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「イヴァン・アイヴァゾフスキー」の版間の差分

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[[Image:Aivasovsky Ivan Constantinovich Moonlit Seascape With Shipwreck.jpg|thumbnail|'''月明かりの海と難破船'''|258px]]
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[[1845年]]に[[スルタン]]の[[アブデュルメジト1世]]に招聘されて[[イスタンブル]]に行き、その後も含めて[[1890年]]まで計8回同市を訪れた。イスタンブルに長期滞在中に、[[オスマン帝国]]の[[宮廷画家]]に任命され、歴代皇帝([[アブデュルメジト1世]]、[[アブデュルアズィズ]]、[[アブデュルハミト2世]])から数々の作品を委嘱されている。そのうち30点は現在も[[ドルマバフチェ宮殿]]に飾られており、その他の多くの委嘱作品は、[[トルコ]]のさまざまな美術館に展示されている。


[[Image:Aivasovsky Ivan Constantinovich The Caucasus.jpg|thumbnail|'''カフカス山脈'''|300px|left]]
[[Image:Aivasovsky Ivan Constantinovich The Caucasus.jpg|thumbnail|'''カフカス山脈'''|300px|left]]

2016年10月18日 (火) 11:28時点における版

座礁

イヴァン・コンスタンチノヴィチ・アイヴァゾフスキーロシア語: Иван Константинович Айвазовский, 1817年7月29日 - 1900年5月5日)は、ウクライナ生れの帝政ロシアの画家。民族的にはアルメニア人で、作品のいくつかにアルメニア文字で本名ホヴァネス・アイヴァジヤーンՀովհաննես Այվազյան)と記入している。

おびただしい数の風景画を残したが、その大半が海をモチーフにしており、ウィンズロウ・ホーマーと並ぶ海洋画家である。

第九の波涛(または単に「怒涛」とも)

クリミア半島フェオドシヤに、貧しいアルメニア人を両親に生れる。傑出した画才ゆえに援助金を受けてシンフェロポリギムナジウムに入学。その後はペテルブルク美術アカデミーに進み、金メダルを得て卒業した。初期の風景画や海洋画で稼いだ賞金でクリミアに行き、黒海沿岸の諸都市で肖像画家として活動した後、ヨーロッパ各地を旅して回った。後に海洋画の評判によってロシア海軍から長年にわたって作品を委嘱されるようになった。

月明かりの海と難破船

1845年スルタンアブデュルメジト1世に招聘されてイスタンブールに行き、その後も含めて1890年まで計8回同市を訪れた。イスタンブルに長期滞在中に、オスマン帝国宮廷画家に任命され、歴代皇帝(アブデュルメジト1世アブデュルアズィズアブデュルハミト2世)から数々の作品を委嘱されている。そのうち30点は現在もドルマバフチェ宮殿に飾られており、その他の多くの委嘱作品は、トルコのさまざまな美術館に展示されている。

カフカス山脈

長寿に恵まれたおかげで、当時としてはロシアで最も多作な画家となり、1900年に歿したときには優に6000点を超える作品を残した。芸術家としての成功で得られた資金により、故郷のフェオドシヤに美術学校や美術館を開いている。アイヴァゾフスキー作品は、競売の売上がこれまで総額320万ドルに達しており、国際的な評価は伸び続けている。そのためか、ロシアのすべての画家の中でも最も贋作が多いと言われている。

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