「フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ」の版間の差分
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|没地={{AUT1867}}<br>[[File:Flag of Bosnia (1908-1918).svg|25px]] {{仮リンク|共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ|en|Austro-Hungarian rule in Bosnia and Herzegovina}} [[サラエヴォ]] |
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'''フランツ・フェルディナント・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン'''({{Lang-de|Franz Ferdinand von Habsburg-Lothringen}}, [[1863年]][[12月18日]] - [[1914年]][[6月28日]])は、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[推定相続人|皇位継承者]]、[[オーストリア=エステ家|エスターライヒ=エステ大公]] |
'''フランツ・フェルディナント・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン'''({{Lang-de|Franz Ferdinand von Habsburg-Lothringen}}, [[1863年]][[12月18日]] - [[1914年]][[6月28日]])は、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[推定相続人|皇位継承者]]、[[オーストリア=エステ家|エスターライヒ=エステ大公]]。[[サラエヴォ]]でセルビア人民族主義者によって暗殺された([[サラエボ事件]])。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 生い立ち === |
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[[File:Maria Anunciata de Bourbon-Duas Sicílias & Carlos Luís da Áustria.jpg|thumb|left|210px|父カール・ルートヴィヒ大公、母マリア、フランツ・フェルディナント、弟オットー・フランツ(1869年)]] |
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[[1863年]]、[[オーストリア皇帝]][[フ |
[[1863年]]、[[オーストリア皇帝]][[フランツ・ヨーゼフ1世]]の弟であった[[カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ|カール・ルートヴィヒ大公]]と[[両シチリア王国|両シチリア]][[ナポリとシチリアの君主一覧|王]][[フェルディナンド2世 (両シチリア王)|フェルディナンド2世]]の長女[[マリア・アンヌンツィアータ・フォン・ネアペル=ジツィリエン|マリア・アンヌンツィアータ]]の長男として[[グラーツ]]で生まれた。1875年に従兄の[[フランチェスコ5世 (モデナ公)|フランチェスコ5世]]が死去し、[[オーストリア=エステ家|オーストリア=エステ大公]]を相続した。 |
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1877年にオーストリア=ハンガリー帝国軍に入隊して中尉に任官。その後も皇族として順当な昇進を続け、1885年に大尉、1890年に大佐、1894年に少将に昇進した<ref name="Rothenburg, G. 1976. p 141">Rothenburg, G. ''The Army of Francis Joseph''. West Lafayette: Purdue University Press, 1976. p 141.</ref>。フランツ・フェルディナントは指揮官としての教練を学ばなかったが、司令官としての適性を認められ第9騎兵連隊長に任命された{{sfn|Rothenburg|1976|p=120}}。また、特定の部隊の指揮権を持たない時期でも軍事機密に関わる書類を閲覧することができ、1913年には高齢のフランツ・ヨーゼフ1世に代わり全軍監察官に就任して軍権を掌握している{{sfn|Rothenburg|1976|p=170}}。 |
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フランツ・フェルディナントはオーストリア皇族であったが、従兄の[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルードルフ皇太子]]がいたため、皇位継承の圏外にあった。しかし[[1889年]]1月にルードルフ皇太子が情死したため、にわかに皇位継承候補者となった。継承権を放棄したフランツ・カール大公が自身の長男の継承を支持したことにより、フランツ・フェルディナントが伯父[[フランツ・ヨーゼフ1世]]の皇位継承者として認定されるようになった。 |
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1892年から約1年の歳月をかけて世界一周の見聞旅行に出かける。[[イギリス領インド帝国]]を訪問した後、1893年に訪れた[[オーストラリア]]では[[カンガルー]]や[[エミュー]]の狩りをして過ごした<ref>{{cite news|title=The Archduke Franz Ferdinand|publisher=[[The Argus (Australia)]]|date = 23 May 1895|url=http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/8554706?searchTerm=Franz+Ferdinand}} Accessed 28 June 2010</ref>。その後は[[ヌメア]]、[[ニューヘブリディーズ諸島]]、[[ソロモン諸島]]、[[ニューギニア]]、[[サラワク州|サラワク]]、[[香港]]、[[大日本帝国]]を訪れた<ref>[http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/71197930?searchTerm=franz%20ferdinand%20kangaroo&searchLimits= Australian Town and Country Journal, 15 April 1893, p. 29]; Retrieved 2 September 2013</ref>。[[横浜市|横浜]]から{{仮リンク|エンプレス・オブ・チャイナ (客船)|en|RMS Empress of China (1891)|label=RMS エンプレス・オブ・チャイナ}}で太平洋を横断して[[カナダ]]・[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]、[[アメリカ合衆国]]を訪れヨーロッパに戻った<ref>[http://austrian-mint.at/images/content/pdfs/Download/Ausstellung/Katalog_Land_in_Sicht_D.pdf Katalog ''Land in Sicht!: Österreich auf weiter Fahrt''] (Catalogue ''Land Ahoy!: Austria on the Seven Seas'') (in [[Portable Document Format|PDF]] and in [[German language]]) p. 8. Exhibition by the Austrian Mint, 17 August - 3 February 2006. ''Münze Österreich'' (Austrian Mint). Accessed 22 May 2009.</ref>。 |
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[[1892年]]、約1年の歳月をかけて世界一周の見聞旅行に出かけ、その途上で[[日本]]を訪れている。この時、フランツ・フェルディナント大公は日本の風物や伝統文化などを詳細に手記に記しており、これは後にまとめられて出版されている。 |
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=== 皇位継承者指名 === |
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[[File:Franzferdinand1.jpg|thumb|200px|フランツ・フェルディナント]] |
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1889年1月、従兄[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ皇太子]]が[[マリー・フォン・ヴェッツェラ]]と共に情死した<ref name="brook">{{cite book|title=The Austrians: A Thousand-Years Odyssey|last=Brook-Shepherd, Gordon|year=1997|publisher=Carroll & Graf|isbn=0-7867-0520-5|pages=107, 125–126}}</ref>。このため、父カール・ルートヴィヒが皇位継承者となった<ref>{{cite news|title =The Crown Prince's Successor|publisher =The New York Times|date = 2 February 1889| url =http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9F04E0D9153AE033A25751C0A9649C94689FD7CF}} Accessed 22 May 2009.</ref>。 |
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1895年、フランツ・フェルディナントは当時不治の病とされた[[結核]]の疑いがあると診断されていたことから、軍隊の旅団長の地位を降りることをフランツ・ヨーゼフ1世に申し出た<ref name="江村(2013) p.316"> 江村(2013) p.316</ref>。皇位継承者には弟の[[オットー・フランツ・フォン・エスターライヒ|オットー・フランツ大公]]が選ばれるであろうという憶測も流れ<ref name="江村(2013) p.316"/>、フランツ・フェルディナントに見切りをつけてオットー・フランツに媚びを売る者もいたが<ref name="江村(2013) p.317"> 江村(2013) p.317</ref>、[[南チロル]]の[[メラーノ]]で療養につとめた結果、フランツ・フェルディナントは一年半ほどして健康を回復した<ref name="江村(2013) p.317"/>。1896年に父カール・ルートヴィヒが[[腸チフス]]で死去すると、フランツ・フェルディナントが伯父フランツ・ヨーゼフ1世の皇位継承者に認定された<ref name="江村(2013) p.318"> 江村(2013) p.318</ref>。結核の療養を済ませたフランツ・フェルディナントは、この頃から政治活動を開始するようになった<ref name="江村(2013) p.318"/>。 |
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しかし彼は数少ない皇位継承者であり(ハプスブルク=ロートリンゲン家傍系の[[オーストリア大公|大公]]はテシェン公を含めて数多くいたが、血筋の近いオーストリア皇帝[[フランツ2世|フランツ1世]]の男系子孫の男子は限られていた)、皇室は次期皇位継承者が[[チェコ人]]の女官のような身分の低い女性と[[貴賤結婚]]するのに大反対したが、2人はあくまで意思を曲げなかった。このためゾフィーが皇族としての特権をすべて放棄し、将来生まれる子供には皇位を継がせないことを条件に結婚を承認された。ただし、フランツ・フェルディナントが将来皇帝に即位した後もこの誓約を守り続ける意志があったかは定かではない。[[1900年]]7月1日に2人の結婚式は挙行された。しかしその後もゾフィーは冷遇され続け、公式行事においては幼児を含む全ての皇族の末席に座ることを余儀なくされていた。またそれ以外の公の場(劇場など)でも大公との同席は許されなかった。このような複雑な経緯もあって、フランツ・フェルディナントは「皇太子」({{Lang|de|Kronprinz}})とはあまり呼ばれず、「皇位継承者」({{Lang|de|Thronfolger}})と遠回しな呼ばれ方をされるようになった。 |
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=== 結婚 === |
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オーストリア皇室では、フランツ・フェルディナントが皇位継承者として認定されるようになると結婚話を進めるが、彼には[[ボヘミア]]の伯爵家出身で[[チェシン公国|テシェン公]][[フリードリヒ・フォン・エスターライヒ=テシェン|フリードリヒ]]の妃[[イザベラ・フォン・クロイ (1856-1931)|イザベラ]]の女官であった[[ゾフィー・ホテク]]という恋人がいた。 |
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二人は1894年に[[プラハ]]で出会い恋に落ち、それ以降フランツ・フェルディナントは[[ブラチスラヴァ|プレスブルク]]のテシェン公家の別荘を頻繁に訪れるようになった。ゾフィーはフランツ・フェルディナントの結核回復を祝う手紙を彼の療養先の[[ロシニ島]]に送っている。2人は周囲に関係が露見しないように細心の注意を払っていた<ref name="Meyer2007">{{cite book |last=Meyer |first=G. J. |title=A World Undone: The Story of the Great War 1914 to 1918|url=https://books.google.com/books?id=LJeIW40osH0C|year=2007|page=5|publisher=Bantam Dell|isbn=978-0-553-38240-2}}</ref>。 |
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オーストリア皇室は由緒ある王家の出身者以外との結婚を認めておらず、次期皇帝が[[チェコ人]]の女官のような身分の低い女性と[[貴賤結婚]]するのに反対したが、フランツ・フェルディナントはゾフィー以外の女性との結婚を拒否した。最終的に、フランツ・ヨーゼフ1世はゾフィーが皇族としての特権を全て放棄し、将来生まれる子供には皇位を継がせないことを条件に結婚を承認した<ref name="brook"/>。 |
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[[File:Archduke Franz Ferdinand and Sophie wedding picture 1900.JPG|220px|thumb|フランツ・フェルディナントとゾフィーの結婚式]] |
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[[1900年]]7月1日に2人の結婚式は挙行されたが、フランツ・ヨーゼフ1世は出席を拒否し、彼の弟妹や他の皇族が出席することも許可しなかった<ref name="brook"/>。結婚後もゾフィーは冷遇され続け、公式行事においては幼児を含む全ての皇族の末席に座ることを余儀なくされていた。また、それ以外の公の場(劇場など)でもフランツ・フェルディナントとの同席は許されなかった<ref name="Meyer2007"/>。このような複雑な経緯もあって、フランツ・フェルディナントは「皇太子」とはあまり呼ばれず、「皇位継承者」と遠回しな呼ばれ方をされるようになった。 |
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1913年11月22日にゾフィーと共に[[イギリス]]・[[ノッティンガムシャー]]のウェルベック修道院を訪れ1週間滞在し、その後は[[ウィンザー城]]を訪問して[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]、[[メアリー・オブ・テック]]夫妻と共に1週間過ごした。回顧録によると、フランツ・フェルディナント夫妻はウェルベック修道院の式典に出席した後に同地の射撃大会に参加したが、そこで銃の暴発事故に遭ったという<ref>[http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-nottinghamshire-25008184] BBC Radio Nottinghamshire article by Greig Watson, ''Could Franz Ferdinand Welbeck gun accident have halted WWI?''.</ref>。 |
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フランツ・フェルディナントは当時のヨーロッパ貴族の中でもとりわけ{{仮リンク|トロフィー・ハンティング|en|Trophy hunting}}を愛好し、彼の日記には約30万頭の動物を仕留めたことが記されている(その内5,000頭は鹿だったという)<ref name="Wladimir Aichelburg 2000, p. 31">Wladimir Aichelburg, ''Erzherzog Franz Ferdinand von Österreich-Este und Artstetten'', Vienna: Lehner, 2000, ISBN 978-3-901749-18-6, p. 31 {{de icon}}: "Tatsächlich war Franz Ferdinand ein außergewöhnlich leidenschaftlicher Jäger" - "It is a fact that Franz Ferdinand was an unusually passionate hunter."</ref>。彼の城には仕留めた10万頭の動物の頭部が展示されており、他にも様々な骨董品をコレクションしていた<ref name="Friedrich Weissensteiner 1978, p. 367">[[Michael Hainisch]], ed. Friedrich Weissensteiner, ''75 Jahre aus bewegter Zeit: Lebenserinnerungen eines österreichischen Staatsmannes'', Veröffentlichungen der Kommission für neuere Geschichte Österreichs 64, Vienna: Böhlau, 1978, ISBN 978-3-205-08565-2, p. 367 {{de icon}}: ''"Konopischt ... das einst dem Erzherzoge Franz Ferdinand gehört hatte. Das Schloß ist voller Jagdtrophäen"'' - "Konopiště ... which once belonged to Archduke Franz Ferdinand. The castle is full of hunting trophies."</ref><ref name="p. 237">Neil Wilson and Mark Baker, ''Prague: City Guide'', Lonely Planet City Guide, 9th ed. Footscray, Victoria / Oakland, California / London: Lonely Planet, 2010, ISBN 978-1-74179-668-1, [https://books.google.com/books?id=ZGpN-VWeJrYC&pg=PA237 p. 237].</ref><ref name="Thomas Veszelits 2003, p. 106">Thomas Veszelits, ''Prag'', HB-Bildatlas 248, Ostfildern: HB, 2003, ISBN 978-3-616-06152-8, p. 106. {{de icon}}: ''"Jagdtrophäen, Waffen aus drei Jahrhunderten und Kunstschätze füllten die Räume"'' – "Hunting trophies, weapons dating to three centuries, and art treasures filled the rooms."</ref>。 |
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=== 暗殺 === |
=== 暗殺 === |
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[[File:Franz Ferdinand & Sophie at Sarajevo Station.jpg|thumb|240px|セルビア駅に到着したフランツ・フェルディナントとゾフィー]] |
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⚫ | [[1914年]]6月28日、フランツ・フェルディナントはゾフィーを伴い{{仮リンク|共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ|en|Austro-Hungarian rule in Bosnia and Herzegovina}}の首府サラエヴォの軍事演習視察に出かけた。しかし、[[1878年]]の[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]以来オーストリア=ハンガリーが占領し、[[1908年]]には正式に二重君主国に併合されていたボスニア・ヘルツェゴビナにはセルビア人も住んでおり、[[大セルビア]]主義者にとってはオーストリア=ハンガリーに侵略された土地だった。[[ロシア帝国]]を後ろ盾とする[[汎スラヴ主義]]に沸くバルカン半島では、オーストリア大公はテロの標的となっていた。 |
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[[1914年]]6月28日、大公夫妻はサラエヴォの町を流れる[[ミリャツカ川]]にかかる[[ラテン橋]]で、民族主義を奉じる「{{仮リンク|青年ボスニア|en|Young Bosnia}} ({{lang|bos|Mlada Bosna}}, ムラダ・ボスナ)」のメンバーで秘密組織[[黒手組]]の{{仮リンク|ボスニア系セルビア人|en|Serbs of Bosnia and Herzegovina}}のメンバーだった[[ガヴリロ・プリンツィプ]]によって暗殺された。時に大公51歳、ゾフィー46歳であった。この[[サラエボ事件]]によりオーストリア=ハンガリーが[[セルビア王国 (近代)|セルビア]]に[[宣戦布告]]、これが[[第一次世界大戦]]を引き起こすことになる。なお最期の言葉は「ゾフィー、死んではいけない。子ども達のために生きなくては」であった。 |
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午前10時15分、フランツ・フェルディナント夫妻の乗った車列がサラエボ市内に入った。{{仮リンク|青年ボスニア|en|Young Bosnia}}のメンバーで秘密組織[[黒手組]]のメンバーだった{{仮リンク|ボスニア系セルビア人|en|Serbs of Bosnia and Herzegovina}}{{仮リンク|ネデリュコ・チャブリノヴィッチ|en|Nedeljko Čabrinović}}が手榴弾を投げ付けたが、手榴弾は後続の車に当たり乗員が負傷した。夫妻を乗せた車は市庁舎に逃げ込み、フランツ・フェルディナントは「爆弾を投げ付けるのが君たちの歓迎のやり方なのか!」と激怒した<ref name="beyer146">Beyer, Rick, ''The Greatest Stories Never Told'', A&E Television Networks / The History Channel, ISBN 0-06-001401-6. p. 146–147</ref>。 |
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[[File:Headline of the New York Times June-29-1914.jpg|240px|thumb|left|フランツ・フェルディナントとゾフィーの暗殺を報じる[[ニューヨーク・タイムズ]]]] |
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しばらくして落ち着きを取り戻したフランツ・フェルディナントは、爆弾で負傷した人々を見舞うために病院を訪問することに決めた。午前10時45分、夫妻を乗せた車は市庁舎を出発したが、運転手に行き先が変更されたことが伝わっておらず、車は脇道に入り込んでしまい、病院に向かうため方向転換した。車が方向転換しようとした通りのカフェには、暗殺に失敗した黒手組の[[ガヴリロ・プリンツィプ]]が偶然居合わせ、彼は拳銃を取り出し車に近寄り発砲した<ref name="beyer146"/><ref name="johnson">{{cite book|title =Introducing Austria: A Short History (Studies in Austrian Literature, Culture, and Thought)|last =Johnson, Lonnie|publisher =Ariadne Press|year =1989|isbn =0-929497-03-1|pages =52–54}}</ref>。プリンツィプは1発目をゾフィーの腹部に、2発目はフランツ・フェルディナントの首に向けて発砲し、フランツ・フェルディナントは泣き叫ぶゾフィーの上に身を乗り出した。周囲の人々が夫妻に駆け寄った時にはフランツ・フェルディナントは生きており<ref name="johnson"/>、ゾフィーに「ゾフィー、死んではいけない。子供たちのために生きなくては」と語りかけていたという<ref name="beyer146"/>。総督官邸に入った側近たちはフランツ・フェルディナントの手当てを試みようとしたが、彼は数分後に死亡し、ゾフィーも病院に向かう途中で死亡した<ref>{{cite book|title = The Last Kaiser: The Life of Wilhelm II|page = 351|last = MacDonogh, Giles|publisher = St. Martin's Griffin|year = 2003|isbn = 978-0-312-30557-4}}</ref>。 |
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[[File:Franz Ferdinand & Sophie's Funeral Ceremony1.jpg|240px|thumb|フランツ・フェルディナントとゾフィーの遺体]] |
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暗殺者たちへの尋問で、彼らの所持していた武器は黒手組指導者でセルビア軍大佐の[[ドラグーティン・ディミトリエビッチ]]から提供されたものだと判明した<ref>{{cite book|last= Belfield, Richard|title = The Assassination Business: A History of State-Sponsored Murder|publisher = Carroll & Graf|isbn = 978-0-7867-1343-1}}</ref>。この[[サラエボ事件]]の後、オーストリア=ハンガリーは報復として[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]に宣戦布告し、[[第一次世界大戦]]が勃発した<ref>Johnson. p. 56</ref>。フランツ・フェルディナントの死によって第一次世界大戦が勃発することになった<ref>John McCannon, PhD. - ''AP World History'' - Copyright 2010, 2008, Barron's Educational Series, Inc. - page 9.</ref>。 |
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== 政治思想 == |
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[[File:Franz Ferdinand & Sophie in Sarajevo.jpg|240px|thumb|left|サラエボ市民と触れ合うフランツ・フェルディナントとゾフィー]] |
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フランツ・フェルディナントは保守カトリック主義者で[[中央集権]]的な国家を目指した反面、異民族へのリベラルな姿勢を持っていた<ref name="Rothenburg, G. 1976. p 141"/>。チェコ人と結婚したこともあり親[[スラヴ人|スラブ]]的な傾向があり、[[アウスグライヒ]]によって帝国内における権利を抑圧されていたチェコ人と[[南スラヴ人|南スラヴ]]系住民の自治権拡大を提唱していた<ref>{{cite book|title = Thunder at Twilight: Vienna 1913/1914|last = Morton, Frederick|year = 1989|publisher = Scribner|page = 191|isbn = 978-0-684-19143-0}}</ref>。また、セルビアに対しても慎重な姿勢を示し、参謀総長[[フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ]]などの軍部強硬派に対し、「セルビアへの高圧的な態度はスラブの盟主[[ロシア帝国]]との戦争を招き、やがては両帝国を破滅させる」と警告している。フランツ・ヨーゼフ1世の[[ボヘミア]]王戴冠による三重君主国への帝国改編([[ドナウ連邦構想]])を望んでいた時期もあった。 |
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[[File:Ferdinand Schmutzer - Franz Ferdinand von Österreich-Este, 1914.jpg|200px|thumb|海軍の軍服を着用したフランツ・フェルディナント]] |
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その一方で、フランツ・フェルディナントはハンガリー人を嫌悪しており、1904年には「ハンガリー人は大臣、貴族、兵士、農民、従僕などあらゆる階級に関係なく革命的である」と述べ、ハンガリー首相[[ティサ・イシュトヴァーン]]を「革命思想の裏切者」と批判している<ref name="Köpeczi">{{cite book | last1 = Köpeczi | first1 = Béla (General Editor) | last2 = Szász | first2 = Zoltán (Editor) | title = History of Transylvania | publisher = Akadémiai Kiadó | year = 1994 | location = Budapest |url=http://mek.oszk.hu/03400/03407/html/413.html| doi = | isbn = 963-05-6703-2}}</ref>。彼はハンガリーのナショナリズムをハプスブルク王朝の脅威と見なしており、第9騎兵連隊長時代には部下が公用語として認められているハンガリー語を話しているのを見て激怒したという逸話がある{{sfn|Rothenburg|1976|p=120}}。また、ハンガリー軍を潜在的な敵対勢力と見なして信用しておらず、ハンガリー軍の砲兵部隊編制予算について反対している{{sfn|Rothenburg|1976|p=147}}{{sfn|Rothenburg|1976|p=133}}。 |
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1900年に勃発した[[義和団の乱]]での軍事的失策は、大国としての威厳を損ねたとしてフランツ・フェルディナントを失望させた。彼は「[[ドワーフ]]のような[[ベルギー]]や[[ポルトガル]]さえ軍隊を中国に駐留させていたにも関わらず、我が国は1兵も駐留させていなかった。しかし、我が国は"国際救援隊"として[[八カ国同盟]]に参加し、軍隊を派遣した」と述べている{{sfn|Rothenburg|1976|p=136}}。軍事面では陸軍優位で海軍を軽視していた国内の中で海軍の増強を主張しており、フランツ・フェルディナント夫妻が暗殺された際には、軍艦[[フィリブス・ウニティス (戦艦)|フィリブス・ウニティス]]が夫妻の遺体を乗せて栄光を称えた。 |
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== 日本との関わり == |
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1892年に出発した世界一周の見聞旅行の途上で、1893年に日本を訪れ1か月をかけて長崎から東京まで旅している<ref name="江村(2013) p.312"> 江村(2013) p.312</ref>。 |
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[[箱根]]において左腕に龍の[[刺青]]を彫ってもらっている<ref name="小山(2010) p.13"> 小山(2010) p.13</ref>(日本を訪れたら刺青を彫ってもらうのが、当時のヨーロッパの男性王族にとってある種の伝統となっていた{{#tag:ref|[[ニコライ2世]]もジョージ5世も、皇太子時代の日本訪問時に刺青を入れている<ref name="小山(2010) p.12"> 小山(2010) p.12</ref>。明治時代に日本を訪れた5人の英国王子のうち、少なくとも4人は確実に日本で刺青を彫っている<ref>小山(2010) p.11</ref>。また、[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の弟[[ハインリヒ・フォン・プロイセン (1862-1929)|ハインリヒ]]皇子にも日本婦人の図柄と思われる刺青があった<ref name="小山(2010) p.12"/>。|group=注釈}})。一説によると、フランツ・フェルディナントは胸にも蛇の刺青を彫っており、サラエボ事件ではその蛇の頭が銃弾に貫かれていたという<ref name="小山(2010) p.13"/>。 |
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フランツ・フェルディナントはこの時の日本の風物や伝統文化などを詳細に手記に記しており、これは後にまとめられて出版されている。なお、[[シェーンブルン宮殿]]にある[[日本庭園]]は、日本文化に触れた彼の命令で作られたものである。 |
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== 子女 == |
== 子女 == |
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*『オーストリア皇太子の日本日記―明治二十六年夏の記録』([[講談社学術文庫]]、[[2005年]]9月、ISBN 4061597256) |
*『オーストリア皇太子の日本日記―明治二十六年夏の記録』([[講談社学術文庫]]、[[2005年]]9月、ISBN 4061597256) |
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== 注 |
== 脚注== |
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=== 注釈 === |
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{{reflist|group=注釈}} |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書|author=[[小山騰]]|date=2010年12月30日|title=日本の刺青と英国王室―明治期から第一次世界大戦まで―|publisher=[[藤原書店]]|isbn=978-4-89434-778-6|ref=小山(2010)}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[江村洋]]|date=2013年12月10日|title=フランツ・ヨーゼフ ハプスブルク「最後」の皇帝|publisher=[[東京書籍]]|isbn=978-4-309-41266-5|ref=江村(2013)}} |
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==関連項目== |
==関連項目== |
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{{Commonscat|Archduke Franz Ferdinand of Austria}} |
{{Commonscat|Archduke Franz Ferdinand of Austria}} |
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*[[フランツ・フェルディナンド (バンド)]] - [[イギリス]]の[[ロック (音楽)|ロック]]バンド。バンド名はフランツ・フェルディナンド大公に由来する。 |
*[[フランツ・フェルディナンド (バンド)]] - [[イギリス]]の[[ロック (音楽)|ロック]]バンド。バンド名はフランツ・フェルディナンド大公に由来する。 |
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*[[シェーンブルン宮殿]] - 宮殿内の[[日本庭園]]「アルプス庭園」はフランツ・フェルディナントの命で作られた。 |
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2016年10月29日 (土) 14:51時点における版
フランツ・フェルディナント Franz Ferdinand | |
---|---|
エスターライヒ=エステ家 | |
フランツ・フェルディナント大公(1914年) | |
全名 |
一覧参照
|
称号 | エスターライヒ=エステ大公 |
出生 |
1863年12月18日 オーストリア帝国 グラーツ |
死去 |
1914年6月28日(50歳没) オーストリア=ハンガリー帝国 共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ サラエヴォ |
埋葬 | オーストリア=ハンガリー帝国、アルトシュテッテン、アルトシュテッテン城 |
配偶者 | ゾフィー・ホテク |
子女 | |
父親 | カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ |
母親 | マリア・アンヌンツィアータ・フォン・ネアペル=ジツィリエン |
サイン |
フランツ・フェルディナント・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(ドイツ語: Franz Ferdinand von Habsburg-Lothringen, 1863年12月18日 - 1914年6月28日)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者、エスターライヒ=エステ大公。サラエヴォでセルビア人民族主義者によって暗殺された(サラエボ事件)。
生涯
生い立ち
1863年、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟であったカール・ルートヴィヒ大公と両シチリア王フェルディナンド2世の長女マリア・アンヌンツィアータの長男としてグラーツで生まれた。1875年に従兄のフランチェスコ5世が死去し、オーストリア=エステ大公を相続した。
1877年にオーストリア=ハンガリー帝国軍に入隊して中尉に任官。その後も皇族として順当な昇進を続け、1885年に大尉、1890年に大佐、1894年に少将に昇進した[1]。フランツ・フェルディナントは指揮官としての教練を学ばなかったが、司令官としての適性を認められ第9騎兵連隊長に任命された[2]。また、特定の部隊の指揮権を持たない時期でも軍事機密に関わる書類を閲覧することができ、1913年には高齢のフランツ・ヨーゼフ1世に代わり全軍監察官に就任して軍権を掌握している[3]。
1892年から約1年の歳月をかけて世界一周の見聞旅行に出かける。イギリス領インド帝国を訪問した後、1893年に訪れたオーストラリアではカンガルーやエミューの狩りをして過ごした[4]。その後はヌメア、ニューヘブリディーズ諸島、ソロモン諸島、ニューギニア、サラワク、香港、大日本帝国を訪れた[5]。横浜からRMS エンプレス・オブ・チャイナで太平洋を横断してカナダ・バンクーバー、アメリカ合衆国を訪れヨーロッパに戻った[6]。
皇位継承者指名
1889年1月、従兄ルドルフ皇太子がマリー・フォン・ヴェッツェラと共に情死した[7]。このため、父カール・ルートヴィヒが皇位継承者となった[8]。
1895年、フランツ・フェルディナントは当時不治の病とされた結核の疑いがあると診断されていたことから、軍隊の旅団長の地位を降りることをフランツ・ヨーゼフ1世に申し出た[9]。皇位継承者には弟のオットー・フランツ大公が選ばれるであろうという憶測も流れ[9]、フランツ・フェルディナントに見切りをつけてオットー・フランツに媚びを売る者もいたが[10]、南チロルのメラーノで療養につとめた結果、フランツ・フェルディナントは一年半ほどして健康を回復した[10]。1896年に父カール・ルートヴィヒが腸チフスで死去すると、フランツ・フェルディナントが伯父フランツ・ヨーゼフ1世の皇位継承者に認定された[11]。結核の療養を済ませたフランツ・フェルディナントは、この頃から政治活動を開始するようになった[11]。
結婚
オーストリア皇室では、フランツ・フェルディナントが皇位継承者として認定されるようになると結婚話を進めるが、彼にはボヘミアの伯爵家出身でテシェン公フリードリヒの妃イザベラの女官であったゾフィー・ホテクという恋人がいた。
二人は1894年にプラハで出会い恋に落ち、それ以降フランツ・フェルディナントはプレスブルクのテシェン公家の別荘を頻繁に訪れるようになった。ゾフィーはフランツ・フェルディナントの結核回復を祝う手紙を彼の療養先のロシニ島に送っている。2人は周囲に関係が露見しないように細心の注意を払っていた[12]。
しかし、フランツ・フェルディナントが蓋付き腕時計をテシェン公家に忘れたことがきっかけで2人の恋が露見することになった。当時腕時計の蓋の裏に意中の女性の肖像画を描くのが流行しており、忘れ物を預かったイザベラは、彼が足繁く通うのは長女マリア・クリスティーナに気があるからだと信じて時計の蓋を盗み見たため、ゾフィーとの恋が露呈した。
オーストリア皇室は由緒ある王家の出身者以外との結婚を認めておらず、次期皇帝がチェコ人の女官のような身分の低い女性と貴賤結婚するのに反対したが、フランツ・フェルディナントはゾフィー以外の女性との結婚を拒否した。最終的に、フランツ・ヨーゼフ1世はゾフィーが皇族としての特権を全て放棄し、将来生まれる子供には皇位を継がせないことを条件に結婚を承認した[7]。
1900年7月1日に2人の結婚式は挙行されたが、フランツ・ヨーゼフ1世は出席を拒否し、彼の弟妹や他の皇族が出席することも許可しなかった[7]。結婚後もゾフィーは冷遇され続け、公式行事においては幼児を含む全ての皇族の末席に座ることを余儀なくされていた。また、それ以外の公の場(劇場など)でもフランツ・フェルディナントとの同席は許されなかった[12]。このような複雑な経緯もあって、フランツ・フェルディナントは「皇太子」とはあまり呼ばれず、「皇位継承者」と遠回しな呼ばれ方をされるようになった。
1913年11月22日にゾフィーと共にイギリス・ノッティンガムシャーのウェルベック修道院を訪れ1週間滞在し、その後はウィンザー城を訪問してジョージ5世、メアリー・オブ・テック夫妻と共に1週間過ごした。回顧録によると、フランツ・フェルディナント夫妻はウェルベック修道院の式典に出席した後に同地の射撃大会に参加したが、そこで銃の暴発事故に遭ったという[13]。
フランツ・フェルディナントは当時のヨーロッパ貴族の中でもとりわけトロフィー・ハンティングを愛好し、彼の日記には約30万頭の動物を仕留めたことが記されている(その内5,000頭は鹿だったという)[14]。彼の城には仕留めた10万頭の動物の頭部が展示されており、他にも様々な骨董品をコレクションしていた[15][16][17]。
暗殺
1914年6月28日、フランツ・フェルディナントはゾフィーを伴い共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首府サラエヴォの軍事演習視察に出かけた。しかし、1878年のベルリン会議以来オーストリア=ハンガリーが占領し、1908年には正式に二重君主国に併合されていたボスニア・ヘルツェゴビナにはセルビア人も住んでおり、大セルビア主義者にとってはオーストリア=ハンガリーに侵略された土地だった。ロシア帝国を後ろ盾とする汎スラヴ主義に沸くバルカン半島では、オーストリア大公はテロの標的となっていた。
午前10時15分、フランツ・フェルディナント夫妻の乗った車列がサラエボ市内に入った。青年ボスニアのメンバーで秘密組織黒手組のメンバーだったボスニア系セルビア人ネデリュコ・チャブリノヴィッチが手榴弾を投げ付けたが、手榴弾は後続の車に当たり乗員が負傷した。夫妻を乗せた車は市庁舎に逃げ込み、フランツ・フェルディナントは「爆弾を投げ付けるのが君たちの歓迎のやり方なのか!」と激怒した[18]。
しばらくして落ち着きを取り戻したフランツ・フェルディナントは、爆弾で負傷した人々を見舞うために病院を訪問することに決めた。午前10時45分、夫妻を乗せた車は市庁舎を出発したが、運転手に行き先が変更されたことが伝わっておらず、車は脇道に入り込んでしまい、病院に向かうため方向転換した。車が方向転換しようとした通りのカフェには、暗殺に失敗した黒手組のガヴリロ・プリンツィプが偶然居合わせ、彼は拳銃を取り出し車に近寄り発砲した[18][19]。プリンツィプは1発目をゾフィーの腹部に、2発目はフランツ・フェルディナントの首に向けて発砲し、フランツ・フェルディナントは泣き叫ぶゾフィーの上に身を乗り出した。周囲の人々が夫妻に駆け寄った時にはフランツ・フェルディナントは生きており[19]、ゾフィーに「ゾフィー、死んではいけない。子供たちのために生きなくては」と語りかけていたという[18]。総督官邸に入った側近たちはフランツ・フェルディナントの手当てを試みようとしたが、彼は数分後に死亡し、ゾフィーも病院に向かう途中で死亡した[20]。
暗殺者たちへの尋問で、彼らの所持していた武器は黒手組指導者でセルビア軍大佐のドラグーティン・ディミトリエビッチから提供されたものだと判明した[21]。このサラエボ事件の後、オーストリア=ハンガリーは報復としてセルビア王国に宣戦布告し、第一次世界大戦が勃発した[22]。フランツ・フェルディナントの死によって第一次世界大戦が勃発することになった[23]。
フランツ・フェルディナント夫妻の葬儀は2人合同で行われた。貴賤結婚のために、ハプスブルク=ロートリンゲン家の人々が埋葬されるカプツィーナー納骨堂に入れないことを生前から悟っていた夫妻は、居城であったアルトシュテッテン城内の納骨堂に埋葬された。
政治思想
フランツ・フェルディナントは保守カトリック主義者で中央集権的な国家を目指した反面、異民族へのリベラルな姿勢を持っていた[1]。チェコ人と結婚したこともあり親スラブ的な傾向があり、アウスグライヒによって帝国内における権利を抑圧されていたチェコ人と南スラヴ系住民の自治権拡大を提唱していた[24]。また、セルビアに対しても慎重な姿勢を示し、参謀総長フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフなどの軍部強硬派に対し、「セルビアへの高圧的な態度はスラブの盟主ロシア帝国との戦争を招き、やがては両帝国を破滅させる」と警告している。フランツ・ヨーゼフ1世のボヘミア王戴冠による三重君主国への帝国改編(ドナウ連邦構想)を望んでいた時期もあった。
その一方で、フランツ・フェルディナントはハンガリー人を嫌悪しており、1904年には「ハンガリー人は大臣、貴族、兵士、農民、従僕などあらゆる階級に関係なく革命的である」と述べ、ハンガリー首相ティサ・イシュトヴァーンを「革命思想の裏切者」と批判している[25]。彼はハンガリーのナショナリズムをハプスブルク王朝の脅威と見なしており、第9騎兵連隊長時代には部下が公用語として認められているハンガリー語を話しているのを見て激怒したという逸話がある[2]。また、ハンガリー軍を潜在的な敵対勢力と見なして信用しておらず、ハンガリー軍の砲兵部隊編制予算について反対している[26][27]。
1900年に勃発した義和団の乱での軍事的失策は、大国としての威厳を損ねたとしてフランツ・フェルディナントを失望させた。彼は「ドワーフのようなベルギーやポルトガルさえ軍隊を中国に駐留させていたにも関わらず、我が国は1兵も駐留させていなかった。しかし、我が国は"国際救援隊"として八カ国同盟に参加し、軍隊を派遣した」と述べている[28]。軍事面では陸軍優位で海軍を軽視していた国内の中で海軍の増強を主張しており、フランツ・フェルディナント夫妻が暗殺された際には、軍艦フィリブス・ウニティスが夫妻の遺体を乗せて栄光を称えた。
日本との関わり
1892年に出発した世界一周の見聞旅行の途上で、1893年に日本を訪れ1か月をかけて長崎から東京まで旅している[29]。
箱根において左腕に龍の刺青を彫ってもらっている[30](日本を訪れたら刺青を彫ってもらうのが、当時のヨーロッパの男性王族にとってある種の伝統となっていた[注釈 1])。一説によると、フランツ・フェルディナントは胸にも蛇の刺青を彫っており、サラエボ事件ではその蛇の頭が銃弾に貫かれていたという[30]。
フランツ・フェルディナントはこの時の日本の風物や伝統文化などを詳細に手記に記しており、これは後にまとめられて出版されている。なお、シェーンブルン宮殿にある日本庭園は、日本文化に触れた彼の命令で作られたものである。
子女
著書
- 『オーストリア皇太子の日本日記―明治二十六年夏の記録』(講談社学術文庫、2005年9月、ISBN 4061597256)
脚注
注釈
出典
- ^ a b Rothenburg, G. The Army of Francis Joseph. West Lafayette: Purdue University Press, 1976. p 141.
- ^ a b Rothenburg 1976, p. 120.
- ^ Rothenburg 1976, p. 170.
- ^ “The Archduke Franz Ferdinand”. The Argus (Australia). (23 May 1895) Accessed 28 June 2010
- ^ Australian Town and Country Journal, 15 April 1893, p. 29; Retrieved 2 September 2013
- ^ Katalog Land in Sicht!: Österreich auf weiter Fahrt (Catalogue Land Ahoy!: Austria on the Seven Seas) (in PDF and in German language) p. 8. Exhibition by the Austrian Mint, 17 August - 3 February 2006. Münze Österreich (Austrian Mint). Accessed 22 May 2009.
- ^ a b c Brook-Shepherd, Gordon (1997). The Austrians: A Thousand-Years Odyssey. Carroll & Graf. pp. 107, 125–126. ISBN 0-7867-0520-5
- ^ “The Crown Prince's Successor”. The New York Times. (2 February 1889) Accessed 22 May 2009.
- ^ a b 江村(2013) p.316
- ^ a b 江村(2013) p.317
- ^ a b 江村(2013) p.318
- ^ a b Meyer, G. J. (2007). A World Undone: The Story of the Great War 1914 to 1918. Bantam Dell. p. 5. ISBN 978-0-553-38240-2
- ^ [1] BBC Radio Nottinghamshire article by Greig Watson, Could Franz Ferdinand Welbeck gun accident have halted WWI?.
- ^ Wladimir Aichelburg, Erzherzog Franz Ferdinand von Österreich-Este und Artstetten, Vienna: Lehner, 2000, ISBN 978-3-901749-18-6, p. 31 : "Tatsächlich war Franz Ferdinand ein außergewöhnlich leidenschaftlicher Jäger" - "It is a fact that Franz Ferdinand was an unusually passionate hunter."
- ^ Michael Hainisch, ed. Friedrich Weissensteiner, 75 Jahre aus bewegter Zeit: Lebenserinnerungen eines österreichischen Staatsmannes, Veröffentlichungen der Kommission für neuere Geschichte Österreichs 64, Vienna: Böhlau, 1978, ISBN 978-3-205-08565-2, p. 367 : "Konopischt ... das einst dem Erzherzoge Franz Ferdinand gehört hatte. Das Schloß ist voller Jagdtrophäen" - "Konopiště ... which once belonged to Archduke Franz Ferdinand. The castle is full of hunting trophies."
- ^ Neil Wilson and Mark Baker, Prague: City Guide, Lonely Planet City Guide, 9th ed. Footscray, Victoria / Oakland, California / London: Lonely Planet, 2010, ISBN 978-1-74179-668-1, p. 237.
- ^ Thomas Veszelits, Prag, HB-Bildatlas 248, Ostfildern: HB, 2003, ISBN 978-3-616-06152-8, p. 106. : "Jagdtrophäen, Waffen aus drei Jahrhunderten und Kunstschätze füllten die Räume" – "Hunting trophies, weapons dating to three centuries, and art treasures filled the rooms."
- ^ a b c Beyer, Rick, The Greatest Stories Never Told, A&E Television Networks / The History Channel, ISBN 0-06-001401-6. p. 146–147
- ^ a b Johnson, Lonnie (1989). Introducing Austria: A Short History (Studies in Austrian Literature, Culture, and Thought). Ariadne Press. pp. 52–54. ISBN 0-929497-03-1
- ^ MacDonogh, Giles (2003). The Last Kaiser: The Life of Wilhelm II. St. Martin's Griffin. p. 351. ISBN 978-0-312-30557-4
- ^ Belfield, Richard. The Assassination Business: A History of State-Sponsored Murder. Carroll & Graf. ISBN 978-0-7867-1343-1
- ^ Johnson. p. 56
- ^ John McCannon, PhD. - AP World History - Copyright 2010, 2008, Barron's Educational Series, Inc. - page 9.
- ^ Morton, Frederick (1989). Thunder at Twilight: Vienna 1913/1914. Scribner. p. 191. ISBN 978-0-684-19143-0
- ^ Köpeczi, Béla (General Editor); Szász, Zoltán (Editor) (1994). History of Transylvania. Budapest: Akadémiai Kiadó. ISBN 963-05-6703-2
- ^ Rothenburg 1976, p. 147.
- ^ Rothenburg 1976, p. 133.
- ^ Rothenburg 1976, p. 136.
- ^ 江村(2013) p.312
- ^ a b 小山(2010) p.13
- ^ a b 小山(2010) p.12
- ^ 小山(2010) p.11
参考文献
- 小山騰『日本の刺青と英国王室―明治期から第一次世界大戦まで―』藤原書店、2010年12月30日。ISBN 978-4-89434-778-6。
- 江村洋『フランツ・ヨーゼフ ハプスブルク「最後」の皇帝』東京書籍、2013年12月10日。ISBN 978-4-309-41266-5。
関連項目
- フランツ・フェルディナンド (バンド) - イギリスのロックバンド。バンド名はフランツ・フェルディナンド大公に由来する。
オーストリア-ハンガリーの君主 | ||
---|---|---|
先代 フランツ・フェルディナント・ゲミニアン |
エスターライヒ=エステ大公 1875年 - 1914年 |
次代 カール |