コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「エドゥアルト・マイヤー」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m ボット: 言語間リンク 14 件をウィキデータ上の d:Q76894 に転記
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼:「イスタンブール」記事改名に伴うリンク修正依頼 - log
3行目: 3行目:


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[ハンブルク]]に生まれる。[[ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン|ボン大学]]と[[ライプツィヒ大学]]で教育を受け、言語・文学から古代史研究へと進み、[[1875年]]にエジプトの神[[セト]]に関する卒業論文を書く。その直後、[[イスタンブル]]に駐在するイギリス総領事の家庭教師として、オリエントに接する機会を持つ。1884年に主著となる『古代史』(''Geschichte des Altertums'') の第1巻を著す。[[1885年]]からは[[ヴロツワフ大学|ブレスラウ大学]]の正教授となり、[[1889年]]からは[[マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク|ハレ大学]]、そして[[1902年]]からは[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]で教授を務めた。この大学では正教授の他に枢密顧問 (Geheimer Regierungsrat) の肩書きを得て、その後、総長にも任命された。[[1900年]]には[[ハーバード大学]]で講義をし、[[オックスフォード大学]]、[[セント・アンドルーズ大学 (スコットランド)|セント・アンドルーズ大学]]、[[アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク|フライブルク大学]]、および[[シカゴ大学]]から名誉学位を与えられる。1923年にベルリン大学を退職し、『古代史』第2巻第2部の改訂中に心臓病で倒れ、死去した。
[[ハンブルク]]に生まれる。[[ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン|ボン大学]]と[[ライプツィヒ大学]]で教育を受け、言語・文学から古代史研究へと進み、[[1875年]]にエジプトの神[[セト]]に関する卒業論文を書く。その直後、[[イスタンブル]]に駐在するイギリス総領事の家庭教師として、オリエントに接する機会を持つ。1884年に主著となる『古代史』(''Geschichte des Altertums'') の第1巻を著す。[[1885年]]からは[[ヴロツワフ大学|ブレスラウ大学]]の正教授となり、[[1889年]]からは[[マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク|ハレ大学]]、そして[[1902年]]からは[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]で教授を務めた。この大学では正教授の他に枢密顧問 (Geheimer Regierungsrat) の肩書きを得て、その後、総長にも任命された。[[1900年]]には[[ハーバード大学]]で講義をし、[[オックスフォード大学]]、[[セント・アンドルーズ大学 (スコットランド)|セント・アンドルーズ大学]]、[[アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク|フライブルク大学]]、および[[シカゴ大学]]から名誉学位を与えられる。1923年にベルリン大学を退職し、『古代史』第2巻第2部の改訂中に心臓病で倒れ、死去した。


== 史観 ==
== 史観 ==

2016年10月18日 (火) 12:39時点における版

エドゥアルト・マイヤー(ロヴィス・コリントによる肖像画、1910/1911年、ハンブルク美術館所蔵)

エドゥアルト・マイヤー(Eduard Meyer, 1855年1月25日 - 1930年8月31日)はドイツ歴史学者・古代史家。

生涯

ハンブルクに生まれる。ボン大学ライプツィヒ大学で教育を受け、言語・文学から古代史研究へと進み、1875年にエジプトの神セトに関する卒業論文を書く。その直後、イスタンブールに駐在するイギリス総領事の家庭教師として、オリエントに接する機会を持つ。1884年に主著となる『古代史』(Geschichte des Altertums) の第1巻を著す。1885年からはブレスラウ大学の正教授となり、1889年からはハレ大学、そして1902年からはベルリン大学で教授を務めた。この大学では正教授の他に枢密顧問 (Geheimer Regierungsrat) の肩書きを得て、その後、総長にも任命された。1900年にはハーバード大学で講義をし、オックスフォード大学セント・アンドルーズ大学フライブルク大学、およびシカゴ大学から名誉学位を与えられる。1923年にベルリン大学を退職し、『古代史』第2巻第2部の改訂中に心臓病で倒れ、死去した。

史観

マイヤーはギリシアを地中海古代文明と関連づけることによって、その真の性格を明らかにしうると考えた。ミケーネの芸術はオリエント的だが、その文化の根本はギリシア的であり、ヨーロッパ史の起源といえる。中期ギリシアの最も重要な業績は、地中海に植民したこととフェニキア人を駆逐したことであった。マイヤーはギリシア史におけるソロンテミストクレスの貢献を強調し、クレイステネスペリクレス以上の評価を与えた。

ギリシアの歴史家ではヘロドトストゥキュディデスを比較し、前者がアテナイによるギリシア支配を擁護していると批判し、後者の歴史叙述の公平さを讃えた。

著作

  • Forschungen zur alten Geschichte (1892 - 1899)
  • Untersuchungen zur Geschichte der Gracchen (1894)
  • Wirtschaftliche Entwicklung des Altertums (1895)
  • 「ユダヤ教の発生」Die Entstehung des Judentums (1896)
  • 『歴史の理論及方法』Zur Theorie und Methodik der Geschichte (1902)
  • 「エジプトの年代」Ägyptische Chronologie (1904)
  • Die Israeliten und ihre Nachbarstämme (1906):B. Lutherとの共著
  • Theopoms Hellenika (1909)
  • Der Papyrosfund in Elephantine (1912)
  • 『古代史』Geschichte des Altertums(1884 - 1902; 第3版は1913年)
  • 「ヒッタイトの国土と文化」Reich und Kultur der Hethiter (1914)
  • 『英国罪悪史』England - Seine staatliche und politische Entwicklung und der Krieg gegen Deutschland (1915)
  • Weltgeschichte und Weltkrieg (1916)
  • Cäsars Monarchie und die Principat Pompeius (1918)
  • 「キリスト教の起源と端緒」Ursprung und Anfänge des Christentums (1920 - 1923)
  • 「小論集 全2巻」Kleine Schriften (1910,1924)
  • Blüte und Niedergang des Hellenismus in Asien (1925)

外部リンク