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== 経歴 == |
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[[オスマン帝国]]の[[コンヤ]]県セイディシェヒル生まれ。コンヤの学校を卒業し、[[生物学]]の教師となる。しかしすぐに職を辞して[[イスタンブル大学]]法学部に入学。1925年、国費留学生として[[ドイツ]]に留学し、[[生物学]]と[[医学]]を学ぶ。1929年に[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]医学部を卒業。[[ハーゲン]]や[[デュッセルドルフ]]の病院で助手を務めた。トルコに戻ると、1933年にイスタンブル大学医学部講師、1939年に教授となった。 |
[[オスマン帝国]]の[[コンヤ]]県セイディシェヒル生まれ。コンヤの学校を卒業し、[[生物学]]の教師となる。しかしすぐに職を辞して[[イスタンブール大学]]法学部に入学。1925年、国費留学生として[[ドイツ]]に留学し、[[生物学]]と[[医学]]を学ぶ。1929年に[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]医学部を卒業。[[ハーゲン]]や[[デュッセルドルフ]]の病院で助手を務めた。トルコに戻ると、1933年にイスタンブル大学医学部講師、1939年に教授となった。 |
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1943年、コンヤ選挙区から[[トルコ大国民議会]]選挙に出馬して当選。1945年から翌年まで、[[シュクリュ・サラジオウル]]内閣で労働相を務める。しかし1950年の初の[[自由選挙]]に落選して医学に戻り、[[ミュンヘン]]やイスタンブルで教授を務めた。1974年、上院議員に指名される。同年、議会内の激しい政争で政局が混迷する中、当時の[[トルコの大統領|大統領]][[ファフリ・コルテュルク]]に指名されて暫定内閣を組閣した。しかし翌年3月に議会で不信任決議が可決され、首相を辞任した。 |
1943年、コンヤ選挙区から[[トルコ大国民議会]]選挙に出馬して当選。1945年から翌年まで、[[シュクリュ・サラジオウル]]内閣で労働相を務める。しかし1950年の初の[[自由選挙]]に落選して医学に戻り、[[ミュンヘン]]やイスタンブルで教授を務めた。1974年、上院議員に指名される。同年、議会内の激しい政争で政局が混迷する中、当時の[[トルコの大統領|大統領]][[ファフリ・コルテュルク]]に指名されて暫定内閣を組閣した。しかし翌年3月に議会で不信任決議が可決され、首相を辞任した。 |
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軍部による[[クーデター]]後の1980年9月、制憲委員会の一員に選ばれた。1981年から1983年まで諮問議会(解散させられていた議会に代わる機関)議長を務めた。[[イスタンブル]]で死去した。子供が二人おり、娘はイスタンブル大学教授として大学の[[ケマル・アタテュルク|アタテュルク]]主義研究所所長を務めている。 |
軍部による[[クーデター]]後の1980年9月、制憲委員会の一員に選ばれた。1981年から1983年まで諮問議会(解散させられていた議会に代わる機関)議長を務めた。[[イスタンブール]]で死去した。子供が二人おり、娘はイスタンブル大学教授として大学の[[ケマル・アタテュルク|アタテュルク]]主義研究所所長を務めている。 |
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== 外部リンク == |
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[[Category:トルコ大国民議会議長]] |
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[[Category:トルコの生理学者]] |
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[[Category:コンヤ県出身の人物]] |
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[[Category:1904年生]] |
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2016年10月18日 (火) 11:48時点における版
サーディー・ウルマク Mahmut Sadi Irmak | |
任期 | 1974年11月17日 – 1975年3月31日 |
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出生 | 1904年5月15日 コンヤ県セイディシェヒル |
死去 | 1990年11月11日 イスタンブール |
マフムート・サーディー・ウルマク(Mahmut Sadi Irmak, 1904年5月15日‐1990年11月11日)は、トルコの政治家、生理学者。1974年から翌年にかけて、第38代トルコ共和国首相を務めた。
経歴
オスマン帝国のコンヤ県セイディシェヒル生まれ。コンヤの学校を卒業し、生物学の教師となる。しかしすぐに職を辞してイスタンブール大学法学部に入学。1925年、国費留学生としてドイツに留学し、生物学と医学を学ぶ。1929年にベルリン大学医学部を卒業。ハーゲンやデュッセルドルフの病院で助手を務めた。トルコに戻ると、1933年にイスタンブル大学医学部講師、1939年に教授となった。
1943年、コンヤ選挙区からトルコ大国民議会選挙に出馬して当選。1945年から翌年まで、シュクリュ・サラジオウル内閣で労働相を務める。しかし1950年の初の自由選挙に落選して医学に戻り、ミュンヘンやイスタンブルで教授を務めた。1974年、上院議員に指名される。同年、議会内の激しい政争で政局が混迷する中、当時の大統領ファフリ・コルテュルクに指名されて暫定内閣を組閣した。しかし翌年3月に議会で不信任決議が可決され、首相を辞任した。
軍部によるクーデター後の1980年9月、制憲委員会の一員に選ばれた。1981年から1983年まで諮問議会(解散させられていた議会に代わる機関)議長を務めた。イスタンブールで死去した。子供が二人おり、娘はイスタンブル大学教授として大学のアタテュルク主義研究所所長を務めている。
外部リンク
- トルコ国会略歴紹介(トルコ語)
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