「アゴスティーノ・バルバリーゴ」の版間の差分
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[[オスマン帝国]]の[[スルターン]]、[[バヤズィト2世]]と友好関係にあったが、バヤズィトの西欧嫌いから1492年頃から悪化し、1499年から戦争状態となった。[[イスタンブール]]にいるヴェネツィア商人が身柄を拘束され、ヴェネツィアにほど近い[[ボスニア]]へトルコ軍が侵攻した。トルコ軍はヴェネツィア支配下にある[[ダルマティア]]に兵を進め、[[ザダル]]に到達した。ゾンチーノの戦いで共和国は敗退し、[[レパント]]での拠点を失った。 |
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4年の戦争ののち停戦し、ヴェネツィアの海外中継地は、[[モレア]]や[[ナフプリオ]]など限られた[[ギリシャ]]の諸都市にのみ限られるようになった。 |
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2016年10月18日 (火) 11:35時点における版
アゴスティーノ・バルバリーゴと呼ばれる人物には下記がある。
アゴスティーノ・バルバリーゴ (Agostino Barbarigo、1420年 - 1501年)は、ヴェネツィアの元首(ドージェ)(在任:1486年-1501年)。
73代元首マルコ・バルバリーゴの弟にあたる。
オスマン帝国のスルターン、バヤズィト2世と友好関係にあったが、バヤズィトの西欧嫌いから1492年頃から悪化し、1499年から戦争状態となった。イスタンブールにいるヴェネツィア商人が身柄を拘束され、ヴェネツィアにほど近いボスニアへトルコ軍が侵攻した。トルコ軍はヴェネツィア支配下にあるダルマティアに兵を進め、ザダルに到達した。ゾンチーノの戦いで共和国は敗退し、レパントでの拠点を失った。
4年の戦争ののち停戦し、ヴェネツィアの海外中継地は、モレアやナフプリオなど限られたギリシャの諸都市にのみ限られるようになった。
→詳細は「en:Agostino Barbarigo (admiral)」を参照
アゴスティーノ・バルバリーゴ(Agostino Barbarigo、1516年1月22日 - 1571年10月9日)は、ヴェネツィアの名門・バルバリーゴ家出身の指揮官。
神聖同盟軍の左翼の総指揮をとる。ヴェネツィア艦隊総司令官セバスティアーノ・ヴェニエルの補佐役として、副司令官(プロベディトーレ・ジュネラーレ=参謀長)の立場にあった。1571年、レパントの海戦において左翼の総司令官としてマホメット・シャルーク(シロッコ)率いるトルコ艦隊右翼との戦闘中、右目に重傷を負い三日後に亡くなった。
塩野七生の小説「レパントの海戦」の主人公として描かれた人物である。