「アフメト・ハムディ・タンプナル」の版間の差分
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タンプナルは1901年6月23日に[[イスタンブル]]に生まれた。父親のヒュセイン・フィクリ・エフェンディ(Hüseyin Fikri Efendi)は判事で、現在のトルコと[[グルジア]]に跨る{{仮リンク|マチャヘリ地方|en|Machakheli}}出身の[[グルジア人|グルジア(ジョージア)人]]であった。<ref>{{cite web | url = http://www.gdd.org.tr/tarihtendetay.asp?id=55 | title = Gdd, Hüseyin Fikri Efendi | accessdate = 2014-05-31 | publisher=gdd.org.tr Mr. Murat Kasap}}</ref><ref name="Okay">M. Orhan Okay, [http://books.google.com.tr/books?ei=jvyJU5L_D8ey7Aak1ICQCg&hl=tr&id=TulNAQAAIAAJ&dq=orhan+okay+tanp%C4%B1nar&focus=searchwithinvolume&q=h%C3%BCseyin+fikri+efendi ''Bir hülya adamının romanı: Ahmet Hamdi Tanpınar''], Dergâh Yayınları, 2010, ISBN 9789759951900, p. 26.</ref>母親はタンプナルが13歳のときに[[モースル]]で死去した。父親が職業柄ひんぱんに転勤になったため、タンプナルは、イスタンブル、[[スィノプ]]、[[スィイルト]]、[[キルクーク]]、[[アンタルヤ]]などさまざまな異なる町で教育を受けた。獣医学の学校を中退したのち、[[イスタンブル大学]]文学部で教育を再開し、1923年に修了した。文学の教師として[[エルズルム]](1923-1924年)、[[コンヤ]]、[[アンカラ]]の高等学校や、ガズィ教育機構、美術アカデミーなどで教鞭を執った。美術アカデミーでは、文学の授業に加えて、美学、美術史、神話学の講座でも教えた(1932-1939年)。1942年から1946年まで、トルコ大国民議会で、[[カフラマンマラシュ|マラシュ]]選出の議員を務めた。1953年、6か月間にわたってヨーロッパを巡る旅行に出て、フランス、ベルギー、オランダ、イギリス、スペイン、イタリアを旅した。1962年1月24日、イスタンブルにて心臓発作のため死去。墓所はイスタンブルの{{仮リンク|アシヤン墓地|en|Aşiyan Asri Cemetery}}にある。 |
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2016年10月18日 (火) 13:29時点における版
アフメト・ハムディ・タンプナル Ahmet Hamdi Tanpınar | |
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ファイル:Hamdi Tanpınar (6).jpg | |
誕生 |
1901年6月23日 トルコ、イスタンブール |
死没 |
1962年1月24日 トルコ、イスタンブール |
職業 | 小説家、詩人、学者 |
国籍 | トルコ |
ジャンル | 小説、詩 |
代表作 | 『心の平安(Huzur)』『時間調整研究所(Saatleri Ayarlama Enstitüsü)』 |
ウィキポータル 文学 |
アフメト・ハムディ・タンプナル(Ahmet Hamdi Tanpınar, 1901年6月23日 - 1962年1月24日) は、トルコ近代文学における最も重要な小説家・随筆家である。1942年から1946年には、トルコ大国民議会の議員を務めた。
生涯
タンプナルは1901年6月23日にイスタンブールに生まれた。父親のヒュセイン・フィクリ・エフェンディ(Hüseyin Fikri Efendi)は判事で、現在のトルコとグルジアに跨るマチャヘリ地方出身のグルジア(ジョージア)人であった。[1][2]母親はタンプナルが13歳のときにモースルで死去した。父親が職業柄ひんぱんに転勤になったため、タンプナルは、イスタンブル、スィノプ、スィイルト、キルクーク、アンタルヤなどさまざまな異なる町で教育を受けた。獣医学の学校を中退したのち、イスタンブール大学文学部で教育を再開し、1923年に修了した。文学の教師としてエルズルム(1923-1924年)、コンヤ、アンカラの高等学校や、ガズィ教育機構、美術アカデミーなどで教鞭を執った。美術アカデミーでは、文学の授業に加えて、美学、美術史、神話学の講座でも教えた(1932-1939年)。1942年から1946年まで、トルコ大国民議会で、マラシュ選出の議員を務めた。1953年、6か月間にわたってヨーロッパを巡る旅行に出て、フランス、ベルギー、オランダ、イギリス、スペイン、イタリアを旅した。1962年1月24日、イスタンブルにて心臓発作のため死去。墓所はイスタンブルのアシヤン墓地にある。
業績
タンプナルはトルコ文学における最も重要な作家の一人で、作品のなかで東洋と西洋の文化の結合を成し遂げた。作家としての自己形成には、ヤフヤー・ケマルが大きな役割を果した。詩作品においては、トルコの古典音楽や空想を、作品の素地として用いている。詩においても小説においても、精神分析、歴史、時代的特徴、社会と個人との結びつき、夢、文明的問題が、大きな位置を与えられている。 最初の小説『心の平安(Huzur)』は「トルコの『ユリシーズ』」とも呼ばれる大作だが、第二次世界大戦開戦前夜のイスタンブルを舞台に、オスマン帝国からトルコ共和国へと移行したことによる文明的不安に直面した知識層の青年たちの分裂した自我を描く。トルコ初のノーベル文学賞作家オルハン・パムクが「イスタンブルを描いた最高の作品」と評したように、二つの大陸にまたがるイスタンブルという都市の魅力と、失われつつあるオスマン朝文化への郷愁と、一人の女性への愛とそれによる苦悩が、主人公の内省のなかで見事に重ね合わされた傑作長篇である[要出典]。 重要な作品の一つは『時間調整研究所(Saatleri Ayarlama Enstitüsü)』(未邦訳)である。この小説は、タイトルが示唆するように、官僚主義化の進行を批判的に皮肉った作品として広く賞讃されているが、それだけに留まる作品ではない。実際には非常にさまざまな視角から読めるものであり、一読で汲み尽すことのできる書物ではない。何よりも、自分の生きる近代という時代に適応できないことで傷ついた男の心理を深く分析したものである。したがって、官僚化という事象は、実際にはもっと広い文脈、すなわち、近代化と個人に対するそのインパクトという文脈の一部なのである。この小説の登場人物たちは、近代を生き抜くために、それぞれに奇妙な闘いを行っているように見える。そのことによって、「時間」という概念が中心的な位置を占め、この小説に、より深い意味、哲学的とも言える味わいを与えている。
トルコ語での著作
- Şiirler, 1961
物語
- Abdullah Efendinin Rüyaları, 1943
- Yaz Yağmuru, 1955
- Hikâyeler, 1983
- Dergâh Yay. 2002
- Huzur, 1949 (『心の平安』和久井路子訳、藤原書店、2015年。英訳[w:A Mind at Peace])
- Dergâh Yay. 2004
- Saatleri Ayarlama Enstitüsü, 1962 (『時間調整研究所』英訳[w:The Time Regulation Institute])
- Sahnenin Dışındakiler, 1973
- Mahur Beste, 1975
- Aydaki Kadın, 1987
- Beş Şehir, 1946 アンカラ、エルズルム、コンヤ、ブルサ、イスタンブルを描く随筆。
- Yahya Kemal, 1967
- Edebiyat Üzerine Makaleler, 1969
- Yaşadığım Gibi, 1970
- XIX. Asır Türk Edebiyatı Tarihi, 1949
関連項目
参考文献
- ^ “Gdd, Hüseyin Fikri Efendi”. gdd.org.tr Mr. Murat Kasap. 2014年5月31日閲覧。
- ^ M. Orhan Okay, Bir hülya adamının romanı: Ahmet Hamdi Tanpınar, Dergâh Yayınları, 2010, ISBN 9789759951900, p. 26.
外部リンク
- The Villa in Acibadem Translation of a story of Tanpınar
- Kalem Agency (copyright)
- İTEF - Istanbul Tanpinar Literature Festival
- 『心の平安』和久井路子訳、藤原書店