「ムタワッキル3世」の版間の差分
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'''ムタワッキル3世'''(? - [[1543年]])は[[アッバース朝]]最後の[[カリフ]](在位:[[1508年]] - [[1517年]])。当時アッバース家カリフの庇護者だった[[マムルーク朝]]は経済的、軍事的に[[オスマン帝国]]の脅威に晒されており、ムタワッキルの地位も不安定なものだった。 |
'''ムタワッキル3世'''(? - [[1543年]])は[[アッバース朝]]最後の[[カリフ]](在位:[[1508年]] - [[1517年]])。当時アッバース家カリフの庇護者だった[[マムルーク朝]]は経済的、軍事的に[[オスマン帝国]]の脅威に晒されており、ムタワッキルの地位も不安定なものだった。 |
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[[1517年]]にマムルーク朝が崩壊すると、ムタワッキルはオスマン皇帝に庇護を求める。[[セリム1世]]は、仮にもアッバース家のカリフであり建前上は全[[スンナ派]][[ムスリム]]の精神的指導者であるムタワッキルを一応は丁重に扱い、帝都[[イスタンブル]]に住まわせた。しかし次第にセリムはアッバース朝のカリフを邪魔者と思い始め、最終的にはムタワッキル以降のアッバース家のカリフ位継承を認めず、事実上の監禁状態に置いた。最終的にムタワッキルは1543年に没し、アッバース朝は完全に滅亡した。 |
[[1517年]]にマムルーク朝が崩壊すると、ムタワッキルはオスマン皇帝に庇護を求める。[[セリム1世]]は、仮にもアッバース家のカリフであり建前上は全[[スンナ派]][[ムスリム]]の精神的指導者であるムタワッキルを一応は丁重に扱い、帝都[[イスタンブール]]に住まわせた。しかし次第にセリムはアッバース朝のカリフを邪魔者と思い始め、最終的にはムタワッキル以降のアッバース家のカリフ位継承を認めず、事実上の監禁状態に置いた。最終的にムタワッキルは1543年に没し、アッバース朝は完全に滅亡した。 |
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2016年10月18日 (火) 12:00時点における版
ムタワッキル3世(? - 1543年)はアッバース朝最後のカリフ(在位:1508年 - 1517年)。当時アッバース家カリフの庇護者だったマムルーク朝は経済的、軍事的にオスマン帝国の脅威に晒されており、ムタワッキルの地位も不安定なものだった。
1517年にマムルーク朝が崩壊すると、ムタワッキルはオスマン皇帝に庇護を求める。セリム1世は、仮にもアッバース家のカリフであり建前上は全スンナ派ムスリムの精神的指導者であるムタワッキルを一応は丁重に扱い、帝都イスタンブールに住まわせた。しかし次第にセリムはアッバース朝のカリフを邪魔者と思い始め、最終的にはムタワッキル以降のアッバース家のカリフ位継承を認めず、事実上の監禁状態に置いた。最終的にムタワッキルは1543年に没し、アッバース朝は完全に滅亡した。
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