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{{Infobox 人物 |
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{{出典の明記|date=2012年9月|ソートキー=人1620年没}} |
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|氏名 = 小松姫 |
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'''小松姫'''(こまつひめ、[[天正]]元年([[1573年]]) - [[元和 (日本)|元和]]6年[[2月24日 (旧暦)|2月24日]]([[1620年]][[3月27日]])は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての女性。[[上田藩]]、のち[[松代藩]]の藩主・[[真田信之]](信幸)の正室。[[徳川氏]][[譜代]]家臣の[[本多忠勝]]の長女(第1子)で<ref name="asahijinbutu">西村圭子「小松姫」『朝日日本歴史人物事典』 [[朝日新聞出版]]。</ref>、母は側室の乙女。幼名を'''稲姫'''(いなひめ)、または'''於小亥'''(おねい)と称する。もり姫([[奥平家昌]]室)、[[本多忠政]]、[[本多忠朝]]の姉。 |
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|ふりがな = こまつひめ |
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[[徳川家康]]の養女([[徳川秀忠]]の養女という説もある)となり、[[天正]]14年([[1586年]]、17年([[1589年]])あるいは18年([[1590年]])の説もある)に真田信之に嫁ぐ<ref name="asahijinbutu"/>。[[真田信政|信政]]、[[真田信重|信重]]、まん([[高力忠房]]室)、まさ([[佐久間勝宗]]室)らを生んだ。 |
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|画像 = 小松姫.jpg |
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|画像サイズ = 250px |
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|画像説明 = 小松姫の肖像画([[大英寺]]蔵) |
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|出生名 = |
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|生年月日 = [[天正]]元年([[1573年]]) |
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|生誕地 = |
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|没年月日 = [[元和 (日本)|元和]]6年[[2月24日 (旧暦)|2月24日]]([[1620年]][[3月27日]]) |
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|死没地 = [[武蔵国]][[鴻巣宿]] |
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|死因 = |
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|墓地 = [[勝願寺 (鴻巣市本町)|勝願寺]]([[埼玉県]][[鴻巣市]])<br />[[正覚寺 (沼田市)|正覚寺]]([[群馬県]][[沼田市]])<br />[[芳泉寺]]([[長野県]][[上田市]]) |
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|記念碑 = |
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|別名 = 於子亥、小松殿、稲姫、大蓮院 |
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|配偶者 = [[真田信之]] |
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|非婚配偶者 = |
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|子供 = まん([[高力忠房]]室)、まさ([[佐久間勝宗]]室)、[[真田信政]]、[[真田信重]] |
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|親 = [[本多忠勝]]、[[於久の方]]([[阿知和玄鉄|松平玄鉄]]<ref group="注" name="gen"/>の娘)<br/>養父:[[徳川家康]](または[[徳川秀忠]]) |
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|親戚 = |
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'''小松姫'''(こまつひめ、[[天正]]元年([[1573年]]) - [[元和 (日本)|元和]]6年[[2月24日 (旧暦)|2月24日]]([[1620年]][[3月27日]]))は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての女性。[[上田藩]]および[[松代藩]]の初代藩主・[[真田信之]](信幸)の正室。真田信繁(幸村)の義理の姉。[[徳川氏]][[譜第|譜代]]家臣の[[本多忠勝]]の娘<ref>{{Citation|和書|editor=[[大石学]]|title=徳川歴代将軍事典|publisher=[[吉川弘文館]]|year=2013|isbn=978-4-642-01471-7|page=72}}</ref><ref name="日女">{{Citation|和書|others=[[芳賀登]]ほか監修|title=日本女性人名辞典|publisher=[[日本図書センター]]|year=1993|isbn=4-8205-7128-1|page=499}}</ref><ref>{{Citation|和書|editor=[[朝日新聞社]]|title=朝日日本歴史人物事典|publisher=朝日新聞社|year=1994|isbn=4-02-340052-1|page=691}}</ref>。幼名は'''於子亥'''(おねい)<ref name="日女"/><ref name="信濃叢書105">[[#信濃史料刊行会 1977|信濃史料刊行会 1977]]、105頁</ref>。'''小松殿'''(こまつどの)、'''稲姫'''(いなひめ)とも称される<ref name="信濃叢書105"/><ref name="丸島263-265">[[#丸島 2015|丸島 2015]]、263-265頁</ref>{{#tag:ref|この他にも慶長19年(1614年)10月に夫・信之の重臣・木村綱成夫妻に宛てた書状の中で「久」と署名があり、小松姫が「久」と名乗っていた可能性もある<ref name="黒田22">[[#黒田 2016|黒田 2016]]、22頁</ref>。|group=注}}。[[徳川家康]]または[[徳川秀忠]]の養女として真田信之に嫁ぎ<ref name="丸島263-265"/>、[[真田信政|信政]]、[[真田信重|信重]]、まん([[高力忠房]]室)、まさ([[佐久間勝宗]]室)らを生んだ<ref name="黒田34">[[#黒田 2016|黒田 2016]]、34頁</ref>。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 出自 === |
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各種史料を基にすると、[[上田合戦]]における真田の軍略に惚れ、また恐れた忠勝が真田家を取り込むため、家康に自らの娘を嫁がせることを提案。それに対して家康は、上田合戦後に面会した信之(当時は信幸)の器量に感じ入っており、自陣営の武将として取り込んでおきたいという思いがあったことから快諾、小松姫を自らの養子(一説には秀忠の養子)として、真田家へ嫁がせることとしたようである。なお、小松姫と信之の孫にあたる松代藩3代藩主・[[真田幸道]]が幕府に提出した書状には「台徳院(秀忠)」の養女と記されている。 |
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天正元年([[1573年]]) 、[[本多忠勝]]と[[阿知和玄鉄|松平玄鉄]]<ref group="注" name="gen">初名は重玄。[[松平重親]]の長男。[[松平重吉|重吉]]の兄。</ref>の娘<ref>{{Cite book|和書|chapter=清和源氏 義家流 松平 能見|title=寛政重修諸家譜|volume=第1輯|publisher=國民圖書|year=1922|pages=172-173|url={{NDLDC|1082717/96}}}}</ref><ref>[[#信濃史料刊行会 1977|信濃史料刊行会 1977]]、110頁</ref>との間に長女(第1子)として生まれた<ref name="本多">{{Cite book|和書|chapter=藤原氏(兼通流)本多|title=寛政重修諸家譜|volume=第4輯|publisher=國民圖書|year=1923|pages=632-634|url={{NDLDC|1082713/325}}}}</ref>。幼名は'''於子亥'''(おねい)、'''稲姫'''(いなひめ)<ref name="黒田22"/>。兄弟には、もり姫([[奥平家昌]]室)、[[本多忠政]]、[[本多忠朝]]らがいる<ref name="本多"/>。 |
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父の忠勝は[[松平氏]]および[[徳川氏]]の家臣として[[永禄]]3年([[1560年]])の[[大高城]]の戦いにおける初陣以来、[[姉川の戦い]]、[[長篠の戦い]]、[[小牧・長久手の戦い]]などで武功を挙げ、[[酒井忠次]]、[[榊原康政]]、[[井伊直政]]と共に[[徳川四天王]]と称された人物である<ref name="桑名藩">{{Cite book|和書|author=郡義武|title=桑名藩|publisher=[[現代書館]]|series=シリーズ藩物語|year=2009|isbn=978-4-7684-7117-3|pages=12-16}}</ref>。また本多氏は、忠勝の父・[[本多忠高|忠高]]、叔父の[[本多忠真|忠真]]、祖父の[[本多忠豊|忠豊]]がいずれも合戦の最中に討死するなど武門の家系でもあった<ref name="桑名藩"/>。 |
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晩年、病にかかり[[江戸]]から[[草津温泉]]へ湯治に向かう途中、[[武蔵国|武蔵]][[鴻巣市|鴻巣]]で亡くなり、{{要出典範囲|date=2016年3月|夫・信之は「我が家から光が消えた」と大いに落胆したという。}}戒名は大蓮院殿英誉皓月大禅定尼。墓は鴻巣市[[勝願寺]]、[[沼田市]][[正覚寺 (沼田市)|正覚寺]]、[[上田市]][[芳泉寺]]に分骨されている。また、[[長野県]][[長野市]][[松代町 (長野県)|松代町]]松代の[[大英寺]]に霊廟がある。上田城内には小松姫が用いたとされる[[駕籠]]が残されている。 |
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=== 真田氏との婚姻 === |
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{{see also|[[小松姫#婚姻の時期|婚姻の時期]]}} |
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* [[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]の際、徳川方に味方することを決めた信之と袂を分かった舅の[[真田昌幸|昌幸]]が、居城である[[上田城]]に向かう途中、小松姫が留守を守る[[沼田城]]に立ち寄ったが、小松姫は敵となった舅の申し出を断って、家臣の家族を城内に囲い、また野営する昌幸軍との争いを統御したため、その手並みを昌幸も褒め称えた。<ref name="asahijinbutu"/>ただし、豊臣政権下における諸大名の妻子は伏見、次いで大坂に移ったとされており、何故小松殿だけが帰国を許されたのかということや、[[慶長]]5年([[1600年]])7月30日付の、大谷吉継から昌幸に宛てられた書状にも「信幸の妻子を保護した」と書かれてあり、これが側室であった清音院殿のことであれば問題ないが、普通に考えれば正室のはずで、創作の可能性もある。 |
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{{multiple image|align=right|image1=Japanese Crest rokumonsen.svg|image2=Japanese crest Tokugawa Aoi (old design).svg|width=138|footer=真田氏の家紋「六連銭」(左)と、徳川氏の家紋「三つ葉葵」(右)。}} |
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* 側室との仲も良好で、自身になかなか子どもが出来ないと分かると他に側室を取ることをすすめた。{{要出典範囲|date=2016年3月|また[[小野お通]]の存在は知っていたようで、病に倒れ亡くなる前に「そろそろ京の人を迎えてみてはどうですか?」と言ったという。}}しかし結局小松姫の死後も彼女が後妻になることはなかった。 |
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[[天正]]10年([[1582年]])10月末の徳川・[[後北条氏|北条]]同盟の成立による[[天正壬午の乱]]終結後、沼田領([[吾妻郡|吾妻]]・[[利根郡]])の引き渡し問題や<ref>[[#丸島 2015|丸島 2015]]、141頁</ref><ref>{{Cite book|和書|author=黒田基樹|authorlink=黒田基樹|title=小田原合戦と北条氏|publisher=[[吉川弘文館]]|series=敗者の日本史|year=2012|isbn=978-4-642-06456-9|pages=64-65}}</ref>天正13年([[1585年]])閏8月の[[上田合戦|第一次上田合戦]]<ref>[[#丸島 2015|丸島 2015]]、145-148頁</ref>、天正14年([[1586年]])7月の真田征伐<ref>[[#柴辻 1996|柴辻 1996]]、179-180頁</ref>などで対立抗争を続けていた[[徳川家康]]と[[真田昌幸]]が、天正15年([[1587年]])3月に[[豊臣秀吉]]の命により昌幸を家康の[[与力|与力大名]]とすることで決着した<ref>[[#丸島 2015|丸島 2015]]、156頁</ref>ことを契機に、小松姫と[[真田信之]]との婚姻が成立した。これは両家の関係を緊密にする狙いがあったと見られ<ref>[[#平山 2015|平山 2015]]、278頁</ref><ref name="黒田23">[[#黒田 2016|黒田 2016]]、23頁</ref>、秀吉の意向によるものだったとの所伝も残されており、時期的な状況からその可能性も考えられる<ref name="黒田23"/>。 |
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* 大坂の陣の後、{{要出典範囲|date=2016年3月|無事に生還した息子たち二人に向かって(これは信之が言ったとされる説もあるが)「どちらかが討ち死にすれば我が家も忠義を示せたのに」といった趣旨の発言をしたという逸話が残っている。}}同時に真田家家臣団には、{{要出典範囲|date=2016年3月|金子と共に息子たちをよろしくお願いしますと言った内容の書状を送ったという逸話も残っている。}} |
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=== 豊臣政権下での動静 === |
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天正17年([[1589年]])より、豊臣政権では諸大名の妻子を[[聚楽第]]、[[伏見城]]、[[大坂城]]の城下に建設された武家屋敷に居住させたが、小松姫もそれに従い信之の屋敷に居住したものと考えられる<ref name="黒田24">[[#黒田 2016|黒田 2016]]、24頁</ref>。小松姫が嫁いだ当時、信之はすでに[[真田信綱]]の娘([[清音院殿]])を正室に迎えていたが<ref>[[#黒田 2016|黒田 2016]]、21頁</ref>、その後の記録において清音院殿は「家女」と記され、側室待遇となっている<ref name="丸島263-265"/>。このことから信之と小松姫の婚姻以降に、城主とその家族の生活の場である「奥」を取り仕切る権利全般が小松姫に移されたと見られている<ref name="丸島263-265"/>。一方、歴史学者の[[黒田基樹]]は、そうした序列で表現するのは妥当か否かは再考の余地があるとした上で、政権本拠地に居住する小松姫が対外的な妻、信之の領国である[[上野国]][[沼田城]]に居住する清音院殿が領国における妻としての役割を担ったのではないかと推測している<ref name="黒田24"/>。 |
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信之には二女三男の子供がいたが、長男・[[真田信吉|信吉]]{{refnest|group="注"|[[文禄]]2年生まれ<ref name="黒田34"/>。孫六郎、河内守。『寛政重脩諸家譜』によれば母は某氏で庶長子<ref name="眞田">{{Cite book|和書|author=堀田正敦|chapter=滋野氏 眞田|title=寛政重脩諸家譜|volume=第4輯|publisher=國民圖書|year=1923|pages=474-477|url={{NDLDC|1082713/246}}}}</ref>。}}以外、長女・まん{{refnest|group="注"|天正19年生まれ<ref name="黒田34"/>、[[高力忠房]]室<ref name="眞田"/>、光岳院殿。}}、次女・まさ{{refnest|group="注"|文禄2年生まれ<ref name="黒田34"/>、別名:於千世、[[佐久間勝宗]]室<ref name="眞田"/>、見樹院殿。}}、次男・[[真田信政|信政]]{{refnest|group="注"|[[慶長]]2年生まれ<ref name="黒田34"/>。『寛政重脩諸家譜』によれば慶長元年に沼田生まれ<ref name="眞田"/>。}}・三男[[真田信重|信重]]{{refnest|group="注"|慶長4年生まれ<ref name="黒田34"/>。}}は、小松姫の所生とされている<ref name="黒田34"/><ref name="黒田25">[[#黒田 2016|黒田 2016]]、25頁</ref><ref name="眞田"/>。なお、長男・信吉については清音院殿の実子とする説と、小松姫の実子とする説がある<ref name="黒田25"/><ref>[[#平山 2015|平山 2015]]、329頁</ref>{{refnest|group="注"|信吉の動静について、『寛政重脩諸家譜』によれば「某年、父の封地である上野国利根郡3万石に分封されて、沼田城に住す」「別に家を興し、子孫政之丞の時に家絶える」と記している<ref name="眞田"/>。}}。 |
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=== 徳川政権下での動静 === |
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[[ファイル:Sanada Nobuyuki2.jpg|200px|thumb|夫の真田信之。]] |
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{{see also|[[小松姫#沼田御守城|沼田御守城]]}} |
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慶長5年([[1600年]])9月の[[関ヶ原の戦い]]の戦後処理の際、信之は家康の率いる東軍に属して戦功を挙げたことから従来の上野国沼田領([[吾妻郡|岩櫃領]]を含む<ref>[[#丸島 2015|丸島 2015]]、269頁</ref>)を安堵されたのに加えて、父・昌幸が治めていた[[信濃国]]上田領、弟・[[真田信繁|信繁]]の知行を加増された<ref name="平山291">[[#平山 2015|平山 2015]]、291頁</ref>。これにより信之は8万4,000石<ref name="平山291"/>または上田領(約6万5,000石)と沼田領(約3万石)を合わせ9万5,000石の大名として存続することになった<ref>[[#黒田 2016|黒田 2016]]、41-42頁</ref><ref>[[#柴辻 1996|柴辻 1996]]、213頁</ref>。 |
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西軍に属した昌幸と信繁は、信之と小松姫の父・本多忠勝や[[本多正信]]らの嘆願もあり[[紀伊国]]の[[高野山]]への流罪となったが<ref>[[#平山 2015|平山 2015]]、256頁</ref>、その後も信之は昌幸・信繁一行の援助<ref>[[#黒田 2016|黒田 2016]]、118頁</ref>、病気を患った昌幸の助命嘆願を繰り返した<ref>[[#平山 2015|平山 2015]]、259頁</ref>。また、昌幸から信之の家臣に宛てた書状の中で御料人(小松姫)からの音信に礼を述べる内容が記されていることから、夫と同様に小松姫も昌幸を気遣っていたことが推測される<ref>[[#黒田 2016|黒田 2016]]、119頁</ref>。 |
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この後、家康は慶長8年([[1603年]])に征夷大将軍に就任して政務を執り行い、豊臣政権と同様に諸大名の妻子を政権本拠地に集住させたが、小松姫も[[江戸]]の大名屋敷に居住したものと考えられる<ref name="黒田24"/>。ただし、当初は信之の母・[[山手殿]]が江戸屋敷に、沼田城には小松姫が居住し、慶長18年([[1613年]])6月に山手殿が亡くなったことを受けて、小松姫が江戸の屋敷に移り住んだとも推測される<ref>[[#黒田 2016|黒田 2016]]、74-75頁</ref>。 |
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小松姫の父・本多忠勝<ref group="注">天正18年([[1590年]])の家康の関東移封後、[[上総国]][[大多喜藩]]の藩主となっていた。</ref>は、関ヶ原の戦いの功績によって[[伊勢国]][[桑名藩]]に移封され、大多喜藩は小松姫の弟の忠朝が継いだ<ref name="桑名藩"/><ref name="黒田56-57">[[#黒田 2016|黒田 2016]]、56-57頁</ref>。この時期、忠勝からは信之の家臣・湯本三郎右衛門尉宛てに、小松姫を気遣う書状が送られ、信之と忠勝一族との間で親密な関係が築かれるなど、小松姫との縁戚を通じて交流が図られた<ref name="黒田56-57"/>。 |
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慶長19年([[1614年]])から慶長20年([[1615年]])の[[大坂の陣]]では、病気療養中の信之に代わり、長男・信吉と次男・信政が本多忠朝の軍勢の指揮下に入って出陣した<ref name="黒田58">[[#黒田 2016|黒田 2016]]、58頁</ref>。小松姫からは、冬の陣の際に信之の重臣・木村綱成とその妻に宛て、信之は病気の養生のため出陣が叶わぬこと、信吉と信政が沼田城から急遽出陣したこと、信繁が大坂方に加わり大坂城に入場したことを知らせる内容の書状が<ref>[[#黒田 2016|黒田 2016]]、168-169頁</ref>、夏の陣の際には信吉の家臣・安中作左衛門に宛て「河内殿(信吉)については若いので、伊豆殿(信之)のようにはできないでしょう(中略)、伊豆殿に免じて陣中精を致し、奉公をお願いします」と合戦の経験が不足している信吉を気遣い、その補佐を依頼する内容の書状が残されている<ref>[[#黒田 2016|黒田 2016]]、177-180頁</ref>。 |
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=== 晩年と死 === |
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[[File:Komatuhime 01.jpg|thumb|芳泉寺に残る小松姫の墓]] |
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養父の家康は江戸幕府の開設以来、[[浄土宗]]を保護する政策を行ったが、[[武蔵国]][[鴻巣宿|鴻巣]]<ref group="注">現在の[[埼玉県]][[鴻巣市]]。</ref>にある[[勝願寺 (鴻巣市本町)|勝願寺]]の二世住職・円誉不残に[[帰依]]した<ref name="信濃叢書115">[[#信濃史料刊行会 1977|信濃史料刊行会 1977]]、115頁</ref><ref name="鴻巣市">{{Citation|和書|editor=鴻巣市市史編さん調査会|title=鴻巣市史 通史編 2 近世|publisher=鴻巣市|year=2004|page=647-650}}</ref>。円誉は仏教学に通じた学僧であったことから<ref>{{Citation|和書|editor=[[埼玉県]]|title=新編埼玉県史 通史編 3 近世1|publisher=埼玉県|year=1988|page=751}}</ref>、家康の御前で教義の解釈を行うなど重用された<ref name="鴻巣市"/>。小松姫も家康の勧めもあり円誉に帰依したが、同時に[[薬師如来|薬師如来像]]を拝領し生涯にわたって信仰を続けた<ref name="信濃叢書115"/>。 |
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[[元和 (日本)|元和]]6年([[1620年]])春、小松姫は病気を患い[[草津温泉]]での湯治のため<ref name="信濃叢書115"/>、江戸から[[草津宿|草津]]へ向かう最中<ref name="戦国女性と暮らし">{{Cite book|和書|title=決定版 図説 戦国女性と暮らし|publisher=[[学研ホールディングス|学習研究社]]|series=歴史群像シリーズ|year=2011|isbn=978-4-05-606213-7|page=126}}</ref>、[[2月24日 (旧暦)|2月24日]]([[3月27日]])に武蔵国鴻巣で亡くなった<ref name="信濃叢書115"/><ref name="丸島265">[[#丸島 2015|丸島 2015]]、265頁</ref>。48歳没<ref name="信濃叢書115"/>。戒名は'''大蓮院殿英誉皓月大禅定尼'''<ref name="丸島265"/>。 |
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墓は前述の勝願寺と、上野国沼田<ref group="注">現在の[[群馬県]][[沼田市]]鍛冶町。</ref>にある[[正覚寺 (沼田市)|正覚寺]]、信濃国上田<ref group="注">現在の[[長野県]][[上田市]]。</ref>にある[[芳泉寺]](当時は常福寺)の三か寺に分骨された<ref name="日女"/><ref name="沼田市"/><ref name="上田市">{{Cite web|和書|url=https://museum.umic.jp/bunkazai/document/dot62.html|title=小松姫の墓(芳泉寺)|work=上田市の文化財|publisher=上田市マルチメディア情報センター|accessdate=2023-11-12}}</ref>。このうち、信濃国上田の芳泉寺の墓は一周忌の際に信之によって建立された<ref>[[#信濃史料刊行会 1977|信濃史料刊行会 1977]]、122頁</ref>。また、武蔵国の勝願寺の墓は、小松姫が生前に同寺の二世住職・円誉不残に深く帰依していたことから<ref name="さきたま文庫">{{Cite book|和書|author=水村孝行|title=さきたま文庫11 勝願寺 鴻巣|publisher=[[さきたま出版会]]|year=1989|isbn=4-87891-211-1|page=31}}</ref>、次女の見樹院によって墓石が建立されたものであり<ref>[[#信濃史料刊行会 1977|信濃史料刊行会 1977]]、123頁</ref>、三男の信重夫妻の墓も並んで建てられている<ref name="さきたま文庫"/>。 |
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夫の信之は、小松姫の菩提を弔うため上田城下に[[大英寺]]を建立すると、松代藩への移封に伴い、[[寛永]]元年([[1624年]])に同寺も[[松代城]]の城下(後の長野県[[長野市]][[松代町 (長野県)|松代町]]松代)に移築した<ref name="長野市">{{Cite web|和書|url=http://bunkazai-nagano.jp/modules/dbsearch/page1006.html|title=大英寺本堂および表門、附板絵著色三十六歌仙図36枚|work=長野市文化財データベース|publisher=長野市|accessdate=2016-04-21}}</ref>。この寺の本堂は創建当時は小松姫の御霊屋として使用されていたもので、[[昭和]]41年([[1966年]])に長野県の文化財に指定されている<ref name="長野市"/><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20160421/KT160420ATI090016000.php|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160506081927/http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20160421/KT160420ATI090016000.php|title=小松姫の御霊屋・天井板に人物画 長野市松代の大英寺|work=信毎web|publisher=[[信濃毎日新聞]]|date=2016-04-21|archivedate=2016-05-06|accessdate=2016-04-21}}</ref>。 |
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== 人物 == |
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=== 人となり === |
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小松姫は、[[江戸幕府]]初代将軍の[[徳川家康]]や2代将軍の[[徳川秀忠]]に対して直に意見をする程はきはきとした女性<ref name="信濃叢書106">[[#信濃史料刊行会 1977|信濃史料刊行会 1977]]、106頁</ref><ref>[[#信濃史料刊行会 1977|信濃史料刊行会 1977]]、112頁</ref>、弟の[[本多忠政]]や[[本多忠朝]]が戦地から帰還した際には高らかに忠節を讃えるなど勇気のある女性<ref name="信濃叢書106"/>、才色兼備の女性だったと伝えられている<ref name="上田市"/>。また、小松姫の遺品の中には『[[史記]]』の「[[鴻門の会]]」の場面を描いた[[屏風|枕屏風]]があるが、こうした戦を表す勇壮な絵を所持していた点からも「男勝り」と評されている<ref>{{Citation|和書|editor=[[NHK出版]]|title=NHK大河ドラマ・ストーリー 真田丸 後編|publisher=NHK出版|year=2016|isbn=978-4-14-923372-7|page=78-79}}</ref>。 |
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=== 婚姻の時期 === |
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婚姻の時期については、本多氏の系図『参考御系伝』や『幕府祚胤伝』では秀吉の仲介により、[[天正]]14年([[1586年]])に成されたと記されているが<ref name="丸島263-265"/>、『[[甲陽軍鑑]]』では天正11年([[1583年]])、『沼田日記』では天正16年([[1588年]])と記されるなど様々な説がある<ref name="黒田22"/><ref>[[#平山 2015|平山 2015]]、276頁</ref>。 |
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歴史学者の間でも意見が分かれており、[[黒田基樹]]は「二人の婚姻は真田氏の当主である昌幸が秀吉に出仕し家康の与力大名となった天正15年([[1587年]])以降と見て間違いないだろうとした上で、『沼田日記』の『天正16年(1588年)12月に婚約が成立し、翌天正17年([[1589年]])9月に入輿』との記述が、時期的に最も可能性が高い」としている<ref name="黒田22"/>。このほか、[[丸島和洋]]は時期は明らかにできないとした上で、「本多氏側が真田氏との和解後に婚姻が成立したと認識している点から、婚姻は天正15年(1587年)頃とみるべきだろうか」<ref name="丸島263-265"/>、[[平山優 (歴史学者)|平山優]]は「婚姻が結ばれる可能性がある最も早い時期として天正15年(1587年)<ref>[[#平山 2015|平山 2015]]、277頁</ref>、次に信之が家康の与力大名となることが確定した天正17年(1589年)を挙げているが<ref name="平山278">[[#平山 2015|平山 2015]]、278頁</ref>、最も可能性が高いのは天正18年([[1590年]])」としている<ref>[[#平山 2015|平山 2015]]、279頁</ref>。 |
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=== 家康の養女であったか === |
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一般的に小松姫は家康の養女として真田氏に嫁いだものとされており<ref name="信濃叢書105"/><ref name="丸島263-265"/>、本多氏の系図『参考御系伝』にも同様の内容が記されている<ref name="丸島263-265"/>。『本多家武功聞書』などによれば、家康が[[真田昌幸]]を従わせるため、嫡男の[[真田信之|信之]]に家康の重臣・[[本多忠勝]]の娘を嫁がせようとしたが、昌幸は承諾しなかったため、家康は忠勝の娘を自分の養女とした上で嫁がせるのではどうかと提案したところ、昌幸はようやく承諾した<ref name="平山278"/>。その後、小松姫は[[高力忠房|高力摂津守]]を従えて[[江戸城]]西の丸から沼田へと向かったと記されている<ref name="平山278"/>。この逸話について平山は天正11年(1583年)から天正16年(1588年)のものなら明らかにおかしいが、家康が関東に移封された天正18年(1590年)以後であれば問題ないと指摘している<ref name="平山278"/>。 |
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家康の養女であったかについては、信之の孫にあたる[[松代藩]]3代藩主・[[真田幸道]]が幕府に提出した書状や小松姫の菩提寺である[[大英寺]]の書上には「台徳院([[徳川秀忠|秀忠]])」の養女となっており、通説と異なる記載がされているなど<ref name="丸島263-265"/>、実際に小松姫が家康の養女となったのか否かは確定されていない<ref name="黒田23"/>。ただし、家康の養女とする複数の所伝が残されていることや<ref name="黒田23"/>、信濃国の国衆の中では[[小笠原貞慶]]の長男・[[小笠原秀政|秀政]]も、[[松平信康]]の娘([[登久姫]])を家康の養女として正室に迎えていることから、養女の体裁が採られた可能性はある<ref name="黒田23"/>。 |
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=== 沼田御守城 === |
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慶長5年([[1600年]])、秀吉の没後に五奉行の[[石田三成]]が挙兵すると、夫の信之は家康の率いる東軍に付き、父・昌幸と弟・信繁は三成の率いる西軍に付いた<ref>[[#柴辻 1996|柴辻 1996]]、206-209頁</ref>。袂を分かった昌幸・信繁親子が居城の[[上田城]]に戻る際、沼田城に立ち寄り城に入ろうとしたところ、留守を預かる小松姫が昌幸の計略を見抜いて開門を拒み、女丈夫と謳われたとの逸話が残されている<ref name="沼田市">{{Cite web|和書|url=http://www.city.numata.gunma.jp/kyouiku/bunkazai/ichiran/shi/1000856.html|title=大蓮院殿の墓|publisher=沼田市公式ホームページ|date=2016-03-24|accessdate=2016-04-21}}</ref>。 |
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真田氏の家記『滋野世記』によれば、次のような内容が記されている。 |
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[[ファイル:Sanada Masayuki2.jpg|200px|thumb|舅の真田昌幸。]] |
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{{Quotation|昌幸は[[真田信繁|信繁]]同道にて[[犬伏町|犬伏の宿]]を打立て、夜中[[沼田城|沼田]]に著たまい。城中へ按内ありければ、信幸の室家使者を以て、夜中の御皈陣不審に候なり、此の城は豆州の城にて、自を預居候事なれば、御父子の間にて候え共、卒尓に城中へ入申事成難く候と仰ける(中略)。暫有て城中より門を開きけるに、信幸の室家[[甲冑]]を著し、旗を取り、腰掛に居り、城中留守居の家人等其外諸士の妻女に至るまで、皆甲冑を著し、あるいは長刀を持ち、あるいは弓槍を取り列座せり。時に信幸の室家大音に宣うは、殿には内府御供にて御出陣有し御留守を伺い、父君の名を偽り来るは曲者なり、皆打向って彼等を討ち取るべし(中略)、一人も打ち洩らさず打ち捕べしと下知したまう。昌幸その勢いを御覧ありて大いに感じたまい、流石武士の妻なりと称美あり。御家人等を制し止められ、夫より我妻かかり、[[上田城]]へ篭城なり<ref>[[#信濃史料刊行会 1977|信濃史料刊行会 1977]]、128頁</ref>。|}} |
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また、『[[三河後風土記|改正三河後風土記]]』によれば、小松姫は昌幸から「今生の暇乞のため対面し、孫共を一見せばやと存候」との申し出を受けるが、これを断ると侍女を遣わして昌幸らを城下の旅宿に案内し丁重にもてなした。その一方で、城中の家臣には弓や鉄砲を狭間に配置させ相手方の襲撃に備えるように命じた。これを見た昌幸は家臣に向かって「あれを見候へ。日本一の[[本多忠勝]]が女程あるぞ。弓取の妻は誰もかくこそ有べけれ<ref name="後風土記214-215">{{Cite book|和書|author1=宇田川武久 校注|authorlink1=宇田川武久|author2=桑田忠親 監修|authorlink2=桑田忠親|title=改正三河後風土記 下|publisher=[[秋田書店]]|year=1977|pages=214-215}}</ref><ref>{{Citation|和書|editor=成島司直|chapter=諸将上方発向付眞田父子分手の事|title=改正三河後風土記|volume=下|publisher=金松堂|year=1886|page=1500-1501|url={{NDLDC|993837/309}}}}</ref>」と、その手並みを褒め称えたと記している。このほかにも『御家書留書』『真田御武功記』『沼田記』『出浦助昌家記』などに沼田城の留守を守った逸話が記されている<ref>[[#信濃史料刊行会 1977|信濃史料刊行会 1977]]、129-136頁</ref>。 |
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この逸話については小松姫が沼田に居たのかどうかが問題となるが、豊臣政権下において諸大名の妻子が伏見、次いで大坂屋敷に移り住んでいたという点<ref name="丸島269">[[#丸島 2015|丸島 2015]]、269頁</ref>と同年[[7月30日]]付の[[大谷吉継]]から昌幸に宛てられた書状の解釈が問題となる<ref name="丸島269"/><ref name="黒田37"/><ref name="平山247-248"/>。 |
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黒田は「大坂で吉継に保護されて不在であったので事実ではない」としており<ref name="黒田37">[[#黒田 2016|黒田 2016]]、37頁</ref>、丸島も2015年の時点では吉継書状に「信幸の妻子を保護した」と記されてあり、これが側室であった清音院殿のことであれば問題ないが、普通に考えれば正室を指すはずという点から創作の可能性を指摘していた<ref name="丸島269"/>。しかし、平山はこの書状について昌幸、信繁親子の妻子については吉継が預かっているが、信之の妻女については「伊豆殿女中改候間、去年くだり候」と記されていることから、三成挙兵の前年にあたる慶長4年([[1599年]])の時点で小松姫は「女中改」という口実で、沼田に引き上げていたと指摘している<ref name="平山247-248">[[#平山 2015|平山 2015]]、247-248頁</ref><ref name="平山16">[[#平山 2016|平山 2016]]、148-149頁。</ref>。平山と丸島はともに2016年の著作で[[石田三成]]による[[徳川家康]]への弾劾状「内府ちかひ(違い)の条々」における一節「諸侍の妻子、ひいきひいきニ国元へ返候事」との一文を指摘し、家康が一部大名の人質の帰国を勝手に認めており、信幸の妻子が家康の計らい(贔屓)によって帰国していたと解釈しうるとしている<ref name="平山16"/><ref>[[#丸島 2016|丸島 2016]]、148-149頁。</ref>。 |
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=== その他 === |
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この他、いくつかの逸話や伝承が残されている。ただし、その多くは「武芸に秀でる」「勝気な性格」といった人物像を基に後世に創作されたものだとの指摘もある<ref>{{Cite web|和書|url=http://hon.bunshun.jp/articles/-/4602|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201028205245/https://bunshun.jp/articles/-/80|title=真田氏ゆかりの地をめぐる 第9回【芳泉寺】信幸(信之)の愛妻・小松姫が眠る寺|work=本の話WEB|publisher=[[文藝春秋]]|date=2016-02-27|archivedate=2020-10-28|accessdate=2016-06-30}}</ref>。 |
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* 小松姫が家康の養女であったとする話の中に、婿選びの逸話がある。家康が若い武将達を列座させて小松姫の相手を選ばせたところ、家康を前にして委縮している中で、小松姫が平伏している一人一人の髻を掴んで面を上げさせて吟味していた。髻に手を差し伸べられた瞬間に信之は叱咤して、鉄扇で小松姫の顔を打った。小松姫はこの気骨に感動して信之を選んだ<ref name="上田市"/><ref name="藤沢">{{Citation|和書|editor=藤沢衛彦|chapter=小松姫(小県郡上田町)|title=日本伝説叢書 信濃の巻|publisher=日本伝説叢書刊行会|year=1917|page=310-311|url={{NDLDC|953569/184}} 国立国会図書館デジタルコレクション}}</ref>。 |
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* 小松姫の夫の真田信之は上田城6万石の大名であったが、上田は加賀街道([[北国街道 (信越)|北国街道]])を押さえた要所に位置して、[[加賀藩]][[前田氏#加賀前田家|前田家]]が[[金沢市|金沢]]と[[江戸]]との間を往来する通路上にあった。小松姫は家臣に命じて加州候の通行を妨害し、将軍への献上する品を奪い取らせたが、小松姫が将軍家の養女であるため、成敗することができず、ついに将軍家に訴え出た。将軍家から小松姫にお咎めがあったが、「親の物は子の物である」と答えるので、将軍家の方でも処置に困り、それまで6万石のところに4万石を加増して、加賀街道から外れた[[松代藩|松代]]に移封させた<ref name="藤沢"/>{{refnest|group="注"|信濃の民話伝承を集めた『宮川氏記』にある逸話<ref name="藤沢"/>。}}。ただし、[[元和 (日本)|元和]]8年(1622年)の松代藩への移封時には小松姫はすでに亡くなっている。 |
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== 関連作品 == |
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;ドラマ |
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* 『[[真田太平記 (テレビドラマ)|真田太平記]]』([[1985年]]、[[NHK新大型時代劇]]、演:[[紺野美沙子]]) |
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* 『[[真田丸 (NHK大河ドラマ)|真田丸]]』([[2016年]]、[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]、演:[[吉田羊]]) |
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* 『[[どうする家康]]』([[2023年]]、NHK大河ドラマ、演:[[鳴海唯]]) |
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; 楽曲 |
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*[[さくらゆき]]『昴の彼方』(作詞:[[遠野ゆき]]、作曲:[[まついえつこ]]) |
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;ゲーム |
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* 『[[戦国無双シリーズ]]』([[2005年]]~、[[コーエーテクモゲームス]]、声:[[大本眞基子]]) |
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* 『[[戦国大戦]]』(2013~2017年、[[セガ・インタラクティブ]]、声:[[三澤紗千香]]、[[井上麻里奈]]、[[日笠陽子]]) |
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* 『[[戦国BASARA|戦国BASARA バトルパーティー]]』(2020年、[[カプコン]]、声:[[茜屋日海夏]]) |
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* 『[[英傑大戦]]』([[2022年]]、[[セガ]]、声:[[白石晴香]]) |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{ |
{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{Notelist2|30em}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|30em}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書|author=黒田基樹|authorlink=黒田基樹|title=真田信之 真田家を継いだ男の半生|publisher=[[KADOKAWA]]|series=[[角川選書]]|year=2016|isbn=978-4-04-703584-3|ref=黒田 2016}} |
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* 西山酉三『豪傑と奥方』 (大学館、1900年12月) |
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* {{Citation|和書|editor=信濃史料刊行会|title=[[信濃史料叢書|新編信濃史料叢書]] 17巻 真田家御事蹟稿|publisher=信濃史料刊行会|year=1977|asin=B000J8RSJE|ref=信濃史料刊行会 1977}} |
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* 丸島和洋『真田四代と信繁』 (平凡社新書、2015年11月) |
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* {{Cite book|和書|author=柴辻俊六|authorlink=柴辻俊六|title=真田昌幸|publisher=[[吉川弘文館]]|series=人物叢書 新装版|year=1996|isbn=4-642-05202-X|ref=柴辻 1996}} |
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* {{Cite book|和書|author=平山優|authorlink=平山優 (歴史学者)|title=大いなる謎真田一族 最新研究でわかった100の真実|publisher=[[PHP研究所]]|series=PHP文庫|year=2015|isbn=978-4-569-76370-5|ref=平山 2015}} |
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* {{Cite book|和書|author=平山優|title=真田信之|publisher=PHP研究所|series=PHP新書|year=2016|isbn=978-4-569-83043-8|ref=平山 2016}} |
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* {{Cite book|和書|author=丸島和洋|authorlink=丸島和洋|title=真田四代と信繁|publisher=[[平凡社]]|series=平凡社新書|year=2015|isbn=978-4-582-85793-1|ref=丸島 2015}} |
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* {{Cite book|和書|author=丸島和洋|title=真田信繁の書状を読む|publisher=[[星海社]]|series=星海社新書|year=2016|isbn=978-4-06-138601-3|ref=丸島 2016}} |
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== 関連項目 == |
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* [[日本における女性の合戦参加の年表]] |
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[[Category:安土桃山時代の女性]] |
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[[Category:江戸時代の大名の正室]] |
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[[Category:本多 |
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[[Category: |
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[[Category:松代真田家]] |
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[[Category:真田信之]] |
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[[Category:徳川家康の子女|養]] |
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[[Category:徳川秀忠の子女|養]] |
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[[Category:上田藩の人物]] |
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[[Category:松代藩の人物]] |
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[[Category:16世紀日本の女性]] |
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[[Category:17世紀日本の女性]] |
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[[Category:1573年生]] |
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[[Category:1620年没]] |
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2024年9月17日 (火) 15:10時点における最新版
こまつひめ 小松姫 | |
---|---|
小松姫の肖像画(大英寺蔵) | |
生誕 | 天正元年(1573年) |
死没 |
元和6年2月24日(1620年3月27日) 武蔵国鴻巣宿 |
墓地 |
勝願寺(埼玉県鴻巣市) 正覚寺(群馬県沼田市) 芳泉寺(長野県上田市) |
別名 | 於子亥、小松殿、稲姫、大蓮院 |
配偶者 | 真田信之 |
子供 | まん(高力忠房室)、まさ(佐久間勝宗室)、真田信政、真田信重 |
親 |
本多忠勝、於久の方(松平玄鉄[注 1]の娘) 養父:徳川家康(または徳川秀忠) |
小松姫(こまつひめ、天正元年(1573年) - 元和6年2月24日(1620年3月27日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。上田藩および松代藩の初代藩主・真田信之(信幸)の正室。真田信繁(幸村)の義理の姉。徳川氏譜代家臣の本多忠勝の娘[1][2][3]。幼名は於子亥(おねい)[2][4]。小松殿(こまつどの)、稲姫(いなひめ)とも称される[4][5][注 2]。徳川家康または徳川秀忠の養女として真田信之に嫁ぎ[5]、信政、信重、まん(高力忠房室)、まさ(佐久間勝宗室)らを生んだ[7]。
生涯
[編集]出自
[編集]天正元年(1573年) 、本多忠勝と松平玄鉄[注 1]の娘[8][9]との間に長女(第1子)として生まれた[10]。幼名は於子亥(おねい)、稲姫(いなひめ)[6]。兄弟には、もり姫(奥平家昌室)、本多忠政、本多忠朝らがいる[10]。
父の忠勝は松平氏および徳川氏の家臣として永禄3年(1560年)の大高城の戦いにおける初陣以来、姉川の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いなどで武功を挙げ、酒井忠次、榊原康政、井伊直政と共に徳川四天王と称された人物である[11]。また本多氏は、忠勝の父・忠高、叔父の忠真、祖父の忠豊がいずれも合戦の最中に討死するなど武門の家系でもあった[11]。
真田氏との婚姻
[編集]天正10年(1582年)10月末の徳川・北条同盟の成立による天正壬午の乱終結後、沼田領(吾妻・利根郡)の引き渡し問題や[12][13]天正13年(1585年)閏8月の第一次上田合戦[14]、天正14年(1586年)7月の真田征伐[15]などで対立抗争を続けていた徳川家康と真田昌幸が、天正15年(1587年)3月に豊臣秀吉の命により昌幸を家康の与力大名とすることで決着した[16]ことを契機に、小松姫と真田信之との婚姻が成立した。これは両家の関係を緊密にする狙いがあったと見られ[17][18]、秀吉の意向によるものだったとの所伝も残されており、時期的な状況からその可能性も考えられる[18]。
豊臣政権下での動静
[編集]天正17年(1589年)より、豊臣政権では諸大名の妻子を聚楽第、伏見城、大坂城の城下に建設された武家屋敷に居住させたが、小松姫もそれに従い信之の屋敷に居住したものと考えられる[19]。小松姫が嫁いだ当時、信之はすでに真田信綱の娘(清音院殿)を正室に迎えていたが[20]、その後の記録において清音院殿は「家女」と記され、側室待遇となっている[5]。このことから信之と小松姫の婚姻以降に、城主とその家族の生活の場である「奥」を取り仕切る権利全般が小松姫に移されたと見られている[5]。一方、歴史学者の黒田基樹は、そうした序列で表現するのは妥当か否かは再考の余地があるとした上で、政権本拠地に居住する小松姫が対外的な妻、信之の領国である上野国沼田城に居住する清音院殿が領国における妻としての役割を担ったのではないかと推測している[19]。
信之には二女三男の子供がいたが、長男・信吉[注 3]以外、長女・まん[注 4]、次女・まさ[注 5]、次男・信政[注 6]・三男信重[注 7]は、小松姫の所生とされている[7][22][21]。なお、長男・信吉については清音院殿の実子とする説と、小松姫の実子とする説がある[22][23][注 8]。
徳川政権下での動静
[編集]慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いの戦後処理の際、信之は家康の率いる東軍に属して戦功を挙げたことから従来の上野国沼田領(岩櫃領を含む[24])を安堵されたのに加えて、父・昌幸が治めていた信濃国上田領、弟・信繁の知行を加増された[25]。これにより信之は8万4,000石[25]または上田領(約6万5,000石)と沼田領(約3万石)を合わせ9万5,000石の大名として存続することになった[26][27]。
西軍に属した昌幸と信繁は、信之と小松姫の父・本多忠勝や本多正信らの嘆願もあり紀伊国の高野山への流罪となったが[28]、その後も信之は昌幸・信繁一行の援助[29]、病気を患った昌幸の助命嘆願を繰り返した[30]。また、昌幸から信之の家臣に宛てた書状の中で御料人(小松姫)からの音信に礼を述べる内容が記されていることから、夫と同様に小松姫も昌幸を気遣っていたことが推測される[31]。
この後、家康は慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就任して政務を執り行い、豊臣政権と同様に諸大名の妻子を政権本拠地に集住させたが、小松姫も江戸の大名屋敷に居住したものと考えられる[19]。ただし、当初は信之の母・山手殿が江戸屋敷に、沼田城には小松姫が居住し、慶長18年(1613年)6月に山手殿が亡くなったことを受けて、小松姫が江戸の屋敷に移り住んだとも推測される[32]。
小松姫の父・本多忠勝[注 9]は、関ヶ原の戦いの功績によって伊勢国桑名藩に移封され、大多喜藩は小松姫の弟の忠朝が継いだ[11][33]。この時期、忠勝からは信之の家臣・湯本三郎右衛門尉宛てに、小松姫を気遣う書状が送られ、信之と忠勝一族との間で親密な関係が築かれるなど、小松姫との縁戚を通じて交流が図られた[33]。
慶長19年(1614年)から慶長20年(1615年)の大坂の陣では、病気療養中の信之に代わり、長男・信吉と次男・信政が本多忠朝の軍勢の指揮下に入って出陣した[34]。小松姫からは、冬の陣の際に信之の重臣・木村綱成とその妻に宛て、信之は病気の養生のため出陣が叶わぬこと、信吉と信政が沼田城から急遽出陣したこと、信繁が大坂方に加わり大坂城に入場したことを知らせる内容の書状が[35]、夏の陣の際には信吉の家臣・安中作左衛門に宛て「河内殿(信吉)については若いので、伊豆殿(信之)のようにはできないでしょう(中略)、伊豆殿に免じて陣中精を致し、奉公をお願いします」と合戦の経験が不足している信吉を気遣い、その補佐を依頼する内容の書状が残されている[36]。
晩年と死
[編集]養父の家康は江戸幕府の開設以来、浄土宗を保護する政策を行ったが、武蔵国鴻巣[注 10]にある勝願寺の二世住職・円誉不残に帰依した[37][38]。円誉は仏教学に通じた学僧であったことから[39]、家康の御前で教義の解釈を行うなど重用された[38]。小松姫も家康の勧めもあり円誉に帰依したが、同時に薬師如来像を拝領し生涯にわたって信仰を続けた[37]。
元和6年(1620年)春、小松姫は病気を患い草津温泉での湯治のため[37]、江戸から草津へ向かう最中[40]、2月24日(3月27日)に武蔵国鴻巣で亡くなった[37][41]。48歳没[37]。戒名は大蓮院殿英誉皓月大禅定尼[41]。
墓は前述の勝願寺と、上野国沼田[注 11]にある正覚寺、信濃国上田[注 12]にある芳泉寺(当時は常福寺)の三か寺に分骨された[2][42][43]。このうち、信濃国上田の芳泉寺の墓は一周忌の際に信之によって建立された[44]。また、武蔵国の勝願寺の墓は、小松姫が生前に同寺の二世住職・円誉不残に深く帰依していたことから[45]、次女の見樹院によって墓石が建立されたものであり[46]、三男の信重夫妻の墓も並んで建てられている[45]。
夫の信之は、小松姫の菩提を弔うため上田城下に大英寺を建立すると、松代藩への移封に伴い、寛永元年(1624年)に同寺も松代城の城下(後の長野県長野市松代町松代)に移築した[47]。この寺の本堂は創建当時は小松姫の御霊屋として使用されていたもので、昭和41年(1966年)に長野県の文化財に指定されている[47][48]。
人物
[編集]人となり
[編集]小松姫は、江戸幕府初代将軍の徳川家康や2代将軍の徳川秀忠に対して直に意見をする程はきはきとした女性[49][50]、弟の本多忠政や本多忠朝が戦地から帰還した際には高らかに忠節を讃えるなど勇気のある女性[49]、才色兼備の女性だったと伝えられている[43]。また、小松姫の遺品の中には『史記』の「鴻門の会」の場面を描いた枕屏風があるが、こうした戦を表す勇壮な絵を所持していた点からも「男勝り」と評されている[51]。
婚姻の時期
[編集]婚姻の時期については、本多氏の系図『参考御系伝』や『幕府祚胤伝』では秀吉の仲介により、天正14年(1586年)に成されたと記されているが[5]、『甲陽軍鑑』では天正11年(1583年)、『沼田日記』では天正16年(1588年)と記されるなど様々な説がある[6][52]。
歴史学者の間でも意見が分かれており、黒田基樹は「二人の婚姻は真田氏の当主である昌幸が秀吉に出仕し家康の与力大名となった天正15年(1587年)以降と見て間違いないだろうとした上で、『沼田日記』の『天正16年(1588年)12月に婚約が成立し、翌天正17年(1589年)9月に入輿』との記述が、時期的に最も可能性が高い」としている[6]。このほか、丸島和洋は時期は明らかにできないとした上で、「本多氏側が真田氏との和解後に婚姻が成立したと認識している点から、婚姻は天正15年(1587年)頃とみるべきだろうか」[5]、平山優は「婚姻が結ばれる可能性がある最も早い時期として天正15年(1587年)[53]、次に信之が家康の与力大名となることが確定した天正17年(1589年)を挙げているが[54]、最も可能性が高いのは天正18年(1590年)」としている[55]。
家康の養女であったか
[編集]一般的に小松姫は家康の養女として真田氏に嫁いだものとされており[4][5]、本多氏の系図『参考御系伝』にも同様の内容が記されている[5]。『本多家武功聞書』などによれば、家康が真田昌幸を従わせるため、嫡男の信之に家康の重臣・本多忠勝の娘を嫁がせようとしたが、昌幸は承諾しなかったため、家康は忠勝の娘を自分の養女とした上で嫁がせるのではどうかと提案したところ、昌幸はようやく承諾した[54]。その後、小松姫は高力摂津守を従えて江戸城西の丸から沼田へと向かったと記されている[54]。この逸話について平山は天正11年(1583年)から天正16年(1588年)のものなら明らかにおかしいが、家康が関東に移封された天正18年(1590年)以後であれば問題ないと指摘している[54]。
家康の養女であったかについては、信之の孫にあたる松代藩3代藩主・真田幸道が幕府に提出した書状や小松姫の菩提寺である大英寺の書上には「台徳院(秀忠)」の養女となっており、通説と異なる記載がされているなど[5]、実際に小松姫が家康の養女となったのか否かは確定されていない[18]。ただし、家康の養女とする複数の所伝が残されていることや[18]、信濃国の国衆の中では小笠原貞慶の長男・秀政も、松平信康の娘(登久姫)を家康の養女として正室に迎えていることから、養女の体裁が採られた可能性はある[18]。
沼田御守城
[編集]慶長5年(1600年)、秀吉の没後に五奉行の石田三成が挙兵すると、夫の信之は家康の率いる東軍に付き、父・昌幸と弟・信繁は三成の率いる西軍に付いた[56]。袂を分かった昌幸・信繁親子が居城の上田城に戻る際、沼田城に立ち寄り城に入ろうとしたところ、留守を預かる小松姫が昌幸の計略を見抜いて開門を拒み、女丈夫と謳われたとの逸話が残されている[42]。
真田氏の家記『滋野世記』によれば、次のような内容が記されている。
昌幸は信繁同道にて犬伏の宿を打立て、夜中沼田に著たまい。城中へ按内ありければ、信幸の室家使者を以て、夜中の御皈陣不審に候なり、此の城は豆州の城にて、自を預居候事なれば、御父子の間にて候え共、卒尓に城中へ入申事成難く候と仰ける(中略)。暫有て城中より門を開きけるに、信幸の室家甲冑を著し、旗を取り、腰掛に居り、城中留守居の家人等其外諸士の妻女に至るまで、皆甲冑を著し、あるいは長刀を持ち、あるいは弓槍を取り列座せり。時に信幸の室家大音に宣うは、殿には内府御供にて御出陣有し御留守を伺い、父君の名を偽り来るは曲者なり、皆打向って彼等を討ち取るべし(中略)、一人も打ち洩らさず打ち捕べしと下知したまう。昌幸その勢いを御覧ありて大いに感じたまい、流石武士の妻なりと称美あり。御家人等を制し止められ、夫より我妻かかり、上田城へ篭城なり[57]。
また、『改正三河後風土記』によれば、小松姫は昌幸から「今生の暇乞のため対面し、孫共を一見せばやと存候」との申し出を受けるが、これを断ると侍女を遣わして昌幸らを城下の旅宿に案内し丁重にもてなした。その一方で、城中の家臣には弓や鉄砲を狭間に配置させ相手方の襲撃に備えるように命じた。これを見た昌幸は家臣に向かって「あれを見候へ。日本一の本多忠勝が女程あるぞ。弓取の妻は誰もかくこそ有べけれ[58][59]」と、その手並みを褒め称えたと記している。このほかにも『御家書留書』『真田御武功記』『沼田記』『出浦助昌家記』などに沼田城の留守を守った逸話が記されている[60]。
この逸話については小松姫が沼田に居たのかどうかが問題となるが、豊臣政権下において諸大名の妻子が伏見、次いで大坂屋敷に移り住んでいたという点[61]と同年7月30日付の大谷吉継から昌幸に宛てられた書状の解釈が問題となる[61][62][63]。
黒田は「大坂で吉継に保護されて不在であったので事実ではない」としており[62]、丸島も2015年の時点では吉継書状に「信幸の妻子を保護した」と記されてあり、これが側室であった清音院殿のことであれば問題ないが、普通に考えれば正室を指すはずという点から創作の可能性を指摘していた[61]。しかし、平山はこの書状について昌幸、信繁親子の妻子については吉継が預かっているが、信之の妻女については「伊豆殿女中改候間、去年くだり候」と記されていることから、三成挙兵の前年にあたる慶長4年(1599年)の時点で小松姫は「女中改」という口実で、沼田に引き上げていたと指摘している[63][64]。平山と丸島はともに2016年の著作で石田三成による徳川家康への弾劾状「内府ちかひ(違い)の条々」における一節「諸侍の妻子、ひいきひいきニ国元へ返候事」との一文を指摘し、家康が一部大名の人質の帰国を勝手に認めており、信幸の妻子が家康の計らい(贔屓)によって帰国していたと解釈しうるとしている[64][65]。
その他
[編集]この他、いくつかの逸話や伝承が残されている。ただし、その多くは「武芸に秀でる」「勝気な性格」といった人物像を基に後世に創作されたものだとの指摘もある[66]。
- 小松姫が家康の養女であったとする話の中に、婿選びの逸話がある。家康が若い武将達を列座させて小松姫の相手を選ばせたところ、家康を前にして委縮している中で、小松姫が平伏している一人一人の髻を掴んで面を上げさせて吟味していた。髻に手を差し伸べられた瞬間に信之は叱咤して、鉄扇で小松姫の顔を打った。小松姫はこの気骨に感動して信之を選んだ[43][67]。
- 小松姫の夫の真田信之は上田城6万石の大名であったが、上田は加賀街道(北国街道)を押さえた要所に位置して、加賀藩前田家が金沢と江戸との間を往来する通路上にあった。小松姫は家臣に命じて加州候の通行を妨害し、将軍への献上する品を奪い取らせたが、小松姫が将軍家の養女であるため、成敗することができず、ついに将軍家に訴え出た。将軍家から小松姫にお咎めがあったが、「親の物は子の物である」と答えるので、将軍家の方でも処置に困り、それまで6万石のところに4万石を加増して、加賀街道から外れた松代に移封させた[67][注 13]。ただし、元和8年(1622年)の松代藩への移封時には小松姫はすでに亡くなっている。
関連作品
[編集]- ドラマ
- 楽曲
- ゲーム
- 『戦国無双シリーズ』(2005年~、コーエーテクモゲームス、声:大本眞基子)
- 『戦国大戦』(2013~2017年、セガ・インタラクティブ、声:三澤紗千香、井上麻里奈、日笠陽子)
- 『戦国BASARA バトルパーティー』(2020年、カプコン、声:茜屋日海夏)
- 『英傑大戦』(2022年、セガ、声:白石晴香)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b 初名は重玄。松平重親の長男。重吉の兄。
- ^ この他にも慶長19年(1614年)10月に夫・信之の重臣・木村綱成夫妻に宛てた書状の中で「久」と署名があり、小松姫が「久」と名乗っていた可能性もある[6]。
- ^ 文禄2年生まれ[7]。孫六郎、河内守。『寛政重脩諸家譜』によれば母は某氏で庶長子[21]。
- ^ 天正19年生まれ[7]、高力忠房室[21]、光岳院殿。
- ^ 文禄2年生まれ[7]、別名:於千世、佐久間勝宗室[21]、見樹院殿。
- ^ 慶長2年生まれ[7]。『寛政重脩諸家譜』によれば慶長元年に沼田生まれ[21]。
- ^ 慶長4年生まれ[7]。
- ^ 信吉の動静について、『寛政重脩諸家譜』によれば「某年、父の封地である上野国利根郡3万石に分封されて、沼田城に住す」「別に家を興し、子孫政之丞の時に家絶える」と記している[21]。
- ^ 天正18年(1590年)の家康の関東移封後、上総国大多喜藩の藩主となっていた。
- ^ 現在の埼玉県鴻巣市。
- ^ 現在の群馬県沼田市鍛冶町。
- ^ 現在の長野県上田市。
- ^ 信濃の民話伝承を集めた『宮川氏記』にある逸話[67]。
出典
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参考文献
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- 柴辻俊六『真田昌幸』吉川弘文館〈人物叢書 新装版〉、1996年。ISBN 4-642-05202-X。
- 平山優『大いなる謎真田一族 最新研究でわかった100の真実』PHP研究所〈PHP文庫〉、2015年。ISBN 978-4-569-76370-5。
- 平山優『真田信之』PHP研究所〈PHP新書〉、2016年。ISBN 978-4-569-83043-8。
- 丸島和洋『真田四代と信繁』平凡社〈平凡社新書〉、2015年。ISBN 978-4-582-85793-1。
- 丸島和洋『真田信繁の書状を読む』星海社〈星海社新書〉、2016年。ISBN 978-4-06-138601-3。