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#REDIRECT[[満洲事変]]
{{Battlebox
|battle_name= 満洲事変
|conflict= 満洲事変|partof=
|image= [[File:Mukden 1931 japan shenyang.jpg|250px]]
|caption= 満洲事変で[[瀋陽]]に入る日本軍。
|date= [[1931年]][[9月18日]] - [[1932年]][[2月18日]]
|place= {{ROC}}、[[満州]]
|result= 関東軍による中国東北全域支配
|combatant1= {{Flagicon|CHN1928}} [[国民革命軍]]
|combatant2= {{flagicon|JPN1889}} [[大日本帝国陸軍]]
|commander1= [[File:Republic of China Army Flag.svg|22px|border]][[張学良]]<br>[[File:Republic of China Army Flag.svg|22px|border]][[馬占山]]<br>[[File:Republic of China Army Flag.svg|22px|border]][[馮占海]]
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|casualties2=?
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'''満洲事変'''(まんしゅうじへん、{{旧字体|滿洲事變}}、[[英語]]:''Mukden Incident'', ''Manchurian Incident'')は、[[1931年]]([[昭和]]6年、[[民国紀元|民国]]20年)[[9月18日]]に[[中華民国]][[奉天]](現[[瀋陽]])郊外の柳条湖で、[[関東軍]]<ref group="注釈">(満洲駐留の[[大日本帝国陸軍]]の[[軍]]</ref>が[[南満州鉄道]]の線路を爆破した事件('''[[柳条湖事件]]'''<ref group="注釈">[[石原莞爾]]と[[板垣征四郎]]は否定したが、[[極東国際軍事裁判]]の[[田中隆吉]]の証言と、当時関東軍司令部付であった[[花谷正]]の手記という形の原稿「満洲事変はこうして計画された」(別冊『知性』昭和31年12月号)により関東軍の関与が明らかとなった。ただし、南満洲鉄道の日本爆破説の真偽を確証できないと主張するものもある([[中西輝政]]・[[北村稔]]『歴史通』2011年3月号『さきに「平和」を破ったのは誰か』)</ref>)に端を発し、関東軍による[[満州]](現[[中国東北部]])全土の占領を経て、[[1933年]][[5月31日]]の[[塘沽協定]]成立に至る、[[日本]]と[[中華民国]]との間の武力[[紛争]]([[事変]])である。通常「満州事変」と表記されることが多いが、元もと「満州」は「満洲」と表記されていた。「州」と「洲」は新旧漢字の関係ではなく別文字なので、「満洲」が正しいとして、研究者を中心に「満洲」と表記する人も増えている。中国側の呼称は'''九一八事変'''<ref group="注釈">現在柳条湖の事件現場には[[九・一八歴史博物館]]が建てられている。この博物館には事件の首謀者としてただ2人、板垣と石原のレリーフが掲示されている</ref>。

関東軍はわずか5か月の間に満洲全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。

この軍事衝突を境に、中国東北部を占領する関東軍と現地の[[抗日]]運動との衝突が徐々に激化した。[[満州国|満洲国]]の建国により中国市場に関心を持つ[[アメリカ合衆国|アメリカ]]ら他の列強との対立も深刻化した<ref group="注釈">[[十五年戦争]](中国での名称は、十四年抗日戦争)の概念は満州事変を基点として戦争が始まったとの考えに基づいている。</ref>。

== 満洲事変までの経緯 ==
===条約無効問題と国権回復運動===
中国は[[清国|清朝]]時代の[[1902年]]の[[英清通商航海条約]]改正交渉より、[[領事裁判権]]の撤廃や[[関税自主権]]の回復など[[国権回復運動 (中国)|国権の回復]]に着手しており、中華民国蒋介石派は1919年7月の[[レフ・カラハン#カラハン宣言|カラハン宣言]]以降、急速に共産主義勢力に接近し、[[継承国|国家継承における条約継承否定説]]を採用し、日本との過去の条約(日清間の諸条約)の無効を主張しはじめた。とくに[[北伐#国民党による北伐|第二次北伐]]に着手中の1928年7月19日には[[日清通商航海条約]]の破毀を一方的に宣言し、これに対して日本政府はその宣言の無効を主張した。また1915年のいわゆる[[対華21カ条要求]]をめぐる外交交渉のさい対日制裁として発布された[[懲弁国賊条例]]はこの交渉で締約した2条約13公文に完全に違背する条例であったが、1929年に強化され「土地盗売厳禁条例」「商租禁止令」などおよそ59の追加法令となり、日本人に対する土地・家屋の商租禁止と従前に貸借している土地・家屋の回収が図られた<ref>「「満州国」の法と政治」山室信一(京都大学人文学報1991.3)P.132、,PDF-P.5及びP.137,PDF-P.10脚注5[http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48355/1/68_129.pdf]</ref>。[[間島]]や満州各地の朝鮮系を中心とした日本人居住者は立ち退きを強要されあるいは迫害された。このことは満州事変の大きな要因となる<ref>「世界史のなかの満州帝国」[[宮脇淳子]](PHP新書387)第八章「満州帝国の成立」排日運動の激化</ref>。

=== 満鉄と中国革命 ===
{{Main|南満州鉄道}}
[[1905年]](明治38年)、[[日露戦争]]に勝利した日本は、[[ロシア]]との間に[[ポーツマス条約|ポーツマス条約(日露講和条約)]]を締結した。この条約には、ロシア政府が[[清|清国]]政府の承諾をもって、[[旅順]]、[[大連市|大連]]の租借権と[[長春]] - 旅順間の[[鉄道]]及び支線や付属設備の[[権利]]・[[財産]]を日本政府に移転譲渡することが定められた。この規定に基づいて同年には日清間でロシア権益の継承に加えて併行する鉄道新設の禁止などを定めた[[満洲善後条約]]が締結された。これにより、日本政府は「[[南満州鉄道]]」(満鉄)を[[1906年]](明治39年)6月7日の勅令第142号をもって創設し、同年7月31日の勅令196号をもって[[関東都督府]]を設置した。なお、[[辛亥革命]]にはじまる中国革命と南満州鉄道にかかわる年譜を下に示す。

*第一次革命(1911年(明治44年、宣統2年)10月)
**1911年5月、鉄道国有化問題惹起
**1912年1月1日、[[南京]]に臨時政府確立
*第二次革命(1913年(大正2年、民国2年)7月)
**第二次革命の失敗により、同年10月に[[袁世凱]]が正式な[[中華民国大総統]]に就任。陸海軍大元帥を兼ねる
*第三次革命(1916年(大正5年、民国5年)1月)
**同年6月、袁世凱の死亡により[[黎元洪]]が大総統に就任、南方諸省は独立を取り消す
*満州宗社党問題(1916年(大正5年、民国5年))
**満州では、[[趙爾巽]]、[[張作霖]]は革命に反対だったが、袁には抗えず、袁と妥協するに至った。袁世凱の帝政の反動により、清復辟を目的とする[[宗社党]]は、吉林将軍[[孟恩遠]]と謀り満州に騒乱を起こすため、張作霖爆殺を試みたが失敗。
**蒙古人[[バボージャブ|巴布札布]](パブチャブ)は宗社党の首領として蒙古兵を率いて南下。南満線郭家店に出て、満鉄線を挟んで奉天派と対陣するが、日本の抗議で休戦し蒙古へ引き揚げる。その後巴布札布の死により蒙古軍は四散する。
*南北政権の対立(1917年(大正6年、民国6年))
**袁の死後、[[段祺瑞]]は段祺瑞内閣を組織するが、約法旧国会回復を無視したため、広東非常国会及び同軍政府はそれを非難して北京政府に対抗し、南北政府の対立が起こった。
*[[北伐#国民党による北伐|北伐]](1922年(大正11年、民国11年))
*;第一次北伐
*:北京政府内で直隷派の[[呉佩孚]]、安薇派の段祺瑞を圧し、武力統一政策を執った。一方、南方広東政府は内部安定と広西占領の余勢を駆って北伐を決し、同年に[[孫文]]を陣頭に立て北伐を行おうとしたが、南軍[[陳炯明]]の反旗で失敗。
*;第二次北伐
*:国民党は[[ソビエト連邦]]と提携し共産党合流を容認、1923年(民国12年)陳炯明を破り、広東に更生した[[蒋介石]]をもって[[奉直戦争]]を行い、この機に第二次北伐を行なったが[[馮玉祥]]の寝返りで頓挫し、孫文は北京に入り1925年(民国14年)3月に死去した。第二次北伐は失敗に終わる。
*張郭戦争(1925年(大正14年、民国14年)11月)
**張作霖は第二次奉直戦争後、關内に進出し直隷、山東、安薇、江蘇の中央書証を手中に収め、中央政権の掌握をしようとした。福、浙の[[孫伝芳]]討張の兵を挙げ、江蘇の[[楊宇廷]]、呉佩孚は漢口で立ち奉天派と提携、国民軍奉天派に呼応し、奉天派の重鎮[[郭松齢]]は張作霖と対峙した。
**{{要出典範囲|この戦いにより満州は兵乱の巷となり、日本は在留邦人保護のため増兵した。この結果、張作霖に有利な戦いとなり、12月に郭を葬り、辛うじて満州王国の崩壊を免れた。|date=2012年2月}}
*1928年、以下のような記事が新聞発表された。
{{Quotation
|1=
電報 昭和3年6月1日<br>
参謀長宛 「ソ」連邦大使館付武官<br>
第47号<br>

5月26日「チコリス」軍事新聞「クラスヌイオイン」は24日上海電として左の記事を掲載せり<br>
張作霖は楊宇廷に次の条件に依り日本と密約の締結すべきを命ぜり<br>

一.北京政府は日本に対し山東半島の99年の租借を許し<br>
二.その代償として日本は張に五千万弗の借款を締結し<br>
三.尚日本は満州に於ける鉄道の施設権の占有を受く
}}

=== 奉天票問題及び現大洋票 ===
{{Main|奉天票問題|現大洋票}}
奉天票は1918年1月4日以降、[[不換紙幣]]であったため<ref>[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00817456&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 不換紙幣の標本奉天票 金と物どう動く] 東京朝日新聞 1926年5月30日</ref>、度々暴落を起こしており、この問題が[[奉天票問題]]と呼ばれていた。1929年6月に[[現大洋票]]への幣制改革が行われた。

{{節stub}}

=== 四ヶ国共同管理案 ===
{{節stub}}
1922年、日英米仏の四国公使が中華民国政府に対し財政整理勧告を出した<ref name="soviet-and-far-east">[https://books.google.co.jp/books?id=mTrEHdGuWBsC&pg=frontcover ソヴィエト露国の極東進出] 斎藤良衛 1931年8月15日</ref>。1923年、鉄道において[[臨城事件]]が起こり、多数の英米人が被害を受けたため、英米を中心に列強による鉄道警備管理共同案が議論された<ref name="soviet-and-far-east"/>。また、中華民国の内政全ての共同管理案も議論されていた<ref name="china-and-world">[https://books.google.co.jp/books?id=yDY2iL55cIkC&pg=frontcover 最近支那国際関係] 斎藤良衛 1931年11月4日</ref>。

この列強による共同管理案は、中華民国広東政府をソ連へと近づけさせ[[国共合作#第一次国共合作|第一次国共合作]]を始めさせたり、直隷派の北京政府に[[カラハン協定]]及び{{仮リンク|中蘇解決懸案大綱協定|zh|中蘇解決懸案大綱協定}}を結ばさせる原動力となってしまった<ref name="china-and-world"/>。

中ソ紛争敗北後、真偽不明ではあるが、白系ロシア人である奉天キリル派代表のペトゥホーフが「支那側に交渉中なるが、最近南京政府に於ては赤露勢力を北満より一掃し併て今後東鉄に関する絲●を除去する為め日英米仏四ヶ国の国際共同管理を認めんとの意向を有する向ある」と話していたとされる<ref>[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B10074612100?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2010080510101801806&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId& 標題:白系露人ノ策動 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074612100、東支鉄道関係一件/支那側ノ東支鉄道強制収用ニ原因スル露、支紛争問題(一九二九年)/白系露人ノ策動(B-F-1-9-2-5_4_5)(外務省外交史料館)」] P.55~56 1929年</ref>。

=== 東三省政府の財政・国軍の中央への統合問題 ===
{{節stub}}

=== 張作霖爆殺事件と張学良の易幟 ===
{{Main|張作霖爆殺事件}}
[[File:Huanggutun Incident03.PNG|thumb|250px|張作霖爆殺事件の現場]]
関東軍は、地元の親日派軍閥長である張作霖に[[軍事顧問|軍事顧問団]]を送り、取り込みを図った。しかし、張作霖が排日運動の高まりや欧米からの支援をとりつけようと日本との距離を置き、海外資本の提供をうけて、いわゆる満鉄の並行線を建設し始めると、両者の関係は悪化した。[[1928年]](昭和3年)[[6月4日]]、関東軍は張作霖が乗る列車を秘密裏に爆破し、[[殺害]]した([[張作霖爆殺事件]])。事件を首謀した[[河本大作]]大佐は、[[予備役]]に回される軽い処分とされた。[[田中義一内閣]]はこの事件処理をめぐり[[昭和天皇]]から不興を買ったことにより、翌年7月になって総辞職に追い込まれた。

[[ロシア人]]歴史作家の[[ドミトリー・プロホロフ]]により、張作霖爆殺事件は[[ロシア連邦軍参謀本部情報総局|GRU]]が実行したものという説も存在している<ref group="注釈">ブロホロフについては、[http://megalodon.jp/2010-0107-2038-44/www.apa.co.jp/appletown/pdf/taidan/0912taidan.html APAグループ特別対談 1928年の張作霖の爆殺事件はソ連の特務機関の犯行だ]を参照のこと。2006年2月28日‎産経新聞におけるプロホロフ紹介の肩書きによれば彼の職業は「歴史作家」である。</ref><ref group="注釈">『[[マオ 誰も知らなかった毛沢東]]』によって[[コミンテルン]]が関与していると世界25ヶ国で紹介された。しかし、[[2010年]]現在のところ、この説が歴史学の専門誌である『史学雑誌』『歴史学研究』では採り上げられたことはない。</ref>。詳細については「[[張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説]]」を参照。

{{要出典範囲|張作霖爆殺事件によって、日本は国際的な批判を浴びた。|date=2013年7月}}張作霖の後を継いだ息子の[[張学良]]は、[[蒋介石]]の[[蒋介石政権|南京国民政府]]への合流を決行([[易幟]])し、満州の外交権と外交事務は南京政府外交部の管轄となった。また、[[東北政務委員会]]、[[東北交通委員会]]、[[国民外交協会]]が設置されて、日本に敵対的な行動を取るようになった。ソ連追い出しに失敗した張学良は、失権失地回復の矛先を南満の日本権益と日本人に向けてきた。満鉄を経営的に自滅枯渇させるために、新しい鉄道路線などを建設し、安価な輸送単価で南満洲鉄道と経営競争をしかけた。満鉄は昭和5年11月以降毎日赤字続きに陥り、社員3000人の解雇、全社員昇給一カ年停止、家族手当、社宅料の半減、新規事業の中止、枕木補修一カ年中止、破損貨車3000輌の補修中止、民間事業の補助、助成中止など支出削減を実施した<ref name="kietateikoku">山口重次『消えた帝国 満州』</ref>。また、張学良は、満鉄の付属地に柵をめぐらし、通行口には監視所を設けて、大連から入ってきた商品には輸入税を支払っているにもかかわらず、付属地から持ち出す物品には税金をとった<ref name="kietateikoku"/>。さらに「盗売国土懲罰令」を制定し、日本人や朝鮮人に土地を貸したり売ったりした者を、国土盗売者として処罰した。多数の朝鮮人農民が土地を奪われ、抵抗した者は監獄に入れられた。満州事変直後、奉天監獄には530人の朝鮮人が入れられていたという<ref name="kietateikoku"/>。そのうえ、林業、鉱業、商業などの日本人の企業は、日露戦争後の日清善後条約で、正当な許可をえたものは、満鉄付属地外でも営業できることになっていたが、昭和5、6年には、一方的な許可取り消しや警察による事業妨害のために、経営不振が続出した。奉天総領事から遼寧省政府に交渉しても、外交権はないので南京政府の外交部に直接交渉するようにと相手にされなかった。外務省を通じて南京総領事が南京政府に交渉しても、いつまでたっても音沙汰なしであった<ref name="kietateikoku"/>。満州事変前には、このような日中懸案が370件あまりあった。危機感を抱いた関東軍は、再三に渡り交渉するが聞き入れられなかった。これにより関東軍の幹部は、本国に諮ることなく、満洲の地域自決・民族自決にもとづく分離独立を計画した。

=== 白系ロシア人と中ソ紛争 ===
[[File:KVZHD 1929 T 18.jpg|thumb|200px|満洲に侵攻するソビエト軍戦車]]
{{Main|中ソ紛争}}
[[中東鉄道]]付属地に住んでいた白系ロシア人は、1924年の[[奉ソ協定]]後も中華民国東三省政府側によって擁護されていた。しかし、ソ連側は共産党員イワノフを中東鉄道管理局長として送り込み、1925年には奉ソ協定で決められていた理事会の規定を無視して[[第九十四号命令]]など行い、白系ロシア人に圧力をかけていた<ref name="shocho">[https://books.google.co.jp/books?id=YLQ7a_f0-6oC&pg=frontcover 東支鉄道を中心とする露支勢力の消長 下巻] 南滿洲鐵道株式會社哈爾濱事務所運輸課 1928年5月</ref>。

南京政府と合流した張学良は、南京政府の第一の外交方針である失権失地回復の矛先を、まず北満のソ連権益に向けた。[[1929年]](昭和4年)5月27日、張学良軍は共産党狩りと称して、ソ連領事館の一斉手入れを実施し、[[ハルピン]]総領事と館員30人あまりを逮捕した。7月10日には、[[東清鉄道|中東鉄道]]全線に軍隊を配置して、ソ連人の管理局長と高級職員全員を追い出して、中国国籍の人を任命した。ソ連は国交断絶を宣告して、[[赤軍|ソ連軍]]が満州に侵攻し([[中ソ紛争|中東路事件]])、[[中華民国軍]]を撃破して中東鉄道全部を占領した。12月22日に[[ハバロフスク]]議定書が締結され、中東鉄道の経営と特別区の行政はソ連が一手ににぎるなど満州における影響力を強めた。

ソ連は中国に対し白系ロシア人の追放を求めて圧力をかけていたため、それを恐れハルピンから上海へと移住する白系ロシア人が途絶えなかった。

=== 共産党暴動及び満州ソビエト化の陰謀 ===
{{Main|反共主義#歴史|万宝山事件}}
コミンテルンには[[一国一党の原則]]があり、1929年ごろには更に重視されたとされる (日本でも朝鮮共産党日本総局が解散して日本共産党に吸収されている)。[[朝鮮共産党]]満州総局は、中国共産党へ加わるために中国共産党の許可の下で、[[1930年]]5月に[[間島]]で武装蜂起を行った ([[間島共産党暴動]])。また、1930年8月1日には[[中国共産党]]満洲省委員会直属の撫順特別支部の朝鮮人によって満州で[[八一吉敦暴動]]が発生した。奉天省政府は取り締まりを強化したが、それに伴い兵匪や警匪による良民への横暴も増えてしまうこととなった<ref name="manmou-jijo">[http://books.google.co.jp/books?id=mKjdFIbVST0C&pg=frontcover 滿蒙事情] 南満州鉄道株式会社 1930年</ref>。また、満州における朝鮮人には共産思想に被れた者が多く居たため、中ソ紛争における捕虜の中にも多数の朝鮮人が存在していた<ref name="manmou-jijo"/>。張学良が日本人や朝鮮人に土地を貸した者を処罰する法律を制定したため、各地で朝鮮人農民が迫害された<ref name="kietateikoku"/>。

1930年11月9日、[[関東州の警察|関東州の撫順警察署]]が撫順炭坑において挙動不審な中国人の取調べを行ったところ、共産党に関する書類を多数所持しており、[[李得禄]]外二名を始めその他中国共産党員21名を検挙した<ref name="daiboudou"/>。彼らによれば、12月11日の全国ソビエト代表大会前後に満洲省委員会は中央党部と呼応して大暴動を起こし、紅軍を組織して発電所や工場を破壊し、満州に地方ソビエト政府を樹立することを計画していた<ref name="daiboudou">[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10071239&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 満洲の主要都市を暴動化の大陰謀 撫順を中心とする中国共産党二十四名検挙さる] 京城日報 1931年3月21日</ref><ref>[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B04013014300?IS_STYLE=default&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=&IS_KEY_S1=%E6%9D%8E%E5%BE%97%E7%A5%BF&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KIND=SimpleSummary& 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B04013014300、各国共産党関係雑件/中国ノ部 /附属物 第一巻(I-4-5-2-011)(外務省外交史料館)」 1.撫順ニ於ケル中国人共産運動者逮捕ニ関スル件 分割1]</ref>。[[1931年]][[6月15日]]には、[[上海租界]]の{{仮リンク|共同租界工部局警察|en|Shanghai_Municipal_Police}}がソ連スパイの[[イレール・ヌーラン]](本名ヤコブ・ルドニック)を逮捕し([[牛蘭事件]]、ヌーラン事件)、極東における赤化機関の全容や、政府要人の暗殺・湾港の破壊計画が明るみに出た<ref name="nuran-shinmon">[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10071151&TYPE=HTML_FILE&POS=1 牛蘭事件の審問 第三国際の東洋攪乱] 満州日報 1931年9月18日</ref><ref>[http://books.google.co.jp/books?id=XKVKVd0ATj0C&pg=frontcover 抗日支那の真相] 中国通信社 1937年</ref>。また、押収された文書には、「国民政府の軍隊内に、共産党の細胞を植付け、其戦闘力を弱める事が最も必要」だと記されていた<ref name="nuran-shinmon"/>。22日には、[[中国共産党中央委員会総書記]]の[[向忠発]]が逮捕される。

[[1931年]]2月、「鮮人駆逐令」で朝鮮人は満州から追放されることになり、行き場を失った朝鮮人農民は長春の西北の万宝山に入植しようとした<ref>[[宮脇淳子]]『歴史通』2010年3月号『中国人に「侵略」だと言われたら」</ref>。[[1931年]](昭和6年)[[7月2日]]に満州内陸に位置する長春の北、三姓堡万宝山において土地を賃借した朝鮮人農民が作った用水路に反発した中国人農民が襲撃し、さらに日本の領事館警察官と衝突する[[万宝山事件]]が勃発した。<ref group="注釈">このとき、歯科医の[[小沢開作]]は青年連盟長春支部を動員して、付属地の日本人に訴えるとともに、日本警察官の派遣を要請した(山口重次『消えた帝国 満州』)</ref>。この事件を中国側による不法行為であるとして、朝鮮半島では中国人排斥暴動が発生し([[朝鮮排華事件]])、多くの死者重軽傷者がでた。この事件により、日華両国関係が著しく悪化した。たまたま長春の近くで発生した事件では[[満州青年連盟]]の長春支部長[[小沢開作]]の指導で厳重な抗議行動が展開され問題を重大化させたが、このような事件やさらに残虐な事件はざらにあったという<ref name="kietateikoku"/>。

=== 中村大尉事件 ===
{{Main|中村大尉事件}}
1931年6月27日、[[大興安嶺]]の立入禁止区域を密偵していた陸軍参謀中村震太郎一行が張学良配下の関玉衛の指揮する屯墾軍に拘束され殺害される[[中村大尉事件]]が発生した。事件の核心を掴んだ関東軍は調査を開始したが、真相が明らかにならず外交交渉に移されることとなった。その場で中国側は調査を約したが、日本による陰謀であるなどと主張したことにより、関東軍関係者は態度を硬化させ、日本の世論は沸騰し中国の非道を糾弾、日華間は緊迫した空気に包まれた。

8月24日陸軍省は、満州北西部・[[洮索]]地方の保障占領案を[[外務省]]に送付したが、両省間で協議の結果、見合わせることになった。しかし中国側が殺害の事実を否定する場合は、関東軍の協力を得ながら[[林久治郎]][[奉天]][[総領事]]が強硬に交渉することになった。[[鈴木貞一]]の戦後の回想によると、[[永田鉄山]]軍事課長と[[谷正之]]外務省アジア局長らが「満州問題解決に関する覚書」を作成し、武力行使を含めあらゆる手段をもってやることが書かれていたという<ref name="manshuujihentoseitouseiji">川田稔『満州事変と政党政治』</ref>。

この二つの偶発的ともいえる事件により、さらに日本人女学生数十人がピクニック中に強姦される事件も発生し<ref>『「反日思想」歴史の真実』拳骨拓史</ref>、日本の世論を背景に関東軍は武力行使の機会をうかがうようになった。中国側が事の重大性を認識し全面的に事実関係を認め、中村震太郎一行殺害実行犯の関玉衛を取り調べ始めたと日本側に伝達したのが9月18日午後に至ってからであったが、既に手遅れであった。この日の夜半、柳条湖事件が発生したためである。

=== 陸軍内部の動き ===
[[1927年]](昭和2年)ごろ、[[永田鉄山]]、[[岡村寧次]]、[[小畑敏四郎]]らが[[二葉会]]<ref group="注釈">二葉会は、「同人会」ともいい、会員は、(陸軍士官学校14期)[[小川恒三郎]]、(15期)[[河本大作]]・[[山岡重厚]]、(16期)永田鉄山・小畑敏四郎・岡村寧次・[[小笠原数夫]]・[[磯谷廉介]]・[[板垣征四郎]]・[[土肥原賢二]]・[[黒木親慶]]・[[小野弘毅]]、(17期)[[東条英機]]・[[渡久雄]]・[[工藤義雄]]・[[松村正員]]・[[飯田貞固]]、(18期)[[山下奉文]]・[[岡部直三郎]]・[[中野直三]]</ref>を結成し、人事刷新、総動員体制の確立、満蒙問題の早期解決などを目指した。同年11月ごろ、[[鈴木貞一]]参謀本部作戦課員らによって[[木曜会 (日本陸軍)|木曜会]]<ref group="注釈">「無名会」ともいう。会員は、永田鉄山、岡村寧次、東条英機、[[関亀治]]、石原莞爾、[[坂西一良]]、鈴木貞一、[[横山勇]]、[[根本博]]、[[鈴木宗作]]、[[村上啓作]]、[[澄田らい四郎|澄田睞四郎]]、[[深山亀三郎]]、[[土橋勇逸]]、[[本郷義夫]]、[[高島辰彦]]、[[石井正美]]、[[山岡道武]]</ref>が組織され、[[1928年]]3月には、帝国自存のため満蒙に完全な政治的権力を確立することを決定した。1928年(昭和3年)10月に[[石原莞爾]]が[[関東軍]]作戦主任参謀に、[[1929年]](昭和4年)5月に[[板垣征四郎]]が関東軍高級参謀になった。満蒙問題の解決のための軍事行動と全満州占領を考えていた石原、板垣らは、[[1931年]](昭和6年)6月頃には、計画準備を本格化し、9月下旬決行を決めていたとされている。1929年5月、二葉会と木曜会が合流して[[一夕会]]が結成され、人事刷新、満州問題の武力解決、非長州系三将官の擁立を取り決めた。同年8月、[[岡村寧次]]が陸軍省人事局補任課長になり、[[1930年]](昭和5年)8月、[[永田鉄山]]が[[軍務局]]軍事課長になった。同年11月永田は満州出張の際に、攻城用の24糎榴弾砲の送付を石原らに約束し、1931年7月に歩兵第29連隊の営庭に据え付けられた<ref group="注釈">24糎榴弾砲は、大砲の射撃の照準を指導した後藤亨の話によれば、6発撃ったら、味方から敵が逃げ出したので撃つのをやめてくれと電話があったという。石原大佐は満州事変の功労重砲だったと述べている(山口重次『消えた帝国 満州』)。</ref>。満州事変直前の1931年8月には、陸軍中央の主要実務ポストを一夕会会員がほぼ掌握することとなった<ref name="hamagutiosatitonagatatetuzan">川田稔『浜口雄幸と永田鉄山』</ref><ref>筒井清忠『昭和期日本の構造』</ref>。

1931年3月、満蒙問題の根本的解決の必要を主張する「昭和6年度情勢判断」が作成され、同年6月、[[建川美次]][[参謀本部]]第二部長を委員長とし、陸軍省の永田鉄山軍務局軍事課長、岡村寧次人事局補任課長、参謀本部の[[山脇正隆]]編制課長、[[渡久雄]]欧米課長、[[重藤千秋]]支那課長からなる、いわゆる五課長会議が発足し、一年後をめどに満蒙で武力行使をおこなう旨の「'''満州問題解決方針の大綱'''」を決定した。同年8月、五課長会議は山脇に代わり[[東条英機]]編制課長が入り、[[今村均]]参謀本部作戦課長と[[磯谷廉介]][[教育総監部]]第二課長が加わって、七課長会議となった<ref group="注釈">7人の課長のうち、永田、岡村、渡、東条、磯谷の5人が一夕会の会員であり、重藤は[[桜会]]の会員で、今村は永田の意向で8月の人事異動で作戦課長に就任した。</ref>。今村作戦課長は「満州問題解決方針の大綱」に基づく作戦上の具体化案を8月末までに作成した。陸軍中央部では永田鉄山、鈴木貞一らが動き、関東軍では石原莞爾、板垣征四郎らが動くことで満州事変の準備が整えられ、一夕会系幕僚が陸軍中央を引きずり、内閣を引きずって満州事変を推進していった<ref name="manshuujihentoseitouseiji"/><ref name="hamagutiosatitonagatatetuzan"/>。

=== 幣原外交 ===
外務省は広東政府と何度も話し合いを行うなど国際協調を重視した[[幣原外交]]を行った。当時の外務省の見解として[[幣原喜重郎]]外相は「支那人は満州を支那のものと考えているが、あれはロシアのものだった。牛荘の領事を任命するには、ロシアの許諾が必要だった。日本がロシアを追い出さなければ、満州は清国領土から失われたことは間違いない。しかし、日本は領土権は主張しない。日本人が相互友好協力の上に満州に居住し、経済開発に参加できればよいのであって、これは少なくとも道義的に当然の要求である。また、中国がかりそめにも日本の鉄道に無理強いするような競争線を建設できないことは、信義上自明の理である」と述べている<ref name=sankei20020520>{{cite web
| url = http://www.okazaki-inst.jp/hyakuisan41.html
| title =岡崎久彦「百年の遺産-日本近代外交史(41)」
| work = [[産経新聞]]
| publisher = [[岡崎久彦]]
| date = 2002年05月20日
| accessdate = 2011年8月19日
}}</ref>。幣原外相は英米との国際協調により中国政府に既存条約を尊重することを求めようとし、アメリカのマクマリー駐中国公使も同様の方針を本国政府に訴えていたが、国務省内の親中派のホーンベルク極東部長によって日本との協調路線は退けられた<ref name=sankei20020520/>。

== 事変の経過 ==
=== 柳条湖事件 ===
{{Main|柳条湖事件}}
[[画像:Mukden 1931 blast spot.JPG|thumb|200px|事件直後の柳条湖の爆破現場]]
1931年(昭和6年)[[9月18日]]午後10時20分頃、[[奉天]](現在の[[瀋陽]])郊外の柳条湖付近の[[南満州鉄道]]線路上で爆発が起きた。これがいわゆる[[柳条湖事件|柳条湖(溝)事件]]<ref group="注釈">関東軍は、9月18日、事件直後、奉天総領事館やマスコミに発生地点名を意図的に「柳条溝」として流し、満鉄の記録でも9月19日から「柳条湖」を「柳条溝」に訂正した。しかし、本来の地名は「柳条湖」であり、しかも独立守備隊の「柳条湖分遣隊」の存在もあったので、関東軍内でもすぐに「柳条湖」に改めている。したがって、戦前にあっては「柳条湖」・「柳条溝」両方の表記が錯綜し、やがて敗戦のためにこの修正の事実が忘れられ、発生時点での報道によって「柳条溝」がいったん定着した。その後、1960年代後半に本来の発生地名は「柳条湖」であることを明示した島田俊彦の研究が現れたが顧みられることなく、その後、1981年の中国人研究者の著作発表などによって「柳条湖事件」の名称が定着していった。この経緯については[http://www.cneas.tohoku.ac.jp/img/pu01/asia014/p001.pdf 山田勝芳「満洲事変発生地名の再検討――『柳條溝』から『柳條湖』へ」]が詳しい。</ref>である。

現場は、3年前の[[張作霖爆殺事件]]の現場から、わずか数キロの地点である。爆発自体は小規模で、爆破直後に現場を[[急行列車]]が何事もなく通過している<ref group="注釈">戦後、現代史家の[[秦郁彦]](元日本大学法学部教授)が花谷中将など関係者のヒアリングを実施し、柳条湖事件の全容を明らかにしたものである。花谷中将の証言は秦が整理し、後に花谷正の名で月刊誌『知性別冊 秘められた昭和史』(河出書房)で発表し大反響が出た。後に、秦が事件に係わった他の軍人の聴取内容からも花谷証言の正確性は確認されている。(詳細は秦郁彦『昭和史の謎を追う』上(文春文庫)参考。)</ref>。

本事件は、河本大佐の後任の関東軍高級参謀[[板垣征四郎]]大佐と、関東軍作戦参謀[[石原莞爾]]中佐が首謀し、軍事行動の口火とするため自ら行った陰謀であったことが戦後のGHQの調査などにより判明している<ref group="注釈">石原はヨーロッパ戦争史の研究と日蓮宗の教義解釈から特異な[[世界最終戦論]]を構想、日米決戦を前提として満蒙の領有を計画した。第二次世界大戦後に発表された花谷の手記によると、関東軍司令官[[本庄繁]]中将、[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]司令官[[林銑十郎]]中将、参謀本部第1部長[[建川美次]]少将、参謀本部ロシア班長[[橋本欣五郎]]中佐らも、この謀略に賛同していた。</ref>。奉天特務機関補佐官[[花谷正]]少佐、張学良軍事顧問補佐官今田新太郎大尉らが爆破工作を指揮し、関東軍の虎石台独立守備隊の河本末守中尉指揮の一小隊が爆破を実行した。関東軍は、これを[[張学良]]の東北軍による破壊工作と発表し、直ちに軍事行動に移った。

=== 関東軍の軍事行動 ===
事件現場の柳条湖近くには、[[国民革命軍]](中国軍)の兵営である「北大営」がある。関東軍は、爆音に驚いて出てきた中国兵を射殺し、北大営を占拠した。関東軍は、翌日までに、奉天、[[長春]]、[[営口]]の各都市も占領した。奉天占領後すぐに、奉天特務機関長[[土肥原賢二]]大佐が臨時市長となった。土肥原の下で民間特務機関である[[甘粕機関]]を運営していた[[甘粕正彦]]元大尉は、[[ハルピン]]出兵の口実作りのため、奉天市内数箇所に爆弾を投げ込む工作を行った。9月22日関東軍は、居留民保護のためハルピン出兵の意向を示したが、陸軍中央は認めず、断念した。

=== 陸軍中央部の対応 ===
9月19日午前7時、[[陸軍省]]・[[参謀本部]]合同の省部首脳会議が開かれ、[[小磯国昭]][[軍務局長]]が「関東軍今回の行動は全部至当の事なり」と発言し、一同異議なく、[[閣議]]に兵力増派を提議することを決めた。出席者は[[杉山元]][[陸軍次官]]、小磯国昭軍務局長、[[二宮治重]][[参謀次長]]、[[梅津美治郎]][[総務部長]]、[[今村均]][[作戦課長]]([[建川美次]]第一部長の代理)、[[橋本虎之助]]第二部長、および局長・部長以上の会議において特別に出席が許され、実質的に局長待遇であった[[永田鉄山]]軍事課長であった。省部首脳会議の決定を受け、作戦課は[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]の応急派兵、[[第10師団 (日本軍)|第10師団]]([[姫路]])の動員派遣の検討に入り、軍事課は閣議提出案の準備にかかった。同日午前10時の閣議で[[南次郎]][[陸軍大臣]]は関東軍増援を提議できず、事態不拡大の方針が決定された。

同日午前、杉山陸軍次官、二宮参謀次長、[[荒木貞夫]][[教育総監部|教育総監部本部長]]によって、満蒙問題解決の動機となすという方針が合意され、条約上の既得権益の完全な確保を意味し、全満州の軍事的占領に及ぶものではないとされた。

同日午後、作戦課は、関東軍の旧態復帰は断じて不可で、内閣が承認しないなら陸相が辞任して政府の瓦解も辞さないという「満洲における時局善後策」を作成し、参謀本部内の首脳会議の承認を得た。作戦課は関東軍の現状維持と満蒙問題の全面解決が認められなければ、陸軍による[[クーデター]]を断行する決意であった。

南陸相は、事態不拡大の政府方針に留意して行動するよう、[[本庄繁]]関東軍司令官に訓電した。

20日午前10時、杉山次官、二宮次長、荒木本部長は、関東軍の旧態復帰拒否と、政府が軍部案に同意しない場合は政府の崩壊も気にとめないことを確認した。

軍事課は、事態不拡大という閣議決定には反対しないが、関東軍は任務達成のために機宜の措置をとるべきであり、中央から関東軍の行動を拘束しないという「時局対策」を策定し、南陸相、[[金谷範三]][[参謀総長]]、[[武藤信義]][[教育総監]]([[陸軍三長官]])の承認を得た<ref name="manshuujihentoseitouseiji"/><ref name="hamagutiosatitonagatatetuzan"/>。

=== 朝鮮軍の派兵問題 ===
9月19日午前8時30分[[林銑十郎]][[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]司令官より、飛行隊2個中隊を早朝に派遣し、混成旅団の出動を準備中との報告が入り、また午前10時15分には混成旅団が午前10時頃より逐次出発との報告が入ったが、[[参謀本部]]は部隊の行動開始を[[奉勅命令]]下達まで見合わせるよう指示した。20日午後[[陸軍三長官]]会議で、[[関東軍]]への兵力増派は閣議で決定されてから行うが、情勢が変化し状況暇なき場合には閣議に諮らずして適宜善処することを、明日首相に了解させる、と議決した<ref name="genndaisisiryou7">『現代史資料7 満州事変』[[みすず書房]]</ref>。

[[張学良]]が指揮する東北辺防軍の総兵力約45万に対して関東軍の兵力は約1万であったため、兵力増援がどうしても必要であった。そこで関東軍は20日、特務機関の謀略によって[[吉林]]に不穏状態をつくり<ref group="注釈">吉林は、借款による日本の利権鉄道である吉林・[[長春]]線の沿線にあり、出兵権上は一種のグレーゾーンと考えられていた([[小林道彦]]『政党内閣の崩壊と満州事変』)</ref>、21日、居留民保護を名目に[[第2師団 (日本軍)|第2師団]]主力を吉林に派兵し、[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]の導入を画策した<ref name="manshuujihentoseitouseiji"/>。21日午前10時の閣議で朝鮮軍の満州派遣問題が討議されたが、[[南次郎]]陸相の必要論に同意する者は[[若槻禮次郎]]首相のみであった<ref name="genndaisisiryou7"/>。

21日、林朝鮮軍司令官は独断で混成第39旅団に越境を命じ、午後1時20分、部隊は国境を越え関東軍の指揮下に入った。21日午後6時、南陸相に内示のうえ、[[金谷範三]][[参謀総長]]は単独帷幄上奏によって天皇から直接朝鮮軍派遣の許可を得ようと参内したが、永田鉄山軍事課長らの強い反対があり、独断越境の事実の報告と陳謝にとどまった。21日夜、杉山元陸軍次官が若槻首相を訪れ、朝鮮軍の独断越境を明日の閣議で承認することを、天皇に今晩中に奏上してほしいと依頼したが、若槻首相は断った。林朝鮮軍司令官の独断越境命令は翌22日の閣議で[[大権干犯]]とされる可能性が強くなったため、陸軍内では、陸相・参謀総長の辞職が検討され、陸相が辞任した場合、現役将官から後任は出さず、[[予備役]]・[[後備役]]からの陸相任命も徹底妨害するつもりであった。増派問題は陸相辞任から内閣総辞職に至る可能性があった<ref name="manshuujihentoseitouseiji"/>。

22日の閣議開催前に、小磯国昭軍務局長が若槻首相に、朝鮮軍の行動の了解を求めると、若槻はすでに出動した以上はしかたがないと容認し、午前中の閣議では、出兵に異論を唱える閣僚はなく、朝鮮軍の満州出兵に関する経費の支出が決定。天皇に奏上され、朝鮮軍の独断出兵は事後承認によって正式の派兵となった<ref name="manshuujihentoseitouseiji"/>。

=== 関東軍の専行 ===
[[File:Japanese troops entering Tsitsihar.jpg|thumb|right|200px|[[ビューグル|喇叭]]を吹奏しながら[[チチハル]]に入城する関東軍(第二師団)]]
[[File:奉天城内を守る日本軍.jpg|thumb|right|200px|奉天占領直後の城内の様子]]
[[File:Japanese entry into Chinchow.jpg|thumb|right|200px|錦州の裕民洋服店附近を行く日本軍]]
日本政府は、事件の翌19日に緊急[[閣議]]を開いた。[[南次郎]]陸軍大臣はこれを関東軍の自衛行為と強調したが、[[幣原喜重郎]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]([[男爵]])は関東軍の謀略との疑惑を表明、外交活動による解決を図ろうとした。しかし、21日に林中将の朝鮮軍が独断で越境し満洲に侵攻したため、現地における企業爆破事件であった柳条湖事件が国際的な事変に拡大した。21日の閣議では「事変とみなす」ことに決し<ref group="注釈">[http://www.ndl.go.jp/horei_jp/kakugi/txt/txt00038.htm 「昭和6年9月18日夜生起セル事件ヲ事変ト看做ス」(昭和6年9月21日閣議決定)]、国立国会図書館。</ref>、24日の閣議では「此上事変を拡大せしめざることに極力努むるの方針」を決した。林銑十郎は'''大命'''(宣戦の詔勅)を待たずに行動したことから、'''独断越境司令官'''などと呼ばれた。

関東軍参謀は、軍司令官[[本庄繁]]を押し切り、政府の不拡大方針や、陸軍中央の局地解決方針を無視して、自衛のためと称して戦線を拡大する。独断越境した朝鮮軍の増援を得て、管轄外の北部満洲に進出し、翌[[1932年]](昭和7年)2月の[[ハルビン]]占領によって、関東軍は[[中国東北部]]を制圧した<ref group="注釈">朝鮮軍司令官・林銑十郎の行動を[[昭和天皇]]は嘉し(実際には軍隊の移動は天皇の専権事項であり、越権は死刑もあり得る重罪である)、[[西園寺公望]]の処罰進言を退けたばかりか、後に総理大臣に任命する。</ref>。

これ以降、関東軍は満州問題について専行して国策を決定し実行するようになった(陸軍[[戦闘教義]]における[[独断専行]]および[[文民統制]]問題)。なお、政府は事件勃発当初から関東軍の公式発表以外の内容の報道を規制したため、「禁止件数は(中略)八月以降急激に飛躍的増加を示すに至りし原因は、九月に於いて満洲事変の突発するあり」 <ref>[[内務省 (日本)|内務省]][[警保局]]「出版警察概観」1931年度分、107頁</ref>という状況となった。さらに事件の日本人関与の事実を把握すると、12月27日通牒の[[記事差止命令]]に「張作霖の爆死と本邦人との間に何等かの関係あるか如く瑞摩せる事項」を入れて情報操作を強化した<ref>横島公司「昭和初期における新聞報道の一側面――満州某重大事件と検閲問題――」「地域と経済」3号、札幌大学</ref>。

=== スティムソン談話 ===
アメリカの[[ヘンリー・スティムソン|スティムソン]]国務長官は幣原外務大臣に戦線不拡大を要求し、これを受けた幣原は、陸軍参謀総長[[金谷範三]]に電話で[[万里の長城]]や[[北京]]への侵攻を進めると英米との折衝が生じるため、戦線を[[奉天]]で止めるべきことを伝え、金谷陸軍総長はそれを承認した。この電話会談での不拡大路線の意志決定を幣原は駐日大使[[:en:William_Cameron_Forbes|フォーブス]]に伝え、[[錦州]]までは進出しない旨を伝え、フォーブスはそれを本国にいるスティムソン国務長官に伝え、スティムソンは戦線不拡大を記者会見で伝える(スティムソン談話)。しかし金谷陸軍総長の抑制命令が届く前日に、石原莞爾ら関東軍は錦州攻撃を開始してしまう。スティムソンはこれに激怒する一方、関東軍も、軍事作戦の漏洩に激怒する<ref group="注釈">[[坂野潤治]]はスティムソンによる情報漏洩がなければ当面の戦線拡大は抑えられていたと見ている。坂野潤治・田原総一朗『大日本帝国の民主主義』小学館,2006年,101-109頁</ref>。

=== 錦州爆撃 ===
[[1931年]](昭和6年)10月8日、関東軍の[[爆撃機]]12機が、石原の作戦指導のもと[[遼寧省]][[錦州]]を[[空襲]]した([[錦州爆撃]])。奉天を放棄した張学良が拠点を移していた。石原は偵察目的であったとしているが、各機に25kg爆弾を5,6個載せて出撃し計75個投下している。南次郎陸軍大臣は、[[若槻禮次郎]]首相に「中国軍の[[対空砲|対空砲火]]を受けたため、止むを得ず取った自衛行為」と報告した。関東軍は「張学良は錦州に多数の兵力を集結させており、放置すれば日本の権益が侵害される恐れが強い。[[満蒙問題]]を速やかに解決するため、錦州政権を駆逐する必要がある」と公式発表した。国際法上は予防措置は自衛権の範囲であるが、のち国際連盟により派遣された[[リットン調査団]]は自衛の範囲とは呼びがたいと結論した。これによって、幣原の[[幣原外交|国際協調主義外交]]は国内外に指導力の欠如を露呈し大きなダメージを受けた。

=== 溥儀擁立 ===
関東軍は、国際世論の批判を避けるため、あるいは陸軍中央からの支持を得るために、満洲全土の領土化ではなく、[[傀儡政権]]の樹立へと{{要検証範囲|date=2012年2月|方針を早々に転換した}}。事変勃発から4日目のことである。9月22日、[[天津市|天津]]の[[溥儀]]に決起を促し、代表者を派遣するよう連絡した。23日、[[羅振玉]]が[[奉天]]の軍司令部を訪れ、[[板垣征四郎|板垣]]大佐に面会して[[宣統帝]]の[[wikt:復辟|復辟]]を嘆願し、[[吉林]]の[[煕洽]]、[[洮南]]の[[張海鵬]]、[[蒙古]]諸王を決起させることを約束した。羅振玉は[[宗社党]]の決起を促して回り、[[鄭孝胥]]ら[[清朝]]宗社党一派は復辟運動を展開した。同日、蒙古独立を目指して挙兵し失敗した[[パプチャップ]]の子[[ガンジュルシャップ]]が[[石原莞爾|石原]]中佐を訪れ、蒙古の挙兵援助を嘆願し、軍は武器弾薬の援助を約束した<ref name="kietateikoku"/>。

[[特務機関]]長の[[土肥原賢二]]大佐は、清朝の最後の皇帝であった宣統帝・[[愛新覚羅溥儀]]に対し、日本軍に協力するよう説得にかかった。満洲民族の国家である[[清朝]]の復興を条件に、溥儀は新国家の皇帝となることに同意した。11月10日に溥儀は天津の自宅を出て、11月13日に営口に到着し、[[旅順]]の日本軍の元にとどまった。

一方で関東軍は、[[煕洽]]、[[張景恵]]ら、新国家側の受け皿となる勢力(地主、旧[[旗人]]層など)に働きかけ、各地で独立政権を作らせた。その上で、これらの政権の自発的統合という体裁をもって、新国家の樹立を図った<ref group="注釈">後に[[満州国立法院]]院長となる[[趙欣伯]]は、12月中旬に奉天で「東北人民はまた張学良と彼一党を怨むけれど、ただ日本の軍隊を怨まぬのみならず、日本軍隊が張学良とその他の軍隊を殲滅して、大悪人の手から東北人民を救い出してくれたことに対して、深く感謝しているしだいであります」と演説した(文藝春秋昭和7年3月号、[[大川周明]]『満州新国家の建設』)。</ref>。

=== 十月事件 ===
{{Main|十月事件}}
[[橋本欣五郎]][[参謀本部]]ロシア班長ら[[桜会]]メンバーを中心に、[[近衛師団]]・[[第1師団 (日本軍)|第1師団]]より兵力を動員して、主要閣僚・宮中重臣らを襲撃し、[[荒木貞夫]][[教育総監部]]本部長を首相とする軍事政権を樹立しようと企てたが、決行前に発覚し、10月17日、首謀者が憲兵隊に保護検束された。

=== 若槻内閣の崩壊 ===
[[第2次若槻内閣|若槻内閣]]は南次郎陸相、[[金谷範三]]参謀総長らとの連携によって、関東軍の北満進出と[[錦州]]攻略を阻止し、満洲国建国工作にも反対していた。

{{要検証範囲|date=2012年7月|若槻内閣を見限った[[安達謙蔵]][[内務大臣 (日本)|内相]]は、[[三井]]、[[三菱]]、[[住友]]財閥が若槻内閣の長くないことを見込んで、円売りドル買いを仕掛けていたが、買い過ぎて窮地に陥っていたことを知り、積極財政政策を採る[[政友会]]と連合内閣を作り、財界を救済し、さらに金輸出再禁止によって巨利を得させようと考え、[[立憲民政党|民政党]]と政友会の連立内閣を画策した<ref name="nihonrikugunnohabatukousou">[[谷田勇]]『実録・日本陸軍の派閥抗争』</ref>}}。10月28日、安達内相は政友会との連立、すなわち協力内閣案を[[若槻禮次郎]]首相に提起した。民政党[[党人派]]の[[富田幸次郎]]、[[頼母木桂吉]]、[[山道襄一]]、[[中野正剛]]、[[永井柳太郎]]らが協力内閣に賛同していた。若槻首相は挙国一致の内閣によって関東軍へのコントロールをより強化できるのではないかとの判断から賛成し、[[井上準之助]]蔵相や[[幣原喜重郎]]外相に相談したが、外交方針、財政方針が異なるとして、強く反対され、断念した。井上蔵相は協力内閣は軍部を掣肘、統制するものではなく、軍部に媚びんとするものと認識していた<ref name="manshuujihentoseitouseiji"/>。

政友会は11月4日に政務調査会で金輸出再禁止を決定し、10日には議員総会で金輸出再禁止とともに「[[国際連盟|連盟]]の脱退をも辞せず」との決議を行った。倒閣の動きは政友会でも強まっており、12月4日には政友会の[[山本悌二郎]]、[[鳩山一郎]]、[[森恪]]らが陸軍の[[今村均]]作戦課長、[[永田鉄山]]軍事課長、[[東条英機]]編制動員課長らと懇談するなど、政友会の有力者は陸軍にも直接働きかけていた<ref name="manshuujihentoseitouseiji"/>。

11月21日、安達内相は[[風見章]]の起草した協力内閣樹立をめざす声明を発表し、安達配下の中野正剛が協力内閣工作を熱心に進め、12月9日、[[久原房之助]]政友会幹事長と協力内閣に関する覚書を交わした。12月10日、覚書を見せられた若槻内閣は、安達以外の閣僚と協力内閣反対の方針を確認し、安達に翻意をうながした。しかし安達は拒否し、自邸に帰って、再三の閣議への出席要請に応じなかった。12月11日、若槻首相は閣議に出席しない安達内相に対して辞職を要求したが、安達は単独辞職を拒否したので、結局やむをえず総辞職を決定した<ref name="manshuujihentoseitouseiji"/><ref group="注釈">当時の首相には閣僚の罷免権はなく、閣議は全員一致を原則としており、閣内不一致は政策決定不可能になり、総辞職するほかなかった</ref>。

=== 犬養内閣の発足 ===
若槻[[立憲民政党|民政党]]総裁への[[大命]]再降下、犬養[[政友会]]総裁の単独内閣、民政党と政友会による連立内閣の3つの可能性があったが、12月13日、[[犬養内閣]]が誕生した。[[犬養毅]]首相は[[荒木貞夫]]陸相の就任条件として、満州問題は軍部と相協力して積極的に解決することを約束し、[[森恪]][[内閣書記官長]]が事変を積極的に推進した。荒木の陸相就任には、軍事課長の[[永田鉄山]]・政友会の[[小川平吉]]ルート、および軍事課支那班長の[[鈴木貞一]]・政友会の森恪ルートから、犬養首相に働きかけがあった<ref name="manshuujihentoseitouseiji"/>。{{要検証範囲|date=2012年7月|また、蔵相には[[高橋是清]]が就任し、金輸出再禁止([[金解禁]]停止)を断行して、[[緊縮財政]]政策から[[積極財政]]政策に転換した。その結果、三井財閥をはじめ各財閥は巨利を得た<ref name="nihonrikugunnohabatukousou"/>}}。

12月23日、満蒙独立国家の建設を目指す「時局処理要綱案」が陸軍によって策定され、[[1932年]](昭和7年)1月6日、独立国家建設を容認する、[[陸軍省]]、[[海軍省]]、[[外務省]]関係課長による三省協定案「支那問題処理方針要綱」が策定された。12月17日と27日に本土と朝鮮より満州に兵力が増派され、[[12月28日]]より、[[錦州]]を攻撃し、翌年[[1月3日]]に錦州を占領した。1月28日、[[関東軍]]は[[参謀本部]]の承認のもとに、北満[[ハルピン]]への出動を命じ、[[2月5日]]、ハルピンを占領し、日本軍は満州の主要都市をほとんどその支配下に置いた<ref name="manshuujihentoseitouseiji"/>。

2月20日の総選挙では与党政友会が圧倒的勝利を収めた。

=== 親軍的政党の登場 ===
[[安達謙蔵]]は[[中野正剛]]らと[[1932年]]に[[国民同盟 (日本)|国民同盟]]を組織し、満州事変を引き起こした軍部に呼応し、政党内部から親軍的一国一党制を志向した。
[[北一輝]]に触発された中野正剛は、国家社会主義を鮮明にした[[東方会]]を組織、親軍的政治結社として[[政友会]]・[[民政党]]などを批判した。無産政党である[[社会民衆党]]もまた従来の植民地朝鮮、満州の放棄の主張から路線を変更し、満州事変に賛同した<ref>[[森武麿]]『集英社版日本の歴史 アジア・太平洋戦争』p62~p64、集英社、1993</ref>。

=== スティムソン・ドクトリン ===
[[アメリカ合衆国国務長官|アメリカの国務長官]][[ヘンリー・L・スティムソン|スティムソン]]は、[[1932年]](昭和7年)[[1月7日]]に、日本の満洲全土の軍事制圧を中華民国の領土・行政の侵害とし、[[パリ不戦条約]]に違反する一切の取り決めを認めないと道義的勧告(moral suasion)に訴え、日本と中華民国の両国に向けて通告した(いわゆる[[ヘンリー・L・スティムソン|スティムソン・ドクトリン]])。

=== 上海市街戦 ===
{{Main|第一次上海事変}}
[[1932年]](昭和7年)1月以降、上海市郊外に[[蔡廷カイ|蔡廷鍇]]の率いる十九路軍が現れ、日本軍守備隊が保安防衛をおこなうなか一方的に攻撃を受け、[[上海市|上海]]で日中両軍が交戦状態となった。

=== 満洲国の建国 ===
[[File:Puyi-Manchukuo.jpg|thumb|right|250px|満洲国皇帝 溥儀]]
{{Main|満州国}}
[[1932年]](昭和7年)2月初め頃には、関東軍は満洲全土をほぼ占領した。[[3月1日]]、満洲国の建国が宣言された。国家[[元首]]にあたる「[[執政]]」には、[[清朝]]の廃帝[[愛新覚羅溥儀]]が就いた。国務総理には[[鄭孝胥]]が就き、首都は[[新京]](現在の[[長春市|長春]])、[[元号]]は[[大同 (満州)|大同]]とされた。これらの発表は、東北行政委員会委員長[[張景恵]]の公館において行われた。[[3月9日]]には、溥儀の執政就任式が新京で行なわれた。

同年[[3月12日]]、[[犬養毅]]内閣は「[[満蒙問題|満蒙]]は[[中国本土]]から分離独立した政権の統治支配地域であり、逐次、国家としての実質が備わるよう誘導する」と[[閣議]]決定した。日本政府は、関東軍の独断行動に引きずられる結果となった。同年5月に[[五・一五事件]]が起き、政府の満洲国承認に慎重であった犬養は、反乱部隊の一人に[[暗殺]]された。

[[1932年]](昭和7年)[[6月14日]]、[[衆議院]]本会議において、満洲国承認決議案が全会一致で可決された。[[9月15日]]には、大日本帝国([[斎藤実]]内閣)と満洲国の間で'''[[日満議定書]]'''が締結され、在満日本人(おもに朝鮮族日本人)の安全確保を基礎とした条約上の権益の承認と、関東軍の駐留が認められた。

=== リットン調査団 ===
{{Main|リットン調査団}}
1932年(昭和7年)3月、中華民国政府の提訴により、[[国際連盟]]から第2代[[リットン伯爵]][[ヴィクター・ブルワー=リットン]]を団長とする調査団(リットン調査団)が派遣された。この調査団は、半年にわたり満洲を調査し、9月に報告書(リットン報告書)を提出した。翌1933年(昭和8年)2月24日、このリットン報告をもとにした勧告案(内容は異なる)が国際連盟特別総会において採択され、日本を除く連盟国の賛成および棄権・不参加により同意確認が行われ、国際連盟規約15条4項<ref>紛爭解決ニ至ラサルトキハ聯盟理事會ハ全會一致又ハ過半數ノ表決ニ基キ當該紛爭ノ事實ヲ述へ公正且適當ト認ムル勸告ヲ載セタル報告書ヲ作成シ之ヲ公表スヘシ</ref>および6項<ref>聯盟理事會ノ報告書カ【紛爭當事國ノ代表者ヲ除キ】他ノ聯盟理事會員全部ノ同意ヲ得タルモノナルトキハ聯盟國ハ該報告書ノ勸告ニ應スル紛爭當事國ニ對シ戰爭ニ訴ヘサルヘキコトヲ約ス(報告書が当事国を除く理事会全部の同意を得たときは連盟国はその勧告に応じた紛争当事国に対しては戦争に訴えない)</ref>についての条件が成立した。

=== 日本の国際連盟脱退 ===
{{Main|国際連盟}}
満州国の存続を認めない勧告案(「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」)が国際連盟で採択された事を受け、[[1933年]](昭和8年)3月27日、日本は正式に国際連盟に脱退を表明し、同時に脱退に関する詔書が発布された(なお、脱退の正式発効は、2年後の1935年3月27日)。

=== 熱河作戦と塘沽協定の締結 ===
{{Main|塘沽協定}}
[[File:Tanggu Truce.jpg|thumb|right|250px|塘沽協定締結]]

熱河省主席[[湯玉麟]]は、満州国建国宣言に署名したものの、張学良と内通し、約3万にのぼる反満抗日の軍隊を育成していた。
一方、満洲国と中華民国との国境山海関では、昭和7年秋以来小競り合いが散発していたが、1933年1月1日、関東軍は一部をもって[[山海関]]を占領し、北支那への出口を押さえた。

1933年春、関東軍は[[熱河省]]を掃討することを決し、満洲国軍主力及び第六師団、第八師団、歩兵第十四旅団、騎兵第四旅団による熱河作戦を計画した。2月下旬、第六師団及び騎兵第四旅団は行動を開始し、3月2日に凌源を、3日に平泉を、4日に承徳を陥落させ、3月中旬までに古北口、喜峰口付近の長城線を占領した

1933年3月中旬、中華民国は、[[何応欽]]の指揮する中央軍約20万を直隷地区に進め、日本軍の南下に対抗させた。中華民国側は、3月下旬にはその兵力の一部を長城線の北方に進めた。これに対して、関東軍は、4月11日に第六師団、歩兵第十四旅団、歩兵第三十三旅団をもって「灤東作戦」を開始し、長城を越えて中国軍を灤東以南に駆逐し、19日、長城線に帰った。ところが、中国軍は撤収する日本軍を追尾して灤東地区に進出したので、5月8日、第六師団・第八師団は再び行動を起こし、5月12日には、灤河を渡って北京に迫った。

1933年(昭和8年)5月31日、河北省塘沽において日本軍と中国軍との間で停戦協定が結ばれた。これにより柳条湖事件に始まる満州事変の軍事的衝突は停止された。
しかし、これは中国側が満州国を正式承認したものではなく、満州の帰属は両国間の懸案事項として残されたままであった。中華民国は国際連盟による1932年決議を根拠に満州の法的帰属と日本による民族自決への干渉を連盟社会で弾劾する外交政策を採用し、[[国権回復運動 (中国)|国権回復運動]]における主要な対象を日本人問題に措置することとなる。日本は中華民国蒋介石政府による条約の一方的破棄とそれにもとづく満蒙地域、支那租界地域における中華民国行政官や軍隊組織による在留日本人への迫害を非難し、中国中央政府の「馬賊」に対する警察力の不足を口実とした日本人への殺害・暴行事件の放置に対抗するため実力組織による自衛行動を執らせることとなる。また満州国の分離建国問題については、単なる新国家の承認問題として中華民国の外交的主張を無視した。

====国際連盟脱退との関係====
[[熱河作戦]]は満州国領土を確定するための[[熱河省]]と[[河北省]]への侵攻作戦であった。陸軍中央では[[万里の長城]]以北に作戦範囲を限定し、悪化する欧米諸国との関係を局限して国際連盟脱退を防ごうと考えていた。しかし、1933年([[昭和]]8年)2月20日に閣議決定により日本国の国際連盟脱退が決定され、24日にはジュネーブで松岡全権大使が国際連盟の総会議場より退場した。これは[[リットン調査団]]の報告を受けて24日の国際連盟総会で「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」が決議されたが、この勧告を受けた後に熱河作戦を継続した場合、国際連盟規約第16条に抵触することとなり、勧告を無視して戦争に出た場合は連盟加盟国に対日宣戦の正当性を付与する可能性があり、あるいは経済制裁の正当性を与え通商・金融の関係が途絶する可能性があったためである。このような制裁を防ぐため、外務省では陸軍中央の脱退尚早論を押し切る形で勧告前の連盟脱退を進め<ref>井上寿一『政友会と民政党』2012年、中公新書、p166</ref>ることとなった。結果的に連盟外の米国が当初から経済制裁に反対の立場であったことや、連盟各国の沈黙と無視により中華民国による連盟規約第16条(経済制裁)の対日適用の要求は黙殺された<ref>「経済封鎖からみた太平洋戦争開戦の経緯」高橋文雄(戦史研究年報2011.3)[http://www.nids.go.jp/publication/senshi/pdf/201103/05.pdf][http://ci.nii.ac.jp/naid/40018877832]
、PDF-P.12</ref>。

=== 白系ロシア人の救済 ===
中ソ紛争における中華民国の敗北により中華民国はソ連への協力を迫られ、日本の情報源の一つであった[[白系ロシア人]]は中国内ロシア租借地である[[東清鉄道|中東鉄道]]付属地(ハルピン)から締め出されはじめ、危機に陥っていた。しかし、満州国が誕生すると、1934年に関東軍特務機関員の[[秋草俊]]が監督を務める白系ロシア人の地位向上のための満州国[[白系露人事務局]]が設置され、1935年には満州国がソ連と[[北満鉄道讓渡協定]]を結んでソ連から中東鉄道及びその付属地を買収した。

== 満洲事変を描いた作品 ==
[[File:Jĭuyībā Lìshĭ Bówùguăn九・一八歴史博物館106997.JPG|thumb|right|250px|瀋陽にある九・一八歴史博物館]]
;映画
* [[流転の王妃]](1960年、[[大映]])
* [[戦争と人間 (映画)|戦争と人間]] 第一部 運命の序曲(1970年、[[日活]])
* 戦争と人間 第二部 愛と哀しみの山河(1971年、日活)
* [[悲劇の皇后 ラストエンプレス]](1985年、中国・香港合作)
* [[ラストエンペラー]](1987年、イタリア・中国・イギリス合作)
* [[落陽 (映画)|落陽]](1992年、[[にっかつ]])
;ドラマ
* [[末代皇帝]] - (1988年、中国)
* [[流転の王妃・最後の皇弟]](2003年、[[テレビ朝日]])
;テレビ番組
* [[その時歴史が動いた]]「満州事変 関東軍 独走す」(2001年、[[日本放送協会|NHK]])
;アニメ
* [[閃光のナイトレイド]](2010年、[[アニプレックス]])
;漫画
* [[国が燃える]](2002年、[[集英社]])
;関連本
*[[前坂俊之]]『太平洋戦争と新聞』 [[講談社学術文庫]] 2007年 (ISBN 9784061598171)

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[小林龍夫]]、[[島田俊彦]]|title=現代史資料7 満州事変|year=1964|month=4|publisher=みすず書房|series=|isbn=4622026074|ref=現代史資料}}
* {{Cite book|和書|author=[[山口重次]]|title=消えた帝国 満州|year=1967|publisher=毎日新聞社|series=|asin=B000JA85DK|ref=山口}}
* {{Cite book|和書|author=[[筒井清忠]]|title=昭和期日本の構造―二・二六事件とその時代|year=1996|month=6|publisher=講談社|series=[[講談社学術文庫]]|isbn=4061592335|ref=筒井}}
*{{Cite book|和書|author=[[谷田勇]]|title=実録・日本陸軍の派閥抗争―復刻版「龍虎の争い」|year=2002|month=8|publisher=川喜多コーポレーション|series=|isbn=4885460921|ref=谷田}}
* {{Cite book|和書|author=[[川田稔]]|title=浜口雄幸と永田鉄山|year=2009|month=2|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社選書メチエ]]|asin=4062584360|ref=川田1}}
*{{Cite book|和書|author=川田稔|title=満州事変と政党政治|year=2010|month=9|publisher=講談社|series=講談社選書メチエ|isbn=978-4-06-258480-7|ref=川田2}}
* {{Cite book|和書|author=[[小林道彦]]|title=政党内閣の崩壊と満州事変 1918-1932|year=2010|month=2|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|series=MINERVA人文・社会科学叢書|isbn=4623055728|ref=小林}}
* [[横島公司]]「昭和初期における新聞報道の一側面――満州某重大事件と検閲問題――」[[札幌大学]]大学院経済学研究科『地域と経済』3号、2006年3月。
*{{Cite book|和書|author=[[山田勝芳]]|title=満洲事変発生地名の再検討―『柳條溝』から『柳條湖』へ|year=2010|month=2|publisher=[[東北大学]]アジア研究センター|series=東北アジア研究第14号|isbn=|ref=山田}}
* 内務省警保局「出版警察概観」1931年度分
* [[岡崎久彦]]「百年の遺産-日本近代外交史(41)」([[産経新聞]]、2002年5月20日)
* {{Cite book|和書|author=[[宮脇淳子]]|title=中国人に「侵略」だと言われたら|year=2010|month=2|publisher=ワック|series=『歴史通』2010年3月号|asin=B00361ZFHS|ref=侵略}}
* {{Cite book|和書|author=[[中西輝政]]、[[北村稔]]|title=さきに「平和」を破ったのは誰か|year=2010|month=2|publisher=ワック|series=『歴史通』2010年3月号|asin=B00361ZFHS|ref=平和}}
* [[クリストファー・ソーン]]著『満州事変とは何だったか(上・下)』([[草思社]]、1994年11月)
*[[山室信一]]『「満州国」の法と政治』(京都大学人文学報1991.3)[http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48355/1/68_129.pdf]

== 関連項目 ==
* [[昭和東北大飢饉]](1930年~)
* [[石原莞爾]] 関東軍作戦参謀
* [[板垣征四郎]] 関東軍高級参謀
* [[若槻礼次郎]] 勃発当時内閣総理大臣
* [[犬養毅]] 当時内閣総理大臣、反対派
* [[清]]、[[辛亥革命]]([[1911年]])、[[中華民国の歴史|中華民国]]([[1912年]]~)
* [[対華21ヶ条要求]]([[1915年]])
* [[中村大尉事件]]
* [[五四運動|五・四運動]]([[1919年]])、[[五・三〇事件]]([[1925年]])
* [[孫文]]、[[中国国民党]]、[[蒋介石]]、[[国民政府]]([[1927年]]~)、[[北伐]]([[1926年]]~[[1928年]])
* [[張作霖]]、[[張学良]]、奉天軍閥、[[張氏帥府]]
* [[張作霖爆殺事件]]([[1928年]][[6月4日]])
* [[本庄繁]](事変時、関東軍[[司令官]])
* [[片倉衷]](事変時、関東軍[[参謀]])
* [[十月事件]]
* [[華北分離工作]]
* [[盧溝橋事件]](蘆溝橋事件)、[[日中戦争]]1937年~
* [[抗日]]
* [[十五年戦争]]
* [[大戦景気]]
* [[戦史叢書]]
* [[露清密約]]
* [[帝国主義]]
* [[九・一八歴史博物館]]
* [[第二次エチオピア戦争]] - 国際社会にて「第二の満州事変」とも呼ばれた。

== 外部リンク ==
* [http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060022_00000 NHKアーカイブス 満州事変(1931年)] - 日本放送協会(NHK)

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[[Category:満洲事変|*]]

2015年5月19日 (火) 05:22時点における版

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