「久保幸江」の版間の差分
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2016年11月10日 (木) 17:19時点における版
久保 幸江 | |
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久保幸江 | |
基本情報 | |
出生名 | 篠原幸江 |
生誕 |
1924年1月24日 大日本帝国 台湾高雄州屏東市(現: 中華民国 屏東県屏東市) |
死没 |
2010年9月8日(86歳没) 日本 東京都 |
職業 | 歌手 |
活動期間 | 1948年 - 2005年 |
レーベル | 日本コロムビア |
久保 幸江(くぼ ゆきえ、1924年1月24日 - 2010年9月8日 )は日本の女性歌手。
経歴
1924年(大正13年)、日本統治下の台湾・屏東市に生まれる。本名:篠原幸江。
1942年(昭和17年)屏東高等女学校を卒業後、家族とともにシンガポールに移る。当時のシンガポールは日本占領下にあり昭南島と称していたが、家族はそこで日本軍相手の料亭を開いていた。久保はこの店で好きな流行歌を歌い、また軍の慰問にも赴き、歌を歌っていたという。
1946年、日本に引き揚げた後、翌1947年、日本コロムビア社の新人歌手募集の新聞広告を見て応募、1500人の応募者の中から合格した。
1948年「千鳥なぜ啼く」でデビューしたが不発に終わる。民謡を歌謡曲風にアレンジした2曲目の「おこさ節」も市井の注意を引かないまま終わったが、民謡もうまくこなせる新人として社内で注目を集めた。
ところで、このころ古賀政男は「炭坑節」に興味を持っていた。古賀はこれをさらに都会的な宴会ソングに仕立て上げ、1949年、「トンコ節」として久保と楠木繁夫のデュエットとして発売させた。当初はさっぱり売れなかったが、都内、地方を問わずあらゆる営業先のステージで幾度となく一人で歌いまくったため、じわじわと売上が伸び、翌1950年、新人歌手加藤雅夫と共に吹き込んだ新しい「トンコ節」が彼女の運命を決定づけるほどの大ヒット曲となった。それは松竹をして映画「初恋トンコ娘」(監督・斎藤寅次郎。柳家金語楼、川田晴久他、久保自身も出演。1951年4月20日封切)を製作せしめるほどであった。当時の人気投票では、美空ひばりを抑え一位になったこともあった。
以後「ヤットン節」、「パチンコ人生」、コミックソング「旅は楽しいシュッポッポ」などヒット曲を放ったが、1955年、日本舞踊に転向を理由にコロムビアを退職した。その後はビクターへ移籍したがヒットに恵まれず、1960年に外交官と結婚し引退した。
1969年、渡辺はま子の勧めで本格的に歌手活動を再開。1973年、甲状腺手術中に医療ミスで声帯を一本切除されるという危機に見舞われるが、懸命なリハビリと治療の末に翌年には復帰。その後は神奈川県内で歌謡教室を開きながら、テレビの懐メロ番組や舞台などに出演するほか、不定期ながら新曲を発表し、精力的に歌手活動を続けてきたが2003年に体調を崩し、一度は復帰したが2005年を最後に表舞台を退いた。
2010年9月7日未明、東京都内の老人施設で突然意識を失い、病院に搬送。翌8日に心不全のため死去[1]。86歳没。久保の死去は2年後の2012年になってから明らかにされた[2]。
NHK紅白歌合戦出場歴
- 第2回(1952年1月3日、NHK東京放送会館第一スタジオ)『ヤットン節』[2]
脚注
- ^ 「トンコ節」久保幸江さん、死去していた 日刊スポーツ 2012年8月28日閲覧
- ^ a b “歌手の久保幸江さんが死去 「トンコ節」がヒット”. 共同通信社. 47NEWS. (2012年8月28日) 2012年12月20日閲覧。