「スティーヴン・ランシマン」の版間の差分
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ドクスフォードの初代ランシマン子爵ウォルター・ランシマンの第二子として生まれ、11歳にして[[フランス語]]・[[ラテン語]]・[[ギリシア語]]・[[ロシア語]]に通じたという。[[イートン校]]および[[ケンブリッジ大学]]の[[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]で学ぶ。イートン校では勅定奨学生であった。[[1927年]]から[[1938年]]までトリニティ・カレッジで特別研究員として研究を続け、そのかたわらケンブリッジ大学の講師をつとめた。 |
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[[1940年]]に[[ブルガリア]]の[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]駐在イギリス公使館の広報官となり、[[1941年]]に[[カイロ]]のイギリス大使館に転勤。[[1942年]]から[[1945年]]まで[[イスタンブル大学]]で[[ビザンティン美術|ビザンツ芸術]]と[[東ローマ帝国]]史を講じ、[[1945年]]から[[1947年]]まで[[ギリシア]]におけるイギリス文化振興会([[:en:British Council|British Council]])の代表をつとめている。 |
[[1940年]]に[[ブルガリア]]の[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]駐在イギリス公使館の広報官となり、[[1941年]]に[[カイロ]]のイギリス大使館に転勤。[[1942年]]から[[1945年]]まで[[イスタンブール大学]]で[[ビザンティン美術|ビザンツ芸術]]と[[東ローマ帝国]]史を講じ、[[1945年]]から[[1947年]]まで[[ギリシア]]におけるイギリス文化振興会([[:en:British Council|British Council]])の代表をつとめている。 |
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[[1953年]]から[[1954年]]までは[[オックスフォード大学]]の聖メアリ・モードリン・カレッジでウェインフリート講義を、[[1960年]]と[[1961年]]には[[セント・アンドルーズ大学 (スコットランド)|セント・アンドルーズ大学]]で[[ギフォード講義]]をそれぞれつとめ、[[1965年]]からイギリス=ギリシア協会の会長であった。[[1958年]]にナイトを授爵。その他、[[大英博物館]]の評議員・[[英国学士院]]の会員{{要出典|date=2016年1月29日 (金) 14:12 (UTC)}}・アメリカやギリシアの学士院や学界での名誉会員などを兼ねていた。 |
[[1953年]]から[[1954年]]までは[[オックスフォード大学]]の聖メアリ・モードリン・カレッジでウェインフリート講義を、[[1960年]]と[[1961年]]には[[セント・アンドルーズ大学 (スコットランド)|セント・アンドルーズ大学]]で[[ギフォード講義]]をそれぞれつとめ、[[1965年]]からイギリス=ギリシア協会の会長であった。[[1958年]]にナイトを授爵。その他、[[大英博物館]]の評議員・[[英国学士院]]の会員{{要出典|date=2016年1月29日 (金) 14:12 (UTC)}}・アメリカやギリシアの学士院や学界での名誉会員などを兼ねていた。 |
2016年10月18日 (火) 11:37時点における版
スティーヴン・ランシマン(Steven Runciman, 1903年7月7日 - 2000年11月1日)は20世紀イギリスの歴史家。
略伝
ドクスフォードの初代ランシマン子爵ウォルター・ランシマンの第二子として生まれ、11歳にしてフランス語・ラテン語・ギリシア語・ロシア語に通じたという。イートン校およびケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで学ぶ。イートン校では勅定奨学生であった。1927年から1938年までトリニティ・カレッジで特別研究員として研究を続け、そのかたわらケンブリッジ大学の講師をつとめた。
1940年にブルガリアのソフィア駐在イギリス公使館の広報官となり、1941年にカイロのイギリス大使館に転勤。1942年から1945年までイスタンブール大学でビザンツ芸術と東ローマ帝国史を講じ、1945年から1947年までギリシアにおけるイギリス文化振興会(British Council)の代表をつとめている。
1953年から1954年まではオックスフォード大学の聖メアリ・モードリン・カレッジでウェインフリート講義を、1960年と1961年にはセント・アンドルーズ大学でギフォード講義をそれぞれつとめ、1965年からイギリス=ギリシア協会の会長であった。1958年にナイトを授爵。その他、大英博物館の評議員・英国学士院の会員[要出典]・アメリカやギリシアの学士院や学界での名誉会員などを兼ねていた。
著作
1951年から1954年にかけて公刊された『十字軍史 A History of the Crusades』3巻が彼の主著であり、これは同じテーマを扱ったフランスの歴史家ルネ・グルッセの大著に劣らない名著といわれている。優れた語学力を駆使し、単にヨーロッパ側から眺めたのではなく、東ローマ帝国とイスラム帝国を視野に治めた公平な評価を下しているのが特徴とされる。
- The Emperor Romanus Lecapenus and His Reign (1929)
- The First Bulgarian Empire (1930)
- Byzantine Civilization (1933)
- The Medieval Manichee : A Study of the Christian Dualist Heresy (1947)
- A History of the Crusades: Volume 1, The First Crusade and the Foundation of the Kingdom of Jerusalem (1951)
- A History of the Crusades: Volume 2, The Kingdom of Jerusalem and the Frankish East (1952)
- The Eastern Schism: A Study of the Papacy and the Eastern Churches in XIth and XIIth Centuries (1953)
- A History of the Crusades: Volume 3, The Kingdom of Acre and the Later Crusades (1954)
- The Sicilian Vespers: A History of the Mediterranean World in the Later Thirteenth Century (1958)
- The White Rajahs (1960)
- The Fall of Constantinople 1453 (1965)
- 護雅夫訳 『コンスタンティノープル陥落す』 みすず書房 1969年、新版1983年、1998年
- The Great Church in Captivity (1968)
- The Last Byzantine Renaissance (1970)
- The Orthodox Churches and the Secular State (1972)
- Byzantine Style and Civilization (1975)
- The Byzantine Theocracy (1977)
- Mistra (1980)
- The First Crusade(1980)
- A Traveller's Alphabet.Partial Memoirs. (1991)