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「三尾屋」の版間の差分

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初代福島榮助([[1847年]](弘化4年)-[[1906年]](明治39年))は、三尾の出身で、同じく三尾出身で「カナダ移民の父」とも呼ばれる[[工野儀兵衛]]は甥にあたる。榮助が幕末に湯浅に移住、明治改元の頃から[[寒川村 (和歌山県)|寒川村]]との間で行商を始めたのが三尾屋のはじまりである。当初は湯浅からは小間物や[[煮干し|いりこ]]を、寒川からは現地産の[[シイタケ|椎茸]]を運び、両地を往復していた<ref>『美山村史』416ページ</ref>。
初代福島榮助([[1847年]](弘化4年)-[[1906年]](明治39年))は、三尾の出身で、同じく三尾出身で「カナダ移民の父」とも呼ばれる[[工野儀兵衛]]は甥にあたる。榮助が幕末に湯浅に移住、明治改元の頃から[[寒川村 (和歌山県)|寒川村]]との間で行商を始めたのが三尾屋のはじまりである。当初は湯浅からは小間物や[[煮干し|いりこ]]を、寒川からは現地産の[[シイタケ|椎茸]]を運び、両地を往復していた<ref>『美山村史』416ページ</ref>。


[[1876年]](明治9年)10月、寒川の土居で家を借り湯浅から移転、[[1883年]](明治16年)5月には家を購入した。やがて[[日高川]]沿いの交通状況が改善すると、三尾屋は[[1897年]](明治30年)頃から製茶工場を建て、[[茶]]の扱いを始めた。二代目榮助(1876年(明治9年)-[[1935年]](昭和10年))の時代になると[[コウゾ|楮]]や[[シュロ|棕櫚]]など農産物全般へと取扱い品目を広げていった<ref>『美山村史』416-417ページ</ref>。1935年(昭和10年)頃に撮影された「三尾屋百貨店」の看板を掲げる店舗の写真が残されている<ref>『保存版 御坊・日高今昔写真帖』郷土出版社、2008年、80ページ ISBN978-4-87663-955-7。※「百貨店」の「貨」は人偏にヒ+貝と書く字体。</ref>。しかしこの時代は後に統制が進行、人手不足もあり、椎茸を除く農産物の販売から手を引かざるを得なくなった<ref name="sonshi_417">『美山村史』417ページ</ref>。
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[[1953年]](昭和28年)には戦前からの店舗が[[紀州大水害]]で被害を受け、店舗が建て替えられた<ref>『保存版 御坊・日高今昔写真帖』81ページ</ref>。昭和40年代には[[農薬]]と[[医薬品]]を除く[[生活必需品]]全般を扱うようになっている<ref name="sonshi_417" />。

2016年11月15日 (火) 18:02時点における版

三尾屋 商店
mioya store
店舗のロゴ
種類 個人企業
略称 三尾屋
本店所在地 日本の旗 日本
644-1221
和歌山県日高郡日高川町大字寒川249
設立 1868年(明治元年)
業種 小売業
事業内容 小売販売
代表者 福島康充
外部リンク http://www.e-mioya.com
テンプレートを表示

三尾屋商店(みおやしょうてん)は、1868年明治元年)に開業し、和歌山県日高郡日高川町寒川小売販売等の事業を営む個人企業である。

概要

1868年(明治元年)に三尾(後の和歌山県日高郡美浜町域)で開業し、現在は和歌山県日高郡日高川町の寒川で小売を行っている[1]

仕入れは主に同県の御坊市田辺市から行っており、自家製の特産品販売も行っている。自家製の糠漬け「榮助漬け」の糠床は、1868年(明治元年)の開業当初より引き継がれている[2][3]

沿革

初代福島榮助(1847年(弘化4年)-1906年(明治39年))は、三尾の出身で、同じく三尾出身で「カナダ移民の父」とも呼ばれる工野儀兵衛は甥にあたる。榮助が幕末に湯浅に移住、明治改元の頃から寒川村との間で行商を始めたのが三尾屋のはじまりである。当初は湯浅からは小間物やいりこを、寒川からは現地産の椎茸を運び、両地を往復していた[4]

1876年(明治9年)10月、寒川の土居で家を借り湯浅から移転、1883年(明治16年)5月には家を購入した。やがて日高川沿いの交通状況が改善すると、三尾屋は1897年(明治30年)頃から製茶工場を建て、の扱いを始めた。二代目榮助(1876年(明治9年)-1935年(昭和10年))の時代になると棕櫚など農産物全般へと取扱い品目を広げていった[5]。1935年(昭和10年)頃に撮影された「三尾屋百貨店」の看板を掲げる店舗の写真が残されている[6]。しかしこの時代は後に統制が進行、人手不足もあり、椎茸を除く農産物の販売から手を引かざるを得なくなった[7]

1953年(昭和28年)には戦前からの店舗が紀州大水害で被害を受け、店舗が建て替えられた[8]。昭和40年代には農薬医薬品を除く生活必需品全般を扱うようになっている[7]

脚注

  1. ^ ぬか床まもって140年! 情報ワイド きい☆ハンター 和歌山放送、2013年12月19日
  2. ^ 森滋「週刊まちぶら 寒川地区(旧美山村) 先人の伝統 後世に」『朝日新聞』2006年(平成18年)10月16日付朝刊33面(和歌山)。
  3. ^ ホロホロ鳥の日高川町を歩く(5): うまいが一番!わかやま 和歌山放送、2007年9月10日
  4. ^ 『美山村史』416ページ
  5. ^ 『美山村史』416-417ページ
  6. ^ 『保存版 御坊・日高今昔写真帖』郷土出版社、2008年、80ページ ISBN 978-4-87663-955-7。※「百貨店」の「貨」は人偏にヒ+貝と書く字体。
  7. ^ a b 『美山村史』417ページ
  8. ^ 『保存版 御坊・日高今昔写真帖』81ページ

参考文献

  • 美山村史編纂委員会編集『美山村史 通史編』下巻、美山村、1997年、416-417ページ

外部リンク