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[[1903年]][[3月11日]]、英領[[ニュージーランド]]の[[北島 (ニュージーランド)|ノース・アイランド]]にある[[タラナキ]]州エルサム市に生まれる。後に[[ニュープリマス]]市に移住し、[[オークランド大学]]と[[ヴィクトリア大学ウェリントン|ビクトリア大学]]で[[文学]]と[[フランス語]]を学んだ。[[1925年]]に[[オックスフォード大学]]の[[オリオル・カレッジ (オックスフォード大学)|オリオル・カレッジ]]に留学、[[歴史学]]と[[哲学]]を専攻して[[トマス・モア]]を研究して優等な成績を収めた。オックスフォード在学中、論文に関する学内選考である[[:en:Gaisford Prize|ゲーズフォード賞]]を受賞している。
[[1903年]][[3月11日]]、英領[[ニュージーランド]]の[[北島 (ニュージーランド)|ノース・アイランド]]にある[[タラナキ]]州エルサム市に生まれる。後に[[ニュープリマス]]市に移住し、[[オークランド大学]]と[[ヴィクトリア大学ウェリントン|ビクトリア大学]]で[[文学]]と[[フランス語]]を学んだ。[[1925年]]に[[オックスフォード大学]]の[[オリオル・カレッジ (オックスフォード大学)|オリオル・カレッジ]]に留学、[[歴史学]]と[[哲学]]を専攻して[[トマス・モア]]を研究して優等な成績を収めた。オックスフォード在学中、論文に関する学内選考である[[:en:Gaisford Prize|ゲーズフォード賞]]を受賞している。


彼の最初の学究的な仕事は1928年に「''Journal of Roman Studies''」で発表された<ref>"Rhine and Danube Legions under Domitian", ''Journal of Roman Studies'' 18 (1928) 41–55; see Anthony Birley, "Editor's Introduction", in ''The Provincial at Rome'' (Presses Université Laval, 2000), p. xi [http://books.google.com/books?id=D5IxWxCgFFwC&pg=PR11&dq=%22Syme%27s+first+published+work%22&lr=&as_brr=0&as_pt=ALLTYPES online] and pp. xi–xx on Syme's publications and scholarly career.</ref>。1929年、セイムは[[トリニティ・カレッジ (オックスフォード大学)|トリニティー・カレッジ]]の研究員となり、ローマ軍の国境防衛策に関する研究で高い名声を獲得した。[[第二次世界大戦]]の間、セイムは[[セルビア・クロアチア語]]を学んだ経験のある[[ベオグラード]]で大使館に勤務したり、後に[[トルコ]]に入国して[[イスタンブル大学]]で教鞭を取ったりした。イギリス政府の対[[枢軸国]]活動に加わっていたのではないかとする説もあるが、憶測の域を出ない。
彼の最初の学究的な仕事は1928年に「''Journal of Roman Studies''」で発表された<ref>"Rhine and Danube Legions under Domitian", ''Journal of Roman Studies'' 18 (1928) 41–55; see Anthony Birley, "Editor's Introduction", in ''The Provincial at Rome'' (Presses Université Laval, 2000), p. xi [http://books.google.com/books?id=D5IxWxCgFFwC&pg=PR11&dq=%22Syme%27s+first+published+work%22&lr=&as_brr=0&as_pt=ALLTYPES online] and pp. xi–xx on Syme's publications and scholarly career.</ref>。1929年、セイムは[[トリニティ・カレッジ (オックスフォード大学)|トリニティー・カレッジ]]の研究員となり、ローマ軍の国境防衛策に関する研究で高い名声を獲得した。[[第二次世界大戦]]の間、セイムは[[セルビア・クロアチア語]]を学んだ経験のある[[ベオグラード]]で大使館に勤務したり、後に[[トルコ]]に入国して[[イスタンブル大学]]で教鞭を取ったりした。イギリス政府の対[[枢軸国]]活動に加わっていたのではないかとする説もあるが、憶測の域を出ない。


イギリス帰国後の1944年に英国アカデミー会員に選出され、5年後の1949年にオックスフォード大学のブレイズノーズ・カレッジで古代史担当の歴史学教授([[キャムデン教授職]])に任命された。歴史学者としての功績を評価されて1959年に[[ナイト]]の爵位を、1976年に[[メリット勲章]]をそれぞれ授与された。86歳の長寿を全うするまで、セイムはイギリス歴史学会の重鎮として精力的にローマ史の研究と文献執筆を続けた。
イギリス帰国後の1944年に英国アカデミー会員に選出され、5年後の1949年にオックスフォード大学のブレイズノーズ・カレッジで古代史担当の歴史学教授([[キャムデン教授職]])に任命された。歴史学者としての功績を評価されて1959年に[[ナイト]]の爵位を、1976年に[[メリット勲章]]をそれぞれ授与された。86歳の長寿を全うするまで、セイムはイギリス歴史学会の重鎮として精力的にローマ史の研究と文献執筆を続けた。
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2016年10月18日 (火) 12:31時点における版

サー・ロナルド・セイム

サー・ロナルド・セイムSir Ronald Syme, 1903年3月11日エルサム - 1989年9月4日ロンドン)は、イギリス連邦歴史学者

古代ヨーロッパ史の大家であり、オックスフォード大学の古代史担当教授(キャムデン教授職)、英国アカデミー会員などを務めた。20世紀で最も偉大な古代ローマ史の研究者と評価されている。

生涯

1903年3月11日、英領ニュージーランドノース・アイランドにあるタラナキ州エルサム市に生まれる。後にニュープリマス市に移住し、オークランド大学ビクトリア大学文学フランス語を学んだ。1925年オックスフォード大学オリオル・カレッジに留学、歴史学哲学を専攻してトマス・モアを研究して優等な成績を収めた。オックスフォード在学中、論文に関する学内選考であるゲーズフォード賞を受賞している。

彼の最初の学究的な仕事は1928年に「Journal of Roman Studies」で発表された[1]。1929年、セイムはトリニティー・カレッジの研究員となり、ローマ軍の国境防衛策に関する研究で高い名声を獲得した。第二次世界大戦の間、セイムはセルビア・クロアチア語を学んだ経験のあるベオグラードで大使館に勤務したり、後にトルコに入国してイスタンブール大学で教鞭を取ったりした。イギリス政府の対枢軸国活動に加わっていたのではないかとする説もあるが、憶測の域を出ない。

イギリス帰国後の1944年に英国アカデミー会員に選出され、5年後の1949年にオックスフォード大学のブレイズノーズ・カレッジで古代史担当の歴史学教授(キャムデン教授職)に任命された。歴史学者としての功績を評価されて1959年にナイトの爵位を、1976年にメリット勲章をそれぞれ授与された。86歳の長寿を全うするまで、セイムはイギリス歴史学会の重鎮として精力的にローマ史の研究と文献執筆を続けた。

脚注

  1. ^ "Rhine and Danube Legions under Domitian", Journal of Roman Studies 18 (1928) 41–55; see Anthony Birley, "Editor's Introduction", in The Provincial at Rome (Presses Université Laval, 2000), p. xi online and pp. xi–xx on Syme's publications and scholarly career.

参照史料

  • British Academy Register
  • Obituaries of Syme appear in the Proceedings of the American Philosophical Society (vol. 135, no. 1, 119–122) and in The Journal of Roman Studies (vol. 80, xi–xiv)
学職
先代
ヒューゲ・ラスト
第21代キャムデン教授職
1949-1970
次代
ペーター・ブルント