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[[ハンブルク]]に生まれる。[[ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン|ボン大学]]と[[ライプツィヒ大学]]で教育を受け、言語・文学から古代史研究へと進み、[[1875年]]にエジプトの神[[セト]]に関する卒業論文を書く。その直後、[[イスタンブール]]に駐在するイギリス総領事の家庭教師として、オリエントに接する機会を持つ。1884年に主著となる『古代史』(''Geschichte des Altertums'') の第1巻を著す。[[1885年]]からは[[ヴロツワフ大学|ブレスラウ大学]]の正教授となり、[[1889年]]からは[[マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク|ハレ大学]]、そして[[1902年]]からは[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]で教授を務めた。この大学では正教授の他に枢密顧問 (Geheimer Regierungsrat) の肩書きを得て、その後、総長にも任命された。[[1900年]]には[[ハーバード大学]]で講義をし、[[オックスフォード大学]]、[[セント・アンドルーズ大学 (スコットランド)|セント・アンドルーズ大学]]、[[アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク|フライブルク大学]]、および[[シカゴ大学]]から名誉学位を与えられる。1923年にベルリン大学を退職し、『古代史』第2巻第2部の改訂中に心臓病で倒れ、死去した。 |
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2016年10月18日 (火) 12:39時点における版
エドゥアルト・マイヤー(Eduard Meyer, 1855年1月25日 - 1930年8月31日)はドイツの歴史学者・古代史家。
生涯
ハンブルクに生まれる。ボン大学とライプツィヒ大学で教育を受け、言語・文学から古代史研究へと進み、1875年にエジプトの神セトに関する卒業論文を書く。その直後、イスタンブールに駐在するイギリス総領事の家庭教師として、オリエントに接する機会を持つ。1884年に主著となる『古代史』(Geschichte des Altertums) の第1巻を著す。1885年からはブレスラウ大学の正教授となり、1889年からはハレ大学、そして1902年からはベルリン大学で教授を務めた。この大学では正教授の他に枢密顧問 (Geheimer Regierungsrat) の肩書きを得て、その後、総長にも任命された。1900年にはハーバード大学で講義をし、オックスフォード大学、セント・アンドルーズ大学、フライブルク大学、およびシカゴ大学から名誉学位を与えられる。1923年にベルリン大学を退職し、『古代史』第2巻第2部の改訂中に心臓病で倒れ、死去した。
史観
マイヤーはギリシアを地中海の古代文明と関連づけることによって、その真の性格を明らかにしうると考えた。ミケーネの芸術はオリエント的だが、その文化の根本はギリシア的であり、ヨーロッパ史の起源といえる。中期ギリシアの最も重要な業績は、地中海に植民したこととフェニキア人を駆逐したことであった。マイヤーはギリシア史におけるソロンとテミストクレスの貢献を強調し、クレイステネスとペリクレス以上の評価を与えた。
ギリシアの歴史家ではヘロドトスとトゥキュディデスを比較し、前者がアテナイによるギリシア支配を擁護していると批判し、後者の歴史叙述の公平さを讃えた。
著作
- Forschungen zur alten Geschichte (1892 - 1899)
- Untersuchungen zur Geschichte der Gracchen (1894)
- Wirtschaftliche Entwicklung des Altertums (1895)
- 「ユダヤ教の発生」Die Entstehung des Judentums (1896)
- 『歴史の理論及方法』Zur Theorie und Methodik der Geschichte (1902)
- 「エジプトの年代」Ägyptische Chronologie (1904)
- Die Israeliten und ihre Nachbarstämme (1906):B. Lutherとの共著
- Theopoms Hellenika (1909)
- Der Papyrosfund in Elephantine (1912)
- 『古代史』Geschichte des Altertums(1884 - 1902; 第3版は1913年)
- 「ヒッタイトの国土と文化」Reich und Kultur der Hethiter (1914)
- 『英国罪悪史』England - Seine staatliche und politische Entwicklung und der Krieg gegen Deutschland (1915)
- Weltgeschichte und Weltkrieg (1916)
- Cäsars Monarchie und die Principat Pompeius (1918)
- 「キリスト教の起源と端緒」Ursprung und Anfänge des Christentums (1920 - 1923)
- 「小論集 全2巻」Kleine Schriften (1910,1924)
- Blüte und Niedergang des Hellenismus in Asien (1925)