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[[ファイル:Lucca AussichtAufStadt Turm PalazzoGuinigi.jpg|right|left|200px|thumb|ルッカの街並]]
[[ファイル:Lucca AussichtAufStadt Turm PalazzoGuinigi.jpg|right|left|200px|thumb|ルッカの街並。グイニージの塔より。]]
[[ファイル:01073017Lucca.jpg|right|left|200px|thumb|ルッカの城壁]]
<!--[[ファイル:01073017Lucca.jpg|right|left|200px|thumb|ルッカの城壁]]--><!--これは「城壁」節へ移動-->
{{Commons|Lucca}}


'''ルッカ''' ('''Lucca''') は、人口82,245人の[[イタリア|イタリア共和国]][[トスカーナ州]][[ルッカ県]]の[[コムーネ]]の一つで、ルッカ県の[[イタリア共和国の県|県都]]である。
'''ルッカ''' ('''Lucca''') は、人口82,245人の[[イタリア|イタリア共和国]][[トスカーナ州]][[ルッカ県]]の[[コムーネ]]の一つで、ルッカ県の[[イタリア共和国の県|県都]]である。


[[トスカ]]等で知られる19世紀の[[作曲家]][[ジャコモ・プッチーニ]]の生誕地でもあり、旧市街にあるプッチーニの生家は、現在では[[プッチーニ博物館]]となっている。
[[トスカ]]等で知られる19世紀の[[作曲家]][[ジャコモ・プッチーニ]]の生誕地でもあり、旧市街にあるプッチーニの生家は、現在では[[#プッチーニ博物館|プッチーニ博物館]]となっている。

周囲4キロメートルあまりを城壁で囲まれた城塞都市である。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
ルッカは[[エトルリア人]]が開いた街であったが、[[古代ローマ]]によるイタリア統一の過程の中でルッカも[[紀元前180年]]頃にローマ人が住民多数を占めまでになったとされ。[[共和政ローマ]]期に[[三頭政治|第一回三頭政治]]を組んでいた[[グナエウス・ポンペイウス]]、[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]び[[マルクス・リキニウス・クラッスス]]の3者が[[紀元前56年]]に「[[ルッカ会談]]」を開いた場所として知られている。
ルッカは[[エトルリア人]]が開いた街であった<ref>{{Harvtxt|池田|2009|p=102}}</ref>が、[[古代ローマ]]によるイタリア統一の過程の中で[[紀元前180年]]頃にローマの植民都市、<ref>{{Harvtxt|黒田|1999|p=300}}.177年とす説もある。</ref>、[[紀元前90年]][[ムニキピウム|自治都市]]とる<ref>{{Harvtxt|黒田|1999|p=305}}.紀元前89年する説もある。</ref>。後述する円形闘技場も1世紀末に建設された<ref name="kuroda1999_p301">{{Harvtxt|黒田|1999|p=301}}</ref>。[[共和政ローマ]]期に[[三頭政治|第一回三頭政治]]を組んでいた[[グナエウス・ポンペイウス]]、[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]および[[マルクス・リキニウス・クラッスス]]の3者が[[紀元前56年]]<ref>{{citeweb |url=http://www.luccabedandbreakfast.com/japanese/centre-historique-lucca-chambre.html |title=歴史 |publisher=Bed & Breakfast Lucca |accessdate=2013-06-08}}</ref>に「[[ルッカ会談]]」を開いた場所として知られている<ref>{{Harvtxt|田中|1908|p=66}}.「ポンペイ」とあるのがポンペイウス、「クラッサス」とあるのがクラッスス。</ref>


[[西ローマ帝国]]を消滅させた[[オドアケル]]や[[東ゴート]]の攻略を受け<ref name="ikeda2009_p104">{{Harvtxt|池田|2009|p=104}}</ref>、[[553年]]には[[ナルセス]]率いる[[東ローマ帝国]]軍に再征服される<ref name="ikeda2009_p104" />など多難な歴史があったものの、ルッカは都市及び要塞として重要な役割を担った<ref>{{Harvtxt|ヴォルフガング・ブラウンフェルス|1986|p=53}}.6世紀初頭以降、12世紀のピサに抜かれるまではトスカーナ第一の都市であった。</ref>。7-8世紀にはランゴバルドの支配を受け<ref name="ikeda2009_p104" />、10-11世紀には[[神聖ローマ帝国]]の[[トスカーナの支配者一覧#トスカーナ辺境伯(または伯爵)812-1197|トスカーナ辺境伯]]領の首都となっが、1115年に最後の領主[[マティルデ・ディ・カノッサ]]が没する<ref name="ikeda2009_p105">{{Harvtxt|池田|2009|p=105}}</ref>と、都市代表権は1120年には市民に移り<ref>{{Harvtxt|ヴォルフガング・ブラウンフェルス|1986|p=55}}.それまではルッカ司教に代表権があったという。</ref>、以降は[[自治都市]]として<ref name="ikeda2009_p105" />また、イタリアでは珍しい「市民が優勢をかちえた都市<ref name="W1986_p177">{{Harvtxt|ヴォルフガング・ブラウンフェルス|1986|p=177}}</ref>」として自主独立の道を歩んでいった。とはいえ複数の[[僭主]]による支配も一時期経験している(後述[[#14世紀]]-参照)。
[[西ローマ帝国]]を消滅させて初のイタリア王となった[[オドアケル]]の略奪を受け、[[553年]]には[[ナルセス]]率いる[[東ローマ帝国]]軍に包囲される等、ルッカは都市及び要塞として重要な役割を担った。[[11世紀]]には[[コンスタンティノポリス]]と並ぶ絹の交易地として繁栄を謳歌した。[[14世紀]]は[[カストルッチョ・カストラカーニ]]が支配し、カストラカーニが死去するまで[[フィレンツェ共和国]]と並ぶ勢力を誇った。[[15世紀]]からは周辺の有力諸侯の支配を受けた時期もあったが、フィレンツェや[[ジェノヴァ]]と共に独立を維持した。


[[11世紀]]以降は[[コンスタンティノポリス]]と並ぶ<!--これは?とりあえず残しておく。コンタンチノープルはシルクロードがあるから強いのは分かる。「並ぶ」については疑問あり。-->[[絹]]の生産<ref name="aruki2012">{{Citation|和書 |author=地球の歩き方編集室 |year=2012 |title=地球の歩き方 A12 (フィレンツェとトスカーナ) |publisher=[[ダイヤモンド社]] |pages=203-215 |ISBN=978-4-478-04253-3}}</ref>・交易地として繁栄を謳歌した<ref name="ikeda2009_p104" /><ref name="W1986_p55">{{Harvtxt|ヴォルフガング・ブラウンフェルス|1986|p=55}}</ref>。<!--[[14世紀]]は--><!--功績っぽくなっているので書き換える。市民にとってはいい迷惑だったらしい。とはいえ、フィレンツェ戦の功績(ただし莫大な戦費を消費)も出典があれば追加したほうが--><!--[[カストルッチョ・カストラカーニ]]が支配し、カストラカーニが死去するまで[[フィレンツェ共和国]]と並ぶ勢力を誇った。[[15世紀]]からは周辺の有力諸侯の支配を受けた時期もあったが、フィレンツェや[[ジェノヴァ]]と共に独立を維持した。-->
[[19世紀]]、[[ナポレオン・ボナパルト]]がヨーロッパの覇権を握っていた時代にナポレオンの妹[[エリザ・ボナパルト]]はルッカ一帯を支配する「ルッカ=ピオンビーノ大公妃」となり、[[1809年]]には[[トスカーナ大公国]]の女大公に封じられたが、ナポレオン没落後にエリザも地位を失った。[[1815年]]の[[ウィーン会議]]で[[ルッカ公国]]となったが、[[1847年]]にトスカーナ大公国に再編された。[[イタリア統一運動]]における住民投票で[[1861年]]に成立した[[イタリア王国]]に組込まれることとなった。

{{Anchors|14世紀}}[[14世紀]]には1314年から1369年にかけて、先述したように幾人かの僭主によって支配された<ref name="W1986_p55" />。なかでも1316年から1328年までルッカを支配した、傭兵出身<ref name="W1986_p177" />の{{仮リンク|カストルッチョ・カストラカーニ|en|Castruccio Castracani}}は、城壁内の4分の1にあたる土地を[[地上げ]]して巨大な城砦をつくるなどしたが、彼の死後に起こった市民による[[暴動]]の結果、跡形もなく破壊されてしまった<ref name="W1986_p55" />。ただし、支配していた時期は政治的には安定していたともされている<ref name="miyagi2008a_pre">{{Harvtxt|宮城|2008a|loc=導入部。}}</ref>。また、その後も[[フィレンツェ共和国]]との抗争、[[ピサ]]による圧力などが続き一時弱体化はしたが、やはり絹織物の交易という強みがあったおかげで復興し<ref name="W1986_p55" /><ref>{{Harvtxt|橘川|1990|p=78}}によれば金融業も。</ref>、以降は[[ナポレオン・ボナパルト]]による支配まで独立を保った<ref>{{Harvtxt|ヴォルフガング・ブラウンフェルス|1986|pp=41-42}}.イタリアでは13世紀以降、大都市が小都市を併呑する流れがあったが、中部ではフィレンツェとルッカのみが残った。</ref>。ちなみに[[ルッカ共和国]]となったのは1370年で、その前年1369年に[[カール4世]]へ貢物をし自由を買い取ったという<ref>{{Harvtxt|橘川|1990|p=78}}</ref>。

{{Anchors|15世紀}}また、1400年から約30年続いた{{仮リンク|パオロ・グイニージ|en|Paolo Guinigi}}による統治時代も、[[#グイニージ通り|グイニージ通り]]、[[#グイニージ邸|グイニージ邸]]そして[[#グイニージの塔|グイニージの塔]]など、現在もその一族の名を残す影響があった点で<ref>{{Harvtxt|宮城|2008a|loc=「グイニージ邸(国立博物館)」節。}}</ref>、またその統治が安定していたということも特筆される<ref name="miyagi2008a_pre" /><ref>{{cite web|last=Ragone|first=F.|title=Guinigi, Paolo|url=http://www.treccani.it/enciclopedia/paolo-guinigi_(Dizionario-Biografico)/|work=Dizionario Biografico degli Italiani|publisher=[[Enciclopedia Italiana]]|accessdate=2013-06-08}}.彼もまた死後の扱いはひどいものであったが、19世紀末ごろから評価を見直す動きがでてきたという。</ref> 。

[[19世紀]]、ナポレオン・ボナパルトがヨーロッパの覇権を握っていた時代にナポレオンの妹[[エリザ・ボナパルト]]はルッカ一帯を支配する「ルッカ=ピオンビーノ大公妃」となり、[[1809年]]には[[トスカーナ大公国]]の女大公に封じられたが、ナポレオン没落後にエリザも地位を失った。[[1815年]]の[[ウィーン会議]]で[[ルッカ公国]]となったが、[[1847年]]にトスカーナ大公国に再編された。[[イタリア統一運動]]における住民投票で[[1861年]]に成立した[[イタリア王国]]に組込まれることとなった。

このようなルッカの歴史は、「イタリア統一まで独立を保ちえた」と評されている<ref name="W1986_p52">{{Harvtxt|ヴォルフガング・ブラウンフェルス|1986|p=52}}</ref>。また、現在でもルッカ県の県都としてルッカは健在である。

=== 版図の変遷 ===
<gallery>
File:Italy and Illyria 1084 v2.svg |1084年。トスカーナ辺境伯領の一部。
File:Italy 1494 v2.png |1494年。{{legend|#d4c6ac|Republic of Lucca-ルッカ共和国|border=1px solid #000}}
ファイル:Italy 1796.png |1796年。{{legend|#d4c6ac|Republic of Lucca-ルッカ共和国|border=1px solid #000}}
File:Italy c 1810.png |1810年。"French Empire"の中ほどに孤立しているさま。
</gallery>


== 街並 ==
== 街並 ==
*旧市街は[[16世紀]]から[[17世紀]]にかけて建てられた城壁で囲まれており、美しい街並を今に残している。[[ロマネスク建築]]様式の[[バリカ]]形式で建築された[[ルッカのドゥオモ]]([[:en:Lucca Cathedral|en]])が一番の観光スポットとなり、他にも[[サン・ミケーレ・イン・フォロ教会]]など、中世の建物が見どころである。また、[[14世紀]]に建てられた[[グイニージ通り]]にある「[[グイニージの塔]]」は、ルッカのや周辺を眺められる恰好の展望台となっている。
旧市街は、紀元前2世紀に起源を遡り[[16世紀]]から[[17世紀]]にかけて整備された城壁で囲まれ街並を今に残している<ref name="W1986_p53">{{Harvtxt|ヴォルフガング・ブラウンフェルス|1986|p=53}}</ref>(幾度か拡張工事が行われている。詳細は[[#城壁|後述の「城壁」節を参照]])。[[ロマネスク建築|ロマネスク]]様式の[[バリカ]]形式で建築されたルッカ大聖堂([[:en:Lucca Cathedral]])など、中世の建物が見どころである([[#聖堂|後述の「聖堂」節を参照]])。また、[[14世紀]]に建てられた[[#グイニージ通り|グイニージ通り]]近くの「[[#グイニージの塔|グイニージの塔]]」は、ルッカの並や周辺を眺められる恰好の展望台となっている<ref name="OTOA">{{citeweb|url=http://www.otoa.com/support/country_ns_detail.php?area=I&country=IT&ns=1&code=22027 |title=イタリア / プッチーニ生誕の地「ルッカ」 |publisher=社団法人[[日本海外ツアーオペレーター協会]] |accessdate=2013-06-08}}</ref>
*かつての城壁は、現在では緑の多い4キロにわたる遊歩道となっており、散歩やサイクリングを楽しめる市民の憩いの場となっている。レンタル[[自転車]]屋もある
現在も残る城壁の上部は、緑の多い4.2キロメートルにわたる遊歩道となっており、散歩やサイクリングを楽しめる市民の憩いの場となっている<ref name="aruki2012" /><ref name="OTOA" />。レンタル[[自転車]]屋もある<ref>{{citeweb
|url=http://www.amoitalia.com/lucca/cycle_rental.html
|title=レンタサイクルで城壁をぐるっと一周
|publisher=AMO ITALIA
|accessdate=2013-06-08
}}
</ref>。また、ローマ時代に建設された円形闘技場の遺構を利用した区画も珍しい([[#アンフィテアトロ広場|後述の「アンフィテアトロ広場」節を参照]])。

[[File:Lucca walls (1621559670).jpg|right|200px|thumb|ルッカの城壁]]
[[ファイル:01073017Lucca.jpg|left|200px|thumb|ルッカの城壁上部の遊歩道]]
=== 城壁 ===
ルッカの周囲を楕円状に囲む'''城壁'''は幾度かの改修、拡張を経て現在の姿になったが、その起源はローマの植民都市となった紀元前2世紀まで遡る<ref name="W1986_p55" />。第二市壁と呼ばれる最初の拡張工事は12世紀末からはじまり1265年に終わり、14世紀末から15世紀初頭にさらに拡張された<ref name="W1986_p55" />。第二市壁の段階で後述の[[#アンフィテアトロ広場|アンフィテアトロ広場]]や[[#サン・フレディアーノ聖堂|サン・フレディアーノ聖堂]]などの区画は壁内に取り込まれた<ref name="kuroda1999_pp302-303">{{Harvtxt|黒田|1999|pp=302-303}}</ref>。第三市壁は1504-1645年<ref name="W1986_p55" />、現在の城壁は第4世代で、19世紀に上面を緑化し遊歩道が整備された<ref name="kanko_kabe">{{Harvtxt|ルッカ観光協会|n.d.|loc=「城壁」節。}}</ref>。現在も一部が残る[[稜堡]]と砲郭は第三市壁の頃に整備されたという<ref name="W1986_p52" />。

城壁は高さは約12メートル、土台の幅は約30メートルで、東西南北にいくつか門があるが、中でも北、南および西にあるうち以下に挙げるの3つ門は彫像や[[フリーズ]]で装飾されており、「記念碑的意味」を持つという。3つの門の建設時期と方面を以下に挙げる<ref name="kanko_kabe" /><ref>原語についてはGoogleマップ、現地の看板を参照した。</ref>。
* 北面:サンタ・マリア門(Porta S.Maria) - 1593年
* 南面:サン・ピエトロ門(Porta S.Pietro) - 1566年
* 西面:サン・ドナート門(Porta S.Donato) - 1629年
他には東面のエリザ門(Porta Elisa)、西面の別の箇所にヴィットーリオ・エマヌエーレ門(Porta Vittorio Emanuele)などがある。


=== 広場 ===
本節ではルッカ城壁内のいくつかの広場について解説する。

[[File:Lucca.San Michele02.jpg.JPG |right|200px|thumb|サン・ミケーレ広場]]
==== サン・ミケーレ広場 ====
市街の中ほどに位置する'''サン・ミケーレ広場'''は、ローマ時代の公共市場(これをフォロという<ref>{{Harvtxt|宮城|2007|loc=「ルッカという町」節。}}.日本語の「フォーラム」の語源。</ref>)に起源を遡る<ref name="ikeda2009_p105" />。4方を建物に囲まれ、広場の真ん中には[[#サン・ミケーレ・イン・フォロ教会|後述するサン・ミケーレ・イン・フォロ教会]]が鎮座している。広場の南面にある建物はパラッツォ・プレトリオ(プレトリオ宮)といい、ルネサンス期の比較的簡素な建築である<ref name="W1986_p54">{{Harvtxt|ヴォルフガング・ブラウンフェルス|1986|p=54}}</ref>。パラッツォ・プレトリオは1階部分が[[ロッジア]]状になっており、そこには{{仮リンク|マッテオ・チヴィターリ|en|Matteo Civitali}}の坐像が飾られている<ref>{{Harvtxt|宮城|2008b|loc=「マッテーオ・チヴィターリ」節。}}</ref><ref>ロッジアの中央辺りにある像で、台座の北面に"A MATTEO CIVITALI"と彫られている。</ref>。

教会の南側に建っている像は{{仮リンク|フランチェスコ・ブルラマッキ|it|Francesco Burlamacchi}}像。

[[File:613LuccaPzaAnfiteatro.JPG |left|200px|thumb|アンフィテアトロ広場]]
==== アンフィテアトロ広場 ====
{{main|アンフィテアトロ広場}}
市街の北部に位置する'''アンフィテアトロ広場'''(Piazza Anfiteatro)はローマ時代の円形闘技場の遺構を再利用した広場である。周囲をアンフィテアトロ通りに囲まれた楕円形のエリアにあり、[[アリーナ]]であった広場と、その外周(観客席の部分<ref name="kuroda1997_p246">{{Harvtxt|黒田|1997|p=246}}</ref>)にある住居で構成される。なお、[[アンフィテアトロ]]は円形劇場とも訳されるが、本項では<!--主要参考文献に従い-->「円形闘技場」で統一する<ref>{{Harvtxt|黒田|1996|p=202}}."楕円形平面の公共娯楽施設"であり、"半円形平面の劇場とは区別される"。</ref>。

起源は1世紀の円形闘技場で、長い歴史の中で様々な利用形態に転用されたものの、最終的に現在は居住施設と広場になっている<ref name="kuroda1999_p301" />。古代ローマを起源に持つ都市では、円形闘技場の遺構の住居などへの転用は中世においては一般的であった<ref name="kuroda1997_p245">{{Harvtxt|黒田|1997|p=245}}</ref>が、現在において遺跡としてではなくこのような様態は珍しい<ref>{{citeweb
|url=http://sanyo-house-it.com/?eid=37
|title=アンフィテアトロ広場
|publisher=三洋ハウス
|accessdate=2013-06-08
}}</ref>。もっとも、1838年に再開発が行われるまでは広場の部分はすでに建物が建ってしまっており、アリーナの形状が跡形もなかった。この再開発で市場になったが今度は屋台などに占拠されてしまい、結局1936年、1972年の2度の移転でようやく現在のような状態になった<ref>{{Harvtxt|黒田|1999|p=302}}</ref>。

現地で楕円の有様を上空から見学するには、南南東にある[[#グイニージの塔|グイニージの塔]]の頂上から見るのがよい<ref>{{citeweb
|url=http://www.japanitalytravel.com/back/yappari_toscana/2009_12/12.html
|title=第7回 ルッカ
|work=やっぱりトスカーナ!-鈴木奈月の絵画紀行-
|publisher=JITRA
|accessdate=2013-06-08
}}
</ref>。

==== ナポレオーネ広場 ====
市街の南部に位置する'''ナポレオーネ広場'''(Piazza Napoleone)は、ルッカ公国時代にその名がつけられた広場である。広場の西面を除いた3面は樹木が植えられ、中央には彫像が立てられている。西面のヴィットリオ・ヴェネト通りを挟んだ向かいには[[ドゥカーレ宮殿]]があり、現在は庁舎になっている。

毎年7月の数日はルッカ・サマー・フェスティバル([[:it:Lucca Summer Festival]])の会場になり、通りを封鎖して舞台が設置される<ref>{{citeweb
|url=http://www.summer-festival.com/site/info
|title=Summer Festival - Info
|publisher=Lucca Summer Festival
|accessdate=2013-06-08
}}
</ref>。

=== 聖堂 ===
[[File:Església de San Michele in Foro (Lucca).JPG|right|200px|thumb|ルッカ様式のファサード(サン・ミケーレ・イン・フォロ教会)]]
ルッカには[[ロマネスク様式]]のいくつかの聖堂が現在も残っている。これら聖堂の[[縁起]]はロマネスク以前に遡るものがある<!--これは各節で述べる-->が、上述の[[#歴史|歴史]]において市民に代表権が移行した12世紀末ごろに相次いでロマネスク様式に改装されたものである。このタイミングについては、大聖堂(教会の権威)と大聖堂を除いたサン・ミケーレ・イン・フォロ教会およびサン・フレディアーノ聖堂(市民主導)の、対抗意識も反映しているとされる<ref>{{Harvtxt|ヴォルフガング・ブラウンフェルス|1986|p=55}}."世俗的重要性"という語を用いて説明している。</ref>。

{{Anchors|ルッカ様式}}後述する大聖堂とサン・ミケーレ・イン・フォロ教会はロマネスク様式の中でも特にルッカ様式と呼ばれる特徴的な[[ファサード]]をもつ。これは[[ピサ大聖堂]]のような多層の[[ギャラリー#小人ギャラリー|ギャラリー]]を持つものの、さらに象嵌や浮き彫りも付加された様式である<ref name="ikeda2009_pp105-106">{{Harvtxt|池田|2009|pp=105-106}}</ref>。材料の大理石や蛇紋岩は近郊で調達され<ref>{{Harvtxt|吉田|2000|p=224}}</ref>、このように明暗の多色を用いた理由としては視覚的効果<ref>{{Harvtxt|吉田|2000|p=225}}</ref>および装飾的効果を狙ったものと考えられている<ref>{{Harvtxt|吉田|2000|p=222}}</ref>。なお、類似の装飾は中世後期のものがトスカーナには多く現存している<ref>{{Harvtxt|吉田|2000|p=221}}</ref>。

[[File:Dome Lucques Duomo San Martino Lucca.jpg |left|200px|thumb|ルッカ大聖堂]]
==== 大聖堂 ====
'''ルッカ大聖堂'''(正式名称'''サン・マルティーノ大聖堂(cattedrale di San Martino)''')は、南城壁の近くに立地しており
<ref name="W1986_pp53-54">
{{Harvtxt|ヴォルフガング・ブラウンフェルス|1986|pp=53-54}}.図表より(注:下が北になっている)。
</ref>
、その起源は6世紀で、現在の聖堂は1070年、[[アレクサンデル2世 (ローマ教皇)|アレクサンデル2世]]の献堂による
<ref name="ikeda2009_p106">
{{Harvtxt|池田|2009|p=106}}
</ref>
。ファサードは13世紀初頭の
<ref name="ikeda2009_p108">
{{Harvtxt|池田|2009|p=108}}
</ref>
もので、[[#サン・ミケーレ・イン・フォロ教会|後述のサン・ミケーレ・イン・フォロ教会]]のそれと同じ人物グイデット・ダ・[[コモ]]による製作で[[#ルッカ様式|ルッカ様式]]を見せる<ref name="ikeda2009_p106" />。

この聖堂は[[トゥールのマルティヌス|聖マルティーノ]]の名を冠すだけに、ファサードには聖マルティーノの彫像が、また[[ポーチ]]の奥にはその生涯の場面を描いた彫刻がある<ref name="ikeda2009_p108" />。

内部には様々な名物があり、[[ティントレット]]の板絵『最後の晩餐』<ref name="kanko_mat">{{Harvtxt|ルッカ観光協会|n.d.|loc=「ルッカの街」節。}}</ref>、[[ヤコポ・デッラ・クエルチャ]]による、石棺の上に配置された『イラリア・デル・カッレットの彫像』<ref>イラリア・デル・カッレットは、[[#15世紀|先述した]]パオロ・グイニージの2番目の妻。</ref><ref name="kanko_mat" />
、[[ドメニコ・ギルランダイオ]]による『王座の聖母』
<ref>
{{Harvtxt|宮城|2007|loc=「ドゥオーモ(サン・マルティーノ教会)」節。}}
</ref>
などがあるが、1070年の献堂当時に大聖堂に収められ、中世には多くの巡礼を集めた『{{仮リンク|ヴォルト・サント|it|Volto Santo di Lucca}}(聖顔)』
<ref name="ikeda2009_p106" />
は外せない。これは[[身廊]]に建っている、マッテオ・チヴィターリ<ref>マッテオ・チヴィターリについては『[[#マテオ|関連文献]]』節参照。[[#サン・ミケーレ広場|サン・ミケーレ広場]]近くに像もある。</ref>作の礼拝堂のさらに中に安置された木彫りの[[キリストの磔刑]]像で<ref name="miya2007_a">{{Harvtxt|宮城|2007|loc=「「聖なる顔」(ヴォルト・サント)」節。}}</ref>、イエスの遺体を引き取って埋葬した[[ニコデモ]]の作といういわくつき
<ref>
{{Harvtxt|池田|2009|p=106}}.この彫像はルッカ近郊の海岸に漂着したという。
</ref>
の聖遺物
<ref name="miya2007_a" />
である(画像は[[#volto_santo|「外部リンク」節の"Una scheda sul Volto Santo"]]を参照)。

[[File:LuccaPillars.jpg |right|200px|thumb|サン・ミケーレ・イン・フォロ教会ファサードの象嵌]]
==== サン・ミケーレ・イン・フォロ教会 ====
'''サン・ミケーレ・イン・フォロ教会'''(イタリア語:Chiesa di San Michele in Foro)は、ルッカの中心にある[[#サン・ミケーレ広場|サン・ミケーレ広場]]内に立地しており<ref name="W1986_pp53-54" />、その起源は明らかでないものの、8世紀末には原型が存在していたといわれ、現在の教会は1143年に建設を開始された<ref name="ikeda2009_p105" />。ファサードは前記[[#大聖堂|大聖堂]]同様のルッカ様式であり、13世紀初頭に製作された<ref name="ikeda2009_p106" />。上部には巨大な大天使[[ミカエル]]像を戴いている。南[[翼廊]]の塔はトスカーナ風の[[ロンバルディア帯]]も見られる<ref name="ikeda2009_p105" />。

内部は簡素な[[バシリカ]]で<ref name="ikeda2009_p106" />、[[フィリッピーノ・リッピ]]による板絵『4人の聖人』、[[アンドレア・デッラ・ロッビア]]による[[釉薬]]を使った[[テラコッタ]]『慈愛の聖母』などが見学できる
<ref>
{{Harvtxt|宮城|2007|loc=「サン・ミケーレ・イン・フォーロ教会」節。}}
</ref>。

[[ジャコモ・プッチーニ]]がオルガン奏者を務めた時期もあるという
<ref>
{{citeweb
|url=http://www.enit.it/it/sediestere/asia/tokyo/territoriobrochures/category/86-brochurestokyotoscana.html?download=1835%3Atoscana-informazioni-generali
|title=トスカーナ州
|publisher=イタリア政府観光局
|format=PDF
|quote=オペラ作曲家ジャコモ・プッチーニの生誕地でもあり、生家博物館やオルガン奏者を務めたサン・ミケーレ・イン・フォロ教会
|page=4
|accessdate=2013-06-08
}}
</ref>

[[File:Basilica di San Frediano, Lucca.jpg |left|230px|thumb|サン・フレディアーノ聖堂のファサード]]
==== サン・フレディアーノ聖堂 ====
'''サン・フレディアーノ聖堂'''(イタリア語:Basilica di San Frediano)は市街北部、[[#アンフィテアトロ広場|アンフィテアトロ広場]]の近く(北西)に立地している
<ref name="W1986_pp53-54" />
。起源は6世紀末のサン・ヴィンチェンツォ聖堂(Chiesa di S.Vincenzo)であり
<ref name="kuroda1999_p301" />
、7世紀末に地元の聖人フレディアーノ([[:en:Fridianus]])に捧げられた
<ref name="ikeda2009_p109">
{{Harvtxt|池田|2009|p=109}}
</ref>
。現在の聖堂は1112年-1147年に建設され、ファサードの特徴的なモザイク画『キリストの昇天』は13世紀頃の製作である<ref name="ikeda2009_p109" />。

この聖堂と[[#アンフィテアトロ広場|アンフィテアトロ広場]]は12-13世紀の市壁拡張までは壁外にあった<ref name="kuroda1999_pp302-303" />。

建設資材は近所にあったアンフィテアトロ広場の前身、円形闘技場の部材が多く転用され<ref name="kuroda1999_p301" />、それらは内部の空間に[[円柱]]や[[柱頭]]という形で現存している<ref name="ikeda2009_p109" />。身廊南にある祭室には伝アンドレア・デッラ・ロッビア作の、釉薬を使ったテラコッタ『慈愛の聖母』が壁面上部に、その下の床には[[モーセ]]の物語の浮彫が施された円形の洗礼盤がある<ref>{{Harvtxt|宮城|2007|loc=「サン・フレディアーノ教会」節。}}</ref>。

[[File:Lucca SanPietro01.JPG |right|200px|thumb|サン・ピエトロ・ソマルディ教会のファサード]]
==== サン・ピエトロ・ソマルディ教会 ====
'''サン・ピエトロ・ソマルディ教会'''(イタリア語:Chiesa di San Pietro Somaldi)は市街北部、[[#アンフィテアトロ広場|アンフィテアトロ広場]]の近く(東)に立地している<ref name="kuroda1999_pp302-303" />。起源は8世紀といわれ
<ref name="Somaldi">
{{citeweb
|url=http://web.rete.toscana.it/Fede/luogo.jsp?identificativo=2826&lingua=italiano
|title=Chiesa di San Pietro Somaldi
|publisher=Regione Toscana
|accessdate=2013-06-08
}}
</ref>
、現在の建物の着工は12世紀で<ref name="kuroda1999_p304">{{Harvtxt|黒田|1999|p=304}}</ref>、ファサードの製作は13世紀である<ref name="Somaldi" />。この教会も建設に当っては、近所にあった円形闘技場の部材が一部で使用された<ref name="kuroda1999_p304" />。

==== その他の聖堂 ====
* サンティ・ジョヴァンニ・エ・レパラータ教会([[:it:Chiesa dei Santi Giovanni e Reparata]])
** 縁起は5世紀であり、最初の司教座が置かれた<ref name="Reparata">
{{citeweb
|url=http://web.rete.toscana.it/Fede/luogo.jsp?identificativo=2840&lingua=italiano
|title=Chiesa dei Santi Giovanni e Reparata
|publisher=Regione Toscana
|accessdate=2013-06-08
}}
</ref>。
** 現在は観光用に開放されている。
* サン・フランチェスコ教会([[:it:Chiesa di San Francesco (Lucca)]])
** 音楽家の[[ルイジ・ボッケリーニ]]と[[フランチェスコ・ジェミニアーニ]]の墓がある<ref>{{Harvtxt|宮城|2008a|loc=「ルッカと音楽家」節。}}</ref>。
* サンタ・マリア・フォリスポルタム教会([[:it:Chiesa di Santa Maria Forisportam]])
** 12世紀に創建された教会<ref>
{{citeweb
|url=http://web.rete.toscana.it/Fede/luogo.jsp?identificativo=2835&lingua=italiano
|title=Chiesa di Santa Maria Forisportam
|publisher=Regione Toscana
|accessdate=2013-06-08
}}
</ref>。

<gallery>
File:670LuccaSsGiovanniReparata.JPG |サンティ・ジョヴァンニ・エ・レパラータ教会
File:686LuccaSFrancesco.JPG |サン・フランチェスコ教会
File:Lucca-chiesa di Santa Maria Forisportam-complesso1.jpg |サンタ・マリア・フォリスポルタム教会
</gallery>

[[File:01 Lucca seen from Torre Guinigi.jpg |right|200px|thumb|グイニージの塔上部からの眺望]]
=== グイニージの塔 ===
ルッカは14世紀初頭、壁内に100を超える塔が立ち並んでいた。現在では入場可能な塔は2箇所になってしまったが、そのうちのひとつがグイニージの塔である。アンフィテアトロ広場の南南東に位置し、高さは41メートル、頂上にはなぜか[[カシ]]の木が植わっているという風変わりな塔である<ref name="kanko_tower">{{Harvtxt|ルッカ観光協会|n.d.|loc=「塔」節。}}</ref>。

右図は上部から北を向いた眺望。左側に見える鐘楼のついた建物は[[#サン・フレディアーノ聖堂|サン・フレディアーノ聖堂]]で、中ほどに見えるカーブを描いた建物群が[[#アンフィテアトロ広場|アンフィテアトロ広場]]。

この塔から東へ向かったところで交差する、南北に伸びる街路がグイニージ通りである。{{Anchors|グイニージ通り}}

== 文化 ==
ルッカは13世紀末まで(特に1150年-1270年)建築と美術で優れ、特に板絵のジャンルではフィレンツェや[[シエナ]]も及ばないといわれる程の隆盛を誇った<ref name="W1986_p53" />。

現在も市内にいくつかの美術館や博物館を備え、また文化行事も行われている。本節ではこれらを取り上げる。

=== 施設 ===
* 旧グイニージ邸、国立博物館([[:it:Museo nazionale di Villa Guinigi]]){{Anchors|グイニージ邸}}
** 市内東部に位置する。近くにはサン・フランチェスコ教会がある。
* プッチーニ博物館([[:it:Museo-casa natale di Giacomo Puccini]]){{Anchors|プッチーニ博物館}}
** [[#サン・ミケーレ広場|サン・ミケーレ広場]]から西へ程近い。1979年に開館し、一時期改装工事をしていたが2013年現在は利用可能<ref>{{citeweb
|url=http://www.puccinimuseum.org/visita.php#
|title=Puccini Museum - Visita
|publisher=Casa natale di Giacomo Puccini
|accessdate=2013-06-08
}}
</ref>。
* 大聖堂博物館(Museo della Cattedrale)
** [[#大聖堂|大聖堂]]に併設。大聖堂にある彫刻などの名物を保全するために1992年に開館した<ref>{{citeweb
|url=http://www.museocattedralelucca.it/museo_cattedrale.htm
|title=Il Museo della Cattedrale di Lucca
|publisher=Complesso Museale e Archeologico della Cattedrale di Lucca
|accessdate=2013-06-08
}}
</ref>。
* イタリア・マンガ及びイメージ美術館([[:it:Museo del fumetto e dell'immagine]])
** 2008年にオープンした市内南西部にある美術館<ref>{{citeweb
|url=http://www.museoitalianodelfumetto.it/index.php?id=22
|title=Puccini Museum - Visita
|publisher=Casa natale di Giacomo Puccini
|accessdate=2013-06-08
}}
</ref>。

[[File:Giardini porta San Pietro 01.jpg |right|200px|thumb|ルッカ・マンガ&ゲームフェステイバル2011の模様]]
=== 行事 ===
先述した[[#ナポレオーネ広場|ナポレオーネ広場]]のサマーフェスティバルの他にも様々なイベントがあり、そのうちのいくつかを紹介する。

* サンタ・クローチェ祭([[十字架挙栄祭]])([[:it:Festa della Esaltazione della Santa Croce (Lucca)]])
** 毎年9月13日から14日に行われる。[[#大聖堂|大聖堂]]のヴォルト・サントに捧げる祭り<ref name="kanko_mat" />。
* ルッカ・マンガ&ゲームフェステイバル([[:it:Lucca Comics & Games]])
** 1966年から続く[[コミケ]]的なイベントで「上映会、コンサート、講演、シンポジウム、[[コスプレ]]、作家との交流会など」が行われ、日本館も開設される<ref>{{citeweb
|url=http://mediag.jp/news/cat/post-15.html
|author=野田謙介
|title=ルッカ・マンガ&ゲームフェステイバル
|publisher=メディア芸術総合情報事務局/監修:[[文化庁]]
|accessdate=2013-06-08
}}
</ref>。


== コムーネの行政 ==
== コムーネの行政 ==
81行目: 334行目:
* [[アンドレア・トファネッリ]](ジャズトランペット奏者)
* [[アンドレア・トファネッリ]](ジャズトランペット奏者)
* [[アレッサンドラ・マルキ]](ファッションデザイナー)
* [[アレッサンドラ・マルキ]](ファッションデザイナー)

== アクセス ==
ルッカには空港が存在しないため、イタリア国外から訪れる場合は近郊の町から電車または車で移動することになる。近隣の町とは[[フィレンツェ]](約65キロ)、[[ピサ]](約25キロ)であり、それぞれ電車では1時間半、30分といった所要時間である<ref>{{citeweb
|author=菅澤彰子
|year=2009
|url=http://www.japanitalytravel.com/toscana/lucca.html
|title=トスカーナの小都市を旅する
|publisher=JITRA
|quote=ルッカ Lucca 関連データ
|accessdate=2013-06-08
}}
</ref>。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>

== 参考文献 ==
* {{Citation|和書
|last=池田
|first=健二
|year=2009
|title=カラー版 イタリア・ロマネスクへの旅
|isbn=978-4-12-101994-3
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* {{Citation|和書
|author=ヴォルフガング・ブラウンフェルス
|translator=[[日高健一郎]]
|year=1986
|title=西洋の都市 : その歴史と類型
|isbn=4621030981
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* {{Citation|和書
|last=橘川
|first=真
|year=1990
|title=ルネッサンス街道物語
|publisher=グラフィック社
|ISBN=4766105591
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|last=黒田
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|title=再利用された古代ローマ円形闘技場遺構の機能による分類とその要塞化について : イタリア都市における古代ローマ円形闘技場遺構の再利用の様態に関する研究 その1
|periodical=日本建築学会計画系論文集
|issn=13404210
|naid=110004654272
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|publisher=社団法人[[日本建築学会]]
|year=1996
|pages= 195-203
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* {{Citation|和書
|last=黒田
|first=泰介
|title=古代ローマ円形闘技場遺構の住居化について : イタリア都市における古代ローマ円形闘技場遺構の再利用の様態に関する研究 その2
|periodical=日本建築学会計画系論文集
|issn=13404210
|naid=110004654650
|ncid=AN10438548
|publisher=社団法人日本建築学会
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|pages= 245-251
|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110004654650/
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* {{Citation|和書
|last=黒田
|first=泰介
|title=都市形成史的観点からみた円形闘技場遺構の住居化の特質について : ルッカの古代ローマ円形闘技場遺構の住居化に関する研究 その1
|periodical=日本建築学会計画系論文集
|issn=13404210
|naid=110004655414
|ncid=AN10438548
|publisher=社団法人日本建築学会
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* {{Citation|和書
|last=田中
|first=豊松
|title=シーザー言行録
|periodical=偉人研究
|volume=46
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* {{Citation|和書
|last=吉田
|first=香澄
|title=ポリクロミアの使用石材の分布と使用の様態について : 中世後期トスカーナの宗教建築におけるポリクロミアに関する研究 その1
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|issn=13404210
|naid=110004657556
|ncid=AN10438548
|publisher=社団法人日本建築学会
|year=2000
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== 参考サイト ==
* {{Citation|和書
|last=宮城
|first=徳也
|work=宮城徳也研究室
|title=フィレンツェだより ルッカ篇
|year=2007
|url=http://www.f.waseda.jp/tokuyam/fir.75.htm
}}
* {{Citation|和書
|last=宮城
|first=徳也
|work=宮城徳也研究室
|title=フィレンツェだより ルッカ篇(前)
|year=2008a
|url=http://www.f.waseda.jp/tokuyam/fir.171.htm
}}
* {{Citation|和書
|last=宮城
|first=徳也
|work=宮城徳也研究室
|title=フィレンツェだより ルッカ篇(後)
|year=2008b
|url=http://www.f.waseda.jp/tokuyam/fir.172.htm
}}
* {{Citation|和書
|author=ルッカ観光協会
|year=n.d.
|title=ルッカ観光ガイド
|url=http://ja.zerodelta.net/travel-guides/%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AB%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89/#
|publisher=ZeroDelta
}}

== 関連文献 ==
* {{Citation
|last=浅井
|first=朋子
|year=2005
|title=文化応報誌 SPAZIO no.64 マッテオ・チヴィターリとは?
|url=http://www.nttdata-getronics.co.jp/profile/spazio/spazio64/asai.htm
|publisher =NTTデータジェトロニクス
|ref=マテオ
}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commons|Lucca}}
* [http://www.comune.lucca.it ルッカ公式HP](イタリア語)
* [http://www.comune.lucca.it ルッカ公式HP](イタリア語)
* [http://www.luccaturismo.it ルッカ観光局](英語)
* [http://www.luccaturismo.it ルッカ観光局](英語)
* [http://www.luccatourist.it/welcome.php?p=a0 ルッカ観光協会](イタリア語)、(英語)
** [http://www.luccatourist.it/content.php?p=17 ルッカの一部エリアの景観]
* [http://www.itclucca.lu.it/interessanti/luccacittadarte/2id/VOLSAN/IL%20%20VOLTO%20%20SANTO.html Una scheda sul Volto Santo](イタリア語)(注意:音あり){{Anchors|volto_santo}}


{{ルッカ県}}
{{ルッカ県}}

2013年6月10日 (月) 12:59時点における版

ルッカ
Lucca
ルッカの風景
ルッカの旗 ルッカの紋章
紋章
行政
イタリアの旗 イタリア
トスカーナ州の旗 トスカーナ
県/大都市 ルッカ
CAP(郵便番号) 55100
市外局番 0583
ISTATコード 046017
識別コード E715
分離集落 一覧
隣接コムーネ ボルゴ・ア・モッツァーノカマイオーレカパンノリマッサローザペスカーリアサン・ジュリアーノ・テルメ(PI)、 ヴェッキアーノ(PI)
公式サイト リンク
人口
人口 82,245 人 (2006年12月31日)
人口密度 445 人/km2
文化
住民の呼称 lucchesi
守護聖人 ルッカの聖パオリーノ (San Paolino di Lucca)
祝祭日 7月12日
地理
座標 北緯43度51分0秒 東経10度31分0秒 / 北緯43.85000度 東経10.51667度 / 43.85000; 10.51667座標: 北緯43度51分0秒 東経10度31分0秒 / 北緯43.85000度 東経10.51667度 / 43.85000; 10.51667
標高 19 m
面積 185 km2
ルッカの位置(イタリア内)
ルッカ
ルッカの位置
イタリアの旗 ポータル イタリア
テンプレートを表示
ルッカの街並。グイニージの塔より。

ルッカ (Lucca) は、人口82,245人のイタリア共和国トスカーナ州ルッカ県コムーネの一つで、ルッカ県の県都である。

トスカ等で知られる19世紀の作曲家ジャコモ・プッチーニの生誕地でもあり、旧市街にあるプッチーニの生家は、現在ではプッチーニ博物館となっている。

周囲4キロメートルあまりを城壁で囲まれた城塞都市である。

歴史

ルッカはエトルリア人が開いた街であった[1]が、古代ローマによるイタリア統一の過程の中で紀元前180年頃にローマの植民都市、[2]紀元前90年自治都市となる[3]。後述する円形闘技場も1世紀末に建設された[4]共和政ローマ期に第一回三頭政治を組んでいたグナエウス・ポンペイウスガイウス・ユリウス・カエサルおよびマルクス・リキニウス・クラッススの3者が紀元前56年[5]に「ルッカ会談」を開いた場所として知られている[6]

西ローマ帝国を消滅させたオドアケル東ゴートの攻略を受け[7]553年にはナルセス率いる東ローマ帝国軍に再征服される[7]など多難な歴史があったものの、ルッカは都市及び要塞として重要な役割を担った[8]。7-8世紀にはランゴバルドの支配を受け[7]、10-11世紀には神聖ローマ帝国トスカーナ辺境伯領の首都となっが、1115年に最後の領主マティルデ・ディ・カノッサが没する[9]と、都市代表権は1120年には市民に移り[10]、以降は自治都市として[9]また、イタリアでは珍しい「市民が優勢をかちえた都市[11]」として自主独立の道を歩んでいった。とはいえ複数の僭主による支配も一時期経験している(後述#14世紀-参照)。

11世紀以降はコンスタンティノポリスと並ぶの生産[12]・交易地として繁栄を謳歌した[7][13]

14世紀には1314年から1369年にかけて、先述したように幾人かの僭主によって支配された[13]。なかでも1316年から1328年までルッカを支配した、傭兵出身[11]カストルッチョ・カストラカーニは、城壁内の4分の1にあたる土地を地上げして巨大な城砦をつくるなどしたが、彼の死後に起こった市民による暴動の結果、跡形もなく破壊されてしまった[13]。ただし、支配していた時期は政治的には安定していたともされている[14]。また、その後もフィレンツェ共和国との抗争、ピサによる圧力などが続き一時弱体化はしたが、やはり絹織物の交易という強みがあったおかげで復興し[13][15]、以降はナポレオン・ボナパルトによる支配まで独立を保った[16]。ちなみにルッカ共和国となったのは1370年で、その前年1369年にカール4世へ貢物をし自由を買い取ったという[17]

また、1400年から約30年続いたパオロ・グイニージ英語版による統治時代も、グイニージ通りグイニージ邸そしてグイニージの塔など、現在もその一族の名を残す影響があった点で[18]、またその統治が安定していたということも特筆される[14][19]

19世紀、ナポレオン・ボナパルトがヨーロッパの覇権を握っていた時代にナポレオンの妹エリザ・ボナパルトはルッカ一帯を支配する「ルッカ=ピオンビーノ大公妃」となり、1809年にはトスカーナ大公国の女大公に封じられたが、ナポレオン没落後にエリザも地位を失った。1815年ウィーン会議ルッカ公国となったが、1847年にトスカーナ大公国に再編された。イタリア統一運動における住民投票で1861年に成立したイタリア王国に組込まれることとなった。

このようなルッカの歴史は、「イタリア統一まで独立を保ちえた」と評されている[20]。また、現在でもルッカ県の県都としてルッカは健在である。

版図の変遷

街並

旧市街は、紀元前2世紀に起源を遡り16世紀から17世紀にかけて整備された城壁で囲まれた街並を今に残している[21](幾度か拡張工事が行われている。詳細は後述の「城壁」節を参照)。ロマネスク様式のバシリカ形式で建築されたルッカ大聖堂(en:Lucca Cathedral)など、中世の建物が見どころである(後述の「聖堂」節を参照)。また、14世紀に建てられたグイニージ通り近くの「グイニージの塔」は、ルッカの街並や周辺を眺められる恰好の展望台となっている[22]。 現在も残る城壁の上部は、緑の多い4.2キロメートルにわたる遊歩道となっており、散歩やサイクリングを楽しめる市民の憩いの場となっている[12][22]。レンタル自転車屋もある[23]。また、ローマ時代に建設された円形闘技場の遺構を利用した区画も珍しい(後述の「アンフィテアトロ広場」節を参照)。

ルッカの城壁
ルッカの城壁上部の遊歩道

城壁

ルッカの周囲を楕円状に囲む城壁は幾度かの改修、拡張を経て現在の姿になったが、その起源はローマの植民都市となった紀元前2世紀まで遡る[13]。第二市壁と呼ばれる最初の拡張工事は12世紀末からはじまり1265年に終わり、14世紀末から15世紀初頭にさらに拡張された[13]。第二市壁の段階で後述のアンフィテアトロ広場サン・フレディアーノ聖堂などの区画は壁内に取り込まれた[24]。第三市壁は1504-1645年[13]、現在の城壁は第4世代で、19世紀に上面を緑化し遊歩道が整備された[25]。現在も一部が残る稜堡と砲郭は第三市壁の頃に整備されたという[20]

城壁は高さは約12メートル、土台の幅は約30メートルで、東西南北にいくつか門があるが、中でも北、南および西にあるうち以下に挙げるの3つ門は彫像やフリーズで装飾されており、「記念碑的意味」を持つという。3つの門の建設時期と方面を以下に挙げる[25][26]

  • 北面:サンタ・マリア門(Porta S.Maria) - 1593年
  • 南面:サン・ピエトロ門(Porta S.Pietro) - 1566年
  • 西面:サン・ドナート門(Porta S.Donato) - 1629年

他には東面のエリザ門(Porta Elisa)、西面の別の箇所にヴィットーリオ・エマヌエーレ門(Porta Vittorio Emanuele)などがある。


広場

本節ではルッカ城壁内のいくつかの広場について解説する。

サン・ミケーレ広場

サン・ミケーレ広場

市街の中ほどに位置するサン・ミケーレ広場は、ローマ時代の公共市場(これをフォロという[27])に起源を遡る[9]。4方を建物に囲まれ、広場の真ん中には後述するサン・ミケーレ・イン・フォロ教会が鎮座している。広場の南面にある建物はパラッツォ・プレトリオ(プレトリオ宮)といい、ルネサンス期の比較的簡素な建築である[28]。パラッツォ・プレトリオは1階部分がロッジア状になっており、そこにはマッテオ・チヴィターリ英語版の坐像が飾られている[29][30]

教会の南側に建っている像はフランチェスコ・ブルラマッキイタリア語版像。

アンフィテアトロ広場

アンフィテアトロ広場

市街の北部に位置するアンフィテアトロ広場(Piazza Anfiteatro)はローマ時代の円形闘技場の遺構を再利用した広場である。周囲をアンフィテアトロ通りに囲まれた楕円形のエリアにあり、アリーナであった広場と、その外周(観客席の部分[31])にある住居で構成される。なお、アンフィテアトロは円形劇場とも訳されるが、本項では「円形闘技場」で統一する[32]

起源は1世紀の円形闘技場で、長い歴史の中で様々な利用形態に転用されたものの、最終的に現在は居住施設と広場になっている[4]。古代ローマを起源に持つ都市では、円形闘技場の遺構の住居などへの転用は中世においては一般的であった[33]が、現在において遺跡としてではなくこのような様態は珍しい[34]。もっとも、1838年に再開発が行われるまでは広場の部分はすでに建物が建ってしまっており、アリーナの形状が跡形もなかった。この再開発で市場になったが今度は屋台などに占拠されてしまい、結局1936年、1972年の2度の移転でようやく現在のような状態になった[35]

現地で楕円の有様を上空から見学するには、南南東にあるグイニージの塔の頂上から見るのがよい[36]

ナポレオーネ広場

市街の南部に位置するナポレオーネ広場(Piazza Napoleone)は、ルッカ公国時代にその名がつけられた広場である。広場の西面を除いた3面は樹木が植えられ、中央には彫像が立てられている。西面のヴィットリオ・ヴェネト通りを挟んだ向かいにはドゥカーレ宮殿があり、現在は庁舎になっている。

毎年7月の数日はルッカ・サマー・フェスティバル(it:Lucca Summer Festival)の会場になり、通りを封鎖して舞台が設置される[37]

聖堂

ルッカ様式のファサード(サン・ミケーレ・イン・フォロ教会)

ルッカにはロマネスク様式のいくつかの聖堂が現在も残っている。これら聖堂の縁起はロマネスク以前に遡るものがあるが、上述の歴史において市民に代表権が移行した12世紀末ごろに相次いでロマネスク様式に改装されたものである。このタイミングについては、大聖堂(教会の権威)と大聖堂を除いたサン・ミケーレ・イン・フォロ教会およびサン・フレディアーノ聖堂(市民主導)の、対抗意識も反映しているとされる[38]

後述する大聖堂とサン・ミケーレ・イン・フォロ教会はロマネスク様式の中でも特にルッカ様式と呼ばれる特徴的なファサードをもつ。これはピサ大聖堂のような多層のギャラリーを持つものの、さらに象嵌や浮き彫りも付加された様式である[39]。材料の大理石や蛇紋岩は近郊で調達され[40]、このように明暗の多色を用いた理由としては視覚的効果[41]および装飾的効果を狙ったものと考えられている[42]。なお、類似の装飾は中世後期のものがトスカーナには多く現存している[43]

ルッカ大聖堂

大聖堂

ルッカ大聖堂(正式名称サン・マルティーノ大聖堂(cattedrale di San Martino))は、南城壁の近くに立地しており [44] 、その起源は6世紀で、現在の聖堂は1070年、アレクサンデル2世の献堂による [45] 。ファサードは13世紀初頭の [46] もので、後述のサン・ミケーレ・イン・フォロ教会のそれと同じ人物グイデット・ダ・コモによる製作でルッカ様式を見せる[45]

この聖堂は聖マルティーノの名を冠すだけに、ファサードには聖マルティーノの彫像が、またポーチの奥にはその生涯の場面を描いた彫刻がある[46]

内部には様々な名物があり、ティントレットの板絵『最後の晩餐』[47]ヤコポ・デッラ・クエルチャによる、石棺の上に配置された『イラリア・デル・カッレットの彫像』[48][47]ドメニコ・ギルランダイオによる『王座の聖母』 [49] などがあるが、1070年の献堂当時に大聖堂に収められ、中世には多くの巡礼を集めた『ヴォルト・サントイタリア語版(聖顔)』 [45] は外せない。これは身廊に建っている、マッテオ・チヴィターリ[50]作の礼拝堂のさらに中に安置された木彫りのキリストの磔刑像で[51]、イエスの遺体を引き取って埋葬したニコデモの作といういわくつき [52] の聖遺物 [51] である(画像は「外部リンク」節の"Una scheda sul Volto Santo"を参照)。

サン・ミケーレ・イン・フォロ教会ファサードの象嵌

サン・ミケーレ・イン・フォロ教会

サン・ミケーレ・イン・フォロ教会(イタリア語:Chiesa di San Michele in Foro)は、ルッカの中心にあるサン・ミケーレ広場内に立地しており[44]、その起源は明らかでないものの、8世紀末には原型が存在していたといわれ、現在の教会は1143年に建設を開始された[9]。ファサードは前記大聖堂同様のルッカ様式であり、13世紀初頭に製作された[45]。上部には巨大な大天使ミカエル像を戴いている。南翼廊の塔はトスカーナ風のロンバルディア帯も見られる[9]

内部は簡素なバシリカ[45]フィリッピーノ・リッピによる板絵『4人の聖人』、アンドレア・デッラ・ロッビアによる釉薬を使ったテラコッタ『慈愛の聖母』などが見学できる [53]

ジャコモ・プッチーニがオルガン奏者を務めた時期もあるという [54]

サン・フレディアーノ聖堂のファサード

サン・フレディアーノ聖堂

サン・フレディアーノ聖堂(イタリア語:Basilica di San Frediano)は市街北部、アンフィテアトロ広場の近く(北西)に立地している [44] 。起源は6世紀末のサン・ヴィンチェンツォ聖堂(Chiesa di S.Vincenzo)であり [4] 、7世紀末に地元の聖人フレディアーノ(en:Fridianus)に捧げられた [55] 。現在の聖堂は1112年-1147年に建設され、ファサードの特徴的なモザイク画『キリストの昇天』は13世紀頃の製作である[55]

この聖堂とアンフィテアトロ広場は12-13世紀の市壁拡張までは壁外にあった[24]

建設資材は近所にあったアンフィテアトロ広場の前身、円形闘技場の部材が多く転用され[4]、それらは内部の空間に円柱柱頭という形で現存している[55]。身廊南にある祭室には伝アンドレア・デッラ・ロッビア作の、釉薬を使ったテラコッタ『慈愛の聖母』が壁面上部に、その下の床にはモーセの物語の浮彫が施された円形の洗礼盤がある[56]

サン・ピエトロ・ソマルディ教会のファサード

サン・ピエトロ・ソマルディ教会

サン・ピエトロ・ソマルディ教会(イタリア語:Chiesa di San Pietro Somaldi)は市街北部、アンフィテアトロ広場の近く(東)に立地している[24]。起源は8世紀といわれ [57] 、現在の建物の着工は12世紀で[58]、ファサードの製作は13世紀である[57]。この教会も建設に当っては、近所にあった円形闘技場の部材が一部で使用された[58]

その他の聖堂

グイニージの塔上部からの眺望

グイニージの塔

ルッカは14世紀初頭、壁内に100を超える塔が立ち並んでいた。現在では入場可能な塔は2箇所になってしまったが、そのうちのひとつがグイニージの塔である。アンフィテアトロ広場の南南東に位置し、高さは41メートル、頂上にはなぜかカシの木が植わっているという風変わりな塔である[62]

右図は上部から北を向いた眺望。左側に見える鐘楼のついた建物はサン・フレディアーノ聖堂で、中ほどに見えるカーブを描いた建物群がアンフィテアトロ広場

この塔から東へ向かったところで交差する、南北に伸びる街路がグイニージ通りである。

文化

ルッカは13世紀末まで(特に1150年-1270年)建築と美術で優れ、特に板絵のジャンルではフィレンツェやシエナも及ばないといわれる程の隆盛を誇った[21]

現在も市内にいくつかの美術館や博物館を備え、また文化行事も行われている。本節ではこれらを取り上げる。

施設

ルッカ・マンガ&ゲームフェステイバル2011の模様

行事

先述したナポレオーネ広場のサマーフェスティバルの他にも様々なイベントがあり、そのうちのいくつかを紹介する。

コムーネの行政

  • 代表: Mauro Favilla(2007年6月12日選出)
  • 気候区分:zona D, 1715 GR/G

ルッカには81の分離集落がある。

姉妹都市

出身著名人

アクセス

ルッカには空港が存在しないため、イタリア国外から訪れる場合は近郊の町から電車または車で移動することになる。近隣の町とはフィレンツェ(約65キロ)、ピサ(約25キロ)であり、それぞれ電車では1時間半、30分といった所要時間である[67]

脚注

  1. ^ 池田 (2009, p. 102)
  2. ^ 黒田 (1999, p. 300).177年とする説もある。
  3. ^ 黒田 (1999, p. 305).紀元前89年とする説もある。
  4. ^ a b c d 黒田 (1999, p. 301)
  5. ^ 歴史”. Bed & Breakfast Lucca. 2013年6月8日閲覧。
  6. ^ 田中 (1908, p. 66).「ポンペイ」とあるのがポンペイウス、「クラッサス」とあるのがクラッスス。
  7. ^ a b c d 池田 (2009, p. 104)
  8. ^ ヴォルフガング・ブラウンフェルス (1986, p. 53).6世紀初頭以降、12世紀のピサに抜かれるまではトスカーナ第一の都市であった。
  9. ^ a b c d e 池田 (2009, p. 105)
  10. ^ ヴォルフガング・ブラウンフェルス (1986, p. 55).それまではルッカ司教に代表権があったという。
  11. ^ a b ヴォルフガング・ブラウンフェルス (1986, p. 177)
  12. ^ a b 地球の歩き方編集室『地球の歩き方 A12 (フィレンツェとトスカーナ)』ダイヤモンド社、2012年、203-215頁。ISBN 978-4-478-04253-3 
  13. ^ a b c d e f g ヴォルフガング・ブラウンフェルス (1986, p. 55)
  14. ^ a b 宮城 (2008a, 導入部。)
  15. ^ 橘川 (1990, p. 78)によれば金融業も。
  16. ^ ヴォルフガング・ブラウンフェルス (1986, pp. 41–42).イタリアでは13世紀以降、大都市が小都市を併呑する流れがあったが、中部ではフィレンツェとルッカのみが残った。
  17. ^ 橘川 (1990, p. 78)
  18. ^ 宮城 (2008a, 「グイニージ邸(国立博物館)」節。)
  19. ^ Ragone, F.. “Guinigi, Paolo”. Dizionario Biografico degli Italiani. Enciclopedia Italiana. 2013年6月8日閲覧。.彼もまた死後の扱いはひどいものであったが、19世紀末ごろから評価を見直す動きがでてきたという。
  20. ^ a b ヴォルフガング・ブラウンフェルス (1986, p. 52)
  21. ^ a b ヴォルフガング・ブラウンフェルス (1986, p. 53)
  22. ^ a b イタリア / プッチーニ生誕の地「ルッカ」”. 社団法人日本海外ツアーオペレーター協会. 2013年6月8日閲覧。
  23. ^ レンタサイクルで城壁をぐるっと一周”. AMO ITALIA. 2013年6月8日閲覧。
  24. ^ a b c 黒田 (1999, pp. 302–303)
  25. ^ a b ルッカ観光協会 (n.d., 「城壁」節。)
  26. ^ 原語についてはGoogleマップ、現地の看板を参照した。
  27. ^ 宮城 (2007, 「ルッカという町」節。).日本語の「フォーラム」の語源。
  28. ^ ヴォルフガング・ブラウンフェルス (1986, p. 54)
  29. ^ 宮城 (2008b, 「マッテーオ・チヴィターリ」節。)
  30. ^ ロッジアの中央辺りにある像で、台座の北面に"A MATTEO CIVITALI"と彫られている。
  31. ^ 黒田 (1997, p. 246)
  32. ^ 黒田 (1996, p. 202)."楕円形平面の公共娯楽施設"であり、"半円形平面の劇場とは区別される"。
  33. ^ 黒田 (1997, p. 245)
  34. ^ アンフィテアトロ広場”. 三洋ハウス. 2013年6月8日閲覧。
  35. ^ 黒田 (1999, p. 302)
  36. ^ 第7回 ルッカ”. やっぱりトスカーナ!-鈴木奈月の絵画紀行-. JITRA. 2013年6月8日閲覧。
  37. ^ Summer Festival - Info”. Lucca Summer Festival. 2013年6月8日閲覧。
  38. ^ ヴォルフガング・ブラウンフェルス (1986, p. 55)."世俗的重要性"という語を用いて説明している。
  39. ^ 池田 (2009, pp. 105–106)
  40. ^ 吉田 (2000, p. 224)
  41. ^ 吉田 (2000, p. 225)
  42. ^ 吉田 (2000, p. 222)
  43. ^ 吉田 (2000, p. 221)
  44. ^ a b c ヴォルフガング・ブラウンフェルス (1986, pp. 53–54).図表より(注:下が北になっている)。
  45. ^ a b c d e 池田 (2009, p. 106)
  46. ^ a b 池田 (2009, p. 108)
  47. ^ a b c ルッカ観光協会 (n.d., 「ルッカの街」節。)
  48. ^ イラリア・デル・カッレットは、先述したパオロ・グイニージの2番目の妻。
  49. ^ 宮城 (2007, 「ドゥオーモ(サン・マルティーノ教会)」節。)
  50. ^ マッテオ・チヴィターリについては『関連文献』節参照。サン・ミケーレ広場近くに像もある。
  51. ^ a b 宮城 (2007, 「「聖なる顔」(ヴォルト・サント)」節。)
  52. ^ 池田 (2009, p. 106).この彫像はルッカ近郊の海岸に漂着したという。
  53. ^ 宮城 (2007, 「サン・ミケーレ・イン・フォーロ教会」節。)
  54. ^ トスカーナ州” (PDF). イタリア政府観光局. p. 4. 2013年6月8日閲覧。 “オペラ作曲家ジャコモ・プッチーニの生誕地でもあり、生家博物館やオルガン奏者を務めたサン・ミケーレ・イン・フォロ教会”
  55. ^ a b c 池田 (2009, p. 109)
  56. ^ 宮城 (2007, 「サン・フレディアーノ教会」節。)
  57. ^ a b Chiesa di San Pietro Somaldi”. Regione Toscana. 2013年6月8日閲覧。
  58. ^ a b 黒田 (1999, p. 304)
  59. ^ Chiesa dei Santi Giovanni e Reparata”. Regione Toscana. 2013年6月8日閲覧。
  60. ^ 宮城 (2008a, 「ルッカと音楽家」節。)
  61. ^ Chiesa di Santa Maria Forisportam”. Regione Toscana. 2013年6月8日閲覧。
  62. ^ ルッカ観光協会 (n.d., 「塔」節。)
  63. ^ Puccini Museum - Visita”. Casa natale di Giacomo Puccini. 2013年6月8日閲覧。
  64. ^ Il Museo della Cattedrale di Lucca”. Complesso Museale e Archeologico della Cattedrale di Lucca. 2013年6月8日閲覧。
  65. ^ Puccini Museum - Visita”. Casa natale di Giacomo Puccini. 2013年6月8日閲覧。
  66. ^ 野田謙介. “ルッカ・マンガ&ゲームフェステイバル”. メディア芸術総合情報事務局/監修:文化庁. 2013年6月8日閲覧。
  67. ^ 菅澤彰子 (2009年). “トスカーナの小都市を旅する”. JITRA. 2013年6月8日閲覧。 “ルッカ Lucca 関連データ”

参考文献

参考サイト

関連文献

外部リンク