「パワー・ヘンリー・ル・プア・トレンチ」の版間の差分
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[[1859年]]、18歳でパリの英国大使館に採用された。[[1860年]]に[[イスタンブール]]、[[1871年]]に[[ミュンヘン]]に天転任。その後、[[リオ・デ・ジャネイロ]]、[[ワシントンD.C.|ワシントン]]、本国外務省、[[ローマ]]と転勤し[[1882年]]から[[1889年]]まで東京の[[駐日英国大使館|駐日英国公使館]]に一等書記官として勤務した。[[1889年]]から[[1893年]]まで、[[ベルリン]]で一等書記官を務め、[[1893年]]から[[1894年]]まで、[[メキシコ]]で[[特命全権公使]]を務めた<ref>コータッツィ、Pg137-138。</ref>。 |
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[[1894年]][[6月25日]]、急死した[[ヒュー・フレイザー (外交官)|ヒュー・フレイザー]]の後任として、[[駐日英国大使|駐日英国公使]]<ref>日本に駐在する英国の主席外交官が[[大使]]となったのは1905年であり、それまでは公使が最上級職であった。</ref>。に任命された。前回の東京での勤務実績を、当時のローズベリー外相が特に評価したものであった。 |
2016年10月18日 (火) 12:42時点における版
パワー・ヘンリー・ル・プア・トレンチ(Power Henry Le Poer Trench、1841年5月11日 - 1899年4月30日)は英国の外交官で、1894年から1895年まで駐日英国公使を務めた。
トレンチは、第三代クランカーティ伯ウィリアム・トーマスル・プア・トレンチ(William Thomas Le Poer Trench, 3rd Earl of Clancarty )とサラ・ジュリアナ・バトラーの4男である[1]
経歴
1859年、18歳でパリの英国大使館に採用された。1860年にイスタンブール、1871年にミュンヘンに天転任。その後、リオ・デ・ジャネイロ、ワシントン、本国外務省、ローマと転勤し1882年から1889年まで東京の駐日英国公使館に一等書記官として勤務した。1889年から1893年まで、ベルリンで一等書記官を務め、1893年から1894年まで、メキシコで特命全権公使を務めた[2]。
1894年6月25日、急死したヒュー・フレイザーの後任として、駐日英国公使[3]。に任命された。前回の東京での勤務実績を、当時のローズベリー外相が特に評価したものであった。
丁度日清戦争の最中であり、当然戦争が英国の権益に影響を及ぼさないようにすることが、トレンチの主たる業務となった。上海の貿易の中立性を阻害しないよう、トレンチは日本側と交渉した。また英国籍を持つ住民に中立を維持させている。
メキシコに赴任した時から健康は優れていなかったが、1895年2月下旬、失語症と麻痺の発作に襲われた。結局回復することなしに、5月10日に日本を離れた。後任はアーネスト・サトウであった。
関連項目
脚注
参考文献
- サー・ ヒュー・コータッツィ編著『歴代の駐日英国大使』、文眞堂(2007年)。ISBN 978-4830945878
外部リンク
- 駐日英国大使館歴代駐日英国大使
外交職 | ||
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先代 ヒュー・フレイザー |
駐日英国公使 5代公使:1894 - 1895 |
次代 アーネスト・サトウ |