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「グリゴリオス5世 (コンスタンディヌーポリ総主教)」の版間の差分

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しかし、オスマン帝国スルタン、マフムト2世はペロポネソス半島での反乱に対して半狂乱状態に陥っており、グリゴリオス5世がギリシャの反乱に関係していると固く信じていた<ref name="palmer98136"/>。
しかし、オスマン帝国スルタン、マフムト2世はペロポネソス半島での反乱に対して半狂乱状態に陥っており、グリゴリオス5世がギリシャの反乱に関係していると固く信じていた<ref name="palmer98136"/>。


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[[1821年]][[4月22日]]、[[イスタンブル]]のファナリ地区の[[聖ゲオルギオス大聖堂]]で[[復活大祭]]が営まれ、グリゴリオス5世も総主教としての祭服を完装していた。そして午後に入り復活大祭の[[徹夜祷]]に先立って[[聖体礼儀]]を行っているとオスマン帝国の兵士らがなだれ込んだ。[[奉神礼]]が終わると兵士らは総主教や主教、司祭らを捕らえて首に縄をかけた<ref name="palmer98137">[[#パーマー(オスマン)| パーマー (1998)、p.137]]</ref>。


グリゴリオス5世はそのままファナリ地区の門で絞首刑に処され、同時に3人の主教、2人の司祭がイスタンブルの別の場所へ吊るされた。これはオスマン帝国が総主教が宗教的活動の自由を与えられているのは正教徒らをオスマン帝国に従わせることが義務であると考えていたからであった<ref name="palmer98137"/>。
グリゴリオス5世はそのままファナリ地区の門で絞首刑に処され、同時に3人の主教、2人の司祭がイスタンブルの別の場所へ吊るされた。これはオスマン帝国が総主教が宗教的活動の自由を与えられているのは正教徒らをオスマン帝国に従わせることが義務であると考えていたからであった<ref name="palmer98137"/>。

2016年10月18日 (火) 11:46時点における版

グリゴリオス5世

グリゴリオス5世総主教(ギリシャ語 Πατριάρχης Γρηγόριος Ε΄、英語 Patriarch Gregory V of Constantinople、1746年1821年4月22日)は、ディミトゥサーナ村の貧しい両親のもとに1746年に生まれ、のちにコンスタンディヌーポリ全地総主教となった人物である。1738年に火災で損傷を受けた聖ゲオルギオス大聖堂の修復に大きな役割を果たした。

なお、グリゴリオス5世は総主教を3度、務めている[1]

その最後

グリゴリオス5世の死の直前の模様。Νικηφόρος Λύτρας(ニキフォロス・リトラス)による(19世紀制作)。
金角湾に投げ込まれるグリゴリオス5世。Peter von Hess(ペーター・フォン・ヘス)による(19世紀制作)。
アテネ生神女福音大聖堂にある、グリゴリオス5世の不朽体が納められた聖櫃
溶接されて閉ざされた総主教庁の正門

1821年、ギリシャ独立を目指す秘密結社フィリキ・エテリアの指導者であるアレクサンドロス・イプシランディスがロシアよりワラキアモルドバへ侵入、ここにギリシャ独立戦争が開始された。当初、ワラキア、モルドバのみで立ち上がった炎はペロポネソス半島にも広がっていた。この報告を受けたオスマン帝国スルタンマフムト2世はイスラムの長老からギリシャ正教徒への聖戦の布告を受けようとした。しかし、長老はこれを拒否した上でグリゴリオス5世と会合を持った[2]

この会合より戻ったグリゴリオス5世と聖シノドはギリシャ独立戦争の嚆矢となったフィリキ・エテリアの指導者アレクサンドロス・イプシランディス、フィリキ・エテリア創設者の一人であるミハイル・スツォスら、そしてフィリキ・エテリア自体をオスマン帝国のスルタン及び聖なる神の意思に背く逆徒であるとして彼らを激しく非難する回勅及び「破門(アナテマ)」を繰り返し発し[1]、全ての公位聖職者及び司祭は反乱に反対することに同意することを命令、違反したものは地位の停職、剥奪などや「地獄の火」の罰を受けることになることを宣言、「アナテマ」は聖枝祭(4月21日)に公開された[3]

しかし、オスマン帝国スルタン、マフムト2世はペロポネソス半島での反乱に対して半狂乱状態に陥っており、グリゴリオス5世がギリシャの反乱に関係していると固く信じていた[2]

1821年4月22日イスタンブールのファナリ地区の聖ゲオルギオス大聖堂復活大祭が営まれ、グリゴリオス5世も総主教としての祭服を完装していた。そして午後に入り復活大祭の徹夜祷に先立って聖体礼儀を行っているとオスマン帝国の兵士らがなだれ込んだ。奉神礼が終わると兵士らは総主教や主教、司祭らを捕らえて首に縄をかけた[4]

グリゴリオス5世はそのままファナリ地区の門で絞首刑に処され、同時に3人の主教、2人の司祭がイスタンブルの別の場所へ吊るされた。これはオスマン帝国が総主教が宗教的活動の自由を与えられているのは正教徒らをオスマン帝国に従わせることが義務であると考えていたからであった[4]

さらにマフムト2世は正教徒の誇りを傷つけるためにグリゴリオス5世の遺体をユダヤ教徒らに与えた。ユダヤ教徒らは遺体の足を引っ張って市場を引きずり回した上で金角湾へ錘をつけて投げ込んだ[4]

そしてイスタンブルの興奮した暴徒らは正教会の略奪を行ない、総主教の冠がたたき壊されたりした[# 1][4]

遺体はその後、ロシアと穀物取引を行っていた貨物船のそばに浮上した。この遺体が総主教座教会の雇われ人でこの貨物船に避難していた人によってグリゴリオス5世と確認されたのち、ギリシャ人船長は遺体を回収した。そして船上でグリゴリオス5世の葬儀を営み、オデッサへ輸送した[6]

その後、グリゴリオス5世の遺体はギリシャへ移送され、アテネ生神女福音大聖堂に葬られた[6]

グリゴリオス5世は正教会によって国の致命者Εθνομάρτυρας)・神品致命者として記憶されている。彼の記憶のため、総主教庁の正門は1821年に溶接されて閉ざされ、現在もなお閉ざされたままである。

脚注

注釈

  1. ^ オスマン帝国に駐在していたイギリス大使ストラトフォード・カニングは破壊されたのは「市内の教会、礼拝堂76の中で1つだけが完全に破壊されたのみで、13箇所が部分的に破壊、もしくは略奪されたにすぎない」としている[5]。ただし「この「にすぎない」の部分には、正教会に対する価値判断が反映されている(イギリス国教会の教会に同様のことが起きればこのような書き方はしない)。

参照

参考文献

  • リチャード・クロッグ著・高久暁訳『ギリシャの歴史』創土社、2004年。ISBN 4-789-30021-8 
  • アラン・パーマー著 白須英子訳『オスマン帝国衰亡史』中央公論社、1998年。ISBN 4-12-002761-9 
先代
ゲラシモス3世
カリニコス4世
キリロス6世
コンスタンディヌーポリ全地総主教
1797年 - 1798年
1806年 - 1808年
1818年 - 1821年
次代
ネオフィトス7世
カリニコス4世
エヴゲニオス2世

関連項目

外部リンク

  • Gregory V - コンスタンディヌーポリ総主教庁公式サイト内の、グレゴリオス5世の説明ページ。英語。