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「キンシャサの奇跡」の版間の差分

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{{Infobox boxing match
'''キンシャサの奇跡'''(キンシャサのきせき)は、[[1974年]][[10月30日]]、[[ザイール|ザイール共和国]](現在の[[コンゴ民主共和国]])の[[首都]][[キンシャサ]]の当時のナショナルスタジアムである「{{Ill2|5月20日スタジアム|en|Stade Tata Raphaël}}」<ref>[http://www.tokyo-sports.co.jp/blogwriter-watanabe/26504/ こちらも「40周年」アリVSフォアマンの今日的意義 2014年11月2日] 東京スポーツ 2014年11月2日付</ref>で行われた[[世界ボクシング協会|WBA]]・[[世界ボクシング評議会|WBC]]世界統一ヘビー級王座の[[ジョージ・フォアマン]]に[[モハメド・アリ]]が挑んだ[[ボクシング]]のタイトルマッチのことを指す。下馬評を覆し、モハメド・アリが勝利したことからこの名で呼ばれるようになった<ref name="sportiva">{{Cite web|url=http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/keiba_fight/2011/10/30/post_16/|title=【今日は何の日?】モハメド・アリ〝キンシャサの奇跡〟|date=2011年10月30日|publisher=[[Sportiva|web Sportiva]]|accessdate=2012年7月5日}}</ref>。
|Fight Name = ランブル・イン・ザ・ジャングル<br />{{lang|en|Rumble in the Jungle}}<!-- 興業名を記す(「キンシャサの奇跡」は通称) -->
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'''キンシャサの奇跡'''(キンシャサのきせき)は、[[1974年]][[10月30日]]、[[ザイール|ザイール共和国]](現在の[[コンゴ民主共和国]])の[[首都]][[キンシャサ]]の「5月20日スタジアム{{enlink|Stade Tata Raphael|Stade du 20 Mai}}」<ref name="TS141102">[https://web.archive.org/web/20160419105116/http://www.tokyo-sports.co.jp/blogwriter-watanabe/26504/ こちらも「40周年」アリVSフォアマンの今日的意義 2014年11月02日] 東京スポーツ 2014年11月2日付</ref>で行われた[[プロボクシング]][[世界ボクシング協会|WBA]]・[[世界ボクシング評議会|WBC]]世界統一[[ヘビー級]]タイトルマッチの通称。王者[[ジョージ・フォアマン]]と挑戦者[[モハメド・アリ]]が対戦し、アリが劇的な逆転[[ノックアウト|KO]]勝利をおさめたことからこの名で呼ばれるようになった。


== 概要 ==
== 概要 ==
この一戦は「[[アフリカ系アメリカ人|アフロ・アメリカン]]のボクサー同士が、ルーツであるアフリカ大陸で行う初のヘビー級タイトルマッチ」として、'''ランブル・イン・ザ・ジャングル'''('''''Rumble in the Jungle'''''、ジャングルの決闘<ref name="p251">『復活の研究』、251頁。</ref>)なる謳い文句が付けられた。このビッグマッチを仲介した人物は、その後大物プロモーターとして名を馳せる[[ドン・キング]]と音楽ビジネスマンのジェリー・マスッチであった。
ジョージ・フォアマンは、1973年に[[ジョー・フレージャー]]をKOで倒し、統一世界ヘビー級王座を獲得するなど上り調子であったのに対し、モハメド・アリは[[ベトナム戦争]]への[[徴兵]]を拒否したことからヘビー級王座を剥奪され、3年7か月間ブランクを余儀なくされた。復帰後の[[1971年]]にはフレージャーに敗北するなど全盛期を過ぎたと見られていた。この2人が[[キンシャサ]]でタイトルマッチを行った。


キングは、王者ジョージ・フォアマンと元王者モハメド・アリの両者に、[[ファイトマネー]]を500万ドル(約15億円<ref group="注" name="en">[[円 (通貨)#為替レート|1974年10月当時の為替レート]]1ドル=約300円で換算。</ref>)ずつ用意できれば、対戦をするという契約にサインをさせることに成功する。当時のスポーツ興行で史上最高の報酬をキングが提示<ref name="asahi1029">朝日新聞1974年10月29日朝刊スポーツ面(朝日新聞縮小版昭和49年(1974年)10月)。</ref><ref group="注">それ以前のファイトマネーの最高額は、アリ対[[ジョー・フレージャー]]のヘビー級タイトルマッチ(1971年)における総額500万ドル(両者に250万ドルずつ)。</ref>したのは、他のボクシングプロモーターにフォアマン対アリの試合を横取りされるのを防ぐ意図があった。しかしキングはそれだけの大金をアメリカ国内では用意することが出来ず、アメリカでの開催を断念し、試合を開催できる海外の国を探した。そして、ザイールで独裁政権を築いていた[[モブツ・セセ・セコ]]大統領のアメリカ人顧問フレッド・ワイドが、国威発揚と自身の人気に繋がると大統領を説得してザイールでの開催が決定。[[リビア]]の独裁者[[ムアンマル・アル=カッザーフィー]]が、試合の主要な財政的スポンサーとなり、両者のファイトマネーや開催にかかる主な費用を負担した。
アリは、ロープにもたれながらフォアマンのパンチを腕でブロックし、相手の打ち疲れを待つ「ロープ・ア・ドープ」という戦術を使い<ref name="ninomiya">{{Cite web|author=二宮清純|url=http://www.ninomiyasports.com/archives/10780|title=汚れていた? 「キンシャサの奇跡」|date=2007年5月30日|publisher=スポーツコミュニケーションズ(「[[スポーツニッポン]]」に掲載)|accessdate=2016年6月28日}}</ref><ref name="sportiva" />、8ラウンド終了間際にワンツーの速攻でフォアマンをマットに沈め、KO勝利を収めた。


フォアマンとアリは1974年の半ばに事前にザイールでトレーニングを行い、熱帯のアフリカの気候に慣れた。
本試合は『{{Ill2|かけがえのない日々|en|When We Were Kings}}』というタイトルで映画化もされた。また、2001年公開の『[[ALI アリ]]』でも引用され、クライマックス・シーンとしてアリの勝利からエンディングに移行するという展開が描かれている。
試合は9月25日に行われる予定だったが、両選手が現地入りした後、試合の8日前にフォアマンがスパーリング中に右まぶたを切ってしまったため、傷が癒えるまで5週間延期された。試合の模様は世界60カ国へ衛星中継され、アメリカ東部29日の22時に合わせ、開始時刻はザイール時間30日午前4時になった。日本では[[テレビ朝日|NETテレビ]](現・テレビ朝日)の「[[エキサイトボクシング]]」特別番組で、日本時間30日午後1時より放送された(当日午後7時30分から再放送)<ref>朝日新聞1974年10月30日朝刊テレビ欄。</ref>。


試合会場の5月20日スタジアム(現:[[スタッド・タタ・ラファエル]])は普段はサッカー場として使われていたが、6万人を収容できるよう改装された。ザイール国民の平均年収100ドル以下に対し、最前列の特等席は250ドル(7万5千円)の値が付けられた<ref name="p251"/>。
後年、フォアマンは自伝 ''God in My Corner''の中で、リングに上がる直前に自分のトレーナーから薬のような味のする飲み物を与えられたと書き、何らかの薬物を盛られた可能性を示唆しているが<ref name="ninomiya" /><ref>{{Cite web|url=http://sports.espn.go.com/sports/boxing/news/story?id=2878507|title=Foreman claims he was drugged before loss to Ali|date=2007年5月22日|publisher=[[ESPN]]|language=英語|accessdate=2012年12月6日}}</ref>、アリと3度、フォアマンと2度対戦したジョー・フレージャーは「[[ニューヨーク・ポスト]]」のインタビューに応じて、「フォアマンの言うことを私は信じない。アリは正々堂々と勝利したのだ」と話している<ref>{{Cite web|author=Mark Vester|url=http://www.boxingscene.com/?m=show&opt=printable&id=8923|title=Frazier Disputes Foreman's "Drugged" Claim|date=2007年6月4日|publisher=BoxingScene.com|language=英語|accessdate=2012年12月6日}}</ref>。


また試合は延期されたが、試合のプロモーションイベント「ザイール'74{{enlink|Zaire 74}}」という[[黒人音楽]]フェスティバルが予定通り9月22日から24日の3日間に渡ってに行われた。[[ジェームス・ブラウン]]、[[B.B.キング]]、[[ビル・ウィザーズ]]、[[ザ・クルセイダーズ]]らアフロ・アメリカンのミュージシャンが、[[ミリアム・マケバ]]、[[マヌ・ディバンゴ]]らアフリカのミュージシャンと共演し、「ブラック・[[ウッドストック・フェスティバル|ウッドストック]]」とも呼ばれた<ref>{{Cite news |title=34年の時を経て、神話と化した<ザイール'74>が今明らかに |url=https://www.barks.jp/news/?id=1000061168 |newspaper=BARKS |date=2010-05-19 |accessdate=2017-04-22}}</ref>。
== 脚注 ==

== 両選手の比較 ==
両選手とも[[アマチュアボクシング|アマチュア]]時代にアメリカ代表選手として[[オリンピックのボクシング競技|オリンピック]]に出場し、アリは[[1960年ローマオリンピックのボクシング競技|1960年ローマ大会]]のライトヘビー級<ref group="注">金メダル獲得当時は本名の「カシアス・クレイ」。</ref>、フォアマンは[[1968年メキシコシティーオリンピックのボクシング競技|1968年メキシコ大会]]のヘビー級で金メダルを獲得している。プロ転向後は、ともに無敗のままヘビー級チャンピオンへと駆け上がった。
;挑戦者:モハメド・アリ
:[[1942年]]生(当時32歳)。プロ成績は46戦44勝(31KO)2敗。1964年に[[ソニー・リストン]]を倒し、22歳の若さでヘビー級チャンピオンとなるも、[[ベトナム戦争]]への[[徴兵]]を拒否したことから1967年に王座を剥奪され、3年7カ月のブランクを余儀なくされた。
:1970年に復帰したが、王座奪回に挑んだ1971年3月の[[ジョー・フレージャー]]戦でプロ初ダウンと初黒星(判定負け)を喫し、1973年3月の[[ケン・ノートン]]戦でも顎を砕かれて判定負けした。その後、両者との再戦で判定勝ちをおさめ、フォアマンへの挑戦権を得た。
;王者:ジョージ・フォアマン
:[[1949年]]生(当時25歳)。プロ成績は40戦40勝(37KO)。1973年1月、王者フレージャーから6度のダウンを奪い、2ラウンドKO勝利でヘビー級チャンピオンとなった。防衛戦は1973年9月のホセ・キング・ローマン戦を1ラウンドKO<ref group="注">フォアマンの王座初防衛戦となるローマン戦は日本の[[日本武道館]]で行われた。</ref>、1974年3月のノートン戦を2ラウンドKOで勝利し、連続KOを24戦に伸ばしてアリとの対戦を迎えた。
対戦のポイントは「象をも倒す」といわれたフォアマンのパンチ力と、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」といわれたアリのスピードであった。アリは記者会見でフォアマンを「Mummy([[ミイラ]])」と呼び、のろまな動きでは自分を捕まえられないと挑発した<ref>『復活の研究』、252頁。</ref>。しかし、復帰後の試合ではアリのフットワークに衰えがみられ、この試合でキャリア初のKO負けを喫して引退に追い込まれるのではないかと囁かれた。アメリカの専門家筋の予想は4対1、ロンドンの[[ブックメーカー]]の掛け率は11対5でフォアマン勝利を支持した<ref name="asahi1029"/>。
{{Quotation|ジョージ・フォアマンはヘビー級史上最強のパンチャーかもしれない。2ラウンドか3ラウンドくらいなら、アリはフォアマンのハンマーのような強打を逃れられるかもしれないが、15ラウンドは無理だ。遅かれ早かれ、チャンピオンはハンマーのようなパンチを決めるだろうし、モハメド・アリは初めてカウントアウトになるだろう。第1ラウンドでそうなる可能性もある。|デイヴ・アンダーソン{{enlink|Dave Anderson (sportswriter)|Dave Anderson}}|[[ニューヨーク・タイムズ]]1974年10月27日付<ref>『モハメド・アリ その生と時代』、342頁。</ref> }}

== 試合展開 ==
第1ラウンド開始から、両者は積極的に打ち合う。アリは左右に動きまわりながら、リードブローの左ジャブではなく、ノーモーションの右ストレートを顔面に命中させる。フォアマンもひるむことなく前進し、強烈な左フックをアリに見舞う。

第2ラウンド、フォアマンがアリをロープ際に追いつめ、連打を浴びせる。アリはガードを固めて守勢一方になりながら、隙を見てカウンターを当てる。

第4ラウンド、アリの手数が減り、フォアマンの強打が猛威を振るう。

第5ラウンド2分過ぎ、フォアマンはアリをロープ際に釘付けにし、大振りのパンチで滅多打ちにする。残り30秒、フォアマンの猛攻がやんだところでアリが反撃し、鋭い連打でフォアマンをたじろがせる。

第6ラウンド、ロープ際の攻防が続くが、フォアマンの疲労が目立ち始める。パンチの手数・威力とも減り、アリにもたれかかる場面も見られる。

[[File:Ali knockout foreman.jpg|thumb|200px|第8ラウンド 崩れ落ちるフォアマン]]
第8ラウンド残り16秒、ニュートラルコーナー付近でフォアマンがバランスを崩すと、アリは素早く身体を入れ替えロープ際を脱出。振り向いたフォアマンの顔面に右・左・右・左・右の5連打を浴びせる。最後の右ストレートがフォアマンの顎を直撃すると、フォアマンは足元をぐらつかせ、もんどりうってダウンする。カウント8で立ち上がるが、レフェリーは10カウントKOを宣告し、アリの劇的な勝利を目にした会場は熱狂的な歓声に包まれた。

== エピソード ==
=== ロープ・ア・ドープ ===
フォアマンは試合開始から猛攻を仕掛け、強力なパンチで短いラウンドでKO勝利を決めるというスタイルを持っていたが、長いラウンドを闘った経験は少なかった。アリ陣営は第5・6ラウンドまで[[アウトボクシング]]で動きまわりながらジャブを放ち、フォアマンが疲れてきたら攻め込むという作戦を立てていた<ref>『モハメド・アリ その生と時代』、365頁。</ref>。しかし、アリは第2ラウンド以降足を止めてロープに体を預け、[[サンドバッグ]]状態でフォアマンの強打を浴び続けた。アリの説明では、第1ラウンドを戦った時点でリングが動きにくく、フォアマンも非常に接近してきたため、動き回ると自分の方が先に疲れてしまうと思ったという<ref name="p366">『モハメド・アリ その生と時代』、366頁。</ref>。そこで作戦を変更して「トレーニング中疲れた場合にやること」をやろうと決めた<ref name="p366"/>。それは49歳まで10年間世界[[ライトヘビー級]]王者を保持した[[アーチー・ムーア]]<ref group="注">アリは20歳の時、45歳のムーアと対戦して4ラウンドKO勝利した。また、プロデビュー当時ムーアのもとでトレーニングした時期もある。キンシャサの対戦では、ムーアはフォアマンサイドのセコンドに付いていた。</ref>がよくやっていたことだという。
{{Quotation|アーチーは頭のいいファイターだった。彼はいまの俺と同じくらいの年齢まで戦っていたが、それができたのはエネルギーを節約したからだ。彼は自分より若い相手に打たせておき、科学的なやり方ですべてをブロックしたんだ。そして相手が疲れてきたとき、アーチーは攻め込むんだ。これは誰でもできるってもんじゃないよ。相当の熟練が必要だからね。|モハメド・アリ|『モハメド・アリ その生と時代』、366頁。}}

アリはロープにもたれながら両腕でがっちり顎とボディをガードし、ときにはリング外にのけぞるようにスウェーして致命的なダメージを回避した。また、フォアマンの後頭部を押さえつけたり、フォアマンに体重をかけ寄りかかるような[[クリンチ]]をして勢いをそぎ、耳元で「もっと強く打ってみろ」「お前はすげえ奴じゃなかったのか」と罵倒し続けた<ref name="p366"/>。フォアマンはこれに激怒して強振を繰り返して体力を消耗した結果<ref>『ボクシング名勝負の真実』、208頁。</ref>、第6ラウンド以降は動きが緩慢になり、アリの一瞬の連打によって大逆転負けを喫する結末となった。{{要出典範囲|フォアマンは「第7ラウンドぐらいまでは、彼は私のもう一人のノックアウトの犠牲者にすぎないと思っていたんだ。でも彼の顎を強く殴った時、彼は私をホールドして耳元で『それで精一杯なのかい、ジョージ?』と囁いたんだ。その時にこれは私が考えていたものとは違うこと気付いたんだ」と語っている。|date=2021年5月}}

アリのこの捨て身の戦法は'''ロープ・ア・ドープ''' ('''''Rope a Dope''''') と呼ばれた。自陣セコンドでさえその意図が判らず、トレーナーの[[アンジェロ・ダンディ]]{{enlink|Angelo Dundee}}はアリが足を止めた時に「彼の気が狂ったのかと思った」という<ref>『復活の研究』、255頁。</ref>。ダンディは試合中しきりに「ロープから離れろ!」「ダンスを踊れ(足を使え)!」と指示を出していた。

=== フォアマンの敗因 ===
予期せぬフォアマンの敗北に関しては、自己分析を含めていくつかの敗因が語られた。
*練習中に負傷したフォアマンはヨーロッパでの治療を望んだが、試合のキャンセルをおそれた政権により出国を禁じられた。延期中は傷が治るまで10日間は汗をかいてはいけないといわれ、充分なトレーニングを積むことができなかった<ref>『敗れざる者』、180頁。</ref>。
*フォアマンのトレーナー兼マネージャーのディック・サドラーがアリ陣営に買収され、フォアマンに毒を盛ったという陰謀説が試合直後から流れた<ref>{{Cite web|和書|date=2016-06-05 |url=https://thepage.jp/detail/20160604-00000004-wordleafs?page=2 |title=キンシャサの奇跡を見た取材記者のアリの真実 |publisher=THE PAGE |page=2 |accessdate=2017-04-23}}</ref>。フォアマンの自伝『By George(邦題:敗れざる者)』によると、いつも試合前にロッカールームでサドラーからコップ1杯の水をもらうという決め事([[ルーティン]])があったが、その日飲んだ水は薬のような味がして吐き出しそうになった、試合は3ラウンドしか戦っていないのにクタクタに疲れてしまった、と語っている<ref>『敗れざる者』、183-185頁。</ref>。後年の伝記『God in My Corner』でも「試合前にトレーナーから薬のような味がする飲み物を与えられた」と語っている<ref>{{Cite web|url=http://sports.espn.go.com/sports/boxing/news/story?id=2878507|title=Foreman claims he was drugged before loss to Ali|date=2007年5月22日|publisher=[[ESPN]]|language=英語|accessdate=2012年12月6日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=二宮清純|url=http://www.ninomiyasports.com/archives/10780|title=汚れていた? 「キンシャサの奇跡」|date=2007年5月30日|publisher=スポーツコミュニケーションズ(「[[スポーツニッポン]]」に掲載)|accessdate=2016年6月28日}}</ref>。この件に関して、アリと3度、フォアマンと2度対戦したジョー・フレージャーは「[[ニューヨーク・ポスト]]」のインタビューに応じて、「フォアマンの言うことを私は信じない。アリは正々堂々と勝利したのだ」と話している<ref>{{Cite web|author=Mark Vester|url=http://www.boxingscene.com/?m=show&opt=printable&id=8923|title=Frazier Disputes Foreman's "Drugged" Claim|date=2007年6月4日|publisher=BoxingScene.com|language=英語|accessdate=2012年12月6日}}</ref>。
*フォアマンは試合中攻めあぐねていても、セコンドがラッシュを続けろと指示するばかりだったと不満を述べている<ref>『敗れざる者』、187頁。</ref>。また、ダウンした際には意識がはっきりしており、サドラーの合図でカウント8まで休んでから立ち上がったが、レフェリーがカウントを続行してKO負けになったとも述べている<ref>『敗れざる者』、190頁。</ref>。この試合以降、フォアマンはプロデビュー以来世話になってきたサドラーと袂を分かった。
*ロープ・ア・ドープについては、フォアマンはアリ陣営が試合前にリングに細工してロープを緩めておいたと主張している。アリ陣営のプロモーターによると事実は逆で、前日正午にリングをチェックした際、新品のロープが蒸し暑さのため伸び始めていたのできつく締め直したという<ref>『モハメド・アリ その生と時代』、359-360頁。</ref>。アリがリングに上がる頃にはまた緩んでおり、第1R後のインターバルに再度締め直そうとしたが、アリは「やめろ!そのままにしておいてくれ」と言ったという<ref>『モハメド・アリ その生と時代』、364頁。</ref>。

=== アリ・ボマ・イェ ===
ザイール国民はアメリカの国家権力に反抗したアリのことを[[第三世界]]のヒーローとして歓迎し、アリも[[ロードワーク]]で街の人々と交流しながら親交を深めていた。かたや現役チャンピオンのフォアマンは完全に敵役([[ヒール (プロレス)|ヒール]])扱いされた。ザイールまで連れてきた愛犬の[[ジャーマン・シェパード・ドッグ|シェパード]]が、人々に[[ベルギー]]統治時代の[[警察犬]]を思い起こさせ、余計に反感を買ったという。試合前から試合中まで、ザイール国民は「'''アーリッ・ボマ・イェ!'''('''''Ali,boma ye!''''')」という威勢のいい[[チャント]]でアリを応援した。この言葉は現地の[[リンガラ語]]で「アリ、奴を殺せ(Ali,kill him)」という意味になる。

1977年にアリ主演の自伝映画『[[アリ/ザ・グレーテスト]]』が公開され、[[マイケル・マッサー]]作曲の「Ali Bombaye (Zaire Chant<ref group="注">イントロ部分では「'''アーリッ、ブンバイェ!'''」とチャントが連呼される。</ref>)」という曲がBGMに使われた。この曲は1976年に[[アントニオ猪木対モハメド・アリ|格闘技世界一決定戦]](東京)でアリと対戦したプロレスラーの[[アントニオ猪木]]に贈られ、日本では「炎のファイター INOKI BOM-BA-YE<ref group="注">チャントの歌詞は「'''イノキ、ボンバイエ!'''」。</ref>」と題して猪木の入場テーマ曲として知られるようになった。2000年代に猪木がプロデュースした格闘技イベントは「[[INOKI BOM-BA-YE]](イノキボンバイエ)」と題された。

猪木が創立した[[新日本プロレス]]に所属していた[[中邑真輔]]は、必殺技の飛び膝蹴りを「[[中邑真輔#フィニッシュ・ホールド|ボマイェ]]」と呼んでいたが、[[WWE]]移籍後は「キンシャサ・ニー・ストライク」に改めた。アメリカでは「ボマイェ(殺せ)」という言葉が[[放送禁止用語]]にあたると云われ、デビュー戦当日に自分で新しい名前を決めたという<ref>{{Cite news |title=WWE無敗のナカムラ凱旋激白「一軍でも自信ある。理由は変幻自在だから」 |url=https://web.archive.org/web/20160706131400/http://www.tokyo-sports.co.jp/prores/mens_prores/561367/ |newspaper=東京スポーツ |date=2016-07-05 |accessdate=2017-04-28}}</ref>。

== 関連作品 ==
作家[[ノーマン・メイラー]]はザイール滞在中のアリを密着取材し、1975年に『ザ・ファイト (The Fight) 』という[[ノンフィクション]]を出版した。

1996年、キンシャサで撮影された記録映像をもとにしたドキュメンタリー映画『[[モハメド・アリ かけがえのない日々]](原題:[[:en:When We Were Kings|When We Were Kings]])』が公開された。監督は[[レオン・ギャスト]]{{enlink|Leon Gast}}。[[第69回アカデミー賞]][[アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞|長編ドキュメンタリー映画賞]]を受賞し、授賞式ではアリとフォアマンも並んで壇上に上がった。

2001年の伝記映画『[[ALI アリ]]』ではクライマックスシーンでキンシャサの奇跡が描かれる。アリを演じた俳優[[ウィル・スミス]]は[[アカデミー主演男優賞]]にノミネートされた。また、フォアマンを演じたチャールズ・シュフォード{{enlink|Charles Shufford}}は当時現役のヘビー級ボクサーで、2001年に[[ウラジミール・クリチコ]]の持つ[[世界ボクシング機構|WBO]]世界ヘビー級タイトルに挑戦したが敗れた。

== 参考文献 ==
* トマス・ハウザー著・小林勇次訳 『モハメド・アリ その生と時代』 東京書籍<シリーズ・ザ・スポーツノンフィクション14>、1993年、ISBN 4487761484
* ジョージ・フォアマン著・[[安部譲二]]訳 『敗れざる者 ジョージ・フォアマン自伝』 角川春樹事務所、1995年、ISBN 487031228X
* 日本経済新聞運動部編 『復活の研究』 日本経済新聞社、2003年、ISBN 4532164397
* [[原功 (ボクシング)|原功]] 『ボクシング名勝負の真実』 ネコパブリッシング、2006年、ISBN 4777051420

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[番狂わせ]]
* [[テレビ朝日]](当時、日本教育テレビ) - この試合を生中継した日本のテレビ局
* [[スタッド・デ・マルティール]]
* [[キンシャサノキセキ]] - この試合を馬名の由来とする競走馬
* [[未来への10カウント]] - 2022年に放送された日本のテレビドラマ。第4話でこの試合について言及されている。


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2024年1月7日 (日) 18:47時点における最新版

ランブル・イン・ザ・ジャングル
Rumble in the Jungle
開催日 1974年10月30日
認定王座 WBAWBCヘビー級タイトルマッチ
開催地 ザイールキンシャサ
会場 5月20日スタジアム (Stade du 20 Mai

ジョージ・フォアマン 対 モハメド・アリ
比較データ
25歳 年齢 32歳
テキサス州ヒューストン 出身地 ケンタッキー州ルイヴィル
40勝無敗(37KO) 戦績 44勝2敗(31KO)
WBA/WBC世界ヘビー級王者 評価

結果 アリ8回KO勝ち
主審 ザック・クレイトン

キンシャサの奇跡(キンシャサのきせき)は、1974年10月30日ザイール共和国(現在のコンゴ民主共和国)の首都キンシャサの「5月20日スタジアム (Stade du 20 Mai[1]で行われたプロボクシングWBAWBC世界統一ヘビー級タイトルマッチの通称。王者ジョージ・フォアマンと挑戦者モハメド・アリが対戦し、アリが劇的な逆転KO勝利をおさめたことからこの名で呼ばれるようになった。

概要

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この一戦は「アフロ・アメリカンのボクサー同士が、ルーツであるアフリカ大陸で行う初のヘビー級タイトルマッチ」として、ランブル・イン・ザ・ジャングルRumble in the Jungle、ジャングルの決闘[2])なる謳い文句が付けられた。このビッグマッチを仲介した人物は、その後大物プロモーターとして名を馳せるドン・キングと音楽ビジネスマンのジェリー・マスッチであった。

キングは、王者ジョージ・フォアマンと元王者モハメド・アリの両者に、ファイトマネーを500万ドル(約15億円[注 1])ずつ用意できれば、対戦をするという契約にサインをさせることに成功する。当時のスポーツ興行で史上最高の報酬をキングが提示[3][注 2]したのは、他のボクシングプロモーターにフォアマン対アリの試合を横取りされるのを防ぐ意図があった。しかしキングはそれだけの大金をアメリカ国内では用意することが出来ず、アメリカでの開催を断念し、試合を開催できる海外の国を探した。そして、ザイールで独裁政権を築いていたモブツ・セセ・セコ大統領のアメリカ人顧問フレッド・ワイドが、国威発揚と自身の人気に繋がると大統領を説得してザイールでの開催が決定。リビアの独裁者ムアンマル・アル=カッザーフィーが、試合の主要な財政的スポンサーとなり、両者のファイトマネーや開催にかかる主な費用を負担した。

フォアマンとアリは1974年の半ばに事前にザイールでトレーニングを行い、熱帯のアフリカの気候に慣れた。 試合は9月25日に行われる予定だったが、両選手が現地入りした後、試合の8日前にフォアマンがスパーリング中に右まぶたを切ってしまったため、傷が癒えるまで5週間延期された。試合の模様は世界60カ国へ衛星中継され、アメリカ東部29日の22時に合わせ、開始時刻はザイール時間30日午前4時になった。日本ではNETテレビ(現・テレビ朝日)の「エキサイトボクシング」特別番組で、日本時間30日午後1時より放送された(当日午後7時30分から再放送)[4]

試合会場の5月20日スタジアム(現:スタッド・タタ・ラファエル)は普段はサッカー場として使われていたが、6万人を収容できるよう改装された。ザイール国民の平均年収100ドル以下に対し、最前列の特等席は250ドル(7万5千円)の値が付けられた[2]

また試合は延期されたが、試合のプロモーションイベント「ザイール'74 (Zaire 74」という黒人音楽フェスティバルが予定通り9月22日から24日の3日間に渡ってに行われた。ジェームス・ブラウンB.B.キングビル・ウィザーズザ・クルセイダーズらアフロ・アメリカンのミュージシャンが、ミリアム・マケバマヌ・ディバンゴらアフリカのミュージシャンと共演し、「ブラック・ウッドストック」とも呼ばれた[5]

両選手の比較

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両選手ともアマチュア時代にアメリカ代表選手としてオリンピックに出場し、アリは1960年ローマ大会のライトヘビー級[注 3]、フォアマンは1968年メキシコ大会のヘビー級で金メダルを獲得している。プロ転向後は、ともに無敗のままヘビー級チャンピオンへと駆け上がった。

挑戦者:モハメド・アリ
1942年生(当時32歳)。プロ成績は46戦44勝(31KO)2敗。1964年にソニー・リストンを倒し、22歳の若さでヘビー級チャンピオンとなるも、ベトナム戦争への徴兵を拒否したことから1967年に王座を剥奪され、3年7カ月のブランクを余儀なくされた。
1970年に復帰したが、王座奪回に挑んだ1971年3月のジョー・フレージャー戦でプロ初ダウンと初黒星(判定負け)を喫し、1973年3月のケン・ノートン戦でも顎を砕かれて判定負けした。その後、両者との再戦で判定勝ちをおさめ、フォアマンへの挑戦権を得た。
王者:ジョージ・フォアマン
1949年生(当時25歳)。プロ成績は40戦40勝(37KO)。1973年1月、王者フレージャーから6度のダウンを奪い、2ラウンドKO勝利でヘビー級チャンピオンとなった。防衛戦は1973年9月のホセ・キング・ローマン戦を1ラウンドKO[注 4]、1974年3月のノートン戦を2ラウンドKOで勝利し、連続KOを24戦に伸ばしてアリとの対戦を迎えた。

対戦のポイントは「象をも倒す」といわれたフォアマンのパンチ力と、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」といわれたアリのスピードであった。アリは記者会見でフォアマンを「Mummy(ミイラ)」と呼び、のろまな動きでは自分を捕まえられないと挑発した[6]。しかし、復帰後の試合ではアリのフットワークに衰えがみられ、この試合でキャリア初のKO負けを喫して引退に追い込まれるのではないかと囁かれた。アメリカの専門家筋の予想は4対1、ロンドンのブックメーカーの掛け率は11対5でフォアマン勝利を支持した[3]

ジョージ・フォアマンはヘビー級史上最強のパンチャーかもしれない。2ラウンドか3ラウンドくらいなら、アリはフォアマンのハンマーのような強打を逃れられるかもしれないが、15ラウンドは無理だ。遅かれ早かれ、チャンピオンはハンマーのようなパンチを決めるだろうし、モハメド・アリは初めてカウントアウトになるだろう。第1ラウンドでそうなる可能性もある。 — デイヴ・アンダーソン (Dave Andersonニューヨーク・タイムズ1974年10月27日付[7]

試合展開

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第1ラウンド開始から、両者は積極的に打ち合う。アリは左右に動きまわりながら、リードブローの左ジャブではなく、ノーモーションの右ストレートを顔面に命中させる。フォアマンもひるむことなく前進し、強烈な左フックをアリに見舞う。

第2ラウンド、フォアマンがアリをロープ際に追いつめ、連打を浴びせる。アリはガードを固めて守勢一方になりながら、隙を見てカウンターを当てる。

第4ラウンド、アリの手数が減り、フォアマンの強打が猛威を振るう。

第5ラウンド2分過ぎ、フォアマンはアリをロープ際に釘付けにし、大振りのパンチで滅多打ちにする。残り30秒、フォアマンの猛攻がやんだところでアリが反撃し、鋭い連打でフォアマンをたじろがせる。

第6ラウンド、ロープ際の攻防が続くが、フォアマンの疲労が目立ち始める。パンチの手数・威力とも減り、アリにもたれかかる場面も見られる。

第8ラウンド 崩れ落ちるフォアマン

第8ラウンド残り16秒、ニュートラルコーナー付近でフォアマンがバランスを崩すと、アリは素早く身体を入れ替えロープ際を脱出。振り向いたフォアマンの顔面に右・左・右・左・右の5連打を浴びせる。最後の右ストレートがフォアマンの顎を直撃すると、フォアマンは足元をぐらつかせ、もんどりうってダウンする。カウント8で立ち上がるが、レフェリーは10カウントKOを宣告し、アリの劇的な勝利を目にした会場は熱狂的な歓声に包まれた。

エピソード

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ロープ・ア・ドープ

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フォアマンは試合開始から猛攻を仕掛け、強力なパンチで短いラウンドでKO勝利を決めるというスタイルを持っていたが、長いラウンドを闘った経験は少なかった。アリ陣営は第5・6ラウンドまでアウトボクシングで動きまわりながらジャブを放ち、フォアマンが疲れてきたら攻め込むという作戦を立てていた[8]。しかし、アリは第2ラウンド以降足を止めてロープに体を預け、サンドバッグ状態でフォアマンの強打を浴び続けた。アリの説明では、第1ラウンドを戦った時点でリングが動きにくく、フォアマンも非常に接近してきたため、動き回ると自分の方が先に疲れてしまうと思ったという[9]。そこで作戦を変更して「トレーニング中疲れた場合にやること」をやろうと決めた[9]。それは49歳まで10年間世界ライトヘビー級王者を保持したアーチー・ムーア[注 5]がよくやっていたことだという。

アーチーは頭のいいファイターだった。彼はいまの俺と同じくらいの年齢まで戦っていたが、それができたのはエネルギーを節約したからだ。彼は自分より若い相手に打たせておき、科学的なやり方ですべてをブロックしたんだ。そして相手が疲れてきたとき、アーチーは攻め込むんだ。これは誰でもできるってもんじゃないよ。相当の熟練が必要だからね。 — モハメド・アリ、『モハメド・アリ その生と時代』、366頁。

アリはロープにもたれながら両腕でがっちり顎とボディをガードし、ときにはリング外にのけぞるようにスウェーして致命的なダメージを回避した。また、フォアマンの後頭部を押さえつけたり、フォアマンに体重をかけ寄りかかるようなクリンチをして勢いをそぎ、耳元で「もっと強く打ってみろ」「お前はすげえ奴じゃなかったのか」と罵倒し続けた[9]。フォアマンはこれに激怒して強振を繰り返して体力を消耗した結果[10]、第6ラウンド以降は動きが緩慢になり、アリの一瞬の連打によって大逆転負けを喫する結末となった。フォアマンは「第7ラウンドぐらいまでは、彼は私のもう一人のノックアウトの犠牲者にすぎないと思っていたんだ。でも彼の顎を強く殴った時、彼は私をホールドして耳元で『それで精一杯なのかい、ジョージ?』と囁いたんだ。その時にこれは私が考えていたものとは違うこと気付いたんだ」と語っている。[要出典]

アリのこの捨て身の戦法はロープ・ア・ドープ (Rope a Dope) と呼ばれた。自陣セコンドでさえその意図が判らず、トレーナーのアンジェロ・ダンディ (Angelo Dundeeはアリが足を止めた時に「彼の気が狂ったのかと思った」という[11]。ダンディは試合中しきりに「ロープから離れろ!」「ダンスを踊れ(足を使え)!」と指示を出していた。

フォアマンの敗因

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予期せぬフォアマンの敗北に関しては、自己分析を含めていくつかの敗因が語られた。

  • 練習中に負傷したフォアマンはヨーロッパでの治療を望んだが、試合のキャンセルをおそれた政権により出国を禁じられた。延期中は傷が治るまで10日間は汗をかいてはいけないといわれ、充分なトレーニングを積むことができなかった[12]
  • フォアマンのトレーナー兼マネージャーのディック・サドラーがアリ陣営に買収され、フォアマンに毒を盛ったという陰謀説が試合直後から流れた[13]。フォアマンの自伝『By George(邦題:敗れざる者)』によると、いつも試合前にロッカールームでサドラーからコップ1杯の水をもらうという決め事(ルーティン)があったが、その日飲んだ水は薬のような味がして吐き出しそうになった、試合は3ラウンドしか戦っていないのにクタクタに疲れてしまった、と語っている[14]。後年の伝記『God in My Corner』でも「試合前にトレーナーから薬のような味がする飲み物を与えられた」と語っている[15][16]。この件に関して、アリと3度、フォアマンと2度対戦したジョー・フレージャーは「ニューヨーク・ポスト」のインタビューに応じて、「フォアマンの言うことを私は信じない。アリは正々堂々と勝利したのだ」と話している[17]
  • フォアマンは試合中攻めあぐねていても、セコンドがラッシュを続けろと指示するばかりだったと不満を述べている[18]。また、ダウンした際には意識がはっきりしており、サドラーの合図でカウント8まで休んでから立ち上がったが、レフェリーがカウントを続行してKO負けになったとも述べている[19]。この試合以降、フォアマンはプロデビュー以来世話になってきたサドラーと袂を分かった。
  • ロープ・ア・ドープについては、フォアマンはアリ陣営が試合前にリングに細工してロープを緩めておいたと主張している。アリ陣営のプロモーターによると事実は逆で、前日正午にリングをチェックした際、新品のロープが蒸し暑さのため伸び始めていたのできつく締め直したという[20]。アリがリングに上がる頃にはまた緩んでおり、第1R後のインターバルに再度締め直そうとしたが、アリは「やめろ!そのままにしておいてくれ」と言ったという[21]

アリ・ボマ・イェ

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ザイール国民はアメリカの国家権力に反抗したアリのことを第三世界のヒーローとして歓迎し、アリもロードワークで街の人々と交流しながら親交を深めていた。かたや現役チャンピオンのフォアマンは完全に敵役(ヒール)扱いされた。ザイールまで連れてきた愛犬のシェパードが、人々にベルギー統治時代の警察犬を思い起こさせ、余計に反感を買ったという。試合前から試合中まで、ザイール国民は「アーリッ・ボマ・イェ!Ali,boma ye!)」という威勢のいいチャントでアリを応援した。この言葉は現地のリンガラ語で「アリ、奴を殺せ(Ali,kill him)」という意味になる。

1977年にアリ主演の自伝映画『アリ/ザ・グレーテスト』が公開され、マイケル・マッサー作曲の「Ali Bombaye (Zaire Chant[注 6])」という曲がBGMに使われた。この曲は1976年に格闘技世界一決定戦(東京)でアリと対戦したプロレスラーのアントニオ猪木に贈られ、日本では「炎のファイター INOKI BOM-BA-YE[注 7]」と題して猪木の入場テーマ曲として知られるようになった。2000年代に猪木がプロデュースした格闘技イベントは「INOKI BOM-BA-YE(イノキボンバイエ)」と題された。

猪木が創立した新日本プロレスに所属していた中邑真輔は、必殺技の飛び膝蹴りを「ボマイェ」と呼んでいたが、WWE移籍後は「キンシャサ・ニー・ストライク」に改めた。アメリカでは「ボマイェ(殺せ)」という言葉が放送禁止用語にあたると云われ、デビュー戦当日に自分で新しい名前を決めたという[22]

関連作品

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作家ノーマン・メイラーはザイール滞在中のアリを密着取材し、1975年に『ザ・ファイト (The Fight) 』というノンフィクションを出版した。

1996年、キンシャサで撮影された記録映像をもとにしたドキュメンタリー映画『モハメド・アリ かけがえのない日々(原題:When We Were Kings)』が公開された。監督はレオン・ギャスト (Leon Gast第69回アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受賞し、授賞式ではアリとフォアマンも並んで壇上に上がった。

2001年の伝記映画『ALI アリ』ではクライマックスシーンでキンシャサの奇跡が描かれる。アリを演じた俳優ウィル・スミスアカデミー主演男優賞にノミネートされた。また、フォアマンを演じたチャールズ・シュフォード (Charles Shuffordは当時現役のヘビー級ボクサーで、2001年にウラジミール・クリチコの持つWBO世界ヘビー級タイトルに挑戦したが敗れた。

参考文献

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  • トマス・ハウザー著・小林勇次訳 『モハメド・アリ その生と時代』 東京書籍<シリーズ・ザ・スポーツノンフィクション14>、1993年、ISBN 4487761484
  • ジョージ・フォアマン著・安部譲二訳 『敗れざる者 ジョージ・フォアマン自伝』 角川春樹事務所、1995年、ISBN 487031228X
  • 日本経済新聞運動部編 『復活の研究』 日本経済新聞社、2003年、ISBN 4532164397
  • 原功 『ボクシング名勝負の真実』 ネコパブリッシング、2006年、ISBN 4777051420

脚注

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注釈

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  1. ^ 1974年10月当時の為替レート1ドル=約300円で換算。
  2. ^ それ以前のファイトマネーの最高額は、アリ対ジョー・フレージャーのヘビー級タイトルマッチ(1971年)における総額500万ドル(両者に250万ドルずつ)。
  3. ^ 金メダル獲得当時は本名の「カシアス・クレイ」。
  4. ^ フォアマンの王座初防衛戦となるローマン戦は日本の日本武道館で行われた。
  5. ^ アリは20歳の時、45歳のムーアと対戦して4ラウンドKO勝利した。また、プロデビュー当時ムーアのもとでトレーニングした時期もある。キンシャサの対戦では、ムーアはフォアマンサイドのセコンドに付いていた。
  6. ^ イントロ部分では「アーリッ、ブンバイェ!」とチャントが連呼される。
  7. ^ チャントの歌詞は「イノキ、ボンバイエ!」。

出典

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  1. ^ こちらも「40周年」アリVSフォアマンの今日的意義 2014年11月02日 東京スポーツ 2014年11月2日付
  2. ^ a b 『復活の研究』、251頁。
  3. ^ a b 朝日新聞1974年10月29日朝刊スポーツ面(朝日新聞縮小版昭和49年(1974年)10月)。
  4. ^ 朝日新聞1974年10月30日朝刊テレビ欄。
  5. ^ “34年の時を経て、神話と化した<ザイール'74>が今明らかに”. BARKS. (2010年5月19日). https://www.barks.jp/news/?id=1000061168 2017年4月22日閲覧。 
  6. ^ 『復活の研究』、252頁。
  7. ^ 『モハメド・アリ その生と時代』、342頁。
  8. ^ 『モハメド・アリ その生と時代』、365頁。
  9. ^ a b c 『モハメド・アリ その生と時代』、366頁。
  10. ^ 『ボクシング名勝負の真実』、208頁。
  11. ^ 『復活の研究』、255頁。
  12. ^ 『敗れざる者』、180頁。
  13. ^ キンシャサの奇跡を見た取材記者のアリの真実”. THE PAGE. p. 2 (2016年6月5日). 2017年4月23日閲覧。
  14. ^ 『敗れざる者』、183-185頁。
  15. ^ Foreman claims he was drugged before loss to Ali” (英語). ESPN (2007年5月22日). 2012年12月6日閲覧。
  16. ^ 二宮清純 (2007年5月30日). “汚れていた? 「キンシャサの奇跡」”. スポーツコミュニケーションズ(「スポーツニッポン」に掲載). 2016年6月28日閲覧。
  17. ^ Mark Vester (2007年6月4日). “Frazier Disputes Foreman's "Drugged" Claim” (英語). BoxingScene.com. 2012年12月6日閲覧。
  18. ^ 『敗れざる者』、187頁。
  19. ^ 『敗れざる者』、190頁。
  20. ^ 『モハメド・アリ その生と時代』、359-360頁。
  21. ^ 『モハメド・アリ その生と時代』、364頁。
  22. ^ “WWE無敗のナカムラ凱旋激白「一軍でも自信ある。理由は変幻自在だから」”. 東京スポーツ. (2016年7月5日). https://web.archive.org/web/20160706131400/http://www.tokyo-sports.co.jp/prores/mens_prores/561367/ 2017年4月28日閲覧。 

関連項目

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座標: 南緯4度20分16.8秒 東経15度19分19.2秒 / 南緯4.338000度 東経15.322000度 / -4.338000; 15.322000