「ノート:エホバの証人」の版間の差分
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*信者が現実的な医療の進歩にあわせて対応を変えることは信者の内外にとってよいことでは?信者が輸血拒否を唱えた当時は全血輸血が当たり前で枕元輸血という信じられない行為でさえ、現在でもドラマや映画ではあるほどです。輸血なしの医療はエイズやBSEの問題でいまや人類の理想となっています。その研究に不可欠な臨床はエホバの証人だけが現在医療に提供しているのです。いまや、信者の輸血拒否は非信者との利益と合致しているのです。 |
*信者が現実的な医療の進歩にあわせて対応を変えることは信者の内外にとってよいことでは?信者が輸血拒否を唱えた当時は全血輸血が当たり前で枕元輸血という信じられない行為でさえ、現在でもドラマや映画ではあるほどです。輸血なしの医療はエイズやBSEの問題でいまや人類の理想となっています。その研究に不可欠な臨床はエホバの証人だけが現在医療に提供しているのです。いまや、信者の輸血拒否は非信者との利益と合致しているのです。 |
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よく読んだら |
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ワクチンも臓器移植も拒否してなんで死ななかったのか |
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その理由を説明できますか? |
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何故死なないのか? |
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教えてエロイ人。 |
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それじゃエホバの人は皆感染症多発地帯で |
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100パーセント安心して働けるすごい人ばかりなんですね。 |
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ぜひ国境なき医師団とか国連傘下の医療機関に協力してください。 |
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非加熱製剤と加熱製剤があって輸血はきちんと過熱さえすれば |
非加熱製剤と加熱製剤があって輸血はきちんと過熱さえすれば |
2006年1月29日 (日) 08:05時点における版
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過去ログ一覧 |
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推測記述について
- ラザフォードによって再組織化されたエホバの証人は立場上、分派の一つであったゆえ創設者との繋がりや正当性を強調する必要があった。エホバの証人という新たな呼称を提唱すると同時に従来の「ものみの塔」という言葉を使う必要性があったため登記名と対外的な呼称が異なる事態になったと思われる。
百科事典にこのような「推測記述」を載せるのはいかがかと存じます。
- 加えて言うなら、「家から家の布教活動」はラッセルのときからあり、彼らは「聖書文書配布者(コルポーター)」と呼ばれていました。早くも「ものみの塔(英語)」1881年7・8月号で「あなたは宣べ伝えているだろうか」という質問がなされ、「宣べ伝えていない者が小さな群れのメンバーになることはない……我々(の任務)は…良いたよりを宣べ伝えることである」と続けています。
後に背教者になった人たちがそうした活動に反対していただけです。
- 加えて批評家の言う「排斥制度」ですが、これについてはラッセル存命中の1904年に刊行された「新しい創造物(New Creation)」の中で、会衆を堕落させないように悪行者に対して適切な処置をとるような指示がなされており、N・H・ノアが勝手に作った制度ではありません。
- 1975年については「アダムの誕生から数えて人類史の六千年が終わる」という記述は以前なされていましたが、「1975年にハルマゲドンが来る」という記載はありませんでした。それは批評家が考えた憶測です。
- 「無輸血治療のためには病院側に莫大な設備投資が求められる」とする根拠は何でしょうか。そういった事実はありません。むしろ、無輸血治療の方がコストが少なくて済みます。61.22.157.95 2005年12月4日 (日) 06:30 (UTC)
社会問題の項目について
●改変聖書
ものみの塔の教理は後述の輸血禁止にはじまり聖書の拡大解釈であり曲解である。
- その根拠は何なのかが記載されておらず一方的。
過去において神の律法に反するとしてワクチン療法や臓器移植を禁止したこともある。 このために数多くの犠牲者が出たが、その後にワクチン療法も臓器移植も受けて良いと、方針を180度転換している。
- 「このために数多くの犠牲者が出た」という事実はありません。
また臓器移植を受ける事と後述の輸血を拒否することの矛盾についても明確な説明がなされていない。
- 「これは100%うそです! 臓器移植をすることは良心の決定事項、輸血は使徒15:28,29に反していると明確に発表されています。
- 信者が現実的な医療の進歩にあわせて対応を変えることは信者の内外にとってよいことでは?信者が輸血拒否を唱えた当時は全血輸血が当たり前で枕元輸血という信じられない行為でさえ、現在でもドラマや映画ではあるほどです。輸血なしの医療はエイズやBSEの問題でいまや人類の理想となっています。その研究に不可欠な臨床はエホバの証人だけが現在医療に提供しているのです。いまや、信者の輸血拒否は非信者との利益と合致しているのです。
よく読んだら
ワクチンも臓器移植も拒否してなんで死ななかったのか
その理由を説明できますか?
何故死なないのか?
教えてエロイ人。
それじゃエホバの人は皆感染症多発地帯で
100パーセント安心して働けるすごい人ばかりなんですね。
ぜひ国境なき医師団とか国連傘下の医療機関に協力してください。
非加熱製剤と加熱製剤があって輸血はきちんと過熱さえすれば 問題ないんじゃないの? エイズ感染だってそれが焦点だったのよ。 それと映画やドラマを持ち出すのは理解できないのですが? 普通こういう話を持ち出すなら現実の医療の話にすべきですよね? BSEが輸血で感染と言うのは聞いたことがありません。 ただ単に話題になったからよく分からず取り上げているだけにしか見えませんよ。
まあエホバが認識している技術や科学、医療行為 が70年代頃の技術程度のままと聞きますので なので実際の進歩した技術とエホバが非難している技術は 大きくずれています。 70年代の技術者が冷凍睡眠から最近起きてきて 70年代の知識のまま技術問題や社会問題を語ってるような風景をそのまま 見せられている気分です。
●マインドコントロール
強制的ではなく、自分の意志で学んでいる、伝導していると感じる事であり、俗に言われる洗脳とは異なる。聖書の学び方、理解の仕方が偏り、情報が遮断されていることで、十分調べ、学んだと納得してしまう。
- 「情報が遮断されている」と記載しているが、組織が何かの情報を遮断したという事実はありません。
ものみの塔誌、目ざめよ!誌や各種研究資料など、出版物の量もおびただしく、熟読し理解するだけで相当のエネルギーが消耗され、考えるゆとりが与えられない為であるとする声もある。
- 出版物が多いのは事実だが、考えるゆとりは十分あります。
その結果、組織だけが唯一の神の経路だと感じ、他は家族さえもサタン(悪魔)であるとみなしはじめる。
- 「家族さえもサタン(悪魔)であるとみなしはじめる」というのはエホバの証人の信条ではありません。
●輸血禁止
1985年4月、神奈川県川崎市で交通事故に遭った小学校6年生男児の手術に当たって、エホバの証人の信者であった書店経営の両親が輸血を拒否したため、男児は出血多量で死亡した。 聖書のレビ記17章14節の「血を食べてはならない」という聖句を体内に摂取することと拡大解釈してこのような教義が生まれている。
- レビ記だけでなく使徒15:28,29もです。
しかしながらエホバの証人問題を憂慮する会の調べでは、今現在も日本全国の病院で輸血を拒否し、医師を困らせたり命の危険を冒すエホバの証人は5~6000人にも登るとされる。
*その記述は興味深いですが、何らかの検証を得た数字ではないのであたかも確定した数字であるかのように辞書へ記載するのは主観を主張する事になるのであまり感心しませんけど。
- エホバの証人は無輸血治療を施してくれる病院しか入院しないのでこれは事実ではありません。
大局的見地からは2000年以上も前に書かれた聖書が近代医学の処置に言及しているはずは無く、輸血禁止は典型的な聖書の曲解であると言える。
- それはあなたの大局的見地でしょう。
●厳しい戒律主義他
これら以外にも選挙、投票を禁止したり、誕生日、お正月、お年玉、年賀状のやりとり、雛祭り、端午の節句、夏祭り、鯉のぼり、母の日、父の日等の日本の伝統的行事への参加を禁止するなど良識に欠ける戒律が多い。
- エホバの証人は選挙・投票を禁止していません。事実投票が義務付けられている国では投票に行く人もいます。誕生日、お正月、お年玉、年賀状のやりとり、雛祭り、端午の節句、夏祭り、鯉のぼり、母の日、父の日等の日本の伝統的行事への参加は自由であり、「良識」とは関係ありません。
また復活祭、クリスマスなども異教に基づく伝統行事として参加せず、十字架を異教の象徴であるとみなしている。 また、ものみの塔を批判する文書や他の宗教の出版物を読んではならず、組織に対して疑問を抱く事、あるいは組織の指導がなくても生きていけると考える事は「神のご意志に反する」ともしている。本記事も例外とならず、エホバの証人をカルトとする大局の意思を含めて中立的にまとめられた記事であるため、エホバの証人がこれを読む事は神のご意志に反すると解するのが相当であり、楽園に入る為には決して読んではならない文書に値する。
- 「エホバの証人をカルトとする大局の意思を含めて中立的にまとめられた記事である」。。。どこが…。
さらに伝道活動を行う事は楽園に入るための必須条件であり、伝道報告書の提出も義務づけるなど、信者はもっと伝道するように煽り立てられてもいる。
- 伝道活動を行うのは自由ですし、伝道を行っているからといって楽園に入れるとは限りません。
●後を断たない家庭崩壊
信者の大半は主婦層であり、曲解した聖書知識と厳しい戒律を家庭に持ち込んでしまう事で夫や親兄弟、親戚も巻き込む。
- エホバの証人に「戒律」は存在しないし、信者の大半は主婦層というのはうそです。
その結果、想像を絶する深刻な家庭崩壊、親戚関係断絶等の例が激増している。 また、小さな子ども連れの主婦の場合、子どもと一緒に戸別訪問をする。集会へ出席する時も子どもと一緒で、2時間の間、子どもは大人と一緒の席でおとなしく座って話を聞かなければいけない。
- 集会に参加するかどうかは子供の自由です。
※既成キリスト教の教会では、母子室があり、子どもの立場に立った時、子どもにストレスをためさせないよう工夫をしている。尚且つ、子供向けの教会学校(教会により受け入れる年齢は違う)があり、歳相応の聖書の話や礼拝ができるよう、子どもに対して配慮をしている。
- これはエホバの証人の信条とは何も関係ない!
- 総務省の発表によれば30%以上が日本の家庭の離婚率です。信者の家庭崩壊を主張するならそれなりの根拠を示すべきでしょう。エホバの離婚率は世間の常識からすると壊滅的に少ないことは、信者から離反して人さえ認めるところですね。5%に満たないはずです。エホバの証人の家庭に生じる問題が一般とどう違うのかという点が必要でしょう。2005年12月9日
- エホバの証人は淫行や聖書活道の著しい妨害(霊的淫行)以外の理由での離婚は認めていません。(マタイ19:9)原則離婚はしない、というのが信条です。(マラキ2:16)61.22.157.95 2005年12月21日 (水) 01:02 (UTC)
Redcrimsoncrossと言います。 「集会」への参加は子供の自由という方がおられますが、あえてこういう表現を使いますが、 妄信的な既婚女性がエホバの証人には多いように思います(家庭を子供を連れて回るおばさんが多いように)。 そのような女性は「行った方がよいのか悪いのかも判断できない児童、幼児」にも集会への参加を「あなたのためなのだから・救われるのだから」と促し、 それが配偶者との指導方針の対立や、判断能力のないまま集会などへの参加を余儀なくされている子ども自身にとって問題となっていることが 非常に多いように思います。 :それはその「妄信的な」女性に問題があるのであって、エホバの証人がそう教えているわけではありません。61.22.157.95 2005年12月21日 (水) 01:02 (UTC)
>信者の家庭崩壊を主張するならそれなりの根拠を示すべきでしょう とおっしゃる方がいらっしゃいますが、根拠も何も、実際家を巡回訪問・奉仕活動に来る子連れの団体を見れば自明です。 「子どもの自由」なんて記述がありますが、子供に「これこれこういう教えがある」ということをきっちり教えて、 そのうえで「集会に来るか、来ないかはあなたの自由です」なんて言う家庭は少ないように思います。
集会に参加することを強制するような教えはエホバの証人にはないでしょう。ですが「よかれと思って」参加を強制する、あるいは促す親は 相当数存在すると思います。それが離婚や家庭崩壊を招いているのはデータなどなくとも火を見るより明らかです。 今記述されている内容でさえ生ぬるい気がします。 「これはエホバの証人の信条とは何も関係ない! 」なんて、冷静さを欠いていてちょっと怖いですね。 --Redcrimsoncross 2005年12月12日 (月) 14:15 (UTC)
補足という形になりますが、まだお留守番させるには早い年齢(未就学児)やこのご時世ですから、小学生でもお留守番させるには心配です。
それは、子育て世代なら共感できると思います。
預け先がない=子どもを連れて戸別訪問しなければいけなかったり、集会に出席しなければいけなかったりする事が必然的に出てきます。
集会の間は子どもの立場に立った時、難しい話を席で聞かなければいけません。とても子どもにとっては負担になります。
既成キリスト教では、イエス・キリストが幼子を祝福するシーンが聖書の中にあり、それを根拠に本来は日本の文化ですが、七五三をしている教会もありますし、日常でも子どもを大切にしようと教会学校という子どもの時間帯があります。
私の個人的な見解ですが、61.22.157.95氏が、女性の立場を考えてあげれられたら、お子さん連れの親御さんの気持ちがもう少し楽になるかな、と思います。
--Bigkoro 2005年12月12日 (月) 23:23 (UTC)
- 子供の意思を尊重する親であったとしても、このマインドコントロールを行う組織において、エホバの証人にならなければ救われない(滅ぼされる)という教義をもつ宗教で、子供を育てればどうなるかは結果が見えています。子供が救われるためにはこの宗教の信者になるしかないから、ここの宗教教育を厳しく行うのです。この教団では脅迫的マインドコントロールのみならず、鞭といった体罰も常習化しており、例えば集会中に少しでも落ち着いていられないと(殆どの子供はそうでしょう)専用の部屋に連れて行かれ、鞭で叩かれるといった虐待行為が日常化しています(現在では集会場での体罰は行わないようになったようですが)。宗教教育に体罰が用いられるのは道義的に見ても問題があるでしょう。そう言う経緯を無視して、いきなり「本人の意思」の一点張りはどうかと思います。記事にも書かれていましたが、エホバの証人を親に持つ子供に宗教活動をしない自由は基本的にありません。何れにせよ、特に片親のみが信者の場合、こういった子育ての面からも両親が対立し、家庭崩壊が始まるのは想像に難くありません。O^tsuka 2005年12月28日 (水) 17:59 (UTC)
家庭崩壊はエホバの証人(あるいはカルト)に特有のものではなく、様々な原因(ほとんど全ての不幸なこと)で二次的に起こるものです。積極的に家庭を崩壊させるような教義、方針を持っているわけでもありません。ここで触れる必要はないと判断しコメントアウトしました。203.141.155.228 2006年1月9日 (月) 09:50 (UTC)
- エホバの証人が引き起こす問題として取り上げられるものの中でも、家庭崩壊の問題は最もメジャーな問題の一つである、という事実があります。確かにエホバの証人という宗教に、積極的に家庭を崩壊させようといった方針があるわけではありませんが、それは家庭崩壊の事実を否定する根拠にはならないでしょう。広く家庭崩壊の問題が指摘されている以上は記述すべきと思います。O^tsuka 2006年1月10日 (火) 17:18 (UTC)
- 家庭崩壊というのは感情に訴える言葉で、政治的プロパガンダや霊感商法にもよく使われる脅し文句です。その上、「風が吹けば家庭が崩壊する」式の議論も容易に出来てしまいます。客観性を保つためには、この手の言葉は慎重に扱うべきだと思います。203.141.155.228 2006年1月10日 (火) 22:48 (UTC)
○数字でわかりやすいエホバの証人の離婚率が、一般に比べて極端に低いということは信者を離反した人手さえ充分に認識していることなのに、その事実をとぼけて「家庭崩壊が信者家庭に深刻である」と、主張することが悪質なプロパガンダであるということに同意します。辞書という客観性が重んじられる場所においては慎むほうがいいと思います。世間には多くの家庭崩壊が見られますが、信者の家庭の崩壊原因が宗教上の不一致以外にあまり見られないならそれはそれで結構なことでしょう。現実に、信者同士の結婚なら離婚率はほぼゼロという事実もあります。信者の家庭における問題が宗教上の不一致のみなら、そもそも個人の宗教的良心は何にもまして尊重されるべき日本の国のルールがないがしろにされているということです。事実、問題が生じるといわれる多くの事案が、家庭における嫁や妻といった社会的弱者のに対する封建的な蔑視やその権利の軽視が夫やその両親の圧制的な態度が存在する家庭から生じることが普通です。また、最近のように女性の権利擁護が高まって生きた状況では以前のような宗教上の問題でトラブルになるケースが減じています。信者の家庭における宗教上の問題は、女性に対する権利の蔑視という問題が日本の場合その根底にあるのです。2006年1月11日 (水) 13:49
離婚率が低い=家庭崩壊していないという主張もそもそも間違いだし、離婚裁判がエホバの証人に突出して多いのは有名です。離婚しにくいのは離婚を認めていないこと、無理に離婚をしようとすればものみの塔の弁護士に莫大な慰謝料を請求されること、などによる。--匿名
結局、家庭崩壊という概念自体がWikipediaにふさわしくないのだと思います。強い印象を与える割に、定義が曖昧で数字で扱えないので、簡単にこういう水掛け論を招いてしまいます。価値観、習慣の違いによる一般社会との軋轢という文脈で、家庭内の問題にも触れていくなら、無用な対立を避けられるでしょう。203.141.155.228 2006年1月11日 (水) 09:55 (UTC)
- 家庭崩壊の問題が多く存在するのは事実ですが、表現方法には気をつけなければならないと思います。
- どのようにして家庭崩壊、あるいは家庭が分裂の危機に直面するのかについては、以下のサイトが客観的に解説してあると思いますので、お読みください。
- O^tsuka 2006年1月11日 (水) 17:26 (UTC)
- ちょっと読んでみましたが、私の結論に変わりはありません。ちょっと意地悪に考えてみましょう。
- 単にしばしば家庭崩壊の原因になるという理由なら、不倫」「破産」「病気」「災害」などのページにも「家庭崩壊の問題」という項目を設けなければ不公平です。これは現実的ではありません。
- 宗教に限定しても、ちょっと厳格な宗教ならそのサイトに書かれているような状況が起こり得ます。
- 家父長制の社会では、宗教が家庭崩壊を引き起こす心配はほとんどありません。従って、男女平等が家庭の崩壊を引き起こす、と考えることも出来ます。
- 宗教が家庭の崩壊を引き起こすという言説は、家庭は宗教より尊いという前提に立っています。これを逆転すれば、家庭のしがらみが信仰の混乱を引き起こす、という言説が成立します。その場合、「家庭」のページに子供の信仰が云々という記事が書かれることになります。
- 家庭の崩壊という概念は、特定の家庭像に依存しています。円満だが単身赴任者のいる家庭は崩壊していないが、夫婦が同居しながら鋭く対立している家庭は崩壊している、といった線引きは現代日本の常識に過ぎません。
- 詭弁のようですが、記事を書く前に色々な立場を仮定してみるのが大切だと思います。2006年1月12日 (木) 07:26 (UTC)
- 「色々な立場を仮定してみるのが大切」という意見には賛成いたします。
- 私は破壊的カルトの問題として家庭崩壊の問題を取り上げられるという見方です。破壊的カルトの定義として挙げられるのが三つの破壊、すなわち「信者本人の人格破壊」、「信者と信者の家族との間の関係破壊」、「信者と社会との関係破壊」ですが、エホバの証人の家庭崩壊(家庭内の対立/軋轢)は、この信者と信者の家族との間の関係破壊の現象として言及出来ると思います。
- もちろん、宗教の問題だけが家庭崩壊の要因ではないでしょうが、それ以外については各々の項目で個別に議論すればよいのではないでしょうか。O^tsuka 2006年1月13日 (金) 17:05 (UTC)
- 批判を一ヶ所にまとめて、その中で言及してみました。203.141.155.228 2006年1月14日 (土) 18:02 (UTC)
- 61.22.157.95さんの2005年12月21日 (水) 01:02 (UTC)でのご指摘を反映し、離婚の問題に関する記述を書き加えました。210.165.117.249 2006年1月16日 (月) 13:21 (UTC)
- 署名がおかしくなっていたので修正しました。203.141.155.228 2006年1月16日 (月) 18:32 (UTC)
「日本三大カルト教団」について
のこりの二つの教団はなんですか?「日本三大カルト教団」で検索(google)をしましたがヒットしません.「日本三大カルト」で検索すると,該当する宗教がバラバラです.原典は何なのでしょうか? 150.65.7.70 2005年11月24日 (木) 18:46 (UTC)
- 「キリスト教系」の日本三大カルト教団(異端)と言えば、エホバの証人・統一協会・モルモン教だと私は認識しております。三位一体論を認めていない、聖書以外の経典を持っている、主イエス・キリストを救い主と認めていない、などが根拠で、カトリックのローマ法王もこの三つはキリスト教ではない=異端と認めている発言をしたことがあります。--Bigkoro 2005年11月25日 (金) 06:07 (UTC)
- そりゃ検索が下手でしょう。「三大」と「異端」、あるいは「三大」と「カルト」を離して(スペース挟んで列挙して)もう一度やって、ご自分で納得してください。「日本」や「世界」も、離してなら検索語に足してもいいです。LR 2005年11月25日 (金) 10:01 (UTC)
- Wikipediaは。Bigkoro氏が個人的な見解を書くところではないはずです。61.22.157.95 2005年12月4日 (日) 06:34 (UTC)
- 「異端」と「カルト」は同義語なんですかね?「カルト」という言葉は別の人がおっしゃるように強すぎる言葉なので,せめて「異端」といった方がと思いますが.キリスト教関係者でない人間からはずいぶん語感が違うように思います.150.65.7.70 2005年12月26日 (月) 08:11 (UTC)
- そりゃ検索が下手でしょう。「三大」と「異端」、あるいは「三大」と「カルト」を離して(スペース挟んで列挙して)もう一度やって、ご自分で納得してください。「日本」や「世界」も、離してなら検索語に足してもいいです。LR 2005年11月25日 (金) 10:01 (UTC)
キリスト教系における三大カルト、ないし日本において代表的な破壊的カルト教団といったほうがより適切かもしれません・・・。-O-tsuka 2005年11月26日 (土) 12:21 (UTC)
ノートの書き込み方がよくわからずここに書きます。すいません
いまさらカルトという言葉は中立的な表現にはなじまないでしょうね。このウィキペディアでも「侮蔑的表現」となっています。気持ちはわかりますけどね。
Redcrimsoncross
そもそもエホバの証人はカルトでしょうか?まあそれはカルトというイメージが浸透しているのかもしれませんが、
「破壊的カルト教団」というのは理解できません。破壊活動を行う教団・集団ということですか?
それはさすがに言い過ぎで、エホバの証人の教義からも全く外れていると思います。--Redcrimsoncross 2005年12月12日 (月) 14:24 (UTC)
- 「破壊的カルト」とは世間で不用意かつ不正確に濫用されている「カルト」という語を比較的厳密に定義した準学術用語で、単なる「カルト」よりは中立的な概念です。そしてエホバの証人はこれに該当すると目される事が多い、というところまでは「事実」です。統一協会の記事に参考文献になっているハッサン著・浅見訳の「マインドコントロールの恐怖」という本が日本では基本文献ですので、一読をお勧めします。というか、それを読まずして語感に反発しても誰にも相手にしてもらえないと思います。LR 2005年12月12日 (月) 14:50 (UTC)
- あなたに「語感に反発して」などと言われるのは非常に心外です。自分は実体験に基づいた上で発言しているつもりです。そのうえで総合的に判断して「カルトというのはどうだろうか」と言っているのです。私のエホバの証人に対する考えはノートの離婚問題に関する発言をご覧ください。「この本を読んでいない素人が口出しするな」と言うのはどうかと思います。自分はエホバの証人の人間と様々な面で接しながら生活していた(いる)のですから。--十舞啓斗(Redcrimsoncross) 2005年12月20日 (火) 11:22 (UTC)
○やはり、破壊的とかカルトとかという主張は自説を公表するHPで主張すべきでしょうね。ちなみに日本の福音派やバプテスト派などには カトリックさえ「カルトだ」と批判しているところもあるほどです。浅見氏のかかわる宗派もそれと五十歩百歩です。だいたい辞書に カルトだの破壊的などと記載すれば、それだけで他の項目についての公平性のイメージが損なわれてしまいます。2006年1月11日 (水) 13:17
破壊的カルトという語は、否定的意味を持っているとはいえ学術的にも使われており、パージすべきではないと思います。しばしばカルトと見なされる、といった記述まで削ってしまうとすれば、重要な事実を無視することになります。他方、この言葉は相対主義、信教の自由といった建前に例外を設ける性格を持ちますから、その用法には細心の注意が必要です。断定的に「破壊的カルトである」と述べたりするのは言語道断と思います。
例えば、「これこれの特徴から破壊的カルトとされることが多い」のような形なら、網羅性と中立性を両立できるのでないかと思います。203.141.155.228 2006年1月11日 (水) 10:39 (UTC)
- 破壊的カルトされる場合が非常に多い、という点に加え、どのような点から破壊的カルトとされることが多いのか、という指摘は必要だと思います。O^tsuka 2006年1月11日 (水) 17:26 (UTC)
- 一般的な日本人の宗教へ対する無知無感覚な視点において「カルト」という言葉の持つ力は大きいです。外国の方で友人がいらっしゃる方はご意見を伺うと参考になるかと思いますが、宗派による対立・批判はごく自然にあることなので、他人の宗教まで論議する必要はないという風土もあります。三大カルトを調べる目的は解りませんが、心情の違う人同士の論争において、「カルト」と定義することは、どちらか側の意見を採用するという事になり、中立性を欠くでしょう。
エホバの証人がカルトであるかどうかは調べた本人が判断すべきことであって、百科事典では心情や教えについて述べる程度でとどめて置いた方が良いと思いますが、いかがでしょう。
ただエホバの証人は信者に要求する活動がきつすぎて フリーター以外の人生が選べないとかきくけど? そういう点はどうなのかしら? あんまりノルマがきつすぎて、なのにほとんどの信者が同意してるんなら 外から見ると洗脳みたいに見えちゃうよね?
フランス語版Wikiのセクトの項日本語訳に 信者が自分たちの子供を酷く扱うなどの教義的義務 「エホバの証人」にみられる異教祭の禁止、体罰、その他 なんてあるんだけどこのへんはどうなの?
あなたが書かれていることは、どちらかというと自説の展開と思われます。それはご自分のウェブサイトで行う方が適していると思うのですが・・・。O^tsuka 2005年12月28日 (水) 17:59 (UTC)
- (賛成) 61.22.157.95さんだけ空気が読めないと言うか、皆で協力して百科事典にしていこう、というのがウィキペディアの良い所なのに、自分の主張のみが正しいと思っているのではないでしょうか?--Bigkoro 2005年12月29日 (木) 08:30 (UTC)
輸血の項目について
輸血に関する問題は、この宗教団体の主要問題ともいえるものなので、項目を独立させて更に掘り下げてもいいかも知れないと思います。O^tsuka 2005年12月28日 (水) 17:59 (UTC)
輸血問題は、昔はかなり「異常事態」としてマスコミも注目しましたが、日本ではもともと「臓器移植否定」という一般の宗教界の流れがあるために、よほど騒ぎたい「キリスト教関係者」以外は手を出さない分野です。日本は臓器移植問題についてアメリカなどとは違う特殊環境にあるのです。なので、この点を考慮せずに「輸血問題」を騒ぐのはそういった日本の「文化」を考慮しない外国人の口車をそのまま鵜呑みにして主張していることをある意味で本人が露呈することになります。日本人は臓器や血液をエンジンパーツかオイル交換のように扱うことに本来的に拒否感を持っているのです。その上、非加熱製剤で生じた血友病エイズ問題という日本独特の要素も影響しています。低コストで使いやすかった「非加熱製剤」を利用した結果多くの血友病患者にエイズが生じました。多くの国民はそういった判断を下した病院や医師を訴えたのです。これは多くの医師にとって衝撃的なこととなりました。この事件により、医療機関は自分の判断で当たり前のように患者に輸血できるという時代ではなくなったのです。医師が「高価で使用が難しい」加熱製剤の利用も選択肢として提示していなければならないのと同じように「高コストで利用が難しい」不輸血治療も選択肢として提示しなければならない時代と今はなっています。仮に信者が不輸血で成功した治療を他の患者に輸血で治療を行い、不具合が生じた場合責任が生じかねない時代となったのです。それを「インフォームドコンセント」の原則といいます。十数年前の「輸血という当たり前の治療を拒否する」という論点は今では「JW批判活動をもっぱら行うキリスト教派関係者」だけしか利用しません。臓器移植・エイズ血友病問題・インフォームドコンセントの三点を日本における輸血問題を語る上で欠かすことは辞書を書くにはあまりに「恣意的」ないしは「古い知識による」主張といえるでしょう。2006年1月11日 (水) 14:27
違う問題を持ち込まないでください。臓器移植に抵抗感を持つ日本人は少なくありませんが、輸血への抵抗感を持つのはエホバの証人の信者くらいでしょう。輸血拒否が新奇であり、ルールが確立していなかったからこそ、マスコミで騒がれ医療関係者を悩ませたのです。インフォームドコンセントとの関係は重要ですが、臓器移植や薬害エイズとリンクすべき問題ではないと思います。203.141.155.228 2006年1月12日 (木) 07:26 (UTC)
「エホバの証人」と「信者」という言葉の違い
「辞めることの困難」の部分などをカットしました。
何ですか?「破壊的カルトであるエホバの証人においては、辞めることは大変な困難を伴う」とか、いろいろ書かれていますが、 あまり知識の無い方が書かれたのだと思いますが、大きな誤りがあります。
そもそも「エホバの証人」には「信者」というものは存在しないんです。
「聖書の勉強会」や「集会」に参加を勧められることはあるでしょう。ですが、一般の宗教団体のような、 「入会する」というシステムはエホバの証人には全くないじゃないですか。違いますか?
だから「脱会が困難」という言葉自体ムチャクチャです。
強いて言うなら、「信者」とは、「活発に奉仕活動などを行ったうえで(水につかるかたちの)バプテスマの儀式を受けて『エホバの証人』の仲間入りをした者」でしょう。 バプテスマを受けなければ「エホバの証人」とは呼ばれません。それ以外はせいぜい「聖書研究者」くらいの呼称くらいしか与えられず、「信者」「入信」「入会」という言葉が使われることはありません。
その他の記述も滅茶苦茶です。「信者を辞めた者は一切絶縁するべきであると決められている」って誰が決めたんでしょう?それ自体聖書の教えに反してる気がしますし、「エホバの証人」にしてみれば去る者に固執する必要性がないでしょう。別に信者から金を搾り取ってるわけでもないんですから。せいぜい「楽園に行けなくなる、可哀想に」くらいです。
ただ「辞めたくても辞められない状態で苦しむ信者は相当数居られるといわれる。」というのは、あるでしょう。
ただこれも、別に「脱会届」だとか「脱会します」という意志を誰かに示さなければいけない必要がないのですから、「誘ってくれる手前顔を出さなければ気まずい」というレベルの話であって、「辞める」とか「信者」という言い方は適正ではないと考えます。
家をまわる巡回訪問だとか聖書研究だとか集会だとか、辞めたければ知人から申し込まれた借金を断るくらいの気持ちで参加を辞めればいいだけです。
「現在では自然消滅という形で信者を辞めるパターンが定着しつつある。」と書いてありましたが、これが全てですよ。入信も脱会もないのですから、自然消滅する人はする、ダラダラ続ける人は続ける。
そのなかで書かれていたような葬儀がどうのこうのという問題が発生することはあると思います。それは「辞めることの困難」とは別です。
「高校に行くことを推奨していない」なんて記述もありますが、エホバの証人がため高校に進学しない関係者がどれだけいるのでしょうか?
「辞めることの困難」の記事は、61.22.157.95さんの一連の編集により削除された記事を加筆して復活させたものです。
全体的にみて、あなたの仰っていることはエホバの証人に対する不理解によるものだと思いました。 記事からリンクしている外部サイトや関連書籍をお読みになればご理解いただけると思います。 信者という言葉の問題についても、単なる言葉遊びのように思えます。教団内では「信者と非信者(或いは未信者)」という区別を設けていることは有名な事実であり、協会の出版物にも登場する単語ですので、記事に書く上で問題にする必要はないと考えます。
「辞めることの困難」、「教育を受ける機会の喪失」の記事はいずれも事実に合致した内容のものであり、改訂の余地はありますが削除するべき理由は見当たりませんでした。O^tsuka 2006年1月4日 (水) 17:06 (UTC)
「辞めることの困難」については、既成宗教でも頻繁に見られる現象であり、その制裁も危害を加えるような形ではないため、殊更言及する必要は無いと判断しコメントアウトしました。203.141.155.228 2006年1月9日 (月) 09:37 (UTC)
- エホバの証人を辞める際に生じる困難、あるいは辞めてから生じる困難については、この教団独特の問題があります(詳しくは外部サイト等をご覧ください)。これはカルト問題としては共通するものであるかもしれません。確かに物理的な攻撃を伴ったリンチ等はありませんが、精神的虐待とも言える厳しい絶交や忌避は教義として定められており、それはこの教団に関わった人間に深い傷を与える問題として確実に存在しています。このような脱会者に対する不当な処罰があるため、辞められないままに教団内で苦しんでいる人間が存在していることもまた事実です。
- 各所からこの問題が指摘されている以上、この宗教の問題として記述することは問題ないと考えます。O^tsuka 2006年1月10日 (火) 17:18 (UTC)
- 信者が教えを否定する小説を書くと大々的に死刑宣告が出る既成宗教も、本人の出自によっては改宗と同時に違う民族になってしまう既成宗教もあります。むろん、改宗、背教に対する考え方は重要ですから、教義の一つとして厳しい絶交や忌避に触れるのが良いと思います。203.141.155.228 2006年1月10日 (火) 22:48 (UTC)
- 破壊的カルトの特徴の一つに、「組織からの離脱について極度の恐怖心を与える」というものがあるようです。中立性に気をつけるなら、この点について指摘することに問題はないと思います。O^tsuka 2006年1月11日 (水) 17:26 (UTC)
既成のキリスト教会との比較
記事の中で既成キリスト教会と比較している箇所があり、それを「特定宗教の宣伝」として削除した方がいらっしゃいますが、エホバの証人もキリスト教を名乗っている以上、対比されるのは当然ではないでしょうか。 過度に既成キリスト教会の利点ばかりを強調するのは問題だとしても、削除された記事の記述が問題になるとは思えないのですが。 O^tsuka 2006年1月7日 (土) 16:52 (UTC)
- その削除の記事(既成キリスト教会との対比:2箇所)を執筆をしたのが私です。エホバの証人について調べたいと思っている方が、既成キリスト教会とどの様に違うのか、分からないと困りませんか?既成キリスト教の宣伝ではなく、読む側の立場に立って執筆したのですが、ごく一部の方が誤解されてはとても残念です。--Bigkoro 2006年1月8日 (日) 13:22 (UTC)
- 宗教の記事で他の宗教・宗派と比較する場合は、普通は近縁の宗教・宗派の間の違いを明確にすることが目的です。誰の目にもエホバの証人に特有である部分について、そのような解説を入れる必要はありません。また、エホバの証人と一般社会の間で起きている問題に、既成キリスト教会を持ち出す理由もありません。百科辞典のらしさを損なうだけと判断して削除しました。203.141.155.228 2006年1月9日 (月) 09:32 (UTC)
- 輸血拒否の問題が世間を騒がせたこともあり、キリスト教やクリスチャンというと「輸血を拒否する宗教」のことだと思っている方もいらっしゃるようです。そう言う意味でも、違いについて記述することは意味のあることだと思います。また、エホバの証人は聖書を根拠として様々な教義を打ち出しているわけですから、比較対象として既成キリスト教が挙げられるのも当然ではないかと思います。O^tsuka 2006年1月10日 (火) 17:18 (UTC)
- 認識不足でした。既成キリスト教との混同が広まっているとすれば何らかの形で比較しておく必要がありますね。203.141.155.228 2006年1月10日 (火) 22:48 (UTC)
- 私は無心論者ですが、エホバの証人の問題点を指摘した上で、「既成キリスト教の教会では・・」とことあるごとに書いてあるのは、「既成キリスト教の方が優れている」といいたいのでしょうが、無心論者の私からみれば「わが宗教がベスト」という手前味噌にすぎず、「中立的な観点」とはいえません。既成キリスト教がどう考えているか、仏教がどうしているか、イスラム教がどうしているかなど全部かけるわけもありません。こうした記述は一律に排除するべきです。
科学的根拠
感染症は病原体感染が原因ではないといった主張に対して、科学的根拠がないという記述は問題ないのではないでしょうか。 神さまの存在は科学的根拠がないといったものであれば問題でしょうが、そうではないのですし・・・。O^tsuka 2006年1月10日 (火) 17:25 (UTC)
- 香油を塗ると病気が治ると主張する世界宗教も、豚肉は不潔であると主張する世界宗教も、水銀から不死の薬を製造できると主張する民族宗教もありますが、科学的根拠が無いという但し書きを見たことはありません。
- また、ラザフォードの時代の科学の水準も考慮する必要があります。例えば、当時は「脚気菌」に効くと称する下痢止め(東洋の島国ではいまだに売られているそうです)が使われていました。203.141.155.228 2006年1月10日 (火) 22:48 (UTC)
- 豚肉は不潔であるという主張と、病原体起源説に対する非難は次元の異なる話ではないかと思います。教団は、パスツールの死後何十年も経った後でも、パスツールへの根拠のない誹謗中傷を繰り返してきました。O^tsuka 2006年1月11日 (水) 17:26 (UTC)
- うーん、次元が異なるようには思えません。新しい宗教であるぶん見掛けが異なっているだけではありませんか?パスツール云々についても、地動説や進化論に対する伝統的キリスト教の態度に比べればおとなしいものだと思います。203.141.155.228 2006年1月12日 (木) 07:26 (UTC)
- キリスト教が弾圧していた行為も正しくなかったという点は指摘されるべきですが、ものみの塔の偽医療や疑似科学はその当時からインチキであることが指摘されていました。ものみの塔が医師会等に攻撃的になったのも、医師会のいかさま治療への警告が原因とも言われています。O^tsuka 2006年1月13日 (金) 17:05 (UTC)
- 科学的根拠云々について触れなければ、これらの問題を避けることができ、また必要な知識も十分に伝えることができます。203.141.155.228 2006年1月14日 (土) 18:02 (UTC)
- 病者の塗油に警告を出さないのは、多くの場合、毒にも薬にも治療の妨げにもならないし、誰も直るなどといってませんが? 無菌室に居るような状態では、当然医師が許しませんし、無理を通すこともありません。結果的に医療妨害になり医師と対立する教義と無理やり同列としようという姿勢に作為を感じます。LR 2006年1月25日 (水) 03:22 (UTC)
- 病者の塗油にははっきり病気治しを願う意味が含まれており(昔のカトリックでは違いましたが)、従ってある立場からは偽医療になります。また、無理を通すかどうかは本人の信仰のあり方で決まることです。医療妨害に関しても、今や宗教と無関係に「積極的な治療の拒否」が市民権を得てしまったので、種痘拒否やら輸血拒否やらもそれなりに尊重するか、逆に患者を無条件に治療する時代に戻せという立場でなければダブルスタンダードです。203.141.155.228 2006年1月28日 (土) 01:47 (UTC)
- 宗教の教義に科学的根拠が求められているわけではありませんが、偽医療や疑似科学については指摘されるべきでしょう。この点を指摘しないことは逆に中立的な観点に反することになると思います。この点で「科学的根拠云々」以外でよい指摘方法があればお願いします。O^tsuka 2006年1月15日 (日) 16:40 (UTC)
- 半世紀前の主張に対して偽医療だの疑似科学だの書くことは、中傷と受け止められても仕方無いと思います。「逆に中立的な観点に反する」という点はちょっと理解できません。最大限譲歩しても、「医師などからは、このような主張は非科学的であるとの非難を浴びていた」です。203.141.155.228 2006年1月16日 (月) 13:21 (UTC)
- 対象が古いとはいえ、偽医療や疑似科学であったという指摘は事実であって、まして中傷に当たるというのは理解できません。ものみの塔が「人命を救ったこともなければ、天然痘を防いだこともない」と述べ禁止していた種痘は、当時から各国の法律で義務付けられていましたし、日本においても1909年には種痘を義務付ける法律が制定され、9割近い接種を達成していたようです。ものみの塔が種痘を批判し禁止したのは、それよりかなり後になってからのことです。また、非科学的な主張であったこと(当時の科学レベルでも十分に)を書かないことは中立的な観点に反すると思います。表現方法には気をつけるべきですが。O^tsuka 2006年1月17日 (火) 17:01 (UTC)
- 生きている人物に関する記事で「祖父は詐欺師であった」と書いたら、たとえ事実でも中傷にあたります。
- 科学そのものを信頼しない人々の主張に対して「非科学的だ」と書くのは、中傷であるだけでなく的外れです。
- 米国はいまだに創造論が大きな影響力を持つ国であり、科学の地位は現代日本と異なります。
- どうやら「中立的な観点」の定義がお互いで一致していないようです。各論の前に、まずはそこを一致させましょう。
- 「中傷」という言葉は、「ありもしないことをわざと言い立て、名誉を傷つける」という意味のようですが。
- 何がどのように中立的な観点に反するのでしょうか。中立的な観点に「事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな」とありますが、これに照らし合わせて問題があるとは思えないのですが。エホバの証人は科学そのものを信頼しない集団ではありませんし、何百万人という信者を指揮する立場の教団と、「ある人物の祖父」とを同列に語ることに意味があるとも思えません。創造論に関しては、完全に文化的な問題であって、この問題とは関係ないでしょう。当時米国でも種痘を義務付ける法律はあったわけです(証人たちが種痘を受けたことにするため医師に嘘の証明書を書いてもらった、などの話は有名です)。O^tsuka 2006年1月18日 (水) 17:57 (UTC)
はじめに、外掘から埋めようとして焦点をぼかしてしまったことをお詫びします。仕切り直しということで、単刀直入に述べます。
「〜に科学的根拠が無い」という言葉は、形式的には根拠が科学以外にある可能性を残していますが、事実上「〜は誤りである」という意味を含みます。特に、具体的な反駁を伴わない形で使われるのは、大抵非難の文脈においてです。中立性を重んずる場所でこのような言葉を使う場合、相応の理由が必要です。
ところが、対象になっているのは宗教団体の主張であり、しかも半世紀以上前のものです。宗教の主張は、最も外から口を挟むべきでないものの一つであり、特に伝統宗教なら健康被害などを出してもなかなか非難されません。また、あくまで過去の主張ですから、科学的根拠が無いなどと述べる切迫した必要性もありません。従って、単に歴史の一ページとして過去の主張を紹介して、特に評価(あるいは評価と受け取られやすいもの)を差し挟まないのが望ましいと考えられるのです。203.141.155.228 2006年1月19日 (木) 10:32 (UTC)
- 主張に科学的根拠がなかった、という記述は、Wikipediaの中立的な観点に反するものではないと思います。客観的事実なのですから、これを記述しない理由はありません。宗教団体の主張は疑似科学であってもその記述が出来ないとか、事態が切迫していないと記述できない、といった方針はないはずです。
- 単に宗教の教義のみであれば、口を挟むなということも理解できますが(但し反社会的な教義で批判が多い等の場合は、その点についての記述は不可欠でしょう)、教団が科学的内容の伴った疑似科学的な言説を繰り返してきて、また種痘拒否等によって多くの死傷者を出した以上は、この点を記述しないと重要な情報を欠くことになると思います。この問題は、より最近の臓器移植拒否や輸血拒否の問題と繋がってくる点でもあります。O^tsuka 2006年1月19日 (木) 16:54 (UTC)
- 「科学的根拠が無かった」というのは、「水は100度で沸騰する」とか「種痘拒否などを実践した者に死傷者が出た」と同じ種類の「客観的事実」でしょうか。日本の言語習慣からして、むしろ「教団の主張は誤りである」という意見の表明に近い、というのが私の主張の根幹です。箇条書された主張が通常の意味での科学と異なっていることは誰の目にも明らかであり、わざわざ科学的根拠が無かったなどと述べることで記事に反教団の色を付ける必要はありません。203.141.155.228 2006年1月19日 (木) 23:55 (UTC)
- 「科学的根拠がなかった」というのは客観的事実です、間違いなく。また、私は個人的にはエホバの証人に批判的な立場に立っています。でも、私は、宗教的主張に対して科学的裏づけを暗に要求するようなその記述には違和感があり、その一文を無条件に載せることには反対します。「科学的論説らしきものを捏造してまで主張した」など、宗教の領分を踏み越えた主張を繰り返す事について述べているのだと文脈上誤解のない形でなら、好きなだけ批判してやってください。LR 2006年1月20日 (金) 02:19 (UTC)
- 「宗教的主張」と「宗教団体の主張」は似て非なるもので、宗教団体であっても疑似科学的な主張をする例はいくらでもあるかと思います。ご指摘の通り、記述では「疑似科学的」な主張であったことを強調する必要がありそうです。O^tsuka 2006年1月21日 (土) 16:15 (UTC)
- まず、「宗教的主張」と「宗教団体の主張」の差はかなり形式的なものです。これらは教学のような活動でようやく区別される性格のもので、しかも宗教自身にとっての重要性を必ずしも反映しません。また、科学への言及が宗教の領分を踏み越えているというのも偏見です。歴史的に見れば、宗教はしばしば「全ての知識」を扱い、固有の理論と技術を作り上げてきました。医学などに深く踏み込むことも(そして死人を出すことも)決して珍しいことではありません。現代であれば、独自の思考法で科学と接触し、一般的な科学と異なる結論を出したりします。いずれにしても、宗教は決して神仏と倫理だけを語るものではなく、公平であるためには「何でもあり」という態度を取らねばならないのです。203.141.155.228 2006年1月21日 (土) 22:57 (UTC)
では、どのような表現にすると良いでしょうか・・・。私は疑似科学的な主張であったことを強調することで、客観的事実だけを述べ、中立的な観点にも合致した記述が出来ると思うのですが、この点、他の方のご意見も伺ってみたいです・・・。O^tsuka 2006年1月24日 (火) 16:53 (UTC)
- 「なんでもあり」なら、それは記述されるべきですね。また、宗教団体内部での重要性など一切関係ありません。もちろん宗教学的な判定は「外部が」するのが「中立」です。極論な例として「本人の承諾の元、悪霊にダメージを与える聖なる棍棒(?)で悪霊憑き(?)を滅多打ちにしたら悪霊も離れた(?)が信者も結果的に死亡した」なんて事件がおきたら、ハテナを全部無視して「棍棒で滅多打ちにして撲殺した」とみなされ悪霊祓い師の無罪はありえませんよ。科学は司法根拠になり、宗教はなりませんのでね。LR 2006年1月25日 (水) 03:22 (UTC)
- まず、「外部が」する判断が「中立」、というのはWikipediaでは二重の意味で間違っています。一つには、外部からの判断は一般的には「客観的な事実」を決める方法として使われていますが、これはWikipediaの事実の定義とは異なります。「深刻な争いが無い」命題がここでいう事実であり、LRさんの例でいえば悪霊祓い師の言い分も尊重しなければなりません。二つ目は、事実だけを書いているからといって中立的とは限らないということです。「どのような特定の観点も全く表明しない(暗に示したり、読者を信じ込ませようとしたりもしない)」というのが中立性です。DHMOの記事を読めばその意味が分かるはずです。このように考えると、わざわざ疑似科学的であるなどと書けば、既成キリスト教やオウム真理教(現在の版)の記事に対し均衡を欠くという判断が出来るはずです。203.141.155.228 2006年1月26日 (木) 15:59 (UTC)
- ここまで議論してなお、どのような点でWikipediaの中立的な観点に反するのかが不明確なままですね。疑似科学的であるという記述は、宗教的なものとの混同を避けるという意味でいい表現だと思ったのですが、全くそのようなことを書くなということであれば、逆に特定の立場に寄与するものになってしまい、中立的な観点に反するという可能性もあります。(宗教的な主張や言い分を)尊重することと事実を書かないことは全く違うことです。
- Wikipedia:中立的な観点#偏った意見を削除して良いかには
- われわれの多くは、ある記述が偏った見方から書かれているという事実だけでは、その記述を即削除してしまう理由としては不十分だと考えます。もしもその記述が完全に妥当な情報を含んでいるなら、それを活かすべく編集されるべきで、削除されるべきではありません。
- とあります。O^tsuka 2006年1月26日 (木) 17:14 (UTC)
- 宗教的なものとの混同を避けるという意味が分かりません。「宗教的な主張」と「宗教団体の主張」の区別が恣意的であることは既に指摘しました。また、一般的な科学と異なる主張であることは自明なので、疑似科学的であるという記述に情報としての価値は乏しく、単なる事実上の批判になってしまうと思います。医師会などとの対立があった、という記述であれば有意義だと思います(互いに批判し合っているので「医師会などからの批判」より「対立」が望ましい)。203.141.155.228 2006年1月28日 (土) 01:47 (UTC)
- LRさんO^tsukaさん大変ですね。
私セクトの項を出したものですけど。 こういう人種と話をしていると頭が痛くなってきませんか? どう考えても難しい理屈に持ち込むまでもなく エホバの証人が種痘を拒否させたから死人がでたというのは 客観的事実で意見には見えないのですが。 こういう話を書くのは中立的な科学雑誌や科学番組に近いとおもいますよ。 それと中傷といっても公的な大きな団体に関する 話や社会的に意味がある話ならば事実に基づいた 誹謗中傷であっても普通は名誉毀損の対象にすらなりません。 だから大丈夫だと思いますが? --210.147.40.241 2006年1月28日 (土) 21:37 (UTC)
中立的な観点とは何か
現在の版は、かなりエホバの証人に批判的な書き方になっています。まず、次のことを押さえてください。
- Wikipediaで言う中立性とは、客観性を意味しません。
- Wikipediaのポリシーは、疑似科学、差別主義などにも一定の敬意を持って記事を書くことを要求します。
- 誰もが事実と認める事柄でも、その組合せできわめて偏向した表現になることがあります(例:DHMO)。
- 「エホバの証人」のページは、「エホバの証人と既成キリスト教の比較」のページではありません。
このような視点から、例えば次のような記述は問題があると思います。
- 「〜であるとの反エホバの証人側の意見がある」のように「批判の存在」を至るところに書くのは、事実上反エホバの証人の立場に与することになります。
- 「既成キリスト教会では〜」という記述も同様の問題があるだけでなく、既成キリスト教会を持ち上げることになります。聖書の言葉を長々と引用する場合は特にそうです。
- 「〜の問題」という記述は、「〜」を問題であると捉え、さらに「〜」の責をエホバの証人に負わせる書き方です。
- 子供を鞭で叩くことは、定義から明らかに体罰ですが、虐待かどうかは教育観に依存します。(性的虐待については、教団も当然重罪とみなすでしょうから、虐待と書くことに問題はありません。)
- エホバの証人#フェアでない勧誘方法と、マインドコントロールの存在の部分は、広く報道されているような内容ではありますが、教団は否定するか、正当な勧誘方法であると主張するでしょう。
そのあたりを直そうというのがこの版なのですが、批判をまとめた部分以外ほとんどrevertされてしまいましたね・・・203.141.155.228 2006年1月16日 (月) 13:21 (UTC)
- 意見の存在や出所を示すことがどうしてそれに与することになるのか、理解できません。仮にもしそうであっても、それならば逆にwikipediaに項目が立つこと自体がその団体や事柄や意見を肯定する事になりますから、同量の反対意見の併記なしには中立な記述は不可能、という結論が導かれて、貴方の具体的意見は却って不正なものになります。LR 2006年1月24日 (火) 03:05 (UTC)
Wikipediaは「宗教なんでも百科」ではなく、特定の思想を宣伝する場でもなければ批判する場でもありません。宗教・思想に関わる記事は否定派と肯定派の応酬になることが多いようですが、どうにかならないものでしょうか。現状は既成キリスト教からの視点が色濃く反映されており、汎神論者(私のこと)の立場から見ても、中立性が許容する範囲を逸脱しているように思えます。ハイゼン 2006年1月24日 (火) 02:09 (UTC)
- では、どこが問題なのか具体的な各論を批判なさってください。印象批判では、記事の改善には全く訳には立ちません。私からはむしろ、いわゆる「正統」な既成キリスト教からの教理的な「異端視」は慎重に抑制され、宗教観に拠らない社会的な振る舞いについて多くを裂いた、宗教的中立には十分配慮された記述であると評価できますが、自分に偏向や見落としがないとは申しませんので。LR 2006年1月24日 (火) 03:05 (UTC)
- 確かに、保護中の版については思想宣伝と受け取れる部分はありませんね(既成キリスト教を引き合いに出しているのは「母子室」のみ)。あt、「宗教何でも百科」の感覚で書くこと自体は問題ないかと思います。203.141.155.228 2006年1月26日 (木) 15:59 (UTC)
- 現在の版は不当に内容が削られている部分もあると思うので、基本的には二つ前の版[1]の記述に戻すべきだと思います。既成キリスト教からの視点の強さが問題だとすれば、「既成キリスト教からの批判」といった項目を新たに設け、そこでまとめて既成キリスト教からの視点を言及することで、中立性を保つことが出来ると思います。O^tsuka 2006年1月27日 (金) 16:38 (UTC)
- 特定の宗教からの批判という形だと宗教対立を煽るような形になりますので、「既成キリスト教との主な相違」でしょうね。203.141.155.228 2006年1月28日 (土) 01:47 (UTC)
アーカイブ化
かなりノートページが長くなっていたので、とりあえず目次までの部分を除きました。アーカイブにするのは初めてで、手順等を間違っているかもしれないので、気付かれた方は直して頂けるとうれしいです。O^tsuka 2006年1月15日 (日) 16:40 (UTC)
目次より後の部分も長すぎるので、思い切って節単位でアーカイブに移してしまいました。ついでに、アーカイブへのリンクを独立させて(ノート:エホバの証人/archives)、includeする形にしてみました。203.141.155.228 2006年1月16日 (月) 11:37 (UTC)
- ありがとうございます。すっきりしました。O^tsuka 2006年1月17日 (火) 17:01 (UTC)
エホバの証人への批判
- 中立的な記述になるように、表現をいくつか訂正しました。間違い等ありましたら、ご指摘のうえ訂正ください。教団に批判的な方も庇護される方も、中立的な見地による記述を心がけましょう。ここは意見ではなく、事実を書く場所です。210.165.117.249 2006年1月16日 (月) 17:34 (UTC)
- 署名がおかしくなっていたので修正しました。203.141.155.228 2006年1月16日 (月) 18:32 (UTC)
- 署名は半角チルダ4つ~~~~です。O^tsuka 2006年1月17日 (火) 17:01 (UTC)