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「アッケルマン条約」の版間の差分

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この条約によって、1812年に結ばれた[[ブカレスト条約_(1812年)|ブカレスト条約]]の内容が明確化され、[[ワラキア]]公国および[[モルダヴィア]]公国はロシア帝国・オスマン帝国両国の共同宗主権下に置かれ、[[領主]]の選出には両宗主国の影響力の下で7年の任期で選出することが義務付けられた。そして、さらに[[ギリシャ人]]である[[ファナリオティス]]らが排除され、両公国の公には[[ルーマニア人]]である[[貴族]]({{仮リンク|ボィエール|en|Boyar}})らが着任することになった<ref name="castellan9333">[[#カステラン(ルーマニア)| カステラン(1993)、p.33]]</ref>。また、[[1821年]]の[[トゥドル・ウラジミレスク]]の起こした[[ワラキア蜂起]]をオスマン軍が鎮圧した後、長期にわたってオスマン軍はワラキア、モルダヴィア両公国に駐留していたが、アッケルマン条約によってオスマン軍の退却が定められた。さらに、オスマン帝国は[[ドナウ川]]の川港都市である[[ジュルジュ]]、[[ブライラ]]および[[トゥルヌ・マグレレ]]の支配権をワラキア公国に譲る事に同意した。
この条約によって、1812年に結ばれた[[ブカレスト条約_(1812年)|ブカレスト条約]]の内容が明確化され、[[ワラキア]]公国および[[モルダヴィア]]公国はロシア帝国・オスマン帝国両国の共同宗主権下に置かれ、[[領主]]の選出には両宗主国の影響力の下で7年の任期で選出することが義務付けられた。そして、さらに[[ギリシャ人]]である[[ファナリオティス]]らが排除され、両公国の公には[[ルーマニア人]]である[[貴族]]({{仮リンク|ボィエール|en|Boyar}})らが着任することになった<ref name="castellan9333">[[#カステラン(ルーマニア)| カステラン(1993)、p.33]]</ref>。また、[[1821年]]の[[トゥドル・ウラジミレスク]]の起こした[[ワラキア蜂起]]をオスマン軍が鎮圧した後、長期にわたってオスマン軍はワラキア、モルダヴィア両公国に駐留していたが、アッケルマン条約によってオスマン軍の退却が定められた。さらに、オスマン帝国は[[ドナウ川]]の川港都市である[[ジュルジュ]]、[[ブライラ]]および[[トゥルヌ・マグレレ]]の支配権をワラキア公国に譲る事に同意した。


その他、行政規程の作成と2年間の貢納が停止され、それまでの[[イスタンブル]]による商業独占も廃止された<ref name="castellan9333"/>。
その他、行政規程の作成と2年間の貢納が停止され、それまでの[[イスタンブル]]による商業独占も廃止された<ref name="castellan9333"/>。


そして、{{仮リンク|第二次セルビア蜂起|en|Second_Serbian_Uprising}}などによるセルビア問題についても取り組まれ、条約の第5項で[[セルビア公国_(近代)|セルビア公国]]の自治権が与えられ[[1813年]]に失った失地も返還された<ref name="Clissold93130">[[#クリソルド(ユーゴスラヴィア)|クリソルド(1993)、p.130]]</ref>。さらに[[セルビア人]]はオスマン帝国内の通行権も得た。
そして、{{仮リンク|第二次セルビア蜂起|en|Second_Serbian_Uprising}}などによるセルビア問題についても取り組まれ、条約の第5項で[[セルビア公国_(近代)|セルビア公国]]の自治権が与えられ[[1813年]]に失った失地も返還された<ref name="Clissold93130">[[#クリソルド(ユーゴスラヴィア)|クリソルド(1993)、p.130]]</ref>。さらに[[セルビア人]]はオスマン帝国内の通行権も得た。

2016年10月18日 (火) 12:39時点における版

現代のアッケルマン城

アッケルマン条約(アッカーマン条約とも)とは、1826年10月7日ブジャク(現在のウクライナオデッサ州ビールホロド=ドニストローウシクィイ英語版市)にあるアッケルマン城ウクライナ語版においてロシア帝国オスマン帝国の間で結ばれた条約である。

この条約によって、1812年に結ばれたブカレスト条約の内容が明確化され、ワラキア公国およびモルダヴィア公国はロシア帝国・オスマン帝国両国の共同宗主権下に置かれ、領主の選出には両宗主国の影響力の下で7年の任期で選出することが義務付けられた。そして、さらにギリシャ人であるファナリオティスらが排除され、両公国の公にはルーマニア人である貴族ボィエール英語版)らが着任することになった[1]。また、1821年トゥドル・ウラジミレスクの起こしたワラキア蜂起をオスマン軍が鎮圧した後、長期にわたってオスマン軍はワラキア、モルダヴィア両公国に駐留していたが、アッケルマン条約によってオスマン軍の退却が定められた。さらに、オスマン帝国はドナウ川の川港都市であるジュルジュブライラおよびトゥルヌ・マグレレの支配権をワラキア公国に譲る事に同意した。

その他、行政規程の作成と2年間の貢納が停止され、それまでのイスタンブールによる商業独占も廃止された[1]

そして、第二次セルビア蜂起などによるセルビア問題についても取り組まれ、条約の第5項でセルビア公国の自治権が与えられ1813年に失った失地も返還された[2]。さらにセルビア人はオスマン帝国内の通行権も得た。

後にオスマン帝国スルターンマフムト2世によってアッケルマン条約は破棄されることとなり、それが1828年露土戦争の誘因となった。

関連項目

脚注

出典

  • Jelavich, Charles The Establishment of the Balkan National States, 1804-1920, University of Washington Press, 1986. ISBN 0295964138. (英語)
  • ジョルジュ・カステラン萩原直訳『ルーマニア史』白水社、1993年。ISBN 4-560-05747-8 
  • スティーヴン・クリソルド著 田中一生・柴宜弘・高田敏明共訳『増補版ユーゴスラヴィア史ケンブリッジ版』恒文社、1993年。ISBN 4-7704-0371-2