「宗徧流」の版間の差分
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[[山田宗偏|山田宗徧]]は、[[本願寺]]第10世[[証如]]に仕えた周善(仁科盛俊)が開いた[[長徳寺]]の第5世にあたり、本姓は[[仁科氏|仁科]]である。父より長徳寺を受け継ぎ周覚宗円と号したが、茶道を好み長徳寺を辞して母方の姓の山田を名乗った。[[承保]]元年([[1652年]])に[[千宗旦]]のもとで皆伝を得て、洛北鳴滝村三宝寺に庵を結んだ。このとき宗旦から贈られた四方釜にちなんで、大徳寺の翠厳から四方庵の額を受けている。[[明暦]]元年([[1655年]])宗旦の推挙で[[三河国|三河]][[三河吉田藩|吉田藩]]の[[小笠原忠知]]に仕えた折りに、宗旦は利休以来の不審庵、自らの隠居の今日庵の庵号を用いることを許している。その後[[元禄]]10年([[1697年]])[[小笠原長重]]が[[武蔵国|武蔵]][[岩槻藩]]に転封となるまで4代にわたって仕え、職を辞して江戸郊外の[[本所 (墨田区)|本所]]に茶室を構えて多くの門人を集めた。中でも豪商の鳥居宗逸には今日庵、三河[[新城藩]]主の[[菅沼定実]]には四方庵の庵号を譲り、自らは不審庵を称した。以来、山田家代々で小笠原家の茶堂を務めていたが、小笠原家領地だけでなく江戸下屋敷の近くにも茶室を構えていた。とくに4世宗也は宗徧流中興と称せられる。 |
[[山田宗偏|山田宗徧]]は、[[本願寺]]第10世[[証如]]に仕えた周善(仁科盛俊)が開いた[[長徳寺]]の第5世にあたり、本姓は[[仁科氏|仁科]]である。父より長徳寺を受け継ぎ周覚宗円と号したが、茶道を好み長徳寺を辞して母方の姓の山田を名乗った。[[承保]]元年([[1652年]])に[[千宗旦]]のもとで皆伝を得て、洛北鳴滝村三宝寺に庵を結んだ。このとき宗旦から贈られた四方釜にちなんで、大徳寺の翠厳から四方庵の額を受けている。[[明暦]]元年([[1655年]])宗旦の推挙で[[三河国|三河]][[三河吉田藩|吉田藩]]の[[小笠原忠知]]に仕えた折りに、宗旦は利休以来の不審庵、自らの隠居の今日庵の庵号を用いることを許している。その後[[元禄]]10年([[1697年]])[[小笠原長重]]が[[武蔵国|武蔵]][[岩槻藩]]に転封となるまで4代にわたって仕え、職を辞して江戸郊外の[[本所 (墨田区)|本所]]に茶室を構えて多くの門人を集めた。中でも豪商の鳥居宗逸には今日庵、三河[[新城藩]]主の[[菅沼定実]]には四方庵の庵号を譲り、自らは不審庵を称した。以来、山田家代々で小笠原家の茶堂を務めていたが、小笠原家領地だけでなく江戸下屋敷の近くにも茶室を構えていた。とくに4世宗也は宗徧流中興と称せられる。 |
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8世[[山田宗有|宗有]]は実業家山田寅次郎として、特に[[トルコ]]との交流で知られている。明治23年(1890年)、日本よりの帰途にあった親善使節を乗せた[[オスマン帝国]]軍艦[[エルトゥールル (フリゲート)|エルトゥールル号]]が[[紀伊半島]]沖で難破沈没した。山田寅次郎は遺族に贈る義捐金を集め、[[青木周蔵]]外相の意によりトルコに赴き、皇帝[[アブデュルハミト2世]]の求めに応じて滞在を続けた。一時帰国の後も[[イスタンブル]]に中村商店を開いて18年間に渡って日本とトルコの間を行き来している。滞在中は通商や文化交流に貢献し宮廷で茶の湯を披露するなどのほか、[[日露戦争]]に際してロシア軍艦の[[ボスポラス海峡]]通過を日本に打電するという逸事がある。ただし7世宗寿没後40年間の期間、宗徧流は家元不在となったままであった。大正12年(1923年)にようやく8世を継承すると、[[三島製紙]]の経営のかたわら宗徧流の振興に尽力した。 |
8世[[山田宗有|宗有]]は実業家山田寅次郎として、特に[[トルコ]]との交流で知られている。明治23年(1890年)、日本よりの帰途にあった親善使節を乗せた[[オスマン帝国]]軍艦[[エルトゥールル (フリゲート)|エルトゥールル号]]が[[紀伊半島]]沖で難破沈没した。山田寅次郎は遺族に贈る義捐金を集め、[[青木周蔵]]外相の意によりトルコに赴き、皇帝[[アブデュルハミト2世]]の求めに応じて滞在を続けた。一時帰国の後も[[イスタンブール]]に中村商店を開いて18年間に渡って日本とトルコの間を行き来している。滞在中は通商や文化交流に貢献し宮廷で茶の湯を披露するなどのほか、[[日露戦争]]に際してロシア軍艦の[[ボスポラス海峡]]通過を日本に打電するという逸事がある。ただし7世宗寿没後40年間の期間、宗徧流は家元不在となったままであった。大正12年(1923年)にようやく8世を継承すると、[[三島製紙]]の経営のかたわら宗徧流の振興に尽力した。 |
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2016年10月18日 (火) 11:22時点における版
宗徧流(そうへんりゅう)は、山田宗徧に始まる茶道の一派。現在家元は神奈川県鎌倉市にあり、財団法人として茶道宗徧流不審庵がある。
歴史
山田宗徧は、本願寺第10世証如に仕えた周善(仁科盛俊)が開いた長徳寺の第5世にあたり、本姓は仁科である。父より長徳寺を受け継ぎ周覚宗円と号したが、茶道を好み長徳寺を辞して母方の姓の山田を名乗った。承保元年(1652年)に千宗旦のもとで皆伝を得て、洛北鳴滝村三宝寺に庵を結んだ。このとき宗旦から贈られた四方釜にちなんで、大徳寺の翠厳から四方庵の額を受けている。明暦元年(1655年)宗旦の推挙で三河吉田藩の小笠原忠知に仕えた折りに、宗旦は利休以来の不審庵、自らの隠居の今日庵の庵号を用いることを許している。その後元禄10年(1697年)小笠原長重が武蔵岩槻藩に転封となるまで4代にわたって仕え、職を辞して江戸郊外の本所に茶室を構えて多くの門人を集めた。中でも豪商の鳥居宗逸には今日庵、三河新城藩主の菅沼定実には四方庵の庵号を譲り、自らは不審庵を称した。以来、山田家代々で小笠原家の茶堂を務めていたが、小笠原家領地だけでなく江戸下屋敷の近くにも茶室を構えていた。とくに4世宗也は宗徧流中興と称せられる。
8世宗有は実業家山田寅次郎として、特にトルコとの交流で知られている。明治23年(1890年)、日本よりの帰途にあった親善使節を乗せたオスマン帝国軍艦エルトゥールル号が紀伊半島沖で難破沈没した。山田寅次郎は遺族に贈る義捐金を集め、青木周蔵外相の意によりトルコに赴き、皇帝アブデュルハミト2世の求めに応じて滞在を続けた。一時帰国の後もイスタンブールに中村商店を開いて18年間に渡って日本とトルコの間を行き来している。滞在中は通商や文化交流に貢献し宮廷で茶の湯を披露するなどのほか、日露戦争に際してロシア軍艦のボスポラス海峡通過を日本に打電するという逸事がある。ただし7世宗寿没後40年間の期間、宗徧流は家元不在となったままであった。大正12年(1923年)にようやく8世を継承すると、三島製紙の経営のかたわら宗徧流の振興に尽力した。
歴代
世 | 道号法諱 | 生没年月日 | 備考 |
---|---|---|---|
一 | 周学宗徧 | 1627年-1708年4月2日 | |
二 | 留学宗引 | 1668年-1724年3月29日 | 初代宗偏の甥、婿養子 |
三 | 江学宗円 | 1710年-1757年3月20日 | 初代宗偏の孫 |
四 | 漸学宗也 | 1743年-1804年4月1日 | 三代宗円の子 |
五 | 靖学宗俊 | 1790年-1835年1月3日 | 四代宗也の子 |
六 | 義明宗学 | 1811年-1863年4月24日 | 宗偏流時習軒派吉田家からの養子 |
七 | 宗寿 | 1818年-1883年8月22日 | 六代宗学の妻 |
八 | 外学宗有 | 1866年-1957年2月13日 | 沼田藩江戸家老の中村家からの養子 |
九 | 幽香宗白 | 1900年-1971年4月20日 | 八代宗有の長女 |
十 | 成学宗囲 | 1908年-1987年 | 八代宗有の長男 |
十一 | 宗徧 | 1966年- | 宋有の孫、幽々斎と号す |
関連項目
外部リンク
参考文献
- 山田宗囲「宗徧流」『日本の茶家』河原書店
- 宮帯出版社編集部「茶道家元系譜」『茶湯手帳』宮帯出版社