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'''“ジミー”ジェームズ・リドル・ホッファ'''(James Riddle "Jimmy" Hoffa、[[1913年]][[2月14日]] - [[1975年]][[7月30日]]?)は、[[アメリカ合衆国]]の[[労働組合]]指導者。[[全米トラック運転組合]](IBT、International Brotherhood of Teamsters)委員長を務めていた。[[1975年]]に失踪し、[[1982年]]に死亡宣告。[[マフィア]]と手を結び、長年にわたり不正行為を働いたとされる。
'''“ジミー”ジェームズ・リドル・ホッファ'''(James Riddle "Jimmy" Hoffa、[[1913年]][[2月14日]] - [[1975年]][[7月30日]]?)は、[[アメリカ合衆国]]の[[労働組合]]指導者。[[全米トラック運転組合]](チームスター、International Brotherhood of Teamsters(IBT))委員長を務めた。[[1975年]]に失踪し、[[1982年]]に死亡宣告。[[マフィア]]と手を結び、長年にわたり不正行為を働いたとされる。


全米トラック運転組合の現会長、[[ジェームズ・フィリップ・ホッファ]]は息子。
全米トラック運転組合の現会長、[[ジェームズ・フィリップ・ホッファ]]は息子。
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==プロフィール==
==プロフィール==
===生い立ち===
===生い立ち===
[[インディアナ州]][[ブラジル (インディアナ州)|ブラジル]]で鉱山技師の息子として生まれる。父方の祖先は[[ペンシルベニア・ダッチ]]([[ドイツ系アメリカ人|ドイツ系]])の血筋を引くという。7歳で父を失い、母と共に衣服の洗濯を手伝って生計を立てう。10歳で[[デトロイト]]に移り、14歳で学校を中退。
[[インディアナ州]][[ブラジル (インディアナ州)|ブラジル]]で鉱山技師の息子として生まれる。父方の祖先は[[ペンシルベニア・ダッチ]]([[ドイツ系アメリカ人|ドイツ系]])の血筋を引くという。7歳で父を失い、母洗濯開いが、1924年、良就職先を求めて一家で[[デトロイト]]に移り、ホッファは雑用のバイトをしながら家計を助けた。14歳で学校を中退して働いた<ref name="a">[https://books.google.co.jp/books?id=li1ZCwAAQBAJ&pg=PA381&lpg=PA381 Crimes of the Centuries] 2016, Steven Chermak Ph.D.、Frankie Y. Bailey Ph.D., P. 381 - P. 382</ref>


===労働組合業界へ===
===労働組合へ===
1930年、食品チェーンの配送の職を得たが、大恐慌で失業者が街にあふれる中、労働条件は過酷で、倉庫で一日12時間シフトで働いた。次の貨物が来るまでの待機時間は支払われず、作業監督は些細な理由で人を解雇するなど横暴だった。1931年春、仲間と貨物の積み降ろしをボイコットする実力行使に出た。配送遅延を恐れた経営者を交渉テーブルにつかせ、労働契約を結んだ。ホッファのミニ組合はAFL(米国産別労組総連盟、American Federation of Labour)に労働組合と認定された<ref name="a"/>
18歳のとき、勤務していた食料品チェーンで[[労働組合]]を結成。[[1933年]]、[[デトロイト]]のIBT支部専従となる。その後、めきめきと実績を上げて出世し、[[1957年]]に委員長に就任。しかし、同年に[[アメリカ労働総同盟・産業別組合会議]]を除名されてしまう。これは、IBTが前任の[[デイヴ・ベック]]の時から基金横領や縁故人事などの腐敗体質が指摘されていたためである。
<ref name="b">[https://books.google.co.jp/books?id=86-GAAkOIXIC&pg=PA9&lpg=PA9 Hoffa] Arthur A. Sloane, 1991, P. 8 - P. 9</ref>。

経営者に屈しないタフさで名が轟き、1932年、トラック運転手の組合チームスターに渉外係(オーガナイザー)として招き入れられた。デトロイト第299支部に属し、運送会社のストライキやボイコットを指揮した<ref name="b"/>。経営陣はギャングを雇ってストを封じ込もうとしたため、素手、メリケンサック、警棒等で応戦し、乱闘が日常化した。警棒やクラブで殴られ、何度も病院の世話になった。病院には、緊急治療室の予約前払いを求められた<ref>Sloane, P. 15 - P. 16</ref>。非組合員の勧誘は、時に暴力や脅しを伴った。加盟資格はトラックドライバー以外にも拡大され、組合に参加しない商店に爆弾を投下したりした。ライバル組合とワーカー争奪戦を繰り広げ、事務所を荒らされたり車を遺棄されたり、告げ口されて警察に何度も捕まった<ref name="c">[http://archives.chicagotribune.com/1957/07/26/page/1/article/hoffas-story-at-18-he-wins-his-1st-strike Hoffa's Story: At 18, He Wins His First Strike] Chicago Tribune, 1957.7.26</ref><ref>Sloane, P. 15 - P. 16</ref>。裁判でもストリートと同様、闘争本能むき出しに戦った。1937年までに第299支部長になった。1942年、ミシガン会議を主催し、組合指導者の地位を固めた<ref name="c"/>。1940年代、運送業のネットワーク伝いにミッドウエスト北部、更に「反組合」の牙城だったミッドウエスト南部へ進出を始めた。カリスマ性や押しの強さで労働条件の改善などの実績を積み上げ、組合内の地位は上がっていった<ref name="d">[https://books.google.co.jp/books?id=zEWsZ81Bd3YC&pg=PA605&lpg=PA605 Encyclopedia of U.S. Labor and Working-class History, 第 1 巻, Hoffa, James R] Eric Arnesen, 2007, P. 606 - P. 607</ref>。1936年に結婚し、子供が二人いた<ref name="a"/>。

===組合のドン===
1952年、チームスター委員長のデイブ・ベックにより副委員長に抜擢され、同時に組合トップ機関の理事になった<ref name="d"/>。1957年、汚職発覚で逮捕されたベックに代わり、3代目チームスター委員長に就任した(数多くの北米マフィアの後押しがあった)<ref>同年に[[アメリカ労働総同盟・産業別組合会議]]を除名された。これは、チームスターが前任の[[デイヴ・ベック]]の時から基金横領や縁故人事などの腐敗体質が指摘されていたためである。[https://books.google.co.jp/books?id=9DMUCgAAQBAJ&pg=PA211&lpg=PA211 Breaking the Devil’s Pact: The Battle to Free the Teamsters from the Mob] James B. Jacobs、Kerry T. Cooperman, P. 211</ref>。アメリカ北部のトラック運転手をほぼ手中にし、航空業界の組合も傘下に入れた。1960年代、組合員は150万人を超え、チームスターをアメリカ最大の労働組合に押し上げ、共和党や民主党に対抗する第3の政治勢力を形成した<ref name="a"/><ref>組合員数:150万人(1958)、170万人(1962)、200万人(1968)。 [http://teamstersarchives.gwu.edu/node/11 Teamsters Timeline, 1950-1971]</ref>。

副委員長時代の1955年に分散していた支部レベルの小口年金を統合して新たな年金制度を始めた。年金保険料の徴収額は1955年時点で月80万ドルだったが、1960年代半ばに月600万ドルまで膨張した<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=meQRDAAAQBAJ&pg=PA136 The Predictable Surprise: The Unraveling of the U.s. Retirement System] Sylvester J. Schieber, P. 136</ref>。年金資産は通常銀行に運用を委託するが、ホッファは自前で投資先を決め運用した。マフィア傘下のラスベガスのホテル、ゴルフリゾートなどに低利で融資し、見返りに莫大な手数料・リベートを受け取った<ref name="g">[http://www.lacndb.com/php/Info.php?name=Jimmy%20Hoffa Jimmy Hoffa] La Cosa Nostra Database</ref><ref>1958年デューンズに400万ドル、1960年[[スターダスト (ホテル)|スターダスト]]に600万ドル、1961年フリーモントに400万ドル、他シーザーズ・パレス、[[サーカス・サーカス]]など多くのカジノホテルがチームスターの融資で建てられた。[http://www.onlinenevada.org/articles/central-states-southeast-southwest-areas-pension-fund Central States, Southeast, Southwest Areas Pension Fund -Online Nevada Encyclopedia]</ref>。年金運用団体の理事たちはお飾りで実質権限はなく、ホッファの補佐役アレン・ドーフマン<ref>シカゴ清掃組合委員長ポール・"レッド"・ドーフマンの息子。ポールは[[シカゴ・アウトフィット]]と強力なコネクションがあった。</ref>が年金コンサルタントの肩書で年金資産をコントロールした<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=e4FTCwAAQBAJ&pg=PA257&lpg=PA257 Organized Crime] Howard Abadinsky、2016, P. 257</ref>。

===法廷闘争と収監===
委員長に就任した1957年、デイブ・ベックと共に、[[ロバート・ケネディ]]議員らのマクレラン委員会の場で組合犯罪で告発されたが、裁判で巻き返し有罪を回避した<ref name="d"/>。1960年代初め、アメリカ政府は、運送業界に影響の大きいチームスターのストライキがアメリカ経済に打撃を与えかねないとして、ホッファを再びターゲットに据えた。1961年、[[ジョン・F・ケネディ]]の大統領就任に伴い司法長官となった[[ロバート・ケネディ]]に、組合の巨額年金の行方や裏社会との繋がりで再び告発され、厳しく追求されると対決姿勢を露わにした。1964年7月、チームスター年金の不正運用、陪審員買収、賄賂などで有罪となった<ref name="a"/>。控訴して時間稼ぎしたが懲役13年刑が確定し、[[1967年]][[3月7日]]に[[ルイスバーグ]]([[ペンシルベニア州]])の連邦刑務所に収監された<ref name="e">[http://gangstersinc.ning.com/profiles/blogs/the-disappearance-of-jimmy The Disappearance of Jimmy Hoffa, 2010] Gangster Inc.</ref>。収監前に子飼いの[[フランク・フィッツシモンズ]]を、組合の新設ポストに据え、委員長の代役をさせた<ref name="d"/>。1971年半ば、ニクソン大統領に近い政府関係者と、委員長職を辞任する代わりに特赦とする司法取引に応じ、収監中に委員長職を辞任した。同年12月、大統領特赦で10年間の組合活動禁止を条件に出所した<ref name="a"/>。古巣に戻ると代役のはずのフィッツシモンズが心変わりして委員長ポストを死守しホッファの追放を画策したため、復帰工作に奔走した。また組合活動の禁止を憲法違反として法廷闘争も始めた<ref name="h">[http://www.moldea.com/Hoffa.html The Hoffa Wars: The Rise and Fall of Jimmy Hoffa] Dan E. Moldea</ref>。


===マフィアとの蜜月===
===マフィアとの蜜月===
裏社会との付き合いは1930年代に遡り、組合ストや政敵排除でマフィアの協力を得る見返りに、各支部へのマフィアの強請を容認する関係だった。1937年、スト破り要員を経営陣に派遣していた地元デトロイトのマフィア幹部アンジェロ・メッリやサント・ペローネに賄賂を渡してスト破りを凍結する密約を結んだ<ref name="f">[https://books.google.co.jp/books?id=KZCUIxhP7ikC&pg=PA75&lpg=PA75 Mr. Mob: The Life and Crimes of Moe Dalitz] Michael Newton、P. 75.</ref><ref>[https://www.stlmag.com/How-St-Louis-Labor-Leader-Harold-Gibbons-Rose-to-Power-with-the-Help-of-Jimmy-Hoffa/ How St. Louis Labor Leader Harold Gibbons Rose to Power (with the Help of Jimmy Hoffa)] St.Louis Magazine, 2011</ref>。出世してデトロイト以外に活動領域が広がると、裏社会の人脈も広がった。元シカゴ清掃組合委員長ポール・ドーフマンなど組合関係者を通じて未開拓な地域のギャングと知り合い、デトロイトマフィアを通じてニューヨークマフィアとも繋がった。
IBTの権力は、[[マフィア]]の協力によって支えられていた。実際、ホッファらは[[ラスベガス]]を莫大な年金基金の投資先とし、ここからマフィアとの緊密な関係が生まれた。つまり、マフィア関連の[[ホテル]]、[[カジノ]]、あるいは[[モーテル]]の建設にIBT基金から融資を行い、最終的にその利益の一部がホッファらに還流されたのである。


1957年の委員長選挙ではデトロイト、シカゴ、ニューヨークなど北米マフィアの強力なバックアップがあった<ref name="g"/>。支持基盤が弱いニューヨークの組合数の嵩上げを[[ルッケーゼ一家]]の組合エキスパート、[[ジョン・ディオガルディ|ジョニー・ディオ]]に依頼した<ref name="e"/>。1960年代初めのFBIの盗聴によれば、ホッファはほぼ毎日デトロイトマフィアのアンソニー・ジアカローネと連絡を取り合っていた<ref name="d"/>。ほか付き合いのあったマフィアには、ホッファの委員長就任を後押しする代わりに自身の支部長昇格を助けてもらった通称トニー・プロことアンソニー・プロヴェンザノ(ニュージャージー、[[ジェノヴェーゼ一家]])、組合関連でタッグを組んでいた[[ラッセル・ブファリーノ]](ピッツトン)、[[サント・トラフィカンテ]](フロリダ)、[[カルロス・マルセロ]](ニューオリンズ)などがいた。
実際、[[スターダスト (ホテル)|スターダスト]]や[[サーカス・サーカス]]などの有名なカジノの多くはIBTの融資により建てられた。ホッファはマフィアと付き合い始めた頃、組合は自分が仕切っておりマフィアのことをコントロールできるものだと思っていたが、いつの間にか操り人形にされ、最後には必要とされなくなっていた。


巨額の年金資産をラスベガスに注ぎ込んだが、融資の仲介にマフィアと関係が深い[[モー・ダリッツ]]やビル・プレッサーが関わった。ダリッツとの交友は1949年の洗濯業組合の労使紛争が発端とされるが<ref>[https://johngrant.wordpress.com/2007/10/03/along-comes-moe/ Along Comes Moe, Las Vegas and The Mob]</ref>、もっと古く1940年頃という説もある<ref name="f"/>。獄囚時代には同じ刑務所にいた[[カーマイン・ギャランテ]]([[ボナンノ一家]])と親交を結んだと言われる<ref name="h"/>。ホッファはマフィアと付き合い始めた頃、組合は自分が仕切っておりマフィアのことをコントロールできるものだと思っていたが、いつの間にか操り人形にされ、最後には必要とされなくなっていた。
[[1962年]]夏に司法長官[[ロバート・ケネディ]]はIBTについて追及を開始し、ホッファは最初の標的して狙われ公聴会で対決する。ロバート・ケネディと対決したとき、ケネディの父親の[[ジョセフ・P・ケネディ]]が[[禁酒法]]時代に[[マフィア]]と手を組んで酒の密売で儲けたことを公然と非難した。この際、ホッファはロバート・ケネディを殺害しようと本気で考えていたという。なおロバート・ケネディは[[1968年]]に暗殺された。


===逮捕===
===失踪===
;行方不明
その後[[マネーローンダリング]]に関与したとして、懲役13年の判決を受けて[[1967年]][[3月7日]]に[[ルイスバーグ]]([[ペンシルベニア州]])の連邦刑務所に収監され、組合の地位と暗黒街での権力も失う。[[1971年]]に出所したが、[[1980年]]まで組合での活動を禁止するという条件が付いていたため、憲法違反として法廷闘争を開始。一方、復権を狙って後任の[[フランク・フィッツシモンズ]]と熾烈な抗争を繰り広げる。この頃にはホッファはマフィアにとって利用価値がない邪魔者になっていた。
[[1975年]][[7月30日]]昼の14時頃、デトロイト近郊ブルームフィールドのレストランに出かけ、レストランの駐車場に愛車ポンティアックを残したまま行方不明になった。そのレストランはホッファの行きつけの店だったが、当日は店に入らず駐車場の北端に車を停めて誰かを待っていた。妻の証言からデトロイトマフィア幹部のアンソニー・ジアカローネに会う約束をしていたとされた<ref name="a"/>。待っている間、最寄りの店から2度自宅に電話をかけ、また駐車場にいる姿が目撃された(顔見知りの不動産屋と言葉を交わした)<ref name="e"/>。家族はすぐ捜索願を出したが、その後二度と戻らず、1982年に死亡宣告された<ref>Chermak & Bailey, P. 382</ref>。


;捜査
===失跡===
知人の車に乗って別の場所に連れて行かれて殺害されたと見られ、ジアカローネとプロヴェンザノが首謀者と疑われたが、2人とも関与を否定した(本人はいずれも当日アリバイがあった)<ref>Chermak & Bailey, P. 382</ref>。FBIは、ホッファの知人でジアカローネとも親しいチャールズ・"チャッキー"・オブライエン<ref>ジアカローネの愛人シルヴィア・パリスの連れ子で、シルヴィアと一時ホッファ宅に居候していた。シルヴィアと共にジアカローネとホッファ間の連絡役を務めた(1960年代初めのFBI盗聴)。[https://books.google.co.jp/books?id=pJPqoncrFZAC&pg=PA169 , Corruption and Reform in the Teamsters Union, David Scott Witwer, 2003, P. 169]</ref>がジアカローネの息子ジョーから借りた車マーキュリーでホッファを拾い、別の場所に連れて行ったとの線で捜査を進めた<ref>オブライエンは当日その車を使ったことは認めたが、レストランに行っていないと容疑を否認した。午前中冷凍サーモンを知人宅に運んで解凍を手伝い、午後になってアスレティック・クラブでジアカローネと過ごし、その後サーモンの血が付いた車を洗車しに行ったとアリバイ供述したが、クラブ滞在や洗車場の主張は裏付けが取れなかった。地元警察が捜索犬を使ってその車の後部座席とトランクにホッファの痕跡を確認したが、証拠が弱く、告発に至らなかった。 Chermak & Bailey P. 382 - P. 383</ref>。1976年のFBIレポート<ref>Hoffex Memo、1985年に公表。</ref>では、組合年金のコントロールを邪魔されるのを恐れた組織犯罪(マフィア)が殺害に及んだとし、容疑者リストにチャッキー・オブライエン、プロヴェンザノ、ジアカローネ、ラッセル・ブファリーノなどの名を連ね、これとは別に殺害実行犯としてプロヴェンザノ配下のブリグリオ兄弟(サルヴァトーレ、ガブリエル)を挙げた<ref name="e"/>。定説では代役フランク・フィッツシモンズの方が金の流れがいいと見たマフィア連合に見切りを付けられ、引退を勧告されたが従わなかったため殺害されたとされる。フィッツシモンズは組合マネーを地方支部から中央へ吸い上げるホッファの「中央集権方式」を止め、中央事務局の権限を地方支部に分散した。支部ごとにマフィアが直接裏金を融通できる「地方分権方式」は、北米各都市のマフィアに歓迎された<ref>Chermak & Bailey, P. 382</ref>。
両者の抗争が激化していた[[1975年]][[7月30日]]、[[デトロイト]]の自宅を出たまま行方不明となる(ホッファ失跡事件)。愛車はレストランの駐車場に放置されていた。マフィアの幹部に会う予定だったといわれ、マフィアに暗殺されたという説が有力である。失踪から7年経った[[1982年]]、69歳の時に死亡認定されたが、現在に至るまで捜索が続けられている。それだけ、彼の失踪は社会的に大きな事件であった。生きていれば2010年時点で90歳を超える老人である。


2001年、DNA検証を行った結果、失踪当日オブライエンが運転したマーキュリーで発見された髪の毛がヘアブラシに付着したホッファの髪とDNAで一致したと報じられた。オブライエンは再び尋問されたが、一貫して無関係を主張。警察やホッファ家族はオブライエンが連れて行ったと信じているが、告発に至っていない<ref>Chermak & Bailey P. 382 - P. 383</ref>。
最期には諸説ある。マフィアの間で一時期広まった噂によれば、車で拉致されたホッファは[[クラーレ]](南アメリカの先住民が狩猟に用いる毒物)を飲まされて殺害され、死体は車ごと圧縮機械に放り込まれたといい、「ホッファは誰かの車のボディの一部になった」のだという。その他にも焼いて灰にされたとか、切り刻まれて沼に捨てられたという説もある。


;ミステリー
==その他==
組合のドンの突然の失踪は全米中の好奇心を呼び起こし、失踪に関して数冊の本になるほどの大量のゴシップを生んだ。失踪から数年間は目撃情報が続き、生存説もあった。生きていれば2016年時点で100歳を超える老人である。当局に尋問されたチームスター関係者の中には、「トニー・プロが首謀者」とする証言の他、「黒人のゴーゴーダンサーとブラジルに逃げた」という証言もあった<ref name="i">Carl Sifakis, 2005, The Mafia Encyclopedia, Jimmy. R. Hoffa, P. 222 - P. 223</ref>。[[クラーレ]](南アメリカの先住民が狩猟に用いる毒物)を飲まされて殺害され、車ごと圧縮機械に放り込まれて「誰かの車のボディの一部になった」という説、55ガロンのドラム缶に押し込まれニュージャージーの産業廃棄施設に埋められた説、肉加工工場でミンチにされ、フロリダの沼に捨てられた説もある<ref name="e"/><ref>Chermak & Bailey, P. 383</ref><ref name="g"/>。政府密告者に転じた元マフィアのジミー・フラチアーノは、「プロヴェンザノやブファリーノの名が挙がっているが全くナンセンスで、デトロイト(マフィア)はよそ者の力を借りるような組織ではない。トニー・ゼリリとマイク・ポリッツィが殺害を命じ、ジアカローネがアレンジした」と主張した(自著「ラスト・マフィア」)<ref name="i"/>。[[ビル・ボナンノ]]は、「銃殺され車ごと潰された」と主張した(自著'Bound By Honor')<ref name="g"/>。ホッファの失踪ミステリーは、1970年代を通じてポップカルチャーのアイテムの一つになった<ref name="a"/>。
* 漫画「[[ゴルゴ13]]」にはホッファを題材にした「行方不明のH氏」のシナリオがあり、偽のホッファ(でっち上げの証言をさせるために旧ソ連の[[KGB]]が作り出した複製)が登場する。ゴルゴ13は顔の特徴から一目で偽物だと見抜いた。
* [[2003年]]の映画[[ブルース・オールマイティ]]では[[ジム・キャリー]]が演じるリポーターのブルースが行方不明になっていたホッファの遺体発見をスクープするシーンがある。


減刑目当てに当局に情報提供するマフィアも相次いだ。1989年、[[ジョン・ゴッティ]]の刑事裁判で政府証言者になったドナルド・フランコスという男がアイルランド系ギャングのジミークーナンと共にデトロイト郊外の家でホッファを殺し、遺体をバラバラにしてニュージャージーのジャイアンツスタジアムのコンクリートに埋めたとFBIに供述したことが伝えられた<ref>[https://news.google.com/newspapers?nid=1454&dat=19890920&id=4b8sAAAAIBAJ&sjid=XRQEAAAAIBAJ&pg=5822,1587032&hl=ja Donald Frankos Said Hoffa Is Buried In Concrete Underneath] Star-News - Sep 20, 1989</ref>。
==関連項目==

2004年、ホッファのチームスター仲間フランク・シーランがラッセル・ブファリーノの命令でホッファの後頭部を撃って殺害したと告白したことがシーランの弁護士の手による伝記本で伝えられた(告白は1999年で、シーランは2003年に死亡)。シーランはブファリーノの部下で、殺害後の遺体処理は別人が行ったとした<ref>[https://news.google.com/newspapers?nid=1350&dat=20040530&id=fGpPAAAAIBAJ&sjid=agQEAAAAIBAJ&pg=6727,4611585&hl=ja Man Who Claimed To Be Hoffa's Killer Had Many Regrets] Toledo Blade - May 30, 2004</ref><ref>Chermak & Bailey, P. 382</ref>。

FBIは捜査で得た情報や証言を元にデトロイトを中心に色々な場所を掘り返したが、ホッファの痕跡を確認できなかった。FBIはガセ情報に何度も振り回されながら今も遺体の在り処を追っている<ref>Chermak & Bailey, P. 383</ref>。

==エピソード==
*解雇を恐れて組合員になるのを拒否し続けた男が、ある時ホッファの説得であっさり組合員になった。ホッファの、何を聞いても明快に答える態度、確信に満ちた態度に「組合に入るのは正しい行為だ」と思わせられたという<ref name="b"/>。
*トラック運転手の組合のトップに立ったが、彼自身はトラック運転手の経験が一度もなかった。
*ロバート・ケネディと公聴会で対決したとき、ケネディの父親の[[ジョセフ・P・ケネディ]]が[[禁酒法]]時代に[[マフィア]]と手を組んで酒の密売で儲けたことを公然と非難した。この際、ホッファはロバート・ケネディを殺害しようと本気で考えていたという。なおロバート・ケネディは[[1968年]]に暗殺された。ホッファはジョン・F・ケネディ大統領暗殺の首謀者の1人とする説もある<ref name="h"/>
*服役していた1960年代後半、同じ刑務所にいたプロヴェンザノと殴り合いの喧嘩になった。仲間に引き剥がされたが捨て台詞を吐きあった。1970年代初めマイアミビーチで行われたチームスターの組合大会で鉢合わせした時も喧嘩になった<ref name="e"/>。このためホッファが失踪した時、真っ先にプロヴェンザノに疑惑の目が向けられた。一方で、プロヴェンザノとのいがみ合いは個人的なトラブルに過ぎなかったとも、喧嘩エピソードが失踪の黒幕を隠す「目くらまし」に使われたとも言われた。

==題材にした作品等==
* 『[[フィスト]]』:ジミー・ホッファをモデルとした[[シルヴェスター・スタローン]]主演の映画([[1978年]])
* 『[[フィスト]]』:ジミー・ホッファをモデルとした[[シルヴェスター・スタローン]]主演の映画([[1978年]])
* 『[[ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ]]』:[[セルジオ・レオーネ]]監督のギャング映画([[1984年]])。登場人物の一人や、ストーリーの一部のモデル。
* 『[[ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ]]』:[[セルジオ・レオーネ]]監督のギャング映画([[1984年]])。登場人物の一人や、ストーリーの一部のモデル。
* 『[[ホッファ]]』:[[ジャック・ニコルソン]]がホッファを演じた映画([[ダニー・デヴィート]]監督、[[1992年]])。映画では最期がこのようだったのではないかと想像され描写されている。
* 『[[ホッファ]]』:[[ジャック・ニコルソン]]がホッファを演じた映画([[ダニー・デヴィート]]監督、[[1992年]])。映画では最期がこのようだったのではないかと想像され描写されている。
* 『[[ブルース・オールマイティ]]』
* 『[[ブルース・オールマイティ]]』
* 漫画「[[ゴルゴ13]]」にはホッファを題材にした「行方不明のH氏」(1976年5月作品)のシナリオがあり、偽のホッファ(でっち上げの証言をさせるために旧ソ連の[[KGB]]が作り出した複製)が登場する。ゴルゴ13は顔の特徴から一目で偽物だと見抜いた。
* [[2003年]]の映画[[ブルース・オールマイティ]]では[[ジム・キャリー]]が演じるリポーターのブルースが行方不明になっていたホッファの遺体発見をスクープするシーンがある。

==脚注==
{{reflist|2}}

==関連項目==
* [[マフィア]]
* [[マフィア]]
* [[暗殺]]
* [[暗殺]]
* [[労働貴族]]
* [[労働貴族]]
{{Normdaten}}

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[[Category:アメリカ合衆国の労働運動家]]
[[Category:アメリカ合衆国の労働運動家]]

2016年6月29日 (水) 10:18時点における版

ジミー・ホッファ

“ジミー”ジェームズ・リドル・ホッファ(James Riddle "Jimmy" Hoffa、1913年2月14日 - 1975年7月30日?)は、アメリカ合衆国労働組合指導者。全米トラック運転組合(チームスター、International Brotherhood of Teamsters(IBT))委員長を務めた。1975年に失踪し、1982年に死亡宣告。マフィアと手を結び、長年にわたり不正行為を働いたとされる。

全米トラック運転組合の現会長、ジェームズ・フィリップ・ホッファは息子。

プロフィール

生い立ち

インディアナ州ブラジルで鉱山技師の息子として生まれる。父方の祖先はペンシルベニア・ダッチドイツ系)の血筋を引くという。7歳で父を失い、母は洗濯屋を開いたが、1924年、良い就職先を求めて一家でデトロイトに移り、ホッファは雑用のバイトをしながら家計を助けた。14歳で学校を中退して働いた[1]

労働組合へ

1930年、食品チェーンの配送の職を得たが、大恐慌で失業者が街にあふれる中、労働条件は過酷で、倉庫で一日12時間シフトで働いた。次の貨物が来るまでの待機時間は支払われず、作業監督は些細な理由で人を解雇するなど横暴だった。1931年春、仲間と貨物の積み降ろしをボイコットする実力行使に出た。配送遅延を恐れた経営者を交渉テーブルにつかせ、労働契約を結んだ。ホッファのミニ組合はAFL(米国産別労組総連盟、American Federation of Labour)に労働組合と認定された[1] [2]

経営者に屈しないタフさで名が轟き、1932年、トラック運転手の組合チームスターに渉外係(オーガナイザー)として招き入れられた。デトロイト第299支部に属し、運送会社のストライキやボイコットを指揮した[2]。経営陣はギャングを雇ってストを封じ込もうとしたため、素手、メリケンサック、警棒等で応戦し、乱闘が日常化した。警棒やクラブで殴られ、何度も病院の世話になった。病院には、緊急治療室の予約前払いを求められた[3]。非組合員の勧誘は、時に暴力や脅しを伴った。加盟資格はトラックドライバー以外にも拡大され、組合に参加しない商店に爆弾を投下したりした。ライバル組合とワーカー争奪戦を繰り広げ、事務所を荒らされたり車を遺棄されたり、告げ口されて警察に何度も捕まった[4][5]。裁判でもストリートと同様、闘争本能むき出しに戦った。1937年までに第299支部長になった。1942年、ミシガン会議を主催し、組合指導者の地位を固めた[4]。1940年代、運送業のネットワーク伝いにミッドウエスト北部、更に「反組合」の牙城だったミッドウエスト南部へ進出を始めた。カリスマ性や押しの強さで労働条件の改善などの実績を積み上げ、組合内の地位は上がっていった[6]。1936年に結婚し、子供が二人いた[1]

組合のドン

1952年、チームスター委員長のデイブ・ベックにより副委員長に抜擢され、同時に組合トップ機関の理事になった[6]。1957年、汚職発覚で逮捕されたベックに代わり、3代目チームスター委員長に就任した(数多くの北米マフィアの後押しがあった)[7]。アメリカ北部のトラック運転手をほぼ手中にし、航空業界の組合も傘下に入れた。1960年代、組合員は150万人を超え、チームスターをアメリカ最大の労働組合に押し上げ、共和党や民主党に対抗する第3の政治勢力を形成した[1][8]

副委員長時代の1955年に分散していた支部レベルの小口年金を統合して新たな年金制度を始めた。年金保険料の徴収額は1955年時点で月80万ドルだったが、1960年代半ばに月600万ドルまで膨張した[9]。年金資産は通常銀行に運用を委託するが、ホッファは自前で投資先を決め運用した。マフィア傘下のラスベガスのホテル、ゴルフリゾートなどに低利で融資し、見返りに莫大な手数料・リベートを受け取った[10][11]。年金運用団体の理事たちはお飾りで実質権限はなく、ホッファの補佐役アレン・ドーフマン[12]が年金コンサルタントの肩書で年金資産をコントロールした[13]

法廷闘争と収監

委員長に就任した1957年、デイブ・ベックと共に、ロバート・ケネディ議員らのマクレラン委員会の場で組合犯罪で告発されたが、裁判で巻き返し有罪を回避した[6]。1960年代初め、アメリカ政府は、運送業界に影響の大きいチームスターのストライキがアメリカ経済に打撃を与えかねないとして、ホッファを再びターゲットに据えた。1961年、ジョン・F・ケネディの大統領就任に伴い司法長官となったロバート・ケネディに、組合の巨額年金の行方や裏社会との繋がりで再び告発され、厳しく追求されると対決姿勢を露わにした。1964年7月、チームスター年金の不正運用、陪審員買収、賄賂などで有罪となった[1]。控訴して時間稼ぎしたが懲役13年刑が確定し、1967年3月7日ルイスバーグペンシルベニア州)の連邦刑務所に収監された[14]。収監前に子飼いのフランク・フィッツシモンズを、組合の新設ポストに据え、委員長の代役をさせた[6]。1971年半ば、ニクソン大統領に近い政府関係者と、委員長職を辞任する代わりに特赦とする司法取引に応じ、収監中に委員長職を辞任した。同年12月、大統領特赦で10年間の組合活動禁止を条件に出所した[1]。古巣に戻ると代役のはずのフィッツシモンズが心変わりして委員長ポストを死守しホッファの追放を画策したため、復帰工作に奔走した。また組合活動の禁止を憲法違反として法廷闘争も始めた[15]

マフィアとの蜜月

裏社会との付き合いは1930年代に遡り、組合ストや政敵排除でマフィアの協力を得る見返りに、各支部へのマフィアの強請を容認する関係だった。1937年、スト破り要員を経営陣に派遣していた地元デトロイトのマフィア幹部アンジェロ・メッリやサント・ペローネに賄賂を渡してスト破りを凍結する密約を結んだ[16][17]。出世してデトロイト以外に活動領域が広がると、裏社会の人脈も広がった。元シカゴ清掃組合委員長ポール・ドーフマンなど組合関係者を通じて未開拓な地域のギャングと知り合い、デトロイトマフィアを通じてニューヨークマフィアとも繋がった。

1957年の委員長選挙ではデトロイト、シカゴ、ニューヨークなど北米マフィアの強力なバックアップがあった[10]。支持基盤が弱いニューヨークの組合数の嵩上げをルッケーゼ一家の組合エキスパート、ジョニー・ディオに依頼した[14]。1960年代初めのFBIの盗聴によれば、ホッファはほぼ毎日デトロイトマフィアのアンソニー・ジアカローネと連絡を取り合っていた[6]。ほか付き合いのあったマフィアには、ホッファの委員長就任を後押しする代わりに自身の支部長昇格を助けてもらった通称トニー・プロことアンソニー・プロヴェンザノ(ニュージャージー、ジェノヴェーゼ一家)、組合関連でタッグを組んでいたラッセル・ブファリーノ(ピッツトン)、サント・トラフィカンテ(フロリダ)、カルロス・マルセロ(ニューオリンズ)などがいた。

巨額の年金資産をラスベガスに注ぎ込んだが、融資の仲介にマフィアと関係が深いモー・ダリッツやビル・プレッサーが関わった。ダリッツとの交友は1949年の洗濯業組合の労使紛争が発端とされるが[18]、もっと古く1940年頃という説もある[16]。獄囚時代には同じ刑務所にいたカーマイン・ギャランテボナンノ一家)と親交を結んだと言われる[15]。ホッファはマフィアと付き合い始めた頃、組合は自分が仕切っておりマフィアのことをコントロールできるものだと思っていたが、いつの間にか操り人形にされ、最後には必要とされなくなっていた。

失踪

行方不明

1975年7月30日昼の14時頃、デトロイト近郊ブルームフィールドのレストランに出かけ、レストランの駐車場に愛車ポンティアックを残したまま行方不明になった。そのレストランはホッファの行きつけの店だったが、当日は店に入らず駐車場の北端に車を停めて誰かを待っていた。妻の証言からデトロイトマフィア幹部のアンソニー・ジアカローネに会う約束をしていたとされた[1]。待っている間、最寄りの店から2度自宅に電話をかけ、また駐車場にいる姿が目撃された(顔見知りの不動産屋と言葉を交わした)[14]。家族はすぐ捜索願を出したが、その後二度と戻らず、1982年に死亡宣告された[19]

捜査

知人の車に乗って別の場所に連れて行かれて殺害されたと見られ、ジアカローネとプロヴェンザノが首謀者と疑われたが、2人とも関与を否定した(本人はいずれも当日アリバイがあった)[20]。FBIは、ホッファの知人でジアカローネとも親しいチャールズ・"チャッキー"・オブライエン[21]がジアカローネの息子ジョーから借りた車マーキュリーでホッファを拾い、別の場所に連れて行ったとの線で捜査を進めた[22]。1976年のFBIレポート[23]では、組合年金のコントロールを邪魔されるのを恐れた組織犯罪(マフィア)が殺害に及んだとし、容疑者リストにチャッキー・オブライエン、プロヴェンザノ、ジアカローネ、ラッセル・ブファリーノなどの名を連ね、これとは別に殺害実行犯としてプロヴェンザノ配下のブリグリオ兄弟(サルヴァトーレ、ガブリエル)を挙げた[14]。定説では代役フランク・フィッツシモンズの方が金の流れがいいと見たマフィア連合に見切りを付けられ、引退を勧告されたが従わなかったため殺害されたとされる。フィッツシモンズは組合マネーを地方支部から中央へ吸い上げるホッファの「中央集権方式」を止め、中央事務局の権限を地方支部に分散した。支部ごとにマフィアが直接裏金を融通できる「地方分権方式」は、北米各都市のマフィアに歓迎された[24]

2001年、DNA検証を行った結果、失踪当日オブライエンが運転したマーキュリーで発見された髪の毛がヘアブラシに付着したホッファの髪とDNAで一致したと報じられた。オブライエンは再び尋問されたが、一貫して無関係を主張。警察やホッファ家族はオブライエンが連れて行ったと信じているが、告発に至っていない[25]

ミステリー

組合のドンの突然の失踪は全米中の好奇心を呼び起こし、失踪に関して数冊の本になるほどの大量のゴシップを生んだ。失踪から数年間は目撃情報が続き、生存説もあった。生きていれば2016年時点で100歳を超える老人である。当局に尋問されたチームスター関係者の中には、「トニー・プロが首謀者」とする証言の他、「黒人のゴーゴーダンサーとブラジルに逃げた」という証言もあった[26]クラーレ(南アメリカの先住民が狩猟に用いる毒物)を飲まされて殺害され、車ごと圧縮機械に放り込まれて「誰かの車のボディの一部になった」という説、55ガロンのドラム缶に押し込まれニュージャージーの産業廃棄施設に埋められた説、肉加工工場でミンチにされ、フロリダの沼に捨てられた説もある[14][27][10]。政府密告者に転じた元マフィアのジミー・フラチアーノは、「プロヴェンザノやブファリーノの名が挙がっているが全くナンセンスで、デトロイト(マフィア)はよそ者の力を借りるような組織ではない。トニー・ゼリリとマイク・ポリッツィが殺害を命じ、ジアカローネがアレンジした」と主張した(自著「ラスト・マフィア」)[26]ビル・ボナンノは、「銃殺され車ごと潰された」と主張した(自著'Bound By Honor')[10]。ホッファの失踪ミステリーは、1970年代を通じてポップカルチャーのアイテムの一つになった[1]

減刑目当てに当局に情報提供するマフィアも相次いだ。1989年、ジョン・ゴッティの刑事裁判で政府証言者になったドナルド・フランコスという男がアイルランド系ギャングのジミークーナンと共にデトロイト郊外の家でホッファを殺し、遺体をバラバラにしてニュージャージーのジャイアンツスタジアムのコンクリートに埋めたとFBIに供述したことが伝えられた[28]

2004年、ホッファのチームスター仲間フランク・シーランがラッセル・ブファリーノの命令でホッファの後頭部を撃って殺害したと告白したことがシーランの弁護士の手による伝記本で伝えられた(告白は1999年で、シーランは2003年に死亡)。シーランはブファリーノの部下で、殺害後の遺体処理は別人が行ったとした[29][30]

FBIは捜査で得た情報や証言を元にデトロイトを中心に色々な場所を掘り返したが、ホッファの痕跡を確認できなかった。FBIはガセ情報に何度も振り回されながら今も遺体の在り処を追っている[31]

エピソード

  • 解雇を恐れて組合員になるのを拒否し続けた男が、ある時ホッファの説得であっさり組合員になった。ホッファの、何を聞いても明快に答える態度、確信に満ちた態度に「組合に入るのは正しい行為だ」と思わせられたという[2]
  • トラック運転手の組合のトップに立ったが、彼自身はトラック運転手の経験が一度もなかった。
  • ロバート・ケネディと公聴会で対決したとき、ケネディの父親のジョセフ・P・ケネディ禁酒法時代にマフィアと手を組んで酒の密売で儲けたことを公然と非難した。この際、ホッファはロバート・ケネディを殺害しようと本気で考えていたという。なおロバート・ケネディは1968年に暗殺された。ホッファはジョン・F・ケネディ大統領暗殺の首謀者の1人とする説もある[15]
  • 服役していた1960年代後半、同じ刑務所にいたプロヴェンザノと殴り合いの喧嘩になった。仲間に引き剥がされたが捨て台詞を吐きあった。1970年代初めマイアミビーチで行われたチームスターの組合大会で鉢合わせした時も喧嘩になった[14]。このためホッファが失踪した時、真っ先にプロヴェンザノに疑惑の目が向けられた。一方で、プロヴェンザノとのいがみ合いは個人的なトラブルに過ぎなかったとも、喧嘩エピソードが失踪の黒幕を隠す「目くらまし」に使われたとも言われた。

題材にした作品等

脚注

  1. ^ a b c d e f g h Crimes of the Centuries 2016, Steven Chermak Ph.D.、Frankie Y. Bailey Ph.D., P. 381 - P. 382
  2. ^ a b c Hoffa Arthur A. Sloane, 1991, P. 8 - P. 9
  3. ^ Sloane, P. 15 - P. 16
  4. ^ a b Hoffa's Story: At 18, He Wins His First Strike Chicago Tribune, 1957.7.26
  5. ^ Sloane, P. 15 - P. 16
  6. ^ a b c d e Encyclopedia of U.S. Labor and Working-class History, 第 1 巻, Hoffa, James R Eric Arnesen, 2007, P. 606 - P. 607
  7. ^ 同年にアメリカ労働総同盟・産業別組合会議を除名された。これは、チームスターが前任のデイヴ・ベックの時から基金横領や縁故人事などの腐敗体質が指摘されていたためである。Breaking the Devil’s Pact: The Battle to Free the Teamsters from the Mob James B. Jacobs、Kerry T. Cooperman, P. 211
  8. ^ 組合員数:150万人(1958)、170万人(1962)、200万人(1968)。 Teamsters Timeline, 1950-1971
  9. ^ The Predictable Surprise: The Unraveling of the U.s. Retirement System Sylvester J. Schieber, P. 136
  10. ^ a b c d Jimmy Hoffa La Cosa Nostra Database
  11. ^ 1958年デューンズに400万ドル、1960年スターダストに600万ドル、1961年フリーモントに400万ドル、他シーザーズ・パレス、サーカス・サーカスなど多くのカジノホテルがチームスターの融資で建てられた。Central States, Southeast, Southwest Areas Pension Fund -Online Nevada Encyclopedia
  12. ^ シカゴ清掃組合委員長ポール・"レッド"・ドーフマンの息子。ポールはシカゴ・アウトフィットと強力なコネクションがあった。
  13. ^ Organized Crime Howard Abadinsky、2016, P. 257
  14. ^ a b c d e f The Disappearance of Jimmy Hoffa, 2010 Gangster Inc.
  15. ^ a b c The Hoffa Wars: The Rise and Fall of Jimmy Hoffa Dan E. Moldea
  16. ^ a b Mr. Mob: The Life and Crimes of Moe Dalitz Michael Newton、P. 75.
  17. ^ How St. Louis Labor Leader Harold Gibbons Rose to Power (with the Help of Jimmy Hoffa) St.Louis Magazine, 2011
  18. ^ Along Comes Moe, Las Vegas and The Mob
  19. ^ Chermak & Bailey, P. 382
  20. ^ Chermak & Bailey, P. 382
  21. ^ ジアカローネの愛人シルヴィア・パリスの連れ子で、シルヴィアと一時ホッファ宅に居候していた。シルヴィアと共にジアカローネとホッファ間の連絡役を務めた(1960年代初めのFBI盗聴)。, Corruption and Reform in the Teamsters Union, David Scott Witwer, 2003, P. 169
  22. ^ オブライエンは当日その車を使ったことは認めたが、レストランに行っていないと容疑を否認した。午前中冷凍サーモンを知人宅に運んで解凍を手伝い、午後になってアスレティック・クラブでジアカローネと過ごし、その後サーモンの血が付いた車を洗車しに行ったとアリバイ供述したが、クラブ滞在や洗車場の主張は裏付けが取れなかった。地元警察が捜索犬を使ってその車の後部座席とトランクにホッファの痕跡を確認したが、証拠が弱く、告発に至らなかった。 Chermak & Bailey P. 382 - P. 383
  23. ^ Hoffex Memo、1985年に公表。
  24. ^ Chermak & Bailey, P. 382
  25. ^ Chermak & Bailey P. 382 - P. 383
  26. ^ a b Carl Sifakis, 2005, The Mafia Encyclopedia, Jimmy. R. Hoffa, P. 222 - P. 223
  27. ^ Chermak & Bailey, P. 383
  28. ^ Donald Frankos Said Hoffa Is Buried In Concrete Underneath Star-News - Sep 20, 1989
  29. ^ Man Who Claimed To Be Hoffa's Killer Had Many Regrets Toledo Blade - May 30, 2004
  30. ^ Chermak & Bailey, P. 382
  31. ^ Chermak & Bailey, P. 383

関連項目