「フランチェスコ・マリーア・タリアーニ・ディ・マルキオ」の版間の差分
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ドメニコ・タリアーニ・ディ・マルキオとその妻ゲルトルーデ・ジーリの間の息子として生まれる。[[ローマ・ラ・サピエンツァ大学|ローマ大学]]で法学を専攻し、1910年に同大学を卒業。1911年より外交官として働き始め、1912年には[[ベルリン]]の、1913年には[[イスタンブール]]のイタリア在外公館で勤務した。イスタンブルでは、[[伊土戦争]]中の1911年11月5日付で独立した[[トリポリタニア]]と[[キレナイカ]]において、イタリア市民と[[オスマン帝国]]市民が同等の法的地位を持つことを定めた協定の締結交渉に参加した。この協定は、1913年4月6日に、その年の[[イタリア王国]]勅令第315号において批准された。 |
ドメニコ・タリアーニ・ディ・マルキオとその妻ゲルトルーデ・ジーリの間の息子として生まれる。[[ローマ・ラ・サピエンツァ大学|ローマ大学]]で法学を専攻し、1910年に同大学を卒業。1911年より外交官として働き始め、1912年には[[ベルリン]]の、1913年には[[イスタンブール]]のイタリア在外公館で勤務した。イスタンブールでは、[[伊土戦争]]中の1911年11月5日付で独立した[[トリポリタニア]]と[[キレナイカ]]において、イタリア市民と[[オスマン帝国]]市民が同等の法的地位を持つことを定めた協定の締結交渉に参加した。この協定は、1913年4月6日に、その年の[[イタリア王国]]勅令第315号において批准された。 |
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1916年から1919年まで[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]で、1919年から1921年までローマの[[外務省 (イタリア)|イタリア外務省]]本省で、1921年から1923年までは[[ロンドン]]で、1924年から1928年までは再びイスタンブルで勤務した。1929年から1931年まで外務省本省の[[儀典長]]を務め、1932年からは[[デン・ハーグ]]に駐オランダ公使として赴任した。 |
1916年から1919年まで[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]で、1919年から1921年までローマの[[外務省 (イタリア)|イタリア外務省]]本省で、1921年から1923年までは[[ロンドン]]で、1924年から1928年までは再びイスタンブルで勤務した。1929年から1931年まで外務省本省の[[儀典長]]を務め、1932年からは[[デン・ハーグ]]に駐オランダ公使として赴任した。 |
2016年10月19日 (水) 12:34時点における版
フランチェスコ・マリーア・タリアーニ・ディ・マルキオ(Francesco Maria Taliani di Marchio, 1º Marchesse Taliani di Marchio, 1887年10月22日 アスコリ・ピチェーノ - 1968年3月16日 ローマ)は、イタリアの外交官。駐中華民国大使、駐スペイン大使などを務めた。
生涯
ドメニコ・タリアーニ・ディ・マルキオとその妻ゲルトルーデ・ジーリの間の息子として生まれる。ローマ大学で法学を専攻し、1910年に同大学を卒業。1911年より外交官として働き始め、1912年にはベルリンの、1913年にはイスタンブールのイタリア在外公館で勤務した。イスタンブールでは、伊土戦争中の1911年11月5日付で独立したトリポリタニアとキレナイカにおいて、イタリア市民とオスマン帝国市民が同等の法的地位を持つことを定めた協定の締結交渉に参加した。この協定は、1913年4月6日に、その年のイタリア王国勅令第315号において批准された。
1916年から1919年までペトログラードで、1919年から1921年までローマのイタリア外務省本省で、1921年から1923年まではロンドンで、1924年から1928年までは再びイスタンブルで勤務した。1929年から1931年まで外務省本省の儀典長を務め、1932年からはデン・ハーグに駐オランダ公使として赴任した。
1937年11月27日にオーストリアのゾンベルク城において、旧オーストリア皇族のレオポルト・ザルヴァトール大公の娘マルガレータと結婚した。夫婦の身分の釣り合いをとるため、タリアーニは婚礼の1週間前の1937年11月20日、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世によりタリアーニ・ディ・マルキオ侯爵位を授けられた。新郎は50歳、新婦は43歳の晩婚であり、夫婦の間に子供はなかった。
1938年に駐中華民国大使に任命されて南京に赴任するが、1943年のイタリア無条件降伏に伴い、妻と一緒に日本軍の捕虜収容所に収容された[1]。1946年にイタリアに帰国。1951年2月1日に駐スペイン大使に任命されたが、翌1952年に退職、引退した。
著書
- Pietrogrado 1917, Mailand, Mondadorei, 1936
- Vita del Cardinal Gasparri, ivi, 1937,
- È morto in Cina, 1949
- Italia e Spagna, 1955
引用
- ^ Brigitte Hamann, Die Habsburger: ein biographisches Lexikon 1988, 447 S., S. 282
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