コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「メングリ1世ギレイ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼:「イスタンブール」記事改名に伴うリンク修正依頼 - log
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼:「イスタンブール」記事改名に伴うリンク修正依頼 - log
5行目: 5行目:
はじめ、[[1466年]]にハーンに即位したが、わずか数ヶ月で兄弟の一人[[ヌール・デヴレト]]によって廃位された。その後、1469年1月に復位したが、兄弟たちや貴族による反乱が起こり、1475年3月に再び王位を追われる。同年、内紛に介入したオスマン帝国によってメングリ・ギレイは[[カッファ]]で捕えられ、[[イスタンブール]]に連行された。
はじめ、[[1466年]]にハーンに即位したが、わずか数ヶ月で兄弟の一人[[ヌール・デヴレト]]によって廃位された。その後、1469年1月に復位したが、兄弟たちや貴族による反乱が起こり、1475年3月に再び王位を追われる。同年、内紛に介入したオスマン帝国によってメングリ・ギレイは[[カッファ]]で捕えられ、[[イスタンブール]]に連行された。


イスタンブルにおいてクリミア・ハン国に対するオスマン帝国の[[宗主権]]を認めさせられたメングリは、1478年にオスマン帝国によってクリミアに送還されて再び王位に返り咲いた。彼は以後亡くなる年まで30年以上王位を保ち、彼は[[クリミア・タタール人]]の国家形成のために大いに貢献した。
イスタンブルにおいてクリミア・ハン国に対するオスマン帝国の[[宗主権]]を認めさせられたメングリは、1478年にオスマン帝国によってクリミアに送還されて再び王位に返り咲いた。彼は以後亡くなる年まで30年以上王位を保ち、彼は[[クリミア・タタール人]]の国家形成のために大いに貢献した。


1502年、[[ドニエプル川]]下流の{{仮リンク|オチャーキウ|crh|Oçakiv|uk|Очаків}}({{lang-tr|Özi}} ユズ)に要塞を建設し、[[カスピ海]]方面にいた[[大オルダ]](キプチャク・ハン国)最後のハーンを倒して[[ジョチ・ウルス]]の都[[サライ (都市)|サライ]]の支配権を獲得した。彼は「[[ハーン|ハーガーン]](皇帝)」の称号を名乗り、[[カスピ海|カスピ]]=[[ヴォルガ川|ヴォルガ]]流域を支配する[[タタール人]]の諸ハン国に対し、自らが[[ジョチ・ウルス]]の正統を継承する君主であると主張した。
1502年、[[ドニエプル川]]下流の{{仮リンク|オチャーキウ|crh|Oçakiv|uk|Очаків}}({{lang-tr|Özi}} ユズ)に要塞を建設し、[[カスピ海]]方面にいた[[大オルダ]](キプチャク・ハン国)最後のハーンを倒して[[ジョチ・ウルス]]の都[[サライ (都市)|サライ]]の支配権を獲得した。彼は「[[ハーン|ハーガーン]](皇帝)」の称号を名乗り、[[カスピ海|カスピ]]=[[ヴォルガ川|ヴォルガ]]流域を支配する[[タタール人]]の諸ハン国に対し、自らが[[ジョチ・ウルス]]の正統を継承する君主であると主張した。

2016年10月19日 (水) 12:27時点における版

息子のメフメト・ギレイ(左)を連れて、オスマン帝国のスルタン・バヤズィト2世(右)に謁見するメングリ・ギレイ(中央)

メングリ1世ギレイクリミア・タタール語表記:I. Meñli Geray / ۱مڭلى گراى, 1445年1515年)は、クリミア・ハン国ハーン(在位1469年 - 1475年, 1478年 - 1515年)。同国の創始者ハージー1世ギレイの六男。

はじめ、1466年にハーンに即位したが、わずか数ヶ月で兄弟の一人ヌール・デヴレトによって廃位された。その後、1469年1月に復位したが、兄弟たちや貴族による反乱が起こり、1475年3月に再び王位を追われる。同年、内紛に介入したオスマン帝国によってメングリ・ギレイはカッファで捕えられ、イスタンブールに連行された。

イスタンブールにおいてクリミア・ハン国に対するオスマン帝国の宗主権を認めさせられたメングリは、1478年にオスマン帝国によってクリミアに送還されて再び王位に返り咲いた。彼は以後亡くなる年まで30年以上王位を保ち、彼はクリミア・タタール人の国家形成のために大いに貢献した。

1502年、ドニエプル川下流のオチャーキウトルコ語: Özi ユズ)に要塞を建設し、カスピ海方面にいた大オルダ(キプチャク・ハン国)最後のハーンを倒してジョチ・ウルスの都サライの支配権を獲得した。彼は「ハーガーン(皇帝)」の称号を名乗り、カスピヴォルガ流域を支配するタタール人の諸ハン国に対し、自らがジョチ・ウルスの正統を継承する君主であると主張した。

メングリは死後、バフチサライのサラチュク地区の廟に埋葬された。クリミア・ハン国の首都であるこの都市において、彼は1500年サラチュク地区にジンジルリ・メドレセ(神学校)、ハージー1世ギレイの墓廟などを建設したほか、バフチサライ宮殿内に、イタリア人建築家アレヴィージョ・ランベルティの設計になるデミル・カプ門を造営させた。

関連項目