コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ジョン・ダドリー (初代ノーサンバランド公)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m 生涯: 誤字
編集の要約なし
 
(23人の利用者による、間の38版が非表示)
1行目: 1行目:
{{基礎情報 皇族・貴族
[[Image:John Dudley.jpg|thumb|ノーサンバランド公ジョン・ダドリー]]
|人名=初代ノーサンバランド公<br />ジョン・ダドリー
'''ジョン・ダドリー'''('''John Dudley, 1st Duke of Northumberland''', [[1502年]] - [[1553年]][[8月22日]])は、[[16世紀]]の[[イングランド王国|イングランド]]の軍人、政治家。[[テューダー朝]]の王[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]を助けて実質的に政権を掌握していたが、[[ジェーン・グレイ]]を女王に擁立したことから、反逆罪に問われて死刑になった。
|各国語表記={{lang|en|John Dudley<br />1st Duke of Northumberland}}
|家名・爵位=
|画像=John Dudley (Knole, Kent).jpg
|画像サイズ=
|画像説明=ノーサンバランド公ジョン・ダドリーの肖像画
|続柄=
|称号=初代[[ノーサンバーランド公爵|ノーサンバランド公爵]]、初代[[ウォリック伯|ウォリック伯爵]]、初代{{仮リンク|ライル子爵|en|Viscount Lisle}}、[[ガーター勲章]]勲爵士(KG)
|全名=
|身位=
|敬称=
|出生日=[[1502年]]
|生地=
|死亡日=[[1553年]][[8月22日]]
|没地={{ENG927}}、[[ロンドン]]、[[ロンドン塔]]
|埋葬日=
|埋葬地=
|配偶者1={{仮リンク|ジェーン・ダドリー (ノーサンバランド公爵夫人)|label=ジェーン|en|Jane Dudley, Duchess of Northumberland}}
|配偶者2=
|子女={{仮リンク|ジョン・ダドリー (第2代ウォリック伯爵)|label=第2代ウォリック伯|en|John Dudley, 2nd Earl of Warwick}}(三男)、{{仮リンク|アンブローズ・ダドリー (第3代ウィリック伯爵)|label=第3代ウォリック伯|en|Ambrose Dudley, 3rd Earl of Warwick}}(四男)、[[ロバート・ダドリー (初代レスター伯)|初代レスター伯]](五男)、[[ギルフォード・ダドリー]](六男)、{{仮リンク|メアリー・シドニー|en|Mary Dudley}}(長女)、{{仮リンク|キャサリン・ヘイスティングス (ハンティンドン伯爵夫人)|label=キャサリン・ダドリー|en|Katherine Hastings, Countess of Huntingdon}}(次女)[[#家族|他]]
|父親={{仮リンク|エドムンド・ダドリー|en|Edmund Dudley}}
|母親={{仮リンク|エリザベス・グレイ (第6代ライル女男爵)|label=第6代ライル女男爵|en|Elizabeth Grey, 6th Baroness Lisle}}
|役職=[[枢密院議長 (イギリス)|枢密院議長]](1550-1553)、{{仮リンク|家政長官 (イギリス)|label=王室家政長官|en|Lord Steward}}(1550-1553)、{{仮リンク|イングランド海軍卿|label=海軍卿|en|Lord High Admiral of England}}(1543-1547、1549-1550)
| 宗教 = [[プロテスタント]]→[[カトリック教会|カトリック]]
| サイン = Dudley, John signature.png
}}
'''初代[[ノーサンバーランド公爵|ノーサンバランド公爵]]ジョン・ダドリー'''({{lang-en-short|'''John Dudley, 1st Duke of Northumberland'''}}, {{Post-nominals|post-noms=[[ガーター勲章|KG]], [[枢密院 (イギリス)|PC]]}}, [[1502年]] - [[1553年]][[8月22日]])は、[[ダドリー男爵]]の傍系氏族で、[[イングランド王国|イングランド]]の[[政治家]]、[[廷臣]]、[[軍人]]、[[世襲貴族|貴族]]。

[[テューダー朝]]の国王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]と[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]の時代に官職を歴任し、[[1542年]]に{{仮リンク|ライル子爵|en|Viscount Lisle}}、[[1547年]]に[[ウォリック伯]]に叙された。[[1549年]]にエドワード6世の摂政である初代[[サマセット公]][[エドワード・シーモア (初代サマセット公)|エドワード・シーモア]]を失脚に追いやったことで国政を主導する立場となり、ノーサンバランド公に叙された。財政改革や[[プロテスタント]]政策を推進した。[[1553年]]にエドワード6世が崩御すると[[カトリック教会|カトリック]]の[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー王女]]の即位を防ぐために[[ジェーン・グレイ]]を女王に擁立したが、蜂起したメアリーに敗れて捕らえられ、[[大逆罪 (イギリス)|大逆罪]]で処刑された。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
父エドマンド・ダドリーは[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]の首席財務担当官であったが、ジョンが8歳のとき、横領とクーデターの嫌疑をかけられ反逆罪で処刑されている。母が再婚したため、翌年からジョンは親交のあったギルフォード家が後見人となって養育され、やがて[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の宮廷で士官として仕えるようになった。[[1520年]]、ギルフォード家の娘と結婚し、[[1523年]]には[[フランス王国|フランス]]の[[ソンム県|ソンム]]、[[カレー (フランス)|カレー]]への進攻での功績が認められた。勇猛果敢な軍人と評されたジョンは、[[アン・ブーリン]]の戴冠式や[[エリザベス1世|エリザベス]](後のエリザベス1世)の洗礼式でも名誉ある役を任されるまでになっていた。
1502年に廷臣{{仮リンク|エドムンド・ダドリー|en|Edmund Dudley}}とその妻第6代{{仮リンク|ライル男爵|label=ライル女男爵|en|Baron Lisle}}{{仮リンク|エリザベス・グレイ (第6代ライル女男爵)|label=エリザベス・グレイ|en|Elizabeth Grey, 6th Baroness Lisle}}の間の長男として生まれる<ref name="thepeerage.com">{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p10295.htm#i102950 |title=John Dudley, 1st Duke of Northumberland|accessdate= 2016-01-31 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref><ref name="CP DN">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/northumberland1551.htm|title=Northumberland, Duke of (E, 1551 - 1553)|accessdate= 2016-01-31 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。


父エドムンド・ダドリーは[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]の財政官であったが、1509年に[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]が即位するとたちまちに失脚し、ジョンが8歳の時の[[1510年]]に反逆罪で処刑された{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=210/528}}{{sfn|Dixon|1888|p=109}}。母は翌[[1511年]]に[[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード4世]]の庶子{{仮リンク|アーサー・プランタジネット (初代ライル子爵)|label=アーサー・プランタジネット|en|Arthur Plantagenet, 1st Viscount Lisle}}([[1523年]]に初代{{仮リンク|ライル子爵|en|Viscount Lisle}}に叙される)と再婚した<ref>{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p10498.htm#i104978 |title=Elizabeth Grey, 6th Baroness Lisle|accessdate= 2016-01-31 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。
[[1534年]]、義父エドワード・ギルフォードが死去した際、ギルフォードの甥との相続権争いに勝ち、ギルフォード家の財産を相続する。また、彼を高く評価していた[[トマス・クロムウェル]]の推挽により、ヘンリー8世の4番目の妻[[アン・オブ・クレーヴズ]]の騎兵隊長に、さらにはカレー副総督に指名された。[[1540年]]のクロムウェルの失脚・処刑の後もダドリーの出世は続き、[[1542年]]、母の再婚相手アーサー・プランタジネット(ヘンリー8世の叔父にあたる)が持っていたライル子爵位を継承、翌年にはイングランド海軍提督となり、[[枢密院 (イギリス)|枢密院]]の一員にもなった。また、フランスとの抗争を集結させて[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]を獲得し、[[ガーター勲章]]を受けている。


ジョンが11歳の時の[[1512年]]から[[1513年]]にかけての[[イギリスの議会|議会]]において亡き父の[[私権剥奪]]は解除された{{sfn|Dixon|1888|p=109}}。
[[1547年]]、ヘンリー8世が亡くなると、9歳の新国王エドワード6世のLord Protector([[護国卿]])となったのは[[エドワード・シーモア (初代サマセット公)|サマセット公エドワード・シーモア]]であった。ダドリーは[[ウォリック伯|ウォリック伯爵]]位を得、スコットランドとの戦争に勝利する(ピンキ・クルーの戦い)など、サマセット公の補佐役となり功績を挙げた。しかし[[1549年]]になると、[[コーンウォール]]や[[ノーフォーク]]で農民一揆が相次ぐ。ノーフォークで[[ノリッチ]]の町をケット兄弟の反乱軍([[:en:Kett's Rebellion|Kett's Rebellion]])から解放したのは、軍役の経験豊富なダドリーであった。サマセット公の限界を悟った[[トマス・クランマー]]([[カンタベリー大司教]])ら有力者たちは、ダドリーを次の摂政と考え、サマセット公を逮捕して失脚させる([[1552年]]処刑)。ダドリーは事実上イングランドの政治を掌握したが、護国卿の呼称は辞退し、[[1551年]]に[[ノーサンバーランド公爵|ノーサンバランド公爵]]位を創設して自ら就いた。また、イングランド経済を疲弊させていたフランスや[[スコットランド王国|スコットランド]]との紛争を終結させて、国内の政治を安定させようと努めた。


=== ヘンリー8世の宮廷の廷臣 ===
しかし[[1553年]]、もともと病弱なエドワード6世が重篤な容態となった。ダドリーは自分の六男[[ギルフォード・ダドリー|ギルフォード]]とヘンリー7世の曾孫[[ジェーン・グレイ]]を結婚させたが、[[7月6日]]、王はこの結婚後6週間で死去する。エドワードの死亡はダドリーがしばらく隠したため、正確な日付けはいまだ不明である。当時はダドリーの毒殺説も流れた。本来、エドワード6世の次の王位継承権は異母姉のメアリー(後の[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]])、エリザベスにあったが、ダドリーは王が死の直前に王位をジェーンに委譲する旨の遺言を残したと公言し、戴冠の準備を始める。この傀儡政権を危険視した政府は、ロンドンから離れていたメアリーを呼び戻す決定をする。メアリーは熱心な[[カトリック教会|カトリック]]信者ではあったが、それでも正統の後継者を支持した民衆に見守られながらロンドンに帰還した。結局ダドリーはメアリーの即位を認め、彼のほかに息子ギルフォード、ジェーンと、他の4人の息子たちが逮捕された。ダドリーは反逆罪の判決を受け、[[8月22日]]に処刑された。ギルフォードとジェーンは翌年[[2月12日]]に処刑されたが、他の息子たちは釈放されている。後に五男[[ロバート・ダドリー (初代レスター伯)|ロバート]]がエリザベス1世の寵臣になっている。
[[1523年]]に初代[[サフォーク伯|サフォーク公爵]][[チャールズ・ブランドン (初代サフォーク公爵)|チャールズ・ブランドン]]の指揮下に行われた[[フランス王国|フランス]]・[[カレー (フランス)|カレー]]への上陸作戦に参加し、戦功によりナイトに叙された{{sfn|Dixon|1888|p=109}}。[[1524年]]には[[グリニッジ]]で開かれたヘンリー8世臨席の[[馬上槍試合]]で活躍した{{sfn|Dixon|1888|p=109}}。

[[1530年]]に母からライル男爵領を相続したが、ライル男爵とは称されていない<ref name="CP DN" />。[[1532年]]にはウォリック城城守(Constable of Warwick Castle)に就任した<ref name="CP DN" />。[[1534年]]から[[1536年]]の[[宗教改革議会 (イングランド)|議会]]では{{仮リンク|ケント州選出議員|en|List of Members of Parliament in Kent}}を務めている<ref name="CP DN" />。1534年には[[ロンドン塔]]武器庫長官(Master of the Armoury in the Tower)となり{{sfn|Dixon|1888|p=109}}、1536年には[[スタッフォードシャー]]の[[シェリフ]]に就任した{{sfn|Dixon|1888|p=109}}。[[1537年]]には[[スペイン]]に特使として派遣された<ref name="CP DN" />。同年、王の取り巻きたちの長となる{{sfn|Dixon|1888|p=109}}。[[1538年]]9月にはカレー副総督に就任した{{sfn|Dixon|1888|p=109}}。

[[1540年]]にはヘンリー8世の4番目の妻[[アン・オブ・クレーヴズ]]の主馬頭(master of the horse)となった{{sfn|Dixon|1888|p=109}}。[[1542年]][[3月3日]]に継父のライル子爵アーサー・プランタジネットが死去。ライル子爵位にはジョンへの継承を認める規定があったが、[[3月12日]]に新規の形でライル子爵に叙せられている<ref name="CP DN" />。同年、{{仮リンク|スコットランド辺境地域|label=スコットランド辺境地域長官|en|Scottish Marches}}(warden of the Scottish marches)に就任した{{sfn|Dixon|1888|p=109}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=528}}。

[[1543年]]から[[1547年]]にかけて{{仮リンク|イングランド海軍卿|label=海軍卿|en|Lord High Admiral of England}}に就任した<ref name="CP DN" />。[[1543年]]4月には[[ガーター勲章]]を授与され、また[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]に列する{{sfn|Dixon|1888|p=109}}。

[[1544年]]には{{仮リンク|ブローニュ包囲戦 (1544-1546)|label=ブローニュ包囲戦|en|Sieges of Boulogne (1544–46)}}で艦隊を指揮し、フランス軍のブローニュ侵入を抑える武功を挙げた{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=528}}。[[1546年]]の終戦までそこにとどまり、同年7月には[[パリ]]に特使として派遣された{{sfn|Dixon|1888|p=109}}。

ヘンリー8世が病に伏せる中の1546年12月に宮廷内保守派の大物である第3代[[ノーフォーク公]][[トマス・ハワード (第3代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]]が逮捕されて失脚した。これ以降ライル子爵や初代[[ハートフォード侯爵|ハートフォード伯爵]][[エドワード・シーモア (初代サマセット公)|エドワード・シーモア]](後の初代[[サマセット公]])ら[[プロテスタント]]改革派が台頭するようになる{{sfn|石井美樹子|2009|p=89}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=529}}。

=== サマセット公支配時代 ===
[[File:Ed and pope.png|250px|thumb|ヘンリー8世から宗教改革を引き継いでカトリック([[教皇]])を排除するエドワード6世と初代ハートフォード伯エドワード・シーモアやライル子爵ら枢密院を描いた絵画。]]
[[1547年]]1月にヘンリー8世が崩御し、幼王[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]が即位した。ライル子爵はヘンリー8世の遺言において幼王エドワード6世に代わって統治を行う16人の枢密顧問官の一人に指名されていた{{sfn|Dixon|1888|p=109}}。ヘンリー8世としては集団指導体制にすることで特定の人物が息子をないがしろにすることを避けようと企図したのだが、結局この遺言は守られず、エドワード6世の伯父にあたるハートフォード伯(サマセット公に叙爵)が摂政に就任して国政を牛耳った{{sfn|今井宏(編)|1990|p=56}}。

1547年[[2月16日]]には[[ウォリック伯]]に叙せられた<ref name="CP DN" />。同年9月にサマセット公によるスコットランド侵攻作戦の{{仮リンク|ピンキーの戦い|en|Battle of Pinkie Cleugh}}に参加した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=528}}{{sfn|今井宏(編)|1990|p=57}}。[[1548年]]から[[1550年]]にかけては{{仮リンク|ウェールズ辺境地域|label=ウェールズ辺境地域評議会議長|en|Welsh Marches}}に就任した{{sfn|Dixon|1888|p=109}}。[[1549年]]から1550年にかけては海軍卿に再任した<ref name="CP DN" />。

1549年7月にはイングランド東部で共有地の[[囲い込み]]に反発する農民の反乱「{{仮リンク|ケットの反乱|en|Kett's Rebellion}}」が発生した。サマセット公はこれまで農民の苦境に理解を示すことで国民人気を得ていたので、この反乱にも一定の理解を示して鎮圧を逡巡した。その間にウォリック伯は傭兵部隊を率いて出陣し、容赦なくこの反乱を鎮圧してロバート・ケットはじめ反乱指導者を処刑した{{sfn|今井宏(編)|1990|p=58}}。これによってウィリック伯は枢密院における立場を固めた{{sfn|石井美樹子|2009|p=135}}。

権力を拡大させるウォリック伯はサマセット公を排除して自らが国政を牛耳ることを狙うようになり、枢密院でサマセット公のケットの反乱をめぐる責任を追及した。そして1549年10月にサマセット公を逮捕(一時釈放されるも[[1551年]]に再逮捕され、[[1552年]]1月に処刑)させた{{sfn|今井宏(編)|1990|p=59}}。

=== 国政を主導 ===
サマセット公失脚後、ウォリック伯が最高権力を握ることになった{{sfn|石井美樹子|2009|p=135}}。1550年2月には[[枢密院議長 (イギリス)|枢密院議長]]と{{仮リンク|家政長官 (イギリス)|label=王室家政長官|en|Lord Steward}}に就任した{{sfn|Dixon|1888|p=109}}。1551年には国王に自らを[[ノーサンバーランド公爵|ノーサンバランド公爵]]に叙させた{{sfn|今井宏(編)|1990|p=59}}。

ノーサンバランド公はサマセット公と比べるとプロテスタント信仰への情熱は弱いと見られており、[[カトリック教会|カトリック]]たちはこの権力者交代で宗教政策が転換されることを期待したが、エドワード6世が熱心なプロテスタントに成長していたため、ノーサンバランド公も国王の信任を維持するため急進的なプロテスタント政策を遂行した{{sfn|今井宏(編)|1990|p=60}}。

枢密院の命令として[[イコン|聖像]]の破壊を命じるとともに保守派の聖職者の追放と改革派の聖職者の登用を推し進めた。サマセット公時代に作られた共通祈祷書をよりプロテスタント的に改正した共通祈祷書を[[トマス・クランマー]]に作成させ、[[1552年]]の礼拝統一法によって全ての教会にこの祈祷書の備え付けを命じた{{sfn|今井宏(編)|1990|p=61}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=529}}。[[1553年]]には[[アウクスブルク信仰告白]]をもとに42信仰箇条を制定。その内容はエリザベス女王時代の[[39箇条|39信仰箇条]]にも引き継がれ、[[イングランド国教会]]の基礎となる{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=529}}{{sfn|今井宏(編)|1990|p=61}}。

外交面では危機的な財政状況を鑑み、ヘンリー8世時代から続くフランスとスコットランドとの戦争を終わらせることを決意。和平交渉を行い、1550年にはフランス、1551年にはスコットランドと講和した{{sfn|今井宏(編)|1990|p=60}}。また[[太平洋]]、[[レパント]]、[[アフリカ]]海岸への遠征を開始させて新大陸に最初の領土を獲得した。後に世界最大の植民地帝国となる[[大英帝国]]の最初の基礎を築いた{{sfn|石井美樹子|2009|p=296}}

これまで戦費の穴埋めに[[貨幣改鋳|通貨悪鋳]]が行われてきたが、ノーサンバランド公も当初それを踏襲して1551年に通貨悪鋳を行っている{{sfn|今井宏(編)|1990|p=60}}。しかしこれにより通貨の信用が低下して[[インフレーション]]が発生したため、{{仮リンク|大蔵卿 (イングランド)|label=大蔵卿|en|Lord High Treasurer}}初代[[ウィンチェスター侯爵]][[ウィリアム・ポーレット (初代ウィンチェスター侯爵)|ウィリアム・ポーレット]]や国際金融専門家[[トーマス・グレシャム|トマス・グレシャム]]らの助言を容れて[[1552年]]には通貨の品質を向上させた{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=529}}{{sfn|今井宏(編)|1990|p=60}}。財政機構改革にも乗り出し、[[財務省 (イギリス)|財務府]]の汚職や縄張り意識、人員過剰などの問題にメスを入れた。[[増収裁判所]]と{{仮リンク|初収入税・十分の一税裁判所|en|Court of First Fruits and Tenths}}の財務府への吸収はその一環である。また能率的な会計監査制度を財務府に導入した{{sfn|今井宏(編)|1990|p=60}}。

1551年から1552年にかけては{{仮リンク|ケンブリッジ大学学長|en|List of Chancellors of the University of Cambridge}}を務めている{{sfn|Dixon|1888|p=109}}。

=== ジェーン・グレイ擁立 ===
[[File:The Dukes of Northumberland and Suffolk praying Lady Jane Grey to accept the Crown.jpg|250px|thumb|[[ジェーン・グレイ]]に王冠を受け入れるよう懇願するノーサンバランド公とサフォーク公[[ヘンリー・グレイ (初代サフォーク公爵)|ヘンリー・グレイ]](ジェーンの父)を描いた絵画({{仮リンク|ジョバンニ・バティスタ・チプリアーニ|en|Giovanni Battista Cipriani}}画)]]
1553年半ばになるとエドワード6世が悪性の[[感冒]]により危篤状態に陥った。ヘンリー8世はエドワード6世の次の王位継承権者として異母姉のメアリー王女(後の[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]])を指定していたが、メアリー王女は熱狂的なカトリックであり、プロテスタント政策を遂行するノーサンバランド公を恨んでいた。彼女が即位したらノーサンバランド公は処刑され、カトリック政策が推し進められることは必至だった{{sfn|今井宏(編)|1990|p=61}}{{sfn|石井美樹子|2009|p=135}}。

そのためノーサンバランド公としてはメアリー王女の王位継承を是が非でも阻止せねばならなかった。彼はヘンリー7世の曽孫にあたる[[ジェーン・グレイ]]を次の女王にすることを計画し、[[1553年]]5月には自らの六男[[ギルフォード・ダドリー|ギルフォード]]をジェーンと結婚させた{{sfn|今井宏(編)|1990|p=61}}{{sfn|石井美樹子|2009|p=135}}。そしてジェーンの即位がプロテスタント信仰を守る唯一の方法であるとエドワード6世を説得した。プロテスタントであるエドワード6世もメアリーのことは嫌っていたのでこの計画に同意し、ジェーンを次期女王に指名する遺言を作成した{{sfn|今井宏(編)|1990|p=62}}。

1553年7月6日にエドワード6世が16歳で崩御するとノーサンバランド公はただちにジェーンに即位宣言を行わせた。枢密院も全員ジェーン即位を支持した。しかしこれに反発したメアリー王女は7月10日にもフラムリンガム城へ逃れ、そこで同志の貴族を集めて挙兵した。ノーサンバランド公の予想に反して多くの人々が彼女のもとに集まった。とりわけプロテスタント色が強いはずの南東部の人々がメアリー支持に動いたことは計算外だった{{sfn|石井美樹子|2009|p=136}}。

ノーサンバランド公はこれを鎮圧すべく傭兵部隊を率いてロンドンを出陣したが、部隊の戦意は低く、脱走兵が相次ぎ、戦闘できる状態になかった。また公爵がロンドンを離れて間もなくジェーン擁立を支持していたはずの枢密顧問官たちが続々とメアリー支持に寝返った。最後までジェーンへの忠誠を貫いたのはジェーンの父である初代サフォーク公[[ヘンリー・グレイ (初代サフォーク公爵)|ヘンリー・グレイ]]とトマス・クランマーだけという状況だった{{sfn|今井宏(編)|1990|p=62}}{{sfn|石井美樹子|2009|p=136-137}}。

戦況を絶望視したノーサンバランド公はメアリー1世の即位を認め、7月末にケンブリッジでメアリー軍に投降した{{sfn|今井宏(編)|1990|p=62}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=529}}。

=== 大逆罪で処刑 ===
投降後、[[大逆罪 (イギリス)|大逆罪]]の容疑で裁判にかけられた<ref name="CP DN" />。カトリックに改宗することで延命を図ろうとしたが、効果はなく{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=529}}、[[1553年]][[8月22日]]にロンドン塔の[[タワー・ヒル]]刑場において大逆罪により処刑された{{sfn|石井美樹子|2009|p=137}}<ref name="CP DN" />。

当初メアリー1世はジェーンとギルフォードを処刑する気はなかったが、1554年に釈放されたジェーンの父サフォーク公がメアリー1世とスペイン皇太子フェリペ(後の[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]])の結婚に反対する[[ワイアットの乱]]に参加して処刑された。その影響で結局ジェーンとギルフォードも処刑された{{sfn|石井美樹子|2009|p=137}}。

ギルフォード以外の息子たちは釈放されている。三男{{仮リンク|ジョン・ダドリー (第2代ウォリック伯爵)|label=ジョン|en|John Dudley, 2nd Earl of Warwick}}は父が大逆罪で有罪判決を受ける前に議会の議決でウォリック伯爵位を相続している。四男{{仮リンク|アンブローズ・ダドリー (第3代ウィリック伯爵)|label=アンブローズ|en|Ambrose Dudley, 3rd Earl of Warwick}}も兄ジョンの死後にウォリック伯位の復活が認められた<ref name="CP DN" />。また五男[[ロバート・ダドリー (初代レスター伯)|ロバート]]は後にエリザベス1世の寵臣となり、[[レスター伯爵]]に叙されている{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=414}}。

== 家族 ==
廷臣{{仮リンク|エドワード・ギルドフォード|en|Edward Guildford}}の娘{{仮リンク|ジェーン・ダドリー (ノーサンバランド公爵夫人)|label=ジェーン|en|Jane Dudley, Duchess of Northumberland}}と結婚。彼女との間に以下の8男2女を儲ける<ref name="CP DN" />。

*長男'''ヘンリー・ダドリー''' <small>(?-1544年)</small> - 早世
*次男'''トマス・ダドリー''' - 早世
*三男'''{{仮リンク|ジョン・ダドリー (第2代ウォリック伯爵)|label=ジョン・ダドリー|en|John Dudley, 2nd Earl of Warwick}}''' <small>(1527年ごろ-1554年)</small> - 第2代ウォリック伯位を継承
*四男'''{{仮リンク|アンブローズ・ダドリー (第3代ウィリック伯爵)|label=アンブローズ・ダドリー|en|Ambrose Dudley, 3rd Earl of Warwick}}''' <small>(1528年-1590年)</small> - 第3代ウォリック伯を回復
*五男'''[[ロバート・ダドリー (初代レスター伯)|ロバート・ダドリー]]''' <small>(1532年-1588年)</small> - エリザベス女王の寵臣。初代[[レスター伯]]に叙される
*六男'''[[ギルフォード・ダドリー]]''' <small>(1536年-1554年)</small> - 女王[[ジェーン・グレイ|ジェーン]]と結婚、ジェーンともども処刑
*七男'''ヘンリー・ダドリー''' <small>(?-1557年)</small>
*八男'''チャールズ・ダドリー''' - 早世
*長女'''{{仮リンク|メアリー・シドニー|en|Mary Dudley}}''' <small>(1530年代前半-1586年)</small> - {{仮リンク|ヘンリー・シドニー (アイルランド総督)|en|Henry Sidney|label=ヘンリー・シドニー}}と結婚。[[フィリップ・シドニー]]の母
*次女'''{{仮リンク|キャサリン・ヘイスティングス (ハンティンドン伯爵夫人)|label=キャサリン・ダドリー|en|Katherine Hastings, Countess of Huntingdon}}''' <small>(1530年代後半か1540年代前半-1620年)</small>- 第3代{{仮リンク|ハンティンドン伯爵|en|Earl of Huntingdon}}{{仮リンク|ヘンリー・ヘイスティングス (第3代ハンティンドン伯爵)|label=ヘンリー・ヘイスティングス|en|Henry Hastings, 3rd Earl of Huntingdon}}と結婚

== 栄典 ==
=== 爵位 ===
[[1530年]]に母の死により{{仮リンク|ライル男爵|en|Baron Lisle}}領を相続しているが、そう称されていない<ref name="CP DN" />。

[[1542年]][[3月12日]]に以下の爵位に叙される<ref name="CP DN" />。
*'''初代{{仮リンク|ライル子爵|en|Viscount Lisle}}''' <small>(1st Viscount Lisle)</small>
*:([[勅許状]]によるイングランド貴族爵位)
[[1547年]][[2月16日]]に以下の爵位に叙される<ref name="CP DN" />。
*'''初代[[ウォリック伯|ウォリック伯爵]]''' <small>(1st Earl of Warwick)</small>
*:(勅許状による[[イングランド貴族]]爵位)
[[1551年]][[10月11日]]に以下の爵位に叙される<ref name="CP DN" />。
*'''初代[[ノーサンバーランド公爵|ノーサンバランド公爵]]''' <small>(1st Duke of Northumberland)</small>
*:(勅許状による[[イングランド貴族]]爵位)
[[1553年]][[1月9日]]に[[イギリスの議会|議会]]の議決によって息子の{{仮リンク|ジョン・ダドリー (第2代ウォリック伯爵)|label=ジョン・ダドリー|en|John Dudley, 2nd Earl of Warwick}}がウォリック伯爵位を継承<ref name="CP DN" /><ref>{{Cite web |url=http://thepeerage.com/p10296.htm#i102952|title=John Dudley, 2nd Earl of Warwick|accessdate= 2020-04-16 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。

[[1553年]]8月に大逆罪で有罪判決を受け、保有中の爵位剥奪<ref name="CP DN" />。

=== 勲章 ===
*[[1543年]][[4月23日]]、[[ガーター勲章|ガーター騎士団(勲章)]]ナイト(KG){{sfn|Dixon|1888|p=109}}

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈|1}}
=== 出典 ===
{{Reflist|1}}

== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=石井美樹子|authorlink=石井美樹子|year=2009|title=エリザベス 華麗なる孤独|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4-12-004029-0|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=今井宏(編)|authorlink=今井宏 (歴史学者)|year=1990|title=イギリス史〈2〉近世|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=4-634-46020-3|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author1=松村赳|authorlink1=松村赳 |author2=富田虎男|authorlink2=富田虎男|year=2000|title=英米史辞典|publisher=[[研究社]]|isbn=4-7674-3047-X|ref=harv}}
*{{DNB |last=Dixon|first=Richard Watson |wstitle=Dudley, John (1502?-1553)|volume=16|pages=109–111}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{commonscat-inline|John Dudley, 1st Duke of Northumberland|初代ノーサンバランド公爵ジョン・ダドリー}}
*http://www.britannica.com/EBchecked/topic/420007/John-Dudley-duke-of-Northumberland-earl-of-Warwick-Viscount-Lisle-Baron-Lisle
*http://www.britannica.com/EBchecked/topic/420007/John-Dudley-duke-of-Northumberland-earl-of-Warwick-Viscount-Lisle-Baron-Lisle
* [http://www.tudorplace.com.ar/Bios/JohnDudley(1DNorthumberland).htm tudorplace.com.ar]
* [http://www.tudorplace.com.ar/Bios/JohnDudley(1DNorthumberland).htm tudorplace.com.ar]


{{s-start}}
{{DEFAULTSORT:たとり しよん}}
{{s-off}}
[[Category:ノーサンバランド公]]
{{s-bef|before=[[エドワード・シーモア (初代サマセット公)|初代ハートフォード伯爵]]}}
[[Category:ウォリック伯]]
{{s-ttl|title={{仮リンク|イングランド海軍卿|label=海軍卿|en|Lord High Admiral of England}}|years=1543年 - 1547年}}
[[Category:テューダー朝の人物]]
{{s-aft|after=[[トマス・シーモア|スードリーの初代シーモア男爵]]}}
[[Category:ダドリー家|しよん のさんはらんと]]
{{s-bef|before=スードリーの初代シーモア男爵}}
{{s-ttl|title=海軍卿|years=1549年 - 1550年}}
{{s-aft|after=[[エドワード・クリントン (初代リンカーン伯)|第9代クリントン男爵]]}}
{{s-bef|rows=2|before=初代サマセット公爵}}
{{s-ttl|title=[[式部卿 (イングランド)|大侍従卿]]|years=1547年 - 1550年}}
{{s-aft|after={{仮リンク|ウィリアム・パー (初代ノーサンプトン侯爵)|label=初代ノーサンプトン侯爵|en|William Parr, 1st Marquess of Northampton}}}}
{{s-ttl|title=[[軍務伯]]|years=1551年 - 1553年}}
{{s-aft|after=[[トマス・ハワード (第3代ノーフォーク公)|第3代ノーフォーク公爵]]}}
|-
{{s-bef|rows=2|before=[[ウィリアム・ポーレット (初代ウィンチェスター侯爵)|初代セント・ジョン男爵]]}}
{{s-ttl|title={{仮リンク|家政長官 (イギリス)|label=王室家政長官|en|Lord Steward}}|years=1550年 - 1553年}}
{{s-aft|rows=2|after=[[ヘンリー・フィッツアラン (第19代アランデル伯)|第19代アランデル伯爵]]}}
{{s-ttl|title=[[枢密院議長 (イギリス)|枢密院議長]]|years=1550年 - 1553年}}
|-
{{s-bef|before={{仮リンク|ヘンリー・マナーズ (第2代ラトランド伯爵)|label=第2代ラトランド伯爵|en|Henry Manners, 2nd Earl of Rutland}}}}
{{s-ttl|title={{仮リンク|スコットランド辺境地域|label=スコットランド辺境地域長官|en|Scottish Marches}}|years=1542年 - 1543年}}
{{s-aft|after={{仮リンク|ウィリアム・パー (初代ノーサンプトン侯爵)|label=初代パー男爵|en|William Parr, 1st Marquess of Northampton}}}}
{{s-bef|before=?}}
{{s-ttl|title={{仮リンク|ウェールズ辺境地域|label=ウェールズ辺境地域評議会議長|en|Welsh Marches}}|years=1548年 - 1550年}}
{{s-aft|after={{仮リンク|ウィリアム・ハーバート (初代ペンブルック伯 1501-1570)|label=サー・ウィリアム・ハーバート|en|William Herbert, 1st Earl of Pembroke (1501–1570)}}}}
|-
{{s-mil}}
{{s-bef| before ={{仮リンク|エドワード・ギルドフォード|label=サー・エドワード・ギルドフォード|en|Edward Guildford}}}}
{{s-ttl|title=[[ロンドン塔]]武器庫長官|years=1535年 - 1544年}}
{{s-aft|after={{仮リンク|トマス・ダーシー (初代ダーシー男爵)|label=サー・トマス・ダーシー|en|Thomas Darcy, 1st Baron Darcy of Chiche}}}}
{{s-vac}}
{{s-ttl|title=[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]総督|years=1544年 - 1545年}}
{{s-aft|after={{仮リンク|トマス・ポイニング (ポイニイング男爵)|label=ポイニング男爵|en|Thomas Poynings, Baron Poynings}}}}
{{s-aca}}
{{s-bef| before = 初代サマセット公爵 }}
{{s-ttl| title = {{仮リンク|ケンブリッジ大学総長|en|List of Chancellors of the University of Cambridge}}
| years = 1552年 - 1553年}}
{{s-aft| after = [[スティーブン・ガーディナー (聖職者)|スティーブン・ガーディナー]]}}
{{s-reg|en}}
{{s-new|creation}}
{{s-ttl|title=初代{{仮リンク|ライル子爵|en|Viscount Lisle}}<br /><small>(第5期)</small>|years=1542年 - 1553年}}
{{s-non|reason=剥奪<br /><small>(第6期{{仮リンク|ロバート・シドニー (初代レスター伯爵)|label=ロバート・シドニー|en|Robert Sidney, 1st Earl of Leicester}})</small>}}
{{s-new|creation}}
{{s-ttl|title=初代[[ウォリック伯|ウォリック伯爵]]<br /><small>(第2期)</small>|years=1547年 - 1553年}}
{{s-aft|after={{仮リンク|ジョン・ダドリー (第2代ウォリック伯)|label=ジョン・ダドリー|en|John Dudley, 2nd Earl of Warwick}}}}
{{s-new|creation}}
{{s-ttl|title=初代[[ノーサンバーランド公爵|ノーサンバランド公爵]]<br /><small>(第1期)</small>|years=1551年 - 1553年}}
{{s-non|reason=剥奪<br /><small>(第2期[[ジョージ・フィッツロイ (初代ノーサンバランド公)|ジョージ・フィッツロイ]])</small>}}
{{end}}
{{Normdaten}}

{{DEFAULTSORT:たとりい しよん}}
[[Category:ノーサンバランド公|たとりい しよん]]
[[Category:ウォリック伯|たとりい しよん]]
[[Category:16世紀ヨーロッパの政治家]]
[[Category:16世紀の軍人]]
[[Category:16世紀イングランドの人物]]
[[Category:ケンブリッジ大学総長]]
[[Category:ケンブリッジ大学の教員]]
[[Category:ダドリー家|しよん のおさんはらんと]]
[[Category:ガーター勲章]]
[[Category:ガーター勲章]]
[[Category:刑死した人物]]
[[Category:ナイト・バチェラー]]
[[Category:テューダー朝の人物]]
[[Category:刑死したイギリスの人物]]
[[Category:1502年生]]
[[Category:1502年生]]
[[Category:1553年没]]
[[Category:1553年没]]

2024年12月12日 (木) 08:22時点における最新版

初代ノーサンバランド公
ジョン・ダドリー
John Dudley
1st Duke of Northumberland
ノーサンバランド公ジョン・ダドリーの肖像画

称号 初代ノーサンバランド公爵、初代ウォリック伯爵、初代ライル子爵英語版ガーター勲章勲爵士(KG)
出生 1502年
死去 1553年8月22日
イングランド王国の旗 イングランド王国ロンドンロンドン塔
配偶者 ジェーン英語版
子女 第2代ウォリック伯英語版(三男)、第3代ウォリック伯英語版(四男)、初代レスター伯(五男)、ギルフォード・ダドリー(六男)、メアリー・シドニー英語版(長女)、キャサリン・ダドリー英語版(次女)
父親 エドムンド・ダドリー英語版
母親 第6代ライル女男爵英語版
役職 枢密院議長(1550-1553)、王室家政長官英語版(1550-1553)、海軍卿英語版(1543-1547、1549-1550)
宗教 プロテスタントカトリック
サイン
テンプレートを表示

初代ノーサンバランド公爵ジョン・ダドリー: John Dudley, 1st Duke of Northumberland, KG, PC, 1502年 - 1553年8月22日)は、ダドリー男爵の傍系氏族で、イングランド政治家廷臣軍人貴族

テューダー朝の国王ヘンリー8世エドワード6世の時代に官職を歴任し、1542年ライル子爵英語版1547年ウォリック伯に叙された。1549年にエドワード6世の摂政である初代サマセット公エドワード・シーモアを失脚に追いやったことで国政を主導する立場となり、ノーサンバランド公に叙された。財政改革やプロテスタント政策を推進した。1553年にエドワード6世が崩御するとカトリックメアリー王女の即位を防ぐためにジェーン・グレイを女王に擁立したが、蜂起したメアリーに敗れて捕らえられ、大逆罪で処刑された。

生涯

[編集]

生い立ち

[編集]

1502年に廷臣エドムンド・ダドリー英語版とその妻第6代ライル女男爵英語版エリザベス・グレイ英語版の間の長男として生まれる[1][2]

父エドムンド・ダドリーはヘンリー7世の財政官であったが、1509年にヘンリー8世が即位するとたちまちに失脚し、ジョンが8歳の時の1510年に反逆罪で処刑された[3][4]。母は翌1511年エドワード4世の庶子アーサー・プランタジネット英語版1523年に初代ライル子爵英語版に叙される)と再婚した[5]

ジョンが11歳の時の1512年から1513年にかけての議会において亡き父の私権剥奪は解除された[4]

ヘンリー8世の宮廷の廷臣

[編集]

1523年に初代サフォーク公爵チャールズ・ブランドンの指揮下に行われたフランスカレーへの上陸作戦に参加し、戦功によりナイトに叙された[4]1524年にはグリニッジで開かれたヘンリー8世臨席の馬上槍試合で活躍した[4]

1530年に母からライル男爵領を相続したが、ライル男爵とは称されていない[2]1532年にはウォリック城城守(Constable of Warwick Castle)に就任した[2]1534年から1536年議会ではケント州選出議員英語版を務めている[2]。1534年にはロンドン塔武器庫長官(Master of the Armoury in the Tower)となり[4]、1536年にはスタッフォードシャーシェリフに就任した[4]1537年にはスペインに特使として派遣された[2]。同年、王の取り巻きたちの長となる[4]1538年9月にはカレー副総督に就任した[4]

1540年にはヘンリー8世の4番目の妻アン・オブ・クレーヴズの主馬頭(master of the horse)となった[4]1542年3月3日に継父のライル子爵アーサー・プランタジネットが死去。ライル子爵位にはジョンへの継承を認める規定があったが、3月12日に新規の形でライル子爵に叙せられている[2]。同年、スコットランド辺境地域長官英語版(warden of the Scottish marches)に就任した[4][6]

1543年から1547年にかけて海軍卿英語版に就任した[2]1543年4月にはガーター勲章を授与され、また枢密顧問官に列する[4]

1544年にはブローニュ包囲戦英語版で艦隊を指揮し、フランス軍のブローニュ侵入を抑える武功を挙げた[6]1546年の終戦までそこにとどまり、同年7月にはパリに特使として派遣された[4]

ヘンリー8世が病に伏せる中の1546年12月に宮廷内保守派の大物である第3代ノーフォーク公トマス・ハワードが逮捕されて失脚した。これ以降ライル子爵や初代ハートフォード伯爵エドワード・シーモア(後の初代サマセット公)らプロテスタント改革派が台頭するようになる[7][8]

サマセット公支配時代

[編集]
ヘンリー8世から宗教改革を引き継いでカトリック(教皇)を排除するエドワード6世と初代ハートフォード伯エドワード・シーモアやライル子爵ら枢密院を描いた絵画。

1547年1月にヘンリー8世が崩御し、幼王エドワード6世が即位した。ライル子爵はヘンリー8世の遺言において幼王エドワード6世に代わって統治を行う16人の枢密顧問官の一人に指名されていた[4]。ヘンリー8世としては集団指導体制にすることで特定の人物が息子をないがしろにすることを避けようと企図したのだが、結局この遺言は守られず、エドワード6世の伯父にあたるハートフォード伯(サマセット公に叙爵)が摂政に就任して国政を牛耳った[9]

1547年2月16日にはウォリック伯に叙せられた[2]。同年9月にサマセット公によるスコットランド侵攻作戦のピンキーの戦い英語版に参加した[6][10]1548年から1550年にかけてはウェールズ辺境地域評議会議長英語版に就任した[4]1549年から1550年にかけては海軍卿に再任した[2]

1549年7月にはイングランド東部で共有地の囲い込みに反発する農民の反乱「ケットの反乱英語版」が発生した。サマセット公はこれまで農民の苦境に理解を示すことで国民人気を得ていたので、この反乱にも一定の理解を示して鎮圧を逡巡した。その間にウォリック伯は傭兵部隊を率いて出陣し、容赦なくこの反乱を鎮圧してロバート・ケットはじめ反乱指導者を処刑した[11]。これによってウィリック伯は枢密院における立場を固めた[12]

権力を拡大させるウォリック伯はサマセット公を排除して自らが国政を牛耳ることを狙うようになり、枢密院でサマセット公のケットの反乱をめぐる責任を追及した。そして1549年10月にサマセット公を逮捕(一時釈放されるも1551年に再逮捕され、1552年1月に処刑)させた[13]

国政を主導

[編集]

サマセット公失脚後、ウォリック伯が最高権力を握ることになった[12]。1550年2月には枢密院議長王室家政長官英語版に就任した[4]。1551年には国王に自らをノーサンバランド公爵に叙させた[13]

ノーサンバランド公はサマセット公と比べるとプロテスタント信仰への情熱は弱いと見られており、カトリックたちはこの権力者交代で宗教政策が転換されることを期待したが、エドワード6世が熱心なプロテスタントに成長していたため、ノーサンバランド公も国王の信任を維持するため急進的なプロテスタント政策を遂行した[14]

枢密院の命令として聖像の破壊を命じるとともに保守派の聖職者の追放と改革派の聖職者の登用を推し進めた。サマセット公時代に作られた共通祈祷書をよりプロテスタント的に改正した共通祈祷書をトマス・クランマーに作成させ、1552年の礼拝統一法によって全ての教会にこの祈祷書の備え付けを命じた[15][8]1553年にはアウクスブルク信仰告白をもとに42信仰箇条を制定。その内容はエリザベス女王時代の39信仰箇条にも引き継がれ、イングランド国教会の基礎となる[8][15]

外交面では危機的な財政状況を鑑み、ヘンリー8世時代から続くフランスとスコットランドとの戦争を終わらせることを決意。和平交渉を行い、1550年にはフランス、1551年にはスコットランドと講和した[14]。また太平洋レパントアフリカ海岸への遠征を開始させて新大陸に最初の領土を獲得した。後に世界最大の植民地帝国となる大英帝国の最初の基礎を築いた[16]

これまで戦費の穴埋めに通貨悪鋳が行われてきたが、ノーサンバランド公も当初それを踏襲して1551年に通貨悪鋳を行っている[14]。しかしこれにより通貨の信用が低下してインフレーションが発生したため、大蔵卿英語版初代ウィンチェスター侯爵ウィリアム・ポーレットや国際金融専門家トマス・グレシャムらの助言を容れて1552年には通貨の品質を向上させた[8][14]。財政機構改革にも乗り出し、財務府の汚職や縄張り意識、人員過剰などの問題にメスを入れた。増収裁判所初収入税・十分の一税裁判所英語版の財務府への吸収はその一環である。また能率的な会計監査制度を財務府に導入した[14]

1551年から1552年にかけてはケンブリッジ大学学長英語版を務めている[4]

ジェーン・グレイ擁立

[編集]
ジェーン・グレイに王冠を受け入れるよう懇願するノーサンバランド公とサフォーク公ヘンリー・グレイ(ジェーンの父)を描いた絵画(ジョバンニ・バティスタ・チプリアーニ英語版画)

1553年半ばになるとエドワード6世が悪性の感冒により危篤状態に陥った。ヘンリー8世はエドワード6世の次の王位継承権者として異母姉のメアリー王女(後のメアリー1世)を指定していたが、メアリー王女は熱狂的なカトリックであり、プロテスタント政策を遂行するノーサンバランド公を恨んでいた。彼女が即位したらノーサンバランド公は処刑され、カトリック政策が推し進められることは必至だった[15][12]

そのためノーサンバランド公としてはメアリー王女の王位継承を是が非でも阻止せねばならなかった。彼はヘンリー7世の曽孫にあたるジェーン・グレイを次の女王にすることを計画し、1553年5月には自らの六男ギルフォードをジェーンと結婚させた[15][12]。そしてジェーンの即位がプロテスタント信仰を守る唯一の方法であるとエドワード6世を説得した。プロテスタントであるエドワード6世もメアリーのことは嫌っていたのでこの計画に同意し、ジェーンを次期女王に指名する遺言を作成した[17]

1553年7月6日にエドワード6世が16歳で崩御するとノーサンバランド公はただちにジェーンに即位宣言を行わせた。枢密院も全員ジェーン即位を支持した。しかしこれに反発したメアリー王女は7月10日にもフラムリンガム城へ逃れ、そこで同志の貴族を集めて挙兵した。ノーサンバランド公の予想に反して多くの人々が彼女のもとに集まった。とりわけプロテスタント色が強いはずの南東部の人々がメアリー支持に動いたことは計算外だった[18]

ノーサンバランド公はこれを鎮圧すべく傭兵部隊を率いてロンドンを出陣したが、部隊の戦意は低く、脱走兵が相次ぎ、戦闘できる状態になかった。また公爵がロンドンを離れて間もなくジェーン擁立を支持していたはずの枢密顧問官たちが続々とメアリー支持に寝返った。最後までジェーンへの忠誠を貫いたのはジェーンの父である初代サフォーク公ヘンリー・グレイとトマス・クランマーだけという状況だった[17][19]

戦況を絶望視したノーサンバランド公はメアリー1世の即位を認め、7月末にケンブリッジでメアリー軍に投降した[17][8]

大逆罪で処刑

[編集]

投降後、大逆罪の容疑で裁判にかけられた[2]。カトリックに改宗することで延命を図ろうとしたが、効果はなく[8]1553年8月22日にロンドン塔のタワー・ヒル刑場において大逆罪により処刑された[20][2]

当初メアリー1世はジェーンとギルフォードを処刑する気はなかったが、1554年に釈放されたジェーンの父サフォーク公がメアリー1世とスペイン皇太子フェリペ(後のフェリペ2世)の結婚に反対するワイアットの乱に参加して処刑された。その影響で結局ジェーンとギルフォードも処刑された[20]

ギルフォード以外の息子たちは釈放されている。三男ジョン英語版は父が大逆罪で有罪判決を受ける前に議会の議決でウォリック伯爵位を相続している。四男アンブローズ英語版も兄ジョンの死後にウォリック伯位の復活が認められた[2]。また五男ロバートは後にエリザベス1世の寵臣となり、レスター伯爵に叙されている[21]

家族

[編集]

廷臣エドワード・ギルドフォード英語版の娘ジェーン英語版と結婚。彼女との間に以下の8男2女を儲ける[2]

栄典

[編集]

爵位

[編集]

1530年に母の死によりライル男爵英語版領を相続しているが、そう称されていない[2]

1542年3月12日に以下の爵位に叙される[2]

1547年2月16日に以下の爵位に叙される[2]

1551年10月11日に以下の爵位に叙される[2]

1553年1月9日議会の議決によって息子のジョン・ダドリー英語版がウォリック伯爵位を継承[2][22]

1553年8月に大逆罪で有罪判決を受け、保有中の爵位剥奪[2]

勲章

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ Lundy, Darryl. “John Dudley, 1st Duke of Northumberland” (英語). thepeerage.com. 2016年1月31日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s Heraldic Media Limited. “Northumberland, Duke of (E, 1551 - 1553)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年1月31日閲覧。
  3. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 210/528.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q Dixon 1888, p. 109.
  5. ^ Lundy, Darryl. “Elizabeth Grey, 6th Baroness Lisle” (英語). thepeerage.com. 2016年1月31日閲覧。
  6. ^ a b c 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 528.
  7. ^ 石井美樹子 2009, p. 89.
  8. ^ a b c d e f 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 529.
  9. ^ 今井宏(編) 1990, p. 56.
  10. ^ 今井宏(編) 1990, p. 57.
  11. ^ 今井宏(編) 1990, p. 58.
  12. ^ a b c d 石井美樹子 2009, p. 135.
  13. ^ a b 今井宏(編) 1990, p. 59.
  14. ^ a b c d e 今井宏(編) 1990, p. 60.
  15. ^ a b c d 今井宏(編) 1990, p. 61.
  16. ^ 石井美樹子 2009, p. 296.
  17. ^ a b c 今井宏(編) 1990, p. 62.
  18. ^ 石井美樹子 2009, p. 136.
  19. ^ 石井美樹子 2009, p. 136-137.
  20. ^ a b 石井美樹子 2009, p. 137.
  21. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 414.
  22. ^ Lundy, Darryl. “John Dudley, 2nd Earl of Warwick” (英語). thepeerage.com. 2020年4月16日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 石井美樹子『エリザベス 華麗なる孤独』中央公論新社、2009年。ISBN 978-4-12-004029-0 
  • 今井宏(編)『イギリス史〈2〉近世』山川出版社〈世界歴史大系〉、1990年。ISBN 4-634-46020-3 
  • 松村赳富田虎男『英米史辞典』研究社、2000年。ISBN 4-7674-3047-X 
  •  この記事はパブリックドメインの辞典本文を含む: Dixon, Richard Watson (1888). "Dudley, John (1502?-1553)". In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 16. London: Smith, Elder & Co. pp. 109–111.

外部リンク

[編集]
公職
先代
初代ハートフォード伯爵
海軍卿英語版
1543年 - 1547年
次代
スードリーの初代シーモア男爵
先代
スードリーの初代シーモア男爵
海軍卿
1549年 - 1550年
次代
第9代クリントン男爵
先代
初代サマセット公爵
大侍従卿
1547年 - 1550年
次代
初代ノーサンプトン侯爵英語版
軍務伯
1551年 - 1553年
次代
第3代ノーフォーク公爵
先代
初代セント・ジョン男爵
王室家政長官英語版
1550年 - 1553年
次代
第19代アランデル伯爵
枢密院議長
1550年 - 1553年
先代
第2代ラトランド伯爵英語版
スコットランド辺境地域長官英語版
1542年 - 1543年
次代
初代パー男爵英語版
先代
?
ウェールズ辺境地域評議会議長英語版
1548年 - 1550年
次代
サー・ウィリアム・ハーバート英語版
軍職
先代
サー・エドワード・ギルドフォード英語版
ロンドン塔武器庫長官
1535年 - 1544年
次代
サー・トマス・ダーシー英語版
空位 ブローニュ総督
1544年 - 1545年
次代
ポイニング男爵英語版
学職
先代
初代サマセット公爵
ケンブリッジ大学総長英語版
1552年 - 1553年
次代
スティーブン・ガーディナー
イングランドの爵位
爵位創設 初代ライル子爵英語版
(第5期)

1542年 - 1553年
剥奪
(第6期ロバート・シドニー英語版)
爵位創設 初代ウォリック伯爵
(第2期)

1547年 - 1553年
次代
ジョン・ダドリー英語版
爵位創設 初代ノーサンバランド公爵
(第1期)

1551年 - 1553年
剥奪
(第2期ジョージ・フィッツロイ)