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2016年6月8日 (水) 03:57時点における版

野中 五郎
生誕 1910年11月18日
日本の旗 日本 東京府四谷区
死没 (1945-03-21) 1945年3月21日(34歳没)
日本の旗 日本 宮崎県都井岬
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1934 - 1945
最終階級 海軍大佐
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野中 五郎(のなか ごろう、1910年明治43年)11月18日 - 1945年昭和20年)3月21日)は、日本海軍軍人特攻兵器桜花」を擁する神雷部隊指揮官として九州沖航空戦に参加。最終階級は戦死による二階級特進海軍大佐海兵61期卒。

経歴

1910年(明治43年)11月18日東京府四谷で陸軍少将である父野中勝明のもとに生まれる。本籍地(出身)は岡山県岡山市。兄に野中次郎陸軍中佐、二・二六事件の首謀者の一人で自決した野中四郎陸軍大尉がいる。五郎は仲のよかった姉が海軍士官と結婚したことが契機となって海軍を志す。東京府立四中を経て、1933年(昭和8年)11月に海軍兵学校(61期)卒業、少尉候補生。海兵時代は落第を経験する一方で鈴木實と親しかった。1935年(昭和10年)4月海軍少尉任官。1935年10月第27期飛行学生(1936年11月まで)。飛行学生を共に過ごした巌谷二三男海軍少佐によると、べらんめえ調の江戸っ子弁を使い、私室にを焚き、茶の湯を楽しんでいたという[1]艦上攻撃機搭乗員として空母蒼龍」に配属されたが、間もなく陸上攻撃機乗りに転身した。1937年(昭和12年)12月海軍中尉進級。1938年(昭和13年)11月海軍大尉進級。

1941年(昭和16年)9月第1航空隊分隊長。1941年12月太平洋戦争勃発。開戦時はフィリピン空襲に参加。1942年(昭和17年)8月第1航空隊飛行隊長。11月第752航空隊飛行隊長。ギルバート諸島沖航空戦マーシャル諸島沖航空戦で対機動部隊攻撃に参加。1943年(昭和18年)11月海軍少佐進級。1944年(昭和19年)4月攻撃第703飛行隊隊長。

一式陸攻」の機体に吊るされた「桜花

第721航空隊(通称「神雷部隊」)の編成に伴い、野中は「桜花」を搭載して出撃地点まで運ぶ陸攻隊の指揮官として1944年10月第721航空隊飛行長に着任。11月攻撃第711飛行隊長。野中は任侠のような立ち振る舞いを好み、攻撃のことを『殴り込み』といい、自分の飛行機隊を『野中一家』と称していた。野中が陣どる戦闘指揮所の四周は長大な吹き流し南無妙法蓮華経の大旗がはためき、大きな陣太鼓さえ備えられていた[2]。 721空に3名の搭乗員が着任した際、指揮台にて野中ははるか遠くに目を転じながら、「見渡すかぎりの搭乗員、遠路はるばるご苦労…」と任侠の大親分よろしく見得を切ったが、指揮台から降りる際にはうっすらと涙が浮かんでいた。

「桜花」の運用方法が困難であることを知った野中は「この槍、使い難し」と嘆いた。整備分隊長の大島長生海軍大尉は野中について「『こんな軽業みたいなもの兵器じゃねえ』と言っていました。航空本部から担当者が来ていろいろと議論することが多いんですが、野中少佐は食ってかかっていました。『国賊と言われたって反対してやる』と言っていたのも聞きました。『どうせ、おれは出世しねえんだ』と言っていたのは本気だったのか冗談だったのか」と話している[3]

1945年(昭和20年)1月、野中は「おれは桜花作戦を司令部に断念させたい。もちろん自分は必死攻撃を恐れるものではないが、攻撃機を敵まで到達させることができないことが明瞭な戦法を肯定するのは嫌だ。クソの役にも立たない自殺行為に、多数の部下を道づれにすることは耐えられない。司令部では桜花を投下したら陸攻は速やかに帰り、再び出撃せよ、と言っているが、今日まで起居をともにした部下が肉弾となって敵艦に突入するのを見ながら自分たちだけが帰れると思うか」「そんなことは出来ない、桜花投下と同時に自分も目標に体当たりする」と八木田喜好海軍大尉に話している[4]

1945年3月20日、出撃が決まると野中は飛行長岩城邦広海軍少佐に「ろくに戦闘機の無い状況ではまず成功しない。特攻なんてぶっ潰してくれ。これは湊川だよ」と言った[5]。 721空の反対延期の上申は認められず、1945年(昭和20年)3月21日、第721航空隊の陸攻(母機)18機に「桜花」15機を搭載した第一神風特別攻撃隊神雷部隊に出撃命令が下され、野中は指揮官として出撃。野中は出撃の際に「戦わんかな最後の血の一滴まで、太平洋を血の海に」と隊員に訓示を行った[6]。アメリカ第58機動部隊に攻撃を仕掛けるが、遥か手前で迎撃戦闘機に襲撃され全機撃墜され、全滅。野中は戦死した。二階級昇進で海軍大佐。

脚注

  1. ^ 御田重宝『特攻』講談社427頁
  2. ^ 御田重宝『特攻』講談社427頁
  3. ^ 御田重宝『特攻』講談社427-428頁
  4. ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』学習研究社146-147頁、御田重宝『特攻』講談社429-430頁
  5. ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p18、加藤浩『神雷部隊始末記』p202
  6. ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p18

参考文献

第三十六章 昭和二十年三月二十一日の湊川 第一次桜花攻撃隊の全滅内藤初穂) p175~p200