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== 生涯・人物 ==
== 生涯・人物 ==
文政3年(1820年)、長崎に生まれる。家は代々[[オランダ]][[通詞]]を務めていた。英語が話せたことから、[[嘉永]]元年([[1848年]])、偽装漂着のアメリカ捕鯨船船員の[[ラナルド・マクドナルド]]の取り調べに当たり<ref>[http://www.sos.wa.gov/legacy/images/publications/SL_mcdonalddeposition/SL_mcdonalddeposition.pdf Deposition of Ranald McDonald regarding his imprisonment in Japan, made to Captain James Glynn, USS Preble(マクドナルド口述書)]United States. Navy, Washington, D.C.: G.P.O., 1850</ref>、英語の[[ネイティブスピーカー]]であるマクドナルドから本格的に[[英語]]を学び、蘭・英2カ国語を使いこなせる通詞として活躍する。嘉永3年([[1850年]])には「エゲレス語和解」の編集に従事し、嘉永6年([[1853年]])の[[プチャーチン]]来航の際は[[川路聖謨]]の通詞として活躍する。また、オランダの地図に樺太の日露国境が北緯50度線となっていることを発見する。これが、日本の対露国境の根拠となる。
文政3年(1820年)、長崎に生まれる。家は代々[[オランダ]][[通詞]]を務めていた。英語が話せたことから、[[嘉永]]元年([[1848年]])、偽装漂着のアメリカ捕鯨船船員の[[ラナルド・マクドナルド]]の取り調べに当たり<ref>[http://www.sos.wa.gov/legacy/images/publications/SL_mcdonalddeposition/SL_mcdonalddeposition.pdf Deposition of Ranald McDonald regarding his imprisonment in Japan, made to Captain James Glynn, USS Preble(マクドナルド口述書)]United States. Navy, Washington, D.C.: G.P.O., 1850</ref>、英語の[[母語話者]]であるマクドナルドから本格的に[[英語]]を学び、蘭・英2カ国語を使いこなせる通詞として活躍する。嘉永3年([[1850年]])には「エゲレス語和解」の編集に従事し、嘉永6年([[1853年]])の[[プチャーチン]]来航の際は[[川路聖謨]]の通詞として活躍する。また、オランダの地図に樺太の日露国境が北緯50度線となっていることを発見する。これが、日本の対露国境の根拠となる。


嘉永7年([[1854年]])の[[マシュー・ペリー]]来航の際も通訳を務め、その後江戸小石川に英語塾を開く。[[文久]]2年([[1862年]])には開港延期問題で渡欧した[[竹内保徳]][[文久遣欧使節|遣欧使節団]]の通訳として[[ラザフォード・オールコック|オールコック]]と同船で[[イギリス]]に赴き、使節一行と[[ロンドン]]で合流する。その後、各国を巡り帰国。帰国後は通弁役頭取、外国奉行支配調役などを歴任すると共に、[[万延]]元年([[1860年]])の大統領への英文書の作成にも活躍する。しかし、維新後は新政府に仕えることはなかった。
嘉永7年([[1854年]])の[[マシュー・ペリー]]来航の際も通訳を務め、その後江戸小石川に英語塾を開く。[[文久]]2年([[1862年]])には開港延期問題で渡欧した[[竹内保徳]][[文久遣欧使節|遣欧使節団]]の通訳として[[ラザフォード・オールコック|オールコック]]と同船で[[イギリス]]に赴き、使節一行と[[ロンドン]]で合流する。その後、各国を巡り帰国。帰国後は通弁役頭取、外国奉行支配調役などを歴任すると共に、[[万延]]元年([[1860年]])の大統領への英文書の作成にも活躍する。しかし、維新後は新政府に仕えることはなかった。

2017年2月27日 (月) 17:57時点における版

森山 栄之助(もりやま えいのすけ、または森山多吉郎文政3年6月1日1820年7月10日) - 明治4年3月15日1871年5月4日))は、江戸時代に活躍した日本の通詞通訳)。

生涯・人物

文政3年(1820年)、長崎に生まれる。家は代々オランダ通詞を務めていた。英語が話せたことから、嘉永元年(1848年)、偽装漂着のアメリカ捕鯨船船員のラナルド・マクドナルドの取り調べに当たり[1]、英語の母語話者であるマクドナルドから本格的に英語を学び、蘭・英2カ国語を使いこなせる通詞として活躍する。嘉永3年(1850年)には「エゲレス語和解」の編集に従事し、嘉永6年(1853年)のプチャーチン来航の際は川路聖謨の通詞として活躍する。また、オランダの地図に樺太の日露国境が北緯50度線となっていることを発見する。これが、日本の対露国境の根拠となる。

嘉永7年(1854年)のマシュー・ペリー来航の際も通訳を務め、その後江戸小石川に英語塾を開く。文久2年(1862年)には開港延期問題で渡欧した竹内保徳遣欧使節団の通訳としてオールコックと同船でイギリスに赴き、使節一行とロンドンで合流する。その後、各国を巡り帰国。帰国後は通弁役頭取、外国奉行支配調役などを歴任すると共に、万延元年(1860年)の大統領への英文書の作成にも活躍する。しかし、維新後は新政府に仕えることはなかった。

なお、彼の英語塾の門下生には津田仙福地源一郎沼間守一須藤時一郎富永冬樹などがいる。また福澤諭吉も短期間ではあったが学んでいる。墓所は東京都豊島区巣鴨五丁目の本妙寺

森山栄之助が登場する作品

参考文献

脚注

関連項目

外部リンク