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「蛭子山古墳」の版間の差分

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{{日本の古墳
'''蛭子山古墳'''(えびすやまこふん)は[[京都府]][[与謝郡]][[与謝野町]]にある[[前方後円墳]]<ref name="kunisitei">{{国指定文化財等データベース|401|1668|蛭子山古墳}}。2014年11月9日閲覧。</ref>。発掘には[[梅原末治]]が当たった<ref name="kotoba">{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E8%9B%AD%E5%AD%90%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3-1443374 |title=えびすやまこふん【蛭子山古墳】 |publisher=コトバンク |accessdate=2014-11-09}}</ref>。[[1930年]][[7月8日]]に国の史跡に指定された<ref name="kunisitei" />。
|名称 = 蛭子山古墳<br />(蛭子山1号墳)
|画像 = [[File:Ebisuyama Kofun (Yosano) zenkei.JPG|280px]]<br />墳丘全景(右に後円部、左に前方部)
|所属 = 蛭子山古墳群
|所在地 = [[京都府]][[与謝郡]][[与謝野町]]字加悦・明石{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}
|位置 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|30|25.76|N|135|6|16.25|E|region:JP-26_type:landmark|display=inline,title|name=蛭子山古墳(蛭子山1号墳)}}
|形状 = [[前方後円墳]]
|規模 = 墳丘長145m<br />高さ16m(後円部)
|築造年代 = [[4世紀]]中頃
|埋葬施設 = 第1主体:[[舟形石棺]]直葬<br />第2主体:[[竪穴式石槨]]<br />第3主体:(推定)[[木棺]]直葬
|被葬者 =
|出土品 = [[銅鏡]]・鉄製武器・[[埴輪]]等
|史跡指定 = 国の[[史跡]]「蛭子山古墳」
|特記事項 = 日本海三大古墳の1つ
|地図2 = {{Location map+|Japan Kyoto|width=200|float=center|caption=|places=
{{Location map~|Japan Kyoto|lat_deg=35|lat_min=30|lat_sec=25.76|lon_deg=135|lon_min=6|lon_sec=16.25|label='''蛭子山古墳'''|label_size=90|position=right|mark=前方後円墳-北西.png|marksize=21}}
{{Location map~|Japan Kyoto|lat_deg=35|lat_min=44|lat_sec=6.00|lon_deg=135|lon_min=6|lon_sec=40.00|label=[[神明山古墳]]|label_size=80|position=right|mark=前方後円墳-北東.png|marksize=22}}
{{Location map~|Japan Kyoto|lat_deg=35|lat_min=40|lat_sec=41.00|lon_deg=135|lon_min=1|lon_sec=47.00|label=[[網野銚子山古墳|網野銚子山<br />古墳  ]]|label_size=80|position=bottom|mark=前方後円墳-北北東.png|marksize=22}}
}}}}
'''蛭子山古墳'''(えびすやまこふん)または'''蛭子山1号墳'''は、[[京都府]][[与謝郡]][[与謝野町]]字加悦・明石にある[[前方後円墳]]。蛭子山古墳群を構成する古墳の1つ。国の[[史跡]]に指定されている。


[[網野銚子山古墳]]([[京丹後市]]網野町)・[[神明山古墳]](京丹後市丹後町)と合わせて「日本海三大古墳」と総称される。
造成は4世紀、[[古墳時代#古墳時代前期|古墳時代前期]]<ref name="kotoba" />。全長はおよそ145[[メートル]]で、部位別にみると後円部の直径100メートル、高さ約13メートルで、前方部は幅62メートル、高さ約10メートル<ref name="kotoba" />。この古墳のサイズは丹後地方においては[[網野銚子山古墳]]、[[神明山古墳]]に次ぐ第3位に相当し<ref name="kotoba" />、「巨大前方後円墳」として分類される<ref name="hiro">{{Citation |和書 |last=広瀬 |first=和雄 |title=前方後円墳国家 |series=角川選書 |publisher=角川書店 |year=2003 |pages=226-227 |url=http://books.google.co.jp/books?id=53dh8EG184QC&printsec=frontcover&hl=ja#v=onepage&q&f=false }}</ref>。花崗岩製の石棺は後円部で発見され、副葬品も共に発掘された<ref name="kotoba" />。遺物には鉄器も含まれていた<ref name="kotoba" /><ref>{{Citation|和書 |author=川村眞一 |year=1941 |title=山梨縣丸山古墳の遺物概括 |journal=人類學雜誌 |volume=56 |number=8 |publisher=日本人類学会 |pages=401-412 |url=http://jlc.jst.go.jp/JST.Journalarchive/ase1911/56.401 }}</ref>。内訳は鏡、直刀、剣身、鉄鏃、鉄斧<ref name="kotoba" />。


現在は付近の作山古墳群(国の史跡)とともに与謝野町立古墳公園として整備されている。
この地域において、段築(3段<ref name="kotoba" />)、[[葺き石]]および[[円筒埴輪]]の3つを備えた古墳としては初期の部類にあたる<ref name="hiro" />。埴輪は外周部では円形に配置され、内側では[[形象埴輪]]も見られるとともに、方形に配置されていた<ref>前掲{{harv|広瀬|2003|pp=101-102}}。</ref>。


== 概要 ==
すぐ南の[[作山古墳 (与謝野町)|作山古墳]]群(つくりやま- )とともに復元と整備が行われた結果、1992年11月<ref>{{Cite web |url=http://www.town-yosano.jp/open_imgs/info/0000004614.pdf |title=与謝野町文化財保存活用基本計画 - 文化財保護から文化遺産の活用へ- |publisher=与謝野町教育委員会 |format=PDF |page=12 |date=2008-06-17 |accessdate=2014-11-09}}</ref>より与謝野町立古墳公園となっており、はにわ資料館が設置され遺物の展示なども行われている<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8E%E8%AC%9D%E9%87%8E%E7%94%BA%E7%AB%8B%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E5%85%AC%E5%9C%92%E3%81%AF%E3%81%AB%E3%82%8F%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8-812047 |title=与謝野町立古墳公園はにわ資料館とは |publisher=コトバンク |accessdate=2014-11-09}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.town-yosano.jp/wwwg/section/detail.jsp?common_id=403 |title=古墳公園はにわ資料館 |publisher=与謝野町 |accessdate=2014-11-09 }}</ref>。
[[File:Kayadani.jpg|thumb|220px|right|{{center|蛭子山古墳群の立地する[[加悦谷]]}}{{small|谷内には[[縄文時代|縄文]]・[[弥生時代|弥生]]・[[古墳時代]]にかけての多くの遺跡が分布する。}}]]
京都府北部、[[丹後半島]]付け根の[[加悦谷]]の、東縁にある中位段丘上に築造された大型前方後円墳である。台地上ではこの1号墳含む古墳8基が分布し、これらは「蛭子山古墳群」と総称される{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。これまで<!--2016年1月まで-->に5次の発掘調査が実施されている{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。

墳形は前方後円形で、前方部を北西方に向ける{{Sfn|蛭子山古墳(平凡社)|1981年}}。墳丘は3段築成{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。墳丘長は145メートルを測り、丹後半島では[[網野銚子山古墳]]([[京丹後市]]網野町、墳丘長198メートル)・[[神明山古墳]](京丹後市丹後町、墳丘長190メートル)に次ぐ第3位の規模になる{{Sfn|三浦到|2015年|pp=142-151}}。墳丘各段には[[埴輪]]列が巡らされているほか、墳丘表面には川原石の[[葺石]]が認められる{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。主体部の埋葬施設としては後円部中央において3基が認められており、そのうち中央の第1主体では[[舟形石棺]]および[[銅鏡]]・大刀などが発見されている{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。

この蛭子山1号墳は、[[古墳時代]]前期後半の[[4世紀]]中頃の築造と推定される<ref name="説明板"/>。[[弥生時代]]末期から古墳時代前期にかけての丹後半島では、日本海交易により伸長した一定勢力が存在したことが知られ、蛭子山1号墳含む三大古墳はその様子を物語る古墳になる{{Sfn|三浦到|2015年|pp=142-151}}。なお、谷1つを隔てて南50メートルほどの位置には中・小規模の古墳5基からなる作山古墳群(国の史跡)も築造されており、特に作山1号墳には蛭子山1号墳との関連性が指摘される<ref name="作山古墳群">作山古墳群の史跡説明板。</ref>

古墳域は[[1930年]]([[昭和]]5年)に2号墳・3号墳と合わせて「蛭子山古墳」として国の[[史跡]]に指定された<ref name="国指定"/>。その後、作山古墳群とともに復元・整備が行われ、[[1992年]]([[平成]]4年)11月からは蛭子山古墳群・作山古墳群などを範囲とする加悦町古墳公園(現・与謝野町立古墳公園)が開園した<ref name="与謝野町文化財保存活用基本計画">{{Cite web |url=http://www.town-yosano.jp/open_imgs/info/0000004614.pdf |title=与謝野町文化財保存活用基本計画 - 文化財保護から文化遺産の活用へ- |publisher=与謝野町教育委員会 |format=PDF |page=12 |date=2008-06-17 |accessdate=2014-11-09}}</ref>。

=== 来歴 ===
* [[1927年]]([[昭和]]2年)3月7日、[[北丹後地震]]に伴い後円部中央に地割れ。[[埴輪]]列の発見{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。
* [[1929年]](昭和4年)
** 墳頂にあった蛭子山神社の再建工事中、埴輪出土と舟形石棺の発見。次いで石棺の開棺・引き上げ(第1次調査){{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。
** 11月、府調査会の[[西田直二郎]]・佐藤虎雄による調査{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。
** 12月、府調査会の[[梅原末治]]による考古学的調査(第2次調査){{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。
* [[1930年]](昭和5年)7月8日、「蛭子山古墳」として国の[[史跡]]に指定<ref name="国指定"/>。
* [[1984年]](昭和59年)、石棺覆屋建て替えに伴う発掘調査(第3次調査)。石棺以外の主体部の検出<ref name="説明板"/>。
* [[1988年]](昭和63年)、1号墳の範囲確認の発掘調査(第4次調査){{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。
* [[1990年]]([[平成]]2年)、史跡整備に伴う発掘調査(第5次調査){{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。
* [[1992年]](平成4年)、加悦町古墳公園(現・与謝野町立古墳公園)が開園<ref name="与謝野町文化財保存活用基本計画"/>。

== 規模 ==
[[File:Ebisuyama Kofun (Yosano) kouenbu.JPG|thumb|220px|right|{{center|右に後円部、左奥に前方部}}{{small|後円部・前方部とも墳丘は3段築成。}}]]
古墳の規模は次の通り{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}<ref name="説明板">史跡説明板。</ref>。
* 墳丘長:145メートル(見かけ上は170メートル)
* 後円部 - 3段築成。墳丘主軸と直交方向にやや楕円形をなす。
** 直径:約100メートル
** 高さ:約16メートル
* 前方部 - 3段築成。
** 幅:約62メートル
** 高さ:約11メートル
<gallery>
File:Ebisuyama Kofun (Yosano) funcho-1.JPG|後円部墳頂<br />{{small|中央は舟形石棺の覆屋。}}
File:Ebisuyama Kofun (Yosano) funcho-2.JPG|後円部から前方部を望む
File:Ebisuyama Kofun (Yosano) funcho-3.JPG|前方部から後円部を望む
</gallery>

== 埋葬施設 ==
[[File:Ebisuyama Kofun (Yosano) sekkan.JPG|thumb|220px|right|{{center|後円部墳頂にある[[舟形石棺]]}}]]
主体部の埋葬施設としては、後円部中央に次の3基が認められている。
; 第1主体
: 中央。南北主軸の[[舟形石棺]]直葬。墓壙底面に礫を敷き、その上に[[花崗岩]](加悦谷産)製の刳抜式[[舟形石棺]]を据える{{Sfn|蛭子山古墳(続古墳)|2002年}}{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}<ref name="説明板"/>。石棺は全長3.1メートル・幅1.1メートルを測り、短辺側には突起を有するほか、内外に[[ベンガラ]]を塗り、頭位を南向きとして石枕を備える{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。棺内は荒らされていたが、調査では漢代の長宜子孫[[内行花文鏡]]および直刀などが発見された{{Sfn|蛭子山古墳(日本大百科全書)}}。また棺外からは、直刀・剣身・鉄鏃・鉄斧といった多数の鉄製武器類も検出された<ref name="説明板"/>{{Sfn|蛭子山古墳(日本大百科全書)}}。舟形石棺は現在も埋没部上の覆屋内に安置・保存されている{{Sfn|蛭子山古墳(平凡社)|1981年}}。
: 墓壙周囲には、南北6メートル・東西5.5メートルの範囲で溝が掘られ、そこに方形埴輪列が据えられていた{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。検出埴輪は33本で、元々の推定埴輪数は45本{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。この埴輪はほとんどが丹後型[[円筒埴輪]]と[[朝顔形埴輪]]で、コーナー部内側4ヶ所にのみ家形埴輪が置かれたとされる{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。
; 第2主体
: 東側。第1主体と平行する南北主軸の[[竪穴式石槨]]で{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}、石槨内法は全長3.6メートル・幅0.6メートル・深さ0.6メートル{{Sfn|蛭子山古墳(続古墳)|2002年}}。石槨内の詳細は不明{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。
: 墓壙周囲には南北5.5メートル・東西4メートルの範囲に方形埴輪列が巡らされていた{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。溝が掘られていた第1主体と異なり、1本ずつ据付穴が掘られていた{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。検出埴輪は11本で、元々の推定埴輪数は16本{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。埴輪の中には、家形埴輪や短甲形埴輪が認められている{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。
; 第3主体
: 西側。未調査のため詳細不明。墳丘主軸と直交方向の[[木棺]]直葬と推定され、墓壙が認められている{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。埴輪・葺石・段築は未確認{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。

== 出土品 ==
これまでの調査で検出された主な出土品は次の通り{{Sfn|蛭子山古墳(続古墳)|2002年}}{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。
; 第1主体
:* 舟形石棺内
:** 長宜子孫[[内行花文鏡]] 1
:** 三葉環式鉄刀 1
:* 石棺外
:** 鉄刀 5
:** 鉄剣
:** 鉄槍 20振
:** 鉄鏃 20余
:** 鉄斧 4
:** 鉄槍鉋 1
; 埴輪
: 丹後型[[円筒埴輪]]・[[朝顔形埴輪]]・形象埴輪(短甲形埴輪・鶏形埴輪・家形埴輪)

== 蛭子山古墳群 ==
台地上では1号墳(上述)のほかにも古墳数基が分布し、これらは「'''蛭子山古墳群'''(えびすやまこふんぐん)」と総称される<ref name="説明板"/>。遺跡台帳上では計8基とされ、1号墳・2号墳・3号墳の3基が国の史跡「蛭子山古墳」に指定されている<ref name="説明板"/>。
; 2号墳
: 1号墳の東隣に築造された[[方墳]]{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。長辺42メートル、短辺32メートル、高さ4.75メートルを測る{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。南辺西寄りに[[造出]]を有する可能性が指摘される{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。墳丘は2段築成であるが、3号墳と接する東側にテラスはない{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。[[葺石]]は存在しない可能性が高いとされ、墳頂部では[[埴輪]]の存在が確実と見られているが、詳細は明らかでない{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。この2号墳は、1号墳からやや後出する近い時期の築造と推定されている{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。
; 3号墳
: 一辺15メートル、高さ1.5メートルの方墳{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。未調査で詳細は明らかでない{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。

4-8号墳は小[[円墳]]とされるが(直径10メートル前後){{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}、8号墳は墳丘を残すものの4-7号墳に関しては詳らかでなく、[[弥生時代]]の墓の可能性も指摘される<ref name="説明板"/>。
<gallery>
File:Ebisuyama Kofun (Yosano) 2gou-fun.JPG|蛭子山2号墳
File:Ebisuyama Kofun (Yosano) Ebisu-jinja.JPG|2号墳墳頂の蛭子神社
File:Ebisuyama Kofun (Yosano) 3gou-fun.JPG|蛭子山3号墳
</gallery>

== 文化財 ==
=== 国の史跡 ===
* 蛭子山古墳 - 史跡範囲は蛭子山1号墳・2号墳・3号墳。昭和5年7月8日指定<ref name="国指定">{{国指定文化財等データベース|401|1668|蛭子山古墳}}</ref>。

== 考証 ==
蛭子山1号墳は、前述([[#概要|概要]]節)のように丹後半島において[[網野銚子山古墳]]([[京丹後市]]網野町)・[[神明山古墳]](京丹後市丹後町)に次ぐ第3位の規模になる{{Sfn|三浦到|2015年|pp=142-151}}。これら3基は日本海側で圧倒的に規模が大きいことから、「'''日本海三大古墳'''」と総称される{{Sfn|三浦到|2015年|pp=142-151}}。蛭子山1号墳は、三大古墳のうちで3番目の規模であるが最も早い築造であり、当時としては丹後半島で最大規模になるほか{{Sfn|京都府の歴史|1999年|pp=31-40}}{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}{{Sfn|三浦到|2015年|pp=142-151}}、この地域において段築・葺石・[[円筒埴輪]]の3つを備えた古墳としても初期の部類とされる<ref name="広瀬和雄">{{Citation |和書 |author=[[広瀬和雄]] |title=前方後円墳国家 |series=角川選書 |publisher=角川書店 |year=2003 |pages=226-227 |url=http://books.google.co.jp/books?id=53dh8EG184QC&printsec=frontcover&hl=ja#v=onepage&q&f=false }}</ref>。

[[弥生時代]]末期から古墳時代前期にかけての丹後半島では、日本海交易により一定勢力が伸長したといわれる{{Sfn|三浦到|2015年|pp=142-151}}。上記の三大古墳では、いずれも丹後型円筒埴輪という丹後半島特有の在地性埴輪の使用が見られ{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}、蛭子山1号墳の舟形石棺も在地色の強い様式になる{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=209-211}}。このような丹後地方の勢力(タニハ勢力)を独自的な勢力と見て「丹後王国」と呼称する説もあるが(「[[丹後王国論]]」参照)、古墳の墳形自体はヤマト王権特有の前方後円形をなし、弥生時代までと異なり古墳時代以降ではヤマト王権への強い従属性を示している{{Sfn|京都府の歴史|1999年|pp=31-40}}。なお三大古墳の後の[[5世紀]]に入ると、タニハ勢力の主要地は南の[[雲部車塚古墳]]([[兵庫県]][[篠山市]])に移り{{Sfn|京都府の歴史|1999年|pp=31-40}}、丹後地方では大型古墳は築造されなくなる。

== 現地情報 ==
'''関連施設'''
* はにわ資料館
*: 与謝野町立古墳公園に併設。蛭子山古墳群・作山古墳群からの出土品、および周辺地域からの出土品を展示<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8E%E8%AC%9D%E9%87%8E%E7%94%BA%E7%AB%8B%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E5%85%AC%E5%9C%92%E3%81%AF%E3%81%AB%E3%82%8F%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8-812047 |title=与謝野町立古墳公園はにわ資料館とは |publisher=コトバンク |accessdate=2014-11-09}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.town-yosano.jp/wwwg/section/detail.jsp?common_id=403 |title=古墳公園はにわ資料館 |publisher=与謝野町 |accessdate=2014-11-09 }}</ref>。

[[File:Tsukuriyama Kofungun (Yosano) gaikan.JPG|thumb|220px|right|{{center|作山古墳群(国の史跡)}}]]
'''周辺'''
* 作山古墳群(つくりやまこふんぐん、与謝野町字明石)
*: 国の史跡「作山古墳」。蛭子山古墳群の南50メートルに位置する、中・小規模古墳5基および木棺墓26基からなる古墳群。古墳時代前期後半から中期初頃の築造と推定される。埴輪・石棺材質の点で蛭子山1号墳との共通性が指摘され<ref name="作山古墳群"/>、蛭子山1号墳の下位首長の墓と推測される{{Sfn|加悦町史 資料編 第1巻|2007年|pp=233-235}}。現在までに古墳群は復元・整備され、蛭子山古墳群とともに与謝野町立古墳公園の範囲に含まれている。
* [[白米山古墳]](しらげやまこふん、与謝野町後野白米山)
*: 国の史跡。蛭子山古墳群の南約1.5キロメートルに位置する、墳丘長約90メートルの前方後円墳。古墳時代前期中頃の築造と推定され、築造当時としては丹後半島で最大規模になる<ref name="白米山古墳">{{国指定文化財等データベース|401|3332|白米山古墳}}</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{reflist|2}}

== 参考文献 ==
* 与謝野町立古墳公園パンフレット
* 史跡説明板(2003年3月加悦町設置(墳頂)、与謝野町教育委員会設置(墳丘下))
* 地方自治体史
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2007|chapter=|title=加悦町史 資料編 第1巻|publisher=与謝野町|isbn=|ref={{Harvid|加悦町史 資料編 第1巻|2007年}}}}
* 百科事典
** {{Cite book|和書|editor=|author=[[大塚初重]]|year=|chapter=蛭子山古墳|title=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=|ref={{Harvid|蛭子山古墳(国史)}}}}
** {{Cite book|和書|editor=|author=久保哲三|year=|chapter=蛭子山古墳|title=[[日本大百科全書]](ニッポニカ)|publisher=[[小学館]]|isbn=|ref={{Harvid|蛭子山古墳(日本大百科全書)}}}}
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1981|chapter=蛭子山古墳|title=[[日本歴史地名大系]] 26 京都府の地名|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582490268|ref={{Harvid|蛭子山古墳(平凡社)|1981年}}}}
** {{Cite book|和書|editor=|author=加藤晴彦|year=2002|chapter=蛭子山古墳|title=[[日本古墳大辞典|続 日本古墳大辞典]]|publisher=[[東京堂出版]]|isbn=978-4490105995|ref={{Harvid|蛭子山古墳(続古墳)|2002年}}}}
** {{Wikicite|reference=[https://kotobank.jp/word/%E8%9B%AD%E5%AD%90%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3-1443374 「蛭子山古墳」]『国指定史跡完全ガイド』 講談社(リンクは朝日新聞社「コトバンク」)|ref={{Harvid|国指定史跡完全ガイド}}}}。
* その他文献
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== 関連項目 ==
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* [[丹後王国論]]
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== 外部リンク ==
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* [http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=163081&isHighlight=true&pageId=9 文化遺産オンライン]
* [http://www.kyt-net.jp/tangonokofun/ 与謝野町立古墳公園] - 公式サイト
* {{国指定文化財等データベース|401|1668|蛭子山古墳}}


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2016年2月9日 (火) 23:40時点における版

蛭子山古墳
(蛭子山1号墳)

墳丘全景(右に後円部、左に前方部)
所属 蛭子山古墳群
所在地 京都府与謝郡与謝野町字加悦・明石[1]
位置 北緯35度30分25.76秒 東経135度6分16.25秒 / 北緯35.5071556度 東経135.1045139度 / 35.5071556; 135.1045139 (蛭子山古墳(蛭子山1号墳))座標: 北緯35度30分25.76秒 東経135度6分16.25秒 / 北緯35.5071556度 東経135.1045139度 / 35.5071556; 135.1045139 (蛭子山古墳(蛭子山1号墳))
形状 前方後円墳
規模 墳丘長145m
高さ16m(後円部)
埋葬施設 第1主体:舟形石棺直葬
第2主体:竪穴式石槨
第3主体:(推定)木棺直葬
出土品 銅鏡・鉄製武器・埴輪
築造時期 4世紀中頃
史跡 国の史跡「蛭子山古墳」
特記事項 日本海三大古墳の1つ
地図
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蛭子山古墳(えびすやまこふん)または蛭子山1号墳は、京都府与謝郡与謝野町字加悦・明石にある前方後円墳。蛭子山古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている。

網野銚子山古墳京丹後市網野町)・神明山古墳(京丹後市丹後町)と合わせて「日本海三大古墳」と総称される。

現在は付近の作山古墳群(国の史跡)とともに与謝野町立古墳公園として整備されている。

概要

蛭子山古墳群の立地する加悦谷
谷内には縄文弥生古墳時代にかけての多くの遺跡が分布する。

京都府北部、丹後半島付け根の加悦谷の、東縁にある中位段丘上に築造された大型前方後円墳である。台地上ではこの1号墳含む古墳8基が分布し、これらは「蛭子山古墳群」と総称される[1]。これまでに5次の発掘調査が実施されている[1]

墳形は前方後円形で、前方部を北西方に向ける[2]。墳丘は3段築成[1]。墳丘長は145メートルを測り、丹後半島では網野銚子山古墳京丹後市網野町、墳丘長198メートル)・神明山古墳(京丹後市丹後町、墳丘長190メートル)に次ぐ第3位の規模になる[3]。墳丘各段には埴輪列が巡らされているほか、墳丘表面には川原石の葺石が認められる[1]。主体部の埋葬施設としては後円部中央において3基が認められており、そのうち中央の第1主体では舟形石棺および銅鏡・大刀などが発見されている[1]

この蛭子山1号墳は、古墳時代前期後半の4世紀中頃の築造と推定される[4]弥生時代末期から古墳時代前期にかけての丹後半島では、日本海交易により伸長した一定勢力が存在したことが知られ、蛭子山1号墳含む三大古墳はその様子を物語る古墳になる[3]。なお、谷1つを隔てて南50メートルほどの位置には中・小規模の古墳5基からなる作山古墳群(国の史跡)も築造されており、特に作山1号墳には蛭子山1号墳との関連性が指摘される[5]

古墳域は1930年昭和5年)に2号墳・3号墳と合わせて「蛭子山古墳」として国の史跡に指定された[6]。その後、作山古墳群とともに復元・整備が行われ、1992年平成4年)11月からは蛭子山古墳群・作山古墳群などを範囲とする加悦町古墳公園(現・与謝野町立古墳公園)が開園した[7]

来歴

  • 1927年昭和2年)3月7日、北丹後地震に伴い後円部中央に地割れ。埴輪列の発見[1]
  • 1929年(昭和4年)
    • 墳頂にあった蛭子山神社の再建工事中、埴輪出土と舟形石棺の発見。次いで石棺の開棺・引き上げ(第1次調査)[1]
    • 11月、府調査会の西田直二郎・佐藤虎雄による調査[1]
    • 12月、府調査会の梅原末治による考古学的調査(第2次調査)[1]
  • 1930年(昭和5年)7月8日、「蛭子山古墳」として国の史跡に指定[6]
  • 1984年(昭和59年)、石棺覆屋建て替えに伴う発掘調査(第3次調査)。石棺以外の主体部の検出[4]
  • 1988年(昭和63年)、1号墳の範囲確認の発掘調査(第4次調査)[1]
  • 1990年平成2年)、史跡整備に伴う発掘調査(第5次調査)[1]
  • 1992年(平成4年)、加悦町古墳公園(現・与謝野町立古墳公園)が開園[7]

規模

右に後円部、左奥に前方部
後円部・前方部とも墳丘は3段築成。

古墳の規模は次の通り[1][4]

  • 墳丘長:145メートル(見かけ上は170メートル)
  • 後円部 - 3段築成。墳丘主軸と直交方向にやや楕円形をなす。
    • 直径:約100メートル
    • 高さ:約16メートル
  • 前方部 - 3段築成。
    • 幅:約62メートル
    • 高さ:約11メートル

埋葬施設

後円部墳頂にある舟形石棺

主体部の埋葬施設としては、後円部中央に次の3基が認められている。

第1主体
中央。南北主軸の舟形石棺直葬。墓壙底面に礫を敷き、その上に花崗岩(加悦谷産)製の刳抜式舟形石棺を据える[8][1][4]。石棺は全長3.1メートル・幅1.1メートルを測り、短辺側には突起を有するほか、内外にベンガラを塗り、頭位を南向きとして石枕を備える[1]。棺内は荒らされていたが、調査では漢代の長宜子孫内行花文鏡および直刀などが発見された[9]。また棺外からは、直刀・剣身・鉄鏃・鉄斧といった多数の鉄製武器類も検出された[4][9]。舟形石棺は現在も埋没部上の覆屋内に安置・保存されている[2]
墓壙周囲には、南北6メートル・東西5.5メートルの範囲で溝が掘られ、そこに方形埴輪列が据えられていた[1]。検出埴輪は33本で、元々の推定埴輪数は45本[1]。この埴輪はほとんどが丹後型円筒埴輪朝顔形埴輪で、コーナー部内側4ヶ所にのみ家形埴輪が置かれたとされる[1]
第2主体
東側。第1主体と平行する南北主軸の竪穴式石槨[1]、石槨内法は全長3.6メートル・幅0.6メートル・深さ0.6メートル[8]。石槨内の詳細は不明[1]
墓壙周囲には南北5.5メートル・東西4メートルの範囲に方形埴輪列が巡らされていた[1]。溝が掘られていた第1主体と異なり、1本ずつ据付穴が掘られていた[1]。検出埴輪は11本で、元々の推定埴輪数は16本[1]。埴輪の中には、家形埴輪や短甲形埴輪が認められている[1]
第3主体
西側。未調査のため詳細不明。墳丘主軸と直交方向の木棺直葬と推定され、墓壙が認められている[1]。埴輪・葺石・段築は未確認[1]

出土品

これまでの調査で検出された主な出土品は次の通り[8][1]

第1主体
  • 舟形石棺内
  • 石棺外
    • 鉄刀 5
    • 鉄剣
    • 鉄槍 20振
    • 鉄鏃 20余
    • 鉄斧 4
    • 鉄槍鉋 1
埴輪
丹後型円筒埴輪朝顔形埴輪・形象埴輪(短甲形埴輪・鶏形埴輪・家形埴輪)

蛭子山古墳群

台地上では1号墳(上述)のほかにも古墳数基が分布し、これらは「蛭子山古墳群(えびすやまこふんぐん)」と総称される[4]。遺跡台帳上では計8基とされ、1号墳・2号墳・3号墳の3基が国の史跡「蛭子山古墳」に指定されている[4]

2号墳
1号墳の東隣に築造された方墳[1]。長辺42メートル、短辺32メートル、高さ4.75メートルを測る[1]。南辺西寄りに造出を有する可能性が指摘される[1]。墳丘は2段築成であるが、3号墳と接する東側にテラスはない[1]葺石は存在しない可能性が高いとされ、墳頂部では埴輪の存在が確実と見られているが、詳細は明らかでない[1]。この2号墳は、1号墳からやや後出する近い時期の築造と推定されている[1]
3号墳
一辺15メートル、高さ1.5メートルの方墳[1]。未調査で詳細は明らかでない[1]

4-8号墳は小円墳とされるが(直径10メートル前後)[1]、8号墳は墳丘を残すものの4-7号墳に関しては詳らかでなく、弥生時代の墓の可能性も指摘される[4]

文化財

国の史跡

  • 蛭子山古墳 - 史跡範囲は蛭子山1号墳・2号墳・3号墳。昭和5年7月8日指定[6]

考証

蛭子山1号墳は、前述(概要節)のように丹後半島において網野銚子山古墳京丹後市網野町)・神明山古墳(京丹後市丹後町)に次ぐ第3位の規模になる[3]。これら3基は日本海側で圧倒的に規模が大きいことから、「日本海三大古墳」と総称される[3]。蛭子山1号墳は、三大古墳のうちで3番目の規模であるが最も早い築造であり、当時としては丹後半島で最大規模になるほか[10][1][3]、この地域において段築・葺石・円筒埴輪の3つを備えた古墳としても初期の部類とされる[11]

弥生時代末期から古墳時代前期にかけての丹後半島では、日本海交易により一定勢力が伸長したといわれる[3]。上記の三大古墳では、いずれも丹後型円筒埴輪という丹後半島特有の在地性埴輪の使用が見られ[1]、蛭子山1号墳の舟形石棺も在地色の強い様式になる[1]。このような丹後地方の勢力(タニハ勢力)を独自的な勢力と見て「丹後王国」と呼称する説もあるが(「丹後王国論」参照)、古墳の墳形自体はヤマト王権特有の前方後円形をなし、弥生時代までと異なり古墳時代以降ではヤマト王権への強い従属性を示している[10]。なお三大古墳の後の5世紀に入ると、タニハ勢力の主要地は南の雲部車塚古墳兵庫県篠山市)に移り[10]、丹後地方では大型古墳は築造されなくなる。

現地情報

関連施設

  • はにわ資料館
    与謝野町立古墳公園に併設。蛭子山古墳群・作山古墳群からの出土品、および周辺地域からの出土品を展示[12][13]
作山古墳群(国の史跡)

周辺

  • 作山古墳群(つくりやまこふんぐん、与謝野町字明石)
    国の史跡「作山古墳」。蛭子山古墳群の南50メートルに位置する、中・小規模古墳5基および木棺墓26基からなる古墳群。古墳時代前期後半から中期初頃の築造と推定される。埴輪・石棺材質の点で蛭子山1号墳との共通性が指摘され[5]、蛭子山1号墳の下位首長の墓と推測される[14]。現在までに古墳群は復元・整備され、蛭子山古墳群とともに与謝野町立古墳公園の範囲に含まれている。
  • 白米山古墳(しらげやまこふん、与謝野町後野白米山)
    国の史跡。蛭子山古墳群の南約1.5キロメートルに位置する、墳丘長約90メートルの前方後円墳。古墳時代前期中頃の築造と推定され、築造当時としては丹後半島で最大規模になる[15]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am 加悦町史 資料編 第1巻 & 2007年, pp. 209–211.
  2. ^ a b 蛭子山古墳(平凡社) & 1981年.
  3. ^ a b c d e f 三浦到 & 2015年, pp. 142–151.
  4. ^ a b c d e f g h 史跡説明板。
  5. ^ a b 作山古墳群の史跡説明板。
  6. ^ a b c 蛭子山古墳 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  7. ^ a b 与謝野町文化財保存活用基本計画 - 文化財保護から文化遺産の活用へ-” (PDF). 与謝野町教育委員会. p. 12 (2008年6月17日). 2014年11月9日閲覧。
  8. ^ a b c 蛭子山古墳(続古墳) & 2002年.
  9. ^ a b 蛭子山古墳(日本大百科全書).
  10. ^ a b c 京都府の歴史 & 1999年, pp. 31–40.
  11. ^ 広瀬和雄前方後円墳国家』角川書店〈角川選書〉、2003年、226-227頁http://books.google.co.jp/books?id=53dh8EG184QC&printsec=frontcover&hl=ja#v=onepage&q&f=false 
  12. ^ 与謝野町立古墳公園はにわ資料館とは”. コトバンク. 2014年11月9日閲覧。
  13. ^ 古墳公園はにわ資料館”. 与謝野町. 2014年11月9日閲覧。
  14. ^ 加悦町史 資料編 第1巻 & 2007年, pp. 233–235.
  15. ^ 白米山古墳 - 国指定文化財等データベース(文化庁

参考文献

  • 与謝野町立古墳公園パンフレット
  • 史跡説明板(2003年3月加悦町設置(墳頂)、与謝野町教育委員会設置(墳丘下))
  • 地方自治体史
    • 『加悦町史 資料編 第1巻』与謝野町、2007年。 
  • 百科事典
    • 大塚初重「蛭子山古墳」『国史大辞典吉川弘文館 
    • 久保哲三「蛭子山古墳」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館 
    • 「蛭子山古墳」『日本歴史地名大系 26 京都府の地名』平凡社、1981年。ISBN 978-4582490268 
    • 加藤晴彦「蛭子山古墳」『続 日本古墳大辞典東京堂出版、2002年。ISBN 978-4490105995 
    • 「蛭子山古墳」『国指定史跡完全ガイド』 講談社(リンクは朝日新聞社「コトバンク」)
  • その他文献

関連項目

外部リンク