「オーストラリア花嫁失踪騒ぎ」の版間の差分
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犯罪とは無関係であることが判明すると、一般紙ではそれまで夫妻を実名で報じていた社も匿名報道に切り替え、扱いも小さなものとなっていった<ref name="asahi-tyo1218m">「メディア 豪の新妻〝失踪〟騒動 大報道は「自業自得」なのか 「実名・顔写真は人権侵害」弁護士ら 「公人でもないのに」 過熱取材に現地も驚く」『朝日新聞』1992年(平成4年)12月18日付東京本社朝刊25面。</ref>。しかし民放ワイドショーでは報道が過熱、現地からはA女が潜伏していたモーテルの室内の様子が流れ、日本側ではA女の実家の近隣住民や<ref>{{cite news|title = Japanese media have a feast on `till Australia us do part' |newspaper = Age |location = Melbourne |date = 1992-12-12 |volume = 139 |issue = 42911 |page = 2 |first = Tom |last = Ormonde}}</ref>、モーテルを予約した元上司にまで取材が及んだ。[[日刊スポーツ]]では12日に1面で事件を取り上げた後、連日続報を掲載し、[[週刊誌]]も記事で取り上げた<ref>「「史上最高のイベント『豪州新婚』ドタバタ失踪」」『[[FOCUS]]』1993年1月1日号</ref><ref>「日本中がカラ騒ぎ 豪州ハネームーン『花嫁失踪事件』主役二人の"その後"」『[[フライデー]]』1993年1月1日号</ref><ref>「消えた花嫁 夫の□□さんから逃げた本当の理由」『[[週刊現代]]』1993年1月1日・9日合併号</ref><ref>「シドニー失踪妻・『不倫』相手の『□□□□』さんの家」『[[週刊ポスト]]』1993年1月1日・8日合併号</ref><ref>「シドニー失踪花嫁が密かにすがった夫以外の男」『微笑』 1993年1月9日号</ref>。 |
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報道側は「日豪双方に大きな影響のあった事件」「そもそも(9日に)B男が自らA女捜索を訴えたのが発端」として取材の妥当性を主張したが、弁護士からは一般人に対するこうした取材は人権侵害ではないか、とも指摘された<ref name="asahi-tyo1218m"/>。 |
報道側は「日豪双方に大きな影響のあった事件」「そもそも(9日に)B男が自らA女捜索を訴えたのが発端」として取材の妥当性を主張したが、弁護士からは一般人に対するこうした取材は人権侵害ではないか、とも指摘された<ref name="asahi-tyo1218m"/>。 |
2017年4月28日 (金) 11:28時点における版
オーストラリア花嫁失踪騒ぎ(オーストラリアはなよめしっそうさわぎ)は、1992年(平成4年)に、新婚旅行でオーストラリアを訪れていた日本人女性が、行方不明となったことに端を発した騒動である。当初は犯罪に巻き込まれた可能性も想定されていたが、後に結婚生活への不安から、女性が自発的に姿を消したことが明らかになった。日本では、事の真相が明らかにされた後も含め、マスメディアによる過剰ともいえる報道が行なわれた。
失踪
事件を起こしたA女(事件当時25歳)は大阪市東淀川区の出身で[1]、高校を卒業後就職、テニスやスキーを通じて夫となったB男(29歳)と知り合い、11月28日に神戸市内のホテルで挙式した。2人は未入籍のまま、翌29日よりJTBのパッケージツアーで新東京国際空港からオーストラリアに出発、ゴールドコーストやハミルトン島を観光した後、12月6日にシドニー入りした。ツアーは7日に市内観光の後、8日には帰国の途につく日程となっていた[2]。
ところが12月7日午後、A女がシドニー市内で行方不明となった。この日は午前中は市内をバス観光、午後から自由行動になっていたが、午後1時半頃(現地時間、以下同じ)、2人は別々に買い物をすることにし市内の免税店で別れた。しかし待ち合わせ時間の午後3時半になってもA女は姿を見せなかった[3]。
B男はツアーを主催するJTBとも相談し市内を探したが、A女は見つからず[4]、ホテルにも戻っていなかった。午後8時、B男は事態を在シドニー日本総領事館と現地警察に届け出[5]、A女の父にも連絡した[6]。午後11時過ぎ、ホテルにA女から電話がかかり「車で連れてこられた。どこにいるか分からない。親切なオーストラリア人に助けられた」「自分のことは捜さないで欲しい。心配はいらない。自分で何とか帰る」とやや興奮した口調で話したという[3]。通話は30秒ほどで終了した[7]。
捜査
ツアー最終日にあたる8日、他のツアー客は予定通り帰国したが、B男は現地に残った[7]。警察はこの日の朝、A女の写真をテレビで公開し、本格的な捜査を開始した[2]。また在シドニー日本総領事館は7日の電話の内容から、A女が一人で帰国する可能性もあると判断、空港の予約を確認したがA女の名はなかった[3]。この日の時点では警察は誘拐との見方には懐疑的で、単なる行方不明者とみなしていた[1][8]。
しかし9日午後0時半、現地警察は一転して「A女は誘拐されたとみられる」と発表[1]。消息を絶つ理由がないこと、2日間連絡がないことを根拠とした[9]。B男は日本総領事館員や現地警察職員に付き添われ地元のテレビに出演し、A女の写真を掲げて市民に捜索への協力を呼びかけた[10][11]。A女の家族も現地に向かう準備を開始した[12][13][14]。当時オーストラリアは日本人が湾岸戦争で海外旅行を控える中でも安全な旅行先として人気があったことから[2]、日本ではワイドショーを中心に事件が大きく扱われた。テレビ朝日やフジテレビは取材チームを現地に派遣した[15]。オーストラリア側でも訪問する外国人観光客数の第1位が日本人であり、観光への悪影響への懸念から事件は注目された[16]。しかし身代金要求があったわけでもなく[17]、誘拐かどうかははっきりしなかった。
日本のメディアではフジニュースネットワークのシドニー特派員が実名で報じたのが最初で、地元テレビ局に登場したB男の映像は日本でも放送。国内外の通信社が実名で報道していることから、10日頃より一般紙でも一部は実名入りの報道に踏み切った[15][18]。
10日14時頃、ホテルにA女から「ゴールドコーストにいる」との連絡が入った[19]。電話について発表した警察は「A女は悪いことをしたわけではなく、警察としてA女を訴追するつもりはない」と発言、産経新聞の追加取材に対しても「誘拐と断定はしていない」と答えるなど、警察の事件に対する姿勢にも変化が見られた[20]。
発見
11日早朝、現地警察はシドニー市外のモーテルに一人で宿泊していたA女を保護した[21]。警察はホテルに残されていたA女のアドレス帳からこのモーテルの存在を把握しており[22]、10日時点でモーテルのA女に接触したが、A女は当人であることを認めなかった。11日午前1時に再訪した警察に、A女は身元の露見を防ぐためパスポートや航空券を窓から投げ捨てるなど激しく抵抗、しかし午前3時保護されるに至った[4]。
同日夜、A女はシドニーの宿泊ホテルでB男と共に記者会見し「たくさんの人を巻き込んで迷惑をかけ、大変申し訳ない。軽率な行為を深く反省しています」と涙を浮かべながら謝罪した。会見によれば、A女は約1カ月前から結婚に不安を感じていたため、「成田離婚」などを考えて以前の勤務先の上司に緊急避難用のホテル予約を依頼したという[23]。2人は翌12日に帰国したが、到着した大阪空港でも100人以上の報道陣が待ち構え、ここでも急遽記者会見が開かれた[4]。
この日の会見では2人は結婚生活を継続する意思を示したが[24]、A女がB男に対して謝罪すべく頭を下げたところB男がその頭を手で押し返したため[27]、その場にいた報道陣から笑いのようなどよめきが起こった。
犯罪とは無関係であることが判明すると、一般紙ではそれまで夫妻を実名で報じていた社も匿名報道に切り替え、扱いも小さなものとなっていった[28]。しかし民放ワイドショーでは報道が過熱、現地からはA女が潜伏していたモーテルの室内の様子が流れ、日本側ではA女の実家の近隣住民や[29]、モーテルを予約した元上司にまで取材が及んだ。日刊スポーツでは12日に1面で事件を取り上げた後、連日続報を掲載し、週刊誌も記事で取り上げた[30][31][32][33][34]。
報道側は「日豪双方に大きな影響のあった事件」「そもそも(9日に)B男が自らA女捜索を訴えたのが発端」として取材の妥当性を主張したが、弁護士からは一般人に対するこうした取材は人権侵害ではないか、とも指摘された[28]。
その後
帰国会見では、結婚の継続を表明していたB男であったが、友人から騒動の間に日本で行われていた報道をビデオで見せられ、A女との別れを決めた[24]。
版画家のナンシー関は、1993年に二人を描いた版画を発表、一連の経緯を『火曜サスペンス劇場』のようだと評し、ドラマ化するなら鷲尾いさ子・布施博の主演はどうかと述べた[35]。1997年にはこの事件を参考にした映画『ヘヴンズ・バーニング』がラッセル・クロウと工藤夕貴の主演で制作され、オーストラリアで公開された。日本でも2000年に公開された[36]。
当時はテレビなどでも盛んにパロディーネタとして茶化され、中でも同年12月28日放送の年末特別番組『笑っていいとも!特大号』の名物コーナー「紅白そっくり歌合戦」で当時レギュラーだった明石家さんまがA女に扮し、A女とB男の実名を出しながら、記者会見の真似をして笑いを取った[15]。
脚注
- ^ a b c 『朝日新聞』1992年(平成4年)12月9日付大阪本社夕刊17面。
- ^ a b c 「不明新妻は誘拐と断定 豪警察 本格捜査始める 夫がテレビで悲痛な呼び掛け」『産経新聞』平成4年(1992年)12月9日付東京本社夕刊11面。
- ^ a b c 「豪で新婚旅行中 大阪の女性不明 地元警察 公開捜査」『毎日新聞』1992年(平成4年)12月9日付大阪本社朝刊23面。
- ^ a b c d 村山望「「オーストラリア失踪花嫁」のそれから」『新潮45』第25巻第7号、新潮社、2006年7月、60-62ページ。
- ^ 「豪で新婚の妻不明 夫に電話 「車で連れて来られた」」『朝日新聞』1992年(平成4年)12月9日東京本社朝刊27面。
- ^ 「不明新婚女性は誘拐 豪の警察発表」『毎日新聞』1992年(平成4年)12月9日付大阪本社夕刊1面。
- ^ a b Fitzpatrick, Eamonn (1992年12月9日). “Tourist feared abducted”. Sydney Morning Herald: p. 2
- ^ “Tourist lost, `not abducted'”. Canberra Times: p. 4. (1992年12月9日)
- ^ 「豪で不明邦人女性 誘拐で捜査」『中日新聞』1992年12月9日付夕刊
- ^ 『読売新聞』1992年(平成4年)12月10日付東京本社朝刊27面。
- ^ 柳田博信「不明の邦人女性 誘拐事件と断定 オーストラリア」『毎日新聞』1992年(平成4年)12月10日付東京本社朝刊27面。
- ^ 「早く見つかって 祈る実家の母 豪の新妻誘拐」『毎日新聞』1992年(平成4年)12月10日付大阪本社朝刊22面。
- ^ Fitzpatrick, Eamonn (1992年12月10日). “Parents ready to join hunt”. Sydney Morning Herald: p. 2
- ^ McCarthy, Terry (1992年12月14日). “Newly-wed overcomes fear of Big Bad World”. Independent (1922): p. 12
- ^ a b c 浅野健一「皇太子妃とシドニー"失踪花嫁"騒動に見る差別的実名報道の"研究"」『噂の真相』1993年4月号、pp.81-82
- ^ 「ニュース三面鏡 豪の新婚女性失踪騒ぎ 認識不足ひき金に 警察、大取材陣に戸惑い」『朝日新聞』1992年(平成4年)12月16日付大阪本社夕刊14面。
- ^ 柳田博信「新婚旅行の日本人女性誘拐か シドニー」『毎日新聞』1992年(平成4年)12月9日付東京本社夕刊11面。
- ^ 「情報乏しく捜査難航 豪の邦人新妻誘拐 身代金の要求なし」 『中日新聞』1992年12月10日付
- ^ “オーストラリアを新婚旅行不明の女性から『ゴールドコーストにいる』”. 毎日新聞大阪朝刊: p. 25. (1992年12月11日)
- ^ 「豪の新妻不明 誘拐?失踪?謎の電話 10日午後本人から 「ゴールドコーストにいる」」『産経新聞』平成4年(1992年)12月11日付東京本社朝刊27面。
- ^ 『産経新聞』平成4年(1992年)12月11日付東京本社夕刊11面。
- ^ Fitzpatrick, Eamonn (1992年12月12日). “Trembling Japanese bride tells: why I ran out on my husband”. Sydney Morning Herald: p. 1
- ^ 「「軽率な行為」 謝罪の会見 失そう騒ぎ新妻」『毎日新聞』1992年(平成4年)12月12日付東京本社朝刊25面。
- ^ a b Ormonde, Tom (1992年12月15日). “Sayonara to a very short marriage”. Sydney Morning Herald: p. 2
- ^ 『日刊スポーツ』1992年12月13日付17面。
- ^ Ono, Yumiko (1993年1月4日). “Irked Brides in Japan Practice a New Rite”. Wall Street Journal: p. A1
- ^ 『新潮45』による[4]。A女のこの行動については「B男の胸にすがりつこうとしたA女をB男が払いのけた」[25]「B男の肩にもたれかかろうとしたA女の頭をB男が押し返した」[26]とする報道もある。
- ^ a b 「メディア 豪の新妻〝失踪〟騒動 大報道は「自業自得」なのか 「実名・顔写真は人権侵害」弁護士ら 「公人でもないのに」 過熱取材に現地も驚く」『朝日新聞』1992年(平成4年)12月18日付東京本社朝刊25面。
- ^ Ormonde, Tom (1992年12月12日). “Japanese media have a feast on `till Australia us do part'”. Age (Melbourne) 139 (42911): p. 2
- ^ 「「史上最高のイベント『豪州新婚』ドタバタ失踪」」『FOCUS』1993年1月1日号
- ^ 「日本中がカラ騒ぎ 豪州ハネームーン『花嫁失踪事件』主役二人の"その後"」『フライデー』1993年1月1日号
- ^ 「消えた花嫁 夫の□□さんから逃げた本当の理由」『週刊現代』1993年1月1日・9日合併号
- ^ 「シドニー失踪妻・『不倫』相手の『□□□□』さんの家」『週刊ポスト』1993年1月1日・8日合併号
- ^ 「シドニー失踪花嫁が密かにすがった夫以外の男」『微笑』 1993年1月9日号
- ^ ナンシー関「オーストラリア失踪花嫁: とめどなき「劇場型素人」」『何をいまさら』角川書店〈角川文庫 10661〉、1998年、20-22ページ。ISBN 4-04-198604-4。(初出 1993年)
- ^ ヘヴンズ・バーニング ぴあ映画生活