]訳『プリンツ・オイゲン・フォン・サヴォア{{smaller|-興隆期ハプスブルク帝国を支えた男-}}』[[文理閣]]、2010年。ISBN 978-4-89259-619-3 |
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== 関連作品 == |
== 関連作品 == |
2012年3月4日 (日) 13:22時点における版
スペイン継承戦争(スペインけいしょうせんそう、スペイン語: Guerra de Sucesión Española)は、18世紀初めにスペイン王位の継承者を巡ってヨーロッパ諸国間で行われた戦争(1701年 - 1714年)。また、この戦争において北アメリカ大陸で行われた局地戦はアン女王戦争と呼ばれる。
原因
フランス王ルイ14世は領土拡大を目論み度々戦争を起こしたが(ネーデルラント継承戦争、オランダ侵略戦争、大同盟戦争)、イングランド王兼オランダ総督ウィリアム3世を中心とする周辺諸国の反発を招き小規模な目的しか達成出来ずにいた。1697年に大同盟戦争を終結させたレイスウェイク条約でフランスは領土を殆ど手に入れられなかったばかりか相手側の要求を認めたため実質的な敗戦となったが、ルイ14世は姻戚関係にあるスペイン王位に目をつけていたため妥協した結果であった。
スペイン・ハプスブルク家のカルロス2世は生来虚弱体質で、子孫が生まれることを望めなかった。このため、フェリペ4世の娘でカルロス2世の姉マリア・テレサ(フランス名マリー・テレーズ、1683年死去。自身はフランス王家に嫁ぐ際にスペイン王位継承権を放棄)とブルボン家のフランス王ルイ14世(フェリペ3世の娘アナ(アンヌ)の子でもある)の子であるフランス王太子ルイ(グラン・ドーファン、後のルイ15世の祖父)が後継候補とされた。しかしフランス王位継承者がスペイン王となればフランスとスペインが将来同君連合となってしまうため反対が多く、フランス側からもルイ14世の孫で王太子の次男(後のルイ15世の叔父)アンジュー公フィリップを後継者に推した。
これに対して、スペイン王家とは同族で、フェリペ3世の娘マリア・アンナ(マリア・アナ)の子であるオーストリア・ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルト1世も候補になったが、これもスペインとオーストリアの合邦を招くため、レオポルト1世は末子のカール大公を候補者に推していた。勢力均衡で戦争を防ぐためウィリアム3世はフランスと度々交渉を行い1698年と1700年にスペイン領分割条約を結び、海外領土を含めた広大な所領をアンジュー公・カール大公に分け与えて相続することを取り決めたが、交渉から外されたオーストリアの反対と所領の一括相続を望むカルロス2世の拒絶でいずれも実現しなかった。
各国の思惑が交錯する中、カルロス2世は1700年11月1日に突如崩御したが、遺言書にはアンジュー公に位を譲る旨が記されていた。これはスペイン宮廷にフランス支持者を増やしたルイ14世の画策によるものであったというが、カルロス2世は一括相続して戦争が起こる場合を見越して、フランスが諸国に対抗出来るだろうとの期待から選んだものであった。ここにおいて、アンジュー公がスペイン王フェリペ5世として即位した。
スペインを事実上獲得したルイ14世はスペイン王位継承の障害であったフェリペ5世のフランス王位継承権を手放さないことを表明、オランダへの牽制としてスペイン領ネーデルランド(現ベルギー)の総督であるバイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルの承認を得てフランス軍を駐屯させ、スペインの貿易特権をフランスの貿易会社に譲らせた。これら一連の行動はイングランドを戦争へと傾かせ、オランダへ渡ったウィリアム3世はハーグでフランスの勢力拡大を恐れるオーストリア、オランダと対フランス大同盟を結び、フェリペ5世の即位に反対してフランス、スペインに宣戦布告した[1]。
最初はスペインの辺境を我が物にせんとするフランスと、それを押しとどめようとするヨーロッパ各国との戦争の様相であったが、次第にスペインの国内事情がからみ『スペインの内戦』の一面を持つようになった。スペイン国内が一丸となってフェリペ5世即位を支持したわけではなく、政治の中心であるカスティーリャに対し、古くから君主との協約主義を掲げ自治の発達したカタルーニャ及びアラゴン・バレンシアは中央政権に対抗心を持っていたのである。ナバーラ及びバスクはブルボン家支持を表明した。
経過
戦争はまずオーストリアがスペイン領ミラノ奪還を目指して1701年にプリンツ・オイゲン率いる軍を北イタリアに進撃させたことで始まった。イギリスは1702年にウィリアム3世が死去、新たに即位した義妹のアン女王のもとでシドニー・ゴドルフィンを中心とした政権が成立、女王の女官サラ・ジェニングスの夫であるマールバラ公ジョン・チャーチルが司令官に任命されて大陸に派遣され、イギリス軍はオランダ軍と連合してフランドルに迫った。ここでマールバラ公はオランダに接近したフランス軍を威嚇しながら占領地域を解放、1703年にはフランス軍をネーデルラントへ後退させた。
ポルトガルやドイツ(神聖ローマ帝国)の諸領邦国家も同盟に加わったため、フランスは孤立無援に陥ったが、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世の同盟を得てアルザスを占領、南ドイツに軍を派遣してオーストリアを脅かした。しかしこれに対してイギリスのマールバラ公が長駆南ドイツに至り、オイゲンのオーストリア軍と連合してブレンハイムの戦いでフランスを破った(1704年)。結果、バイエルンは同盟国に占拠されマクシミリアン2世はネーデルラントへ亡命、オーストリアの危機は去った。
フランスは反撃をはかり、オーストリア側についたサヴォイア公国の首都トリノを攻囲したが、1706年にオイゲン率いるオーストリア軍に敗れ、北イタリアを制圧された(トリノの戦い)。またスペイン領ネーデルランドでは、マールバラ公率いるイギリス軍にラミイの戦いで敗れネーデルラントを失った。
スペインも1707年にイタリア半島を南下したオーストリア軍にスペイン領のナポリ王国を占領された上、スペイン国内ではオーストリアの推す国王候補カール大公を支持してアラゴン・バレンシア・カタルーニャがスペイン王室に反旗を翻したので、イギリス軍がジブラルタルを占領してこれを支援した(ジブラルタルの戦い)。スペイン軍はジブラルタルを長期間包囲したが、イギリス軍は執拗に持ちこたえた[2]。
1707年、フランス軍はフランドルに軍を集めてイギリス・オランダ軍に対する反抗を開始した。マールバラ公はこれに対してイギリス・オランダ・オーストリアの連合軍を結集し、アウデナールデの戦いでフランス軍を破った。翌1708年、ルイ14世は和平を提案したが、フェリペ5世のスペイン王位継承をはじめとして連合国の認められない要求が含まれていたため戦争は再開され、マールバラ公はパリ進撃を目指してフランス領フランドルに侵入した。連合軍とフランス軍はマルプラケの戦いで激突し、連合軍はフランス軍を敗走させたものの、死傷者数万人の大損害を被り、戦線はフランドルで膠着した。
この頃までに、オランダやドイツ諸邦は既に戦争の継続に倦んでおり、イギリス国内でも和平を望む声が高まっていた。1710年、自身がイギリスの戦争推進派の中心でもあるマールバラ公がアン女王の信任を失うとイギリス政府も和平に傾き始め、ゴドルフィンがアンに更迭され与党のホイッグ党が総選挙で敗れるとトーリー党の指導者ロバート・ハーレーとヘンリー・シンジョンらが和平に動き出した。
ヨーロッパで戦争が繰り広げられている間、アメリカ大陸ではイギリスとフランスの間で植民地を巡るアン女王戦争が開始された。イギリスはフランス領カナダのケベックを狙い、フランスはニューイングランドの英国植民地を狙い、いずれも成功しなかったがイギリスはフランス領アカディアの占領に成功している。また、戦争中の1707年にイングランドとスコットランドの合同条約が批准されグレートブリテン王国が成立している[3]。
和平
1711年、イギリスのマールバラ公は軍資金横領が発覚して失脚し、同年にオーストリアのレオポルト1世の後を継いでいたヨーゼフ1世が死去し、弟でスペイン国王候補であったカール大公がオーストリア大公・神聖ローマ皇帝カール6世として即位すると、イギリスはカール6世のスペイン王位継承でハプスブルク家の大帝国が再現することを恐れ、フェリペ5世のスペイン王退位要求に消極的となった。
1712年、イギリスとフランスとの間で和平交渉が開始され、フェリペ5世は将来のフランスとスペインの一体化の懸念を払拭するために、フランス王位継承権を放棄することを宣言した。同年、散発的に続いていたオーストリアとフランスとの戦闘でフランスが勝利(ドゥナの戦い)を収めたことにより、全面的な和平の機運が高まった。これによりスペイン王家に反逆したバレンシアとカタルーニャは反フランス同盟側から見捨てられ、フランス・スペイン軍に蹂躙された。
1713年、各国はユトレヒト条約を結び、長年に及んだ戦争を終結させた。この条約でスペインはオーストリアにスペイン領ネーデルラント、ナポリ王国、ミラノを、サヴォイア公国にシチリア(後にサルデーニャと交換)を割譲、イギリスはジブラルタルとミノルカ島及び北アメリカのハドソン湾、アカディアを獲得し、反フランス同盟は代償としてフェリペ5世のスペイン王即位を承認した。そして翌1714年にフランス王国とオーストリアとの間でラシュタット条約が結ばれた[4]。
戦争終結の同年にアンが亡くなりステュアート朝は断絶、又従兄のハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがイギリス王ジョージ1世として即位してハノーヴァー朝が誕生するとホイッグ党がジョージ1世の信任を背景に復帰、対するトーリー党は王位継承問題に伴う内部分裂と和睦交渉で大陸の同盟国を見捨てて単独交渉に走ったことが仇となり、中心人物のハーレー・シンジョンらは失脚しホイッグ党が復権、ジャコバイト蜂起も鎮圧されホイッグ党の政権は磐石となりマールバラ公も名誉回復を果たした。1715年にルイ14世も死去して曾孫のルイ15世が即位、政権交代したイギリスとフランスは協調関係を築いていった[5]。
スペイン継承戦争は、マールバラ公やオイゲンの活躍によりフランスは各地で敗戦を重ねたが、反フランス同盟は足並みの不一致から全面的な勝利を収めることができなかった。特にオランダは、フランスの軍事的な強大化を恐れる一方で、貿易立国としてフランスとの経済関係が重視されていたので、フランスを完全に敗北させることを望んでいなかった。その結果、反フランス同盟の最大の目的であったフェリペ5世のスペイン王位継承は阻止することができなかったが、この戦争で17世紀の西ヨーロッパで最強を誇ったルイ14世のフランス軍のヘゲモニーは抑制され、ヨーロッパの国際関係は新時代を迎えることになった。
各戦線の攻防
ネーデルラント方面
フランス軍はルイ14世がマクシミリアン2世と弟のケルン選帝侯兼リエージュ司教ヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルンと結んでいたため簡単にオランダ侵攻が出来る最前線にまで駐屯が可能となり、ルイ・フランソワ・ド・ブーフレールが率いるフランス軍はケルン選帝侯領でオランダを伺っていた。しかし、マールバラ公はフランス軍を上回る機動力でフランス軍の補給地点を脅かしたり、マース川流域とケルン選帝侯領を占領したためフランス軍はネーデルラントへ撤退、居場所を無くしたヨーゼフ・クレメンスはフランスへ亡命した。1703年にヴィルロワ公フランソワ・ド・ヌフヴィルがフランス軍の指揮権を引き継いだが、マールバラ公に牽制されアントワープからナミュールまでの防衛線確保に手一杯だった[6]。
1704年にはドイツでフランス・バイエルン連合軍がオーストリアに接近したとの報告を受けたマールバラ公はドイツ遠征を決意したが、前線のフランス軍を残したまま南下することを恐れたオランダに反対されることが分かっていたため、フランス軍とオランダを騙して南下するという賭けに出た。オランダにはアウウェルケルク卿ヘンドリック・ファン・ナッサウ=アウウェルケルクを残してバイエルンへ向かい、同じく南下したヴィルロワに対しては途中のライン川を渡河して交戦すると見せかけて牽制、400kmも進みドイツ南部でイタリアから赴任したオイゲンとバーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムと合流、ドナウ川流域を占領しつつバイエルンを荒らし回り、ブレンハイムの戦いでフランス・バイエルン連合軍に大勝してドナウ川の脅威を取り除いてイギリスへ帰国した。この戦いの恩賞としてマールバラ公はアンからブレナム宮殿を与えられている[7]。
マールバラ公は1705年にも南下を目論んだが、ドイツからクロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラールが妨害したためネーデルラントへ引き上げ、ネーデルラントでも戦果を上げられなかった。しかし翌1706年にヴィルロワがルイ14世の命令で東進した所を迎え撃ちラミイの戦いで大勝、余勢を駆ってネーデルラントを占領した。1707年にフランスのイタリア方面司令官だったヴァンドーム公ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボンがヴィルロワの代わりにネーデルラントへ向かうと戦線は停滞、1708年にルイ14世の孫でフェリペ5世の兄でもあるブルゴーニュ公ルイの指揮下に入ったヴァンドームにネーデルラント西部を占領されるが、イタリアから北上したオイゲンと合流してアウデナールデの戦いで勝利、西部を奪還して北フランスの要塞都市リールも落としてフランスに脅威を与えた(リール包囲戦)[8]。
1709年に和睦交渉が決裂したためマールバラ公・オイゲンは北フランスへ進撃、ブルゴーニュ公・ヴァンドームから交代したヴィラール率いるフランス軍が構築した防衛線を崩す戦略を取り、ヴィラールは防衛線堅持の方向で迎え撃った。両者はマルプラケの戦いで激突、連合軍は勝利したがフランス軍の倍の大損害を受けたためトゥルネーとモンスの陥落だけに終わった。また、長期化に伴いイギリスの厭戦気分が高まり、1710年にゴドルフィンが更迭、総選挙でホイッグ党に代わって政権を握ったロバート・ハーレーとヘンリー・シンジョンらトーリー党政権は和睦とマールバラ公の罷免に動き出した[9]。
マールバラ公らは1710年から1711年にかけてフランス防衛線を徐々に崩していったが、1711年にマールバラ公はトーリー党に罷免され、後任のオーモンド公ジェームズ・バトラーはフランス外相のトルシー侯と和睦交渉していたハーレーらの命令でフランス軍と戦わず、翌1712年にシンジョンとトルシーが単独講和を結んだためイギリス軍を引き連れて帰国した。イギリス軍の離脱で同盟軍の戦力は低下、オイゲンとアルベマール伯アーノルド・ヴァン・ケッペルは同盟軍を率いて戦争を続けたが、ドゥナの戦いで敗北してアルベマールは捕らえられ、ヴィラールが戦線を持ち直したため交戦を断念、ユトレヒト条約とラシュタット条約の締結で終戦となった[10]。
ドイツ方面
フランスはドイツにも軍を送りアルザスを拠点としてライン川流域(ラインラント)で東進を狙っていた。これに対してバーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムが対岸でストラスブールからシュトルホーフェンに及ぶ防衛線を構築、フランス軍を待ち構えていた。1702年にヴィラールはバイエルンで挙兵したマクシミリアン2世に呼応してライン川の渡河を決意、ライン川を南下して南岸のフリートリンゲンの戦いで帝国軍に勝利したがストラスブールへ引き上げ、翌1703年に再度南下してライン川を渡河、バイエルン軍に合流してオーストリアの首都ウィーンに迫る勢いだった。
しかし、方針を巡ってヴィラールとマクシミリアン2世が対立、ヴィラールはフランスへ召還されタラール伯カミーユ・ドスタンとフェルディナン・ド・マルサンがヴィラールの後任としてドイツ方面を受け持ったが、1704年にマールバラ公・オイゲン率いる同盟軍に大敗してタラールは捕虜となり、マルサンはライン川へ後退してマクシミリアン2世はネーデルラントへ亡命、ドナウ川のフランス軍は消滅してライン川戦線も劣勢になった。1705年にライン川方面軍に復帰したヴィラールはマールバラ公の南下を阻止、ライン川戦線を立て直した[11]。
1707年にルートヴィヒ・ヴィルヘルムが死去してライン川司令官となったバイロイト辺境伯クリスティアン・エルンストが守るシュトルホーフェンを攻撃、クリスティアン・エルンストが放棄したシュトルホーフェン防衛線を突破、バーデン・ヴュルテンベルクを略奪して回り大戦果を上げた。失態を演じたクリスティアン・エルンストは罷免されハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(後のイギリス王ジョージ1世)がライン川に向かうとヴィラールはアルザスへ引き上げた。
1708年、ヴィラールとライン川方面に向かったマクシミリアン2世が再度対立したためヴィラールは南フランスへ左遷され、スペイン方面で活躍していたベリック公ジェームズ・フィッツジェームズがスペインからライン川に転任してマクシミリアン2世の補佐を務め、ライン川北岸のコブレンツで兵を集めネーデルラントへ向かったオイゲンの後を追って北上、ネーデルラントでブルゴーニュ公・ヴァンドームと合流してアウデナールデの戦いで損害を受けたフランス軍の立て直しと同盟軍の迎撃に当たった。以後ライン川戦線は進展が無いまま終戦を迎えることになる[12]。
イタリア・南フランス方面
イタリアでは早くも1701年から戦闘が始まり、オイゲンを司令官とするオーストリア軍がイタリアへ向かった。対するフランスの将軍ニコラ・カティナは北イタリアの守備を固めオーストリアに至る道路を封鎖していたが、オイゲンはヴェネツィアを通りイタリアへ進出、カルピの戦いでフランス軍を破り戦線を西へ後退させた。カティナは降格されヴィルロワが司令官となったがキアーリの戦いで大損害を受け、1702年のクレモナの戦いで捕らえられるなど惨憺たる結果に終わり、ヴィルロワは解放された後はネーデルラントへ転任、カティナはライン川方面司令官を短期間務めた後に引退(後任はヴィラール)、ヴァンドームがイタリア方面を担当することになった。
オイゲンはルッザーラの戦いでヴァンドームに勝利して戦線を膠着させたが、オーストリアから援助を受けられないこととドイツがバイエルンの挙兵で危機に立たされたことから1703年にオーストリアへ向かい軍事権を掌握した後にドイツでマールバラ公と共に戦った。オイゲン不在のオーストリア軍はグイード・フォン・シュターレンベルクが指揮を執ったがヴァンドームの前に苦戦、サヴォイアの大半を制圧された。1705年にオイゲンはイタリアへ戻ったがヴァンドームにカッサーノの戦いで敗北、戦局を覆せないままに終わった[13]。
翌1706年、オイゲンがオーストリアへの援助を求めてウィーンに滞在して不在の隙を突いたヴァンドームによりオーストリア軍はカルチナートの戦いで連敗、トリノがフランス軍に包囲されるまでになったが、サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世とオーストリアの将軍ヴィリッヒ・フォン・ダウンが抵抗して持ちこたえていた。オイゲンはトリノ救援に向かいイタリアを西に進み、ラミイの戦いで大敗して更迭されたヴィルロワと交代してネーデルラントへ向かったヴァンドームに代わってマルサンとオルレアン公フィリップ2世が派遣されたが、2人はオーストリア軍を迎え撃つ方針を巡って対立、オイゲンは包囲軍の不備を突いてトリノの戦いで勝利、マルサンは戦死してフィリップ2世はフランスへ敗走、トリノ救援とミラノ奪還を果たした[14]。
1707年にオイゲンはミラノを完全に平定、ナポリもダウンが制圧してイタリアはオーストリアの手に入った。次にオイゲンとヴィットーリオ・アメデーオ2世はフランス南部の港湾都市トゥーロンを包囲したが、フランスの将軍テッセ伯ルネ・ド・フルーレの防衛と包囲側の不備から奪取の見込みが無くなり撤退、包囲は失敗に終わった(トゥーロン包囲戦)。その後南フランスは一進一退となり、オイゲンは1708年にイタリアからネーデルラントへ向かいダウンがイタリア担当となり、ヴィットーリオ・アメデーオ2世とダウンがフランス占領下のサヴォイアに攻め入ってはヴィラールやベリックに撃退されるという状況が終戦まで繰り返されていった[15]。
スペイン方面
スペインでフェリペ5世はカスティーリャ・ナバラ・バスクに支持されカタルーニャ・アラゴン・バレンシアから反感を抱かれていたことからスペインでも内戦が避けられなかった。同盟軍とスペイン・フランス軍の交戦は1702年8月の海戦、カディスの戦いとビーゴ湾の海戦など当初は海戦が主流だったが、1703年にポルトガル・サヴォイアが同盟国に加わりカール大公がイングランド艦隊の支援でポルトガルに上陸すると状況が一変、陸でも同盟軍とスペイン・フランス連合軍が衝突した。
ポルトガルにはイングランドの将軍ションバーグ公メイナード・ションバーグが着任していたが、1704年にゴールウェイ伯ヘンリー・デ・マシューに交代、翌1705年にはイングランド軍から遠征軍が送られ、ピーターバラ伯チャールズ・モードントは第1次バルセロナ包囲戦でカタルーニャの首都バルセロナを占拠、カタルーニャにはカール大公が、バレンシアにはピーターバラが駐屯することになった。ポルトガル国境付近ではベリックが戦いを優勢に進めていたが、ジブラルタル奪回を主張したフェリペ5世とルイ14世の方針を拒否したため1704年にフランスへ召還、テッセがスペイン方面軍司令官に就任した。
1706年にフェリペ5世とテッセがバルセロナに攻めかかったがバレンシアのピーターバラとジブラルタルのイングランド艦隊の救援で撤退(第2次バルセロナ包囲戦)、同盟軍は反撃してポルトガル・カタルーニャ・バレンシアの3方面からマドリードへ向かい、ゴールウェイはマドリードを奪いピーターバラ・カール大公と合流、フェリペ5世とベリックはマドリードを明け渡しブルゴスへ後退した。しかし、同盟軍はマドリードの住民から反感を抱かれていたこととそれぞれの連携が不十分だったことからマドリードを奪回され、戦局は遠征前の状態に戻された。戦後テッセはスペインからトゥーロン守備に回され、ベリックがスペイン・フランス軍の指揮を執ることになった[16]。
1707年にゴールウェイがスペイン遠征軍の司令官となり、ピーターバラは不祥事からイギリスへ召還されることが決まり、ゴールウェイはイギリス・ポルトガル連合軍を率いて東進した。しかし、ベリックはイギリス軍より多くの軍勢を引き連れて待ち構えていたため、アルマンサの戦いで大敗した上、イタリア戦線から派遣されたオルレアン公フィリップ2世とベリックがアラゴン・バレンシアを占領して一気にブルボン家が有利となった。1708年にベリックはライン川方面、次いでネーデルラントへ転任、同盟軍の司令官はゴールウェイからシュターレンベルクに交代、イギリス軍の指揮権はジェームズ・スタンホープに移った。同盟軍は1708年のスペインではブルボン家に押されていたが、代わりにミノルカ島を占領してジブラルタルに並ぶイギリス領に変えていった(ミノルカ島の占領)。
1709年になると同盟国との和睦に傾いたルイ14世がスペインからフランス軍を撤退させ、1710年にスタンホープがカタルーニャから進軍してアラゴンとカタルーニャ国境付近でスペイン軍を破り(アルメナラの戦い)、そのままマドリードを占領した。しかし、1706年の時と同じく住民の協力を得られず飢餓に苦しみ、同盟国の交渉決裂からルイ14世がヴァンドーム率いるフランス軍をスペインへ派遣、ヴァンドームにポルトガルとの連絡と補給を絶たれマドリードを再度放棄した。ヴァンドームは同盟軍を追跡して交戦、スタンホープはブリウエガの戦いで敗れて捕らえられ、シュターレンベルクはビリャビシオーサの戦いでヴァンドームを撤退させたが、1711年にはスペイン軍がカタルーニャを侵略して回るまでになりカール大公の勢力圏はもはやバルセロナ周辺しか無かった。ヨーゼフ1世の死によりカール大公が神聖ローマ皇帝カール6世に即位してドイツへ戻ったこともスペイン王位の挫折に繋がり、スタンホープの後を受けてイギリス軍司令官となったアーガイル公ジョン・キャンベルも本国からオーモンドと同様和平政策で同盟軍の支援を禁じられていたため身動きが取れなかった[17]。
1712年にフェリペ5世がフランス王位継承権を放棄してイギリスとフランスが和平を結びスペインとポルトガルのイギリス軍は解散、シュターレンベルクや残りの同盟軍も1713年に帰国、1714年にラシュタット条約が締結されオーストリアとフランスも和睦した。但し、残されたバルセロナは同盟国が離脱した後もスペインへの降伏を拒絶、単独でフェリペ5世と戦うことを選んだため、スペインの完全平定はベリックがフランスから派遣されバルセロナを陥落させる翌1714年までかかることになる(第3次バルセロナ包囲戦)[18]。
系図
アンリ4世 フランス王 | マリー・ド・メディシス | フェリペ3世 スペイン王 | マルガリータ | フェルディナント2世 神聖ローマ皇帝 | マリア・アンナ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ13世 フランス王 | アナ | イサベル | フェリペ4世 スペイン王 | マリア・アナ | フェルディナント3世 神聖ローマ皇帝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ14世 フランス王 | マリア・テレサ | フィリップ1世 オルレアン公 | マリアナ | フィリップ・ヴィルヘルム プファルツ選帝侯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フェルディナント・マリア バイエルン選帝侯 | マリア・ルイサ | カルロス2世 スペイン王 | マリアナ | マルガリータ・テレサ | レオポルト1世 神聖ローマ皇帝 | エレオノーレ・マグダレーネ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ (グラン・ドーファン) | マリア・アンナ | マクシミリアン2世エマヌエル バイエルン選帝侯 | マリア・アントニア | ヨーゼフ1世 神聖ローマ皇帝 | カール6世 神聖ローマ皇帝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ (プチ・ドーファン) | フェリペ5世 スペイン王 | ヨーゼフ・フェルディナント アストゥリアス公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 凡例
- :スペイン・ハプスブルク家の人物
- :オーストリア・ハプスブルク家の人物
- :ブルボン家(オルレアン家を含む)の人物
- :ヴィッテルスバッハ家(バイエルン系)の人物
脚注
- ^ 林、P95 - P101、友清、P11 - P26、P47 - P56、マッケイ、P61 - P67。
- ^ 林、P101 - P109。友清、P56 - P70、P85 - P126、P161 - P173、マッケイ、P68 - P130。
- ^ 林、P109 - P111、友清、P181 - P194、P220 - P241、P249 - P263、P307 - P309、マッケイ、P137 - P164。
- ^ 友清、P303 - P304、P332 - P366、マッケイ、P165 - P192。
- ^ 友清、P367 - P394。
- ^ 友清、P24 - P26、P56 - P70。
- ^ 友清、P97 - P122、マッケイ、P94 - P110。
- ^ 友清、P137 - P143、P161 - P173、P206、P220 - P241、マッケイ、P137 - P151。
- ^ 友清、P249 - P264、P269 - P288、マッケイ、P152 - P168。
- ^ 友清、P309 - P314、P317 - P333、P340 - P352、P355 - P365。
- ^ 友清、P88 - P95、P100 - P122、P137 - P139。
- ^ 友清、P199 - P203、P222、P232 - P233、P266、P292、P314。
- ^ 友清、P85 - P88、P94 - P106、P144 - P145、マッケイ、P68 - P98、P111 - P117。
- ^ 友清、P161、P175 - P177、マッケイ、P123 - P128。
- ^ 友清、P195、P204 - P205、P244、P266、P292、P314、P353、マッケイ、P128 - P136。
- ^ 友清、P73 - P76、P123 - P126、P153 - P159、P177 - P180、
- ^ 友清、P197 - P199、P242 - P244、P267、P292 - P294、P314 - P315。
- ^ 友清、P353、P362 - P366。
参考文献
- 大類伸監修、林健太郎・堀米庸三編『世界の戦史 第六巻』人物往来社、1966年。
- 友清理士『スペイン継承戦争 マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史』彩流社、2007年。ISBN 978-4-7791-1239-3
- デレック・マッケイ著、瀬原義生訳『プリンツ・オイゲン・フォン・サヴォア-興隆期ハプスブルク帝国を支えた男-』文理閣、2010年。ISBN 978-4-89259-619-3
関連作品
- Joseph Miranda"Marlborough",Strategy & Tactics No.238,Decision Games,2006