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「ワラタ (貨客船)」の版間の差分

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'''ワラタ'''(The SS Waratah)は、[[1908年]]に竣工した[[イギリス]]船籍、ブルーアンカーライン所属の貨客船。
'''ワラタ'''(The SS Waratah)は、[[1908年]]に竣工した[[イギリス]]船籍、ブルーアンカーライン所属の貨客船。
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[[1909年]][[7月]]、[[ダーバン]]から[[ケープタウン]]に向け航行中、200名を超える乗員乗客と共に消息を絶った。未だに船体はおろか破片すら発見されておらず、謎の失踪を遂げた豪華客船として[[欧米]]ではよく知られている。しばしば「[[オーストラリア]]の[[メアリー・セレスト号]]」と呼ばれることがある。
[[1909年]][[7月]]、南アフリカの[[ダーバン]]から[[ケープタウン]]に向け航行中、200名を超える乗員乗客と共に消息を絶った。未だに船体はおろか破片すら発見されておらず、謎の失踪を遂げた豪華客船として[[欧米]]ではよく知られている。しばしば「[[オーストラリア]]の[[メアリー・セレスト号]]」と呼ばれることがある。


なお、「ワラタ」とはオーストラリア産の花「[[:en:Waratah|Waratah]]」から取られた名前である。
なお、「ワラタ」とはオーストラリア産の花「[[:en:Waratah|Waratah]]」から取られた名前である。
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{|{{Infobox ship begin}}
{{Infobox ship image
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|Ship caption=SS ''Waratah'', 1909
}}
{{Infobox Ship Career
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|Ship name=SS ''Waratah''
|Ship owner= W., F. W. and A. E. [[Lund]]
|Ship operator=[[Blue Anchor Line]]
|Ship route= [[London]], England to [[Adelaide]], Australia via [[Durban]], South Africa
|Ship ordered=
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}}
|}


The '''SS ''Waratah''''', sometimes referred to as '''Australia's ''Titanic''''',
was a {{convert|500|ft|adj=on}} long [[steamship]] that operated between Europe and Australia in the early 1900s.
In July 1909, the ship, en route from [[Durban]] to [[Cape Town]], disappeared with 211 passengers and crew aboard.
To this day, no trace of the ship has been found.
-->
==背景==
ワラタは、スコットランド、グラスゴー、ホワイトインチ(Whiteinch)のバークレー・カール(Barclay Curle)によって建造され、そしてブルー・アンカー・ライン(Blue Anchor Line)の旗艦となる運命の汽船であった。
これは、オーストラリア、ニュー・サウス・ウェールズのエンブレムの花にちなんで「ワラタ」(''Waratah'')と命名されたが、これは不運な名前であったように見える:この名前の1隻は、1848年にイギリス海峡の[[ウェサン島]沖で、1887年に1隻はシドニーへの船旅で、1隻はシドニーの南で、そしてもう1隻は1897年に[[カーペンタリア湾]]で難破していた。
==特徴==
船は、オーストラリアとの貨客船として役立つように設計され、そして1908年9月12日、ヴィクトリア州代表の妻ミセス・J. W. タヴァーナー(Mrs J. W. Taverner)によって進水させられた。
これには、ミンストレルのギャラリー付きのぜいたくな音楽ラウンジのみならず、
1等船室100、特別室(state room)8、パネルに同名の花をえがいたサロン1、があった。
これらぜいたくな設備のみならず、ワラタは、ヨーロッパからオーストラリアへの強力な移出民貿易に役立つように意図された。
外国行きの旅では、船荷船倉は、700人ちかくの3等船客を収容可能な、おおきな共同寝室に転用させられたものであった。
帰りの旅行では、商品、おもに食料品が積まれたものであった。
この船は、冷却された船荷を運搬する装備がほどこされ、1年間の航行分の食糧をはこぶことができ、1日あたり5500ガロン(2,5000リットル)の淡水を生産することが可能な淡水化船上プラントを有していた。
この船はラジオ受信機をはこんでいなかったが、当時、これはめずらしくはなかった。{{sfnp|Harris|1989|p=118|ps=}}
==船歴==
1908年11月5日、ワラタは、イングランド、ロンドンから、3等船客689名と1等船客67名をのせて、処女航海をはじめた。{{sfnp|Harris|1989|p=119|ps=}}
船長は、30年間の航海経験がある、ジョシュア E. イルベリー(Joshua E. Ilbery)であった。
沈没にかんするそのごの調査は、この船旅における不安定性のいくつかの論議中の報告を提出した。
船がイングランドにかえったときに、オーナーと建造者とのあいだで荷積料にかんして討論があった。


1909年4月27日、ワラタはオーストラリアへの2回目の航海に出発した。
これは平穏無事であったし、そして1909年7月1日にこの船はメルボルンから帰航についた。
この船は、ダーバンとケープ・タウンという南アフリカの港にいき、それからロンドンにもどるはずであった。
ワラタは、ダーバンに着いたが、そこでは或る乗客、海旅経験のゆたかな技師クロード・ソーヤー(Claude Sawyer)は船を下り、つぎのような電報をロンドンの妻におくった:「ワラタは頭でっかちで不安定だと思った、ダーバン上陸」("Thought Waratah top-heavy, landed Durban")。

ワラタは、7月26日に、211名の乗組員乗客をのせてダーバンを発った。
7月27日にこの船は、汽船クラン・マッキンタイア(''Clan McIntyre'')とすれちがった。
その船の船員の話によれば、すべてが順調に思われ、そして
、ワラタは、強まる海と風を容易に進み、
そしてすばやく自船のまえに出てひきはなし、南西のほうへ水平線をこえて姿を消したという。
その日おそく、天気は急に悪くなり(これはその海域ではふつうなことである)。50ノット(時速90キロメートル)の強風は、潮と海洋のうねりとむすびあって30フィート(9メートル)の波になった。<!--Later that day, the weather deteriorated quickly (as is common in that area)
A wind gusting to 50 knots (90&nbsp;km/h) combined against the tide and ocean swell to build waves up to 30 feet (9 m). ここらへん原文がよくわかりませぬが-->
その晩、喜望峰からダーバンに北進している、ユニオン=キャッスル・ライン(Union-Castle Line)の船ゲルフ(''Guelph'')は、或る船とすれちがい、信号灯によって国際船舶信号をかわしたが、しかし悪天候とわるい視程のためにこの船の名前の最後の3字しか見分けることはできなかった、「T=A=H」("T-A-H")。

その晩、ハーロー(''Harlow'')という船には、或る大型汽船が自船のうしろにくるのが見えたが、荒海をいっしょうけんめいに進み、船長が汽船が火災をおこしているのではないかとあやしむくらい大量の煙を出していた。
闇がおりたとき、ハーローの乗組員には、その汽船の複数の航海灯が接近してくるのが見えたが、しかしそれでもやはり10-12マイル(16-19.3キロメートル)うしろにいた、とそのとき、とつぜん汽船のちかくからあかるい閃光が2つあり、そしてそれらの光がきえた。
ハーローの航海士は、それらの閃光は海岸の低木林の火災であるとかんがえた(その季節、その海域にはふつうの現象)。
船長は同意し、そして航海日誌にそれらの出来事を記入することさえしなかった - ただ彼はワラタの失踪について聞知したとき、これらの出来事が重要であるとかんがえた。{{sfnp|Harris|1989|pp=122, 138|ps=}}
伝えられるところによれば、ハーローはダーバンから180マイル(約289.6キロメートル)はなれていた。<ref>[http://chroniclingamerica.loc.gov/lccn/sn84024827/1909-09-25/ed-1/seq-1/;words=Waratah?date1=1909&rows=20&searchType=basic&state=Arizona&date2=1909&proxtext=Waratah&y=10&x=20&dateFilterType=yearRange&index=3Bisbee daily review., 25 September 1909, Image 1]</ref><ref>[http://chroniclingamerica.loc.gov/lccn/sn87062268/1909-11-28/ed-1/seq-3/;words=Waratah The Pensacola journal., 28 November 1909, Section 1, Page 3, Image 3]</ref>

ワラタは1909年7月29日にケープ・タウンに着くことになっていたが、しかしついに目的地に着かなかった。
船の痕跡はなにも見つかっていない。
==捜索の努力==
さいしょは、ワラタはなおも漂流中であると信じられた。
英国王室海軍は、巡洋艦パンドラ(''Pandora'')とフォート(''Forte'')(と、のちにハーミーズ(''Hermes''))を配置し、ワラタを捜索した。
ハーミーズは、ワラタの最後の目撃の海域のちかくで、あまりにおおきくかつつよい波に遭ったので、この船は船体をゆがめ、港にかえって乾ドックにはいらなければならなかったほどである。{{sfnp|Harris|1989|p=125|ps=}}
1909年8月10日、南アフリカから海底ケーブルによる電報がオーストラリアにとどいたが、それには、
「ブルー・アンカー船 かなり遠くで目撃される。
ゆっくりダーバンにむかってむかう。
ワラタである可能性がある。」
オーストラリア議会において下院議長は、議事を停止させ海底ケーブルによる電報を読み上げ、こう言った:
「議長は、ただいまわたしに、信頼できる筋からのニュースとして、ワラタがゆっくりとダーバンに向かっていると告げられました。」<ref>''Hansard, House of Representatives'' p2228 10 August 1909</ref>
アデレードでは、街の鐘が鳴らされたが、しかし問題の船はワラタではなかった。

1909年8月13日、汽船インシズワ("Insizwa")は、ムバシェ川("Bashow" (Mbashe) River)沖合で複数の遺体が見えたと報告した。<ref>[http://chroniclingamerica.loc.gov/lccn/sn85052114/1909-08-13/ed-1/seq-1/;words=Waratah The Paducah evening sun., 13 August 1909, Image 1]</ref>

1909年9月、ブルー・アンカー・ラインは、ユニオン・キャッスル(Union Castle)の船サビーン(''Sabine'')をチャーターしてワラタを捜索した。
サビーンの捜索は、14,000マイル(約2,2530.8キロメートル)におよんだが、しかしなんの結果ももたらさなかった。

'''1910年:'''ワラタの乗客らの親戚らは、ウェークフィールド(''Wakefield'')をチャーターし、そして3か月間、捜索したが、ふたたび不成功であると判った。
ワラタの運命の公式調査は、1910年12月、ロンドンでおこなわれた。
なかんずく、船は頭でっかちで不安定だと考えてダーバンで上陸した技師クロード・ソーヤーは、そのときに証言をおこなった。

'''1925年:'''南アフリカ空軍のD. J. ルース(D. J. Roos)<!--Lt. D. J. RoosのLt.はlieutenantでしょうが、南アフリカ空軍ではなんと訳すべきでしょうか-->は、トランスカイ(Transkei)沿岸上空を飛行中に難破物をみつけたと報告した。
これはワラタの難破物であるというのは、彼の見解である

'''1977年:'''或る難破物が、コラ河口(Xora River Mouth)沖に見つけられた。
この難破物へのいくつかの調査が、とくにエムリン・ブラウン(Emlyn Brown)の指揮のもとで、おこなわれた。
しかしながら、こんにち、コラ河口沖の難破物は、第2次世界大戦ちゅうのドイツのUボートの犠牲になった多くの船のうちの1つのそれであったとひろく信じられている。
なぜワラタが推定位置のそれほど北方で見つけられたかその理由を説明するのはとくに難かしいと判った。
ワラタの位置をつきとめようとするさらなる試みは、1991年、1995年および1997年におこなわれた。

'''1999年:'''ワラタは南アフリカ西岸沖10キロメートルでみつかったという報告が諸新聞にとどいた。
エムリン・ブラウンのチームによって指揮されたソナー・スキャンは、輪郭線がワラタのそれと一致するようにおもわれる難破物の位置をじっさいにつきとめていた。
しかしながら、2001年、より綿密な調査によってワラタと難破物の違いがあきらかになった。
チームはじっさいには第2次世界大戦で沈没させられた「ネールシー・メドー」(''Nailsea Meadow'')を見つけていたらしい。

'''2004年:'''ワラタをさがすことにもう22年間をついやしていたエムリン・ブラウン(Emlyn Brown)は、捜索を断念しつつあると断言した:「わたしはすべての選択肢をつかいつくした。
もうわたしはどこを調べるべきかわからない。」
==調査==
商務省(Board of Trade)の失踪の調査は、きゅうに、ワラタの不安定性とされるものに焦点をあわせるようになった。{{sfnp|Harris|1989|p=129|ps=}}

証拠は、船の最後の船旅の生存者の不在によっておおきく妨げられた(ダーバンで上陸した、クロード・ソーヤーをふくむ、少数とはことなる)。
だいぶぶんの証拠は、ワラタの処女航海の乗客と船員、建造者と港内でこの船を取り扱ったひとびとから来た。

専門家の証人はすべて、ワラタはしかるべく設計され建造され、そして良好な条件で航海したということで一致した。{{sfnp|Harris|1989|p=130|ps=}}
この船は多数の点検をうけたが、そのなかには、建造者、オーナー、商務省、そしてロイズの2人もふくまれるが、彼らはこの船に「+100 A1」("+100 A1")の格付けをした - これは最高の格付けで、{{sfnp|Harris|1989|pp=118, 130|ps=}}ロイズが設計、建造、装備、試験航海のいたるところで、調査、評価した船のみにあたえられ、ロイズが完成したワラタにおこなった2つの評価と調査のうち最高のものである。

多数の証人は、船はたいへん長いローリングをしていた(うねりのなかにかたむいたあとなかなか平衡を回復しないこと)ことを証明した。
処女航海のひとりの乗客の話によれば、南極海において、この船はあまりに右舷がわにかたむくので、湯がバスから流れ出ようとせず、そしてこの船は数時間、かたむいていたあとにローリングしてまっすぐになった。
この乗客は物理学者ウィリアム・ヘンリー・ブラッグ(William Henry Bragg)であるが、船のメタセンターの高さはその重心のすぐしたにあると結論づけた。
一方にゆっくりとローリングしたとき、
この船は均衡点に達し、そしてかたむいたままでいて、ついに海あるいは風の変化がこの船をまっすぐに押しうごかした。{{sfnp|Harris|1989|p=131|ps=}}

ほかの乗客と乗組員は、この船の復原性の欠如について論評をくわえ、そして
港内で船を操作する責任をおうひとびとは、この船は積荷がないときはあまりに不安定なので、バラストなしでは移動させることはできないほどだと言った。{{sfnp|Harris|1989|pp=130, 140|ps=}}
この意見のすべての証人がないならば、
正反対のことを言うべつのひとをみつけることができるであろう。

元乗客も乗組員(火夫から甲板部士官まで)も両者ともに、ワラタはかんぜんに安定していて、ここちよい、ローリングをしていたと言った。{{sfnp|Harris|1989|p=133|ps=}}
多くのひとが、自分は、この船はとくべつに安定していると感じたと言った。
船の建造者らは、この船は、甲板に多くの石炭(この船がダーバンを発ったときこの船が運搬していたと数人の証人が主張した)をのせていてさえ、頭でっかちで不安定ではないということを証明する計算をだした。{{sfnp|Harris|1989|p=130|ps=}}

調査は、この混合したそして矛盾した証拠からはいかなる結論もだすことはできなかった。
これは、ブルー・アンカー・ラインを非難しなかったし、その新船のパフォーマンスと耐航能力を決定することにおける会社の実践にかんしていくつか否定的なコメントをおこなった。{{sfnp|Harris|1989|p=141|ps=}}
船長イルベリーとラインのマネージャーらとの通信によれば、彼は、船の備品、付属品、船室、パブリック・ルーム、換気、その他の区域にかんする多数の細部にコメントをくわえたが、しかしワラタの耐航能力と操作の基礎的水準にはなにも言及しなかった。
どうように、会社は、船長イルベリーにこれらの区域についてけっして訊ねなかった。{{sfnp|Harris|1989|pp=139–141|ps=}}
このことで、おおくのひとは、イルベリーはワラタとその安定性を心配していたがしかしそういう疑いを故意に内密にしておいたということを推測する気になった。
しかしながら、彼もブルー・アンカー・ラインもいずれも、こういう区域をカヴァーすることが必要だと感じなかったということはありえて、なぜならばワラタは前の(大成功の)ブルー・アンカー船ジーロング(Geelong)につよくもとづいて、それだからワラタの操作は同じであると仮定されていた。

調査の結論によれば、
7月26日の晩にワラタの目撃であるかもしれないことを報告した3隻の船は、
かれら間の距離と目撃の時間をかんがえれば、この船が見えたはずはないが、
これは、ワラタがムバシェ川に到着し、クラン・マッキンタイア(Clan MacIntyre)と信号をかわし、しかしそれから向きを変え、そしてダーバンにかえるのをハーローに目撃されたということがないならば、である。

この時期のおおくの客船がわずかに頭でっかちで不安定につくられたということは、確かに事実である。
このことが、長い、快適な、しかし不安定なローリングを生じさせたが、多くの乗客は、みじかい、耳ざわりな、しかし安定したローリングよりも、これをこのんだ。
多数の大西洋横断の客船は、そういうふうに設計され、そして2、3回の船旅ののち、それらを操作しているひとびとは、荷積みし、バラストし、そして正確に操作する方法をまなび、そしてそれらの船は、いく十年間もの故障なしの運行を完成させた。
たった2回目の船旅で、正確にトリムされないうちに、はげしい嵐あるいは一発大波(freak wave)に遭ったことは、ワラタの不運であったかもしれない。
このわずかに頭でっかちで不安定な設計はまた、船が安定していると感じたかどうかにかんする証人の強く反対する意見の説明になりえた。
船上の未経験のあるいは知らされていないひとであれば、
船の、長い、ゆっくりとした、やわらかなローリングは、いごこちよくそして安全であると感じたと結論するかもしれないし、
いっぽうで、よりいっそう大洋航海の経験あるいは船の設計の知識のあるひとであれば、同じ運動は不安定であると感じたであろう。
積荷のないときの港内におけるワラタの不安定性を主張する証人にかんしては、
これが事実であったかもしれない。
しかしながら、じじつじょうすべての外洋航海船(これらは、けっきょくのところ、重量な貨物を運搬するように設計されている)は、空荷で移動されるときは或るていどバラストされる必要があり、そのためワラタはこの点ではたしかに唯一ではなかった。
証人がこのことにじゅうぶんに気づいていたであろうことは、注意されるべきである -
彼らがそれでもやはり進み出てきて、自分らはワラタをきけんなほどに不安定だと見なしたと証言したことは、この船が或る点で例外的であったことを示唆する。

ワラタは、また混用船(mixed-use ship)でもあった。
総トン数のわりにはちいさい貨物量の、旅客定期船は、かなり一定なそして予測し得るバラスティングの要件を有した。
ワラタのような船であれば、広範囲の貨物を、いや同じ船旅でさまざまな貨物をさえ、運ぶであろうし、そのためにバラスティングの問題は、いっそう複雑にもいっそう決定的にもいずれにもなる。{{sfnp|Harris|1989|p=146|ps=}}
ワラタは、失踪したとき、1,000トンの鉛精鉱をはこんでいたが、これがとつぜん移動し、船を転覆させたかもしれない。{{sfnp|Harris|1989|p=|ps=}}
==ほかの諸説==
===一発大波(freak wave)===
ワラタの失踪を説明するために提出されたもっとも普及している説は、一発大波との遭遇で、これはまた南アフリカ沿岸沖合で、「巨大波」(rogue wave)としても知られる。<ref name="Econ1">{{cite news | title = Monsters of the deep – Huge, freak waves may not be as rare as once thought | publisher = Economist Magazine | date = 17 September 2009 | url = http://www.economist.com/sciencetechnology/displaystory.cfm?story_id=14446734 | accessdate = 2009-10-04 }}</ref>
こういう波は、この海域でふつうであることが知られている。
ワラタが限界的安定性(marginal stability)であるとおもわれるものを備えてそしてすでにはげしい嵐のなかを切ってすすんでいて、巨大な波に衝突したということは、もっともありそうである。
これが、船を完全にひっくり返すか、でなければカーゴ・ハッチをたたきこわすかして、船倉を水で満たし、船をほとんど即座に引きしずめた。
もし船が完全に転覆あるいはひっくり返ったならば、浮揚性の残骸は難破物の下にとらえられ、海域の遺体あるいは難破物の欠如の説明になるであろう。
この説は、ケープ・タウン大学(University of Cape Town)のマロリー教授(Professor Mallory)の論文(1973年)によって信頼性があたえられ、高さ20メートルの波がリチャーズ・ベー(Richards Bay)とアガラス岬(Cape Agulhas)にじっさいに発生することを示唆した。
もしワラタが安定していて耐航能力があると仮定すれば - 喜望峰の周囲のいくつかの船は、船倉を水浸しにする一発大波によってひどい損害を受けそして沈没寸前であった - この説もまた有効である。
世界ぢゅうで、メラニー・シュルテ(Melanie Schulte)(大西洋で沈没したドイツの船){{sfnp|Harris|1989|p=149|ps=}}やダービーシャー(Derbyshire)(太平洋で沈没した英国のばら積み貨物船)のような船がとつぜん分解し、極端な天候のなかで数分間で沈没している。

なかには、沈没ではなく、船は一発大波によって無能力にされ、舵をうしない、陸と接触する手段もなく、南極大陸のほうへ押し流され、そして公海で難破したかまたは浸水沈没したことを示唆するひともいる。
しかしながら、難破物の不在のほかはなんの証拠もこの説を支持しない。
===渦巻===
失踪当時もそのごもいずれでも、いくにんかのひとびとは、ワラタは、風、海流および深海溝によってつくられる渦巻にとらえられたことを示唆しているが、うちいくつかはアフリカ南西沿岸沖にあることは知られている。
これであれば、難破物の欠如は説明がつくが、しかし、ほとんど即時に沈めるのにじゅうぶんな強さがある渦巻が示唆どおりにつくられ得るという堅い証拠はない。
===爆発===
ハーロー(前述)の高級船員からの証拠を仮定すると、
ワラタは石炭燃料庫の1つの突然の爆発によって破壊されたということが推測されている。
炭塵はたしかに自己燃焼することもあり、そして然るべき割合においては爆発性である。
しかしながら、もしたった1つの燃料庫でも爆発すれば、ワラタの大きさの船は即座に沈没し、だれも救命艇あるいはいかだを進水できず、そして難破物を遺さないであろう。{{sfnp|Harris|1989|p=48|ps=}}
===超自然的===
いくつかの超自然的な説もまた、ワラタの失踪を説明するために提出された。
クロード・ソーヤーはロンドンの調査に、自分は3回、ある男のヴィジョンを見たと報告したが、その男は「服を着て、長い刀剣をもっていた。
彼は右手に刀剣をもっていたし、そしてそれは血にまみれていた。」
このヴィジョンは、彼がワラタでの船旅をつづける決心をしなかった理由のひとつであった。{{sfnp|Harris|1989|p=120|ps=}}
===メタン膨張===
水上にうかぶ能力がじゅうぶんにある構造物が、大量のメタンガスの気泡によって密度がひくくさせられた水のなかにすぐに没するということが、まったくあり得るということが、近年、海底メタン膨張に関係する事象によって、しめされている。
メタンは、死んだ生き物の腐敗の生成物である。
低温で高圧の海底では、メタンは、水和させられたかたちにかわり、メタンがのがれることを蝋層がさまたげ、それが累積するにまかせる。
海中の地質学的な出来事が蝋層を破壊することもあり、大量のガスがのがれるにまかせ、表面まで気泡があがる。
ソヴィエト油井掘削装置は、これらのエピソードの1つののち海底下60フィート(約18.2メートル)まで完了したと判った。{{Citation needed|date=August 2009}}
==余波==
ワラタの失踪、ブルー・アンカー・ラインの調査と批判は、おおくの逆宣伝となった。
ラインのチケットの売上は、急低下し、そしてワラタ(これは、当時のおおくの船とおなじく、実際の価額よりも低く保険をかけられていた)の建造にかかった巨大な財政的損失のために、会社は1910年にほかの諸船を主な競争者 P&O に売り、任意清算を表明することをよぎなくされた。<ref>[http://www.theshipslist.com/ships/lines/blueanchor.htm Blue Anchor Line]</ref>

==記念物==
イングランド、デヴォン、バックランド・フィレー(Buckland Filleigh)のパリッシュ・チャーチには、パーシヴァル・ジョン・ブラウン大佐を記念する記念物がある。
彼は、南オーストラリア、[[マウントガンビア]]の牧羊場から、ワラタで、イングランドに帰る途中であった。
彼の実家は、バックランド・ハウス(Buckland House)であった。

ウェールズ、[[ケレディジョン]]、[[アベリストウィス]]の主な教会(main church)には、「 1909年 海上で難破したワラタ 三等航海士 ジョン・パートン・モーガンの幸福な記憶に」("in happy memory of John Purton Morgan, 3rd Officer SS Waratah lost at sea 1909")という記念板がある。

イングランド、ウエスト・サセックス、ボグナー・レジス(Bognor Regis)、セント・ウィルフリド教区教会には、記念板がある:
「教会の門はワラタにのって海上で水死したハリス・アーチボルド・ギブスを記念してあたえられた」("The church gates were given in memory of Harris Archibald Gibbs who was drowned at sea in the SS Waratah")

100周年記念板は、2009年7月27日に、オーストラリア、ヴィクトリア、クイーンズクリフ海事博物館(Queenscliffe Maritime Museum)で除幕された。

デヴォン、エクセター、ハイアー・セメタリー(Higher Cemetery)の記念物は、「1909年7月27日、ワラタで水死した」("drowned in SS Waratah 27th July 1909")トマス・ニューマン(Thomas Newman)を記念する。
==脚注==
'''注釈'''
{{reflist|30em}}
'''文献'''
{{refbegin}}
* {{citation |last=Harris |first=John |title=Without Trace: The Last Voyages of Eight Ships |year=1989 |publisher=Mandarin |isbn=0-7493-0043-4}}
{{refend}}
==読書案内==
* "The Loss of the Waratah", ''The Times'', 23 February 1911 p.&nbsp;24
* Esther Addley, "Sea yields our Titanic's Resting Place", ''[[The Weekend Australian]]'', 17 July 1999
* Sue Blane, "The Week in Quotes", ''Financial Times'', 6 May 2004
* Alan Laing, "Shipwreck expert abandons hunt for Clyde liner", ''The Herald'', 4 May 2004
* Tom Martin, "Almost a century after she vanished, scientists could now be on the verge of solving riddle of SS ''Waratah'''s last voyage", ''Sunday Express'', 25 April 2004

==外部リンク==
* [http://www.wrecksite.eu/wreck.aspx?11731 WARATAH OCEAN LINER 1908-1909]
* [http://www.numa.net/press/011701.html Waratah Wreck Update]
* [http://mysite.mweb.co.za/residents/cliffiesw/WCREW.HTM SS Waratah Crew List: Scott's End]
* [http://mysite.mweb.co.za/residents/cliffiesw/WARATAH.HTM SS Waratah Passenger List: Scott's End]
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[貨客船]]
*[[貨客船]]

2014年4月19日 (土) 05:19時点における版

ワラタ(The SS Waratah)は、1908年に竣工したイギリス船籍、ブルーアンカーライン所属の貨客船。

1909年7月、南アフリカのダーバンからケープタウンに向け航行中、200名を超える乗員乗客と共に消息を絶った。未だに船体はおろか破片すら発見されておらず、謎の失踪を遂げた豪華客船として欧米ではよく知られている。しばしば「オーストラリアメアリー・セレスト号」と呼ばれることがある。

なお、「ワラタ」とはオーストラリア産の花「Waratah」から取られた名前である。

背景

ワラタは、スコットランド、グラスゴー、ホワイトインチ(Whiteinch)のバークレー・カール(Barclay Curle)によって建造され、そしてブルー・アンカー・ライン(Blue Anchor Line)の旗艦となる運命の汽船であった。 これは、オーストラリア、ニュー・サウス・ウェールズのエンブレムの花にちなんで「ワラタ」(Waratah)と命名されたが、これは不運な名前であったように見える:この名前の1隻は、1848年にイギリス海峡の[[ウェサン島]沖で、1887年に1隻はシドニーへの船旅で、1隻はシドニーの南で、そしてもう1隻は1897年にカーペンタリア湾で難破していた。

特徴

船は、オーストラリアとの貨客船として役立つように設計され、そして1908年9月12日、ヴィクトリア州代表の妻ミセス・J. W. タヴァーナー(Mrs J. W. Taverner)によって進水させられた。 これには、ミンストレルのギャラリー付きのぜいたくな音楽ラウンジのみならず、 1等船室100、特別室(state room)8、パネルに同名の花をえがいたサロン1、があった。 これらぜいたくな設備のみならず、ワラタは、ヨーロッパからオーストラリアへの強力な移出民貿易に役立つように意図された。 外国行きの旅では、船荷船倉は、700人ちかくの3等船客を収容可能な、おおきな共同寝室に転用させられたものであった。 帰りの旅行では、商品、おもに食料品が積まれたものであった。 この船は、冷却された船荷を運搬する装備がほどこされ、1年間の航行分の食糧をはこぶことができ、1日あたり5500ガロン(2,5000リットル)の淡水を生産することが可能な淡水化船上プラントを有していた。 この船はラジオ受信機をはこんでいなかったが、当時、これはめずらしくはなかった。[1]

船歴

1908年11月5日、ワラタは、イングランド、ロンドンから、3等船客689名と1等船客67名をのせて、処女航海をはじめた。[2] 船長は、30年間の航海経験がある、ジョシュア E. イルベリー(Joshua E. Ilbery)であった。 沈没にかんするそのごの調査は、この船旅における不安定性のいくつかの論議中の報告を提出した。 船がイングランドにかえったときに、オーナーと建造者とのあいだで荷積料にかんして討論があった。


1909年4月27日、ワラタはオーストラリアへの2回目の航海に出発した。 これは平穏無事であったし、そして1909年7月1日にこの船はメルボルンから帰航についた。 この船は、ダーバンとケープ・タウンという南アフリカの港にいき、それからロンドンにもどるはずであった。 ワラタは、ダーバンに着いたが、そこでは或る乗客、海旅経験のゆたかな技師クロード・ソーヤー(Claude Sawyer)は船を下り、つぎのような電報をロンドンの妻におくった:「ワラタは頭でっかちで不安定だと思った、ダーバン上陸」("Thought Waratah top-heavy, landed Durban")。

ワラタは、7月26日に、211名の乗組員乗客をのせてダーバンを発った。 7月27日にこの船は、汽船クラン・マッキンタイア(Clan McIntyre)とすれちがった。 その船の船員の話によれば、すべてが順調に思われ、そして 、ワラタは、強まる海と風を容易に進み、 そしてすばやく自船のまえに出てひきはなし、南西のほうへ水平線をこえて姿を消したという。 その日おそく、天気は急に悪くなり(これはその海域ではふつうなことである)。50ノット(時速90キロメートル)の強風は、潮と海洋のうねりとむすびあって30フィート(9メートル)の波になった。 その晩、喜望峰からダーバンに北進している、ユニオン=キャッスル・ライン(Union-Castle Line)の船ゲルフ(Guelph)は、或る船とすれちがい、信号灯によって国際船舶信号をかわしたが、しかし悪天候とわるい視程のためにこの船の名前の最後の3字しか見分けることはできなかった、「T=A=H」("T-A-H")。

その晩、ハーロー(Harlow)という船には、或る大型汽船が自船のうしろにくるのが見えたが、荒海をいっしょうけんめいに進み、船長が汽船が火災をおこしているのではないかとあやしむくらい大量の煙を出していた。 闇がおりたとき、ハーローの乗組員には、その汽船の複数の航海灯が接近してくるのが見えたが、しかしそれでもやはり10-12マイル(16-19.3キロメートル)うしろにいた、とそのとき、とつぜん汽船のちかくからあかるい閃光が2つあり、そしてそれらの光がきえた。 ハーローの航海士は、それらの閃光は海岸の低木林の火災であるとかんがえた(その季節、その海域にはふつうの現象)。 船長は同意し、そして航海日誌にそれらの出来事を記入することさえしなかった - ただ彼はワラタの失踪について聞知したとき、これらの出来事が重要であるとかんがえた。[3] 伝えられるところによれば、ハーローはダーバンから180マイル(約289.6キロメートル)はなれていた。[4][5]

ワラタは1909年7月29日にケープ・タウンに着くことになっていたが、しかしついに目的地に着かなかった。 船の痕跡はなにも見つかっていない。

捜索の努力

さいしょは、ワラタはなおも漂流中であると信じられた。 英国王室海軍は、巡洋艦パンドラ(Pandora)とフォート(Forte)(と、のちにハーミーズ(Hermes))を配置し、ワラタを捜索した。 ハーミーズは、ワラタの最後の目撃の海域のちかくで、あまりにおおきくかつつよい波に遭ったので、この船は船体をゆがめ、港にかえって乾ドックにはいらなければならなかったほどである。[6] 1909年8月10日、南アフリカから海底ケーブルによる電報がオーストラリアにとどいたが、それには、 「ブルー・アンカー船 かなり遠くで目撃される。 ゆっくりダーバンにむかってむかう。 ワラタである可能性がある。」 オーストラリア議会において下院議長は、議事を停止させ海底ケーブルによる電報を読み上げ、こう言った: 「議長は、ただいまわたしに、信頼できる筋からのニュースとして、ワラタがゆっくりとダーバンに向かっていると告げられました。」[7] アデレードでは、街の鐘が鳴らされたが、しかし問題の船はワラタではなかった。

1909年8月13日、汽船インシズワ("Insizwa")は、ムバシェ川("Bashow" (Mbashe) River)沖合で複数の遺体が見えたと報告した。[8]

1909年9月、ブルー・アンカー・ラインは、ユニオン・キャッスル(Union Castle)の船サビーン(Sabine)をチャーターしてワラタを捜索した。 サビーンの捜索は、14,000マイル(約2,2530.8キロメートル)におよんだが、しかしなんの結果ももたらさなかった。

1910年:ワラタの乗客らの親戚らは、ウェークフィールド(Wakefield)をチャーターし、そして3か月間、捜索したが、ふたたび不成功であると判った。 ワラタの運命の公式調査は、1910年12月、ロンドンでおこなわれた。 なかんずく、船は頭でっかちで不安定だと考えてダーバンで上陸した技師クロード・ソーヤーは、そのときに証言をおこなった。

1925年:南アフリカ空軍のD. J. ルース(D. J. Roos)は、トランスカイ(Transkei)沿岸上空を飛行中に難破物をみつけたと報告した。 これはワラタの難破物であるというのは、彼の見解である

1977年:或る難破物が、コラ河口(Xora River Mouth)沖に見つけられた。 この難破物へのいくつかの調査が、とくにエムリン・ブラウン(Emlyn Brown)の指揮のもとで、おこなわれた。 しかしながら、こんにち、コラ河口沖の難破物は、第2次世界大戦ちゅうのドイツのUボートの犠牲になった多くの船のうちの1つのそれであったとひろく信じられている。 なぜワラタが推定位置のそれほど北方で見つけられたかその理由を説明するのはとくに難かしいと判った。 ワラタの位置をつきとめようとするさらなる試みは、1991年、1995年および1997年におこなわれた。

1999年:ワラタは南アフリカ西岸沖10キロメートルでみつかったという報告が諸新聞にとどいた。 エムリン・ブラウンのチームによって指揮されたソナー・スキャンは、輪郭線がワラタのそれと一致するようにおもわれる難破物の位置をじっさいにつきとめていた。 しかしながら、2001年、より綿密な調査によってワラタと難破物の違いがあきらかになった。 チームはじっさいには第2次世界大戦で沈没させられた「ネールシー・メドー」(Nailsea Meadow)を見つけていたらしい。

2004年:ワラタをさがすことにもう22年間をついやしていたエムリン・ブラウン(Emlyn Brown)は、捜索を断念しつつあると断言した:「わたしはすべての選択肢をつかいつくした。 もうわたしはどこを調べるべきかわからない。」

調査

商務省(Board of Trade)の失踪の調査は、きゅうに、ワラタの不安定性とされるものに焦点をあわせるようになった。[9]

証拠は、船の最後の船旅の生存者の不在によっておおきく妨げられた(ダーバンで上陸した、クロード・ソーヤーをふくむ、少数とはことなる)。 だいぶぶんの証拠は、ワラタの処女航海の乗客と船員、建造者と港内でこの船を取り扱ったひとびとから来た。

専門家の証人はすべて、ワラタはしかるべく設計され建造され、そして良好な条件で航海したということで一致した。[10] この船は多数の点検をうけたが、そのなかには、建造者、オーナー、商務省、そしてロイズの2人もふくまれるが、彼らはこの船に「+100 A1」("+100 A1")の格付けをした - これは最高の格付けで、[11]ロイズが設計、建造、装備、試験航海のいたるところで、調査、評価した船のみにあたえられ、ロイズが完成したワラタにおこなった2つの評価と調査のうち最高のものである。

多数の証人は、船はたいへん長いローリングをしていた(うねりのなかにかたむいたあとなかなか平衡を回復しないこと)ことを証明した。 処女航海のひとりの乗客の話によれば、南極海において、この船はあまりに右舷がわにかたむくので、湯がバスから流れ出ようとせず、そしてこの船は数時間、かたむいていたあとにローリングしてまっすぐになった。 この乗客は物理学者ウィリアム・ヘンリー・ブラッグ(William Henry Bragg)であるが、船のメタセンターの高さはその重心のすぐしたにあると結論づけた。 一方にゆっくりとローリングしたとき、 この船は均衡点に達し、そしてかたむいたままでいて、ついに海あるいは風の変化がこの船をまっすぐに押しうごかした。[12]

ほかの乗客と乗組員は、この船の復原性の欠如について論評をくわえ、そして 港内で船を操作する責任をおうひとびとは、この船は積荷がないときはあまりに不安定なので、バラストなしでは移動させることはできないほどだと言った。[13] この意見のすべての証人がないならば、 正反対のことを言うべつのひとをみつけることができるであろう。

元乗客も乗組員(火夫から甲板部士官まで)も両者ともに、ワラタはかんぜんに安定していて、ここちよい、ローリングをしていたと言った。[14] 多くのひとが、自分は、この船はとくべつに安定していると感じたと言った。 船の建造者らは、この船は、甲板に多くの石炭(この船がダーバンを発ったときこの船が運搬していたと数人の証人が主張した)をのせていてさえ、頭でっかちで不安定ではないということを証明する計算をだした。[10]

調査は、この混合したそして矛盾した証拠からはいかなる結論もだすことはできなかった。 これは、ブルー・アンカー・ラインを非難しなかったし、その新船のパフォーマンスと耐航能力を決定することにおける会社の実践にかんしていくつか否定的なコメントをおこなった。[15] 船長イルベリーとラインのマネージャーらとの通信によれば、彼は、船の備品、付属品、船室、パブリック・ルーム、換気、その他の区域にかんする多数の細部にコメントをくわえたが、しかしワラタの耐航能力と操作の基礎的水準にはなにも言及しなかった。 どうように、会社は、船長イルベリーにこれらの区域についてけっして訊ねなかった。[16] このことで、おおくのひとは、イルベリーはワラタとその安定性を心配していたがしかしそういう疑いを故意に内密にしておいたということを推測する気になった。 しかしながら、彼もブルー・アンカー・ラインもいずれも、こういう区域をカヴァーすることが必要だと感じなかったということはありえて、なぜならばワラタは前の(大成功の)ブルー・アンカー船ジーロング(Geelong)につよくもとづいて、それだからワラタの操作は同じであると仮定されていた。

調査の結論によれば、 7月26日の晩にワラタの目撃であるかもしれないことを報告した3隻の船は、 かれら間の距離と目撃の時間をかんがえれば、この船が見えたはずはないが、 これは、ワラタがムバシェ川に到着し、クラン・マッキンタイア(Clan MacIntyre)と信号をかわし、しかしそれから向きを変え、そしてダーバンにかえるのをハーローに目撃されたということがないならば、である。

この時期のおおくの客船がわずかに頭でっかちで不安定につくられたということは、確かに事実である。 このことが、長い、快適な、しかし不安定なローリングを生じさせたが、多くの乗客は、みじかい、耳ざわりな、しかし安定したローリングよりも、これをこのんだ。 多数の大西洋横断の客船は、そういうふうに設計され、そして2、3回の船旅ののち、それらを操作しているひとびとは、荷積みし、バラストし、そして正確に操作する方法をまなび、そしてそれらの船は、いく十年間もの故障なしの運行を完成させた。 たった2回目の船旅で、正確にトリムされないうちに、はげしい嵐あるいは一発大波(freak wave)に遭ったことは、ワラタの不運であったかもしれない。 このわずかに頭でっかちで不安定な設計はまた、船が安定していると感じたかどうかにかんする証人の強く反対する意見の説明になりえた。 船上の未経験のあるいは知らされていないひとであれば、 船の、長い、ゆっくりとした、やわらかなローリングは、いごこちよくそして安全であると感じたと結論するかもしれないし、 いっぽうで、よりいっそう大洋航海の経験あるいは船の設計の知識のあるひとであれば、同じ運動は不安定であると感じたであろう。 積荷のないときの港内におけるワラタの不安定性を主張する証人にかんしては、 これが事実であったかもしれない。 しかしながら、じじつじょうすべての外洋航海船(これらは、けっきょくのところ、重量な貨物を運搬するように設計されている)は、空荷で移動されるときは或るていどバラストされる必要があり、そのためワラタはこの点ではたしかに唯一ではなかった。 証人がこのことにじゅうぶんに気づいていたであろうことは、注意されるべきである - 彼らがそれでもやはり進み出てきて、自分らはワラタをきけんなほどに不安定だと見なしたと証言したことは、この船が或る点で例外的であったことを示唆する。

ワラタは、また混用船(mixed-use ship)でもあった。 総トン数のわりにはちいさい貨物量の、旅客定期船は、かなり一定なそして予測し得るバラスティングの要件を有した。 ワラタのような船であれば、広範囲の貨物を、いや同じ船旅でさまざまな貨物をさえ、運ぶであろうし、そのためにバラスティングの問題は、いっそう複雑にもいっそう決定的にもいずれにもなる。[17] ワラタは、失踪したとき、1,000トンの鉛精鉱をはこんでいたが、これがとつぜん移動し、船を転覆させたかもしれない。[18]

ほかの諸説

一発大波(freak wave)

ワラタの失踪を説明するために提出されたもっとも普及している説は、一発大波との遭遇で、これはまた南アフリカ沿岸沖合で、「巨大波」(rogue wave)としても知られる。[19] こういう波は、この海域でふつうであることが知られている。 ワラタが限界的安定性(marginal stability)であるとおもわれるものを備えてそしてすでにはげしい嵐のなかを切ってすすんでいて、巨大な波に衝突したということは、もっともありそうである。 これが、船を完全にひっくり返すか、でなければカーゴ・ハッチをたたきこわすかして、船倉を水で満たし、船をほとんど即座に引きしずめた。 もし船が完全に転覆あるいはひっくり返ったならば、浮揚性の残骸は難破物の下にとらえられ、海域の遺体あるいは難破物の欠如の説明になるであろう。 この説は、ケープ・タウン大学(University of Cape Town)のマロリー教授(Professor Mallory)の論文(1973年)によって信頼性があたえられ、高さ20メートルの波がリチャーズ・ベー(Richards Bay)とアガラス岬(Cape Agulhas)にじっさいに発生することを示唆した。 もしワラタが安定していて耐航能力があると仮定すれば - 喜望峰の周囲のいくつかの船は、船倉を水浸しにする一発大波によってひどい損害を受けそして沈没寸前であった - この説もまた有効である。 世界ぢゅうで、メラニー・シュルテ(Melanie Schulte)(大西洋で沈没したドイツの船)[20]やダービーシャー(Derbyshire)(太平洋で沈没した英国のばら積み貨物船)のような船がとつぜん分解し、極端な天候のなかで数分間で沈没している。

なかには、沈没ではなく、船は一発大波によって無能力にされ、舵をうしない、陸と接触する手段もなく、南極大陸のほうへ押し流され、そして公海で難破したかまたは浸水沈没したことを示唆するひともいる。 しかしながら、難破物の不在のほかはなんの証拠もこの説を支持しない。

渦巻

失踪当時もそのごもいずれでも、いくにんかのひとびとは、ワラタは、風、海流および深海溝によってつくられる渦巻にとらえられたことを示唆しているが、うちいくつかはアフリカ南西沿岸沖にあることは知られている。 これであれば、難破物の欠如は説明がつくが、しかし、ほとんど即時に沈めるのにじゅうぶんな強さがある渦巻が示唆どおりにつくられ得るという堅い証拠はない。

爆発

ハーロー(前述)の高級船員からの証拠を仮定すると、 ワラタは石炭燃料庫の1つの突然の爆発によって破壊されたということが推測されている。 炭塵はたしかに自己燃焼することもあり、そして然るべき割合においては爆発性である。 しかしながら、もしたった1つの燃料庫でも爆発すれば、ワラタの大きさの船は即座に沈没し、だれも救命艇あるいはいかだを進水できず、そして難破物を遺さないであろう。[21]

超自然的

いくつかの超自然的な説もまた、ワラタの失踪を説明するために提出された。 クロード・ソーヤーはロンドンの調査に、自分は3回、ある男のヴィジョンを見たと報告したが、その男は「服を着て、長い刀剣をもっていた。 彼は右手に刀剣をもっていたし、そしてそれは血にまみれていた。」 このヴィジョンは、彼がワラタでの船旅をつづける決心をしなかった理由のひとつであった。[22]

メタン膨張

水上にうかぶ能力がじゅうぶんにある構造物が、大量のメタンガスの気泡によって密度がひくくさせられた水のなかにすぐに没するということが、まったくあり得るということが、近年、海底メタン膨張に関係する事象によって、しめされている。 メタンは、死んだ生き物の腐敗の生成物である。 低温で高圧の海底では、メタンは、水和させられたかたちにかわり、メタンがのがれることを蝋層がさまたげ、それが累積するにまかせる。 海中の地質学的な出来事が蝋層を破壊することもあり、大量のガスがのがれるにまかせ、表面まで気泡があがる。 ソヴィエト油井掘削装置は、これらのエピソードの1つののち海底下60フィート(約18.2メートル)まで完了したと判った。[要出典]

余波

ワラタの失踪、ブルー・アンカー・ラインの調査と批判は、おおくの逆宣伝となった。 ラインのチケットの売上は、急低下し、そしてワラタ(これは、当時のおおくの船とおなじく、実際の価額よりも低く保険をかけられていた)の建造にかかった巨大な財政的損失のために、会社は1910年にほかの諸船を主な競争者 P&O に売り、任意清算を表明することをよぎなくされた。[23]

記念物

イングランド、デヴォン、バックランド・フィレー(Buckland Filleigh)のパリッシュ・チャーチには、パーシヴァル・ジョン・ブラウン大佐を記念する記念物がある。 彼は、南オーストラリア、マウントガンビアの牧羊場から、ワラタで、イングランドに帰る途中であった。 彼の実家は、バックランド・ハウス(Buckland House)であった。

ウェールズ、ケレディジョンアベリストウィスの主な教会(main church)には、「 1909年 海上で難破したワラタ 三等航海士 ジョン・パートン・モーガンの幸福な記憶に」("in happy memory of John Purton Morgan, 3rd Officer SS Waratah lost at sea 1909")という記念板がある。

イングランド、ウエスト・サセックス、ボグナー・レジス(Bognor Regis)、セント・ウィルフリド教区教会には、記念板がある: 「教会の門はワラタにのって海上で水死したハリス・アーチボルド・ギブスを記念してあたえられた」("The church gates were given in memory of Harris Archibald Gibbs who was drowned at sea in the SS Waratah")

100周年記念板は、2009年7月27日に、オーストラリア、ヴィクトリア、クイーンズクリフ海事博物館(Queenscliffe Maritime Museum)で除幕された。

デヴォン、エクセター、ハイアー・セメタリー(Higher Cemetery)の記念物は、「1909年7月27日、ワラタで水死した」("drowned in SS Waratah 27th July 1909")トマス・ニューマン(Thomas Newman)を記念する。

脚注

注釈

文献

  • Harris, John (1989), Without Trace: The Last Voyages of Eight Ships, Mandarin, ISBN 0-7493-0043-4 

読書案内

  • "The Loss of the Waratah", The Times, 23 February 1911 p. 24
  • Esther Addley, "Sea yields our Titanic's Resting Place", The Weekend Australian, 17 July 1999
  • Sue Blane, "The Week in Quotes", Financial Times, 6 May 2004
  • Alan Laing, "Shipwreck expert abandons hunt for Clyde liner", The Herald, 4 May 2004
  • Tom Martin, "Almost a century after she vanished, scientists could now be on the verge of solving riddle of SS Waratah's last voyage", Sunday Express, 25 April 2004

外部リンク

関連項目