「ハリー・R・トルーマン」の版間の差分
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'''ハリー・ランダル・トルーマン'''(Harry Randall Truman, [[1896年]][[10月30日]] - [[1980年]][[5月18日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ワシントン州]][[セント・ヘレンズ山]]近郊に居住し、[[1980年]]のセント・ヘレンズ山の[[噴火]]の際に避難を拒否 |
'''ハリー・ランダル・トルーマン'''(Harry Randall Truman, [[1896年]][[10月30日]] - [[1980年]][[5月18日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ワシントン州]][[セント・ヘレンズ山]]近郊の{{仮リンク|スピリット・レイク|en|Spirit Lake (Washington)}}湖畔に居住していた[[旅館]]『スピリットレイク・ロッジ』のオーナーである。トルーマンはその死の数ヶ月前よりセント・ヘレンズ山の異変を取材に来たアメリカのニュース番組を賑わす存在になり始め、[[1980年]]のセント・ヘレンズ山の[[噴火]]の際に避難を頑なに拒否した末に、最期は噴火の[[火砕流]]に巻き込まれて[[行方不明]]となった。 |
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== 半生 == |
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トルーマンは[[1896年]]に[[ウエストバージニア州]]で生まれ、[[第一次世界大戦]]の際に[[ワシントン州]][[チヘーリス]]に移り住んだ。そして[[スピリット湖]]にあるセント・ヘレンズ山の旅館の経営者となった。トルーマンはそこで16匹の[[ネコ]]と大量の[[バーボン・ウイスキー|バーボン]]に囲まれながら暮らし、桃色の[[キャディラック]]を愛用していた。 |
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トルーマンは[[1896年]]に[[ウエストバージニア州]]{{仮リンク|クレイ郡アイビーデール|en|Ivydale, Clay County, West Virginia}}にて、ニューベリーとロザベル夫妻の長男として誕生する<ref name=HRTH>{{cite web|url=http://freepages.history.rootsweb.ancestry.com/~carmita/Ninja/truman001.htm|title=Harry R. Truman|date=March 4, 2012|accessdate=June 26, 2011|author=Schwartz, Steve}}</ref>。トルーマン一家は{{仮リンク|ワシントン州チェホールズ|en|Chehalis,_Washington}}に在住。父ニューベリーは1923年に伐採作業における事故により49歳で死亡し、母ロザベルは1957年に84歳で死去した。トルーマンの近親は9歳年下の妹のジェラルディン(1905-1987年)ただ一人であった<ref name=HRTH/>。 |
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1917年8月4日、トルーマンは[[アメリカ陸軍航空隊]]{{仮リンク|第100飛行戦隊 (アメリカ軍)|en|100th Aero Squadron}}に入隊し、[[第一次世界大戦]]に従軍した。1918年1月24日、トルーマンは[[ニュージャージー州]][[ホーボーケン_(ニュージャージー州)|ホーボーケン]]より[[イギリス]]船籍の[[客船]]{{仮リンク|トゥスカニア|en|SS_Tuscania_(1914)}}号に乗船して欧州へ派兵された。米英間の[[護送船団]]の任務に[[兵員輸送船]]として従事していたトゥスカニア号には乗員384名と乗客である[[アメリカ陸軍]]兵2,013名が乗船していたが、 同年2月5日、[[アイルランド]]沖を航行中に[[Uボート|独潜水艦]]{{仮リンク|UB-77|en|SM UB-77}}の[[魚雷|雷撃]]を受けて撃沈され、210名が[[戦死]]・[[殉職]]している。トゥスカニア号撃沈から生還したトルーマンは、1919年6月12日に[[アメリカ軍]]を[[除隊]]。[[ワシントン州]][[ルイス郡 (ワシントン州) |ルイス郡]]リッフェに移住し、1926年まで在住した。1926年にスピリット湖にあるセント・ヘレンズ山のロッジの管理人の職を得たトルーマンは、1928年初頭にロッジの権利の半分を購入し、同年後半には残り半分も取得してロッジの正式な経営者となり、その後52年間に渡る余生を同地で送る事となった<ref name=Bull>{{cite news|url=https://news.google.com/newspapers?id=saISAAAAIBAJ&sjid=_vYDAAAAIBAJ&pg=4718,5357603&dq=|title=Mud, ash inundate old Truman's lodge|date=May 21, 1980|work={{仮リンク|ザ・ブルティン|en|The Bulletin (Bend)}}|publisher={{仮リンク|ウエスタン・コミュニケーションズ|en|Western Communications}}}}</ref>。トルーマンは1938年以降、その死去までトゥスカニア号遺族会の会員でもあった<ref name=HRTH/>。 |
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[[1980年]]、セント・ヘレンズ山の火山活動が活発化し、噴火の約2ヶ月前にはセント・ヘレンズ山近郊からの避難が発令された。しかしながらトルーマンはこの避難を拒否し、世間の注目を集めた。トルーマンは[[マスメディア]]からインタビューを受けた際、噴火の危険性は「ひどく誇張されている」と主張した。 |
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トルーマンがスピリット湖畔に移住する事となった切っ掛けは、欧州から帰国した翌年にアメリカが[[アメリカ合衆国における禁酒法|禁酒法]]の時代に突入した事であった。トルーマンはリッフェにて[[ガソリンスタンド]]を経営する傍ら、裏では[[ラム酒]]の大規模な密造にも関与しており、[[マフィア]]は多大な利益を手にしていた彼に対して刺客を差し向ける事を仄めかし始めた。トルーマンは1926年、[[.45ACP弾|45口径]]の[[拳銃]]を片手に家族と共に僻地であるスピリット湖畔のロッジに避難し、管理人として滞在する事となったのである。トルーマンのロッジは200,000平方メートル以上の敷地面積に100部屋以上の個室があり、湖畔では[[ボート]]の[[レンタル]]も行っていた。1937年には[[ワーナー・ブラザース]]の{{仮リンク|ジャック・L・ワーナー|en|Jack L. Warner}}により、トルーマンのロッジをロケ地として[[映画]]『{{仮リンク|大森林|en|God's Country and the Woman}}』が撮影されている<ref name="Dist">[http://www.fanopabo.com/?post/2010/05/15/Vancouver-!-Vancouver-!-This-is-it-! Vancouver ! Vancouver ! This is it !] - Le Distrait、2010年6月14日。</ref>。 |
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そして現地時間の[[1980年]][[5月18日]]8時32分([[協定世界時]]同日15時32分)、セント・ヘレンズ山は123年ぶりに大噴火を起こした。この噴火によりトルーマンは他の56人の住民とともに死亡した。トルーマンの遺体は確認されていないが、旅館とともに9メートルの灰や土石流に埋もれていると推測されている。 |
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トルーマンは最初の[[配偶者]]であるヘレン・アイリーン・ヒューズと、1935年に再婚したマジョリー・ベネットとは離婚しており、1947年に[[結婚]]したエドナ・O・ヘンリックソンとは1978年に死別するまで人生を共にした。ヘレンとの間には一人娘のベティがいたが、1961年8月4日に{{仮リンク|ワシントン州サムナー|en|Sumner, Washington}}にて39歳で死去している<ref name=Bett>{{cite web|url=http://freepages.genealogy.rootsweb.ancestry.com/~jrfitch/jrf/jf49422.htm|title=Betty Jean Truman|date=May 3, 2015|accessdate=July 30, 2016|author=Fitch, Joan}}</ref>。 |
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セント・ヘレンズ山にあるトルーマン道とハリー尾根は、トルーマンにちなんで付けられた。 |
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晩年の彼のロッジには16匹の[[ネコ]]が飼われ、[[自動ピアノ]]の奏でる曲と38本の[[バーボン・ウイスキー]]のボトル、若き日の自身や愛妻の[[ポートレート]]に囲まれながら、母の没年と同じ製造年の桃色の1956-57[[モデルイヤー|年式]][[キャディラック]]を愛用する[[独居老人|独居生活]]を送っていた。その一方でトルーマンにはベティ以外の子はおらず、親戚縁者の数は極僅かであった。1978年に妻エドナに先立たれるとトルーマンは失意に沈み、[[鬱病]]と[[アルコール依存症]]に苦しむ日々を送るようになっていった<ref name="Dist"/>。 |
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[[1981年]]にはトルーマンを主題としたドキュメンタリー映画『St. Helens』が[[アート・カーニー]]主演で製作され、さらに[[1989年]]にはトルーマンを主題とした書物『Truman of St. Helens: The Man & His Mountain』が[[シャーリー・ローゼン]]によって著された。 |
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== つかの間の栄光 == |
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[[1980年]]、セント・ヘレンズ山の火山活動が活発化し、噴火の約2ヶ月前にはセント・ヘレンズ山近郊からの避難が発令された。しかしながらトルーマンはこの避難を拒否し、世間の注目を集めた。トルーマンは[[マスメディア]]からインタビューを受けた際、噴火の危険性は「ひどく誇張されている」と主張し<ref>{{cite news|url=https://news.google.com/newspapers?id=50MyAAAAIBAJ&sjid=T-cFAAAAIBAJ&pg=3106,4578982|title=83-year old Man Isn't Shaken by Mount St. Helens Earthquakes|work={{仮リンク|ローレンス・ジャーナル-ワールド|en|Lawrence Journal-World}}|publisher=The World Company|date=March 25, 1980|accessdate=June 26, 2011}}</ref>、「山がそうなる(噴火する)なら、俺もそれに身を任せるまでさ。このエリアには分厚い森林帯があるし、スピリット湖も俺と山を隔てている。それに山からはかなりの距離がある。山が俺を傷つけるとは思わない。」<ref>{{cite book|last=Green|first=Michael K.|author2=Carlson, Laurie M. |author3=Myers, Susan Allen |title=Washington in the Pacific Northwest|publisher=Gibbs Smith|year=2002|page=29|isbn=978-0-87905-988-0}}</ref>「俺はここで50年以上も暮らしているんだ。もうセント・へレンズ山とスピリット・レイクは俺の体の一部であり、俺もまた山と湖の一部なんだ!」と言い放った。その一方で、ザ・ブルティン誌の取材に因るところでは、トルーマンは頻繁に観測される[[地震]]に備え、[[ベッド]]のマットレスを外して[[地下室]]で就寝するようにしていたという<ref name=Bull/>。 |
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[[野球帽]]を被り、{{仮リンク|シェンリー・インダストリーズ|en|Schenley Industries}}社製バーボンを[[コカ・コーラ]]で割った[[ウイスキー・コーク]]の[[ビアグラス]]を片手に、居並ぶマスコミの前で[[酩酊]]気味に持論をがなり立て、噴火による彼の身の安全を案ずる民衆の懸念を鼻で笑い飛ばし続けるトルーマンは、アメリカのお茶の間のちょっとした人気者となった<ref name=Bull/>。トルーマンの元には全米の子供達から歌や詩が書かれたファンレターが届けられ<ref name=des>{{cite news|url=https://news.google.com/newspapers?id=czQpAAAAIBAJ&sjid=M4MDAAAAIBAJ&pg=6897,4384613&dq=|title=Family, friends say goodbye to Harry|last=Associated Press / United Press International|date=June 16, 1980|publisher=''The Deseret News''}}</ref>、[[オレゴン州]][[セイラム (オレゴン州)|セイラム]]の児童グループからは、「ハリー、私達はあなたを愛しています。」と書かれた[[バナー (旗)|バナー]]が贈られた<ref name=sis>{{cite news|url=https://news.google.com/newspapers?id=M9MvAAAAIBAJ&sjid=PPkDAAAAIBAJ&pg=5277,988696&dq=|title=Sister, friend say Harry probably dead|last=[[AP通信]]|date=May 20, 1980|work={{仮リンク|ザ・スポークスマン-レビュー|en|The Spokesman-Review}}|publisher={{仮リンク|カウルズ・カンパニー|en|Cowles Company}}}}</ref>。トルーマンの元に届くファンレター<ref name=sis/>の中には、トルーマンに対して求婚する内容のものも含まれていたという<ref>{{cite news|title=Harry Truman feared lost on mountain|url=https://news.google.com/newspapers?id=53RbAAAAIBAJ&sjid=9FANAAAAIBAJ&pg=6497,3615013&dq=harry+truman&hl=en|newspaper=The Madison Courier|date=May 24, 1980|page=B5}}</ref>。 |
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大衆感情やメディアの姿勢は、眼前に迫る大災害から人々の命を護るべく悲観的な予測を訴える州当局や火山学者よりも、むしろトルーマンの頑迷なまでの信念を支持する傾向があった。[[科学者]]や国家権力がトルーマンに対して無知で前時代的な田舎者というレッテルを貼れば貼る程、民衆はトルーマンを権力に抵抗する{{仮リンク|民俗英雄|en|Folk_hero}}的な存在して捉えるようになっていった。時の[[ワシントン州知事]]{{仮リンク|ディクシー・リー・レイ|en|Dixy Lee Ray}}は1980年4月3日に[[非常事態宣言]]を発令していたが、セント・ヘレンズ山が水蒸気と灰のみを噴き上げる一時的な小康状態に移行する中、トルーマンを支持する民衆の声や早期の作業再開を求める[[林業]]・[[漁業]]従事者、あるいは[[登山]]者の意見に圧される形でトルーマンに対する特別な危険区域内滞在許可の発行、及び同年5月18日にスピリット湖畔で開催する予定として提出された[[ボーイスカウト]]・コロンビア太平洋協議会所有の[[キャンプ場]]の使用許可申請を承認せざるを得ない事態に追い込まれていた<ref name="Dist"/>。 |
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== 最期 == |
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[[1980年]][[5月18日]]8時32分([[協定世界時]]同日15時32分)、セント・ヘレンズ山は123年ぶりに大噴火を起こした。ロッジにただ一人留まり続けていたトルーマンは、この噴火により発生した火砕流の直撃を受け死亡したと推定されている<ref name=sis/>。大火砕流はスピリット湖畔一帯を破壊し尽くし、トルーマンのロッジとスピリット湖は最大厚さ150フィート(46m)にも及ぶ[[岩屑なだれ]]に埋め尽くされた<ref name=ETEV>{{cite web|url=http://www.cotf.edu/ete/modules/volcanoes/vtruman.html|title=Harry Truman and His 16 Cats|date=January 27, 2011|accessdate=June 26, 2011|publisher={{仮リンク|ホイーリング・イエズス大学|en|Wheeling Jesuit University}}|work=Center for Educational Technologies}}</ref>。トルーマンの遺体は現在に至るまで発見されていないが、ロッジや16匹の愛猫、愛車{{仮リンク|キャデラック・シリーズ62|en|Cadillac Series 62}}とともに9メートルの灰や土石流に埋もれていると推測されている。 |
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トルーマンの妹、ジェラルディンは彼の死の現実をなかなか受け入れようとしなかったが、最終的に「私はハリーが死んだとは思いません。しかし、もし飛行機でハリーのロッジが消滅しているのを見せられたら、多分私はそれを信じざるを得なくなるのだと思います。」というコメントを残している<ref name=Bull/>。 |
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1980年のセント・ヘレンズ山噴火は、北米大陸の[[歴史時代|有史史上]]最も致命的で最も破壊的な火山噴火であり、トルーマン以外にも他の地域に点在していた[[火山学]]者の[[デイヴィッド・ジョンストン]]、[[報道写真]]家の{{仮リンク|リード・ブラックバーン|en|Reid Blackburn}}や{{仮リンク|ロバート・ランズバーグ|en|Robert Landsburg}}を含む56人の住民や登山者、報道関係者が死亡または行方不明となった<ref name=1980eruption>{{cite web|url=http://vulcan.wr.usgs.gov/Volcanoes/MSH/Publications/MSHPPF/MSH_past_present_future.html|title=Report: Eruptions of Mount St. Helens: Past, Present, and Future|author=Topinka, Lyn|publisher=[[United States Geological Survey]]|date=December 27, 2006|accessdate=April 3, 2010}}</ref><ref>[http://www.tdn.com/app/helens/victims.php Victims of Mount St.Helens]</ref><ref>[http://www.olywa.net/radu/valerie/mshvictims.html The Victims of the Eruption]</ref>。 |
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なお、現在のスピリット湖はトルーマンが住んでいた旧スピリット湖よりも70m近く高い標高に再び自然形成された[[湖]]であるが、豊富な森林資源は全て失われ、[[2010年代]]に入っても湖面の40%は未だ噴火当時に周辺丘陵から吹き飛ばされてきた何千本もの倒木による「倒木[[筏]](ツリーマット)」で覆われている。湖底からは有毒な[[火山ガス]]が立ち上り、水中の酸素濃度も1983年の植物性[[プランクトン]]の再出現までは極めて低いレベルに留まり、岩屑なだれにより生成された周辺地形が崩落する[[ラハール]]を防ぐ為に、1985年に作られた重力トンネルにより湖面は常に1,040mが人工的に維持されるという、トルーマンが愛した旧湖とは全く別物の湖に変わり果ててしまった。その後[[漁師]]により[[カエル]]や[[サンショウウオ]]などの[[両生類]]が湖畔に再導入され、[[植林]]なども進められているが、1980年以前の水産・森林資源を回復するには未だ道半ばである。 |
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== 遺産 == |
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[[File:Mount St. Helens eruption memorial, Johnston Ridge.jpg|left|thumb|トルーマンの名が刻まれた火山災害犠牲者の[[慰霊碑]]]] |
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トルーマンは生前の時点で避難の呼び掛けに抵抗する「民俗英雄」的な地位にあった<ref name=Bull/>。トルーマンの死後、彼の友人や妹のジェラルディン(ジェリー)を含む彼の家族は、彼の死に次のように反応した。ジェリーは「兄はとても頑固な人でした。」と語り、友人のジョン・ガリテは「セント・へレンズ山とスピリット湖は彼の人生そのものだった。彼から山と湖を奪う事は、彼を殺すのに等しい事だ。彼はいつもスピリット・レイクで死にたいと言っていた。彼は自身が望むとおりの最期を遂げたのだ。」と述べた。別の友人のジョン・アンダーセンは「ハリーの名前と存在は、常にスピリット湖の一部で在り続けた。同地に彼以上の記念物は全く無いであろう。」と語り、トルーマンの従兄弟であるリチャード・アイスは「彼はとても早口で、大声でまくし立てる人だったが、全ての主題について明確な意見を持っていた。」と述べている。アイスはまた「[[著名人]]として過ごした短い期間が、彼の人生の頂点であったのだろう。」とも述べた。 |
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[[1981年]]にはトルーマンを主題とした[[ドキュメンタリー]]映画『{{仮リンク|セント・ヘレンズ (映画)|en|St. Helens (film)}}』が[[アート・カーニー]]主演で製作され、さらに[[1989年]]にはトルーマンを主題とした書物『Truman of St. Helens: The Man & His Mountain』が[[シャーリー・ローゼン]]によって著された<ref>{{cite book |last = Rosen |first = Shirley |title = Truman of St. Helens: The Man & His Mountain |publisher = Seattle: Madrona Publishers; Longview: Longview Pub. Co. |year = 1981 |page= 163 |isbn = 0-914842-57-9}}</ref>。[[アイルランド]]の[[ロックバンド]]、{{仮リンク|ヘッドギア (バンド)|en|Headgear (band)}}は彼を題材とした楽曲「ハリー・トルーマン」をリリースし、[[歌詞]]のリフレインに「お前が山を動かす事が出来ても、俺は決して山を下りない」という一節を添えた<ref name=HRTH/>。トルーマンを題材としたもう一つの楽曲は1980年にルーラ・ベル・ガーランドによって作詞され、ロン・ショー&ザ・デザートウインド・バンドにより演奏された『The Legend of Harry And The Mountain.』という曲である。 |
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さらに近年、[[シンガーソングライター]]の{{仮リンク|ビリー・ジョナス|en|Billy Jonas}}が2002年にリリースした「オールド・セントヘレン」という曲の中で、トルーマンの逸話について言及している<ref>{{Cite web|title = Billy Jonas and the Billy Jonas Band : What Kind Of Cat Are You?! (for family/young audiences) : Old St. Helen|url = http://www.billyjonas.com/index.php?page=songs&display=69|website = Billy Jonas|access-date = 2016-01-21}}</ref>。 |
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セント・ヘレンズ山にあるトルーマン道(トルーマン・トレイル)とハリー尾根(ハリー・リッジ)は、トルーマンの名にちなんで付けられた。トルーマンは16匹の猫を家族の一員として飼育していた事でも有名であり、ほとんど全ての公式声明の中で愛猫について言及していた。猫達は噴火の日に彼と運命を共にしたものと推定されている<ref name=ETEV/>。 |
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== 脚注 == |
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<references /> |
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== 関連書籍 == |
== 関連書籍 == |
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[[Category:1980年没]] |
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2016年12月6日 (火) 16:23時点における版
ハリー・ランダル・トルーマン(Harry Randall Truman, 1896年10月30日 - 1980年5月18日)は、アメリカのワシントン州セント・ヘレンズ山近郊のスピリット・レイク湖畔に居住していた旅館『スピリットレイク・ロッジ』のオーナーである。トルーマンはその死の数ヶ月前よりセント・ヘレンズ山の異変を取材に来たアメリカのニュース番組を賑わす存在になり始め、1980年のセント・ヘレンズ山の噴火の際に避難を頑なに拒否した末に、最期は噴火の火砕流に巻き込まれて行方不明となった。
半生
トルーマンは1896年にウエストバージニア州クレイ郡アイビーデールにて、ニューベリーとロザベル夫妻の長男として誕生する[1]。トルーマン一家はワシントン州チェホールズに在住。父ニューベリーは1923年に伐採作業における事故により49歳で死亡し、母ロザベルは1957年に84歳で死去した。トルーマンの近親は9歳年下の妹のジェラルディン(1905-1987年)ただ一人であった[1]。
1917年8月4日、トルーマンはアメリカ陸軍航空隊第100飛行戦隊 (アメリカ軍)に入隊し、第一次世界大戦に従軍した。1918年1月24日、トルーマンはニュージャージー州ホーボーケンよりイギリス船籍の客船トゥスカニア号に乗船して欧州へ派兵された。米英間の護送船団の任務に兵員輸送船として従事していたトゥスカニア号には乗員384名と乗客であるアメリカ陸軍兵2,013名が乗船していたが、 同年2月5日、アイルランド沖を航行中に独潜水艦UB-77の雷撃を受けて撃沈され、210名が戦死・殉職している。トゥスカニア号撃沈から生還したトルーマンは、1919年6月12日にアメリカ軍を除隊。ワシントン州ルイス郡リッフェに移住し、1926年まで在住した。1926年にスピリット湖にあるセント・ヘレンズ山のロッジの管理人の職を得たトルーマンは、1928年初頭にロッジの権利の半分を購入し、同年後半には残り半分も取得してロッジの正式な経営者となり、その後52年間に渡る余生を同地で送る事となった[2]。トルーマンは1938年以降、その死去までトゥスカニア号遺族会の会員でもあった[1]。
トルーマンがスピリット湖畔に移住する事となった切っ掛けは、欧州から帰国した翌年にアメリカが禁酒法の時代に突入した事であった。トルーマンはリッフェにてガソリンスタンドを経営する傍ら、裏ではラム酒の大規模な密造にも関与しており、マフィアは多大な利益を手にしていた彼に対して刺客を差し向ける事を仄めかし始めた。トルーマンは1926年、45口径の拳銃を片手に家族と共に僻地であるスピリット湖畔のロッジに避難し、管理人として滞在する事となったのである。トルーマンのロッジは200,000平方メートル以上の敷地面積に100部屋以上の個室があり、湖畔ではボートのレンタルも行っていた。1937年にはワーナー・ブラザースのジャック・L・ワーナーにより、トルーマンのロッジをロケ地として映画『大森林』が撮影されている[3]。
トルーマンは最初の配偶者であるヘレン・アイリーン・ヒューズと、1935年に再婚したマジョリー・ベネットとは離婚しており、1947年に結婚したエドナ・O・ヘンリックソンとは1978年に死別するまで人生を共にした。ヘレンとの間には一人娘のベティがいたが、1961年8月4日にワシントン州サムナーにて39歳で死去している[4]。
晩年の彼のロッジには16匹のネコが飼われ、自動ピアノの奏でる曲と38本のバーボン・ウイスキーのボトル、若き日の自身や愛妻のポートレートに囲まれながら、母の没年と同じ製造年の桃色の1956-57年式キャディラックを愛用する独居生活を送っていた。その一方でトルーマンにはベティ以外の子はおらず、親戚縁者の数は極僅かであった。1978年に妻エドナに先立たれるとトルーマンは失意に沈み、鬱病とアルコール依存症に苦しむ日々を送るようになっていった[3]。
つかの間の栄光
1980年、セント・ヘレンズ山の火山活動が活発化し、噴火の約2ヶ月前にはセント・ヘレンズ山近郊からの避難が発令された。しかしながらトルーマンはこの避難を拒否し、世間の注目を集めた。トルーマンはマスメディアからインタビューを受けた際、噴火の危険性は「ひどく誇張されている」と主張し[5]、「山がそうなる(噴火する)なら、俺もそれに身を任せるまでさ。このエリアには分厚い森林帯があるし、スピリット湖も俺と山を隔てている。それに山からはかなりの距離がある。山が俺を傷つけるとは思わない。」[6]「俺はここで50年以上も暮らしているんだ。もうセント・へレンズ山とスピリット・レイクは俺の体の一部であり、俺もまた山と湖の一部なんだ!」と言い放った。その一方で、ザ・ブルティン誌の取材に因るところでは、トルーマンは頻繁に観測される地震に備え、ベッドのマットレスを外して地下室で就寝するようにしていたという[2]。
野球帽を被り、シェンリー・インダストリーズ社製バーボンをコカ・コーラで割ったウイスキー・コークのビアグラスを片手に、居並ぶマスコミの前で酩酊気味に持論をがなり立て、噴火による彼の身の安全を案ずる民衆の懸念を鼻で笑い飛ばし続けるトルーマンは、アメリカのお茶の間のちょっとした人気者となった[2]。トルーマンの元には全米の子供達から歌や詩が書かれたファンレターが届けられ[7]、オレゴン州セイラムの児童グループからは、「ハリー、私達はあなたを愛しています。」と書かれたバナーが贈られた[8]。トルーマンの元に届くファンレター[8]の中には、トルーマンに対して求婚する内容のものも含まれていたという[9]。
大衆感情やメディアの姿勢は、眼前に迫る大災害から人々の命を護るべく悲観的な予測を訴える州当局や火山学者よりも、むしろトルーマンの頑迷なまでの信念を支持する傾向があった。科学者や国家権力がトルーマンに対して無知で前時代的な田舎者というレッテルを貼れば貼る程、民衆はトルーマンを権力に抵抗する民俗英雄的な存在して捉えるようになっていった。時のワシントン州知事ディクシー・リー・レイは1980年4月3日に非常事態宣言を発令していたが、セント・ヘレンズ山が水蒸気と灰のみを噴き上げる一時的な小康状態に移行する中、トルーマンを支持する民衆の声や早期の作業再開を求める林業・漁業従事者、あるいは登山者の意見に圧される形でトルーマンに対する特別な危険区域内滞在許可の発行、及び同年5月18日にスピリット湖畔で開催する予定として提出されたボーイスカウト・コロンビア太平洋協議会所有のキャンプ場の使用許可申請を承認せざるを得ない事態に追い込まれていた[3]。
最期
1980年5月18日8時32分(協定世界時同日15時32分)、セント・ヘレンズ山は123年ぶりに大噴火を起こした。ロッジにただ一人留まり続けていたトルーマンは、この噴火により発生した火砕流の直撃を受け死亡したと推定されている[8]。大火砕流はスピリット湖畔一帯を破壊し尽くし、トルーマンのロッジとスピリット湖は最大厚さ150フィート(46m)にも及ぶ岩屑なだれに埋め尽くされた[10]。トルーマンの遺体は現在に至るまで発見されていないが、ロッジや16匹の愛猫、愛車キャデラック・シリーズ62とともに9メートルの灰や土石流に埋もれていると推測されている。
トルーマンの妹、ジェラルディンは彼の死の現実をなかなか受け入れようとしなかったが、最終的に「私はハリーが死んだとは思いません。しかし、もし飛行機でハリーのロッジが消滅しているのを見せられたら、多分私はそれを信じざるを得なくなるのだと思います。」というコメントを残している[2]。
1980年のセント・ヘレンズ山噴火は、北米大陸の有史史上最も致命的で最も破壊的な火山噴火であり、トルーマン以外にも他の地域に点在していた火山学者のデイヴィッド・ジョンストン、報道写真家のリード・ブラックバーンやロバート・ランズバーグを含む56人の住民や登山者、報道関係者が死亡または行方不明となった[11][12][13]。
なお、現在のスピリット湖はトルーマンが住んでいた旧スピリット湖よりも70m近く高い標高に再び自然形成された湖であるが、豊富な森林資源は全て失われ、2010年代に入っても湖面の40%は未だ噴火当時に周辺丘陵から吹き飛ばされてきた何千本もの倒木による「倒木筏(ツリーマット)」で覆われている。湖底からは有毒な火山ガスが立ち上り、水中の酸素濃度も1983年の植物性プランクトンの再出現までは極めて低いレベルに留まり、岩屑なだれにより生成された周辺地形が崩落するラハールを防ぐ為に、1985年に作られた重力トンネルにより湖面は常に1,040mが人工的に維持されるという、トルーマンが愛した旧湖とは全く別物の湖に変わり果ててしまった。その後漁師によりカエルやサンショウウオなどの両生類が湖畔に再導入され、植林なども進められているが、1980年以前の水産・森林資源を回復するには未だ道半ばである。
遺産
トルーマンは生前の時点で避難の呼び掛けに抵抗する「民俗英雄」的な地位にあった[2]。トルーマンの死後、彼の友人や妹のジェラルディン(ジェリー)を含む彼の家族は、彼の死に次のように反応した。ジェリーは「兄はとても頑固な人でした。」と語り、友人のジョン・ガリテは「セント・へレンズ山とスピリット湖は彼の人生そのものだった。彼から山と湖を奪う事は、彼を殺すのに等しい事だ。彼はいつもスピリット・レイクで死にたいと言っていた。彼は自身が望むとおりの最期を遂げたのだ。」と述べた。別の友人のジョン・アンダーセンは「ハリーの名前と存在は、常にスピリット湖の一部で在り続けた。同地に彼以上の記念物は全く無いであろう。」と語り、トルーマンの従兄弟であるリチャード・アイスは「彼はとても早口で、大声でまくし立てる人だったが、全ての主題について明確な意見を持っていた。」と述べている。アイスはまた「著名人として過ごした短い期間が、彼の人生の頂点であったのだろう。」とも述べた。
1981年にはトルーマンを主題としたドキュメンタリー映画『セント・ヘレンズ (映画)』がアート・カーニー主演で製作され、さらに1989年にはトルーマンを主題とした書物『Truman of St. Helens: The Man & His Mountain』がシャーリー・ローゼンによって著された[14]。アイルランドのロックバンド、ヘッドギア (バンド)は彼を題材とした楽曲「ハリー・トルーマン」をリリースし、歌詞のリフレインに「お前が山を動かす事が出来ても、俺は決して山を下りない」という一節を添えた[1]。トルーマンを題材としたもう一つの楽曲は1980年にルーラ・ベル・ガーランドによって作詞され、ロン・ショー&ザ・デザートウインド・バンドにより演奏された『The Legend of Harry And The Mountain.』という曲である。
さらに近年、シンガーソングライターのビリー・ジョナスが2002年にリリースした「オールド・セントヘレン」という曲の中で、トルーマンの逸話について言及している[15]。
セント・ヘレンズ山にあるトルーマン道(トルーマン・トレイル)とハリー尾根(ハリー・リッジ)は、トルーマンの名にちなんで付けられた。トルーマンは16匹の猫を家族の一員として飼育していた事でも有名であり、ほとんど全ての公式声明の中で愛猫について言及していた。猫達は噴火の日に彼と運命を共にしたものと推定されている[10]。
脚注
- ^ a b c d Schwartz, Steve (March 4, 2012). “Harry R. Truman”. June 26, 2011閲覧。
- ^ a b c d e “Mud, ash inundate old Truman's lodge”. ザ・ブルティン (ウエスタン・コミュニケーションズ). (May 21, 1980)
- ^ a b c Vancouver ! Vancouver ! This is it ! - Le Distrait、2010年6月14日。
- ^ Fitch, Joan (May 3, 2015). “Betty Jean Truman”. July 30, 2016閲覧。
- ^ “83-year old Man Isn't Shaken by Mount St. Helens Earthquakes”. ローレンス・ジャーナル-ワールド (The World Company). (March 25, 1980) June 26, 2011閲覧。
- ^ Green, Michael K.; Carlson, Laurie M.; Myers, Susan Allen (2002). Washington in the Pacific Northwest. Gibbs Smith. p. 29. ISBN 978-0-87905-988-0
- ^ Associated Press / United Press International (June 16, 1980). “Family, friends say goodbye to Harry”. The Deseret News
- ^ a b c AP通信 (May 20, 1980). “Sister, friend say Harry probably dead”. ザ・スポークスマン-レビュー (カウルズ・カンパニー)
- ^ “Harry Truman feared lost on mountain”. The Madison Courier: p. B5. (May 24, 1980)
- ^ a b “Harry Truman and His 16 Cats”. Center for Educational Technologies. ホイーリング・イエズス大学 (January 27, 2011). June 26, 2011閲覧。
- ^ Topinka, Lyn (December 27, 2006). “Report: Eruptions of Mount St. Helens: Past, Present, and Future”. United States Geological Survey. April 3, 2010閲覧。
- ^ Victims of Mount St.Helens
- ^ The Victims of the Eruption
- ^ Rosen, Shirley (1981). Truman of St. Helens: The Man & His Mountain. Seattle: Madrona Publishers; Longview: Longview Pub. Co.. p. 163. ISBN 0-914842-57-9
- ^ “Billy Jonas and the Billy Jonas Band : What Kind Of Cat Are You?! (for family/young audiences) : Old St. Helen”. Billy Jonas. 2016年1月21日閲覧。
関連書籍
- Shirley Rosen (1989). Truman of St. Helens: The Man & His Mountain. (ISBN 0962329711)