「藤田陽子 (子役)」の版間の差分
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2016年6月8日 (水) 04:42時点における版
ふじた ようこ 藤田 陽子 | |
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生年月日 | 1919年7月25日 |
没年月日 | 不詳年 |
出生地 | 日本・東京市麻布区(現:東京都港区) |
職業 | 子役・女優 |
ジャンル | 映画 |
活動期間 | 1923年 - 1934年 |
著名な家族 | 藤田房子(姉) |
藤田 陽子(ふじた ようこ、1919年7月25日 - 没年不詳)は、日本の子役、女優である。姉は同じ子役、女優の藤田房子。
来歴・人物
東京市麻布区(現在の東京都港区)生まれ。1923年4月、姉・房子と共に松竹蒲田撮影所に入社[1]。同年公開の野村芳亭監督の『母』でデビューした。その後も出演を続け、1926年の『曲馬団の姉妹』(斎藤寅次郎監督)で小桜葉子と共に主演。
この頃の松竹では、高尾光子、小藤田正一、小桜らの子役が評判を集めていて、藤田姉妹も彼女らに負けない人気を保っていた。ただ、姉妹2人では陽子が人気を一歩リードしていた[2]。
1933年公開の日本初のトーキーアニメ『力と女の世の中』に声の出演をする。
1934年に子役から一般女優に昇格したが、この年の終わりに姉と松竹を退社[1][3]。
1935年、姉・房子とともに笑の王国に参加。約一年ほど活動ののち、1936年10月には姉妹ともに退団する。房子はその後古川ロッパ一座に入団するが、陽子は病気療養のため引退[4]。
1938年、大森区新井宿(現・大田区中央)へ転居[5]。その後時期ははっきりしないが、2007年に出版された「古川ロッパ昭和日記」[6]1938年(昭和13年)11月24日の文中によると「藤田房子、妹(陽子)危篤とて東京へ帰ってしまひ」とあるのでこの日以降間もなく没したと思われる[7]。
おもなフィルモグラフィ
すべて松竹蒲田撮影所での作品。 ※*は姉・房子との共演。
- 『母』 1923年 *
- 『感じの好い映画集 猫』 1924年 *
- 『夜の一幕』 1924年
- 『少女の悩み』 1924年
- 『がまぐち』: 監督吉野二郎、1924年 *
- 『小さき真珠』 1925年 *
- 『京子と倭文子』 1926年
- 『運命の子』 1926年
- 『母よ恋し』 1926年
- 『曲馬団の姉妹』 1926年
- 『噫河野巡査』 1926年
- 『九官鳥』 1927年
- 『白虎隊』 1927年 *
- 『炎の空』 1927年
- 『人生の涙』 1927年
- 『故郷の空』 1928年
- 『マルセーユ出帆』 1928年
- 『美しき朋輩たち』 1928年 *
- 『森の鍛冶屋』 1929年 *
- 『不壊の白珠』 1929年
- 『情熱の一夜』 1930年
- 『姉妹篇 母』 1930年
- 『君と別れて』 1933年 *
- 『力と女の世の中』 1933年 * - 声の出演
脚注
- ^ a b 『日本映画人名事典 女優篇・下巻』キネマ旬報社、1995年、p479。執筆者は司馬叡三。
- ^ 『芸能人物事典 明治大正昭和』 日外アソシエーツ、1998年、p503。
- ^ 『キネマの美女 二十世紀ノスタルジア』 文藝春秋、1999年、p140。
- ^ 『都新聞』1936(昭和11年)10月7日付p7演芸欄
- ^ 『都新聞』1938年(昭和13年)5月9日付演芸欄
- ^ 『古川ロッパ昭和日記 戦前篇 昭和9年‐昭和15年』(2007年/晶文社)p133
- ^ 東宝発行所の雑誌『エスエス』1939年(昭和14年)11月号の大辻司郎による記事「ロッパ一座の梅幸・藤田房子 賛」で「その片方の陽ちゃん(陽子)は、若く美しくして亡くなりましたので…」とあるので、遅くともこの年の秋前までに死去していたことがわかる。